e-note 2005

どうも、ぽんすけです。メモ帳代わりに軽くやらせてもらいます、嘘だけはつかないように・・・

ポリティカル・セックスアピール

2008年09月30日 23時49分55秒 | 
井上篤夫著『ポリティカル・セックスアピール -米大統領とハリウッド-』(新潮新書)読み終える。これもめちゃくちゃ面白くて、最高の一冊。

新聞に紹介されていて、ぜひ読みたいと思っていた。しかもよく聴いているラジオ番組Daily Planetでもこの本が紹介されていて、さっそく手に取った。

日本でも盛んに報道されるアメリカ大統領選挙。予備選を含めその様子を見ていると、なんかお祭りのようにも見て取れる。日本なんかと違い狂い湧き立つような、過剰とも思える熱狂ぶりが目につく。ある程度は裏方による演出であろうとは誰もが思うところだが、実はその根を探っていくと米大統領はハリウッドによってつくられている、そんな話。

ちょっとスゴイ、面白すぎ!!

本より抜粋です
●ヒラリー大きな柄のカラフルな服装は、ハリウッドの重鎮で、ファッション誌のカリスマ編集長、アナ・ウインター(メリル・ストリープ主演の映画「プラダを着た悪魔」のモデルといわれる)が決め(以降略)
●ミスター・ハリウッドの異名をとる男。(中略)デヴィッド・ゲフェン、49歳、彼こそ2年後にスピルバーグ、カッツェンバーグとともにドリームワークスSKGを立ち上げることになる「みすたー・ハリウッド」こと、全米でトップの音楽プロデューサーである。
●ゲフェンはビル・クリントンを大統領に押し上げた。ジョン・レノンの「ダブル・ファンタジー」を誕生させた。(中略)音楽界ではジャクソン・ブラウンやイーグルスを発掘し、映画界に乗り出すやトム・クルーズをスターにし、ブロードウェイでは「キャッツ」や「ドリームガールズ」を送り出した。
●1920年から1930年代の第二次世界大戦中前夜、ハリウッドの成功者達は政界とのつながりを求めていた。当時、ショービジネスは、いわば賎業・醜業としてさげすみの対象であったからである。また、エンターテイメント産業は、ユダヤ系移民の手によって発展してきた。アメリカは移民が建てた国であるとはいえ、ユダヤ人はマイノリティ(少数派)であり、ハリウッドの重鎮たちがいくら富を蓄積しようとも、本流とはちがう所詮は「ショウビジネス界」の人間であり、上流階級であるWASP(ホワイト・アングルサクソン・プロテスタントの略。白人のエリートをさす)には受け入れられなかった。そのためハリウッドは、その黎明期からつねに中央権力とのつながりを求め、さまざまな画策を展開してきたのである。
●ハリウッドでリベラリズムが開花した背景には、ニューヨークの作家たちの流入があった。映画化サイレントからトーキーに変わるにしたがい、無声映画のシンプルなセリフとちがって高度な内容や心理描写が書けるブロードウェイの劇作家や全国紙に作品を掲載していた短編小説家たちが、ハリウッドに呼び寄せられたのだ。たとえばジョージ・S.カウフマンやF・スコット・フィッツジェラルド、リリアン・ヘルマンなどである。(中略)彼らは自由主義と社会主義のバックグラウンドを持っていた。映画の脚本に政治や先鋭的なイデオロギーを盛り込んだ。また、映画産業における地位を確立するため、映画脚本家組合(SWG)を組織し、社会問題への発言を行った。

このように書き綴ると、まるまる一冊書ききらなくてはならないので・・・とにかく面白い本でした。いやぁ、世界ってスゴイ!

