うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む51

2010-03-21 09:51:58 | 日記

硫黄島玉砕近し<o:p></o:p>

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 三月十九日(月)晴<o:p></o:p>

 天皇陛下、昨日帝都罹災地をご巡幸。<o:p></o:p>

 ドイツ語、道部教授、フリードリッヒ大王の七年戦争やフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」の話をなす。<o:p></o:p>

 教授の話。<o:p></o:p>

 知人多く家を焼かれしが、みなにこにこして「これでサッパリしましたよ」と洒々落々たる人多き由。この日本人の楽天性と、余燼の中に陛下を迎えて泣く日本人の涙あるかぎり、いかに物量科学に軒輊ありとも、一億の一帝国、さまで簡単に消ゆるものにあらず。見ずや、東西一里、南北二里の小島硫黄島に於いてすら、海覆うアメリカの大軍を一ヶ月に及び支え得たり。敵本土に上陸せば、これぞまさに天来の神機なり、この父祖の地に於て、敢戦死闘、一挙に戦勢を逆転せしめん。<o:p></o:p>

 いま一万円を失いたる人は、その後日に於て米より十万円をとれ。十万円失いたる人は百万円をとれ。「こう考えると、私なども一日も早く家を焼かれた方がいいと思っています。今の貧乏がたちまち金持ちになってしまう。ホッホッホッ」と、教授のんきな声たてて笑う。(戦雲急なるとき、まさにのんきな教授ですが、こう考えなければやってられないといった、一種の抵抗でしょうか。)<o:p></o:p>

 B29の大編隊は昨夜は名古屋に来襲。<o:p></o:p>

 理工科系を除く全学徒、四月一日より向こう一年間授業停止令出ず。<o:p></o:p>

 「医師の工学的業績」を読む。<o:p></o:p>

 三月二十日(火)晴<o:p></o:p>

 弓道場取り壊し作業。<o:p></o:p>

 午前八時、午後一時、B29一機ずつ来。

 三月二十一日(水)晴<o:p></o:p>

 春季皇霊祭。午前一時、B29一機ずつ来。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む50

2010-03-20 05:10:35 | 日記

風太郎氏、巷の敗戦論を叱咤<o:p></o:p>

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 得意になりて日本人に勝目なきことを蝶々とする者、その人柄を見るにいい合わせたように、みな小利口な奴なり、而して、世に小利口なる、自分では利口とうぬぼれつつ、嗤うべき愚かなる人間なんぞ多きや。彼らは日本は負けるといいつつ、真に負けたるときの様相を明確に知覚し得ず。<o:p></o:p>

 而してこれをなじれば、「われは日本を愛するゆえに心配するなり。われいえどもいざとなれば死ぬに後れじ」などいう。死ぬ前に負けざるを思え。而して、彼らが得意になりて口にする軽薄なる片言が、いかに周囲に甚大なる悪影響を与えるかを思え。<o:p></o:p>

 今晩二時、敵大編隊近接中なりとの警報あり。今夜こそはまた東京なりと思い、用意せしが、これらみな阪神へゆく。午後一時半ふたたび警報。<o:p></o:p>

 三月十八日(日)晴<o:p></o:p>

 午前中洗濯。ひる前登校、警備す。<o:p></o:p>

 正午より二時にわたり、敵数機帝都侵入。投弾退去。<o:p></o:p>

 帰途、新宿駅の屋上にて、一楽団高らかに喇叭吹き鳴らし、群集広場に佇みてこれをきくを見る。柱に、国難祖国り迫り云々と書きなぐりたる紙片、風にひるがえる。曲は「突撃」なり。佇む群集、油に汚れたる青年あり、今なお包帯を顔に巻きし罹災者らしき老人あり、山のごとき荷背に負い子供を両手にひきたる女あり。広場を埋め、天を仰いで耳を傾く。夕陽乱雲を通して赤あかとこの景を照らす。<o:p></o:p>

 十日東京、十二日名古屋、十四日大阪、十七日神戸、いずれも深夜、大編隊を以って爆撃せるB29、今夜あたりふたたび機首をめぐらせて東京に来襲する公算大なり。<o:p></o:p>

