あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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DAIGOの話と小渕さん

2008-08-28 20:59:44 | 歴史・人物
DAIGO(ダイゴ)の話がなかなか楽しい。
ダイゴは正式名をDAIGO☆STARDUST(ダイゴスターダスト)と言い、本名は内藤大湖。
母方の祖父が故竹下登元総理にあたる。
はじめは、ただのチャラい男に見えて祖父の七光りかなんて思っていたけど、なかなか良いキャラクターをしていて、その育ちの良さゆえか性格も良い。
ただ、言葉遣いはとても三十代とは思えず、はじめ見たときは十代と思ったくらいだ。
一見、頭も悪くみえるが彼の話は面白い。
例えば・・・

正月に小渕さんと「ニアミス」してお年玉を貰った。
おじいちゃん(竹下登)でさえ、一万から三万くらしかくれなかったのに小渕さんは五万もくれた。
以後、リスペクトしている。

竹下内閣のとき、消費税が導入されて、当時小学生だった自分も学校の先生やクラスのみんなからバッシングを受けた。

おじいちゃんは柔道の有段者で孫の自分と柔道をするときも容赦がなかった。
ふつう、孫相手だと手加減するものなのにいつも勝って「どうだおじいちゃんは強いだろう」といっていた。
おじいちゃんはチョー負けず嫌いでしたね。


・・・以上、今日『うたばん』で放送された内容から抜粋。
身内ならではの裏話でなかなか興味深いものがある。
「ニアミス」という表現には思わず笑ってしまった。
あと、石橋貴明から創政会の話をされた途端、「そういう難しい話はわからないっすけど」。
このノンポリ具合もなかなかいい。

ところで、小渕さんといえば、竹下登の弟子のような存在で、竹下登が最も可愛がった政治家だ。
田中眞紀子からは凡人と言われて、総理になった後もニューヨークタイムズから「冷めたピザ」程度にしか魅力が無いなんて揶揄されたが、本人は「冷めたピザはレンジでチンすれば暖かくなりますから」とか報道陣にピザを配ったりして悪口をネタにする柔軟さで対応した。
人柄の小渕と言われた所以がここにある。

一方で江沢民から謝罪要求を突きつけられた際にはきっぱりと跳ね除け、それを促す外務官僚に対しては机を叩きつけて怒鳴ったというエピソードもある。
また、小渕さんは福田恆存先生を敬愛し、山本夏彦さんも愛読していた。
彼こそ名実共に保守本流の政治家だったのかもしれない。
個人的には平成以後の総理でもっとも好感が持てる人だった。
ダイゴが「おじいちゃんの次に尊敬する人」と言う話も頷ける。

北京五輪雑感

2008-08-22 03:19:00 | 雑記
巷じゃどうも五輪五輪と騒いでいるらしい。
新聞を見てもテレビニュースを見ても五輪のことばっかり。
だから、ここ数日新聞もニュースもあまり観ていない。

中共政府が嫌いだから観ていないないんじゃない。
私はこう見えて結構非国民で国レヴェルで盛り上がる行事が嫌いなのだ。
それにスポーツに興味無いことも相俟って五輪は北京五輪に限らず、とんと見たことがない。
だから、「日本人選手が金メダルを獲りましたよ!」なんて云われても「あ、そうですか」という感じ。
周囲が殊のほか盛り上がっている様子をみて、なんだみんな私よりよほどナショナリストだよなんて思いつつほくそ笑んでいる。

そう言えば、開会式の花火がCGだったとか、少女の歌が口パクだったとか報道されていた。
でも、あの中国のこと。別に驚くことじゃない。
それに、口パクなら日本の歌手もやっているよ。呵々。

そんな中、あまり笑えないニュースが入ってきた。
ダライ・ラマが「今月18日に中国軍がチベット人の群衆に発砲し、およそ140人が死亡した可能性がある」と発表した、というものだ。

中国は五輪の成功と金メダル獲得に励みつつ、同時にチベット人を殺すことにも励んでいるらしい。
「五輪は平和の祭典」なんて云ってた人たちもこれで少しは目がさめるだろうか。

新聞が書かない華国鋒

2008-08-21 01:40:28 | 歴史・人物
中国共産党主席や中国首相を務めた華国鋒が死去した。
中共のトップに立ったこともあるのに華国鋒の名ははあまり日本人に馴染みがない。
党主席と首相を兼任していた当時も日本の新聞は華国鋒について詳しく報じることをしなかった。
だから、当時山本夏彦さんは週刊新潮に「だれも知らない華国鋒」(昭和五十五年二月)なんてコラムを書いている。

