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観測にまつわる問題

政治ブログです。「保険」「相続」「国民年金」「AIロボット」「運輸エンタメ長時間労働」「GX」を考察予定。

ハタは和語ではないのか?(八幡浜地名考)

2019-03-04 23:15:20 | 日本地理観光
愛媛県の地名八幡浜(ヤワタハマ)の語源ですが、大分県の宇佐神宮は全国に約44,000社ある八幡宮の総本社で、伊予(特に南予)と宇和海を挟んで対岸の豊の国は関係が結構深いですから、八幡(はちまん)神に由来すると思います。製鉄所が有名ですが、北九州にも八幡の地名はありますね。神名「八幡」は「やはた」が古名なのだとか。ここで宇佐の語源ですが、宇佐とは麻で三母音(琉球語)の名残でア→ウの転訛だという説があるようで(宇佐神宮 玄松子の記憶)、筆者は当たってるような気がします。そうだとしたら伊予の謎地名宇和はアワで宇摩はアマになるのですが(特に前者はありがちな日本の地名でそれっぽいような)。

幡はサンスクリット語のパターカー(patākā)という言葉に由来する仏具で、日本の宗教は元来は神仏習合でした。ハタは秦氏、八幡神は新羅と結び付けられ渡来系のイメージが半ば定説化していますが、筆者は俗説に近いのではないかと思います。ハタは元来多岐に渡り使われる和語ではないでしょうか?ハタは動詞としては「はためく」でも使われ、「はた」は擬音語とされ、①鳴り響く②ひるがえる③ゆらゆら動くの意があるようです。中国も朝鮮も仏教発祥の地ではなく、パターカーが日本に伝わり、和語のハタに似ていると日本人が捉えたのだと考えます。有名な渡来系氏族秦氏に関して言えば、日本書記の記述から百済説(「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する)は尊重すべきと思いますが、一度にそれほど大量の移民があったかは疑問でしょう。あったとすれば、ハタ=パタで朝鮮語で海を指し、渡来人全般を指した可能性の方がありそうです(三井寺>連載>新羅神社考>福井県の新羅神社(1))。ただ海という氏はないと思いますからそれもどうかという気もするんですが。それより波多とか羽田も一部そうらしいですが、ハタに異字が多過ぎるような気がします。またハタは和語で畑か端田のような気がしないでもありません。漢字に意味があるとすれば、秦韓だと思いますが、

他にハタと言えば機織(はたおり)もあります。機=ハタになっていますが、これも元々はひらひらした反物を和語でハタと表現したと理解するのが素直と思います。機織が日本発祥のはずはありませんが、外来語が由来ならキになると思います。七夕(たなばた)が「しちせき」でない謎がありますが、バタ(ハタ)はひらひらしたものと考えると日本独自とされる短冊の風習が理解しやすくなります。また元は棚機(たなばた)で織姫をイメージしたと思えます。七を宛てたのは勿論7月7日が理由に違いありません。

ハタハタという秋田県の県魚がありますが、ハタハタは古語では雷の擬声語で、現代の「ゴロゴロ」にあたるのだそうです。ということは当初パターカーをハタと言っている内にハタがヒラヒラのイメージに変わっていき、そのイメージがついて使いにくくなったので、ハタハタをゴロゴロに変えたのかもしれません。恐らくハタハタは深海魚ですからそれほど起源が古いものではなく、非常に大きい胸ビレのイメージがハタではないかという気もします(通説は秋田で雷が多い11月に獲れるから雷魚(カミナリウオ)の意だそうです)。鳥取県ではシロハタと呼ぶほか、カタハ、ハタと呼ぶ地域もあるそうです。

水蜘蛛は何のための小道具なのか

2019-03-04 23:02:28 | 日本地理観光
Mizugumo.png(ウィキペディア「水蜘蛛」想像図)

NINJA…イメージと随分違う忍者の“真の姿”…甲賀・伊賀の忍術を集大成した秘伝書「万川集海」を読み解く(産経ニュース 2017.3.15)

忍者道具として有名な水蜘蛛ですが、別の古文書には中央の板に「座る」と書かれており、(山口県の医師)中島篤巳さんさんは「一つの水蜘蛛に座り、足に『水掻(みずかき)』をはいて、水面を進んだのでは」と推測しているようです。水掻は「万川集海」でも水蜘蛛のすぐ後に紹介されているとか。

中央の板とか浮き輪状の形から他に形状の意味が考え難く使い方として妥当だと思いますが、移動中の弓や鉄砲の使用の可能性の指摘は多分違うと思います。足場がないと不安定ですし、鉄砲を撃ったら音で見つかってしまいます。手裏剣や苦無を打つのは可能としても、堀の中から攻撃の必要性も疑問。

恐らく使い方としては、「水に濡らさないため」だと考えます。忍者は鉄砲も使えますが、火薬は濡らすと使えません。堀を越えて城潜入後の仕事もズブ濡れだと困りますから、「タオル」や代えの服も必要かもしれません。忍者たるもの泳げはするでしょうが、持ち物を濡らさず渡る道具が必要かと思います。

苦無(ピクシブ百科事典)

投擲用の武器、格闘戦のためのナイフ、スコップ・壁を登るための鉤爪、投げ縄の錘(おもり)、水を張ってレンズ代わりにも。様々な用途に用いることのできる万能忍具でサバイバルナイフに近いらしい。

忍者人気はサムライ人気のバリエーションかもしれませんが、「手裏剣を打つ」 とか(多目的に使える)「クナイ」とかそれっぽいと思うのですが、忍者観光にどうか。忍者ってお話のように扱われることもありますが、忍者道具は使えたはずなんですよね。具体的な(実際に使われた)ブツの使い方とかスパイゴッコみたい?で面白そうな気もします。

日本の北方「異民族」アイヌ

2019-02-17 10:39:27 | 日本地理観光
アイヌ民族(ウィキペディア/パブリックドメイン)※アイヌ民族はかつては白人とも言われ遺伝子も日本とはやや違います(北回りで北海道に到達したかもしれませんし、少なくとも北海道のアイヌと和人は長い歴史の間、混交しなかったとも考えられます。オホーツク文化人等沿海州人との混交も考えられます)。

初めて「先住民族」と明記 「アイヌ新法」閣議決定(FNN PRIME)

>政府は、アイヌ民族を先住民族と初めて明記した「アイヌ新法」の案を閣議決定した。
>この法案は、北海道などに先住してきたアイヌを、初めて「先住民族」と明記したうえで、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現」を掲げている。
>そのうえで、サケなどの伝統的な漁法の規制緩和や、アイヌ文化を振興する新たな交付金の創設が盛り込まれている。
>菅官房長官は、「アイヌの方々が、民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代に継承していくことは多様な価値観を共生し、活力ある共生社会を実現するために必要と考えているところであります」と述べた。
>政府は、アイヌ文化の振興を外国人観光客の増加にもつなげたい考えで、今の国会で法案を成立させる方針。

ネットではアイヌ民族が先住民族であるという認定に疑問の声があるようです。

そもそも民族の定義ですが、居住地、血縁関係、言語、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるようですが、ある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもあるようです。アイヌの居住地は北海道・樺太・千島で、各種証拠から北東北にもいたとされ、言語は日本語と系統関係不明のアイヌ語、伝統的宗教は熊送りが特徴的なアニミズム、国家は持たず部族社会だったようで独自の民族として客観基準があり、アイヌとは「人間」の意味で自分達を一纏まりで認識しており、日本人(和人)のことをシサム・シャモ(後者はやや差別的なニュアンスがあるようです)(ロシア人のことはフレシサム・フレシャモだそうです)と呼んでますから、民族概念への帰属意識という主観的基準でも民族として認められるようです。

先住という意味では、アイヌが和人(日本人)に比べて、北海道に先住していたことで異論はありません。ゆえに先住民族で間違いなく、疑問の声があるのはアイヌが日本においては通常目立たない小規模な民族であることから来るのでしょう(その意味ではアメリカにおけるインディアンに類似します。独立論が出るような規模の民族ではありません)。厳密に言えば、日本という国は単一民族からなる国ではないということになります(見方次第で事実上の単一民族の国ということも出来ると思います)。

現代において日本人=日本国籍=日本民族の図式が一般に成り立ちますが(特には誤用と思いません)、厳密に言えば日本人=日本国籍=日本民族+アイヌ民族と見ることも出来ます(戦前は例えば朝鮮人=朝鮮民族が日本国籍を持っていました)。

観光振興ということですが、アメリカのネイティブ・アメリカン観光のようなものを意識しているのだと思います。現状では日高地方の平取町立二風谷アイヌ文化博物館が有名だと思います。アイヌは最近では週刊少年ジャンプのゴールデンカムイでも知られますね(かつて北海道にゴールドラッシュがあったとか)。

アイヌは歴史的には日本から見て蝦夷(えぞ)と呼ばれていました。北海道が蝦夷地です。エゾ=アイヌは通説でこれにまず異論は無いと思います。厄介なのが蝦夷を昔はエミシやエビスと呼んでいたということで、エミシ=アイヌ説とエミシを和人(日本人)の辺民とみるエミシ辺民説とが対立してきました。エミシは昔、愛瀰詩・毛人とも書き、畿内の先住民であるとされたり、毛野国=両毛地域(群馬・栃木)に住んでいた人が毛人ではないかと言われたり、多賀城(宮城県、南東北)や越後(新潟県、渟足柵・磐舟柵)あたりの「服わぬ(まつろわぬ)」民を指したりしますから、辺民説が部分的に当たっている可能性もあると思いますが、何か具体的な(特に文献上の)根拠・証拠がある訳ではないと理解して良いと思います。少なくとも北東北に広範囲に残るアイヌ語地名から、全てのエミシが和人でも無さそうですが、これは後述します。

エゾという用語が使われ始めたのは11世紀か12世紀であるようです。鎌倉時代には蝦夷(えぞ)沙汰職、蝦夷(えぞ)代官という役職があって、これは南北朝時代に蝦夷(えぞ)管領と呼ばれるようになりました。この職は安藤氏(後に安東氏)の世職で、政務を行う役所は津軽の十三湊(とさみなと=江戸前期まで、現代の呼び名。江戸時代後期以降じゅうさんみなととも)にあったようです。この頃北東北はどうも和人(日本人)の居住地らしく、北東北のアイヌ語地名は少なくともエミシに遡るように思えます。エミシをエゾと呼ぶようになった経緯ですが、時期的には中世社会への移行期に近く、鎌倉幕府の成立等とあわせて、移住した関東あたりの武士の方言に関係する可能性があると思います(アイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北方言式の発音により「Ezo」となったとする説も。出典:小泉保(1998)『縄文語の発見』青土社)。

擦文文化の成立過程と秋田城交易(北海道博物館研究紀要 鈴木琢也)を参照すると、8~9世紀は、擦文文化と東北地方土師器文化との物流・交易が活発になる時期のようです。渡島蝦夷、渡島狄との交流も史料に見え、考古学的に交易も確認できるようです(秋田城が拠点とも)。渡島が北海道ですが、今も北海道南部の半島を渡島(おしま)半島と言います。注意すべきは東北地方土師器文化で、これを完全に和人(日本人)と見るべきではないのではないかと思います(そう見ると北東北のアイヌ語地名を理解しにくくなります)。後述するように樺太アイヌと北海道アイヌの文化は違っており、単に日本人と隣り合っていたから似たような文化だったのであって、民族は言語系統で判別されるところが大きいように思います。蝦夷(エミシ)の地の古墳を考えてみるのも面白いかもしれません(蝦夷の古代史/工藤雅樹著 平凡社新書071 2001)。水田農耕の早期の北東北への到達が明らかになったことで、蝦夷(エミシ)=辺民説が有力にもなったようですが、必ずしも技術=民族ではなく(インディカ米の産地が全て同一民族でしょうか?)、北東北のアイヌと技術の受容、同化の過程について考察しても良いでしょう。同一地域に異なる民族が住むことも、世界史では割合通常のことです。

鎌倉時代には北の「元寇」があったと言われ、元とアイヌが交戦したことで知られるようです。樺太の白主土城がアイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、元の前進基地だったとされるようです(アイヌとモンゴルの戦い モンゴルの樺太侵攻 1264年の遠征 1284-1286年の連続攻撃 個人ブログ)。樺太アイヌはミイラ作成で知られるようですが、東夷之遠酋・俘囚之上頭を自称する藤原氏のミイラ(中尊寺)との関連性も指摘されるとか(オホーツク文化圏でも北海道でもミイラ作りは行われないようです)。

樺太アイヌは北海道アイヌや千島アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られますが、ルーツは余市あたりのアイヌにあるとも言われるようです。大陸文化の影響で独自の文化を育んだ可能性もあると思いますが、千島アイヌ語に比べると比較的言語資料が多く残っているようです。南樺太がソ連に占拠されて以降は、北海道に移住したとか。山丹交易や蝦夷錦でも知られるようです。

