官撰『大韓地誌』(1899年)「大韓全図」(部分)DaehanJeondo.jpg(ヒョンチェ(玄采)ウィキペディア パブリックドメイン)
山田宏参議院議員のツイート参照ですが、「日露戦争以前の1899年に大韓帝国が発行していた地理教科書「大韓地誌」には、大韓帝国の東端を東経130度35分と記しており、竹島(東経131度52分)は含まれていなかったし、また「日本海」と単独表記していた」ようです。韓国の領土主張の核心部分は日本の竹島編入(1905年)に先立つ大韓帝国勅令第41号(1900年10月25日)だと思いますが、勅令に言う「鬱陵全島と竹島石島」の石島とは観音島ではないのか?というのが日本の主張です。それに先立つ1899年の大韓地誌で明快に竹島が領土に含まれておらず、地図を見れば鬱陵島周辺に付属の小島が幾つか記載されていますが、その大きさを見ると異論のない(韓国)竹島の次の石島は観音島でしか有り得ないじゃないのかという感じですし、実際にその姿は石島そのものな訳です。
少し遅れましたが、竹島の日(2月22日)に関連して、韓国が意外と領土主張に自信を持っているようなので、この際シッカリ理論武装しようと太政官指令を考察しています。上の見解は過去の主張の焼き直しではありますが、太政官指令とセットで理解するのがいいんじゃないかと思っています。出典が韓国人なのは(鬱陵郡が)韓国の島だからいいんじゃないかと(多分独島領有証拠のつもりじゃないかと思いますが、どう見ても観音島でしかありません)。パブリックドメインですしね。ウィキペディア「竹島」の写真は韓国人が独島としてアップしていたので、避けておきました。竹島資料ポータルサイト(内閣官房)で使っていい資料や写真はいろいろあるようです。
太政官指令「竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」は外一嶋が付属の地図によると竹島(竹島が松島(鬱陵島)。分からない人は勉強を)だという指摘があってそこが注意点ですが、太政官がたまたまそう言っただけというのが事実だと思います(ルーズベルトの「私的な文書」みたいなものです)。日本の領有権主張は江戸時代に淵源があって、1905年に編入したという主張を妨げるものではありません。それを踏まえて外一嶋は地理が不明な当時の存在しない島アルゴノート島と太政官が勘違いした説があるようです。少なくとも竹島一件で(現在の)竹島は江戸時代に明快に放棄されていません(名前がいろいろ入れ替わっていて、一見して分かり難いのが竹島問題の特徴です)。この見解は太政官指令「竹島外一島」が示していたもの(著者 茶阿弥(ブログ「日韓近代史資料集」管理人、九州在住)『iRONNA編集部』 2015/01/02)の主張他、茶阿弥氏の幾つかの記事を自分なりに解釈したものです。気になる人は氏の主張を自身でお読みください。
1900年から遡ること200年、1699年及び1701年、鬱陵島を監督していた鬱陵島捜討官が製作した「鬱陵島外圖」に、その位置関係から竹島に比定される大于島と、観音島に比定される小于島が描かれているらしい(ウィキペディア「竹島 (鬱陵郡)」参照で未確認)ことも鬱陵島の比較的大きな付属島が古来認識されてきたことを証明すると思います(名称が一定でありません)。韓国が主張する于山島や于山国は鬱陵島であったり、鬱陵島付属の韓国竹島であったり、観音島であったり、存在しない空想の島だったりするようですが、地図に書かれている姿はどう見ても韓国竹島なことが多いようです。少なくとも双子島で鬱陵島から距離がある竹島であるのを見たことが一度もありません。対して日本の地図は詳細で明らかに竹島を江戸時代以降、利用・認識していたことが明白です。当時無人島だった鬱陵島にまで出かけて操業するくらい当時の日本の海運や漁業・商業は発達していました。北前船は有名ですよね。
ところが鬱陵島が朝鮮半島から見える付属の島で古来、歴史記録もあったため、鬱陵島は結局放棄することになりました。それが竹島一件です。その(竹島の)先の操業がなくなり、利用すること少なくなった「忘れられた島」を明確に回収することになったのが日露戦争の頃だということになります。日露戦争においては海戦も発生しており、日本海の無人島の所属をハッキリさせておく必要があったと思います。同時期に韓国支配が強まったのは、日露戦争自体、ロシアの満州支配を受けての戦争だからだと考えられます。半島支配抜きで、満州からロシアを日本が追い出す訳にはいきません。歴史をよく見ると日清戦争後に日本は必ずしも朝鮮支配できてなく、ロシアが満州に転じてから日露戦争が起こっています。いずれにせよ、当時は帝国主義の時代なのであって、一連の日韓併合に違法性はなく全て有効です。