なぜマスコミが華国鋒を無視し続けたか。
それは彼の言行について知れば自ずと答えは見えてくる。

華国鋒は1921年中華民国山西省交城県に生まれる。
抗日戦争(支那事変のあちらの言い方)に参加し、その時所属していた「中華抗日救国先鋒隊」が彼の名前の由来だ。
彼は中華人民共和国が成立したのち、湖南省書記に抜擢される。
同省公安部長を歴任後、中央政界へ赴き、副首相、軍事委員会主席とトントン拍子に出世してゆく。
周恩来首相が死去したあとは毛沢東の使命で総理代理、党第一副主席となる。

あの中共でこれほど出世するのだから、さぞかし権謀術数に富んで・・・という人物像が想像されようが、実際はまったく逆。
権謀術数に疎く、まじめだけが取り柄のような人物だった。
ではなぜ、華国鋒がなぜこんな出世コースを歩めたのか。
タネ明かしをすると、実は華国鋒は毛沢東の庶子、つまり「隠し子」で毛が湖南省で農民運動を展開していたとき「桃」という女性に産ませた子というわけだ。
また、毛沢東が死去する数ヶ月前、華に「あなたがやれば安心だ」と遺言したとされるが、これはどうも作り話らしい。
ただ、当時は広く信じられ、華の権威づけに大いに利用された。

華国鋒の業績はこれまたあまり知られていないが、最大のものは支那の歴史史上最大の失政といってもよい文化大革命を終わらせたことだろう。
これは毛沢東の死後に軍を牛耳っていた葉剣英と同じく党を牛耳っていた李先念と謀り、文革を推進した江青夫人ら四人組を逮捕したことで成し得た。
こうして華国鋒は名実ともに中共のトップとなるが、「毛氏の決定はすべて断固として擁護し、毛氏の指示はすべて守る」という「二つのすべて」という路線を打ち出す。
つまり、毛沢東の路線をそのまま継承するもので、そこに国家ヴィジョンも戦略性もまったく無かった。
そんな具合だから、すぐに小平との権力争いに負け、以後転落の人生となる。

もう一つの華国鋒の業績と云えなくもないのが、彼の中国共産党批判だ。
彼は失脚したのちも臆することなく党幹部を批判することで有名だった。
権力闘争にあけくれ、国土が荒廃し、人民が苦しんでも知らん顔、自分たちはブルジョアな生活を送る幹部に対して

「中国共産党の正当な担い手は農民と労働者ではないか」
「権力を掌握した後、いったい中国共産党は何をしたのか。腐敗、利権、人民への圧政、司法の独断運用、人権無視、権力の乱用ぶりを目撃していると、嘗ての国民党を同じであり、現在の国民党のほうはもっと進歩しているではないのか」


などと痛烈な批判を展開した。
なんと、胡錦濤に対しても次のような書翰を送っている。

「いまの共産党は腐れ切っている。利権をむさぼるだけの政党に成り下がって、その改革も出来ない胡錦濤よ、権力を手放して党から去れ」(博訊新聞網、8月17日付)

同じ共産党員の言葉とは思えない。
ふつうこの類の発言をしたら共産党内ではまず間違いなく消される。
これほどの発言をしても殺されなかったのはやはり毛沢東の子だったからだろう。
胡錦濤は華国鋒の遺言を胸に刻んで欲しい。

因みに、華国鋒死去に関する新聞各紙の報道をみると面白い。
読売、毎日はベタ記事扱い。
朝日は少し詳しく書いているが、文革を終わらせたことや党批判の事実にはふれていない。
勿論、文革を礼賛していた朝日にとっては都合の悪い事実だからだろう。
共産党批判も含めて、マスコミが華国鋒について触れたがらない答えはこの辺にありそうだ。
一人我が道をゆく産経は四大紙の中では唯一、小さいながらも特集記事を組んで「隠し子疑惑」について触れている。
また、「華氏は毎年12月26日の毛沢東誕生日には天安門広場の毛沢東記念堂への参拝を欠かさなかった」とある。
ただし、華国鋒の党批判については書かれていない。

こんな具合だから山本夏彦さんが云ったように華国鋒をだれも知らない。
これからもずっとそうだろう。


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追記:
ネットでこんなアネクドートを発見。面白い。


中国の刑務所に三人の男が捕まっていた。

男A「お前はどうして捕まったんだ?」
男B「俺は華国鋒の悪口を言って捕まった。」
男A「俺は『華国鋒を支持する』といったら捕まった。」
男B[本当にこの国は分からんな。」
男A「まったくだ。」
男B[ところでそこのおじいさん、あなたはなぜ捕まったんだい?」
男C「うむ、私がその華国鋒なんだ。」

ミャンマー、この親日なる国

2008-08-12 21:06:00 | 歴史・人物
以前、ミャンマーについての記事を書いたが、そこではこの国の親日っぷりについて断片的にしか書けなかった。
そこで、今回はミャンマーが如何に親日的な国であるかについて述べたいと思う。

