愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

『太平記』の地震記録 正平南海地震

2015年03月11日 | 災害の歴史・伝承
正平一六(一三六一)年六月二四日に発生した正平南海地震。その前の南海地震とされる康和地震から二六三年という長い間隔での発生です。江戸時代の宝永地震と同規模とも推定される巨大地震であったとされています。当時は南北朝時代でしたので、年号が南朝、北朝それぞれにあり、南朝年号で正平一六年、北朝年号では康安元年でした。この正平地震ですが、数多くの史料にその被災記事が見られます。特に詳細なのが『太平記』巻第三十六です。『太平記』は貴族や武家の日記、記録類ではなく軍記物語なので内容が誇張されている部分も多く見られ、また史実とは異なる記述も見られるため、即、一次史料として活かすことには躊躇するのですが、正平地震の様子がリアルに表現されているので、ここで紹介してみたいと思います。(『日本古典文学大系三六 太平記三』岩波書店、一九六二年発行、三四六~三四八頁)

まず、「大地震幷夏雪事 同年ノ六月十八日ノ巳刻ヨリ同十月ニ至ルマデ、大地ヲビタヽ敷動テ、日々夜々ニ止時ナシ。」つまり正平十六年六月から数ヶ月間、地震が頻発している。「大乗院日記目録」によれば「延文六年六月十八日ヨリ十月十八日至大地震」とあり、『愚管記』、『後愚昧記』によれば、六月二一日、二二日、二三日、二四日、二五日、二六日、二七日、二八日、七月一日、四日、八日、九日、二四日、八月一日、一一月一四日等に地震が発生した記事が見られます。

『太平記』の続きには「山ハ崩テ谷ヲ埋ミ、海ハ傾テ陸地ニ成シカバ、神社仏閣倒レ破レ、牛馬人民ノ死傷スル事、幾千万ト云数ヲ不知。都テ山川・江河・林野・村落此災ニ不合云所ナシ。」とあり、山が崩れて谷が埋まった事、海が陸地になった、つまり「沈降」とは逆の「隆起」現象が発生したこと、神社、寺院の建物が倒壊し、庶民、牛馬の死傷が多かった。それは何千、何万にもなる程であったと記されています。

注目すべきは次の記事です。「中ニモ阿波ノ雪ノ湊ト云浦ニハ、俄ニ太山ノ如ナル潮漲来テ、在家一千七百余宇、悉ク引鹽ニ連テ海底ニ沈シカバ、家々ニ所有ノ僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一モ不残底ノ藻屑ト成ニケリ。」とあり、阿波国の「雪ノ湊(ゆきのみなと)」、現在の徳島県美波町(旧由岐町)での津波被害の様子が記されています。山のような津波がみなぎって、家々が千七百軒ほどがことごとく引き波によって海底に沈み、人々や牛馬など残らず流されたというのである。この記述は信憑性が高いとされています。それは実際に由岐にその地震で被災した方の供養のための津波碑が建てられており、それが現存しているのです。これは日本最古の津波碑とされていまして、「康暦碑」と呼ばれています。

この「康暦碑」は美波町東由岐大池イヤ谷に現存し、地震から二十年後の康暦二(一三八〇)年一一月に建てられた高さ一六〇㎝、幅七〇㎝、厚さ一〇㎝の砂岩系の板状石碑で、町指定文化財となっています。この康暦碑の存在によって『太平記』の記述が史実であったことを裏付けているのです。

ちなみに私は平成二七年三月にこの康暦碑をはじめ旧由岐町を歩いてみたのですが、様々な津波への警鐘に関する掲示が見られ、住民の津波への防災意識の高さを実感させられました。

また『太平記』に「阿波鳴戸俄潮去テ陸ト成ル」という記述もあり、阿波国鳴門においても隆起現象かもしくは引き波による海面変動があって海面が陸地化したという現象も紹介されています。