樺太には他にウィルタ・ニヴフといった民族が先住しており、ウィルタがツングース系(満州系)で、ニヴフ(ギリヤーク)の話す言葉は系統不明で孤立した古シベリア諸語のひとつとされるようです(アイヌ語も系統不明で孤立した言語とされます)。ニヴフは道東オホーツク沿岸の海獣狩猟や漁労を中心とした異質の文化オホーツク文化の担い手と見る説も有力です。日本書紀にでてくる粛慎(みしはせ、あしはせ)はオホーツク文化人だという説も有力だとか(トビニタイ文化から擦文文化人(後のアイヌ)に吸収されたとも)。樺太探検で知られるのは徳川将軍家御庭番である間宮林蔵です。オホーツク海の流氷は有名ですが、氷結した沿海州アムール川の氷だということも知られますね。

千島アイヌ(ウルップ島以北のアイヌ)はより南のアイヌと異なる伝統を持っていたようですが、日本とは没交渉で謎が多いようです。進出は比較的遅かったとも。

ここで北東北のアイヌ語地名ですが、筆者はアイヌ語地名で疑いないと考えます(例えば、アイヌ語地名の日本語化の型(鏡味明克)が学問的かつ詳しいように思います。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる金田一京助も東北のアイヌ語地名を濃厚に発見したようです)。北海道と同じナイ地名が北東北にあって、その量が多ければアイヌ語でないと考える方が難しいものだと思います。これは北東北の沿岸部に限らず、沼宮内(ぬまくない)のような岩手北部や比内(ひない)のような秋田北部にも広がりますから、北海道のアイヌが来たというようなレベルの話ではなく、元々北東北に住んでいたと考える以外に説明はつかなそうです。

前述したように元々エミシがアイヌを呼んだという証拠はありませんが、畿内から見て東北あたりのまつろわぬ民=エミシの中にアイヌが含まれることは間違いないんだろうと思います。学説的にも7世紀以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力だとされ、蝦夷に対し中央政府側に通訳がついていたそうで、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定されているようです(宇野俊一ほか編「日本全史」講談社、1991年)。考古学的にも古墳時代の寒冷化に伴い、北海道の道央や道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達したとも。

蝦夷という漢字ですが、蝦(エビ)と夷に分けられるように思います。夷狄とは中国からみた周辺異民族を指す言葉で、蝦狄という宛て方もあったようですから、夷という漢字は見たままの意味なのでしょう。蝦(エビ)はエビ色の用例があり、和語の「えび」は、元々は(山)葡萄、あるいはその色のことだったのだそうです。樹木シリーズ58 ヤマブドウ(森と水の郷あきた)参照ですが、秋田の人やアイヌはブドウの皮を履物・袋・漁具等に利用したようですし(北海道のアイヌは、ヤマブドウの樹皮でシトカプ・ケリ(葡萄蔓の靴)と呼ばれる草鞋を編んで履いていた)(儀礼用の冠・サパンペも、ヤマブドウの樹皮を芯にして作る)、薄紫色に染めることを「葡萄染(えびぞめ)」というそうです。あるいはエビ色の異民族に見えたから蝦夷という漢字を宛てた可能性もあると思います。長野県北部にはヤマブドウを使った伝統の民間療法が残っており、茎をつぶして、虫刺され時に塗る。葉は噛んで蜂刺されに塗り、果実は貧血によいと言います。山葡萄は古名を「エビカズラ」(葡萄蔓)とも言い、あるいは縄文時代から山葡萄は利用されてきたのかもしれません。寒さやお酒による赤ら顔も関係あったかどうか。

漢字はともかく、エミシ・エビスは元々日本人からみて異民族を指したのでしょうが、語源はよく分かりません。用語としてはエミシの方が古いようです。エビスのエビはエビ色+衆の可能性もあるでしょうか。

余談になりますが、日本の異民族として南九州の熊襲や隼人も知られますが、熊襲は風土記では,球磨噌唹 (クマソオ) と連称されており、クマ(人吉盆地)+ソオ(大隅地方・鹿児島県東部)だったのでしょう。ソオはよく分かりませんが、クマは目の隈に近い意味でクマ川≒黒川といった意味かもしれませんし、曲川かもしれませんが、いずれにせよ日本全国に広がる一般的な地名のようです。付近で言えば阿蘇が麻生で一般的な地名のバリエーションの可能性もあると思います(関連して木曽はキソウで木が生えるところかもしれません。曽は本来ソウと読みます)。琉球王国は独自の歴史(書)を持ちますが、民族的(言語的)出自は日本で南九州も同様だろうと思います(海民が島に渡ったろうことを考えると、肥前・肥後と薩摩といった西回りが南西諸島と関係が深そうです)(廃藩置県で沖縄県になって以降、琉球民族というより、沖縄県民と見るべきだと考えます。フランスやイタリア・スペインも結構地域性があるらしいですが)。いずれにせよ、アイヌは縄文人の子孫であるにせよ、沖縄と違って系統関係が異なることに注意が必要だと思います。漢民族とモンゴルの関係が証明されないように、隣り合う民族が必ずしも近縁関係を証明できる訳ではありません(同じに分類される土器を使っていたからと言って同じ民族だと証明されません)。

鎌倉時代後期(14世紀)には、蝦夷(えぞ)は「渡党」、「日の本」、「唐子」に分かれ、渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(諏訪大明神絵詞)が残っているそうです。蝦夷が北東北にいたことを踏まえると、渡党とは蝦夷地に渡ったエミシ(ゆえに和人と混交が進んでおり二言語を操る)かもしれませんし、渡島の蝦夷だったから渡党かもしれません。渡党=和人説もあるようですが、日本語を操るアイヌが次第に同化したと考える方が妥当のような気がします。

道南十二館(どうなんじゅうにたて)(内4つは史跡)は、蝦夷地渡島半島にあった和人領主層の館の総称ですが、渡党と共存していたようです(遺跡にアイヌの居住の跡も見られるようです)。秋田氏(旧・安東氏)から独立した花沢館主(上ノ国町上ノ国。上ノ国遺跡は中世都市とも言われるそうです)の蠣崎氏(糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)と関係がある可能性も)が、後に松前氏になり、江戸時代の松前藩の蝦夷地支配に繋がるようです。

唐子(からこ)は日本人と接触の薄かった日本海側の(後の)(北海道以北の)アイヌを指すと思います。あるいは後の樺太アイヌが含まれるのでしょう。大陸との交易が古くからあったとも考えられ、ゆえに唐(から)という字が使われるのでしょう。樺太の語源は不明のようですが、唐子の唐、つまり大陸と関係ある可能性もあると思います。日ノ本は通常日本を指しますが、日本よりより東の地域ということで太平洋側のアイヌを日ノ本の呼んだと考えられます。東北地方も日本海側と太平洋側で結構文化が違うようですが、特に渡島半島の山は結構深い感じで(ヒグマも出るでしょうし)、海上交通が主体で日本海と太平洋岸という文化の分かれ方をしたんだろうと思います。ただ、道央あたりは日本海側と太平洋側の文化は繋がっていたかもしれません。いずれにせよ、いずれも日本から見た(日本が名づけた)呼称なのでしょう。

アイヌ文化で言えば、サイモンという神明裁判が行われていたようですが、これは日本の古代や室町時代の記録にも見られ、盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)といううけいの一種であるようです。鉄器は交易で和人から手に入れていたようですが、アイヌ文化は独自の文化を保ちながらも、歴史的に隣り合う日本の影響もあったと考えられます。

チャシは諸説あるようですが、基本的には防御用の砦なのでしょう(コシャマインの戦いの戦いなどしばしば反乱は起こっています)。日本も山城が方々に山城が築かれましたし、沖縄においてはグスクが知られます。グスクは宗教的な場でもあったらしく、複合的な意味があったかもしれません。結局、統一的な国家が建設されるより先に日本人が支配した感じになるのは、人口希薄で日本以外の文明の地から遠い事情があったかもしれません。

ネットではアイヌ文化と左翼利権の関係性も指摘されますが、健全な発展を望みたいものです。アイヌ文化は樺太・千島・沿海州や東北・北海道の歴史にも関係が深く、それ自体価値があります。

JR北海道と観光列車、そのルート

2019-02-15 23:06:05 | 日本地理観光
細岡展望台から望む釧路湿原と釧路川(クシロシツゲン細岡天王堂大01.jpg ウィキペディア)

東急やJR東日本など、観光列車でJR北海道を支援(日経新聞 2019/2/12)

>東急が投入する観光列車「ザ・ロイヤルエクスプレス」は2020年から札幌―道東間で走る。

路線が気になって検索したところ、2016年8月31日に北海道に上陸した台風10号による被害発生後、根室本線「東鹿越駅-新得駅間」の運行休止が続いているようで、じゃあどうするのかと思いましたが、札幌-道東間の都市間鉄道はそもそも石勝線が担っているようです。

富良野-新得の維持に危機感 沿線関係者 バス転換認める声も(北海道新聞 2018/11/20)

>「石勝線が使えない場合の代替機能も」
>「代行バスが走り、不便はない。町の人口や高校生の利便性などを考えるとバス転換し、便数を増やすのが現実的」

2年半も復旧してないのが不審で調べたのですが、根室本線「富良野駅-新得駅間」がJR北海道によれば単独では維持することが困難な線区(2016年 JR北海道発表資料 pdf)として発表されており、どうも採算の取れなさからあえて復旧していないようです。石勝線開通後は特急列車の運行が無くなり、現在は極端に利用が少ない線区なのだそうです。JR北海道特有の問題として、冬期の除雪の問題もあるようで、過疎地ならバスの方が費用対効果はあるのだと思います。廃止すると旭川-十勝間の連絡が少々悪くなる気もしますが、ノースライナー号(帯広~旭川)(北海道拓殖バス)もあるようですからまぁ何とかなるようには思えます。

JR北海道の経営が無理ゲーにもほどがある件について(Rail to Utopia 東京の都市交通を考えるブログ)

JR北海道の経営が厳しいというのは周知の事実ではあるのですが、断トツみたいですね(四国も厳しいと言えば厳しいですが)。先のJR北海道のpdfも併せてみる限りでは、そもそも極端に利用者が少ない路線は早めに決断するべきでしょうし、高速道路の開通でまだまだこれから利用者が大きく減るような気がします。

さて札幌―道東間の鉄道ですが、十勝平野の風景は見所になるのかもしれません。十勝の農業がよい意味で北海道の農業のイメージ(例えば人気漫画「銀の匙」の舞台)で巨大なことで知られます。日本においては断トツの規模の北海道農業(農業生産額 [ 2010年第一位 北海道 都道府県別統計とランキングで見る県民性])(離れますが二番三番は鹿児島・宮崎で南九州らしい)。

札幌-釧路間、"特急スーパーおおぞら"の楽しみ方(地球の歩き方)

>広大な畑が広がる十勝地方からが北海道らしい風景
>刈り取った豆を積み、てっぺんに青いシートをかける「ニオ積み」が秋の北海道の風物詩

田舎の農村=田園風景に慣れた人には新鮮に映りますね。


眼下に広がる白い海 北海道占冠村の「雲海テラス」(YouTube)

根室本線が元々のメインルートで建設した時には、後に石勝線がメインになろうとは誰も思わなかったでしょうか。ついで道東で列車と言えば釧路湿原。

2018年 くしろ湿原ノロッコ号運行(釧路・阿寒湖観光公式サイト)

JTBの観光列車に関する調査で大人気らしい。自然が美しく雄大なことで知られる北海道の中でも釧路湿原は唯一無二なの感じはありますね。動物を見るためかゆっくり走ってくれるようです。

「観光列車」についてのアンケート調査(JTB)

観光列車を選ぶ理由は見た目重視。観光列車に興味のある人は多く、観光列車に乗るために旅先を決める人も多いようです。一緒に乗りたいのは配偶者、次いで家族。旅の目的はパートナーとの親睦・休養という人が多いのだと思います。

「くしろ湿原ノロッコ号」の他に道東なら、知床連山を彼方に望みながらオホーツク海沿岸を走り、冬の大海原を流氷が埋めつくすダイナミックな景観を車窓から楽しめる「流氷物語号」や汽笛を鳴らしながら冬の釧路湿原の雪中走行が魅力の「SL冬の湿原号」も有名なようです(下記たびらい記事参照)。

観光列車(SL、トロッコ列車など)(たびらい)

見た目重視ぶりが意外と分かっているJR北海道。特急旭山動物園号は子供が食いつきそう。内装をも動物のイラストやぬいぐるみで賑やかに飾られており、絵本も準備されているようで、家族連れに最適か。旭川近くで言えば、富良野線沿線の美しい花畑や丘などの景色を楽しめる「富良野・美瑛ノロッコ号」も観光列車で知られるようです。

