あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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金持ちの娘は令嬢か?

2006-06-28 23:58:59 | 言葉・国語
先日、“カリスマ美容外科医”として知られる母の娘が誘拐されました。
母親について読売新聞の記事によると
週刊誌のインタビューで「1か月で約100人の豊胸手術を手がける」「月に1億円以上、昨年は12億円以上稼いだ」などとクリニックの盛況をアピール。著書でも、「クラスアップしたいなら一流品に触れよう」というタイトルで、「若くても、ブランドの服やバッグを大いに身につけるべき」などと説き、赤のフェラーリに乗った姿や、お気に入りの高級アクセサリーの写真を掲載している。
とあります。

この母子は今までに何度もワイドショーなどの取材を受けているようで、
報道ステーションではそのときの映像を流し、
母子の「セレブ」ぶりをアピールする報道がされていました。

娘の誕生日にベンツを買っただの、母親はフェラーリを買ったがまだ乗っていないだの。
(曰く「車は買うまでが楽しい」のだそうです。)
豪華な部屋が紹介され驚くリポーターに対して
「この部屋は犬の為だけにつくったようなものです」と答えているシーンなど、
とにかくこれどもかというほど成金ぶりが強調されていました。

日本において金持ちが叩かれるのはいつの世でも同じようで、
この被害者親子に対する同情の声はほとんどみられません。
とりわけ、2ちゃんねるでは被害者であるにもかかわらず、ほとんど罵倒の嵐でありました。

それにしてもマスコミはマッチポンプといいましょうか、
持ち上げているようで実は被害者の成金ぶりを見せしめ貶しているのです。

さて、そんな中、気になったことは多くの報道番組において
この被害者の娘をテロップで「令嬢」と表記していたことです。
はじめこの事件を知ったとき「令嬢」と言うので、
一体、どこの名家のお嬢さんが誘拐されたのかと思ったら、
なんのことはありません。金持ちというだけでした。

それにしても、私が今まで抱いていた令嬢のイメージとかけ離れた使われ方をしていたので驚きました。

本来、「令嬢」とは他人の娘を敬って云う言葉で、
一般的には名家のお嬢さんに対する敬称として用いられます。
大辞林にも「貴人の娘、また、他人の娘を敬っていう語。」とあります。

他人の娘を敬う意味で用いているのであれば誤用とはいえませんが、
しかし、他の事件や事故などである人の娘が当事者になる場合、
すべて「令嬢」と表記しているかかといえばそうではありません。
となると、「貴人の娘」「名家の娘」の意味で用いているのでしょう。

では、果たして、彼女は令嬢でしょうか。
彼女の母親は貴人でもなければ名家の生まれでもない。
ただ単に金持ちというだけであります。
「令嬢」という言葉も安っぽくなったものです。
いえ、別に被害者に鞭打つ気はありません。
私が申したいのはわざわざ「令嬢」という言葉を使う表記に嫌悪感を抱いたということです。

というのも、
マスコミは「差別はいけない」という。
言葉狩りもさかんにやりたがる。
それなのに、金持ちの娘は一般人の娘と区別して「令嬢」などと表記する。
私が筋が通っていないと思うゆえんです。
もっとも、筋が通っていない以前に誤用なのでありますが。

ついでに言うと、言葉狩りには反対ですし、
本来の意味で使うのであれば「令嬢」という表記もまったく問題無いと思います。

ウナコーワのCMの娘は・・・

2006-06-27 21:19:14 | テレビ・芸能
きょう、蟲刺されの薬・新ウナコーワクールを買った。
私が妹に「これ、ほしのあきがCMしているやつだよね?」と言うと
妹から「あれは断じてほしのあきではない。」と私の人格ごと全否定されたので
「いや、ほしのだ!」「ほしのじゃねぇ!」の大喧嘩(嘘)。

調べてみるとほしのあきではなく北乃きいというお嬢さんでした。
妹の勝ち。私は大敗北。
賠償金として肩揉み十分を体で支払うことになった。

以前、キムタクが罐コーヒーのCMに出ていた時は私が正解したんだけどなぁ・・・。

いやはや、今日のきょうまであのCMの娘はほしのあきだと思っておりました。
声がそっくりじゃございませんか?
あと、顔もぼや~っと見ていたらほしのさんに見える。
うーん。年をとってきた証拠でしょうかね。

ところで、この北乃きいさん。
なんと十五歳なのだそうです。
最近の十五歳は随分と大人っぽくみえますね。
私は二十九歳の人と間違えたのでありますが(笑)

