写真の出典は下記文化庁報道発表より
米川の水かぶりは、宮城県登米市に伝承され、二月初午に行われる行事である。当地では、この日、藁簑わらみのや被かぶり物を付けた奇怪な姿の者たちが火伏せを願って沿道の家々に水を掛けながら、社寺等を参詣する(報道発表「「来訪神:仮面・仮装の神々」のユネスコ無形文化遺産登録に向けた再提案の決定」より 文化庁)。
初午(はつうま)(日本の行事・暦)
初午行事は本来は、農作業が始まる旧暦の2月に行われていたようです。711年(和銅4年・奈良時代)のこの日に、稲荷社の本社である京都の伏見稲荷大社に稲荷大神が鎮座されたといわれており、稲荷信仰に関係する行事でしょう。ただし米川の水かぶりは火防を願う行事で参詣する社寺は秋葉大権現のようです。
興味深いことに稲荷信仰と秋葉神社には何らかの関連性があり、米川の水かぶりもその一形態と言えそうです。
オタクの聖地・秋葉原にお稲荷様が多い謎を紐解く。そこから見える歴史とは?(mizica)※(秋葉神社がある)秋葉原には稲荷神社が多いとか。
秋葉神社・三座稲荷(神社巡りジャパン)※埼玉県飯能市稲荷町
秋葉稲荷神社(神社人)※所在地:大分県別府市秋葉町1
東日本系で江戸時代に深い関係があるような気がしますが、別府市の一部は幕府領で、火男火売神社が存在しているのが注目されます。
お稲荷さんは元々五穀豊穣を願う農耕神のようですが、商売繁盛の神に変わっていったようです(お稲荷さんはどうして「五穀豊穣」から「商売繁盛」の神様に変わったのか 和じかん.com)。江戸時代は石高制でしたから、米=金でそのあたりが転機だったのかもしれません。
火伏せの神は火防の神ですが、江戸は度々大火に見舞われたことで知られます。火防の願いが強くなることも当然でしょう。元々は焼畑に関係ある山の信仰という指摘もあるようです。
いずれにせよ、どうもこの二つの結びつきは都市・町の信仰を示すと思います。
登米街道:築館~登米(宮城県の町並みと歴史建築)
秋葉原は江戸で、埼玉県飯能市は秩父街道、大分県別府は温泉場ですね(別府温泉のなぞと歴史 別府市 >江戸時代・元禄7年には、医学者貝原益軒が残した「豊国紀行」にも温泉場の賑わいが記述されています)。
旧暦で農作業の開始に関わる初午行事だということですが、稲荷神が五穀豊穣の神から商売繁盛の変わっていくに従って、火伏せの神と結びつき、原義が忘れられ、新暦に移行したとも考えられます。
平成30年「米川の水かぶり」(登米市)
>宮城県登米市東和町米川の五日町地区に古くから伝わる火伏行事で、毎年2月の初午に行われます。地区の男だけが水かぶりの姿になり行事に参加できます。
>男たちは、裸体の腰と肩に藁で作った「しめなわ」を巻き、「あたま」と「わっか」を頭から被り、足に草鞋を履き、顔に火の神様の印である竈の煤を塗ります。この水かぶり装束を身に着け、男たちは神様の使いに化身します。
水かぶりの一団は大慈寺の秋葉山大権現と諏訪森大慈寺跡に祈願した後、奇声を上げながら町に繰り出し家々の前に用意された水を屋根にかけ、町中の火伏せをします。人々は男達が身に付けた「しめなわ」の藁を抜き取り、自家の火伏せのお守りにします。
注連縄(しめなわ)は神の依り代。水かぶりは神の化身で来訪神行事だということだと思いますが、何故水かぶりというかは良く分かりません。水をかける行事のようにも見えますが、神道の水行と何らかの関係があるのでしょうか。
米川の水かぶり(米川里山だより)を参照すると、八幡神社、若草神社(江戸時代には稲荷大明神宮と称した)にも関係があるそうですが、これ以上の調査は止めておきます。さすがに宮城県登米市東和町のサイトだけあって、詳しいものがあると思います。
火伏せ行事ですが、山伏(やまぶし)との関連が見て取れると思います。伏せとは屈服させるのような意味もあって、折伏(しゃくぶく、しゃくふく)という言葉にも使われていますね。町を破滅させる火事を屈服させる願いをこめた行事が火伏せ行事ではないでしょうか。山伏(山伏とは? スピリチュアルコネクト)ですが、庶民は山を異界として恐れていたようですから、やはり山という異界を屈服させるために山伏は修行しているのではないかと思えます。怨霊を神として祀る御霊信仰もこうした考え方に通じるものがあると思います。恐ろしいものを祀るのはある種屈服させコントロールしたいからなのでしょう。