北海道での事業の歴史が古い東急。札幌観光と車窓の景色、道東観光を併せて楽しめる観光列車投入で北海道における事業とのシナジー狙いでしょうか。「ザ・ロイヤルエクスプレス」なら乗車自体楽しめそうです(伊豆の観光列車 「ザ・ロイヤルエクスプレス」 煌びやかなその車内 鉄道新聞)。

JR東が「びゅうコースター風っこ」を投入する宗谷線は秘境の旅が売りになりそう(道央道北・乗り鉄の旅(その13):宗谷本線の車窓・絶景と秘境駅を眺めながら(その1) 鉄宿! 鉄道の見えるホテル・旅館 完全ガイド)

鉄オタ、秘境マニアの聖地でしょうか。費用対効果で秘境の路線も何時かは・・・なんてことになる前に?(鉄道の需要を下げる)高速道路の建設もこれからでそれもいろいろ論点ありそうですが(北海道に高速道路は必要だと思いますか???? Yahoo!知恵袋)。別に北海道のインフラ整備にお金をかけるなというつもりは全くないのですが、北海道胆振東部地震で、何処にかけるかという論点があってもいいんじゃないかと思いました。守るべきはキチッ守る。そうでもないことは優先順位を下げるのような。

“廃墟マニア”の聖地・軍艦島から世界遺産へ - 秘境写真家・酒井透(TOCANA)

廃墟マニアと秘境マニアの相性がいいのだとしたら、失礼ながら秘境も廃墟も多そうな北海道はその意味でもポテンシャルがあるのかもしれません。

意外と沢山⁉日本にあるラピュタ風な場所10選(snaplace)

廃墟は映えてるんだか、映えてないんだか分かりませんね。 少なくともキラキラはしてませんがw 軍艦島は維持費がかかるらしく、どうペイさせていくかは課題なのかもしれません。

続いて北海道と鉄道と言えば北海道新幹線で道南渡島半島を見て終わりとします(ニセコ・小樽あたりは既に著名観光地ですしまたいずれ)。

「ながまれ号」に乗ってきたよ。(往路編・函館→上磯→茂辺地)(どさんこカメラ)

JRではない道南いさりび鉄道株式会社。でも函館新幹線を木古内で降りて「ながまれ号」で函館観光に向かうのはひとつの正解かも。車内w

見て、触れて、動かせる。鉄道で栄えた長万部の歴史しのぶ「鉄道村」(北海道ファンマガジン)

旧国鉄時代の貴重な鉄道グッズが並ぶ空間「鉄道村」ですが、職員が常駐している施設ではないのだそうです。北海道新幹線の駅ができる長万部(おしゃまんべ)駅の名物が「かにめし」というのは知ってましたが、桃鉄知識(※国民的ゲーム「桃太郎電鉄」。製作者は週刊少年ジャンプの黄金期を支えた名物コーナージャンプ放送局のさくまあきら氏。実際に食べて美味しかったものを知名度関係なくゲームに登場させているという(桃鉄が旅行で役立つ!「桃太郎電鉄」をガイドブック代わりにする方法))。思わぬところで知名度?

北海道新幹線「新八雲駅」要らない説と戦おうと思ったもののひとまずギブアップ。退避駅等いるから造ったとは思いますが、観光面でこれといったアイディアが出せません(檜山・乙部方面へのアクセス改善!雲石峠に新ルートが開通します。)。国道277号で八雲町方面へ通じるらしく、檜山に通じる産業・観光道であると共に生活道としての側面も大きいのかもしれません。

戦国時代シミュレーションゲーム「信長の野望」で意外と知名度がある?蠣崎氏(武田氏・松前氏)の日本海側での政治・軍事・交易の一大拠点の山城が史跡上之国館跡勝山館跡(上ノ国町)。約5万点の陶磁器を始めとして出土品多数の中世都市。

アイヌ新法で注目が集まる北海道の先住民アイヌですが(日高地方平取町二風谷が有名ですね)、筆者としては道南におけるアイヌと和人(日本人)の関わりに特に興味があります。観光資源としての可能性もあるかも。その辺はまた近い内に。

ビロウが自生する北九州の地名で解する国産み神話

2019-02-12 22:02:19 | 日本地理観光
ビロウ.jpg(ウィキペディア) 神奈川県藤沢市江の島(江ノ島植物園)Kafuka1964

海を隔てるビロウ自生地と古代太陽信仰(海洋政策研究所)

>小呂島の近世までの古名は「於呂島(おろのしま)」である。
>国生み神話で生まれたとされる壱岐・対馬が近く、他に生まれた大島・姫島(神話では女(ひめ)島)などと同名の島も近い。
>ビロウはヤシ科の植物で、古来から天皇制との関わりが深く、アジマサやホキなどとよばれた。その葉は古代の天皇・皇后・皇子・公卿が使う牛車の屋根材として使われていた。
>沖縄の御嶽(うたき)という神聖な場所にはビロウが繁殖しており、神が降りる木としてあがめられている。
>小呂島の隣の沖ノ島は、ビロウの最北端自生地であると同時に、海の正倉院ともいわれ、10万点もの古代の宝物が発見された名実ともに神の島だからだ。

おろとは何?(Weblio辞書)

【尾ろ】「ろ」は接尾語尾 → 尾ろの鏡(Weblio辞書)「山鳥の尾ろのはつをに鏡かけとなふべみこそ汝(な)に寄そりけめ/万葉集 3468」からでた語
中世の歌語。語義未詳。異性への慕情のたとえに用いられる。山鳥の尾の鏡。はつおの鏡。 「山鳥の-にあらねどもうき影みてはねぞなかれける/土御門院御集」
【悪露】分娩後,五,六週間にわたって子宮および膣から出る分泌物。リンパ液・血液・粘液・細胞組織片などからなる。おりもの。
【疎】( 接頭 )「おろそか」 「おろか」などの「おろ」と同源。動詞・形容詞などに付いて,十分でないさまを表す。不完全,わずか,などの意。 「 -覚え」 「 -癒ゆ」 「 -よし」

つまり記紀神話の国産みで最初に生まれた不完全な島を想起させるものがあります。勿論最初の島は磤馭慮島(おのころじま)であるとか、伝承から場所は淡路島付近だとか、不完全に生まれたのは島ではなく、神ではないかといろいろ突っ込みどころはあるのですが、オロの島のオロに他に意味もなさそうですし、玄界灘に浮かぶ島というのは、そもそも大陸・半島に渡る航路上にあって、対馬や壱岐と同じく重要な役割を果たしたことは間違いない訳です。そもそも大和朝廷以前の倭国(日本)の中心地が北九州だったことは、考古学上、中国の文献上、地理的観点から間違いないと思われます。勿論大和朝廷においても大宰府を置く等、大陸・半島への窓口として北九州に特別な意味はありました。世界遺産宗像大社は北九州の海の神社です。玄界灘の島が記紀神話に多く登場していたとして不思議はないところはあると思います。

能古島(のこのしま)(アイランドパーク)が文献に登場するのは平安遺文で文献上は古代の重要な島ではないようですが、志賀島と並んで博多湾に浮かぶその場所が問題です。島の名前がノコノシマですから、御をつければ(つけていいかは微妙なところはあります。御津や御浦・御島はミであり三だったりします)オノコノシマ→オノコロシマで意味がよく分からないオノコロの意味が納得できるような気がします。ノコは和語の鋸と推測します。古墳時代における鋸は「装身具などの加工用、つまりヤスリみたいなものだった」そうですが(鋸の発展史・年表 RAZORSAW)。木を切るのは斧という訳ですが、だとしたらヤスリとして使った鋸は何に使ったかということですが、筆者としては勾玉の加工用かな?と思わなくもないですね。基本的には砥石で磨いたようですが、ヤスリでも磨けるようです。鏡や剣も同じかもしれませんが、鋸=ヤスリであれば、磨き職人みたいな仕事があって能古島に住んでいたと想像できなくもありません。愛媛県には砥石の産地に砥部という地名があります。三種の神器といった宝物を始めとした装身具が出土するのですから、それを磨いたり、作成したりする職人が古代にいておかしくありません。ノが入る島名としては隠岐の島ですね。まぁ想像ではあって、鋸の古代の読みはノホキリだとか、九州のその時代に出土するのかとかいう疑問はあるのですが、珍しい地名であり、ノコノという言葉に「鋸の」以外の解釈が思い浮かびません。

そう考えると、先に触れた小呂島はヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)そのものではないかという気がします。ついで生まれたというアハシマが玄海島(古くは久島といったそうです)なのかもしれません。共に能古島から流される位置にあります。

おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島(あはしま) 自凝(おのごろ)島 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 放(さけつ)島見ゆ

古事記記載の仁徳天皇の歌として知られますが、日本書記にはないようです。吉備の文脈で明らかに難波と淡路島あたりの話ですが、更に後述していきますが国産み神話と北九州の関係を念頭におくと違和感があります。淡路島はいいとして、オノゴロ島が淡路島南方の沼島(ぬしま)とも言われますが、これが重要な役割を果たしたと考えにくいところがあります。大和朝廷は九州方面に向かうのに明石海峡を通ったはずですし、仮に南回りしたとして、淡路島南方の小島の重要性は理解しにくいものです。吉備との間の淡路島あたりに他に重要な島があるでしょうか?

檳榔はホキ(蒲葵)で古くは本土に自生したと言われるようですが(角川ソフィア文庫古事記)、怪しいでしょう。和歌山あたりには自生したかもしれず、熊野が宗教的に重要視されたのも、皇室でビロウが重視されたからであり、その生産地だったからかもしれませんが、大和に自生した政権が紀伊の植物を特に重要視した経緯が見えてきません。話は逆で(紀伊ありきではなく)、ビロウを利用する文化ありきだったと見るべきでしょう。そもそも神武天皇はヒムカから来たと明記されています(日向(宮崎県)の勢力が大和に向かう経緯が日本史視点で理解困難であり、遺跡という物的証拠が存在しませんし、海民が陸の勢力を押しのけた歴史が日本に存在せず、大和に海路来て大和を支配するような勢力とは唯一元々の倭国の本拠地である北九州の勢力のように思えます。ヒムカは必ずしも特異な地名ではなく、北九州にも存在するようです。文化として重要なビロウ=南国ですし、魏志倭人伝を参照すると邪馬台国=日向のようにも見えますから、神武天皇が日向から来たという話は理解が難しいものではありません)。つまり淡路島あたりに檳榔の島が存在すると思えず、島そのものがあまりないことと併せて、これらの島は幻だとも言われています。また、檳榔は沖縄ではクバであり、日本の南国に神聖視する文化があるようです。

しかし仁徳天皇は何故幻の島等見てしまったのでしょうか。吉備の黒姫に恋しておかしくなってしまったのでしょうか?これは北九州の歌ではないかと考えると理解できそうです。難波は「なにわ」で魚庭説もあるようです。その妥当性はさておき、ナに注目するべきでしょう。大和朝廷以前、北九州博多の大国は奴国(なこく)です。博多湾岸・近辺の大陸や半島・畿内に向かう航路上に島が点在しており、重要な役割を果たしていたことは明らかであり、祭祀遺跡等物的裏づけも散見されます。仁徳天皇の歌とされる歌ですが、北九州の歌を仁徳天皇の歌として持ってきたと考えるとストンと落ちるところがないでしょうか?この歌だけ見れば、必ずしも吉備の黒姫に関係ありません。ナの港やアワ島に絡む歌なら、百舌陵の天皇の歌として採用されてもおかしくはないように思えます。国産みのオノゴロ島が登場するなら、最大規模の陵を持つ大帝の歌にも相応しいと言えるでしょう。仁徳天皇は日本書記では新羅関連で業績もあって、北九州に縁がないとも言えません。

問題の檳榔ですが、ビロウが通説・定説で問題はないでしょう。これは明らかに南国の植物ですが、北九州には自生もしており、宗像三宮の沖津宮がある沖ノ島が亜熱帯性植物の北限でビロウも生えているようです。大阪と福岡の平均気温に大差ないような感じもなくはないですが、実際のところは全然違っており、(大和朝廷のあった)奈良(奈良も広いですがここでは奈良市)(盆地でやや寒いと言えます)(14.9度)と福岡(17度)の平均気温は2度ほど差があるようです。奈良から2度寒い日本とは福島(13度)になることに注意が必要でしょう。ちなみに新潟は13.9度、東京は15.4度です。勿論現代で都市はヒートアイランド現象で暑くはなっているのですが、畿内と比べて北九州は結構暑いと考えて良いようです。北九州自生の文化がビロウを自然に利用したのであり、大和に移っても文化は受け継がれたと考えれば(付近に紀伊という供給地はありました)、疑問は氷解します。一般に最初の農耕文化は拡散します。こう考えると弥生人=朝鮮人説はほぼ100%有り得ないことも分かってきます。朝鮮という国は日本より寒い訳です。ビロウを利用する文化が育つはずもありません。稲作伝来絡みでじゃあ呉越人だろうという話もあって、ここでは詳述しませんが、距離が有り過ぎ、それも有り得ないとだけ書いておきます。何故人が絶対に移動しないといけないのか、文化が伝播しちゃいけないのか何時も不思議に思っています(スーツを着ていても我々は西洋人ではありません)。いずれにせよ、檳榔の島を読んだ歌とは北九州の歌そのものではないでしょうか?南九州の歌だと考えると、何処・何故?ですし、東シナ海ルートは遣唐使で難破しまくりの危険ルートです。国見歌という話ですが、北九州の勢力がたった今外国に向かう時に歌う歌と考えた方が、理解しやすいように思えます。蛇足かもしれませんが、玄海島の古名久島(くしま)ですが、沖縄方言のクバ(ビロウ)と関係があったりはしないんだろうかと考えなくもありません。ク=ビロウと考えると、ク島=檳榔島と読めますし、ク葉がクバに転じたとも考えられます。ビロウの葉は特徴的ですね。先に小呂島はヒルコではないかとしましたが、ビロウがあるなら檳榔島も考えられます。

