愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛県内に残る「島原大変肥後迷惑」史料

2016年10月14日 | 災害の歴史・伝承
本日10月14日。熊本地震からちょうど半年。

この半年、九州の災害に関する史料が四国側で残っていないか、気に留めながらいろいろ史料を見ていました。これまで調査して撮影していた史料の中にも、改めて確認すると当該記述も見つかったり。これまで九州と四国の災害を広域で見ていなかった自分。見落としがあることを反省した次第です。

今回、確認した史料が以下のとおりです。

江戸時代の寛政4(1792)年の九州島原の雲仙。地震で山体崩壊、そしてその土砂が有明海に流れ込み、対岸の肥後(熊本)に津波が押し寄せて多くの死者が出たいわゆる「島原大変肥後迷惑」。

以前写真撮影していた愛媛県八幡浜市内の庄屋の記録を読み込んでいたら、この寛政の「島原大変肥後迷惑」に関する記述があることを確認しました。(これまでは宝永や安政の南海地震に気をとられて寛政まできちんと読んでいなかったのです・・・。)

「嶋原温泉嶽壊崩」、「当辺迄、七日七夜ノ猛音ス」と書かれている。

つまり、雲仙の山体崩壊、津波の音が、南予(愛媛県八幡浜市)にまで聞こえていた(響き渡っていた)ということがわかります。

災害の歴史は、いまの都道府県単位で考えるのではなく、九州と南予など、県境を越えて災害史料を突き合わせてみることが大切なのだと、熊本、大分地震のあと、改めて考えさせられてるところ。

この「島原大変肥後迷惑」に関する史料が愛媛にあるというのは、いまのところ報告がありません(自分が把握している限り。ただ寛政4年4月の災害記述、探したらまだ出てくるような気もします。)

この「島原大変肥後迷惑」。寛政4年の大災害。雲仙眉山の山体崩壊の原因は噴火によるものではなく、地震によるものとされています。爆発的噴火であれば音が四国まで響き渡っても不思議ではないのですが、地震による崩壊の音が四国まで聞こえていたとすると、かなりの轟音だったはずです。長崎県内の史料に「百千ノ大雷一度ニ落チルガ如ク天地モ崩」とあり、一度に百、千もの雷が落ちたような音。その轟音が四国まで届いていたと思われます。

島原の眉山は、寛政4年の山体崩壊のあとも、明治22年の熊本地震のときも山崩れ、今回の熊本地震でも小規模ですが崩れています。このような史料情報の集積は大事かと思います。愛媛県内の災害史料情報を四国外とも共有しないといけないと思っています。


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