まぁ、たまにはこういうくだらない記事も。


北乃きい(ウナコーワのCMサイトから)
http://www.kowa.co.jp/g/break/04/c20.htm

映画『バルトの楽園』

2006-06-25 23:59:04 | 映画・ドラマ
昨日、『バルトの楽園』(楽園の読みは「がくえん」)を観てきました。

公式サイトより内容紹介。

1914年、第一次世界大戦で日本軍は、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した。ドイツ兵4700人は捕虜として送還され、日本各地にある収容所に収められる事となる。
 厳しい待遇が当然な収容所の中で、奇跡の様な収容所が徳島にあった。板東俘虜収容所の所長を務める会津人の松江豊寿(まつえとよひさ)は、陸軍の上層部の意志に背いてまでも、捕虜達の人権を遵守し、寛容な待遇をさせた。捕虜達は、パンを焼く事も、新聞を印刷する事も、楽器を演奏する事も、さらにはビールを飲む事さえ許された。また、言語・習慣・文化の異なる地域住民の暖かさに触れ、収容所生活の中で、生きる喜びをみいだして行く。
そして、休戦条約調印、大ドイツ帝国は崩壊する。自由を宣告された捕虜達は、松江豊寿や所員、そして地域住民に感謝を込めて、日本で初めてベートーベン作曲『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する事に挑戦したのであった。



ドイツ人俘虜を敵としてではなく祖国の為に戦った戦士としてあつかう松江所長の武士道精神に心打たれました。
武士道というとなにやら勇ましいイメージがありますが、
こういう惻隠の情もまた武士道なんですね。

特に松江豊寿さんの場合、会津出身ということで、俘虜の気持ちを良く理解していたのでしょう。

会津出身の松江豊寿さんは戊辰戦争敗戦後、青森県下北半島の不毛の地・斗南藩に移住させられ困窮した生活を強いられました。
そして、その後長い間、会津の人々は賊軍の汚名を着せられ辛酸を嘗めてきたのでした。
会津の方々の心情を慮ると涙を禁じえませんでした。
しかし、松江さんは言います。

「我々を支えていたのは憎しみではない。復讐心でもない。それはただ一つ、会津人としての誇りでした。」

なんとも感動的な言葉でありました。
憎しみが新たなる憎しみを生むなどといわれる殺伐とした現代こそ、この言葉を噛みしめる必要がありましょう。

また、ドイツ軍人俘虜を「ドイツさん」と言って温かく迎え入れる板東の住人。
俘虜たちもそんな住人と温かく交流してゆきます。
はじめはお互い敵とみなし心を閉ざしていた人も次第に心を開いてゆく。
陸軍省から「捕虜に甘い」と指摘されても自分の信念を貫く松江所長。
そして、クライマックスの第九・・・などなど。
感動的な見どころ満載の映画でありました。

しかも、これは細かいエピソードはフィクションにしても、
史実をもとに作られた映画ですから、
猶のこと心に響くものがあります。

日本の歴史教科書がツマラナイのはこういう話が載っていないからでしょうね。
いや、むしろ、教科書はつまらなくていいんです。
本当に面白く感動的な歴史は概してこのような教科書に載らない歴史なのです。


『バルトの楽園』公式サイト
http://www.bart-movie.jp/

平沢進が語るJASRACの利権支配

2006-06-23 01:57:48 | 音楽・藝術
先日、2ちゃんねるのニュース速報+板に平沢進さんの名前を眼にして驚きました。
平沢さんはあまり・・・というか、ほとんどメディアに顔をみせない。
まして、ニュース記事になることはまづありえません。
まぁ、今回もネット上で記事になっていたのですが、それにしても珍しい。

記事の冒頭にはこうあります。

録音・録画補償金やDRMのあり方などの議論の舞台に登場するのは、いつもJASRACを始めとする権利団体。だが本当の意味での著作権者であるプロの音楽家は、今日の状況をどう考えているのか。現役ミュージシャンで音楽配信の先駆者である平沢進氏に話を聞いた。

早い話がジャスラック批判記事といったところ。
私も音楽業界におけるジャスラックの利権の構造には些か疑問を抱いているくちなので大いに興味がある記事でありました。
(詳しい内容は以下のサイトを参照)
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0606/12/news005.html

以下、記事から要点(問題点)を列挙いたします。

・現在、音楽著作権には「演奏権等」「録音権等」「貸与権」「出版権等」があるが、このうち「録音権等」以外はJASRACが独占的に管理している。
・アーティストとJASRACの間に「音楽出版会社」というものが存在する。
アーティストはこの出版会社に、自分の権利を「譲渡」し、そしてその出版社が、JASRACに権利を委託する、という二重構造になっている。
・JASRACで集金されたお金は、この出版会社を通るだけで50%引かれて、アーティストへ戻るという構造がある。
・出版会社は“プロモーションに努める”と言うが、成果は保障せず、どんなプロモーションをするのか何度説明を求めても、回答しないことがほとんど。(大きなセールスが期待できるアーティストについては積極的に動く)
・補償金の分配方法が不明確。
・多くのミュージシャンが著作権を、出版会社に譲渡してしまっているので、ミュージシャンが著作権侵害を発見しても、作った本人には著作権がなくなっているので、どうすることもできない。
・さらに、アルバムをリリースする権利、逆にリリースしない権利を、ミュージシャン本人が自由にできない。

およそこんなところです。

平沢さんはこの利権構造に疑問を抱き、メジャーレーベルとの契約を打ち切り、
作品の版権を引き上げて自分で管理するという方法に切り替え、
現在ではインターネットを介して音楽配信を行なったり、プロモーション活動を行なっています。
記事にもあるように、日本で初めて本格的にネットで音楽配信を始めたのは平沢進さんです。
御本人曰く
「メジャーレーベルを辞めて自分で配信するようになってからは、作品の売れ行きは伸びて、マーケットも広がってます。」
とのこと。
平沢ファンの私としては大変嬉しいお言葉でありました。