アハ島ですが、徳島県が阿波国として知られ、淡路とは阿波路とも言われますが、房総半島南端の国も安房です。アワとは粟で記紀における五穀(米・麦・粟は相違なく、後は豆(大豆と小豆)で、稗(ヒエ)が入るか入らないかです。黍(きび)が重視されることもあるようです)。黄河文明の主食が粟だったようで、稲作より早く縄文時代から粟は日本に存在したようであり、新嘗祭でも使われるようです。濡れ手で粟の諺もあり、馴染みがある言葉ですが、小さいものの喩え・表現として、粟が用いられることがあるようです(粟散(ぞくさん)=あわ粒をまいたように細かく散らばっていること)。用例としては平家物語における「さすが我朝は粟散辺地の境」、太平記における「いわんや粟散国の主として、この大内を造られたる事」そう考えるとアワ島とは小島と考えることも出来ますし(特に外国を意識した)、粟島と考えることも出来ます。徳島県阿波郡に粟島村がかつてあり(吉野川中の島か)、安房国は房総半島南端の小さい国です。先に玄海島ではないかとしましたが、能古島や志賀島以外に博多湾から半島・大陸に向けた航路上の小島は(他に小呂島、やや外れていいなら相島・沖ノ島)幾つもあるようです。

最後に放つ(さけつ)島ですが、離れ島と解するのが一般的なようで、だとすると沖ノ島が相応しいようにしか思えません。

北九州と記紀神話の関係を示唆したところで、先に古事記の島産み2部に言及します。

古事記の島産みパート2:吉備兒島・小豆島・大島・女島・知訶島・兩兒島

吉備児島と小豆島は間違えようありません。筆者に言わせれば、考古学という物的証拠と中国の書(魏志倭人伝)から大和朝廷の倭国(日本)成立時に吉備(恐らく投馬国)が果たした役割は大きく、それは記紀の記述からも裏付けられるということになります。吉備(備前)の児島は今は干拓で陸続きになっていますが、吉備地方の大きな島だったでしょうし、製塩も行われていたようです(塩は専売されたように重要な物資です)。小豆島も古代は吉備国児島郡に属し、中世まで本州側の島でした。最初にこのふたつの島が挙げられているのは、国生み(正史である日本書記)で本州とそれに近い淡路島や四国から国がつくられていった話に似ているような気がします。残る4島ですが通説は間違っており、筆者は全て北九州の島ではないかと思います。大島・女島は瀬戸内海上の島ですが、歴史的にそれほど存在感はなく、古代史的意味もそうあるように思えません(大島=周防大島説はまだあるとは思いますが)。最後の二つは五島列島に比定されますが、古代はどう見ても半島ルートが重要で(魏志倭人伝・任那・三韓征伐等)、筆者は危険な東シナ海横断ルートを後の技術が発達した時代、あるいは軍事上の要請がある時代(日本と新羅が敵対していた時代・呉が魏と敵対していた時代)にしか認めない立場です(漂流等は別として)。日本史上、五島列島あたりが重要になってくるのは後にしか思えないところがあるんですよね。弥生時代に呉鏡は出土するのですが、例外だと思います。ですから、吉備の2島に続く島とは全て北九州の島ではないかと。特に宗像の大島と志賀島は明らかに重要です。

大島(宗像観光ガイド)

宗像大社は世界遺産ですが、宗像三宮「沖津宮 中津宮 辺津宮」の内、中津宮があるのが大島です。魏志倭人伝の奴国の次が不弥国ですが、その次の投馬国が水行20日の大国ですから(吉備しかないと思えます)、昔から不弥国は津屋崎町説があって、伊都国~奴国間の距離と奴国~不弥国間の距離が等しいように書いてますから(ただしかかる日数を含めて過大です。これは魏が呉を牽制するために大きくしているという説もあり、クシャーナ朝と並べようとする意図があるとも言われます)、割合妥当のように思いますが、もう少し距離をみていいなら、辺津宮あたりも考えられるのではないでしょうか。奴国の20分の1以下の小国ですから、遺跡が寧ろあまりないところが不弥国で、なおかつ記載があるということは何らかの重要な役割を果たしていたのだろうと思います。宇美説とか内陸部説は次の水行がありませんから、それだけでアウトでしょう。小国ですから海岸部も有していたと見ることも出来ません。ここと確定することは難しくとも奴国から北に向かってそう遠くない海岸部と考えて間違いないと思います。方角が問題ですが、確実に場所が分かっている末廬国(松浦)~伊都国~奴国も東南行ですから(何処に起点を置くかにもよりますがおおざっぱにみて実際は東行あるいは東北行に近いと思われます)、方角が正確でないことは始めから確定しています。そもそも倭国自体、呉の付近にあるかのように書かれていたり、南方系習俗が強調されていたりで、(呉に近い大国と魏は仲が良いのだからせいぜい気をつけろと)これまた呉を牽制する意図があるとも言われます。ただ、そうした歪曲・誇張があるとしても、名前や内部の個別の規模感で嘘をつく必要はないと思われ、(日本の史料や考古学等を参照しながら)慎重に考えれば十分役に立つ史料だと言えると思います。いずれにせよ、宗像三宮は博多からそう遠くない海岸部の歴史ある神社ですし、魏志倭人伝でも大国奴国のそう遠くない次に(投馬国に出発する前に)わざわざ名前を残しておきたい国があったのは間違いないんだろうと思います。副官は奴国と同じく卑奴母離(ひなもり)。これは夷守(ひなもり)だと言われ、奈良時代以後も使われた言葉で各地に地名等残っているようです。そして宗像三宮は沖津宮・中津宮で2つの島を抱えており、中津宮が大島です。大島は博多~畿内間、あるいは大陸・半島~畿内間の航路上にあって北九州の重要な位置にある島だと言えます。

姫島(糸島市)

糸島は伊都国(邪馬台国の倭国の九州の窓口)(伊都国歴史博物館 糸島市)との絡みで重要で姫島は糸島半島西の航路上に存在します。平原(ひらばる)遺跡は川の流路から西側と言えるような気もします(曽根遺跡群(平原遺跡)糸島市 個人ブログ)。平原遺跡からは日本最大の鏡5面を含む40面の鏡が出土し、全て国宝なのだそうです。鏡と言えば三種の神器のひとつ八咫鏡や魏志倭人伝の「卑弥呼の鏡」でないかと言われる三角縁神獣鏡等が知られます。魏志倭人伝で壱岐の次に到達しているのは末廬国(松浦)であり、元寇も松浦や鷹島に来ているのも知られます。平野部の大きさや筑後平野との繋がりを考えると、北九州の中心地は基本的には博多ではあるんでしょうが、日本こそ半島や大陸の技術や交易を欲していたと考えると、海流の関係で日本から見て大陸との窓口はより西が正解だと思われます(逆に向こうからは来にくいので「海賊」はやりやすいとも言え、後の瀬戸内の事情を見ても水運と海賊の境界線は曖昧だったように思います)。いずれにせよ、考古学的見地から半島・大陸との交渉の関係で糸島半島が弥生時代に栄えたことは間違いなく、魏志倭人伝においても王が居たと特記され使者が往来するときには必ず立ち寄っていたようです。糸島半島の東か西か(あるいは北かもしれませんが)どちらに伊都国の拠点があったか(あるいは中央部にあるとしても何処から上陸したか)に関して言えば、大国奴国との距離を考えると西の可能性が結構あると思います(東だと奴国に含まれてしまいそうです)。人口が少ない感じで誤記の可能性もありますが、女王国に属していると書かれており、この時点で出先機関として小規模かつ重要だったと考えることも出来ます。いずれにせよ、姫島は糸島半島の西にあって、伊都国の港が西側だったとすれば、重要な位置を占める島だったように思えます。姫(ヒメ)は記紀でも比女・比売とも書かれ頻出する用語で、卑弥呼にヒメコ説もあります。皇祖神天照大神も女性神で、伊勢神宮に祀られるのも天照大神と豊受大神(古事記では豊宇気毘売神(トヨウケビメ)と書かれる女性神)、魏志倭人伝の倭国のリーダーは女王です。姫島とは重要な役割があった島だったとも考えられます。

志賀島(しかのしま)(日本の島へ行こう)
ウィキペディア「志賀島」2019/2/9
>古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。
>筑前国風土記逸文に神功皇后の三韓征伐の際に立ち寄ったとの記述が見られ。これには古代の半島・大陸との海上交通における志賀島の泊地としての役割が反映されていると考えられる。地名説話として、志賀島が「打昇浜」(うちあげのはま、海ノ中道)と連なりほとんど同じ所といってよいということから、「近島」とよんだものがなまって「資珂島」となったのだと伝えている。
シカ(鹿?)の島だと寧ろ意味が通らず、近島とした方が和語として理解しやすいように思えます。言わずと知れた金印の島で、博多湾に浮かぶことからも奴国の島だったことは間違いないんでしょう。博多湾の重要な島として異論はなさそうで、国産み神話で特に言及されて不思議がない島です。

白島(しらしま)・[男島・女島](日本の島へ行こう)

最後の兩兒島ですが、白島(男島・女島)に比定しました。今では全く目立たない島ですが、関門海峡を大和側から抜けた沖にある注目すべき島のように思えます。祭祀上の意味としては、九州と本州という当時の二大島を臨むという意味がありそうです。男島がやや大きく(今は残念ながら石油備蓄基地があるようです)北東側(本州側)、女島が小さく南西側(九州側)です。周辺に他に島もなく、正に双子であり、歴史的な瀬戸内海航路の重要性を考えれば、この島が重要だったと考えて不思議はありません。

どうやら記紀神話と北九州が一般に言われているより、随分関係が深いことが分かってきました。元々倭国が北九州発祥は明らかです。記紀は明らかに大和のものですが、その影響はどうも伺えるようです。それを踏まえて国産み(古事記の島産み1部)神話を検証してみましょう。テキストには古事記を使用します。日本書記の方がいいのですが、説が多過ぎ順の異同等あります。以下「イザナミ、淡路島と伊予之二名島(四国)と隠岐諸島を生む」よりコピペ。

淡道之穂之狭別島あわじのほのさわけのしまを生んだ。
次に伊予之二名島いよのふたなのしまを生んだ。この島は身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。すなわち、
 伊予国いよのくにを愛比売えひめといい、
 讃岐国さぬきのくにを飯依比古いいよりひこといい、
 粟国あわのくにを大宜都比売おおげつひめといい、
 土左国とさのくにを建依別たけよりわけという。
次に隠伎之三子島おきのみつごのしまを生んだ。またの名は天之忍許呂別あめのおしころわけ。
次に筑紫島つくしのしまを生んだ。この島もまた、身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。すなわち、
 筑紫国つくしのくにを白日別しらひわけといい、
 豊国とよのくにを豊日別とよひわけといい、
 肥国ひのくにを建日向日豊久士比泥別たけひむかひとよくじひねわけといい、
 熊曾国くまそのくにを建日別たけひわけという。
次に伊伎島いきのしまを生んだ。またの名を天比登都柱あめひとつばしらという。
次に津島つしまを生んだ。またの名を天之狭手依比売あめのさでよりひめという。
次に佐度島さどのしまを生んだ。
次に大倭豊秋津島おおやまととよあきづしまを生んだ。またの名を天御虚空豊秋津根別あまのみそらとよあきづねわけという。
そして、この八つの島をまず生んだことから、この国を大八島国おおやしまくにという。

淡道之穂之狭別島はアワの次に道がついてますし、書記の記述から淡路島で良いでしょう。日本書記でもほぼ第一に造られた島とするようです。畿内の政権にとって第一の島が淡路島という理解で良いのだろうと思います。穂(ホ)も狭(サ)もワケも一般的な和語で、古事記の島名が孤立しており、その意味は詳らかではないと思いますが、日本書記は淡路洲ですし、淡路島のバリエーションと理解して良いはずです。