ラスト、コーション

2008年09月29日 23時44分02秒 | 映画
早稲田松竹で『ラスト、コーション 色、戒』を見てきた。2本立ての映画館だが、ラスト1本ということで800円也。

とにかく良かった、もう見事にオレのツボにはまった!!細かくは書きませんがもう最高でした!見終わった後の余韻に浸れる映画でした。

過激なセックスシーンが話題になったようだが、でもセックスの持つ重みがそれによって見事に描かれていた気がする。原作はアイリーン・チャン(張愛玲)の小説らしいが、どのように描かれているのかすごく気になる。

明日は朝イチの会議でオレが発表するので、もう寝ます・・・緊張するなぁ。

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

2008年09月28日 19時30分38秒 | ゲイジュツ
渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで『ジョン・エヴァレット・ミレイ展』を観てきた。10代から20代前半にかけてはやたらめったら絵画展に足を運んで、たいして分かりもしないのに真剣に絵を見てまわっていた。

旅に出始めてから、もう生活は一変したので、旅以外のことは何もしなくなった。最近自分の生活を変えようと、忙しくても出かけることにした。それでも夜はほとんど出かけない生活なので、手始めに絵でも見に行こうと。

今日も午前中は仕事でした。取引先に書類を渡して、プレゼンをした。仕事が終わったのが13時半くらいで、渋谷駅のそばでギョーザセットを喰って、ついでだからBunnkamuraへ行った。もともとこの絵画展には行くつもりだったので、せっかく仕事で渋谷に来たのだから・・・そんな気分で寄ってみました。それが大失敗。日曜日の会場はスゴイ人で、絵を見るような環境じゃなかったです・・・それだけでゲンナリ。遠目からサーッと15分くらいで見て、会場を後にしました。

疲れました・・・仕事帰りのせいもあって、あまり絵を見るような心境じゃなかったのかも。チケットにある絵は「オフィーリア」、これは良かった。

ほぼ毎日ダンベルで筋トレ

2008年09月27日 23時54分39秒 | トレーニング
この2週間くらい、ダンベルを20回×2持ち上げる程度のトレーニングを始めている。きっかけは、仕事ができる男はなぜトレーニングをするのか、といったようなタイトルの本を新聞で見つけ、確かに最近のオレはあまりにもひ弱過ぎるので、ちょっとでもいいから鍛えなくては・・・そんな気分になった。

そして運動が少しは気分転換になれば・・・とも思った。なにしろ仕事があまりにも忙しすぎるので。今日も一日出張で外回り。疲れた。

なんか一気に秋めいてきたぞ。風が完全に秋のものだ。暑いよりいいか、たぶん涼しくなってきたのも、トレーニングを始めようと思い始めたきっかけになったのかも。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッドとノーカントリーの2本立て

2008年09月23日 19時47分42秒 | 映画
早稲田松竹で『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と『ノーカントリー』の2本立てを観てきました。アカデミー賞特集!ともに新聞などで講評を読んでいたので、ぜひぜひ見たいと期待して出かけました。

どちらも迫力満点で見応え充分だったんだけど・・・正直なにを言いたいのかは分かりませんでした。もちろんそのまま見ているので、スゴク良かったんだけれど、誰かに説明しようとするとひたすらストーリーを追って話すだけになってしまいそうです。

早稲田松竹のサイトを見ると、‘血も涙もない男たち’というサブタイトルがついています。そういう観点からみると、確かにそうなんだけど、だから何なんだって・・・そういう気になります。・・・オレって本当に血も涙もないのか??

すごく良かったけれど、なんか煮え切らないような・・・オレがズレてるだけでしょう、きっと

黒いスイス

2008年09月20日 22時22分22秒 | 
福原直樹著『黒いスイス』(新潮新書)読む。毎日新聞でジュネーブ支局長を務めたこともある著者が、理想の国スイスの暗部を明かした一冊。どの国にも表と裏がある。しかしスイスに関して日本では過剰なほど「いい国」化されていないだろうか。タイトルを見た瞬間おもわず手に取った。

