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朝鮮回廊と民族史(ツングースと高句麗、三韓及び日本(蓬莱?)への稲作を含む中国文明(燕・斉)の伝播)

2019-02-17 18:47:58 | 世界史地理観光
高句麗論争(朝鮮半島北部から満州南部を支配した高句麗が「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという帰属をめぐる論争)に関連して、高句麗の起源・民族でいろいろ迷いもあったのですが、ほぼ考えが固まりました。支配者層が後のツングース/満州で半島部の領民が朝鮮ということで良いんじゃないかと思います。現在、北朝鮮に朝鮮民族しか住んでいないですし、三国史記で歴史がまとめられていることからも、基本的には朝鮮史でいいと思いますが、高句麗史を中国史(というか満州民族史)として捉える見方もあるでしょう。支配者層の歴史で見るべきという意見があってもいいですが、衛氏朝鮮は中国人(燕人)王朝ですが、朝鮮半島に中国人は住んでいません。歴史において少数派の支配者層はしばしば多数派の領民に飲み込まれることがあります(同化させるケースもあって一概には言えません)。例えばフランス人はゲルマン人であるところのフランク族の国が起源とされますが、フランス語はラテン系で言語的にはフランス人はローマ人の末裔です(元々はケルト人が住んでいました)。これはあくまで想定ではありますが(頭の体操で色々言えはするでしょうが)、現実に中国語と朝鮮語は違う言語なのですから、言語学的に証明されているとも言えます。

稲作農耕は日本(菜畑遺跡:現在では前10世紀~)に伝わったようですが、燕の領域に稲作があったはずがありませんから、これは山東半島あたり(後の斉)から伝わったと考えられます。遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているそうで(稲作の痕跡は見つかっていない)、山東半島~廟島群島~遼東半島~朝鮮半島ルートで稲作が伝播し(日本人は中国人ではありませんから文化の伝播のみ、あるいは多数の日本人に少数の渡来人が吸収されたと考えられます)、気候が適している日本(九州)で盛んになったと考えられます。山東半島斉の建国が紀元前1046年ですから、そもそも山東半島に住んでいたとされる莱族が稲作を伝えたと考えるのが素直かもしれません。莱族の莱は蓬莱の來で、蓬莱とは古代中国で蓬莱は、方丈・瀛州とともに東方の三神山の1つであり、山東半島のはるか東方の海にあるとされます。東方三神山の方丈とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島。残りの瀛州はのちに日本を指す名前となったようです。徐福伝説が日本各地に残りますが、漢代「史記」のこうした話は何らかの根拠があるとも考えられますし、時代からも場所からもそれは日本のことを指しているのであって、交易ルート・交流ルートが想定されていいんだろうと思います。あるいは斉に破れて移民が従来有していた交易ルートを使って渡ってきたとも考えられます(日本において亡国の百済の移民が住み着くこともあったようです)。朝鮮半島における水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっているそうです(時代が正確かは分かりませんが、稲作には日本の気候の方が適しています)。

史料にある範囲で朝鮮半島に大きな影響を与えたのは燕(紀元前11世紀 - 前222年)であるようです。燕は遼東半島を支配しましたが、国都は薊(北京市あたり)であり、上記山東半島ルートで來族が稲作を伝える時間的余裕はあったように思えます(最初に島伝いに移動したとして、経験さえあれば渤海横断ルートをとることも出来ます。呉越伝来説は有力とされますが、最初の移動が想定できず筆者は難しいと考えています。時期的にも斉の建国あたりがドンピシャで長江下流域において前5000年頃に始まったという呉越の稲作の日本・半島への伝来がどうして大きく時代が降るのか説明がつきません。南方の稲作が大陸内で北方適応・北上するのに時間がかかったと見るべきではないでしょうか)(銅鐸が越の王墓で見つかったというニュースも鈴が日本で発展したという通説でいいような気がします。日本は鈴文化で五十鈴川等の地名から銅鐸(紀元前2世紀~2世紀)は鈴と呼んでいたと考えています(スズは和語で、縄文時代にクルミなどの木の実やマメを振ると外殻や鞘の中で種子が動いて鳴ることに着想を得て作られた道具ともいわれるようです。金属で造る文化を教えた、あるいは輸入元は中国かもしれませんが、言葉は和語を使用したと考えられます)(後に埋納して文化が断絶した後、鐸が考古学的に越であるならば、古墳時代における南朝(最初の宋が420年 - 479年)との通交で鐸が改めて伝わったとも考えられますが、銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本紀のようですから、タクという漢語から考えて、遣唐使との関連が深いと考えられます)(いずれにせよ、難破必至の東シナ海ルートを時代を遡るほど信じません)(>中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた。燕・斉人の東来は、古くから存在した。:礪波護、武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社、1997年、264頁)。

燕の建国の経緯に韓侯国が関係しているようで、燕の士大夫層に韓氏や箕氏が見られるようです(伝説的な朝鮮最古の王朝箕子朝鮮は殷に出自を持つ箕子が建国したとされますが、殷の統治範囲を考えると甚だ疑問です。義経伝説や源為朝=舜天説のような起源説話だと思います。後代に燕の領域から箕氏が移住してつくったのが箕子朝鮮と考えられます)。三韓とは朝鮮南部ですが、何故に韓(河南省北部の一部、山西省南部の一部、陝西省東部の一部)(距離が離れてますし七雄で弱小とされます)?と思っていたのですが、韓氏に由来している可能性があると思います(出典はド忘れしましたが、日本だと移住後に地名を名字(武士の名字)としており感覚的に分かり難いですが、中国の宗族制度では移住して姓を地名・村名にしたとか。例えば「周荘」「趙村」「馬家屯」「柳鎮」のような地名があるそう。全然違うかもしれませんが)。