ここまで、書いてきましたが、
平沢進さんを御存知ない方がほとんどだと思いますので、
以下、平沢進さんについて簡単に紹介をいたします。

平沢進さんはマンドレイクというプログレのバンドを経て、
1979年、テクノバンド「P-MODEL」のリーダー・ボーカリストとしてメジャーデビュー。
1989年以降はソロとしても活躍中。
記事によると
ライブパフォーマンスにおいては、会場のオーディエンスとネット上のファンによる「選択」で毎回違ったストーリーを展開していく、独特の「インタラクティブ・ライブ」を実践し、2001年には「デジタルコンテンツグランプリ」において最優秀賞である経済産業省大臣賞を受賞している。
とあります。

平沢さんの音楽は一言で言うと非俗。
特にソロの作品は壮大にして雄大。
日本の邦楽界の遥か上、天上から見下ろすかのごとき楽曲を生み出しています。
悪く言えばマイナー向けといいますか、一般向けではなく、
それゆえ、コアなファンを多く抱えている方です。
一般的にも知られている曲では長州力のテーマ曲「パワーホール」などがあります。
『千年女優』や『妄想代理人』『ベルセルク』などのアニメの曲を担当したことでも知られています。
さてさて、言葉で説明してもどのような音楽を作っているか伝わりませんね。
ということで、是非、下のサイトで平沢さんの曲をお聴きになってみてください。
一部の楽曲が無料で配信されているんです。

http://www.teslakite.com/freemp3s/

お薦めは下の方にある『RIDE THE BLUE LIMBO 』や『HALDYN HOTEL』。
まさに壮大なスケールの曲です。
テクノ系がお好きな方は三段目にある『Big Brother』をどうぞ。
これらを聴いてビビッっと来たアナタは、
いづれ、私と同じく平沢ファンになる方かもしれません。

外交官が見た昭和天皇

2006-06-22 20:51:22 | 歴史・人物
以前にも話ましたが、私の大学の講師に元外交官の方がいらっしゃいます。

そこで、今日、講義終了後にこんな質問をしてみました。

「先生は天皇陛下にお会いしたことがありますか?」

先生からは「えぇ、ありますよ。」というお答え。
大使や公使は天皇から直接、信任状を受取るのですが、
先生の場合は大使や公使ではないので直接謁見したのではなく、
外交官が集まって陛下からお言葉を賜る場があり、
そこで謁見したのだそうです。

私「どちらの天皇にお会いになったのですか?」
先生「昭和天皇です。」

私は思わず色めき立ちました。
というのも、私が歴代天皇の中でもっとも敬愛する方が昭和天皇だからであります。

私「どんな感じでしたか?」
先生「そうですねぇ・・・人間味の無い人だなぁ、と思いましたね。」

私は思わず笑ってしまいました。
なんとも、昭和天皇らしいと感じたからです。

今の天皇はどちらかというと表情が豊かで、国民と触れ合う機会も多く、庶民的なイメージがありますが、
昭和天皇は正に雲上人という感じがいたしました。

例えば、国民にお手を振られる時、
今上天皇は笑顔ですが、昭和天皇は無表情であらせられました。

というもの、昭和天皇は帝王学を心得ておられ、ほとんど「私心」のない方でした。
つまり、臣下と謁見する時は一人の人間としてではなく国家機関として会うわけです。
人間味が無いように映るゆえんです。
しかし、私は不敬な言い方かもしれませんが、
天皇はかくあるべきだと思います。
また、この「人間味の無さ」が昭和天皇の魅力の一つだと思っております。
無論、本当に昭和天皇が人間味の無い方であったかというとそういうことはなく、
私生活においての昭和天皇の人間味溢れるエピソードは数多く伝えられています。

それにしても、日本人の中で一体何人の者が一生の内に天皇に謁見する機会があるのでしょうか。
生で見るだけならば一般参賀等に参加すればよいのですが、
直接謁見する機会はほとんどないだろうと思われます。
そういう意味でも外交官とは特権的な職業だなと思った次第でした。

安野モヨコ『監督不行届』

2006-06-20 23:30:54 | 漫画・アニメ
安野モヨコさんは『ハッピーマニア』などの作品で知られる人気少女漫画家。
小生、少女漫画の類は『ちびまるこちゃん』と『お父さんは心配性』くらいしか読んだことがなく、
安野モヨコさんの作品を読むのも今回はじめて。
(妹が友人から借りてきたのがきっかけ)

『監督不行届』は作者の夫である庵野秀明との日常を綴ったエッセイ漫画というところ。
庵野秀明は知る人ぞ知るエヴァンゲリオンの監督ですね。
アニメ業界では「巨匠」とまではいかなくともそれに近い評価はされていると思います。