オレのイメージするスイスは、複数の言葉が存在する国、スイス銀行、永世中立国、アルプス・・・そんなもんか。この国の歴史なんて全く知らない。

まずは抜き書きから
●(ロマ)誘拐の背景には、当時の優生学を反映した考え方もあった。優生学とは、断種や結婚制限などで「望ましくない」遺伝子を排除しようとする学問だ。いや、「学問」というより、一種の「思想」といった方がいいかもしれない。19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米で提唱されたが、その性格からナチスがもてはやすなど、容易に人種差別と結びついていた。そして「優生学」的な見地からは、ロマは「人種的に劣る」民族だった。公共団体「青年のために」の幹部はこう書き記している。‘ロマの気質は、他の悪い病気同様、女性によって感染していく’。ちなみに、優生学はこのほかにも歴史上、さまざまな禍根を残しえいる。第二次世界大戦前後、ナチスドイツをはじめ、スウェーデンなどの北欧やスイスでは、知的障害などに対する強制的な不妊手術が行われたが、これも「悪い『種』を社会に残すべきではない」とする、優生学的発想からだった。

●核拡散防止条約は68年6月、国連で米英ソ3国が共同提案し、採択された(発効は70年)。だがこの条約は、当初より各国から「不平等条約」と批判されていた。核兵器を保有できる国を米、ソ、英、仏、中の5カ国に限定し、それ以外の国に核兵器の製造や取得を禁じていたからである。非核保有国は核兵器を製造していないことを証明するため、国際原子力機関(IAEA)の査察を受ける義務もあった。その反面、核保有国は「核軍縮交渉を誠実に遂行する」義務があるにすぎない。(中略)当時、核拡散防止条約の加盟国は100カ国以上。5大国のみに核保有を認めた条約は、確かに不平等だったが、多くの国は、核保有国になるより、5大国だけに核保有を封じ込めておいたほうが自国の安全保障にプラスに働くと考えたのだ。

●ネオナチズムの歴史は60年代後半の英国に始まる。不況で失業した若者が集団化し、当初は左翼的思想に傾いた。だが、70年代、欧州で台頭した右翼の影響で、これらの若者は右傾化して行った。そして「移民が職を奪う」の合言葉の元に、トルコ人などの外国人移民の排斥に動いた。一方、欧州大陸ではネオナチズムの兆候が見られたのは70年代半ばだった。まず学校の「おちこぼれ」や、離婚家庭の子供などが集団を形成し、この集団が孤立した若者たちを次々と吸収した。集団が、彼らの崩壊した家庭の代わりになったともいえる。Tシャツにブーツ、坊主頭で肉体美を誇る。体に刺青をする。これら、彼らの外見的なイメージはこの時に形作られた、という。80年代に入り、これらの集団は公然とナチズムへの信奉と、反共産主義を訴え始める。組織の自称は様々だが、いずれも白人の優越性、有色人種排斥を訴える点で変わりはなかった。彼らのシンボルはナチスのカギ十字とロックミュージック。中には、サッカーの国際大会で過激な行動をとるファン組織「フーリガン」と結びついた集団もいた、という。そして、これらの集団の後に現れたのが「ハンマースキン」だった。欧州各国は「ハイル・ヒトラー」など、ナチスに関係した言葉を、公衆の面前で使うことを禁じている。(中略)ハンマースキンのメンバーは「すべてのアフリカ人、ユダヤ人の子供にチクロンBを」という歌うCDを5000枚以上作ってインターネットで販売しようとし、摘発されている。チクロンBとは、ナチスがホロコースト(ユダヤ人大虐殺)で使用した毒ガスだ。狂気の沙汰である。かつて私は大学で「戦う民主主義」という言葉を教わったことがある。ドイツなどが極右・極左集団に対し、表現や言論の自由など、民主的な権利の一部を認めていないことだ。本来の民主主義は、だれがどのような政治思想を持ち、それをどう表現しても自由なはずだ。だが、民主主義を否定する集団を野放しにすると、民主主義そのものが危うくなる。第一次世界大戦後のドイツでは、自由選挙を武器にヒトラーが勢力を伸ばし、政権を掌握した。この悲劇を繰り返さないために、民主主義は、一部の自由を制限してでも全体主義と戦うべきだ・・・。これが、「戦う民主主義」の思想である。

