あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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グローバル化とは何か

2006-08-30 22:20:54 | 社会・世相
『en- taxi』という雑誌があります。
編輯人は福田和也、坪内祐三、柳美里、リリー・フランキー。
表紙の文によると「超世代文芸クオリティマガジン」とのこと。
『東京タワー』が連載されていたのもこの雑誌です。

さて、この『en- taxi』の第二号に柳沢みきおの『大市民』が掲載されていました。
グローバル化を論じた内容の漫画で私は非常に共感を覚えたのでここに紹介したいと思います。


そろそろ、我々、日本人は
これからをどう生きぬくべきかを真剣に考える時が来たと思う!!

主人公:「グローバル化ってのがもてはやされているが」
某編集者:「そうですね」
主人公:「みんなその正体が分かってんのかなァ」
某編集者:「は?――と言いますと?」
主人公:「白人支配化ってことじゃないか」
某編集者:「!!」
主人公:「もっと、つっこんで言うとアメリカ一極支配化ってことなんだよ!!」

我々アジア人が白人に支配されてしまうってのがグローバル化の正体だ
だからグローバル化を推奨してる役人が信じられん。
バカ言うな、だよな
反グローバル化こそが日本人として幸せに生きるコツになるんだ
今、お上が更に英語力の強化を始めようとしているが
(これもグローバル化だ)
なんで他国の言葉を全員がおぼえなきゃイカンのだ?
なんで入試に必ず他国語があるんだ?
必要だと思った人だけ覚えりゃいいんだ
そうでない人が覚えたところで日常のなんの役に立つのかねぇ
(中略)
それにさ戦後これだけ英語を押しつけられても結局身につかないではないの。
安っぽい英語だけは身につけたがな
(中略)
身につかないのはみんな必要性を感じていないからさ
なのにお上のバカ共は意味もなく押しつけて
国民は漬物じゃねぇんだ!!

それよりも―――!!

乱れきった自国語の教育が大事だろうが!!
(何がチョイスでリスペクトだ!! どアホウが!!)

母国語よりも他国語を大切にする国ってもう植民地じゃないか
まァしかしどうあがいても
グローバル化・アメリカ化ってのはさけられないどころか
日本はすでにアメリカの植民地だ

(中略)

まァ間違いなく日本はこれから貧しく苦しくなるばかりだろうな

妙な名になった銀行がまたひとつ倒れたが
その名になった時 この銀行はおしまいと思っていたが(もうひとつあるな・・・)

しかし豊かになったって
ブランド品買い漁る程度の消費のしか出来ない国民なんだから
むしろ経済的には豊かになんかならない方がいいんだよ

戦後日本の一番の間違いはアメリカを先生にしたことだ!!
幸せは金しだい!!
―――ってのがアメリカ流なんだよ
アメリカは歴史も文化もない
生まれてまだ二百年しかない新しい国なんだ(たった二百年だぞ)
だから、だからこそ
金がすべての価値判断になるしかない国なんだ!!(当然だ!!)
日本はそんな国、むしろ反面教師として見るべきだったのに・・・
古い国である日本がそんな赤チャンの国をマネしたもんんだから
昔から温めてきた文化を削ぎ落としてゆき―――
地盤のスカスカな“欠陥国家”を造り上げてしまった

唯一、残されたものはあふれるほどの美しき四季だ!!
そういう地に生まれたことを我々日本人はもっと神に感謝するべきだ

(中略)

汐留、丸の内、六本木ヒルズ―
なんだそんなもの
自然にまさるものは無しだ!!

人生の良し悪しは金の豊かさでなく
心の豊かさで決まるのだ!!

(中略)

ギリシャの村をテレビでやっていた
みな驚くほど身なりは貧しいが(クツもズボンもヨレヨレ)
我々日本人よりはるかに生き生きと楽しそうで
男が熟成して人生を味わっているように思えた・・・
今の日本人と真反対だ!!

戦前には日本にも「ダンナ」と呼ばれる熟成した大人がいた
今はもう国宝級に絶滅しつつある
札束で人をひっぱたくようにして
いばっているオヤジはゴキブリのように繁殖しているが

だって皆さんの回りに一人でもいます?
永六輔みたいな粋なダンナが・・・
「粋なダンナ」こういう大人が少ないと国に色気がなくなる

(中略)

夜中の雨は大地の匂いがして大好きだ
世間では高層マンションが大人気らしいが
私は窓から大地の匂いがしてこない家には住みたくない
もっと日本人は原点に戻って大地に足をつけた生き方をするべきだろう
アホのように癒しを求めてるが
大地にこそその癒しがあるのに

今の日本人を見ていると哀れになる
新しいモノ 意味の無い流行に支配され、
世間で使用済みの用意された言葉、考えを
何も考えずになぞり
自分の言葉で話さない
形だけにとらわれ
他人との比較でしか自分を判断できない
子供の国だ

知らなくても良かったような情報を次から次に仕入れ
軸がないものだからそれらに踊らされ、さまよい歩く
脱都会(自然美を愛しアメリカ的人工美に背をむける)
脱グローバル化(英語のパソコンも無用)