次の伊予之二名島が四国です。男女神の2セットで二名というようですが、四国が伊予之二名島と呼ばれる理由とは?(個人ブログ)参照で、伊予と土佐、讃岐と阿波のセットで良いようです。愛比売がうるわしい乙女の意味、建依別が雄々しき男子の意味、飯依比古が飯(いい)を産する男性の意味、大宜都比売が五穀を産する女性の意味です。伊予と土佐はともかく、讃岐と阿波は細川政権・三好政権・名東県等、しばしばセットになりがちです。これは地理的に山脈で区切られているもののくっついた裏と表の関係にあるからです。他に讃岐は鐸(さなぎ)で製鉄地名とか、土佐は遠狭、土狭というのはなるほどと思いますが(阿波は既に触れました)、伊予はやはり良く分からないようです。筆者もよくは分かりませんが、女性名の可能性もあるでしょうか。邪馬台国の女王名に台与(トヨ)がありますし、伊代(イヨ)という女性名は当時にあっておかしくなさそうです。伊の意味ですが、手で神杖を持った様を表わす象形文字で神の意志を伝える聖職者なのだそうです(伊 - ウィクショナリー日本語版 2019/2/10)。他にカヨ、サヨなんかも女性名ですね。ヨの語源は夜で、東アジアの陰陽思想で陰を女性にあてたものかもしれません。そう考えてみると、神道において重要な宇佐神宮(大分県)の海を挟んで向かいが伊予の国ではあります(愛媛に伊予郡があって伊予神社もあるのですが、大和側で国府があった道前地域(今治)ではなく、伊予郡は九州側の沿岸の平野の一部です)。そういう訳で自分は伊予=神女説にしておきます。

以上を踏まえて何故四国を伊予之二名島として伊予を代表させたかを素直に考えると、日本(九州)からみた四国の代表が伊予だったからではないかと思えてきます。少なくとも神武東征は日向から始まったとされますが、そうだとすると高知が代表でも良さそうです(薩摩はともかく日向(高千穂は2説ありますが、いずれも東半分にあります)が九州を制したことがありませんし、神武天皇はとりあえず筑紫に向かっており、土佐経由で熊野~吉野~大和に向かいません)。北九州を基点に畿内に向かう瀬戸内航路を重視した場合にのみ、(地理的に四つの顔を持つ)四国の代表が伊予に思えるのではないでしょうか(単に人口が一番多いという可能性もなくはないんでしょうが)。耳タコで繰り返しますが、元来の倭国が北九州は歴史の常識の範疇だと思います。

地図を見れば分かりますし、魏志倭人伝の規模感でも分かりますが、生産力で言えば北九州より畿内や吉備の方が上です。最初の文明が大陸や半島に近い北九州だったとしても、日本列島は広いですし、時が経つにつれ、畿内が優位になるのは自然の理とも言えると思います。卑弥呼の時点で大和が北九州を制したと考えるのが自然だと思いますが、記紀そのものは大和の日本(倭国)の歴史・物語で、淡路に次いで四国を扱ったのは当然とも言えます。ただ名前自体は九州の時代の倭国以来の名前を引き継いでいたということではないでしょうか。ビロウの重視だって大和自生では理解が難しいものです。

ついで隠伎之三子島ですが、本州大和側から見て九州に向かう裏の島ではあります。三つ子は島前を想起しますが、国府があった島前を代表させたという理解で良いのかもしれまえせん。島前が2郡だから2つに別けて、島後と3つ説はやや苦しそうです。西ノ島と知夫里島が繋がっていないか考えましたが、やはり島前が三つ子に見えます。国産み・島産みですし、他に触れてない島は山ほどありますので、「隠岐の後ろの島」に触れずに(前の)隠岐の三つ子の島を言いたかった可能性はあると思います。

ついで筑紫島(九州)(つくし、ちくし)ですが、つくしと言えば植物のつくし(土筆・スギナ)を想起しないでもありません。突飛に思えるかもしれませんが、本州の大倭豊秋津島の秋津が通説で蜻蛉(とんぼ)だそうです。根が深いことから「地獄草」の別名を持ち、農業上はなかなかしつこい雑草だそうですから、そうだとしたら元先進地で中々手を焼いたことから来る命名かもしれませんが(磐井の乱が知られます)、全然違うかもしれません(都会人の皆さんは知らないかもしれませんが、筆者は子供時代に採集して食べたことが何度もあって、結構馴染みある食材のイメージもあります(蜻蛉も近所で普通に飛んでました))。他にチクなら竹を想起しますが、ツクなら尽くで果ての島説もあるようです。もっともらしい説ではあります(この時点で本州(東北/みちのく)が北の果てで基本的には北海道は知らなかったと思います)。シが四で当初は(記紀の時代の大和から見て)九州が四国のようにも見えなくもありません。

筑紫島の代表が筑紫国(北九州)は自然です。先に触れましたが「筑後」の存在を考えても博多あたりが大陸の窓口かつ生産地で中心地でしょう(北九州からは海流の流れで日本から向かうのがやや困難です)。白日神(シラヒノカミ)は古事記にしか登場しない神ですが、太陽神だそうで、アマテラスの異名として日本書紀でも見られるようです(白日神 Nihonsinwa)。筆者は神武天皇のルーツが北九州ではないかと推測しているのですが、天孫降臨の舞台が北九州だったと考えると示唆的なものがありますね(ただし、ここでは詳述しませんが、卑弥呼=天照で大和の人間、天孫族=神武天皇以前の北九州人、あるいは日本に吸収した渡来人ぐらいにしか思っていません)。いずれにせよ、天照大御神と正史で同一視される太陽神が筑紫の神であることは重要で、当時の北九州と大和の深い関係が伺えると思います。

豊国は豊前・豊後が豊かと言われるとピンと来ないところがありますが、トヨと言われば、邪馬台国の女王台与で、大和から見て最初の国に重要な女王の名を冠したり、豊かだとした可能性があると思います。そもそも北九州視点で筑紫島の4つの分け方は異常に不自然です。肥前・肥後を一緒にしていることとか、筑前と豊前のあたりの境の問題とか(結局豊前の一部を福岡県に編入しています)。大和朝廷が勝手に4つに分けたように見えるんですよね。陸奥・出羽・越なんかが代表的ですが、辺境ほど大きく分けるものです(九州は先進でもあるのですが)(建国の協力者であろう吉備のみ例外に見えます)。神名豊日別でも日は使われており、ワケが男性に使う名前であれば、応神天皇=宇佐神宮(豊国)を想起させるものはあります(サルタヒコと伝えられるようですが)。

肥の国は火の国なのでしょう。阿蘇山は噴煙を上げており、記録がありませんが、雲仙も噴火したかもしれません。神名のタケは土佐の神等と同じく雄々しいとか勇猛、豊(トヨ)の使用もみられますが、ここでも日向(ヒムカ)が見られます。太陽神信仰で方角に関わらずあちこちにヒムカがあったように思えます。太陽神はしばしば農耕神なのだそうです。

クマソのクマは隈で辺境なのでしょう。やはり当時は東シナ海ルートなど無かったか例外的だったと分かると思います。タケとか日は繰り返しません。神武東征ですが、古事記でいう熊襲が起点になっていることは意識されていいと思います。

次いで壱岐・対馬ですが、大陸・半島に向けて順に西進していると見ることは出来るでしょう。

ここで佐渡ですが、日本海の大きめの島(佐渡国はずっと存在しました)ですから、バックしてでも触れたと思えます

最後の大倭豊秋津島は本州ですが、日本書記では概ね2番目に触れます。おおやまとが本州という島の当時の本質を示しているように思いますが、トヨ(豊作を想起します)や秋(収穫の時期)が稲作の島をイメージさせる感じがないでもありません。

以上なのですが、日本書記にはこれまで一つだけ触れられていない島(洲)があります。越洲(こしのしま)です。一般に越国(越前・加賀・能登・越中・越後)のことだと言われていますが、どう考えても島じゃありません。日本書記の編者も頭を悩ませ、諸説を(恐らくそのまま)収録したのでしょうが、原型を考えてみる必要はあると思います。能登島が一番大きいかもしれませんが、さすがに特に言及するのは難しそうです。佐渡島が一番ドンピシャですが、佐渡島は同時に併記されてもいます。越州は隠岐・佐渡の後に記載されていることを考えると、佐渡島も越洲も同じ島を指すと考えるのが一番正解に近いのかもしれません。あるいは北海道を遠く噂に聞いていた可能性も無いとは言えないのかもしれませんが。

隠岐の三つ子の島を島前と考えると、残る島後が越洲かもしれません。島後はわりと大きな島です。この説が苦しいのは、隠岐の次に佐渡に行ってから越洲に戻ってくる形になることですが、その辺は誤伝で可能性として頭の体操をしてみた次第です。

神武天皇雑考

2019-02-12 17:16:03 | 日本地理観光
神武天皇は日向国で生まれたと記されますが、兄の稲飯命(いないのみこと)に新撰姓氏録(平安初期815年の嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑)記載の異伝があって、新羅王の祖ともされる(関連性不明ですが、三国史記新羅本紀において、脱解尼師今(第4代新羅王;昔氏王統の初代。在位57年~80年。その治世である73年、倭人が木出島に進入してきたが、羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死との記載あり。三国史記の成立は遅いのですが(多分中国と同じく王朝が終わってから史書を編纂したのでしょう)、日本書記の最初の八代は欠史八代とされ事績がありませんが、大陸・半島の史書と年代を比較すると(あえて皇紀を脇において考えると)、大陸に近い分(楽浪郡支配が大きかったかもしれません)、半島の方が記録をとるのは早かったようにも見え注意が必要と思います)の出自について倭国東北千里の多婆那国とする記事があり、これを丹波国と関連づける説があるとも)ことが注目されていいかもしれません。ただ、丹波国の活躍は時代が降るはずで、新羅と距離もありますから、伝説の収録か、事実が元になっているなら、北九州か本州西端あたりに多婆那国があったと見るべきでしょう(あるいは伝説と事実がごちゃまぜになっている可能性もあります)。タバナとは恐らく田畠(タバタ)のようにも思えます(魏志倭人伝不弥国(博多あたりの奴国から邪馬台国に向かう途中の水行の出発点で奴国からそう遠くなく北九州沿岸だと推定されます)の長官は多模(たも)でこれも田に関係ありそうです。田守でしょうか。【名字】田守(名字由来net)を参照すると、読みはタモリ、タモです)。西日本において鼻は端で岬を意味しますから(西日本に「鼻」という名前がついた地名がいくつかあるんですが、なんで~ Yahooトラベル)(筆者が生まれ育った校区に白石の鼻という岬があってしばしば下手に入ると流されるぞと注意喚起されていたことを記憶しています)、田鼻(タバナ)の可能性もあるとは思いますが、検索では引っかかりません。ただ、北九州(や本州西端)に候補となり得る岬は幾つもあります。タンバ(タニハ)とタバナの発音は近いようで遠いようにも思えますが、日本を前提に記録を眺めると丹波に見えなくもないのかもしれません。

神武東征のルートは日向国から宇佐、筑紫国、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国、そして大和。日本史の常識からすれば、日向から宇佐、筑紫が謎ですが(大分→福岡はありますが、とにかく宮崎の勢力が北上、定着したことがありません。西都原古墳群が知られますが3世紀前半からで神武天皇と年代があわず、最大の古墳は5世紀頃になります。薩摩方面から肥後に向かうのが南九州の北上ルートの定番です)、筑紫から河内までは常識的なルートと言えます。河内まで来て紀伊が謎ですが、最初期の巨大前方後円墳である箸墓古墳と付近の纏向遺跡、三輪山は奈良盆地中部で大和川ルートが通常・有力と思いますが、南方にもルートが開いていて紀伊と繋がっている位置にはあります。纏向遺跡からそう遠くない位置に弥生時代の巨大環濠集落唐古・鍵遺跡があって銅鐸の主要産地であったようです。銅鐸は埋納されたことで知られますが、時期は紀元前後と2世紀頃に集中するとされ、前者なら常識的な寿命に直した神武天皇の活動時期に一致するような気もします。