さて、私は庵野監督が大嫌いなのです(笑)
というのも、洵に理窟っぽい人だから。
オタクという生き物は総じて理窟っぽいものでありますが、
この監督は殊にそれが激しく、エヴァにおいても難解な小理屈をこねまわしておられました。
私もオタクの端くれですが、こういうオタクとは附き合いたくない。

ところが、ところが、
この『監督不行届』で描かれる庵野秀明はまったくそういう人物ではなく、
いつものんびりニコニコしていて、さながら可愛らしい猫のようであります。
家庭人としての庵野監督はかくも「カワイイ」人であったのか。
一読すればおそらくほとんどの人が庵野監督に好感を覚えることでありましょう。
じじつ、私も随分イメージが変わりました。
これこそ漫画の恐ろしさなのでしょうね。
イメージ操作をするには視覚的に行なうのが一番なのです。
しかし、これも安野モヨコさんだからこそなせる技なのでしょう。
そんじょそこらの漫画家だと技術が追いつかないと思います。
(と、あまり知りもせず褒めてみる)

そして、巻末に庵野秀明氏のインタビューとオタク用語の解説が載っていました。

本編で庵野監督に好感を抱きつつも、巻末の理窟っぽいインタビューを読んで
「あぁ、やっぱりこれが本当の庵野だよな」と思った次第。
本編で幻想を抱かせて巻末で現実に戻すという粋な構成です(笑)

オタク用語解説もなかなか興味深く、中でもトリビアだったのは
テレビでよく見かける
「このドラマはフィクションであり・・・」
という類の断り書きの発端は「超人バロム」という特撮番組なのだそうです。
というのは、この番組に登場する悪役と同じ名前の子供が学校でイジメにあい、
それが社会問題化してあらゆるドラマにこのテロップが出るようになったのだそうであります。

ところで、一つ指摘しておきたいことは
「第壱話」「第弐話」と旧漢字による数字表記も同作品を踏襲している。
という箇所がありますが、
壱や弐は旧漢字ではなくそれぞれ、一と二の同字(書き換え字)であり、
壱、弐の正字(旧字)はそれぞれ壹と貳です。

少々、蛇足も含めましたが、
『監督不行届』は安野モヨコファンはもちろんのこと
庵野監督が好きな人も嫌いな人も・・・
いえ、特に庵野監督が嫌いな人に読んでいただきたいと思った作品でありました。

山口県光市母子殺害事件

2006-06-20 22:47:27 | 社会・世相
山口県光市の母子殺害事件で最高裁が差し戻し判決を出したことに対し「最高裁自らが判決を下してほしかった」と語る遺族の本村洋さん。「残念というのが率直な気持ち」とも(20日、東京・霞が関の司法記者クラブ)(時事通信社)

きょう、死刑判決が出るのかと思っていたらなんでも「差し戻し判決」だそうで、
判決にはまだまだ時間が掛かるようです。
遺族の木村洋さんの為に一刻も早く判決を出して欲しいと思う次第であります。

それにしても腹立だしいのは被告(福田孝行)についている安田とかいう弁護士。
被告の元少年が鬼畜ならば安田は畜生といったところでしょうか。
なんでも人権派の弁護士らしいのですが、
彼は被害者の人権よりも鬼畜の人権の方が大切だと思っているらしい。
私はこの事件の被告は人間とも思っていないのでそもそも人権など初めから存在しないと思っております。
罪なき女性を強姦し殺さしめ、その娘の命も奪い反省の色も見せていません。
被告に言わせれば強姦は「自然の摂理」なのだそうであります。
さらに遺族の洋さんに対し「調子に乗りすぎ」などと綴っていました。
このようなものが人間でありましょうか。
人はこれを鬼畜と呼ぶ。

ところで、安田弁護士は元全共闘の闘士だったそうですが、
なるほど、左翼にろくな奴はいない。
いえ、安田ごときは左翼の風上にもおけない。

報道ステーションのVTRに被告の父親が出ていましたが、
悪びれるどころか、「少年法の精神は何処へいったのか」とか、
「罪を憎んで人を憎まずという言葉がある」などとのたまっていました。
インタビューを受ける態度も終始指で草をちぎったりして、
この父親にしてこの子ありといったところ。
私のこの父親の立場であったなら息子を殺して自分も死にます。
生き恥を晒してまで生きようとは思いません。

本村洋さんは「被告が死刑にならなければ自らの手で被告を殺す」と述べて物議を醸したとのことですが、
私は非常に共感いたしました。
私が洋さんの立場なら同じ行動に出るでしょう。

今回、ほとんど感情的に文章を綴りました。
この事件の報道を見るたびに憤りを感じ、さらに陰鬱な心持ちにさせられるので、
ちょっと毒の一つも吐いてみたくなった次第でありました。

『連合赤軍「あさま山荘」事件』

2006-06-18 00:08:21 | 書評・雑誌
佐々淳行さんの『連合赤軍「あさま山荘」事件』を読んだ。

かの有名な「あさま山荘事件」の警備を指揮していた佐々さんが綴った
ドキュメンタリー小説といったところ。
幕僚の側からみた事件の真相が詳しく書かれていて、大変興味深かった。