●スイスの歴史 1291年、スイス中東部の3州は、ハプスブルグ家の支配に対抗する相互援助協定「永久同盟」を結ぶ。これがスイスの「建国」とされる。その後3州は、同家の支配地域攻略や、他州との同盟などで勢力を伸ばし、1513年に13州となる。この13州とその支配地域は、現在のスイス北、西部の一部を除く大部分の地域に及んだ。16世紀の宗教改革の影響で、13州は新教、旧教派に分かれ反目するが、国外の宗教戦争に関しては「同盟維持」の観点から、ほぼ一貫して中立の立場を貫いた。これが後の永世中立の萌芽とされる。だが、その一方でこの時期から、スイスは外国の軍隊に多くの傭兵を送り、中にはスイス人同士が敵味方に別れて戦う悲劇もおきた(結局、傭兵制度は1848年に禁止される)。宗教改革以降、都市部では貴族制や代議制、農村部では住民集会による直接民主制が行われた。宗教改革者としてスイスで有名なのはツヴィングリ(チューリヒ)とカルバン(ジュネーブ)である。1798年、フランス革命軍がスイスに侵入し、営業、信仰の自由を保障し、特権階級を廃止した「ベルベチア共和国」が成立するが、すぐにスイスはフランスと欧州列強(対仏大同盟軍)の戦場となる。その後、ナポレオンは1803年、スイスを19州の連邦共和国とし、フランスに従属的な立場をとらせた。スイスの永世中立が国際的に認められたのはナポレオン後の1815年のウィーン会議で、その際ジュネーブなど3州が加わり、スイスは22州になった。(現在は26州=準州を含む)。ウィーン会議後、スイスは保守的な旧教系の州と、自由主義的な州が対立。1847年に内戦に発展するが、翌1848年には和解し、近代的な連邦国家の礎を作った。1874年には近代的な憲法を発布し、これが現憲法(2000年施行)に受け継がれている。スイス憲法は「中立」には触れてはいないが、現在までスイスはほぼ中立を貫いている。

●スイスの政治 スイスは州(カントン)や地方自治体が、教育や福祉、水道、電気などの公共サービス、警察、消防などで広大な自治権を持っており、連邦政府の役割は外交や国家安全保障、主要道路の運営、関税、郵政業務などは。連邦会議は各州が2名ずつ選出する「全州議会」、200議席を人口比で各州に割り振り、直接選挙で選ぶ「国民会議」の2院にわかれる。一般的に国民会議の権限は、全州議会より大きく、全州議会は国民会議や連邦政府の監視的な役割を担う。大統領は任期1年で、閣僚の輪番制だ。憲法改正を要する問題は有権者10万人、法律改正や国際機構への加盟の是非などを問う場合は5万人の署名が集まれば、国民投票を求めることができ、全国有権者の過半数などで採択される。国民投票はスイス民主制の大きな特徴だが、投票率は低下の一途で、1950年代までは50~85%だったのが、現在は30~50%だ。国民は種々の基本的人権を認められているが、連邦レベルで女性参政権が認められたのは1971年だった。保守的な東部ドイツ語圏が反対したのがその原因だった。

スイスに限らず、国はそれぞれいろいろな特徴ある。そのなかでもスイスはやはり特殊な国であることは間違いない。そういう意味ではこの本は勉強になるし面白い。やはりちょこちょことでいいからヨーロッパやアメリカへ行くべきだな。

もうギュウギュウ

2008年09月18日 22時08分48秒 | つれづれ
明日までにやらなければいけないこと、今週中にこれだけは片づけなきゃいけないこと、今月中に仕上げるもの・・・そんなことが山のようにあり、しかも常に頭のどこかにそんなことがあるから、もう大変・・・精神的にグッタリ。

