廃兵という言葉をご存知ですか 2006-12-12記
|廃兵、字面から忌まわしい感じがつたわってきます。戦場で負傷し再び兵役につけなくなった兵隊を指すのですが、これは明治時代に使われた言葉であります。今度の、今度のといってもおよそ60年前の戦争ですが、多くの傷痍軍人が生まれ、戦後その人たちは無残な姿を人の目に晒されました。日本中の人間が飢えに苦しんでいたときです。彼らはいかように辛苦に直面してたのでしょうか。まして勝ち戦で迎えた終戦ではありません、世間の目が温かいとはいえなかったと思います、まして多くの人たちは自分自身が飢えと戦っていたときです。想像に難くありません。
明治の廃兵という言葉は死語ではなかったのです。まさに彼らは廃兵でした。繰り返します、忌まわしく耳をふさぎたくなる言葉です。
戦後なんとか食糧も出回り、人々の表情にも生気がもどり、街もなんとなく活気がよみがえってきました。戦後二三年すぎたころでしょうか、そういってもまだまだ前途多難な時代でした。しかし、ここに日本の復興とはかけ離れた、いえ、見捨てられた人たちが街なかを彷徨していたのです。
盛り場を行きます。焼け残ったビルが、まだまだ薄汚れた姿を晒しています。露天が並び、おおぜいの人が行き交い、アメリカ兵が張り切った尻を揺らし、さっそうと足早に歩を進め、ときには頭に派手なネッカチーフをかぶったハイヒールの女性が、その腕にすがっています。そんな通りの一角から悲しげな、ときには勇壮な楽器の音がきこえてきます。
二人ないし三人の傷痍軍人が奏でているのです。彼らの前にはボール箱が置かれ、紙幣や硬貨が投げ込まれています。彼らは喜捨を求めて街角に立っているのです。白衣、おそらく療養で入院していたとき、身につけていたものではないでしょうか、あるいはその時点で、未だ入院してたのかもしれません。築地に陸軍病院があったのを覚えています、小学生のとき、引率されて見舞いにいったことがあります。
軍帽をかぶり、片足を義足で支えアコーデオンをひき、足元の一人は座り込み、切断された足を白衣をはぎ、白日の下にみせつけます。膝の上あたり、あるいは腿の付け根あたりまで晒します。切断された肉の面が醜く、思わず目をそらさずにはいられぬ光景です。両目を包帯で巻いたり、黒目がねをしていたり、あるいは両手を失い、ハーモニカをひもで耳からつり、吹く傷痍軍人もいます。その曲は「異国の丘」「戦友」「海行かば」あるいは「たれか故郷を思わざる」などでした。
日本女性の腰に手をまわしたアメリカ兵が、硬貨を投げ入れるのを見たことがありました。言いようのない複雑なおもいがしたものです。
電車のなかでも傷痍軍人は喜捨を募っていました。首から箱をつるし、喜捨を願う言葉をいい、乗客に頭を下げ下げ車内を、松葉杖をつき、あるいは鉄骨のような義足の鈍い音をさせながら行きます。そして次の駅で降り、次の車両に乗り換えるのです。
当時の大人たちはどう対応したのでしょうか、わかりません。あたしは喜捨したという覚えはありません。どんな気持ちでいたのかも、今になっては見当つきかねます。
偽の傷痍軍人のこと、それは極々一部の話と思います。
彼らが最大の戦争被害者の部類にはいることはまちがいありません。