日本人として幸せに生きるにはこれしかないだろう



共感したり耳が痛かったり、
柳沢みきおの言葉は私に深く突き刺さりました。
それにしても日本には「粋なダンナ」がいなくなった。
私もたいがい野暮な人間ですが、
そんな私からみても今の日本人が野暮に映るのだから
余程、野暮が増えたということなのでありましょう。

北方領土を思ふ

2006-08-26 22:49:25 | 政治・経済
所用で博多に行ったら博多駅の駅ビル内で「北方領土展」という催しをやっていた。
展示のパネルを眺めていると一人の男子高校生に話し掛けられた。
話によると、根室からはるばるこの催しをやるために博多までやって来たのだと言う。

この日、博多に来たのは男子生徒一人、女子生徒二人、教師二人。
私はその内、この男子生徒と女子生徒一人、教師一人と話をした。
話を聴いていて私は改めて北方領土問題の深刻さを思い知らされた。

例えば、先日、根室の漁民が一人ロシアに殺害され現在も三人が拿捕されたままだが、
私と話をしたこの女子生徒の父親の友人がまさに殺害された漁民、盛田光広さんなのだ。
この生徒たちの親御さんは皆、漁民であり生活してゆく為にはこの危険な海域で操業せねばならないわけで、
今度のロシアによる狼藉はまさに身近で切実な問題なのである。

そして、生徒の祖父母達は皆、北方領土出身なのだという。
話によると、彼らの祖父母達は終戦時にソ連が侵掠して来た時、命からがら島から逃げてきて、
そして、今でも納沙布岬から北方領土を眺めては悲しそうな顔をするのだという。
そういう祖父母の顔を見るたびに胸の奥にこみ上げて来るものがあると語ってくれた。
自分の故郷を他国に侵掠された悲しみは如何ばかりだろうか。
その悲しみは今も続いているのである。

他にも根室高校の先生は小泉首相について話してくださった。
曰く、小泉のせいで北方領土返還の気運が一気に逆戻りしてしまった、と。
小泉首相は北朝鮮の拉致問題にはある程度取り組んだかも知れないが、
確かに北方領土問題に関してはまったく無関心であった。
これは歴代首相の中でも特筆して酷いらしい。
先生のお話によると二月七日の北方領土の日に毎年行われている「北方領土返還要求全国大会」に今年、小泉首相は欠席して、
ロシア側の代表団は皆、首相が来ないからといって帰ってしまったという。
「(首相欠席の)理由は国会が忙しいからだと言うんですよ!」
先生は小泉首相に対して怒りをあらわにされていた。

私はこのようないきさつを一切知らなかった。
自らも北方領土問題に関して無関心であったことを恥じ入るばかりだ。
我々、一般国民にとって北方領土問題は自国の問題にもかかわらず半ば他人事のように捉えているが
根室の人々にとっては先に述べたように切実な問題なのである。

小林よしのりは『沖縄論』において日本国民の関心が沖縄に向けられていないことを糾弾していたが、
北方領土に関しても同じことである。
日本人は自国の問題でも自分に関係ないことには目を向けたがらないし、
自らの生活そのものに影響を及ぼさない限り本気になって考えない。
だから政府だって本気でこのことに取り組まないし、首相だって平気で「返還大会」に欠席する。
結局、日本は理念無き国民が住む理念無き国家なのである。
勿論、この「理念無き国民」に私も含まれよう。

北方領土の返還を実現させる為には
我が国がロシアのように武力で以ってそれを成し遂げることが出来ない以上、
ロシアとの協議によって行われる他ない。
その協議を活発に行われるようにするには
「プロ市民」みたいなことを書くようだが、やはり「多くの国民の声」が必要なのである。
拉致問題が後に引けなくなったのは国民の声があまりにも大きくなったからである。
そういう次第で、この記事を御覧になった方は是非、まわりの方に北方領土の話を伝えてください。
そうすれば、根室高校の生徒さん方もはるばる博多まで来た甲斐があったというものでしょう。

今回、根室からやってきた高校生は北方領土返還の為に様々な運動をしていて、
麻生外務大臣や武部幹事長に会ったり、櫻井よしこさんを講演に招いているのだという。
(小泉首相にも会ったが、本気で対応してくれなかったと嘆いていた)

別れ際に根室の高校生や先生と「これからも頑張ってください。私も国民の一人として影ながら応援します。」と握手を交わした。
そういう次第でどうも北方領土の問題は身内の問題のように思われてこういう記事になってしまった。
なんだか、運動家じみた記事になってしまったがお察しくださるよう。

冥王星と宇宙観と人生観

2006-08-24 22:53:40 | 社会・世相
水金地火木土天海冥・・・
私も小学生の頃だか中学のころに太陽を廻る惑星をこうやって覚えた。
それが、チェコのプラハで開催中の国際天文学連合(IAU)総会で冥王星が惑星ではなくなるかも知れないという。

・・・と、ここまで書いてたった今、テレビで「冥王星は惑星から除外された」との速報が入った(22:38)。

冥王星は惑星から除外されたそうである。
なんでも、近年、冥王星級のセレスやカロン、2003UB313などという小さな惑星が見つかったので
これ以上惑星が増えると各界に混乱を与える為、
いっそのこと冥王星を惑星から除外することになったようだ。
私も(もう決まったが)この案に賛成。
冥王星級の星を惑星と見なすのであれば今後も惑星が増えかねないからだ。

