愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑧

2023年11月13日 | 災害の歴史・伝承
7 瀬戸内海沿岸部の津波と地盤沈降・高潮被害
 愛媛県でも宇和海沿岸部には過去に地震で津波がきたという記録は数多いが、松山市、伊予市といった中予地方、そして今治市、上島町、西条市、新居浜市、四国中央市といった東予地方、つまり瀬戸内海沿岸部ではどうなのか気になるところである。愛媛県内の災害を考えるには瀬戸内海、宇和海の両方、そして中山間地域も視野に入れないといけない。
 まずは東予地方の西条市について紹介したい。1966年発行の『西条市誌』の中に、宝永4年の大地震による「津浪」のために「深の洲」新田が欠潰れしたと書かれている。宝永地震の際に津波被害があったされているが、実は瀬戸内海の津波被害に関すると思われる史料の解釈は非常に難しい面がある。
 一例として松山藩壬生川浦の番所記録を挙げてみたい。壬生川は西条市東部、旧東予市であるが、江戸時代には松山藩領内であった。その記録で、宝永つまり1707年の宝永地震の際に「高潮が満ち候よう相成り、ところどころ新田など流失」とある。これをどう考えるか。宝永四年の大地震があって、その後、高潮、津波がきて、そして潮が満ちて、新田が流された。だから地震の直後に津波がきて、流され、被害があったと解釈することもできる。しかし、この「その後」というのがいつの時期なのか判断が難しい。一ヶ月後かもしれないし、三年後かもしれない。要するに、その後に地盤が沈下、沈降してしまって、それによって地震発生以前には満潮や大潮になっても潮が陸地にあがることはなかった場所が、地震後は潮がどんどん入ってくるようになる。それで、新田が流失してしまったと解釈することもできる。この二つの解釈のうち、南海トラフ地震が起きると、四国地方においては隆起する場所もあれば、沈降する場所、要するに地盤沈下して、地面が沈んだままになってしまうという被害がある。地盤が沈下して元の高さに戻らない。そのために海岸部では潮が入りやすくなってしまう。
また、西条市玉津の碇神社棟札があり、宝永4年に地震が発生して高潮が満ちるようになり、翌年に高潮によって社殿が大破し、正徳2年に遷宮したと記されている。『西條誌』(天保13(1841)年完成)にも明神木の碇神社について「宝永の高潮」の記述が見られる。巻之四に「明神木村 村名の義、昔ハ碇明神の社、当村の下にあり、此社に大樹あり、四方に挺(ルビ:ヌキンデ)、仰山に見ヘければ、明神木とは名けたりと云、(中略)当村、昔ハ今の御舩室の少し上にありて、海に瀕し、漁家多かりしが、宝永の高潮に破損し、今の処に移る」とある。また巻之二には近江屋が築いた新田が「宝永の高潮に、此新田破損、其残りたる分を、善助新開と呼」とあり、神社や堤塘が被害を受けただけではなく、開発された新田が被害を受けていたことも記されている。このように瀬戸内海沿岸地域では南海地震が発生した後に、地盤が沈降して満潮時や大潮のときに海水が越えるのが常態化し、大きな台風が来た場合に大水害が起こるという地域特性が見られるのである。
同様の被害は昭和南海地震で旧北条市でも起こっている。北条鹿島に渡る乗船場のすぐ近くに、昭和37年3月に建てられた堤防工事碑がある(写真参照)。正面に「北温海岸防波堤竣工記念」とあり、裏面に「松山市堀江町より北方へ北条市浅海町に至る全長十五粁の海岸は従来標高三米自至四米の石積堤防又は天然海岸で年々再々高潮の災害を受けていたが昭和二十一年十二月の南海地震によりこの海岸では約六十糎の地盤沈下を生じ(中略)昭和二十九年より関係者当局の格別な配意と地元民の撓まざる努力により(中略)昭和三十六年三月これが改良事業の完成を見た」とある。これは地盤沈下の被害の典型といえる。
 ところが、いろんな史料を探してみると、「藤井此蔵一生記」という江戸時代末期から明治時代にかけての史料がある。これは大三島の上浦(現今治市)出身の藤井此蔵が記したもので、安政南海地震の記述が見られる。そこには、津波があって潮が七、八回干し上がって満ち引きがあった。そしてその後、満ちてきたとある。これは現象としては、やはり津波と考えるのが適当だろう。このように、瀬戸内海に津波が全くなかったとは言いきれない。参考までに香川県の史料を見ておきたい。宝永地震に関する記述のある「続讃岐国大日記」には「同(宝永四年十月)四日、未刻大地震、地烈(裂カ)出白水、高松城下人屋多崩人死、亦潮高満、平日増六尺、陂堤損破、其餘越月、十二月治」とある。潮が満ちて、通常に比べて6尺高くなったとある。6尺というと2m弱である。約2m増して、そして防波堤損し破ったということで、これは津波被害と考えるのが適当であろう。瀬戸内海においても過去の大地震によって津波による被害が発生していたのである。また、『四国防災八十八話』(国土交通省四国地方整備局企画発行、2008年)第60話「瀬戸内海の津波」には昭和南海地震の際の大洲市長浜港沿岸の津波に関する記述がある。「昭和二一年(一九四六)一二月二一日の午前四時過ぎ地震が発生しました。汽車で松山へ通学していた私は、いつも起きる四時過ぎに玄関に出てみると、家の前には潮がさしていて、水深三〇~五〇センチメートルはありました。(中略)五時頃に、長靴をはいて表通りへ出てみるとやはり路面二〇センチメートルはあります。静かに潮位が上がった感じでした。」とあり、昭和南海地震の発生直後に数十㎝の津波が大洲市長浜町で記録されているが、これは地震による地盤沈降が原因で地震発生直後に海水が流入し浸水が始まったと推定できる。つまり、瀬戸内海沿岸部の津波は「地震発生から1時間以上経てから来るもので、避難する時間は充分にある」とは限らない。地震発生から数分で浸水が始まることも想定しておくべきであろう。
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