×××

かつて、ミャンマー大使を務めたこともある山口洋一氏はかねてより「世界に特筆すべき親日国が二つある。トルコとミャンマーだ」という話を聞いていたという。
氏は実際にミャンマーに赴任してそのことを肌を持って感じることになる。
まづ、大使館公邸に到着したとき、正門に配備されていた守衛の出迎えの挨拶が旧帝国陸軍式の敬礼だったことに驚く。
そして、夕方ともなれば国営テレビから軍艦マーチや海ゆかばが流れる。
前にも書いたが「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」「愛馬行進曲」「歩兵の本領」などはミャンマー国軍の軍歌として歌われている。
これらはビルマ語に歌詞を変えられ、多くの国民から愛唱されている。

また、街を行く車は圧倒的に日本から輸入された中古車が多く、「坂田酒店」とか「ひとめぼれ・寿屋」などと書かれていて、
大型バスのドアのところには「ワンマン・入り口」、行き先表示のところには「高浜海水浴場」とあったりする。
ペンキで塗り潰せばいいものを、ペンキ代もないのだろうかと思っていたら、なんとわざとそのままにしていることがわかった。
日本製なら間違いなく品質がよいという高級イメージが定着しているので、正真正銘日本製だよと自慢の種になる日本語表記は誰も抹消せずに大切に残すのだという。

ヤンゴン外語大で教えられている様々な言語のなかで英語についで日本語が学習されている。
また、日常生活では勿論のこと地方を旅している時も自分(山口氏)が日本人だとわかるとたちまち態度を改めて特別の好意を示してくれる云々。

では、日本とミャンマーの関わりはいつ頃から始まったのであろうか。
十六世紀から十七世紀にかけて、豊臣秀吉の朱印船貿易に伴って東南アジアの各地に多くの日本人町が作られたことはよく知られている。
もっとも有名なのはシャム(現在のタイ)の山田長政だろうか。
この日本人町がビルマにもあったことを十七世紀のポルトガル人不況僧、セバスチャン・マンリーケが『東南アジア旅行記』の第一巻『アラカンへの旅』に記している。
マンリーケは1630年、アラカン王国(現在のミャンマーのラカイン州にあたる)を訪問したとき、当時の国王チリッダンマの護衛を勤める日本人のキリシタン武士の一団に出会っている。
この日本人一団の規模については「家族を含む多数の日本人」とあり、アラカンの首都ムラウーには日本人町、ポルトガル人町、英仏蘭雑居の三つの町があると記している。
さらに、マンリーケは日本人は東洋のすべての民族の中で、性質として名誉を最も重んずる民族で、これらの日本人は「国王から信頼されていた」「日本人は美的感覚においても繊細であり、その表現においても優れている」と感嘆している。
つまり、日本とミャンマーの交流は少なくとも十七世紀初めに溯ると考えられる。

ビルマ人が日本に熱い視線を注ぐようになったのは日露戦争以後だ。
当時イギリスの植民地として辛酸を舐めていたビルマ人にとって白人の大国ロシアにアジアの新興国日本が勝利したという事実は青天の霹靂だった。
これはビルマ人に限らない。
当時、アジアの人々は地球上で白人が最も優れており、彼らの植民地支配には抵抗のしようがなく、まして白人国家を敵に回して戦争に挑むなど夢想だにしなかった。
以後、日本留学を志すビルマ人が現れ、その一人、ウ・オッタマ(註)は『中国と日本』という著作を出版している。
『中国と日本』は日本の近代化の過程や仏教事情を含む実情を紹介しつつ、中国との対比において日本がいかに優れた先進的な国であるかを解き明かしている。
植民地統治下のビルマでこういう本が出版されたのは不思議だが1938年に本書が出版される以前からもオッタマの原稿はビルマ人の間で熱心に回し読みされた。
出版以後はより多くのビルマ人が貪り読むことになり、ビルマ人の日本に対する関心や憧憬が一層高まることになる。

それからの歴史的経緯は先の記事に書いた通り。
日本軍から軍事訓練を受けたビルマ人「三十人の志士」は大東亜戦争勃発に伴い、日本軍と共にイギリス軍をビルマから駆逐することに成功。
ビルマの独立を果たすことになる。
この時、ビルマの国家元首となったバー・モウはこの時の感慨を次のように記している。

「百年にわたる外国支配が彼らの目の前でいきなり崩壊していたった。
ビルマ人の精神状態はただただ有頂天の狂乱状態だった。
ビルマ人はまったく興奮していた。
全世界の爆発の中で、ビルマ人たちは、彼らの内部のすべても爆発しているように感じた。
この気分はビルマ軍の出現で最高頂に達した。
最初の軍隊が日本軍の師団と行進して来るのを見た時、人々の思いは、かつて偉大なビルマ帝国を築いた王や征服者や、東のタイ、北西のアッサム、マニブール、北東の雲南に進入し、いつまでも忘れない歴史を残したビルマ軍のはなはだしい過去の時代に引き戻された。(略)
ビルマ軍は彼らにとって、過去の郷愁と未来への夢の象徴であった。それ故、人々は熱狂的にそれを歓迎した。」
(バー・モウ著、横堀洋一訳『ビルマの夜明け』)