神武天皇の諱は彦火火出見(ひこほほでみ)あるいは狭野(さぬ)。神武天皇の妃は吾平津媛(あいらつひめ、記:阿比良比売)。日向国吾田邑出身で火闌降命(神武天皇の大伯父)の娘。薩摩・大隅・日向南部には火山も多いですが、火国(肥国)は熊本(及び長崎・佐賀)だということに注意も必要かもしれません。古事記によれば吾平津媛には阿多の小椅君という兄がいたそうですが、阿多でイメージするのは南薩摩でしかありません(阿多という地名——南薩と神話(1) 個人ブログ)。天孫降臨の舞台高千穂は一般に宮崎県が言われますが、宮崎県の高千穂は日向というより寧ろ阿蘇山と連動した歴史があるようです。阿蘇山は噴煙を上げており火国(肥後国)を代表する火山とも言えますし、高千穂が鹿児島であったとしても火(山)と関係が深いことが示唆されるのでしょう。磐井の乱も筑後ですし、南北朝時代の菊池氏とか北九州の南の勢力が北九州を落としたり脅かしたりする事態があっても不思議はありませんが、神武天皇一代で大和まで統一してしまうことはさすがに考え難いものはあります(時代は邪馬台国の時代を少なくとも120年ほどは遡りそうです)。神武天皇は弟ですから、南九州の有力勢力の嫁をもらって北九州の経済力武力を背景に、あるいは宇佐~安芸~吉備を経由して畿内に移民したと推理することも出来るのかもしれません。そういう事態は日本史において必ずしも突飛な発想ではなく、関東を開発した有力武士も平家であり源氏でした。そもそも倭国は北九州にあったのは確実です。そこから筆者の推定では6代経て倭国の中心が畿内(大和)に移動すると考える次第です。弥生時代は環濠集落が多く、環濠とは諸説ありますが、どう考えても堀でしかありません。矢尻の刺さった人骨も見つかり、弥生時代は戦乱の時代と言われます。

皇后はヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)。タタラ製鉄は6世紀半ばの伝来が定説だったようですが、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、古代の製鉄遺跡が見つかっており、文献に見るタタラという姓名から5世紀前後の国内製鉄の可能性も指摘されるようです(必ずしもそれ以前に遡らないとは思いませんが。それ以前に朝鮮半島で日本が戦争していたことは文献・金石文から確実だからです)。五十鈴の語源は定かではないようですが(伊勢の五十鈴川は有名ですね)、気になるのは鈴です。日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説なのだそうです。後に大型化しましたが、銅鐸=鈴だった可能性があると思います。銅鐸文化は大和朝廷に伝わらず断絶しています。大型化した銅鐸は中国の鐸に似ていたかもしれませんが、当初は鈴だったならばずっと鈴と呼んでいて、後に出土物を見て鐸に見えた可能性があると思います。イに関しては「「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。 ウィクショナリー「伊」」ということですから、神の鈴が五十鈴ですなわち銅鐸と見れば、ストンと落ちるものがあります。少なくとも五十鈴(いすず)はよくある和語で、日本文化に広く定着した何かであったはずです。

神武天皇は畝傍山(うねびやま)東南橿原の地に都を開きましたが、ウネビとは畝(ウネ)+ビ(傍か火)が通説のようです。畝は「畑で作物を植える土を盛り上げたところ。畝を作ることで、水はけを良くして、植物を育てやすくするもの」で恐らく間違いなく農耕に関係する畝でしょうが(山の形も畝っぽいような気がします)、ビがよく分かりません。諸説あるということは皆よく分からないということだと思いますが、正史の日本書記が傍(かたわら)、古事記が火です。富士山に似る円錐形の山のようですから(ただし200mほどの低山)、ヒヤマを火山と見る人が多いようです。しかし、日本語でヒヤマというと寧ろ檜山ではないでしょうか。ヒヤマはよくある姓で地名でもありますが、檜山表記が普通です。秋田県能代市檜山や北海道の檜山支庁が有名ですが、意味は檜(ひのき)の生い茂っている山です。ヒノキは日本では建材として最高品質のものとされ、古事記でスサノオが使ったとの記述もあるようで、寺院神社でよく使われ、弥生時代の神殿でも使われたとか。語源は火の木説もありますが、日の木説が有力のようです。従って当時は(畝がついており)よく分からなくなっていたかもしれませんが、畝檜山が語源なのかもしれません。火と日は古代で音が違うらしいのですが、神武天皇や妃の名前の火も日で日の木に関係していても不思議ではありません。ヒノキは北海道から鹿児島県や熊本県の市の木でもあって、日本なら何処でも生える木のようです。

橿原は普通に樫(橿、カシ)原のように思え、樫はブナ科の常緑高木の一群の総称です。杉原・松原は普通の用例で橿原は珍しいものの違和感はありません。柏もブナ科の木で柏原(かしわばら)が寧ろ一般的でであり、これがカシハラ、カシワラであるようです。ブナと言えば縄文時代でブナ林が優勢の東日本の人口は西日本を大きく上回っていました。大和の橿原がスタートの地という伝承(邪馬台国の関係ありそうな三輪山も大和盆地東端です)もそう考えると示唆的です。大和自体、山処ととも考えられますが、標高が周辺より高くやや寒いでしょうから、このあたりではブナの恵みが利用できて人口も多かったかもしれません(低地が開発されるのは土木技術が発達してからで、案外山は古くに優勢です)。皇室自体山幸彦の系統です。ここでは詳述しませんが、神武天皇自体は海人族との関係もある感じで、やはり航海して移動してきたような気はしますが(それで分かり難くなっているかもしれませんが)、畝傍山然り、橿原然り、後に大和と呼ばれる地域に移住したとされること然りでやはり山や木とも関係が深いところはあるような気もします。ブナは熊本の市の木でもあって西日本でも生えるのでしょうが、ブナ林=東日本・北日本と見るのが通常ではあるんでしょう。気温は時代によって高低あって、当時の大和が寒かった可能性もあると思いますが、詳細はよく分かりません。

七湊(京~北陸~みちのく~蝦夷)

2019-02-06 00:15:51 | 日本地理観光
十三湖(らけ)1.jpg(ウィキペディア 十三金氏)

七湊って北陸~出羽・陸奥ルートのようです。京から近江経由で北陸からは海路での交易が結構盛んだったんでしょうね。太平洋岸でも安濃津からの交易はあったようですが。同じ日本海側でも(それぞれ山陽との結びつきが強く)山陰方面は陸路に比重もあったかもしれません。以下、ウィキペディア「三津七湊」(2019/2/6)よりコピペ。前回の記事で触れましたが、三津七湊は瀬戸内海賊衆だか海運業者の評価のようです。

三国湊 - 越前国坂井郡(福井県坂井市)、九頭竜川河口
本吉湊(美川港) - 加賀国石川郡・能美郡(石川県白山市)、手取川河口
輪島湊 - 能登国鳳至郡(石川県輪島市)、河原田川河口
岩瀬湊 - 越中国上新川郡(富山県富山市)、神通川河口
今町湊(直江津) - 越後国中頸城郡(新潟県上越市)、関川河口
土崎湊(秋田湊) - 出羽国秋田郡(秋田県秋田市)、雄物川河口
十三湊 - 陸奥国(津軽、青森県五所川原市)、岩木川河口

三國湊レトロ(福井県坂井市観光ガイド)

>朝倉氏の後福井を治めた「柴田勝家」も水運を重視し足羽川近くに居城「北の庄城」を構え、荷揚げ用の港を設けていました。

北の庄城址・柴田公園のご案内(福井市)

>九十九橋(つくもばし)は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋ですが、江戸時代には半石半木の珍しい橋として全国的にも有名でした。
>展示されている鎖は、北陸道が九頭竜川と交わるところに、柴田勝家公が天正6年(1578)に渡したと伝えられる舟橋で用いられていたものです。

織田家の重臣で明智光秀滅亡後に豊臣秀吉に対抗する勢力のリーダーだった北陸の雄柴田勝家の居城として知られる北の庄城ですが、安土城にも匹敵したとも言われる巨城だったようで、九頭竜川支流の足羽川(あすわがわ)とその支流の吉野川の合流地点に築かれており、足羽川の水運を利用すると共に、天然の堀として利用する意図があったのではないかと思われます。※足羽川桜並木が一つ一つの桜が大木であり、日本一のスケールの桜並木として知られるようです。

織豊系城郭で言えば、他に天空の城として知られる越前大野城(城主は金森長近。後に飛騨一国を与えられた)があるようですが、こちらも「「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町」を造り、「二重の堀と川をつないで城を守っていた」ようで、九頭竜川の水運に関係しているのではないかと思います。北の庄城もそうですが、これは意図して行われ、津島の商人・濃尾平野の水運を押さえて成長した織田家のやり方を踏襲しているんだろうと思います。豊臣秀吉の大阪城も水運と関係あったでしょう。時代としては織田家の支配以前にはなりますが、この内陸水運が意識された河口の重要拠点が三国湊という訳です。

>戦国時代の武将「朝倉義景」が居城を構えた「一乗谷朝倉氏遺跡」内の庭園跡には、船によって運ばれてきた東尋坊周辺の岩が庭石として残っています。

一乗谷は足羽川近くの支流にあり、これまた水運と関係が深いんだろうと思います。現代日本の観点では、河川交通はまず意識されることはありませんが、歴史的には内陸水運の占める地位は決して低くはなかったことを理解しないと当時の事情は中々分からないのかもしれません。

廻船業が福井県(越前・若狭)で始まったのは鎌倉時代のようです。港は敦賀津・小浜津・三国湊。九頭竜川擁する越前平野(福井平野)の三国湊が七湊の一角であるのは当然と言えば当然だと思いますが、終着点のはずの敦賀津と小浜津が数えられてない不思議はありますね。共に陸路で湖西ルートから京のような気がしますが、ほぼ等距離で分散していたでしょうか。それとも単に海路の終着点(京への通過点)に過ぎず、生産が少なかったからか。廻船というからには、商売上の観点からも往復で物資を積むのが前提だったようにも思えます。そう考えると、小浜津周辺・敦賀津周辺で積み込んだり、売りさばいたりする物資が少なかったと考えられるのかもしれません。

また、敦賀は越前であり、七湊は国ごとに一つ選んだのであって、北陸から始まる日本海ルートの七大港湾ではない可能性もあると思います。七湊に敦賀より小規模な港があるとしても、越前の代表に三国湊を選んだから、敦賀津を選ばなかったという可能性です。小浜津は若狭で若狭は北陸道に含まれますが、比較的小規模です。佐渡国の港も七湊に選ばれていません。現代的観点で七湊に山形庄内の港が選ばれていないのが不審ですが、出羽の代表を土崎湊としたと考えることも出来そうです。

美川港(旧本吉湊)(白山手取川ジオパーク)

>北前船の寄港地である旧本吉港。加賀地方では、海流などの影響を受けて海岸砂丘が発達し、港湾として利用できる場所は入江や潟湖に限定される。本吉は中世頃より港湾として整備されてきた。

手取川は石川の名で呼ばれていた時期があり、石川郡・石川県の語源であるようです。白山に源を発する加賀国を代表する大河(急流)ですが、加賀は一揆が支配する「百姓の持ちたる国」でしたし、九頭竜川のような広がりはなく、従って内陸水運の比重はやや低く、港湾として利用できる場所が本吉だったという意味合いが強く陸路も利用された可能性があります。他に加賀国の港として金沢御坊が近くの台地にある犀川河口の宮腰(大野庄湊)も栄えていたようですし、梯川河口で流域に加賀国府(中世には百姓の持ちたる国でしたが)を擁する安宅も有力だった可能性はあると思います。それでもあえて本吉湊だったとすれば、手取川上流の白山との関係なのでしょうが(序章 白山本宮の勢威篇 Vol.2)、白山本宮が在地の領主として権勢を誇っていたのは室町時代中頃までのようです。室町後期以降は百姓持ちたる国で中心が金沢に移り荒廃したようですから、廻船式目の室町末期にまとめた説もどうなんだろうという気がしないでもありません。あるいは流路の変更とか何らかの理由を考えてみましたが、やはりよく分かりません。

比楽湊・本吉湊(美川漁港)の「みなと文化」 (港別みなと文化アーカイブス)

古代には付近の比楽湊が栄えたようですが、流路の変更で今湊が使われるようになり、その後本吉湊の名が見られるようになったようです。中世に三津七湊の名が見られるように繁栄したようですが、その繁栄が具体的に知られるのは江戸時代の北前船が活躍した時期になるようです。

次に輪島湊ですが、能登半島沖は海の難所であり、寄港地・避難港として適していたようです(加賀と越中の中間の位置からも港としての機能面で選ばれたように思えます)。北前船でも栄えたとか。小屋湊とも。能登国の中心地は富山湾、七尾湾に面する七尾ですが、富山湾の代表的港は越中の岩瀬湊となるようです。

次の岩瀬湊は神通川河口ですが、舟運で飛騨国の特産物も運ばれたようです(富山市岩瀬 富山県:歴史・観光・見所)。神通川流域の中世富山城は管領畠山氏の譜代の家臣で越中等の守護代を務めた神保氏の長職(ながもと)が築いたとされる城ですが、発掘調査により室町時代初期に遡る遺構が見つかっているようです。北陸街道と飛騨街道と大河川が交わる交通の要衝であり(富山城について考える(学芸員の小部屋)の地図参照。元は古川知明氏(富山市埋蔵文化財センター)の資料)、中世越中の中心地のひとつだったのでしょう。中世越中においては他に射水郡放生津(ほうじょうづ)の越中公方(1493年~1499年)が注目されます。明応の政変で足利義材が京を脱出し、越中守護代神保長誠の放生津城に入り、後に越前に移るまで御所がありました。こちらの場所は津(港)ではあったものの、内陸水運にはあまり関係なかったよう。富山国府があった富山県西部の港でないもうひとつの理由は陸路で加賀に近かったからかもしれません。能登半島を海路で回るのが大変です。