 敵機動部隊、九州東南海上に出現、今早朝より艦載機を以って九州方面を攻撃中なりと。(まさに、日本列島敵の思うまま、なせるままになす術もないといった状況。国民はただただ死を待つばかりの状態といえます。)<o:p></o:p>

 硫黄島の決戦ついに終りを告げんとす。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む49

2010-03-19 05:13:54 | 日記

徹底抗戦の構えか<o:p></o:p>

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 学校の図書室本館に移転作業、大いに疲る。本館周辺にある柔道場、相撲道場、航空医学研究所等も近いうち取り壊す由なり。<o:p></o:p>

 三月十日以来、登校せざる学友数名あり。焼死せしが如し。<o:p></o:p>

 鏡花を読む。<o:p></o:p>

 三月十五日(木)曇<o:p></o:p>

 午前中第三学年の仮卒業式。彼らは近いうち、軍医学校に移る。<o:p></o:p>

 (国家存亡の危機に見舞われている最中、まだまだこうした行政が存続していることに、少なからず驚きを感じます。その上学校長の過激な演説にはこれまた愕然とします。)<o:p></o:p>

 余は少し遅刻したれば校長の演説をきかざれども、何でも、この時に及んでなお学校を休んでいる学生あり、国家に対して面目なきゆえ、これらの連中は断乎退校せしめ、校長みずからも職を退かんと、声調激越なりし由。<o:p></o:p>

 朝八時警報、昨夜来敵艦隊、硫黄島より本土にかけて何事かを企画しあるもののごとく厳戒中なりと。<o:p></o:p>

 チエホフの短編集を読む。<o:p></o:p>

 三月十六日(金)曇<o:p></o:p>

 午後学校事務所の金庫三個を本館に運ぶ。<o:p></o:p>

 七個師団を搭載せる米大輸送船団本土近海を徘徊中なりと。<o:p></o:p>

 昨夜、米機の機銃掃射にて、背より討ちぬかれたる夢を見る。夢の中まで米機を背負っていてはやりきれず。<o:p></o:p>

 チエホフを読む。<o:p></o:p>

 三月十七日(土)曇<o:p></o:p>

 このごろ東京都民ことごとく戦々兢々として、仕事も何も上の空なり。東を向くも西を向くも敗戦論ばかり。日本が勝つというのは大臣と新聞の社説と神がかりと馬鹿ばかりのごとし。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む48

2010-03-18 05:16:34 | 日記

日本列島東も西も惨<o:p></o:p>

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 三月十三日(火)曇<o:p></o:p>

 ……。加藤さんの話によれば、先夜の惨は、加藤さんも経験ある大正の大震災どころではなかったという。都庁も司法省も焼けたという。本郷の医書店、南山堂も南江堂も焼けたらしい。<o:p></o:p>

 夜十時半、敵大編隊東方海上より本土に近接中との横鎮情報、十二時解除。<o:p></o:p>

 三月十四日(水)曇<o:p></o:p>

 昨夜のB29大編隊は大阪を爆撃したるとなり。相当の被害ありし模様。<o:p></o:p>

 先日敵の撒布せるビラには、十五日夜また参上します。東京のあと半分はそのときに片付けます、とあった由。或はアメリカは鷲百羽、日本は雀二羽。どうして勝てますか、など書いてあった由。(まさに猫が捕らえた鼠をもてあそぶような、アメリカの傲慢さ、非情さがありありですが、それに対してなす術もない、軍部や政府の無策ぶりには腹立たしい限りです。風太郎氏も切歯扼腕、歯切りしが聞こえて来そうであります。)<o:p></o:p>

 ふざけ放題にふざけるべし。日本人はまじめなり。<o:p></o:p>

 大西比島方面海軍航空部隊司令官、特攻隊に対する訓示は、すなわち全日本人に告ぐる言葉なり。アメリカ人を殺せ、一人でも多く殺せ、日本人は腰をすえ、冷徹無比の心を以って、如何にせば一人でも多くアメリカ人を殺し得べきや研究せよ、彼らの血と肉を以って戦争の悲惨さを思い知らすべしと。先日、余が空襲の焼跡に立ちて思いしこと、符牒を合わせるがごとし。その訓示中、「殺せ」という単語いくばくぞ。その声、その叫び、ただアメリカ人を殺せという一念につらぬかれ、まさに陰鬼の咆哮のごとし。九十九里浜、十二キロの深さにわたりて民家の立ち退きを命ぜられたりと。近いうちに戒厳令発せらる由噂あり。(米軍の本土上陸作戦、いよいよ現実味を帯びてきたということでしょうか。九十九里浜とは唖然とします。)