百年もの間、イギリスの植民地支配に喘いでいたビルマ人の心情を察することができる。
しかし、独立後のビルマでは日本軍政が敷かれ、その反撥もあってビルマ軍は日本軍に叛旗を翻すことになる。
たしかに日本軍はビルマで随分酷いこともやった。
左翼がよく言うような虐殺をやったわけではないが、占領政策に要する各種施設や物資の徴発で掠奪まがいのことをやったのも事実だ。
また、日本軍憲兵の暴虐な振る舞いはビルマ人を怖れさせた。
たとえば、ビンタ一つにとってもビルマでは首から上の部分に手を下すことは想像を絶する侮辱と受け止められていてこの国の人たちは絶対にしない。
いまでも年配のミャンマー人は「日本の兵隊さんのやったことでビルマの人たちに嫌がられたのは『ぴんた』と立小便でした」と振り返る。
また、日本軍進駐のせいで、イギリス軍から空爆を受けラングーンやマンダレーは廃墟のようになってしまった。
このとき、コウバウン王朝の宮殿も跡形も無くなるほど破壊された。

それほど、日本軍はビルマ人に迷惑をかけたにも拘わらず、ビルマ人の親日は揺るがなかった。
例えば、敗戦末期の日本軍にビルマ人がどれほど厚い手を差し伸べたか、日本兵が残した数多くの文献や手記に記されている。
乞食同然のぼろぼろの姿で敗走する日本兵にビルマ人は食べ物を与え、傷つき、マラリアや赤痢に苦しむ者は手厚く看護された。
ビルマ人のこうした好意によって命をとりとめた兵士の数は計り知れない。
そして、ビルマ人の間ではいまでも
「日本軍が来てイギリスを追っ払ってくれた御蔭で独立を得ることが出来た」
と素朴な受け止め方が広くなされている。
だからミャンマーのテレビドラマでは日本軍兵士が勇敢で優しい善玉として出てくる。
日本軍が常に悪玉として描かれる中国や朝鮮のテレビドラマとはまったく逆の構図がここにある。

×××

会田雄次『アーロン収容所』を読んでもビルマ人の親日を知ることができる。
本書は戦後、イギリス軍の捕虜となり、ビルマにある捕虜収容所に収監されることになった会田氏の回想記である。
会田氏は「私たち捕虜に対するビルマ人の好意は不思議なほどであった」と書く。
厳重な警備の目を盗み、作業場や町角で、ビルマ人が黙ってタバコを落としてくれる。
脱いでいたシャツのポケットをみればセレ(ビルマの煙草)やモウ(ビルマのお菓子)が入っている。
これらはたいていビルマの娘たちの贈り物だった。
会田氏たちがある家の清掃をしているとき、四つくらいの可愛い幼女が「見よ東海の空あけて」と愛国行進曲を歌いながら踊りを見せてくれたこともあった。
兵隊たちが拍手すると女の子は嬉しそうに日本風にお辞儀した。
捕虜の身である日本兵を慰めようとしたもので会田氏は目頭が熱くなったという。

また、ある苦力みたいなおじいさんは日本兵捕虜に会うといつも土下座をして手を合わせるのでこちらが恐縮してしまうという話も紹介されていた。

捕虜生活も一年くらいたつと次第に自由になってきて、ビルマ人から昼食に誘われることもあった。
ビルマの食事というのはとても辛いのでいらないと云ったが承知しない。
手で食べることにも抵抗があったが、郷にいらば郷に従え、それが礼儀だと手で食べるとワッと歓声が起こる。
何事かと思ったら「やっぱりニッポンのマスターはえらい。イギリス人は自分たちと食事など絶対にしない。手で食べるのは野蛮人だなどという。日本人は自分たちを同じように取り扱ってくれる」ということらしい。
そして、しきりに「イギリスはいかん。イギリスはいかん」というようなことを云う。
また、「戦争は本当に負けたのか。負けても日本のマスターがたくさんいてくれるので自分たちは心強い。どうか帰らないでくれ。
武器はどこにかくしてあるか。いざというときは一緒に戦おう。また勝つさ」と話す者や
「帰らないでくれ」と涙を浮かべてる者もあったという。
如何に日本軍がイギリスを追っ払ったことがビルマ人にとって嬉しいことであったかが知れる話だ。
ミャンマー親日の由来はどうやらこの辺にありそうだ。