さて、本題。
この冥王星騒動でとある学芸員がテレビのインタビューに対し
「冥王星が惑星ではなくなると宇宙観に影響を及ぼしますし、我々の人生観にも影響があります」
と述べていてた。
私は失礼ながら思わず苦笑してしまった。
というのも、私は宇宙観がどうなろうが
まして、冥王星が惑星であろうがなかろうが
そのことに影響を受けるような人生観など持ち合わせていないからだ。

また、『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦大和』の作者、松本零士さんも
冥王星が惑星ではなくなることに関して「裏切られた思いだ」と述べていた。
やはり、宇宙に思い入れのある人にとっては看過できない問題なのだろうか。

確かに「水金地火木土天海冥」が「水金地火木土天海」になるのはちょっとさみしい気もするが、
やはり人生観には何も影響無い。

古屋兎丸・著『ハピネス』感想

2006-08-24 21:59:27 | 漫画・アニメ
古屋兎丸の『ハピネス』を読んだ。

最近の兎丸は『π パイ』というくだらない漫画も描いていたが、
ハピネスは久々に兎丸の本領発揮といった作品。
「儚い青い季節の物語・8篇を収録」(←帯の解説文より)されている。
所謂、普通の青春物語ではなく変態であったり自殺志願者であったり普通ではない人ばかりが登場する青春物語。
本書の初めの方に収録されている作品は“記号化された”アングラの匂いが漂って楽しくなかったが、
後半の「インディゴエレジィ」や「アングラ☆ドール」は良作だった。

どの短篇も「救いようの無い人」しか登場しない。
「負け組み」なんて生易しいものではなくほとんど壊れていたり、落伍者であったりする。
そういう人々をただ登場させるだけなら誰でも出来るが、
それで終わらないところが兎丸の三流の作家と違うところだ。
救いようのない内容ながらも最後に一輪の花を咲かせている。
そして、一つひとつの作品の世界観や設定が出来合いのものではなくしっかりと創られている。

兎丸の作品を読むときどうしても意識してしまうのがつげ義春だ。
つげ義春は本人の意図しないまま漫画を文学の高さまで昇華させた人として有名だが、果たして兎丸作品は文学なのか。

兎丸は社会不適合者を描かせたら巧いという点でつげ義春に似ているが、作風は随分異なる。
前者はアングラを常に意識して描いているがつげ義春はまったく意識せず自己の体験から自然に紡ぎだされた部分が大きい。
兎丸作品よりつげ作品の方がより深みがあるのはそういった理由からだろう。
兎丸作品が文学的かどうかはここで答えを出さないとしても、
『涼宮ハルヒの憂鬱』を代表とする所謂ライトノベル作品よりは余程文学的であると思う。

加藤絋一宅放火事件について

2006-08-20 01:22:02 | 政治・経済
十五日に加藤絋一・自民党元幹事長の自宅が放火された事件に関して政府・与党から
「日本は大政翼賛的になっている。右傾化の流れはよくない」
という声があがっているそうです。
私にはその理窟がよくわかりません。
今回の事件は右翼によるテロでしたが、このことを以って右傾化が進んでいると言えるのでしょうか。
右翼のテロが盛んになるのはむしろ左傾化が進んだ時であって、
右傾化が進むとむしろ右翼はわざわざテロなどを起す必要がないはずです。

そして本当に右傾化が進んでいるのであれば、先日、ロシアによって日本の漁民が射殺されたことに対してもっと国民が怒ってよいのではないでしょうか。
しかも、今回は実際に日本国民の命が失われているのです。
ある意味、北のミサイル発射より実害が出ているという点で深刻です。
が、北朝鮮のミサイルには一応、右翼は怒ったようですが、
今回のロシアによる殺人事件では国民どころか右翼ですらあまり大きな声をあげているとは思えません。
朝鮮のやることは赦さぬがロシアのやることは仕方が無いということなのでしょうか。

結局、右傾化にしろ左傾化にしろ皆、本気になっていないと言うことです。
最近は、右傾化の風潮があるというだけで言わば流行っているだけでしょう。
本気で考えている人も勿論いるのでしょうが、
かつてのの学生運動のようにファッションでやっているんでしょう。
ですから、若くて保守や愛国を名乗る人ほど信用できません。
私も保守的なことばかり言っていますが信用なさらぬよう。
(ちなみに私は「愛国者」などではなく最も不忠な国民の一人です。)

さて、話を元に戻しますが、加藤氏の自宅が放火されたことは良い事ではありません。
が、民主主義の危機でもなければ右傾化でもない。
そもそも、独裁国家よりも民主主義国家の方がテロは起こりやすいのです。

それにしても、なぜ加藤氏を狙ったのでしょうね。
彼のように既に権力も発言力も殆ど無い政治家を狙ったところでなんの得があるというのでしょうか。
結果的に反靖國勢力を利する結果になっただけだと思います。

今回の件で一番腹が立ったことはこの右翼を
「憂国の志士、あっぱれなり!!!」
などと言って褒め称えた者がいたことです。
http://pixie0619.livedoor.biz/archives/50675432.html
この事件の犯人が「憂国の志士」だとすれば、
国を憂ふことは斯くも安っぽいことであったのでしょうか。
もちろんそうではなく、本当の意味での「憂国の志士」に対して失礼な話です。