山田宏参議院議員のツイート参照ですが、「日露戦争以前の1899年に大韓帝国が発行していた地理教科書「大韓地誌」には、大韓帝国の東端を東経130度35分と記しており、竹島(東経131度52分)は含まれていなかったし、また「日本海」と単独表記していた」ようです。韓国の領土主張の核心部分は日本の竹島編入(1905年)に先立つ大韓帝国勅令第41号(1900年10月25日)だと思いますが、勅令に言う「鬱陵全島と竹島石島」の石島とは観音島ではないのか?というのが日本の主張です。それに先立つ1899年の大韓地誌で明快に竹島が領土に含まれておらず、地図を見れば鬱陵島周辺に付属の小島が幾つか記載されていますが、その大きさを見ると異論のない(韓国)竹島の次の石島は観音島でしか有り得ないじゃないのかという感じですし、実際にその姿は石島そのものな訳です。
少し遅れましたが、竹島の日(2月22日)に関連して、韓国が意外と領土主張に自信を持っているようなので、この際シッカリ理論武装しようと太政官指令を考察しています。上の見解は過去の主張の焼き直しではありますが、太政官指令とセットで理解するのがいいんじゃないかと思っています。出典が韓国人なのは(鬱陵郡が)韓国の島だからいいんじゃないかと(多分独島領有証拠のつもりじゃないかと思いますが、どう見ても観音島でしかありません)。パブリックドメインですしね。ウィキペディア「竹島」の写真は韓国人が独島としてアップしていたので、避けておきました。竹島資料ポータルサイト(内閣官房)で使っていい資料や写真はいろいろあるようです。
太政官指令「竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」は外一嶋が付属の地図によると竹島(竹島が松島(鬱陵島)。分からない人は勉強を)だという指摘があってそこが注意点ですが、太政官がたまたまそう言っただけというのが事実だと思います(ルーズベルトの「私的な文書」みたいなものです)。日本の領有権主張は江戸時代に淵源があって、1905年に編入したという主張を妨げるものではありません。それを踏まえて外一嶋は地理が不明な当時の存在しない島アルゴノート島と太政官が勘違いした説があるようです。少なくとも竹島一件で(現在の)竹島は江戸時代に明快に放棄されていません(名前がいろいろ入れ替わっていて、一見して分かり難いのが竹島問題の特徴です)。この見解は太政官指令「竹島外一島」が示していたもの(著者 茶阿弥(ブログ「日韓近代史資料集」管理人、九州在住)『iRONNA編集部』 2015/01/02)の主張他、茶阿弥氏の幾つかの記事を自分なりに解釈したものです。気になる人は氏の主張を自身でお読みください。
1900年から遡ること200年、1699年及び1701年、鬱陵島を監督していた鬱陵島捜討官が製作した「鬱陵島外圖」に、その位置関係から竹島に比定される大于島と、観音島に比定される小于島が描かれているらしい(ウィキペディア「竹島 (鬱陵郡)」参照で未確認)ことも鬱陵島の比較的大きな付属島が古来認識されてきたことを証明すると思います(名称が一定でありません)。韓国が主張する于山島や于山国は鬱陵島であったり、鬱陵島付属の韓国竹島であったり、観音島であったり、存在しない空想の島だったりするようですが、地図に書かれている姿はどう見ても韓国竹島なことが多いようです。少なくとも双子島で鬱陵島から距離がある竹島であるのを見たことが一度もありません。対して日本の地図は詳細で明らかに竹島を江戸時代以降、利用・認識していたことが明白です。当時無人島だった鬱陵島にまで出かけて操業するくらい当時の日本の海運や漁業・商業は発達していました。北前船は有名ですよね。
ところが鬱陵島が朝鮮半島から見える付属の島で古来、歴史記録もあったため、鬱陵島は結局放棄することになりました。それが竹島一件です。その(竹島の)先の操業がなくなり、利用すること少なくなった「忘れられた島」を明確に回収することになったのが日露戦争の頃だということになります。日露戦争においては海戦も発生しており、日本海の無人島の所属をハッキリさせておく必要があったと思います。同時期に韓国支配が強まったのは、日露戦争自体、ロシアの満州支配を受けての戦争だからだと考えられます。半島支配抜きで、満州からロシアを日本が追い出す訳にはいきません。歴史をよく見ると日清戦争後に日本は必ずしも朝鮮支配できてなく、ロシアが満州に転じてから日露戦争が起こっています。いずれにせよ、当時は帝国主義の時代なのであって、一連の日韓併合に違法性はなく全て有効です。