米川の水かぶりは、宮城県登米市に伝承され、二月初午に行われる行事である。当地では、この日、藁簑わらみのや被かぶり物を付けた奇怪な姿の者たちが火伏せを願って沿道の家々に水を掛けながら、社寺等を参詣する(報道発表「「来訪神:仮面・仮装の神々」のユネスコ無形文化遺産登録に向けた再提案の決定」より 文化庁)。
初午(はつうま)(日本の行事・暦)
初午行事は本来は、農作業が始まる旧暦の2月に行われていたようです。711年(和銅4年・奈良時代)のこの日に、稲荷社の本社である京都の伏見稲荷大社に稲荷大神が鎮座されたといわれており、稲荷信仰に関係する行事でしょう。ただし米川の水かぶりは火防を願う行事で参詣する社寺は秋葉大権現のようです。
興味深いことに稲荷信仰と秋葉神社には何らかの関連性があり、米川の水かぶりもその一形態と言えそうです。
オタクの聖地・秋葉原にお稲荷様が多い謎を紐解く。そこから見える歴史とは?(mizica)※(秋葉神社がある)秋葉原には稲荷神社が多いとか。
秋葉神社・三座稲荷(神社巡りジャパン)※埼玉県飯能市稲荷町
秋葉稲荷神社(神社人)※所在地:大分県別府市秋葉町1
東日本系で江戸時代に深い関係があるような気がしますが、別府市の一部は幕府領で、火男火売神社が存在しているのが注目されます。
お稲荷さんは元々五穀豊穣を願う農耕神のようですが、商売繁盛の神に変わっていったようです(お稲荷さんはどうして「五穀豊穣」から「商売繁盛」の神様に変わったのか 和じかん.com)。江戸時代は石高制でしたから、米=金でそのあたりが転機だったのかもしれません。
火伏せの神は火防の神ですが、江戸は度々大火に見舞われたことで知られます。火防の願いが強くなることも当然でしょう。元々は焼畑に関係ある山の信仰という指摘もあるようです。
いずれにせよ、どうもこの二つの結びつきは都市・町の信仰を示すと思います。
登米街道:築館~登米(宮城県の町並みと歴史建築)
秋葉原は江戸で、埼玉県飯能市は秩父街道、大分県別府は温泉場ですね(別府温泉のなぞと歴史 別府市 >江戸時代・元禄7年には、医学者貝原益軒が残した「豊国紀行」にも温泉場の賑わいが記述されています)。
旧暦で農作業の開始に関わる初午行事だということですが、稲荷神が五穀豊穣の神から商売繁盛の変わっていくに従って、火伏せの神と結びつき、原義が忘れられ、新暦に移行したとも考えられます。
平成30年「米川の水かぶり」(登米市)
>宮城県登米市東和町米川の五日町地区に古くから伝わる火伏行事で、毎年2月の初午に行われます。地区の男だけが水かぶりの姿になり行事に参加できます。
>男たちは、裸体の腰と肩に藁で作った「しめなわ」を巻き、「あたま」と「わっか」を頭から被り、足に草鞋を履き、顔に火の神様の印である竈の煤を塗ります。この水かぶり装束を身に着け、男たちは神様の使いに化身します。
水かぶりの一団は大慈寺の秋葉山大権現と諏訪森大慈寺跡に祈願した後、奇声を上げながら町に繰り出し家々の前に用意された水を屋根にかけ、町中の火伏せをします。人々は男達が身に付けた「しめなわ」の藁を抜き取り、自家の火伏せのお守りにします。
注連縄(しめなわ)は神の依り代。水かぶりは神の化身で来訪神行事だということだと思いますが、何故水かぶりというかは良く分かりません。水をかける行事のようにも見えますが、神道の水行と何らかの関係があるのでしょうか。
米川の水かぶり(米川里山だより)を参照すると、八幡神社、若草神社(江戸時代には稲荷大明神宮と称した)にも関係があるそうですが、これ以上の調査は止めておきます。さすがに宮城県登米市東和町のサイトだけあって、詳しいものがあると思います。
火伏せ行事ですが、山伏(やまぶし)との関連が見て取れると思います。伏せとは屈服させるのような意味もあって、折伏(しゃくぶく、しゃくふく)という言葉にも使われていますね。町を破滅させる火事を屈服させる願いをこめた行事が火伏せ行事ではないでしょうか。山伏(山伏とは? スピリチュアルコネクト)ですが、庶民は山を異界として恐れていたようですから、やはり山という異界を屈服させるために山伏は修行しているのではないかと思えます。怨霊を神として祀る御霊信仰もこうした考え方に通じるものがあると思います。恐ろしいものを祀るのはある種屈服させコントロールしたいからなのでしょう。