捕虜になる前、ビルマ国内で戦争をしていたときの話もある。
会田氏はシャン高原の山中でマラリヤに倒れ部隊から離れてしまう。
同行は二三人だけになってしまった。
日暮に小の前にでたので日本軍部隊がいると思ってオーイと連呼していると小銃をもったビルマ人が出てきた。
それぞれ、別の家にあげられ、そこで鶏を使った御馳走をしてもらい、あくる日には味のついたお粥(たいへんおいしかった、とある)が出た。
さらに、背嚢を背をってくれてはぐれた部隊まで一緒に連れて行ってくれた。
お礼にタオルを差し出したら、手を振って遠慮する。
それでも無理に渡すと、嬉しそうにタオルを頭に巻いて戻っていったという。

他にも本書ではインド兵(イギリス軍に属している)とビルマ人の仲の悪さなども紹介されていて大変興味深い。
インド人とビルマ人のいざこざは絶えずあり、ときには乱闘になる。
そういう時はきまって「こちらに味方してくれ」とビルマ、インド双方から要請されたなんて話も出ている。

×××

日本はそんなビルマ人(現ミャンマー人)の好意に十分に応えてきただろうか。
多くの日本軍兵士の命を助けてくれただけでもその恩は余りあるのだが、それを知る日本人は少ない。
以前、保守系雑誌『SAPIO』で「親日派特集」があったがミャンマーについての言及は無し。
「親日国地図」なるものも掲載されていたがミャンマーが完全に無視されていたのには複雑な気持ちになった。
左派はもっと悪い。
例えば朝日新聞はミャンマーを北朝鮮のような極悪なる軍事政権国家という風に書いてミャンマーに対するネガティブキャンペーンを行っている。
ミャンマーは北朝鮮のように隣国人を拉致したり、偽ドル札を造ったり、覚醒剤を売ったりしたことはないし、中国のように隣国を侵掠したこともない。
なのに、北朝鮮や中国を差し置いてミャンマーを悪く言うのはどういう料簡なのだろう。
また、ミャンマーの親日は日本から支援を得るためのパフォーマンスだと言う者もある。
確かに政府高官の中にはそうした意図の元に親日家をアピールする人物も居たかもしれないが、それをもってミャンマーが親日でないと誰がいえようか。

日本政府も2003年にアウンサンスーチーがミャンマー政府に拘束されて以降、新規の経済協力を見合わせる措置をとっている。
これも英米の対応と右にならえした恰好だが、スーチーが拘束されて都合が悪いのはイギリスなどで、日本がそれほど問題視する理由は無い。
というのも以前の記事でも書いた通り、スーチーの背後には英国が控えていて、ミャンマーを再び英国の影響下に置くことを目的としている。
ミャンマー軍事政権は多くの問題を抱えており、段階的に民主化を目指すべきであるが、それはスーチーに実権を握らせることとイコールではない。
いま、中国が着々とミャンマーを掌中に収めようとしている段階にある。
もしこれが成功したならば世界でも特筆すべき親日国を失うことになるだろう。
いまこそ日本はミャンマーに目を向けるべきだ。


*****

註:ウ・オッタマはイギリスの植民地支配に変革を求める民主主義運動において指導的な役割を務めた人物で、現在ヤンゴン市内には彼の名を冠した「ウ・オッタマ公園」がある。

参考:
ミャンマーってどんな国? - あび卯月☆ぶろぐ
http://blog.goo.ne.jp/tuneari/e/8f3798136aae100cbd1cb35881c45e1b

中国人留学生と呑む

2008-08-12 03:46:37 | 雑記
大学院の友人と呑んだ。
メンバーは武王さん(日本人男性、弊ブログリンク欄の「ご飯とから揚げ」管理人)、Hさん(日本人女性)、Gくん(中国人男性)、Lさん(中国人女性)、そして私の計五名。

はじめに私が半ば冗談で「北京五輪開催を祝して乾杯!」なんて勝手に音頭をとると、Lさんから「ありがとうございます(笑)」というお言葉。
そんな和やかな雰囲気で始まった。

途中、HさんとGくんが他愛も無い口喧嘩をはじめて
「そこ、日中戦争は止め止め!」なんていう場面があったりと、終始笑いながら楽しい酒が呑めた。

前回、散々オリンピックに水を指す記事を書いたが、私はオリンピックや中共政府が嫌いというだけで、一般の中国人とは友好的に附き合ってる。
政冷経熱ならぬ、政冷人熱というわけだ。

話の中でLさんに
「五輪の開会式で少女が『祖国を讃える歌』なんてのを唄ってましたが、あれれは、中国ではみんなが知っている歌なんですか?日本でも戦前は『愛国行進曲』なんて歌がありました。見よ東海の~空あけて~旭日高く輝けば~♪ってやつ」
なんて質問をすると、
「いや、聴いたことないですね。オリンピック用に作られた歌じゃないですか?」
とのお答え。