でもここ最近筋トレをちょとずつ始めているので体調はいいかも。とにかく体だけは鍛え続けないと。

20日(土)の夜に大切な取引先の人たちとの会合が高級レストランで行われる。もう考えるだけで胃が痛くなる。いくら旨いものって言ったって、味なんかわかりゃしない。それに食い物が喉を通らない・・・あぁ、憂鬱だ。

キング牧師とマルコムX

2008年09月17日 21時46分07秒 | 
上坂昇著『キング牧師とマルコムX』(講談社現代新書)読み終える。いやぁ、面白かった。深いし、オレがすごく興味のあるところだったので、ぐいぐい引き込まれて読み切った。

関連本もぜひぜひ読んでみたい。

以下書き抜きです

SAT(大学進学適性検査)の得点でアジア系は高得点をおさめている。

ジェームス・キングは黒人大学の名門モアハウス大学に進む。(黒人女子大学の名門はスペルマン大学)

アメリカの多くの国民を貧困に陥れた大恐慌であったが、ここアトランタのオーバン・アベニューの黒人中産階級はほとんど影響を受けなかった。当時のアトランタの黒人は、その65%が生活保護を受けていたが、ここの住民は別世界であった。黒人所有の大企業がいくつか本社を構えていたし、全米にチェーン店を持っているドラッグストアもあった。住民は弁護士、教師、歯医者、医師、牧師、ビジネスマンと専門職の人が多かった。キング家もその例外にもれなかった。

マーティン自身の言葉によれば、大学時代にヘンリー・デイビッド・ソローの「市民的不服従」の論文を読んで、「悪しき制度との協力を拒否せよ」という考えに魅せられ、心から感動したという。非暴力的抵抗の理論と学問的に接触したのはこれが最初だった。1894年に書かれたこの論文は、インドのマハトマ・ガンディをはじめ、世界の抵抗運動指導者に多大な影響を与えた。

ガンディの母親は、非暴力と菜食主義を強調するジャイナ教の信者だった。

マーティン・L・キング著『自由への大いなる歩み』

キングの伝記『十字架を背負って』

奴隷解放宣言の100周年記念にあたる1936年~

キング著『黒人はなぜ待てないか』中島和子・古川博巳訳

キング著『汝の敵を愛せよ』

キング著『黒人の進む道』(猿谷要訳)

20世紀初め、ハーレムは黒人の町となり、20年代には黒人文化の中心地となった。作家、芸術家、音楽家の多数がここに住み、数々の作品を世に送った。こうした運動をハーレム・ルネッサンスという。とりわけジャズの演奏劇場としてコットンクラブは有名で、ルイ・アームストロングをはじめとする一流ミュージシャンが出演した。

ブラック・ナショナリズムはマーカス・ガーベイとノーブル・ドリュー・アリに代表される。ガーベイは大規模なアフリカ帰還運動を起こしたが、その動機は黒人が白人社会に拒否されているという強い疎外感であった。(中略)アフリカに帰ろう、白人とは分離しよう、という呼びかけはある意味で敗北主義的であるかもしれない。2000万人近い黒人がどうやってアフリカに帰るのかという、現実的に困難な問題も多くある。だが黒人の経済的自立のために黒人の商店や工場を建設し、既成の価値観を拒否して黒人の強烈な人種的な誇りを刺激したという点では、こうした運動は事件といわざるをえない。ガーベイのブラック・ナショナリズムは、ムハマドやマルコムX、ブラック・パワー運動、今日のアフリカ中心主義などに影響を与えているからだ。

