観測にまつわる問題

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通州事件と日中戦争、南京事件、その背景

2019-01-08 09:39:44 | 世界史地理観光
燃灯塔(中華人民共和国 北京直轄市 通州区 ウィキペディア「通州区 (北京市)」2019/1/8より)

通州事件って日中戦争の歴史において、保守派がよく取り上げる題材なんですよね。南京事件とあわせて、日中戦争の歴史を簡単に概観しておきます。

通州は北京市付近。殷汝耕を政務長官とする冀東防共自治政府が置かれていました。反乱を起こした冀東防共自治政府保安隊ら中国軍は通州日本軍の留守部隊(主力は南苑攻撃中)を攻撃・壊滅させ、殷汝耕長官を拉致。日本人居留民を襲撃し、在留日本人385名のうち223名が虐殺されました。殷は脱出に成功しましたが、日本軍に反乱の首謀者と疑われ、政務長官は辞任。冀東防共自治政府は日本の華北分離工作の結果ではないかという指摘もあるようです。通州事件を起こした主犯は冀東防共自治政府の保安総隊の指揮官張慶余。

張慶余は通州事件後、南京に召還され、軍政部第6補充訓練処処長に任命された後、第91軍副軍長、国民党軍事委員会中将参議等を歴任したようです。通州事件(7月29日)の少し前7月7日には盧溝橋事件が起きています。どうも国民党政府と日本をぶつける共産党の工作もあるような気もしますが、第二次国共合作が成立する背景に日本の華北分離工作もあるような気もします。通州事件後8月13日に、中華民国軍の上海の日本租界進駐から第二次上海事変が発生。南京戦へ拡大していきます(日中戦争)。所謂南京事件が発生したのはこの時。

蒋介石は第二次上海事変の時には日本軍を追い出す意図で仕掛けたと思われますが、返り討ちにあって南京国民政府(汪兆銘政権)が成立したということのような気がします。南京事件も同害報復の面があったかどうか。蒋介石の側からは華北分離工作等一連の日本の大陸進出に不信感があったかもしれません。

一般に日中戦争の始まりは盧溝橋事件とされますが、松井-秦徳純協定で収拾しており、これを戦争の開始と見ることは出来ません。続く通州事件で拡大派が不拡大派を押し切ったとされますが、8月9日に池宗墨が冀東防共自治政府の第2代行政長官に就任しており、こちらも基本的には事態は収拾していると見ることが出来ます。続く8月13日の中華民国軍の進駐に始まる第二次上海事変が日中戦争の嚆矢に違いなく、これは明快に蒋介石の国民政府の仕掛け(先制攻撃・侵略)です。ただし、蒋介石にしてみれば、先立つ日本の華北分離工作や満州事変といった日本の仕掛けに対する反撃だったのでしょう(停戦を挟んでおり、そうだとしても日本の先制攻撃と見ることはできません)。そういう事情を踏まえた結果、日本も事変だと経緯を誤魔化したように思います。余勢を駆って第10軍が独断で進撃を開始。松井石根中支那方面軍はこれを追認し、南京攻略戦が始まったようです。どうも当時の日本においてはトップダウンの指示が十分機能しなかったようで、流れるままにズルズル拡大していった様子が伺えます。



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