この作品は2002年5月に「突入せよ! あさま山荘事件」のタイトルで映画化されて
御覧になった方も多いかと思う。
実は私も以前にテレビでこの映画を観ていて、今回その原作である本書を読んだという次第。

特に読みどころといえば、警視庁と長野県警の軋轢。
警視庁と県警と、さらに警察庁の足並みがなかなか揃わず、苦悩する著者の姿が描かれている。
そういう意味で横の聯繋がうまくゆかない官僚機構批判の書としても読める。
じじつ、幕僚団の一人、丸山参事官が事件後の会見で
「あさま山荘事件での本当の敵はなんでしたか?」という質問に対し、
「一にマスコミ、二に警察庁、三四がなくて五に連合赤軍」と述べて話題になったという。(194ページ参照)

さて、マスコミが最大の敵だったという指摘は正にその通りで、
それを理解するには「あさま山荘事件」当時の社会情勢を知る必要がある。
当時は今では想像できないほど「左翼イデオロギー」が蔓延っていた時代で、
それを理解しなければ、連合赤軍のことも、赤軍が何故このような事件を起こしたかも理解しがたいだろう。

本書の一部を引用しよう。

いまと違って、あの頃はマスコミや世論がどちらかというと学生の反体制運動に同情的で、警察、とくに機動隊は権力悪の権化みたいな扱いを受けていた時代だったからだ。
あの頃は警察官の家族であるというだけで小学校などで日教組の教師から不当な差別をうけるという、今日の若い人には想像もできないようなイデオロギー優先の時代だった。


つまり、当時のマスコミは連合赤軍よりだったわけで、
丸山参事官が最大の敵はマスコミであったというのはそういうことである。
さらに、以下のエピソードが続く。

ある日次男の敏行が区立の中丸小学校から泣きべそをかきながら帰ってきた。
きけば担任のSという女教師に授業中に「このクラスの子でお父さんが警察官や自衛官の子供は立ちなさい」と言われ、次男がほかの警察官や自衛官の子供たちと顔を見合わせながら立つと、
S教師は「この子たちのお父さんは悪い人たちです、あんたたちは立ってなさい」といわれゆえなく立たされたというのである。
(中略)
親の職業で子供を差別して悪いこともしていないのに立たせるとは何事かと激怒した私は、早速校長先生に抗議した。
校長は「日教組には私も困らされています。でも相手が悪い。また子供さんにはね返ってもいけないから」と言を左右にして一向に煮え切らない。
「では教育委員会に公立小学校における親の職業による差別として正式に提訴しますから」と告げると、これはいけないと思ったのか、校長はS教師を家庭訪問の形でさし向けてきた。
S教師は「ベトナム戦争はけしからん、自民党政権は軍国主義復活を目指している。機動隊は学生に暴力をふるう権力の暴力装置だ」など日教組の教条主義的な公式論をまくしたてる。
一通り言わせておいてから「私の言っているのはベトナム戦争や全共闘のことではない。貴女は親の職業で罪のない子供を立たせるという体罰を加えたようだが、
小学校教師としてそれでいいのかと尋ねているのです。反省しないなら私は教育委員会に提訴するつもりです」という。
S教師はヒステリーを起こして「やるならやって御覧なさい。日教組の組織をあげて闘いますよ」と叫ぶ。
「どうぞ、私も貴女を免職させるまで徹底的にやりますよ。ではお引取りください。」と突っ放す。
すると免職という言葉にイデオロギーが負けたのか、突然S教師はフロアに土下座して
「そうぞお許し下さい。教師をやめさせられたら暮らしていけませんので」と哀願しはじめた。
私は呆れ果てて一応鉾をおさめたが、「あさま山荘事件」の時代はこんなひどい話がまかり通っていた時代で、
警察官の家族たちを取り巻く社会環境は、お世辞にも友好的と言えるものではなかった。


この女教師の態度には正に「呆れ果てる」ばかりだが、日教組の本質を表す興味深いエピソードである。

約千五百名の機動隊は命がけで人質の牟田泰子さん(当時三十一歳)を助け出し、
そのなかで、二名の殉職者(死亡者)と二十四名の重軽傷者を出すというあまりにも大きな犠牲を払った。
この機動隊の立派さは是非とも本書ないしは映画を御覧になって欲しいと思うが、
ここではもう一つ左翼のエピソードを紹介しよう。

事件解決後、三月一日の夜、日比谷野外音楽堂で開かれた
「三・一独立五十三周年、日韓条約粉砕、入管法、外国人学校法案国会上程阻止蹶起集会」
に出席した日本社会党の高津正道元代議士は

「連合赤軍はわずか五人で千四百人(ママ)の警察隊を相手によく戦った。今や社会主義運動は言葉だけでなくなった。
私は五十年もの間この日が来ることを首を長くして待っていた。これで革命も間もないことだろう」