いま、少し調べてみたらあの歌の正式名称は「歌唱祖国」というもので、文革の頃に作られた歌らしい。
歌詞は当時と若干異なり、あるサイトには「第二の国歌」なんて書かれていた。
しかし、「第二の国歌」の割にはLさん、知らなかったぜ(笑)
私の訊き方が悪かったのか、あるいは文革世代以外には馴染みの無い曲なのかも。

他にも五輪全体の感想を訊いてみると
「自分の国をというより、強い選手を応援しています」という意外な返答が。
中国人というと国家意識が強いイメージがあったけれど、色々な方がいるようです。

ところで、このLさん研究分野が昭和初期ということもあってか、日本の古い歌をよく御存知だ。
「蘇州夜曲」あたりは若い日本人でも知っている人は多いが、「東京ラプソディ」まで御存知とは驚いた。
私が藤山一郎ばりに
「花咲き花散る宵も~ 銀座の柳の下で~♪ (略)楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京~♪」
と諳んじると、頷きながら「そうそうそう」なんて云ってくれて、
日本人である武王さんとHさんの方が「え、なにその曲」というようなお顔。
そりゃそうだ、二十代で知っている方がオカシイ(笑)

そんなこんなで武王さんを含めマニアックな歌の話題で盛り上がったりもした。
「じゃ、今度は是非カラオケに行きましょう」ということで今日の呑み会はお開き。
次回は秋口あたりに「日中親善歌会」(?)が開かれる予定であります。


*******
補足:

そうそう、GくんとHさんの喧嘩というのは、フライドポテトを食べるHさんにGくんが「あんまり食べると太るよ」とか「そんなにムキになって大声出さなくてもいいのに(笑)」とか本当に他愛の無いもの。
喧嘩というよりじゃれ合っていた感じだった。
それにしても、Gくんは今日は無口だったなぁ。

あと、「中国」を「支那」という表記にしようかと思ったけれど、いちいち説明が面倒なので今回は中国に統一。
支那ってちっとも悪い言葉でなく、むしろ良い言葉だと思うのだけれどなぁ。
中国というとどうしても中共政府のイメージがつきまうけど、支那というと悠久の支那大陸の長い歴史と文化的な香りがする。
それに、「中華そば」より「支那そば」の方が旨そうじゃない?(笑)

そんなに素晴らしいかオリンピック

2008-08-09 00:47:14 | 政治・経済
saratomaさんが運営されているブログ「のんきな日本人」で知ったのだが、
天木直人氏が自身のブログでこんなことを書いていたらしい。

田村で金、谷で金、ママで金、という名言を語ったやわらちゃんこと谷亮子。ママでこそ金を取ってもらいたい。
女性だけではない。私が期待する一人は柔道の石井慧だ。
一本勝ちで金メダルをとるのは格好がいいかもしれない。
しかし勝つためには組み技でも、時間稼ぎでもいい、格好悪いと批判されてもかまわない、と言い切って金メダルを取ると公言する、その覚悟がいい。

http://www.amakiblog.com/archives/2008/08/07/#001060


つまり、どんな醜態を晒しても、どんな手段を使っても目的を達成する(金メダルを獲る)という姿勢に天木氏は共感しているらしい。
私はこの感覚よくわからない。
どんな醜態を晒しても、どんな手段を使っても勝つという姿勢は柔道や剣道など「道」の精神に馴染まない。
もっといえば、日本人の精神に馴染まない。
むしろ、支那人のそれだろう。
なるほど、北京でやるオリンピックだから支那人のように戦おうということか。
他にも天木氏の記事にはツッコミたいところが沢山ある。


何でもかんでも中国を批判し、北京五輪の問題ばかりを騒ぎ立てる連中も、しばし選手達に声援を送ることに反対は出来ないはずだ。
日本の見苦しい政争も北京五輪の間は休戦だ。そんな政争は、五輪参加の選手達の活躍の前には、あまりにも卑小である。
スポーツにはいかなる批判も封じる力がある。そこには人間賛歌がある。



日本の見苦しい政争とは一体どういう意味だろう。
いま、目の前にある日中間の問題はギョーザ問題にしても尖閣列島の問題にしてもあるいはチベット問題にしても非は中国の側にある。
それを「日本の見苦しい政争」とはあたかも日本が悪いような書き方だ。
これが、元外交官の文章なのだから恐れ入る。
いや、日本にはこういう外交官ばかりだからいつも外交でバカをやるのだ。
それに、スポーツにはいかなる批判を封じる力があるというのもよくわからない。
また、天木氏は次のように書いている。