燕は遼東半島をも支配しましたが、斉からの文化の伝播もあったか(当初からバランサーしていたかもしれません)、燕の国都から遼東半島が遠く、北方の気候が厳しいこともあってか、少なくとも現在の朝鮮半島の領域までは中国人(漢民族)は多く移住しなかったようです(移住が多かったとして羅唐戦争後の新羅か高麗以降の歴史の影響が大きいかもしれませんが、よく分かりません)。遼東半島は概ね中国の領域であったようです。

高句麗に戻りますが、最初の首都卒本城や遷都後の有名な丸都城は鴨緑江北岸のようで、このあたりは後にツングース系民族の居住地として知られます。高句麗、夫余(扶余)、東沃沮、濊、貊の言語・民族が同じとされ、高句麗は現在の中国東北地方に広大な領域を持っていたようですが、どうも漢四郡の玄菟郡の影響を受けて(あるいは民族的な成長はもっと前かもしれませんが)、高句麗が成立したようです。魏と戦争して丸都城を落とされることもあったようですが(このあたりが魏志倭人伝の時代)、313年に高句麗が朝鮮半島の楽浪郡を征服しました。427年に平壌(現在の市街ではないそう)に遷都(南の方が生産力が高く人口が多かったかもしれませんし、少なくとも朝鮮半島を南下するのに便利でした)。高句麗は強国で度々隋や唐といった大国を退けたことで知られます(広開土王碑で知られるように、半島南部の国を支援する倭国=大和朝廷とも戦争しました)。三国史記における朝鮮半島中部の高句麗の地名は金芳漢氏によると、百済・新羅と同じのようです。その上で金氏は平壌方面に南下する以前の高句麗の言語と、朝鮮半島中部の地名に用いられている言語が同一ではない可能性を指摘し、乏しい史料から高句麗語はツングース系を示唆したようですが、この意見は妥当なように思います。とにかく中国東北地方に朝鮮人が広く居住していた歴史がありませんし、朝鮮半島南部の百済の支配者層も高句麗に起源があると自称しており、韓族の居住地も高句麗同様の支配者層と領民の分離があったとも考えられます。後の新羅の支配→短い後三国時代→高麗と時代が移行し、現在の朝鮮半島の領域を支配する高麗時代に三国史記が編纂されていますが、どうも北朝鮮の領域に朝鮮人以外の民族が住んでいたような感じがなく、日本人は魏志の記述から朝鮮半島北部に別民族が住んでいたように思ってしまう感じがはあるような気もしますが、元々朝鮮半島には朝鮮人(ないし朝鮮人に類似の民族)が住んでいたと考えていいのだと思います。

ただ、高句麗や百済の史料が少なく、(支配者層の)言語の復元が難しいことから、このあたりの推測に確証がないようです(広開土王の碑文なども、結局漢文で読みが分からないと思います。万葉仮名のようなものが無いと読みが分かりません)。日本には高麗(こま)や百済の地名がありますし(基本的には日本に日本の地名はありません)、誰も同族と主張していませんから、数少ない言語再建から日本語との系統関係を示唆する研究は誤っていると思います。数詞が似ている説は日本語の数を表す言葉が中国語に類似することと同様の現象とも考えられます(イチ、ニ、サン、シ・・・とイー、アル、サン、スー)。高句麗は早くから中国の影響を受けて高い文明があったとも考えられますが、日本が比較的関係が良かったとされる百済の支配者層が高句麗と同族のようで、文化の伝播で高句麗語が(百済語を通じる等して)日本語に入ってそもそも不思議はない訳です。ビロウや稲作に代表される比較的南国の日本文化が高句麗にルーツがあるはずもありません。

新羅は辰韓の地の国で秦人が済み秦韓ともいったようですが、日本の渡来人として著名な秦氏はこれに関係する可能性があると思います。何故秦かと言えば、燕の故地(遼東半島あたり)を引き継いだ秦の影響が考えられると思います。秦という巨大な統一国家のインパクトは相当大きかったのではないでしょうか。その後の漢において漢四郡支配がありましたから、益々中国の影響は大きかったはずです。朝鮮語と中国語は別言語ですが、朝鮮人の姓は中国同様の一字姓になっています(三国史記の王名から元は違ったようです)。

いずれにせよ、朝鮮半島には古くから朝鮮人が住んでいたというのが筆者の考えです。これに対して中国東北地方には古くからツングース民族が住んでおり、言語資料の少なさから証明できないようですが、それが扶余族であり、元来の高句麗なのでしょう。

高句麗・扶余の東の挹婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)は中国の史書によると独特の言語を持っていたとされるようですが(少なくとも確実なツングースは女真族とされます)、筆者は疑問を持っています。そもそも中国がこうした遠方の東の部族とあまり接した経験がないように思うのですが、日本語でも祖父母の方言がよく分からないのような話もありますし、(同族の)大和と琉球では正史も違いますし、大和と隼人も明らかな同属ですが、異民族扱いでした。同系統でも別民族と判断されてそもそも不思議がありません。気になるのが女真(金朝)(黒水靺鞨とされます)以前の渤海国(高句麗に服属していた粟末靺鞨の国とされます)で、中国東北部と沿海州(外満州)といった広大な領域を支配しており、これはどうも同じ民族が住んでいたと考えて良さそうです。渤海国は遠交近攻で(共に朝鮮半島の新羅と仲が悪かったので)日本に使節を送っていたことで知られますが、外満州というあまりに寒い地域の支配はそもそも同族だったからと考えないと理解が難しいものがあります。後の樺太のウィルタもツングースと分かっています。


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