という演説を行い、参加した六百人から大喝采を浴びていたという。

元社会党議員が大真面目にこのようなことを言って無事に済んでいた時代だったのだ。
左翼や社会党は平和を愛し、人権を守るなど大嘘である。
彼らは機動隊や人質の人権どころか命すらなんとも思っていないし、暴力革命を本当に望んでいた。
そして朝日新聞をはじめとする左翼マスコミがそれを煽っていた事実を私たちは忘れてはならない。
本書には朝日新聞(A紙と表記されている)の様々な醜態も描かれているが、それはもうここでは述べない。
朝日の醜態を論っていたらキリがないからだ。
それにしても、私が普段、左翼に対して並々ならぬ嫌悪感を抱いている事情も少なからず御理解いただけると思う。

実は本書を読んでもっとも感じたのはそのような「左翼イデオロギー」の時代に対する腹立たしさであった。

W杯を茶化す「論座」

2006-06-15 23:59:36 | 書評・雑誌
今月号の論座を読んでおりましたら、不思議な絵が眼に飛び込んでまいりました。

それは「GALLERY RONZA」という毎号、諷刺画を掲載しているコーナーでした。

「ニッポン!!ニッポン!!ニッポン!!」というタイトルが附けられたその絵には
中央にサッカー日本代表を応援する若い男性サポーターが描かれており、
その周りには戦時中の日本人と思われる人々が描かれている、という絵です。

男性サポーターは日の丸を頭上に掲げ熱狂的に応援している様子。
そして、その周りの日本人も日の丸の旗を持ち、万歳の恰好で日本を応援しているようです。
が、これはサッカーを応援しているというより、
出陣してゆく兵隊を見送るかのごとき様子。
左上には「神風」と書かれた織りも見えます。

実際の絵を御覧いただけないのが非常に残念ですが、
一言で言うと不快な絵でありました。
というのも、この絵はサポーターを茶化すだけにとどまらず、
戦中の日本人に対しても無礼な行いであるからです。
戦中に最も戦争を煽ったのは朝日新聞自らであった事をお忘れでしょうか?

そういえば、前回のワールドカップの際も
朝日新聞に「スタジアムで日の丸を振ったりペインティングしたりしている若者たちは、どちらへ向かうのだろうか」
とナショナリズムと引っ掛けてサポーターの行動を危惧する文章が載りました。

朝日の思考回路ではサポーターは軍国主義者にでも見えるのでしょうかねぇ?

私は前々回の記事で「W杯に興味が無い」という旨の小文を綴りましたが、
と同時にそれに熱狂する人々を馬鹿にする事は最低だとも指摘いたしました。
まさに、今回、「論座」はそれを行なったということでありました。

産経新聞よ、お前もか

2006-06-13 00:12:49 | マスコミ・新聞
久々に産経新聞を読んで驚きました。

私は自宅で講読している読売新聞以外は学校の図書館で新聞を読んでいるのですが、
五月三十日附産経新聞の一面に以下のごとくありました。


「2日から洋数字表記になります」
産経新聞は6月2日付紙面から記事中の数字表記は洋数字を原則とします。
 デジタル時代となり、洋数字表記が一般化してきたことに加え、記事の簡素化、数字データをより読み取りやすくする――などのためです。
 ただし、「三寒四温」や「七転八倒」「歌舞伎十八番」など、熟語や伝統的な擁護に含まれる数字をはじめ、洋数字表記になじまないものはこれまで通り漢数字表記とします。



昨今、どの新聞も紙面の数字表記は洋数字(算用数字)ですが、
産経新聞は頑なに漢数字表記を守っていました。
「さすが自称保守というだけはある」と、この点、評価していたのですが、
とうとう、産経新聞も洋数字表記になるそうです。
もとい、「なるそう」ではなく実際にそうなっていました。

保守はいくら頑迷といわれようと固陋といわれようとも
それまでの慣わしを守ってゆくのが保守なのであって、
合理性・利便性を優先してそれまでの行いを変えるなど到底、保守とは言えない所業です。
もちろん、古いもの、昔のものやその行いを何でも残せと言っているわけではありません。
それこそ、「固陋」でありましょう。
時代の流れによって変化せざるを得ないものはあります。

しかしながら、漢数字表記は今の時代にあっても続けていただきたかった。
これを洋数字表記に変えることでどれだけ利便性が増すのか、
私は新聞関係者ではないのでわかりませんが、
なんでも合理性・利便性を優先してしまえば
我々の生活は味やそっけも無いものになってしまう。

そもそも文化的な行いなど合理的な面から考えればほとんど意味のない行為です。
高島俊男さんによると文化の「文」とは「紋」と同じで
「紋」とは着物のひらしひらした余計な飾り。
合理面だけ考えれば衣服など、ただ、暑さ寒さしのげる作りにすればよいのですが、
人間はそれだけではそっけないと思う。
そこで、服にいろいろな飾り(=紋)をつける。
これこそが文化なのですね。

産経新聞はそこのところを一応は理解して、
頑なに漢数字表記を守っているのだと思っておりました。
そんなわけで、今回の件は「産経よ、お前もか」と思った次第。
結局、朝日だろうが産経だろうが同じ穴の狢。
革新だの保守だのというのも、文化の飾りならぬ、
「言葉の飾り」なのでありましょう。