私は政治テロが起こる事よりもこのような言説を吐く者が増えることにこそ危機感を覚えます。

手塚治虫と宮崎駿

2006-08-20 00:39:02 | 漫画・アニメ
『爆笑問題 死のサイズ』で太田光が「宮崎駿は人間否定だけれど、手塚治虫は人間肯定だ」と言っていた。
私もその通りだと思う。

手塚治虫も宮崎駿も自然の素晴らしさを謳う点では共通しているのだけれど、
宮崎駿の方は決定的に人間を否定している。
私は手塚治虫の考え方の方が好きだ。
確かに地球環境の為には人間など絶滅してしまった方が良い。
が、そういって人間を否定することは簡単で、
むしろ、そんな人間を肯定する方が実は大変なのだ。
私は本気で人間を滅ぼす気も無いくせに人間を否定する人よりも
人間の愚かさを自覚した上でその人間を肯定する方が魅力を感じる。

宮崎駿の作品を愉しみつつもどこか説教くさく感じることがあるのはそういう点だろう。
『となりのトトロ』はそういう気持ち抜きで純粋に楽しめるのだが、
『もののけ姫』はそれが全面に出ていてなんだか居心地が悪い。

駿の息子の『ゲド戦記』はまだ見ていないのだけどCMで「命を大切にしない奴なんか大嫌いだ!」と言う台詞を聴いてこの映画は見たくないなと思った。
いや、食わず嫌いと言われればそれまでだし、実際、愉しまれた方には申し訳ないが、この台詞は説教臭さの最たるものだと思う。
命を大切にしなければならないことは正論であろう。
が、私は命を大切にしない者よりも、命より価値あるものを認めない者の方が嫌いである。

続・戦争責任とは何だろう?

2006-08-19 23:55:08 | 政治・経済
「続」と言っても今回は福田恆存先生の文章を紹介するだけです。
あしからず。
と言うよりも私の駄文を千掲載するよりも福田先生の文章を一紹介する方が余程良いでしょう。
人生は一文の福田恆存にしかず。
ということで、戦争責任についての福田先生の文章を一つ紹介いたします。


もし間違つた戰爭を起した親達であるなら、そして懸命に戰つて敗れた親達であるなら、たとへその結果としての苦勞を背負はされたとしても、子供達はその親達を責めてはならぬはずです。
その戰ひの間でも、自分の食料を減しても子供に與へようとした親達に對して、「軍部にだまされた馬鹿」として冷たい目を向けられぬはずです。
 同時に、親達も、たとへ間違つた戰爭であらうが、それを戰ひ拔いた自分に自信を失つてはならないし、その自信の無さから子供を甘やかし、子供にへつらつてはならないのです。
 が、殘念ながら、戰後の日本はさういふ過ちを犯してしまつたのです。戰爭を起したり、戰爭に負けたりした過ち以上の大きな過ちといふべきでせう。



我々は今だこの戦後の過ちを犯し続けているようであります。

戦争責任とは何だろう?

2006-08-15 21:31:43 | 政治・経済
靖國問題と同時に論じられるのが「戦争責任」という問題です。
よく聞くものに「A級戦犯には戦争責任がある」という言説がありますが、
その「戦争責任」とは一体いかなる責任なのか。
戦争を始めた責任か通常の戦争犯罪か戦争に負けた責任か、一体どれなのでしょう。

私はまづ大前提として「戦争責任」を論じるには東京裁判という括りを外してから論じなければならないと思います。
というのも、東京裁判で裁かれた人たちは事後法でそれもあまりにも杜撰な手続きと選定によって裁かれたからに他なりません。
かといって、「A級戦犯」には全員責任がないと述べたいのではありません、
東京裁判史観から離れて考えなければ本当の意味での責任者が明らかにならないと申したいのです。

では、「戦争責任」とは何なのか。
私が考える「戦争責任」は戦争に負けた責任です。
通常の戦争犯罪(民間人を殺害したり、捕虜を虐待する、など)は戦争責任と離れて単に「戦争犯罪」として裁けばよいことです。
そして、重要なことは「戦争を始めた責任」などということは論うべきでは無いということです。
よく思うことなのですが、「戦争を始めたから悪い」という人たちはおそらく歴史をよく御存知でない。
日本だけが悪で常に他国の侵掠を企んでおり、その悪の権化である日本がいたから
戦争が起こったと信じ込んでいるようです。
これはちょっと歴史を勉強すればわかることですのでここで詳しく解説いたしません。
別の機会にゆづることといたしましょう。

という次第で、戦争責任とは「戦争に負けた責任」であると考えます。
しかし、この定義も適切ではありません。
別の言い方をすれば「杜撰な戦争指導をした責任」「戦争終結時期を誤った責任」と申しましょう。
確かに日米戦争に於いては「負けた責任」を問うのは酷でしょう。
始めたのは仕方なかったとしても、止めるタイミングを見誤った。
そして、杜撰な戦争指導・作戦指揮により多くの兵を無駄死にさせてしまいました。
この二点は大変大きな責任でありましょう。