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む47

2010-03-17 05:57:37 | 日記

東京大空襲の惨禍、克明に(九)<o:p></o:p>

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 下谷の加藤さんも焼け出され、今日来る。その話。<o:p></o:p>

 加藤さんたちは火の海と戦っていた。炎に照らされて、発狂したような声をあげて日本刀をふりまわして、空のB29を斬ろうとしていた青年があるという。消防隊の人々は、炎の方にホースを向けたまま、全員生不動のように燃えていたという。<o:p></o:p>

 血の色に染まった往来を、背から炎をあげながら老人が駆けてきた。髪も燃えていた。髭も燃えていた。加藤さんたちの見ている前で、彼はひっくり返って、火鼠みたいに燃えてしまった。それで加藤さん達も逃げ出した。<o:p></o:p>

 疎開の空地には、何万人という避難民がのたうち回って、火の海の熱気に泣き叫んでいた。水はどこにもなかった。運び出して来た荷物に火がついて、そばの人に移った。人々はその人をつかまえて、炎のなかへつきとばした。そうせずにはいられなかった。雹みたいな火の粉が、顔にも背にも吹きつけた。加藤さんたちは溝の水をくり返しくり返し頭から浴びていたが、たまらなくなって逃げ出した。そして炎の中をつっ切って、上野の山へ逃げ上った。<o:p></o:p>

 黒焦げになった屍体が、いたるところに夏の日のトカゲみたいに転がっていた。真黒に焼けた母親のからだの下で、赤ん坊も真黒に焼けていた。加藤さんたちは、なんどもそれらの屍体につまずいたり、踏んだり、転んだりした。<o:p></o:p>

 火の潮に追われて、人々は隅田川へ飛び込んだ。しかし隅田川も燃えていた。吹きつける火の雨に船は焼け、水は煮えていた。無数の人々がそこでも死んだ。屍体今なおマグロのように無数に浮んでいるという。<o:p></o:p>

 三月十二日(月)晴 <o:p></o:p>

 近所合壁、ことごとく奥さんを疎開せしめ、どこも主人自炊をなす。<o:p></o:p>

 「中世期に於ける衛生」を読む。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む46

2010-03-16 05:14:30 | 日記

東京大空襲の惨禍、克明に(八)<o:p></o:p>

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 水道橋駅では大群衆が並んで切符を求めていた。みな罹災者だそうだ。罹災者だけしか切符は売らないそうだ。<o:p></o:p>

「おい、新宿へ帰れないじゃないか」<o:p></o:p>

 二人は苦笑いしてそこに佇んだ。<o:p></o:p>

 焦げた手拭を頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼり二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで、<o:p></o:p>

「ねえ……また、きっといいこともあるわよ。……」<o:p></o:p>

 と呟いたのが聞こえた。<o:p></o:p>

 自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。<o:p></o:p>

 数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。あの地獄のような阿鼻叫喚を十二時間前に聞いた女ではあるまいか。<o:p></o:p>

 それでも彼女は生きている。また、きっと、いいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。……この細ぼそとした女の声は、人間なるものの「人間の賛歌」であった。<o:p></o:p>

 自分たちはそれから大塚へいった。そして夕暮、やっと、へとへとになって新宿へ帰ることが出来た。<o:p></o:p>

 午前十時半、B29三機偵察来。<o:p></o:p>

 三月十一日(日)晴<o:p></o:p>

 午前四時よりB29少数機相ついで来る。<o:p></o:p>

 午前十一時一機来。午後一時敵数編隊、房総半島に近接中なりと空襲警報発令、一時十五分ごろに到達する見込みなりという。(何か人ごとみたいな、投げ槍な放送に聞こえてきます。)<o:p></o:p>