ワールドカップがちょっぴり嬉しい理由

2006-06-10 23:13:05 | 社会・世相
サッカーのワールドカップが始まったようです。

「ようです」と書いたのは詳しく知らないから。
むしろ、興味が無いので知りたくもありません。

大学の友人に
「日本ってどの国と闘うの?」と訊いたら
「お前、そんなことも知らないのか」という顔をされました。

というもの、私は国民が一丸となって熱狂することに対して懐疑的だからです。
みんなが応援するのなら「私はいいや」と思ってしまう。
もっとも、サッカーに興味が無いということが一番の理由ですが、
要はひねくれているんでしょうね。
みんなと一緒に群れるものか、と(笑)

私が戦前の日本人のごとき発言を繰り返し、
ともすれば保守反動の権化のように振舞うのは
結局、今の戦後民主主義一辺倒の空気に反撥しているのかもしれません。
(父親が日教組だったというのも関係しているかもしれませんね)
勿論、それだけではないですが、そうなったきっかけは多分いそういう要素があると思います。
したがって、もし私が戦時中に生まれていたならばきっと反戦思想や反国家思想にかぶれていたと思います。
ただ、共産党に入るほど信念は持っていないでしょうね。
そもそも政治組織に属するのが好きではありません。

誤解の無きように書いておきますが、
サッカーを応援することに水をさしたりしません。
太田光のように「ワールドカップに熱くなっている奴はみんな馬鹿」なんて暴言も吐きません(笑)
むしろ、「勝てたらいいね」と声を掛けたいくらいです。
自分の興味が無い事に熱狂している人を見て
「馬鹿だ」などと言うことはサイテーですよね。
とはいえ、私は日本が勝っても負けてもどちらでも良いです(笑)
こんなことを書くと石を投げられましょうか。

あ、題名のテーマをすっかり忘れていました。

私がワールドカップの開催がちょっぴり嬉しい理由は
ニュース番組を見る時間が削減できるからです。
いうまでもなく、開催期間中はニュースでW杯の話題が多くなりますから、
W杯関連のニュースに興味のない私にとって、その分、テレビに時間を使わなくて済む。
と、まぁ、こういう理由です。

案外、私は非国民なのかも(笑)

まだ言わねばならぬ愛国心のこと

2006-06-08 23:42:57 | 政治・経済
もう好い加減食傷気味なのですが、
三度、愛国心について書きたいと思います。

というもの、先程、何気なくニュース23を見ていたら
筑紫哲也がドミニカ移民に対しての日本政府の非情を論った後に、
「こんな国に愛国心を持つのは難しい」とつなげたからです。

何故、左派も右派も同じ過ちを犯すのか。

私が今まで再三述べてきたように、
国を愛するのに国が、ましてや政府が立派である必要がありません。
筑紫さんに逆に問いたいのですが、
ならば、日本の政府が立派であれば国を愛そうという気になるのでしょうか。
私はそんな愛国心ならば御免蒙りたい。
私が国を愛す場合、それは郷土であり、日本という土地であり、
美しい自然でありそこに住む人々や文化なのであって、
決して政府や行政などではありません。
むしろ、国を本当に愛している人ほど政府や行政に対して批判的であると思います。

ドミニカ移民に対する日本政府の対応は私も怒りを覚えるところで、
それはそれで論うべき事柄ですが、
それと愛国心の議論を一緒くたにすることは
よけい愛国心の議論を混乱させるものであり、
なにより、論点がまったくずれています。

愛国心の「国」を政府や権力と同一視する論が保革を問わず幅を利かせている現状に些かの落胆を覚えた今日このごろでありました。

稲作と湿気と日本人

2006-06-08 23:23:55 | 雑記
田植えの時期になりました。
電車の窓から水の張った田んぼの風景が見えたときなど、
なにやら心が洗われるような気がいたします。

かつて、柳田國男が日本人にとっての幸福は
「米が沢山獲れる事」だと述べました。
これがどういうことかは後で書くとして、
日本人の精神形成に稲作が担った役割は小さくありません。
日本人が「和を以って尊しとなす」のは
稲作という作業が共同作業無しには成立しないからであり、
日本人が土地に異常なこだわりを示すのも
土地との密な関係が要求される水田稲作を営んできたからであります。

六月に入って湿気も高くなってまいりましたが、
この湿気こそ日本人の精神形成の根幹をなしていると思います。
かつて樋口清之さんは「日本文化はカビの文化だ」と述べました。
私もこの意見に深く共感するものです。
まさに日本文化は良きにつけ悪きにつけジメジメしたカビの文化です。
例えば日本人の「ケガレ思想」にしてもこの湿気と関わりがあります。
日本人は死体を嫌う。死はケガレなのであります。
というのも、湿気が多い日本においては死体はすぐに腐敗し、疫病をはじめ様々な病気の原体となります。
そこから、血や死を嫌う「ケガレ思想」が形成されたのです。

教育実習で教材研究をした時も感じたのですが、
地理を学習してことに思うことは
気候こそがその土地に住む人々の精神・思想を造り出すのだということです。
日本の場合、この湿気や四季や雨や台風の多さが日本人の精神を形成しました。