アメリカ黒人の祖先は、アフリカから強制的に奴隷として連れてこられた。ガーベイが組織的なアフリカ帰還運動を始める以前にも、黒人がアメリカを離れようとする運動は何度となく起きている。アメリカの独立運動のさいにも、イギリス側についた元奴隷たちは、カナダのノバスコシア半島に保護地を与えられた。しかし、その約3000人のうち、約束の土地を与えられて、まともな生活ができたのは10%にすぎなかったという。貧乏に苦しんだあげく、また奴隷の身分に戻った人もいた。とはいえ、そのなかからカナダからアフリカのシエラレオネに移住した人が1000人以上いたことも事実である。アメリカ国内でも、1880年代の初期に、有色人種脱出のためのモーゼを自任したベンジャミン・パップ・シングルトンは、黒人の自立できる場所、約束の楽土はカンザス州にあるとして、数千人の黒人を率いてコロニーを建設した。イスラエル人のエジプト脱出(エクソダス)をもじって、これらの人々はエクソダスターとよばれた。キングやマルコム以前の黒人思想家のあいだでも、アフリカへ帰るべきかどうかについては見解がわかれていた。19世紀の奴隷廃止論者として有名なフレデリック・ダグラスは「800万人の黒人をアフリカに移住させるのはナンセンス、黒人の運命はアメリカの運命」といって、アメリカにとどまることを主張した。かれはキングと同じように、黒人はアメリカ社会に同化できると信じていた。黒人は生まれた国アメリカで完全な自由を達成できる。という信念とアメリカへの愛を持ち続けた。19世紀後半から20世紀前半にかけての黒人運動指導者として活躍したブッカー・T・ワシントンは、黒人の経済的自立を強調し、白人支配階層に広く支持された人だが、ガーベイとは別の意味で黒人をアフリカに送ることに熱心だった。それは、アメリカにおける黒人たちの問題を解決するためではなく、アフリカの人たちを助けるためだった。タスキーギ工業師範学校で学んだ多くの黒人を、アフリカ、とくにトーゴに移住させた。

アフリカ帰還という理想は、いまだにアメリカ黒人の心のどこかにあるのだろうが、現実には大変難しい問題だ。リベリアにはかなりのアメリカ黒人が帰還したが、その態度が19世紀の白人と同じようだったことと、現地の人々に対する差別意識を持っていたことなどから、現地の人々から「白人」と呼ばれるようになったという。今日のガーナでも、アメリカ黒人は「アブニル」あるいは「オブニル」と呼ばれるが、これは実際には「白人」という意味だそうだ。歴史的にみれば、アフリカ帰還はアメリカ黒人に理想郷を求めるという夢を与えたが、現実的には、帰還したといってもアフリカ化に失敗していることが多い。たとえば、リベリアとシエラレオネでは、アメリカ黒人が集団で帰還し、建国にも大きな役割を果たしたが、アメリカとは本質的に異なる土地で、自分たちの文化そのものを維持しようとしたので、アフリカ化に失敗したといわれる。(D・ジェンキンス=那須国夫訳『ブラック・シオニズム-アフリカ帰還の夢と現実』)

中東やアフリカ諸国を訪問したマルコムは、積極的に社会主義について語ることが多くなった。独立した多くの国が資本主義から社会主義に転換しているのを、自分の目で見てきたことがきっかけとなった。ナセル、エンクルマ、トーレ、ベン・ベラといった尊敬すべき指導者はみな社会主義者だったからだ。

マルコムX 最後の一年(本のタイトル)

今日は、世界的に多文化主義あるいは多元文化主義の時代といわれる。アメリカ文化の源流をヨーロッパだけでなく、アフリカやアジア、アメリカ先住民にも求めようとする傾向は、アメリカの人種関係が平等になりつつあることを示している。しかし、黒人は当然アフリカ中心の考えを強調する。これまでアフリカ文化が軽視されてきたので、その復権を唱える。その過程で、前にも述べたように一部の黒人の過激派は、西洋文明の源はギリシア・ローマではなくエジプトにあり、このエジプトは黒人社会であったと主張する。ピタゴラスやアリストテレスは、数学や哲学をエジプトの黒人学者から盗んだとか、クレオパトラやファラオは黒人であったと断言する。つまり、今日の西洋文明はギリシア。ローマにその基礎を持つが、ギリシア・ローマは黒人の残したエジプト文明に依存しているのだから、結局は西洋文明は黒人文明にその起源をもつというのである。こうしたアフリカ中心主義の歴史観をとりいれたカリキュラムが、実際すでに一部の公立学校で実施されている。