 しかしこの敵は中途より反転して南方に去る。……


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む45

2010-03-15 06:30:08 | 日記

東京大空襲の惨禍、克明に(七)<o:p></o:p>

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 神保町に出ると、靖国神社の周囲の蒼い空に、薄い黒煙が立ち昇っているのが見えた。偕行社が焼けているのだという。新宿行きの電車は不通だった。水道橋まで通じていたので、水道橋までいった。<o:p></o:p>

 電車の中で三人の中年の男が、火傷にただれた頬をひきゆがめて、昨夜の体験を叫ぶように話していた。ときどき脅えたように周囲を見回して<o:p></o:p>

「しかし、みなさん、こういうことは参考としてきいておかれたがよろしかろう。だから私はいうんですが……」と合いの手のように断りながら、またしゃべりつづけた。彼らは警官や憲兵を怖れているのである。哀れな国民よ!<o:p></o:p>

彼らの言葉によると、防空頭巾をかぶっていた人達はたいてい死んだという。火の粉が頭巾に焼きついて、たちまち頭が燃え上がったという。<o:p></o:p>

しかし、昨夜は焼夷弾ばかりであったからそうであったかも知れないが、もし爆弾も混じっていたら、その爆風の危険は防空頭巾をかぶっていなければ防げないだろう。<o:p></o:p>

防空壕にひそんでいるのも危険だという。逃げ遅れて蒸焼きになった者が無数にあるという。早く広場を求めて逃げることだと言う。<o:p></o:p>

しかし、爆弾なら、地上に立っていれば吹き飛ばされてしまうだろう。低空で銃撃でもされれば、広場では盆の上の昆虫の運命は免れまい。<o:p></o:p>

彼らもそのことはいった。そして、<o:p></o:p>

「…つまり、何でも、運ですなあ。…」<o:p></o:p>

と一人がいった。みんな肯いて、何んともいえないさびしい微笑を浮かべた。<o:p></o:p>

運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって、深い、凄い、恐ろしい、虚無的な、そして変な明るさをさえ持って浮かび上がった時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐって動いているのだ。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む44

2010-03-14 18:33:01 | 日記

東京大空襲の惨禍、克明に(六)<o:p></o:p>

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 風はまだ冷たい季節のはずなのに、むっとするような熱風が吹いて来る。黄色い硫黄のような毒煙のたちゆらめく空に、碧い深い空に、ひょうひょうと風がうなって、まだ火のついた布や紙片がひらひらと飛んでいる。自分は歯ぎしりするような怒りを感じた。<o:p></o:p>

 「こうまでしたか、奴ら!<o:p></o:p>

 と思ったのである。<o:p></o:p>

 (あれから六十余年経った今、この文章を読み小生も、奴ら!と怒りが沸々と湧いてきます。)<o:p></o:p>

 昨晩目黒で、この下町の炎の上を悠々と旋回しては、雨のように焼夷弾を撒いているB29の姿を自分は見ていた。おそらくきゃつらは、この下界に住んでいる者を人間仲間とは認めない、小さな黄色い猿の群とでも考えているのであろう。勿論、戦争である。敵の無差別爆撃を、天人ともに許さざるとか何とか、野暮な恨みはのべはしない。敵としては、日本人を何万人殺戮しようと、それは極めて当然である。<o:p></o:p>

 さらばわれわれもまたアメリカ人を幾十万殺戮しようと、もとより当然以上である。いや、殺さねばならない。一人でも多く。(当時としては当然の怒りであり、復讐心に燃えるのも無理からぬことと理解できます。)<o:p></o:p>

 われわれは冷静になろう。冷血動物のようになって、眼には眼、歯には歯を以ってしよう。この血と涙を凍りつかせて、きゃつらを一人でも多く殺す研究をしよう。<o:p></o:p>

 日本人が一人死ぬのに、アメリカ人を一人地獄へひっぱっていては引き合わない。一人は三人殺そう。二人は七人殺そう。三人は十三人殺そう。こうして全日本人が復讐の陰鬼となってこそ、この戦争に生き残り得るのだ。自分は歯をくいしばって碧空を見た。白は白く、虚しく、じっとかがやいていた。……もう足が棒のようになって、とても歩けそうもないので、神保町までいって新宿行きの電車に乗ろうと相談した。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む43