そして、話は元に戻りますが、
今も昔も眼には見えぬ哲学や思想を持たない日本人にとって最大の幸福は
やはり「米が沢山獲れる事」なのであります。

讀賣新聞で「涼宮ハルヒの憂鬱」絶賛

2006-06-08 00:47:48 | 漫画・アニメ
今月六日附けの讀賣新聞の文化欄で「涼宮ハルヒの憂鬱」が紹介されていた。
以下、文章を引こう。

既刊8冊で250万部。部数急伸はテレビアニメ化効果も大きいが、小説として結構侮れない。最新刊の『涼宮ハルヒの憤慨』まで一気読みしてしまった。
性格自己中な女子高生が、この世の面白い不思議を求めて「SOS団」なる学内サークルを結成する。適当に集めた団員の正体はそれぞれ宇宙人、未来人、超能力者で、ハルヒ一人がそのことを知らない。団員らの使命はハルヒに愉快で平穏な日々を送らせること。なぜなら、この世界はハルヒが見ている「夢」かもしれないという恐るべき仮説があり、彼女が世界に飽きれば、何が起こるかわからないのだ。
世界の命運が学園の日常に直結するという趣向は、70年代のジュヴナイル(少年向け)SFにもある。が、日常から非日常へ物語が飛躍するのではなく、非日常的な面々が、崩壊ギリギリの現地の中で、「あたりまえの日常」を必死につむいでいくという逆転は、いかにも2000年代的だ。基本的に明るいドタバタコメディだが、10代~20代のライトノベル世代の、世界に対する漠然とした「不安」を映しているようにも感じられる。
ライトノベルとしてはクセのない優等生的な作品。萌えアニメ絵の表紙にひるまず、ぜひ一度手に取ってみてほしい。
(讀賣新聞 平成十八年六月六日)


特に注目したいのは後半の「日常」と「非日常」について述べた箇所。
「ハルヒ」の中で描かれる世界は日常を主体としたものであるが、
実は非日常の連続である。
この論評で「ハルヒ」はほぼ絶賛されているが、私はどうしても「ハルヒ」を好きになれない。
というのも、一見すると巷にあふれる「萌え絵」を使ったライトノベルであり、
アニメの方もドタバタ学園萌えアニメにみえる。
が、内に文学的なものを散りばめており学園や萌えだけではないことが強調される。
あるいはそれは文学ではなく安っぽい「ブンガク」なのかも知れない。
いづれにせよ、不可解で難解な内容・設定はそれだけで文学の匂いを漂わす。
私がハルヒを観つつも一方で不快感を感じるのはこのあざとさがあるからだ。

そして、なにより私は「ハルヒ」の作中で描かれる日常に恐怖を感じる。

少し前、「行け!稲中卓球部」という学園ギャグ漫画が流行った。
「稲中」を御覧になった方に最終巻あたりの日常を描いた箇所を読んで不思議な感覚に襲われた方はいないだろうか。
「ハルヒ」に潜む不思議な感覚とそれは一致する。
じじつ、「稲中」の著者・古谷実はその後、
ギャグを棄て日常に潜む闇や恐ろしさをテーマとして作品に傾倒してゆく。

つまり「ハルヒ」にあるものもそういった日常に潜む闇や恐怖なのである。
いや、だからこそ「ハルヒ」は多くの読者、視聴者を惹きつけてやまないのかもしれない。

「ビューティーコロシアム」が嫌い

2006-06-06 20:44:55 | テレビ・芸能
「ビューティーコロシアム」という番組が嫌いです。

ビューティーコロシアムは番組が応募によって選別された不美人をスタジオに招き、
彼女たちが不美人であるがゆえに受けてきた屈辱や差別の体験を語らせて、
ゲスト芸能人(主に司会の和田アキ子)が整形の必要性の有無を判断する。
そして、晴れて(?)整形の必要有りと判断されたなら、
費用は番組もちで整形手術を受けられるという内容。

私がこの番組が嫌いな理由は
人が人を顔によって判断・差別することを改めて実感させられるからです。
こういうと、なにやら聖人ぶっているようですが、
無論、自分も例外ではなく、
同じ性格の美人と不美人がいれば間違いなく美人を選びます。
人はやはり哀しい。
そういう現実をまざまざと見せつけられるから嫌いなのであります。

しかし、我々はその哀しい現実を背負って生きてゆかねばならぬわけで、
本来、不美人に必要なケアは整形ではなく、
そういう自分をいかに受け入れていかに生きてゆくのかということだと思います。
それが難しい事は重々承知です。
ゆえに、整形は否定しませんし、整形を悪だとは思いません。
整形が悪であるならば化粧も悪です。
整形によって当人が喜ぶならばそれも良きことでありましょう。

私も決してキレイな顔立ちをしていませんし、
むしろ、整形したいくらいの顔ですが、
決して忘れてならぬことは、
「整形して人はキレイにはなるが決して美しくはならない」
ということであります。
昨今、小奇麗な女性や男共は増えて街中に溢れていますが、
果たして「美しい」と思える人がそれほど居るか。
美しさとは云うまでも無く見た目だけの問題ではありません。

我々は見た目のキレイさを追求するあまり、
心身の「美しさ」の追求をないがしろにしてはならないのであります。