観測にまつわる問題

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日琉中関係史(中国の時代区分による)

2018-12-08 06:14:09 | 世界史地理観光
箸墓古墳(ウィキペディア「箸墓古墳」2018/12/8 Saigen Jiro氏の投稿写真)

日琉中関係史を中国の時代区分に従って、漢から清まで流れを追っていきます。あえて中国の時代区分に従うのは、中国の方が古い文明で歴史が先に整備されたこと、中国の方が大国で日本の中国に対する影響より中国の日本に対する影響の方が大きかったことによります。日本の時代区分に従うと関係史は分かり難いのではないかと思います。あくまで歴史の流れを客観的に追うためのやり方で他意は全く無いことをご理解ください。沖縄ではなく琉球としたのも最初の正史が編纂されたのが琉球王国においてであることによるのであって、他意はありません。筆者は歴史的事実を押さえるのに現代の色眼鏡をかけるべきではないという考え方です。

①漢代:日本が世界史というか東洋史に登場するのは、漢代において倭国としてです。この時点では北九州政権で、現在の皇室とは残念ながらほぼ無関係であり、日本最初の正史日本書記を辿ってもその実相は概ね不明と言えます。漢委奴国王の金印が有名なところです。朝鮮においては北回り陸続きに楽浪郡が設置され、日本とは朝鮮半島経由の交流だったと思われます。漢の都は長安・洛陽。完全に陸の大陸国家であって、南方でも交趾郡・日南郡を置いてベトナム北中部を支配しましたが、琉球が登場することはありません。

②魏晋南北朝時代:三国志魏の時代に邪馬台国が登場します。現在一般的には九州説も有力とされますが、当時は年代的にほぼ古墳時代の開始期にあたり、古墳時代はそのまま現在の皇室・日本に繋がる上、北九州博多付近に比定される奴国の7倍の人口を持つと記される邪馬台国は畿内に求めるしかないと考えられます。また、道中の投馬国も奴国から(不彌を挟んで)水行で辿りつき、5倍の人口規模を持ちますから、これは吉備あたりだろうと推定できます。大和地方の最初期前方後円墳箸墓からは吉備系の土器が多く出土するらしく、魏志倭人伝に見える邪馬台国連合=倭国成立の事情が垣間見えます。恐らく戦乱の弥生時代を経てこの時には成立していた大和と吉備が連合して北九州を制し大和を中心とする倭国が新たに成立。北九州にあった倭国の外交関係を継承利用して中国に通じたのではないかと考えられます。古墳時代は北陸や東海・関東にも広がっており、邪馬台国を九州に収めてしまうと、日本統合の年代的なつじつまがあわなくなると考えられ、過剰に日本を小さく見る必要はありません。記紀の神武東征においても倭国が元々北九州にあった事情が垣間見えますが(恐らく北九州あたりからの移民が後の大和を造ったのでしょう)、いずれにせよ、崇神天皇以前の天皇の墓は記紀の記述から小規模なものに止まると考えられ、弥生時代の統合されない中心地(北九州が山陽や大和を支配していた訳では必ずしもないでしょう)は北九州にあって、大和は畿内の地方政権に過ぎなかったと考えられます。

長江流域南船北馬の南である呉の鏡等も出土しますが、中国の史書の記述から限定的な交流に止まったと考えられます。呉の孫権の夷州・亶州征伐もありましたが、一時的な話で琉球を攻撃したかはよく分からないとされます(台湾ではなかったかとも)。

南北朝時代の中国中原には異民族が進出し、日本は南朝と交流します。ルートは朝鮮半島南東の百済を通じてのようです。少なくとも渤海は渡って交流していたのでしょう。

③隋唐五代十国:隋の頃には遣隋使があって日本の形がようやく整ってきたと考えられます。聖徳太子の日出処の天子の手紙は有名ですね。隋書に流求が見られますが、これは台湾を指すとも言われ定かではありません。後に小琉球が台湾、大琉球が沖縄を指すことになります。

唐代中国においてアラビア人(大食)が広州や揚州にやってきて交易を行い、居住地も設けていたようです。日本は遣唐使を派遣し、中国の(国際的でもあった)文物を受容しました。日本書記が成立し、奈良の都や京の都が成立したのはこの頃。国号も日本に改称します。南西諸島においては種子島までは直接支配しており、奄美までは少なくとも史書に見え交流があったようです。それ以南と見られる島の名前も史書にあって(朝貢してきたとされ)、沖縄本島の存在は少なくとも知っていたと考えられます。

④宋:博多を窓口に宋銭が輸入され、日本経済は進展しました。唐末に火薬が発明されており、薩摩から中国に渡るルートもあり、日本は薩摩硫黄島の硫黄を輸出していたようです。院政期に南西諸島に対する影響力は強まり、この頃琉球においてグスク時代が開始されたようです。初代琉球国王とされる舜天の源為朝伝説と為朝の娘婿と言われる阿多(平)忠景の薩摩における活躍に何らかの関連性はあるのでしょう。

⑤元:元寇があって必ずしも関係は安定しなかったと考えられます。元はジャワ島まで攻め込みましたが、琉球に攻め込んだという話はありません。当時の東南アジアは唐代以来西方と中国を結ぶ交通の要所になって繁栄していましたが、琉球は互いに相争う時代なのであって、大陸国家がわざわざ海を渡って支配する甘みはありませんでしたし、台湾との混同もあったようです。奄美では千竈氏の支配があったとも。

⑥明:室町時代初期は南北朝時代でもあって、九州の南朝が日本を代表して明と交流する等当初は混乱期にありました。足利義満の時代の日明貿易は有名ですが、その後しばらくして応仁の乱が発生し、日本は戦国時代を迎えます。明の時代に琉球王朝がようやく成立。明との交流貿易があったようです。中国人主体とも言われますが(例えば日本の五島列島・平戸には王直なる倭寇の頭目がいました)、後期倭寇が中国沿岸を荒らした時代でもあります。大航海時代でスペイン人・ポルトガル人が来訪して日本に鉄砲を伝えたのもこの頃。豊臣秀吉は明征服を目指して朝鮮征伐を敢行し、明と朝鮮の連合軍と戦いますが、その死により終結。その後、明は倒れて清の時代に移ります。奄美は琉球王国の支配下に入っていました。琉球王国は明に朝貢していたものの、日本も日明貿易(朝貢貿易)を行っていたのであって、朝貢がすなわち中国の領土主張の根拠にならないことは明確だと考えられます。

⑦清:江戸幕府は所謂鎖国政策を実行し、対外貿易は限られた窓口でしか行いませんでした。一方琉球王国は東南アジアまで至り中継交易で活躍したようです。琉球は中国に対して朝貢していましたが、薩摩の琉球侵攻があって裏に薩摩がいたとも言われます。奄美はここで薩摩藩の直轄領になったようです。清は明の再興を掲げオランダを追い出し台湾によった鄭氏政権を滅ぼし、ここに来てようやく台湾が中国大陸の国に支配されることになります。明治維新で欧化政策を採った日本は琉球王国を日本に併合し、後に日清戦争を敢行。眠れる獅子と呼ばれた清を破り世界を驚かせたようです。結果、台湾を併合し、日本統治の時代が始まりました。

以上ですが、世界史や経済史・軍事史を踏まえ日琉中関係史を概観すると、中国の海洋における活躍は過大評価されており、琉球は基本的に日本の影響を強く受け成立し日本の系譜に連なるのであって、台湾すらずっと後に至るまで手をつけなかった中国の尖閣諸島に対する領土要求の歴史的根拠は相当怪しいことが分かるだろうと思います。


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