2010-03-13 05:00:52 | 日記

東京大空襲の惨禍、克明に(五)<o:p></o:p>

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 色といえば大部分灰の色、ところどころ黒い煙、また赤い余炎となって、ついこのあいだまで丘とも知らなかった丘が、坂とも気づかなかった坂が、道灌以前の地形をありありと描いて、この広芒たる廃墟の凄惨さを浮き上がらせている。電柱はなお赤い炎となり、樹々は黒い杭となり、崩れ落ちた黒い柱のあいだからガス管がポッポッと青い火を飛ばし、水道は水を吹き上げ、そして、形容し難い茫漠感をひろげている風景を、縦に、横に、斜めに、上に、下に、曲がりくねり、うねり去り、ぶら下がり、乱れ伏している黒い電線の曲線。<o:p></o:p>

 黄色い煙は、砂塵か、灰か、或はほんものの煙か、地平線を霞めて、その中を幻影のようにのろのろと歩き、佇み、座り、茫然としている罹災民の影が見える。<o:p></o:p>

 この一夜、目黒の町まで夕焼けのように染まったことが、はじめて肯けた。<o:p></o:p>

 しかも、この本郷の惨禍はまだまだ小さい方なのだという。日比谷はまだひどい。浅草はさらにひどい。本所深川は何んとも形容を絶しているという。浅草の観音様も焼けてしまった。国際劇場も焼けてしまった。上野の松坂屋も焼けてしまった。九段の偕行社も神田明神も本所の精巧社も。宮城の一角さえも焔の中に包まれたのである。罹災民は二百万だという。死者も十五万人を下らないという。ああ、あの溶鉱炉の中でどのような阿鼻叫喚が演ぜられたことであろう。<o:p></o:p>

 自分たちは向山の下宿を探し当てた。廃墟になっていた。赤くやけた石の陰から、書物の紙片を見つけ出した。勿論青白い灰の一塊である。上膞の神経を示した図がぼんやり見える。解剖の本らしい。<o:p></o:p>

 松葉が灰の中に倒れていた立札を探して来た。一家無事でA町の何んとかいう鮨屋に移った旨書いてある。自分たちはそれを探ねて歩き出した。一面の灰じんの中に帝大の赤門も赤煉瓦も、これだけは残っていた。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む42

2010-03-12 05:28:04 | 日記

東京大空襲の惨禍、克明に(四)<o:p></o:p>

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 水道橋から本郷に上ってゆく坂の下に、帝大の貨物自動車が四台捨てられていた。松葉と自分は暗然と顔を見合わせた。帝大も焼けてしまったのか?という心配と、それから、その付近に下宿していて今日登校して来なかった向山と外島のことが、改めて恐ろしい不安となつて襲って来たのである。<o:p></o:p>

 焼け焦げの肩の肉の見えるどてらを着た老人が、杖をひきながら餓鬼のように乾パンをむさぼりつづけていた。扉の壊れた食堂の前に、欠けたコップや埃のしみこんだ茶碗を持った石炭箱が置いてあって、その前に、「罹災者の方へ、御遠慮なくお持ち下さい。失礼ですが」と書いた紙が風に吹かれて、髪を乱した老婆が、盗人みたいにそれを前掛けにつかみ入れていた。<o:p></o:p>

 「ちきしょう。やっぱりおれが特攻隊にならんといけんかな」<o:p></o:p>

 「へへえ、お前がね。お前が特攻隊に入って大いばりで飯食うことになりゃ。霞ヶ浦は飢饉になっちまわあ」<o:p></o:p>

 「何いいやがる。おれが出なくっちゃどうしたってだめなんだ、日本はね!<o:p></o:p>

 そして明るい笑い声をひびかせながら、三人の中学生が通り過ぎていった。<o:p></o:p>

 (小生にとってこの悲惨な光景は他人事ではありません。当時わが家は東京に商売を続けていた両親と、学徒動員で軍需工場で働く姉と兄が残っていました。)<o:p></o:p>

 自分と松葉は本郷に来た。<o:p></o:p>

 茫然とした。何んという凄さであろう! まさしく、満目荒涼である。焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の生活の背景をなす「物」の姿が、ことごとく灰となり、煙となり、なおまだチロチロと燃えつつ、横たわり、投げ出され、ひっくり返って、眼路の限りつづいている。