いよいよ北京五輪が明日からはじまる。(略)
なぜスポーツは素晴らしいのか。
それは虚飾のない世界だからだ。


なるほど、一見正しいことのように思える。
しかし、それはスポーツ一般を指す場合にだけ正しい。
オリンピックに限って云えば、そこに莫大な金が動き、つねに政治的である。
金に関して云えば、前IOC会長のサマランチは金まみれだったことで有名だし、
近くではソルトレイク五輪で審判の買収が行われ、不正な審判が行われている。
政治の話では前にも書いたが過去に中国は政治的な理由で七回も五輪をボイコットしている。
内、六回は台湾問題、一回はソ連のアフガニスタン侵攻が原因だ。

虚飾がないというのも怪しい。
選手の不正も挙げればきりがないほど例がある。
特に旧共産圏ではドーピングや肉体改造が平然と行われていた。
有名な旧ソ連の体操選手コマネチはモントリオール五輪当時、十四歳だったが小さくてより幼く見えた。
だから、「白い妖精」なんて呼ばれたがあれは成長を止める注射を打たれていたことによる。
ほかにも、ホルモンの打ちすぎで髭が生えた女性選手とか、
ドーピングの影響で畸形児を生んだ選手だとかこの手のエピソードはえぐいものが多い。
古代から、オリンピックは国威発揚の格好の舞台であり、国の威信を懸けた形を変えた戦争のようなものだった。
人間讃歌だとか呑気なことを言っているのは日本人など国威発揚の必要の国だけだ。
反対に国威発揚が必要な国であればあるほどオリンピックにを懸ける情熱が凄い。
いまの中国がまさにそう。
今日の開会式でも「中華人民共和国を讃える歌」を聴かせられた。
ナチスドイツが国の威信を懸けて開催したベルリン五輪でもそんな歌、唄ったかしら。

そして、スポーツ界における日本人いじめも見逃せない。
歴史を振り返ってみると日本人が得意な競技の多くは日本人に不利になるようにルールが変更されている。
古くは1956年メルボルン五輪で古川勝で金メダルを獲得したとき。
古川は五十メートル潜ったまま、いわゆる潜水泳法で優勝した。
直後、潜水泳法は禁止される。
次は長沢次郎が開発し1972年ミュンヘン五輪で田口信教に金メダルをもたらした平泳ぎのドルフィンキック泳法。
背泳では鈴木大地が取り入れたバサロ泳法。
これらの泳法で日本人が優勝するとすぐに禁止された。

スキーでは日本人がジャンプで高得点を獲るようになると、ジャンプの得点換算を低くするルール変更が行われた。
さらに、国際スキー連盟は、スキー板の長さを背の低い日本人に不利な「身長×1・46」に変更した。
世界のスポーツ界における制限や禁止はおよそ日本人がらみだと見ていい。
こういうことを云うとかならず、「考えすぎだ」とか「被害者意識が強すぎる」と云う者がある。
これこそ、お人好し日本人の典型。
腹黒い世界の連中はそんな日本人の姿をみてほくそ笑んでいることだろう。
歴史的に見て日本人はいじめられてもいじめられてもほとんど不感症でいじめが極限に達した時、キレるという性質がある。
真珠湾がいい例だが、それはまた別の話。

こういう具合だから、私はオリンピックが「平和の祭典」だとか「虚飾がない」とか到底思えない。
裏には政治とか国家とか妬みとか人間のどうしようもないドロドロした部分が見え隠れする。
五輪に夢中になっている人には水を差して申し訳ないが、天木氏のあまりにもな記事を読んで少々嫌気が差したのでついこういうことを書きたくなった次第。
悪いのは天木氏だ。
ところで、この天木氏、日刊ゲンダイを愛読しているという。
これだけでも、氏の人物像が知れるというものである。

タモリさんの弔辞

2008-08-08 03:28:54 | 歴史・人物
七日午前、赤塚不二夫先生の葬儀・告別式がいとなまれた。
式のなかで異彩を放っていたのはタモリさんの弔辞だ。
前の記事にも書いたように赤塚先生と肉親以上の付き合いだったタモリさんはどのようなコメントをするのか気になっていたが、この弔辞は言葉に言い表せないくらい素晴らしいものだった。

「マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。」

というくだりは、赤塚先生の生前の御人柄を偲ばせるに余りあるし、

「私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました」

という個所は赤塚先生とタモリさんの関係の深さを物語っている。
夕方のニュースでタモリさんが弔辞を読んでいる映像が流れていたが、
最後の一文、

「「しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。」

を読むとき、タモリさんは涙が溢れそうになり、言葉に詰まりかけていた。
私もその光景を見て、胸に去来するものがあった。
それにしても、「私もあなたの数多くの作品の一つです」とは、なんと深い言葉だろうか。
タモリさんの弔辞は全てにわたって名文というほかないが、最後のこの一言は特に印象づけられた。
また、

「「あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません」

というくだりもある。
これに、タモリさんはきちんと答えている。
映像や写真で確認できるように、タモリさんが手にしている原稿は白紙だった。
あれほどの弔辞を宙で云えるタモリさんはただ者ではない。
同時にギャグも入れているのである。