今町湊(直江津)(直江津(府内湊) 戦国日本の津々浦々)は越後国府が置かれた越後の中心地。付近は越後でもそう大きな平野と言えませんが、京に近く、信濃国と直線距離で近いことが注目されます。戦国大名として著名な上杉氏の拠点でもあります。ここまでが北陸道における東西の境界のようです。(越後)府内湊とも。飛騨国府に神通川・飛騨街道で繋がる岩瀬湊もそうですが、普通に交通の要衝であることが港にとって重要なんでしょうね。信濃川・阿賀野川河口付近の三ヶ津「新潟、蒲原、沼垂」も栄えた港ではあったようです。柏崎も越後中部の鵜川、鯖石川河口部に位置する港町で、越後西部と南北魚沼郡、上野国を結ぶ街道の要衝として繁栄したようです。

土崎湊(土崎湊の繁栄 秋田市公式サイト)は雄物川河口で安東氏が湊城を築いています。湊安東氏は蝦夷沙汰を担い、蝦夷とも交易していたようです。ルイス・フロイスの書簡に出羽の国の大いなる町秋田には交易をするものが多いと書かれたとか。出土した物資で注目されるのは12~15世紀末の石川県珠洲市付近(能登国)の珠洲焼(すずやき)でしょうか。出羽南部の最上川下流の庄内地方の酒田湊も栄えていたようです。安東氏の拠点が置かれたこともあったようですし、より上流の最上郡に羽州探題の最上氏も存在しました。ただ、大宝寺城(鶴岡市)に大宝寺氏がいて、勢力がやや分散していたかもしれません。当時から庄内地方に中心がふたつあったでしょうか。

最後の十三湊(とさみなと)も蝦夷沙汰(蝦夷管領)の安東氏の港。国内外の陶磁器が出土し、北方の海産物をも扱う等、かなり繁栄したようです(【中世・十三】青森県奥津軽観光サイト)(【最果ての国際貿易港?】謎の豪族・安東氏ゆかりの地「幻の中世都市」十三湊 ユカリノ)。十三湖(当時は内海だったそう)がある津軽郡は陸奥国。土崎湊や十三湊は日本の北の境界とも言える交易拠点だったようで、陶磁器等も出土し、直江津以西とはまた違った感じはあったのかもしれません。一般に貿易港は栄えます。十三湊の繁栄は15世紀半ばまでのようですから、やはり室町時代末期の事情を廻船式目は正確に反映した訳ではなさそうです。

こうして見ると瀬戸内の海運業者が必ずしも北陸から東北に至る最も繁栄している湊を七つ選んだという訳ではやはりないのかもしれません。ただ、京と繋がる北陸を起点にして、その生産力を背景に日本海交易が発達し、その終着点が北の異民族との交易がある土崎湊や十三湊であったとは言えるんじゃないかとは思います。また、江戸時代に栄えた北前船西廻海運の前身と見ることも出来ますね。

安濃津と焼津

2019-02-05 07:55:54 | 日本地理観光
ウィキペディア「双方中方墳.png」カイツブリ氏作成

安濃津(三重県・伊勢)は日本の主要港である三津七湊(室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集である廻船式目による)の一つとして栄えたようです。三津は他に博多・堺(中国の史書では坊津)ですが、安濃津が並び称されるのは現代の観点では違和感があります。安濃津は平安京への近さから、その外港・東国への玄関口として栄えてきた歴史があるようですが(東国に向かうメインルートは現代から見て、近江~美濃~尾張~遠江~駿河の陸路のように思えるのですが、安濃津経由の海路が栄えていたと仮定しないと史書や考古学に見る安濃津の繁栄が理解できません)、平安京~安濃津が北回り(近江回り)よりやや距離的に近いにせよ、何故安濃津かに関して、恐らく大和の外港として伊勢(志摩)が機能してきたことを考慮しないと、理解できないんじゃないかと思います。というのも、近江や美濃・尾張といった国は結構な大国ですし(通り道で用も足せます)、太平洋岸の港が栄えていたという話はあまり聞かないからです。大和の方が平安京より南にありますから、伊勢(志摩)との繋がりがよりあったのは間違いないように思います。記紀は奈良時代であり、伊勢神宮との絡みもあるはずです。関東の上総~下総(共に千葉県)は南が上で三浦半島から上総に渡るのがメインルートだったことが知られますが、古代ほど海路の比重が高かったような感じが無くもありません。魏志倭人伝でも北九州から投馬国(吉備か?)~邪馬台国(考古学では大和が有力との見方が強固なようです)と水行していることも、こうした見方を裏付けるものと言えるかもしれません。瀬戸内海ルートや九州の港は分かり易いですが、今では分かり難くなった東国ルートが存在し、その起点が安濃津だったのでしょう。もうひとつ見え難くなったルートが北陸ルートでこれは七湊に当たるんだろうと思いますが、北陸ルートの方は北前船との絡みでも注目があるように思います(江戸時代に大阪と江戸も海路で繋がっていたと思いますが、地理的に伊勢湾を飛ばして繋いでいたようです)。

安濃津は明応の大地震・津波(1498年)で壊滅的な被害を受けて廃れたとされますが、これにはやや疑問がないではありません。三津七湊は廻船式目の用語のようですが、北条義時制定の旨の奥書があるもののこれは後世の仮託で、実際には室町時代(1336年~1573年)末期に瀬戸内の海賊衆/海運業者の慣習法を纏めたものだとされます。これに安濃津や七湊が十大港湾として記載されているなら、やはり相当栄えていたはずですが、既に滅びて用が無くなった港を三大港湾として評価するでしょうか?この疑問を解消するには、廻船式目の成立を明応の大地震前とするか、北条義時(鎌倉幕府)の時代の内容が反映されていると考えるか、明応の大地震後も復興してそれなりに栄えていたと見るしかないんじゃないかと思います。いずれか現時点でよく分からないところはありますが、筆者は現時点では、明応大地震後にそれなりに復興したのではないかと思っています。必要だから港があるのであって、一度壊滅したとして、京・畿内から東国へ向かうルートの必要性が無くなった訳ではなく、伊勢に海路が必要なくなった訳でもありません(ただ、安濃津だけでなく、明応大地震ではルート上の多くの港が壊滅したとは思います)。明応地震後、江戸幕府開府まで100年の時を経ており、これは決して短い期間と言えません。大阪を拠点とした豊臣政権以降は伊勢の海路がそれほどは重要だったようには思えないところもありますが、大和を拠点とし畿内を席巻した松永秀久は伊勢と結構関係があるんじゃないかと思えますし(松永久秀のルーツは伊勢にあった!? 歴史 風説ながれ旅/個人ブログ)、織田氏の拠点として津島港は有名ですが、濃尾平野の物資を津島港に集めて向かう先は東国しかなかったはずで(さすがに畿内には陸路で運ぶと思えます)、伊勢・安濃津はその途上にあるとも言え、また六角征伐(長享・延徳の乱)は明応地震前ですが、乱後も南近江の六角氏は幕府や細川京兆家の内紛に巻き込まれる関係にあって、乱の時には伊勢の北畠氏の活躍もあり、東国への玄関口としての伊勢の重要性は依然としてあったように思われ、更には安土~甲賀~安濃津ルートも考えられますし、信長が伊賀や伊勢との戦争に苦労したことからも力を持っていたのは間違いなく、その背景に交易があったように思えます。安濃津というか伊勢の港の重要性が相対的に落ちたのは、江戸時代に大阪~江戸ルートが紀伊半島回りになり、参勤交代ルートが整備され確立してからだったと、ここでは推測しておきます。

江戸時代には安濃津藩が置かれ、三重県の前身に安濃津県があり、三重県の県庁所在地津市の津は要は安濃津です。三重県の歴史を知らない人間から見ると、伊勢=神宮・伊勢市ではないのかというイメージはありますが、伊勢の拠点として歴史的に最も重要だったのは(畿内の東国に向けた外港としての)安濃津であり、ゆえに重んじられてきた事情があるのかもしれません。

安濃津(三重県埋蔵文化財調査報告147 1997年 独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧よりダウンロード)によると、安濃津は安濃(あのう)川河口に位置し、安濃郡は安濃川が形成した肥沃な土壌の影響で古来より高い文化を形成してきたようです。「あのう」とは何かですが、大和(奈良県)吉野の賀名生(あのう)(元は穴生(あなふ))や近江(滋賀県)の比叡山山麓の石工集団として知られる穴太(あのう)衆とも関係のある用語で、穴(あな)ですから鉱山と関係しているような気がします。更に調べてみると筑豊炭田で知られる北九州にも穴生(あのお)という地名があります(全天候型のドーム式多目的グラウンドとして穴生ドームも)。これに関連して古代史を調べた方がいて、古事記に垂仁天皇の子伊許婆夜和気(いこばやわけ)王は沙本(さほ)の穴太部の別の祖なり、古代の軍事氏族物部の根拠地河内の八尾市宮町には穴太神社、聖徳太子の母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、聖徳太子の叔父が穴穂部皇子(あなほべのみこ)、京都府亀岡市曽我部町穴太東辻に穴太寺(穴太部の菩提寺だそうで、近くに大谷鉱山。小田治「地名を掘る」による)と古代において穴太(あのう)の存在感が大きいことが分かってきます(こころ旅 その3 スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語)(一般に朝鮮半島の安羅(あら)との関係に言及されてきたようですが、牽強付会のように思います。日本では朝鮮半島南部は任那(みまな)でしたし、古代において高麗郡、百済王神社、新羅神社とか朝鮮半島との関係を隠した形跡がありません。素直に穴(アナ)は和語であると考えるべきでしょう)。あるいは安濃川上流に鉱山があった可能性もあると思いますが、それはともかく、「あのう」は日本的な珍しくはない地名のひとつではあるんだろうと思います。伊勢の中でも特に安濃津が最初に選ばれた経緯は定かではないと思いますが、安濃川西岸に5世紀前半築造と推定される珍しい双方中方墳(吉備(岡山県)の楯築墳丘墓が2世紀後半~3世紀前半建造の日本最大級の「弥生墳丘墓」とされ双方中方墳なのだそうです。吉備は考古学的に古墳時代の開始に関係あるとも言われる瀬戸内海の雄です。伊勢に関連があるとして不思議はありません)、の明合(あけあい)古墳(古墳マップ)が明合古墳群の主墳として存在しており、古代に有力な王が安濃郡に存在していた時期はあるんだろうと思います(他に池の谷古墳が安濃津からも眺望できる位置に造られた全長約90mの前方後円墳なのだそうです)(朝鮮系の土器も出土し古代らしく渡来系の影響がないとまでは言いません)。

安濃津は関ヶ原の戦いの前哨戦安濃津城の戦いでも知られるようです。徳川家康の会津征伐に従軍していた伊勢の諸将は西軍決起後に急遽東軍として伊勢に帰国しますが、安濃津城に立て籠もったものの、西軍の大軍に攻められ結局降伏、助命された諸将の一人冨田信高は関ヶ原の戦い後給料安堵の上加増され、その後伊予宇和島城に転封、これが伊予宇和島藩の始まりのようです(後に改易されますが、大久保長安事件に連座したとも言われるようです)。津藩は伊予今治城から転封してきた藤堂高虎に引き継がれ、以降江戸時代を通じて津藩は藤堂家が治めるところになったようです。藤堂高虎は近江犬上郡(彦根付近)藤堂村の没落した小領主の家系に生まれますが、最終的に徳川家の重臣まで出世しますが、築城の名人として知られます。穴太衆や国友村の鉄砲もそうですが、当時の近江は技術的先進地でもあり、高虎も技術・実力を活かして成り上がったところがあるのでしょう。藤堂高虎の傑作とされる今治城は日本三大水城(みずき/他に高松城、豊前(大分県・福岡県)の中津城)として知られる名城です。藤堂高虎のデビュー作は宇和島城で(板島)丸串城から改名したのが藤堂高虎であるようです。当初は海城で島と言えるようです(他に板島(亀次)城もありますが、当地は宇和郡でもあり、命名の由来は宇和郡の島ということになるんでしょう)。伊勢と海路は想像以上に関係が深いことが分かってきましたが、であるがゆえに四国の一角の伊予とも繋がりがあるんだろうと思います。