戦争責任を論うのであればこの二点に絞って追求するべきです。
そして忘れてはならぬのは多くの戦争指導者・作戦指導者はBC級戦犯として死刑になっているということです。
責任があったにせよ既に罪は償っている人も多いわけです。
「A級戦犯」に指定された人たちにも当然、戦争指導をした人がいますが、
それも絞首刑という形で罪を贖っています。
戦犯に指定された方たちも皆「日本を敗戦に導いた責任」を自覚していました。
自覚していたからこそ、「平和に対する罪」などというフィクションは認めないとしても死刑という判決は受け入れたのでした。

そして、支那が主張する
「悪いのは戦争指導にあたった日本の軍国主義者たちで日本国民は被害者」
という論も詭弁だと思います。
これは結局、戦争を起こしたことが悪いといっているわけで、
杜撰な作戦の被害者になった日本兵は居ても、
戦争を始めたことによる被害者などというものは存在しないからです。

小林秀雄は終戦の翌年(昭和二十一年)にこう述べています。

「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしてゐない。大事変が終つた時には、必ず若しかくかくだつたら、事変は起らなかつたらう、事変はこんな風にはならなかつたらうといふ議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起つたか、それさへなければ、起らなかつたか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というふものをもつと恐しいものと考へている。僕は無知だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいヽぢやないか。」

小林秀雄の云うように
大東亜戦争が起こったこと自体は歴史の必然としか言いようがありません。
結局、責任を問われるのは戦争が起こったあとの処置ということに尽きましょう。

支那朝鮮とは対話をするしかない

2006-08-15 20:38:22 | 政治・経済
今日は終戦記念日でありました。
小泉首相は豫想通り靖國神社に参拝し、性懲りも無く内外が騒いでおります。
いつ参拝しても騒がれるのだから初めから十五日に参拝すればよかったのです。
私は首相の靖國参拝には賛成ですが、小泉純一郎個人が参拝することには必ずしも賛成しておりません。
というのも、小泉首相は「東京裁判を受け入れた」とか「「A級戦犯」を犯罪者」などと述べているからです。
東京裁判史観を受け入れるのであれば参拝しない方が良いと思います。

それにしても、戦後もチベットやヴィエトナムに対して「侵掠戦争」を続け、
現在も軍備を拡張し他国の領海を侵犯したり、台湾に対しても軍事的な恫喝を行なう軍国主義国家である支那が日本に対して「たかが」神社に参拝しただけでとやかく言うのは滑稽ですね。
自国の領海侵犯や資源掠奪は棚に上げて日本にばかり文句を言う。
日本も支那ほど度胸があれば靖國問題など土台起こらなかったでしょう。

韓国も便乗して騒いでいますが、
当時、韓国は日本だったわけで、いわば共に大東亜戦争を戦っていたわけです。
一緒に支那を「侵掠」していたのに抗議する道理がよくわかりません。

いづれにせよ、両国は日本に対する外交カードになるから騒いでいるに他ならず、
日本が変に反応するかぎり支那朝鮮は騒ぎ続けるでしょう。
例えば江沢民は外国に駐在する大使など外交当局者を集めた会議で、
「(日本に対しては)歴史問題を始終強調し、永遠に話していかなくてはならない」
と指示していたことが最近発売された「江沢民文選」で明らかになりました。

支那にせよ朝鮮にせよ史実を捻じ曲げた歴史を国家レヴェルで教えて国民を洗脳している間はまともな議論もできないでしょうし、
言論の自由も無い国に土台国民感情などが存在する道理もありません。

結局、我々はそういう国々に対して無駄だとしても説明しつづけるしかないのだと思います。
向こうが理解してくれないから参拝しないというのではあまりにも消極的です。
それ以前に相手が対話のテーブルについてくれないと言うのならどうしようもありませんが。

雷に御注意。

2006-08-12 23:54:29 | 雑記
昨日の夕方前、家に雷が落ちました。

そのせいで、パソコンのLAN部分が壊れ(モデムも壊れた)、
インターネットに接続できなくなりました。
パソコン内のデータが損なわれなかったのが不幸中の幸いでした。
ところで台所のIHもお釈迦になったのですがそれは私の管轄外。

とにかく、ネットに繋がらなくなったので焦ったのなんの。
結局、昨日と今日の二日がかりで修理しました。

まづ、翌日の今日、NTTさんに来てもらいモデムを交換。
それでも復旧出来なかったのでLAN部分も壊れていることが判明。
私のPCはマザーボードにLANが内蔵されているので、その部分の修理はほぼ不可といことで、
新しくLANボードを買って来て取り附けました。
インターネットの設定も少しいじらなければならなくて、兎に角苦労いたしました。
近所の知り合いの電気屋さんにも手伝っていただいて夕方前になんとか復旧。
いやぁ、ホッと肩をなでおろしました。
他にもアドバイスをくれたロンドこと王子さん、ありがとうございました。

今回は至極プライベートな話題で失礼。
しかし、丸一日気が気ではありませんでした。
修理に時間を費やして精神も体もヘトヘトになりました。
パソコンについて知識が明るくないこともあって本当にくたびれました。
同時に自分が普段どれほどネットに依存しているかを改めて実感いたしました。
情報を得るにも発信するにも就職活動をするにも本を買うにもネットは欠かせません。はい。
ネットに繋がらなければパソコンはデータを入れておく箱に等しいですものね。