私はこんな感動的な弔辞を他に知らない。


*******

以下にタモリさんの弔辞を全文掲載。


「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。

 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」


http://www.sanspo.com/geino/news/080807/gnj0808071158018-n1.htm より

赤塚不二夫先生逝く

2008-08-02 23:40:38 | 歴史・人物
「おそ松くん」「天才バカボン」などで知られる漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、
本名・藤雄=ふじお)さんが2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。
72歳だった。旧満州(現中国東北部)出身。自宅は東京都新宿区中落合1の3の15。
葬儀・告別式などは未定。
(略)
平成9年12月に自宅で吐血して入院、食道がんが判明。その後も急性硬膜下血腫や
脳内出血で緊急手術を受け、14年以降は創作活動を休止していた。

昭和40年に小学館漫画賞(おそ松くん)、47年に文芸春秋漫画賞(天才バカボンなど)を受賞。
平成10年に紫綬褒章を受章。15年には東京都青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」がオープンした。

最終更新:8月2日21時22分 8月2日21時22分配信 産経新聞

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080802-00000949-san-ent




とうとう怖れていたことが、現実のものとなった。
赤塚先生が随分前からほとんど人事不省の状態だったことは伝え聞いていた。
先日も美容師の先生と「赤塚さんも、もう長くないでしょうねえ」などと赤塚先生の病状を案じていたのだが、とうとう逝ってしまわれた。
漫画ファンとしては漫画家が亡くなることはまことに悲しい思いがする。

藤子・F・不二雄先生が亡くなられたとき、あの時、私は小学六年生だったが、なにやら無性に悲しくて胡瓜をばりぼりと一本丸ごとほおばった記憶がある。
なぜそのようなことをしたのかは良く覚えていない。

赤塚不二夫先生はF先生と同じくトキワ荘のメンバーでギャグ漫画の神様とも謳われた人だ。
赤塚先生の作品、「バカボン」や「おそ松」、キャラで云うとニャロメやイヤミなど日本中で知らない人を探す方が難しいのではないだろうか。
私は幼稚園の頃、アニメの「平成天才バカボン」と「もーれつア太郎」をリアルタイムで見て、後に夕方の再放送で「おそ松くん」や「元祖天才バカボン」を見た世代にあたる。

「平成天才バカボン」の最終回の最後の場面はあの有名なエンドレスギャグなのだが、その時、洋間で父と二人で見ていて共に爆笑したのを覚えている。
当時、私は五歳。この頃の記憶が鮮明に残っていたのだから赤塚ギャグの衝撃の凄さがうかがえる。
「たたえよ鉄カブトなのだ」の回もかなりの衝撃で怖いくらいだった。
「もーれつア太郎」や「おそ松くん」も様々な記憶が残っていて、赤塚作品はその後の私の人格形成に少なからず影響を与えている。
例えば私が秋刀魚好きなのは本官さんが秋刀魚を美味しそうに食べようとして食べられなかったエピソードに由来する。

赤塚先生の死期を早めたのは何と言っても酒だろう。
先生はアルコール依存症で、医者に酒を止められても「ボクは酒を止めたほうがもっと大変なことになる」と言ってきかなかった。
御夫人の話によると先生は家でよく幻覚を見ていたようで、一人で見えない相手と楽しそうに喋っていたという。
先生御自身もそれを自覚していて「いま、幻覚の人と喋っていた」などと笑顔で仰っていたらしい。
ギャグ漫画の神様は私生活もギャグそのものだったわけだ。

赤塚先生といえば、タモリとのエピソードもなかなか楽しい。
赤塚先生とタモさんが出会ったのは東京のジャズ好きが集まる「ジャックの豆の木」というバー。
それ以前に知り合っていたジャズピアニストの山下洋輔さんが密室芸をさせるために福岡からタモさんを「ジャックの豆の木」に呼んだのだ。
タモリの芸に感動した赤塚先生は「自分の出ているTV番組に出演しろ」とタモリに打診するが、
タモさんは「八月の出演までは東京にいられない」との返事。
そこで、赤塚先生はタモリを自分のマンションに住まわせることにした。
家賃十七万、4LDKという高級マンションで冷蔵庫にはハイネケンがぎっしり。
さらに、月二十万の小遣いを渡され、ベンツも乗り放題だったという。
はて、赤塚自身はどこに住んでいるのだろうとタモリは案じたが、赤塚先生は事務所のロッカーを倒しその上に布団を敷いて寝ていたという。
もちろん、この頃またタモリはまったくの無名の素人で、赤塚先生らの支援があって芸能界入りを果たすことになったわけだ。
このたびの訃報にタモさんはどんなコメントをするだろうか。

今夜は『まんが道』を読んで在りし日の赤塚先生を偲びたいと思う。