なお、正平南海地震での伊予国(愛媛県)の被害については、明確な史料は確認できませんが、隣県大分県にはその痕跡が発見されています。それは津波堆積物のボーリング調査による結果です。大分県佐伯市の間越龍神池では三三〇〇年前までの地層中に八枚の津波堆積物が発見され、特に大規模な地震で津波堆積物が生成されており、新しいものから宝永地震(一七〇七年)、正平地震(一三六一年)、白鳳地震(六八四年)に対応すると推定される三枚の津波堆積物が確認されています。このことから豊後水道を挟んだ愛媛県南予地方沿岸部にも津波が襲来したことが推定できるのです。(註 松岡裕美、岡村眞、岡本直也、中野大智、千田昇、島崎邦彦「津波堆積物に記録された南海地震の繰り返し間隔」(『日本地球惑星科学連合二〇〇七年大会予稿集』、二〇〇七年)

『太平記』には阿波国だけではなく、畿内での津波被害についても詳述されています。「七月(ママ六月の誤りか)二十四日ニハ、摂津国難波浦ノ澳数百町、半時許乾アガリテ、無量ノ魚共沙ノ上ニ吻ケル程ニ、傍ノ浦ノ海人共、網ヲ巻釣ヲ捨テ、我劣ジト拾ケル処ニ、又俄ニ如大山ナル潮満来テ、漫々タル海ニ成ニケレバ、数百人ノ海人共、独モ生キテ帰ハ無リケリ」とあり、難波浦(現在の大阪市内)で津波の前に海が半時(約一時間程)干上がったので、海人(漁民)が我先にと魚を拾い上げていたところ、大山のような津波が襲来して、数百人の漁民が犠牲になったといいます。地震による津波がまず押し波が来るというわけではなく、海面が引いてしまって、その海岸に人が入ってしまい、直後に押し波がやってきて被災するという事例は日本だけではなく、二〇〇四年のスマトラ島沖地震でも見られたことです。このように大阪湾で大きな津波被害が見られたのが正平地震の特徴でありますが、南海地震での大阪湾での津波被害は、歴代の比較で規模が大きくはなかった昭和二一年の昭和南海地震を除けば、安政地震、その前の宝永地震などでも大阪は津波被害が見られます。大都市ゆえに将来、発生が予想される南海地震において大きな津波被害が心配されています。

さて、『太平記』では津波だけではなく、地震の揺れによる被害についても記述されています。「八月(ママ六月の誤りか)二十四日ノ大地震ニ、雨荒ク降リ風烈ク吹テ、虚空暫掻クレテ見ヘケルガ、難波浦ノ澳ヨリ、大龍二浮出テ、天王寺ノ金堂ノ中へ入ルト見ケルガ、雲ノ中ニ鏑矢鳴響テ、戈ノ光四方ニヒラメキテ、大龍ト四天ト戦フ体ニゾ見ヘタル。二ノ龍去ル時、又大地震ク動テ、金堂微塵ニ砕ニケリ。(中略)洛中辺土ニハ、傾ヌ塔ノ九輪モナク、熊野参詣ノ道ニハ、地ノ裂ヌ所モ無リケリ」とあり、四天王寺の金堂が倒壊し、京都の寺院の塔では建物上部の九輪が傾くことが多く、そして熊野古道では地面が裂けたという。この『太平記』の記述内容は『後愚昧記』、『斑鳩嘉元記』などにも同様の記述があり、信憑性は高いといえます。

なお、四国での被害については高知県南国市の事例があります。『土佐国編年紀事略』第三巻に引用された土佐国香美郡田村下庄、現南国市の前浜正興寺の古文書に「土佐国田村下庄正興寺、院主職并供田井門(カ?)条十里西依、合テ五段、放牧地、西条九里一町、同八反、右件供田は、本寄進状者、康安元年六月十四?日、大塩之時、雖令紛失(後略)」とあり、つまり田村下庄にあった正興寺に寄進された供田の寄進状が津波で流出し、紛失したというのです。この正興寺は都司嘉宣氏と地元教育委員会により、その位置を特定されています。下田村のその場所は海抜四.五mであるため、寄進状流出の津波の高さは五.五mと推定されています。これは日本の歴史地震で津波の浸水点が明確になった最古の事例としても注目されています(註 都司嘉宣『歴史地震の話―語り継がれた南海地震―』高知新聞社、二〇一二年、三一~三六頁)。以上のように、畿内の揺れや摂津国の津波、阿波国、土佐国の津波、そして大分県佐伯市での津波堆積物の事例を総合的に鑑みてみると、伊予国においても地震による揺れや津波の襲来があったことを推定することができるのではないでしょうか。

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