アジア系はモデル・マイノリティといわれている


インド映画 『家族の四季』

2008年09月08日 20時30分09秒 | インド映画
シネマート六本木でインド映画「家族の四季」を観てきました。いやぁ本当に良かった!!もうオレの理想とするインド映画で、完全に参った。歌って踊って感動して、もう3時間半スクリーンにクギ付け。

ヒンディー語を聞いて、インドの街並みを見て、インド独特のリズムに身を任せ、もうそれだけでドキドキわくわくの連続だった。

この夏のオーストラリア出張でわずかながら旅人気分が蘇りつつあり、でもせっかく働いて金もあるんだし、しかも昔のように平気で一年日本を離れるほどの時間的余裕はなく、せいぜい一週間がいいところなんだから今まで行ったことのないヨーロッパやアメリカの都市をひとつづつ選んで滞在して行こうかと思い始めている。

そんなところでのインド映画。猛烈にインドに行きたくなった。

来週まで他の二本も上映中である。時間があればまた行ってもいいかなぁ。

2冊読み切りました

2008年09月08日 08時59分35秒 | 
榎木孝明著『心は風のままに』(東京新聞出版局)、奥田英朗著『ララピポ』(幻冬舎)、2冊を明け方4時までかけて読む。

榎木孝明著『心は風のままに』は東京新聞に連載されたエッセイや旅行雑誌のコラムに新しく書き加えたものを1冊にまとめた本。彼らしくポジティブにあるがままに、自然体な話が続く。ちょっと肩の力が抜けてオレもラクになったような・・・

奥田秀朗『ラピポポ』、相変わらず奥田ワールド全開で面白くも物哀しい人間を描いた傑作!

今日は月曜だけど休みなので安心して夜遅くまで本を読んでいたら、完全にスイッチが入ってしまって明け方まで読み続けてしまった。

夜20時ころから始まって、夜中の2時ころコーラを飲みながらカップ焼きそばを喰って、また残りを読み始めた。つくづく思ったけど、面白い本を時間を気にすることなく読めるのってオレにとって最高の幸せだ。体には悪いけど精神衛生上は最高の夜だった。

一度も植民地になったことがない日本

2008年09月07日 20時46分33秒 | 
デュラン・れい子著『一度も植民地になったことがない日本』(講談社+α文庫)読み終える。前からタイトルが気になっていた本だが、やっと手に取ることができた。でも、タイトルから想像していた内容と全然違っていて思っていたほど面白くなかった。

スウェーデン人と結婚しオランダ・ブラジル・フランスなどに住む著者が、異国で体験した日本文化論。まぁ典型的な日本論、って感じでした。

●輪郭を線で描く浮世絵を真っ先に認めたのはフランス人で、フランスには「TINTIN」タンタンの著者セルジュを筆頭とする‘フランス・ベルギー派’と呼ばれるマンガの伝統がある。


インド映画 ボリウッド・ベスト

2008年09月07日 09時27分19秒 | インド
日本の映画館でインド映画を上映中らしい。久しく見ていないが、ちょっと足を延ばしてみようかと思う。私がインドを訪れていたころは、とにかく頻繁にインド映画を見に行っていたが、それでもインド訪問も回を重ね最後の頃、2001年ころは、もうインド映画も妙にオシャレで、ちょっとダサいところがお気に入りだっただけに、もうあまり行く気にもならなかった。

インド映画のもう一つの楽しみは、超、超が3つくらい付く美人の女優が優雅にダンスするシーンが楽しみのひとつであった。その女優たちも過剰にヨーロッパ風になり、インド美人がサリーを着て踊るのを見る楽しみも減った気がする。

でも、文句ばかり言っていないで出かけてみようと思う。

ボリウッド・ベスト