ということで、みなさんも雷にはくれぐれも御注意ください。
雷が鳴ったらインターネットの回線とパソコンのコンセントを抜くことをおすすめいたします。

亀田親子と立川談志

2006-08-11 01:30:24 | テレビ・芸能
YouTubeで亀田興毅の父親とやくみつるが口論しているのを見た。
やくみつるの「パフォーマンス」はいただけなかったが、
理窟はやくみつるの方を全面的に賛成。

私はボクシングに興味もなければ亀田が負けようが勝とうがどうでもよい。
ただ、ああいう下品な一家をメディアが持ち上げ、
あのような下品な振る舞いが良しとされる風潮が我慢ならないだけだ。

橋本弁護士が亀田を全面的に擁護していたが、
私には以前ホリエモンを擁護していた人たちと重なって見えた。

強ければ何をしてもいいのか。
強ければ下品な振る舞いをしていいのか。
パフォーマンスなら何をしてもいいのか。
パフォーマンスなら下品な振る舞いをしてもいいのか。
金儲けの為なら何をしてもいいのか。
他人に迷惑を掛けなければ何をしてもいいのか。

結局、これらの問いに対して
「そうだ何をしてもいいんだ。」と答えるのが亀田一家でありホリエモンである。
そして、それらを全面的に肯定したバカなメディアどもである。

この件に関して一番痛快なコメントをしたのは私の知りうる限りでは立川談志だった。


「品の悪い・・・なんて・・・あの一家って言うんですか。
 下品たってね、言いようのねぇようなやつらです。」
「あれ全部八百長です」
「点数言うの あの何対何とか あれも買収。ね?そういうのが大好きなんだTBSって局は」

http://www.youtube.com/watch?v=xg_CaS_H-Yk



改めて立川談志の魅力を感じた。
談志は口が悪い。
だが、亀田一家のように下品ではないし、筋が通っているし、なにより知的である。
毒舌を吐いたりやパフォーマンスをするにはそれを行なうにたる素質が必要なのだ。
そんな技術も能力も無い者が毒舌を吐いたってそれはただの悪口になるし、
パフォーマンスはただの狼藉にしかなりはしない。

日本の芸能界には立川談志の後を継ぐような人はいるのだろうか。

靖國神社に参詣して来ました

2006-08-09 22:27:49 | 雑記
靖國神社に参詣してまいりました。
前にも書いたように東京に行った理由は別のところにあって、
靖國神社にはその帰りがけに寄ってきたという具合。
でも、私の中では九段に行くことの方がメインのような心持ちでした。

さて、七日はとても暑い日で東京メトロ半蔵門線・九段下駅を降りて、
九段坂を歩いたのですがもう汗びっしょり。
勿論、初めて歩く道ですので、「この道でいいのかな」と思いつつ、
坂を登っていると神社が見えてきました。

まづ初めに思ったことは鳥居が大きいということ。
その鳥居をくぐると大村益次郎の像が出迎えてくれました。
手を洗い拝殿へ。

平日ながら意外に人が多くて驚きました。
西洋人も多かったですね。
西洋人はどのような思いでこの神社にやってきたのでしょうか。
言葉が通じるのならいろいろと話をしてみたいと思いました。

拝殿の前に立つと右側に昭和天皇御製の和歌が目に入りました。
「国のため 命をささげし人々の ことを思へば 胸せまりくる」
拝殿の前に立つ人が私一人だけになったところでお参り。
英霊の方々に感謝と御冥福をお祈りいたしました。

参拝を終えた後、遊就館へ。
時間が無かったので本館には入らずに遊就館特別展「故郷の護國神社」だけ見ることに。

それにしても、靖國神社は緑に囲まれた美しいところでありました。
英霊の方々も安らかにお眠りできるでしょう。
やはり、この場所は政治問題化してはならないと感じました。

家に帰るとTVタックルで靖國問題について議論が交わされていてなんだか苦笑。
テレビに限らずネット上のコミニュティでもこの議論が喧しいですが、
靖國に行ってきた私としてはどうもその議論に参加する気力が湧きません。
結局、意見が違うということは多くの場合その人の根幹にある心情に関わることですから、
殆ど話し合いで解決出来る類の問題ではありません。
いわんや、国家同士をや。
こちらの論が正論と思って議論しても向こうも持論が正論と思って議論しているわけですから、
議論が平行線をたどるのが道理です。
『バカの壁』にもありましたが話せばわかるなんて嘘なんですね。

かといって、話し合いをしなくてよいというわけではなくて、
我々はそれが不毛だとわかっていても話し合いをやめてはならないし、
お互いがわかり合えないからこそ話し合いをやめてはならないのです。

しかし、国内に於いては
日本人の七割が東京裁判を知らないという現状で議論をしたって無駄です。
まずは歴史を知るところから始めなくてはならない。
と言っても、目に見えるものしか信じない日本人は
外圧なしには動かないし、実害を蒙るまで目が覚めない。
先日のテポドン騒動にしても実害がなかったからもうみんな忘れてる。
今じゃ、ボクシングの亀田某というの態度が悪いとかそういうことに騒いでいる。
なんとも平和民族ではないですか。
別の言い方をすると極楽とんぼと云うのですが。