さて、安濃津が畿内から東国に向かう外港として重要だったとして、港はひとつでは成り立ちません。対する港が必ずあったはずです。勿論室町時代は貨幣が普及していたでしょうから、商人がいる港が存在したんだろうと思います(濃尾平野の物資を集積する津島(商人)を押さえたことで織田氏が強かったとも言われます)。北陸道に七湊があったように、(津島から濃尾平野とも繋がる)安濃津を起点に東国(関東)に向かう東海道に栄えた港はあったのでしょうが、陸路も同時に栄えていたのか、途上に有名な港の名前がないようです。推測ですが、安濃津が安濃川河口にあるように、内陸水運重視で河口の港が栄えていた可能性はあると思います。目的地は関東で江戸湾か銚子あたりが終点だと言えるのかもしれません。利根川は江戸時代に東遷されて鬼怒川と合流しましたが、鬼怒川は元々毛野川といって、毛野地域(上野(群馬)及び下野(栃木))を流れる川の代表例だったようですから、東遷以前も河口の銚子は内陸水運の重要拠点だったんじゃないかと思います。ただ、古代においては地方に貨幣が普及しておらず、古代道路(官道)も自然に衰退していますから、地方で商売等基本的には成り立たず、貢物を運搬するというような形で所謂港町というほどのものは基本的には無かったかもしれません。鎌倉時代の鎌倉なんかは発達しており、安濃津は海路で重要だったかもしれませんが。そういう訳であえて安濃津に対する港を想定すると、河川舟運を考えると、近代東海地方では富士川(駿河)、安倍川(駿河)、大井川(駿遠)、天竜川(遠江)、豊川(三河)、矢作川(三河)、庄内川(濃尾平野)、木曽川(濃尾平野)、長良川(濃尾平野)、宮川(伊勢)になるようです。宮川なんかは伊勢湾を横断するルート上にあって重要そうですね(その裏が志摩なのでしょう。上総の裏が安房であるように)。富士川は甲斐と結び、甲斐は古代、東海道に属します。ここにない河口の港で気になるのは沼津でしょうか。狩野(かの)川を遡ると伊豆国府に辿りつきます。関東の港をひとつ上げると三浦です。鎌倉時代の三浦氏の活躍は知られますが、元は御浦(みうら)で浦賀水道を渡るための重要な中継地となる港だったはずです。古代に亀卜の風習がありましたが、三浦半島で遺物が出土しているようです。風や潮・天気に関連して占いをやっていたのでしょう。海岸の集落を浦といいますが、恐らく重要な浦だったから御浦という訳です(表記する漢字が変わったりブレたりすることは歴史的に珍しくはありません)。まぁ結局、安濃津に対する栄えた港というのもよくは分からないのですが(鎌倉時代の鎌倉ぐらいでしょうか)、最後にひとつだけ東海道上の気になる港「焼津」を考察しておきます。

焼津は記紀神話ヤマトタケルの東征伝説で知られますが、焼津は神奈川(相模)ではないかという説もネット上等で流布しているようです。これは古事記に場所が相武国とあることに由来するようですが、筆者は通説通り駿河(静岡県)の焼津でいいんだろうと思います。まず正史である日本書記に駿河とあるのですから、それを優先すべきなのですが、相武国とは相模国の誤記かもしれませんし、相模と武蔵をあわせて言っているのかもしれませんが、とにかくそんな国は存在しないというのは致命的です。古くは越の国が出羽まで含んでいましたから、駿河が相模をも含んでいた可能性はあるかもしれず、その場合は相模でもおかしくはないのですが、ヤマトタケルの活躍で関東をイメージした誤伝のような気はしますし、それでも駿河が相模を含んでいたというのも完全に想像であり、史料的根拠が無いことに変わりはありません。焼津あたりはそう大きな平野ではなく、一見大勢力がいたかな?と思ってしまうあたりが逆に伝説をそのまま伝えたような感じで信憑性があるような気がするんですよね。正史に載せたということはそれだけの根拠があったということもであると思います。万葉集では駿河の地名として焼津邊、焼津神社や駿河に草薙神社もありますし、天然ガスを産する(静岡県相良地域におけるガスの地球化学 - J-Stage)から「ヤキツ」という説も説得力があります(ウィキペディア「焼津神社」2019/2/5参照。焼津市史等による)。津は分かるとして、普通じゃ焼き(ヤキ)の意味が分かりません。ヤマトタケルの焼津伝説は地名ありきの地名説話と考えられなくもないんですよね(ヤマトタケルと後に呼ばれる人が焼津あたりで活躍しなかったと主張するつもりはありません)。焼津神社では中世に入江大明神を祭っていたそうですが、津という地名でも分かるように当地に重要な港があったんだろうと考えられます。焼津神社付近には、古墳時代に宮之腰遺跡があるんだそうです。

ただ、大井川は山深く、焼津あたりはそう大きな平野でもありません。とりわけ重要そうな港が存在すると言われても、中々イメージが湧かない訳です(だからこそ古事記が別の話を伝えた可能性が高いと思われます。相模が事実なら日本書記も相模とすればいいだけで、わざわざ正史が不審な話を採用する理由も特にないと考えられます)。正史に書いているからそうなのだとしてもいいのですが、ここであえて焼津が重要な港であった理由を考察してみたいと思います。その前に伊豆半島の下田津ですが、江戸時代に江戸―大阪間の風待ち湊として特に栄えたようです(「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」(下田ぶし1番))。何故下田かと言えば、駿河湾を横断するためでしょうが、「首都」江戸から見て最後の風待ち湊だったから、下田だったのでしょう。しかしながら逆側から見て最後の風待ち湊があっていいはずです。それが畿内が首都地域の古代においては焼津だったのではないかと思います。駿河も広いですが、特に焼津である理由はその北側が大崩海岸であることによると思います。大崩海岸は急崖が続き、その名の通り地名は崩落が多いことに由来するようです。大崩海岸を避けて更に北側まで行ってしまうと、駿河湾をカットして時短を狙うことが出来ません。富士川や沼津も重要で、勿論その北側に向かうこともあったでしょうが、関東という大きな存在を考えると、焼津からの横断がメインルートと考えてもよいと思います。特に貨幣経済が発達しない古代においては、特に一々中継しなければならない重要港はなかったようにも思えます。そういう訳で焼津あたりに関東に向かう重要港があって、天然ガスを産し時々燃えるような珍しい現象があったから焼津(ヤキヅ)。重要な土地だったからヤマトタケルが活躍し神社が出来たと考えることが出来ます。

現代においては風待ちもありませんし、航続距離が伸びていることから、物流の拠点としての港は大きな港に集約され、中々伊勢(三重)や駿河(静岡)の港も難しいところはあるかもしれません。ですが、特に伊勢は日本の宗教(神道)において極めて重要ですし、かつての繁栄は観光・文化面で活かしていけるんじゃないかと思います。リニアの駅も三重に出来ますし、そこから伊勢神宮に向かう途中に県庁所在地である津(安濃津)は存在します。単なる通過点にするのもどうかですし、今はクルーズ観光の流れもあります。東海地方~東京クルーズも意外と整備すればポテンシャルはあるのかもしれません。三重県と言えば伊賀で忍者も想起されますが、織田信長の有力家臣(関東御取次役を命じられるまで出世)滝川一益の根拠地が伊勢(長島)でこれまた忍者で有名な甲賀(滋賀)の出身という説(他に伊勢説・志摩説)もあるようです。忍者は修験道と関係あるとも言われ、神宮で有名な三重県らしい売りになるのかもしれません(近江もそうですが、首都地域に近いからこそ、先進的な技術が発達したようにも思えます)。地方創生に独自の売りは必要で、それが三重の場合、ひとつの柱として文化・観光になるんだろうと思います。

三線と泡盛の起源と原料に見る東南アジア(~インド)と沖縄(琉球)の関係

2019-01-15 10:57:09 | 日本地理観光
三線(サンシン)(イラスト沖縄)

沖縄の三線に使うヘビの皮は、昔はどのような手段で手に入れてたのですか?(Yahoo知恵袋 2014/8/10)

沖縄と東南アジアの伝統的な貿易関係と三線(三味線)という文化。三線の蛇皮は小さいハブではなく、ニシキヘビ使用。東南アジアのタイ(シャム)等からどうも輸入したという話ですが詳しくありません。三線が福建由来としても福建自体、東南アジアとの交流があったでしょうし、いずれにせよニシキヘビが福建にいないのであれば、沖縄は原材料を大陸以外の何処かから輸入したに違いありません。

泡盛もタイとの関係が深くラオロン(詳しくありませんが老龍と読めなくもありません。ただ、後述しますが蒸留酒自体の起源からそもそもの東南アジアの蒸留酒が中国起源は考え難く、後の時代の用語の可能性もあるかもしれません)起源説が有力だそうでインディカ米使用。泡盛の語源はサンスクリットのアワムリ(酒)とも言われます。福建省の代表的な酒に福建老酒(紹興酒)があります。泡盛ってどう見ても中国系ではないと思いますし、蒸留酒ですから起源が沖縄にあるということも無さそうです。蒸留酒はルーツが中東・西欧にあって、中国より東南アジアの方が蒸留酒を知るのは早かったのではないかと考えられます。ゆえに泡盛は東南アジア起源(更にはインド起源)が濃厚と思いますが、焼酎は中国起源(ただし更に辿ると中東か西欧に行き着くはずです)だと思います。チュウ(日本語で言えばシュ)が中国語の酒だからです。

シャムはサンスクリットに由来するとも言われます。調べてみるとサンスクリットとパーリ語の関係とかややこしいんですが、いずれにせよ、シャムは東南アジアにおいて先行したクメール(カンボジア)から見た他称みたいですね。クメールがどう見てもインド系文化な訳です。タイも南伝仏教ですが。東南アジアの文明化は明らかにベトナム北中部を除き、西方からであったことは疑いありません。

スペイン語・ポルトガル語の大航海時代の文献で琉球(レキオ)人の東南アジアにおける活躍が知られるようです。ゴーレスとも。明との朝貢貿易と琉球王国との深い関係は派手な建造物もあり当然目立ちますが、琉球王国人は直接東南アジアに出かけていたことも当然踏まえるべき歴史です。

余談ですが、沖縄が東南アジアとの関係を取り戻すのであれば、教育を考えるのもいいような気もしますね。ITは人手不足業界ですし、場所のハンディもあまりなく、距離的に東南アジアに近い優位性があります(シンガポールやタイとの直行便あり)。優秀な人材が集まる場になれば面白いと思います。英語立県を目指す沖縄県ですが、会話に特に優位性があるんだろうと思います(英語教育の本筋は読みでしょうか)。多言語対応もいいですがキリがなく、世界共通語が広く使われる環境にしていけば、多様な外国人が訪れやすいのは間違いありません。

沖縄最古のグスク勝連城とグスクの成り立ち

2019-01-13 21:28:12 | 日本地理観光
勝連城跡

勝連城跡で歴史ロマンを垣間見る~沖縄の世界遺産最古の城塞へ(LINEトラベル 2015/11/30)

うるま市の素晴らしい歴史遺産勝連城。最古のグスクとされ、元代の陶磁器(染付)が出土しているとか。恐らく明代に日明貿易が始まるまで、勝連のあたりが沖縄の中心地だったような気もします。日明貿易は政府間の公式の貿易でしたが、元との貿易はそうではありませんでした。また一方で民間の貿易は存在したとは言え、元寇の脅威があったのも事実です。この状況は沖縄においても基本的に変わらなかったと言えると思います。ゆえに元との貿易を中心に政治を考える必要もありませんし(使節を迎え入れるための便を考える必要がない)、また、その脅威を意識した(島の東側での)国造りも有り得るだろうと考えられます。うるま市のあたりにはまとまった土地もあるようで、比較的早く開けたとも考えられます。

グスクの起源ですが、時代的にも元寇防塁との関係を筆者は考えます。本土の石垣ですが、花崗岩を容易に採取・運搬できる瀬戸内海沿岸に多く残り、花崗岩が産出が限られる東日本にはほとんどないようです。つまり城の造形は利用できる資源に規定されるところがあります。沖縄のグスクは琉球石灰岩で築かれており、これが本土には存在しなかった城壁が形成された主因だと思われます。サンゴ礁で形成される琉球石灰岩は勿論大陸にも存在しないでしょうから、その起源はさておき、これは本土の織豊系城郭と同様に、沖縄独自に発展してきた文化と言えるのではないでしょうか。

グスクの語源ですが、諸説あるようですが、古くは具足という字が当てられていたそうで、筆者はそのまま甲冑や鎧・兜の別称である具足が語源ではないかと思います。グスクと御嶽の結びつきが指摘されているようですが、御嶽を中心とした集落を守る具足(=鎧・城壁)がすなわちグスクという訳です。

うるまは沖縄の美称でもありますが、沖縄最古のグスクであるところの勝連城を擁するうるま市こそ本当の(考古学で痕跡が確かめられる)沖縄文化の起源の地と言えるのかもしれません。日本で言えば北九州みたいなものでしょうか。