願わくば支那朝鮮にはもっともっと日本に対して攻撃をして、実害を蒙らせていただきたい。
そうすれば、いくら不感症の日本人と言えども少しは目を覚ますでしょうし、
靖國神社の問題に関してももっと本気になって議論するでしょう。

靖國神社に参詣してきます

2006-08-06 01:08:14 | 政治・経済
所用で七日の日、日帰りで東京に行くことになりまして、
短い時間を縫って靖國神社に参詣してまいりたいと思います。
実現すれば生まれて初めて靖國にお参りすることになります。
終戦記念日より一週間ほど前倒しになりますが、
私は首相ではありませんから他にとやかく言われる事もないでしょう(笑)

靖國には戦艦大和と共に沈んだ私の祖母の兄も祀られています。
今から大叔父に会えると思うと楽しみです。
と同時に数百万の英霊の方々に感謝の祈りを捧げたいと思います。

靖國神社というとどうしても方々から批判の声が聞こえてきます。
支那や朝鮮だけでなく日本国内からも聴こえてくるのは残念でなりませんが、考えは人それぞれと思い割りきることといたします。

しかし、切に思うことは何故、祖国の為に戦って亡くなった方を慰霊することに対して文句をつけられなくてはならないのかということです。
それは、支那からみれば侵掠者だったでしょう(朝鮮は日本と共に戦っていた)。
しかし、それは支那だってチベットやベトナムを侵掠した軍人といえども、戦死すれば英雄になるわけで、
そのことに関して他国が干渉したという話は寡聞にして知りません。
アメリカのアーリントン国立墓地もしかりです。

別に私は「A級戦犯」を英雄だなんて思っていませんし、
大東亜戦争を「聖戦」だとも思ってはいません。
先の大戦は様々な側面があるからです。
だから、簡単に「侵略戦争」だとか「聖戦」だとか言うのは知的怠惰に他なりません。

ただ、はっきりいって、支那朝鮮が靖國神社に文句をつけてくるのは外交カードになるからであり、日本に揺さぶりをかける為であるという事実は認識しなければなりません。
殊に支那に至っては一党独裁の中国共産党が歪曲した歴史を「正しい歴史」だとして国民に押し付けて、
国民もそれをすっかり「正しい歴史」だと信じ込んでいます。
無論、初めから「正しい歴史認識」などあるはずがないのですが、史実は一つです。
その史実をどう認識するかは国によっても人によってもちがうでしょう。
中国共産党の問題点はその史実すら曲げて伝えている点にあります。
そのような国の輿論にどうして従う必要がありましょう。

と、まぁ、本当は「A級戦犯」や東京裁判のことも述べたいのですが、
靖國問題を語りはじめたらキリがありませんので今回はこのくらいで已めにしておきます。

結局、私が靖國神社に参拝する理由は
そこに(大東亜戦争だけでなく)明治以降、近代日本の為に戦って亡くなった方々が祀られているという事実があるからです。
私は今の豊かで平和な時代があるのは今生きている世代だけの御蔭だなんて傲慢不遜な考えは出来ません。
いまの日本があるのは日清、北清事変、日露、第一次世界大戦、大東亜とを戦ってくれた方々・・・
何百万という英霊の御蔭であると思っています。
勿論、戦争に行った方々だけの御蔭ではありません。
(そんなこと当り前ですよね)


以上、理窟をこねてしまいましたが、
本当はこんなこと書きたくありませんでした。

我々が先祖を祀る時、理窟をこねるでしょうか。
墓の前で手を合わすとき、我々は損得や利害を考えないし、
まして、手を合わす理由や言い訳など考えません。
御先祖様が尊いから手を合わす。それだけです。

靖國神社の英霊の前で手を合わすときも明鏡止水、
理窟を考えず、ただ真摯な心でお祈り申しあげたいと思います。

あび卯月事務所~私からみた若者~

2006-08-03 23:39:44 | 雑記
若者が嫌いである。
私自身、二十一歳だから若者なのだろうが、そんなことは関係無い。
大学を歩いていても街を歩いていても電車に乗っても
若者に嫌悪感を覚える事はあっても感心することは無い。
「下品で無知で自己中心的で幼稚」
これが私の若者観である。
(ここで云う若者は十代後半から二十代前半を指す)

こんなことを書いて激怒する若者もあるだろう。
たとえば後藤和智さん。
「新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~」というブログをやっている方。
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/

後藤さんはとにかく「大人」が若者に悪口を言うのが許せないらしい。
若者に対するあらゆる批判に対して悉く反論していらっしゃる。
反論というよりほとんど悪口になっているのも多いですけど。
文章がときおり感情的になっているところからも余程「若者批判」に御立腹の様子。
また、ニート批判に対しても、
『「ニート」って言うな!』 (光文社新書)という本を書いて反論されている。

確かに、的外れな若者批判が多いのも事実で、
例えば「ゲーム脳」だとかああいう類の論はエセ科学を持ち出している点でも悪質なので叩かれてしかるべきだろう。

が、ほとんどの場合、若者は批判されてしかるべきなのである。
そして大人は若者を叩くのが仕事なのであり、
若者に媚びを売る大人ほど気持ち悪いものはない。

後藤さんは電車内の携帯電話の使用について、

その程度のことで「道徳の崩壊」みたいなことを嘆いてしまうのもどうかと思うけれども。

と書いているが、私は「道徳の崩壊」だと思うし、大いに嘆いている。
「どうかと思う」などと云わず、こういう批判は甘んじて受け入れるべきだ。
なにより最近の若者は恥知らずになっている。
携帯電話よりももっと不快なのは電車内で化粧をする若者だ。
先日も隣に坐った女子大生風の若者がなんのためらいもなく化粧を始めた。
二人掛けの席なので私の顔のすぐ近くでカチャカチャやられたわけだ。
これが恥知らずではなくてなんだろう。
こういう若者が居なくならない限り私は若者を“感情的に”罵倒する。

もう一つ書かせて欲しい。
これは若者に限らないけども、歩き煙草をやる手合が多い。
歩き煙草にかぎらず、総じて若者の煙草のマナーは惨憺たる有り様だ。
これはマナーをきちんと守っている愛煙家までも肩身を狭くするという点で、より罪が重い。
いっそのこと、歩き煙草をしたら飲酒運転と同じく罰金を五十万とるとかすればよいのだ。

後藤さんは以上の文章を御覧になると、烈火の如く怒ると思う。
それも同世代の若者が書いているのだから(笑)
「最近の若者は」などと書いたから
あび卯月は実は五十代のオヤジなのだ、と云われるかもしれないし、
オヤジの常套句を遣ったりして彼の精神は既に老化している、とでも書かれるかもしれない。

そりゃ、若者が全員嫌いというわけではないし、
みんながみんな私が述べた「若者」の定義に当てはまるわけがない。
そんなことは当り前だ。
私が罵倒するのは所謂「若者」である。
そしてそういう人が増えているから危惧しているのだ。

そういうわけで、「若者」である私は今後も若者を罵倒してゆくし、
そんなことを云うので私も若者から罵倒されてゆくだろう。

最近の小林よしのり

2006-08-02 02:10:06 | 歴史・人物
最近の小林よしのりは随分良くなっていると思う。
相変わらず、所謂「小林よしのり信者」には辟易させられることが多いが、
小林よしのりはこれからもっと良くなっていくと思う。
『いわゆる「A級戦犯」』は良作であったし、最新号の『わしズム』(19号)も良かった。

『いわゆる「A級戦犯」』は「A級戦犯」を知る上で大変役に立つ。
新ゴーマニズム宣言を読むよりよほど価値があると思うし、
新ゴーマニズム宣言を読まない人もこの作品は読んで欲しいと思う次第。
多くの日本人は「A級戦犯」について東條英機くらいは知っていても、
他の人に至ってはおそらく名前すら知らないだろうから。

最近の小林よしのりが良くなっているというのは
『わしズム』19号を読んでもわかるように彼が昨今の右傾化を憂いているからだ。
彼はナショナリストだけれども偏狭なナショナリズムは認めていないし、
所謂「ネットウヨク」に対してはほとんど罵倒している。
このバランス感覚は大切だと思う。
『わしズム』19号の討論会企画のなかで、鈴木邦男(新右翼・一水会顧問)も
はじめ左だった小林が次に右にいって今、左右を蹴飛ばす姿勢を持って来たので
「どんどん良い方向になってると思う」と述べていた。

ただ、反米に偏りすぎていることには疑問があるし、
新ゴーマニズム宣言を終了して「ゴー宣・暫」という新シリーズを始めた意図もよくわからない。
また、「ゴー宣・暫」序幕第三場で『嫌韓流』などの漫画は「絵解きのプロパガンダに過ぎない。」と批判していたが、
私にしてみればゴー宣もプロパガンダとは云わないまでも「絵解き漫画」であることには変わりない。
故に彼が言うようにゴー宣は「私小説的」だとも思わない。

他にも最近のネット上に見られる朝鮮人差別は『嫌韓流』の影響であり、
「これも『ゴー宣』の影響だといわれたんじゃたまったものではない。」
と書いていたが、『嫌韓流』の作者が述べていたように
『嫌韓流』を生み出したのは『ゴー宣』であったのだから、まったく関係無いとはいえないだろう。
第一、今まで公にされていなかった歴史の事実を解き明かすという内容においては
『ゴー宣』も『嫌韓流』も大して違(たが)わないと思う。

それに小林よしのりは「わしは差別とか朝鮮人差別とか嫌いなのだ」と書きつつ、
支那人に対しては
「中国人の感覚とは そういうものなのだ。 これは単なる 偏見や差別ではない。」
「徹底的に自己中心的!」(「新ゴー宣」第204章)
と書いたり、アメリカに対しても
「アメリカが嫌いなのはやつらが強欲でバカだからだ。」(「新ゴー宣」第190章)
と書いている。
差別と朝鮮人差別はいけないが、支那人と米国人は差別してよいということか。

ところで、私は「あらゆる差別は絶対にいけない」などとも思ってはいないし、
差別と批判の客観的な区別など到底つくはずが無いと思う。
結局、感情に依拠しない主張というものは存在しないのだから、
その感情を作り出す情報が正確であればいのだ。

縷々、批判したようだが、小林作品が興味深いというのは正直なところだ。
どのような主張になるにせよ、今後のゴー宣のゆくへを楽しみにしている。