あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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プレステ3の価格に見るソニーの姿勢

2006-05-17 02:48:26 | 雑記
今秋に発売されるプレステ3の値段を昨日の「伊集院光深夜の馬鹿力」で知った。
なんと、税込みで62790円。
伊集院さんもこの価格に対してギャグを交えつつも批判的にトークを展開していた。

私は今、テレビゲームというものを殆どしない。
小学生、中学生の頃は随分やったくちだが、高校くらいからほとんどやらなくなってしまった。
というのも、最近のゲームにはついていけなくなったからだ。
私はリアルな映像や3Dが嫌いなのである。
ゲームはシンプルなほど良い。
例えば最近、妹にプレステ2の「サイレントヒル」なるゲームを頻りに薦められて、数分プレイしてみたが一向に楽しくなかった。
だから、私にとってのテレビゲーム機はスーパーファミコンであり、
テレビゲーム会社といえば任天堂である。
一応、ニンテンドウ64とプレステ、プレステ2を持っては居るが、ソフトはそれぞれ数本づつしか持っていない。

さて、こんな私がゲーム機についてあれこれ言うのはおこがましいかもしれないが、
プレステ3に関してはどうしても一言云いたくなった。
早い話が「高い」のである。
この値段では金持ちの子供か余程ゲーム好きな者しか買わないだろう。

SCE社長兼CEOの久夛良木健氏の発言を紹介した記事を引こう。

また、気になる価格について久夛良木氏は、「安すぎたかも」とそれぞれ内包する技術や原価を考慮した発言をする。久夛良木氏はプレイステーション 2(PS2)の発売時を振り返り、「これはPS3の価格です。高いとか安いとか、“ゲーム機として”というくくりでは考えてほしくないんです。PS3というものは他にはないわけですから。例えば、高級なレストランで食事をした時の代金と、社員食堂での食事の代金を比べるのはナンセンスですよね? これは極端な例ですが、まさにそういうことなのです。そのゲーム機で何ができるか、というのが問題なのです。すばらしい体験ができるのなら、価格は問題じゃないと考えています。(以下略)」

http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0605/09/news046.html


なるほど、プレステ3はゲーム機というくくりで考えてはならぬモノらしい。
その割にはハードディスクが20ギガというのはどういう料簡か知らぬが、
それにしてもこのソニーの態度に腹が立つ。
特に「安すぎたかも」などは金持ちが上からものを言っているようにしか聴こえない。
「“ゲーム機として”というくくりでは考えてほしくないんです。」
という発言も夜郎自大に他ならない。
漫画家や声優が自らを「アーティストです」と称するようなものだ。
プレステはプレステであるかぎりゲーム機である。

第一、テレビゲームは本来、子供のものではなかったのか。
翻って上に見る社長の発言は子供の視点をまったく無視したものだ。
「すばらしい体験ができるのなら、価格は問題じゃない」
と言っているが子供にとっての一番の壁は価格なのであって、
「問題じゃない」ことがあろうはずはない。
それに、価格によらずに素晴らしい体験が出来るゲーム機こそ本当に良いゲーム機ではないのか。
子供は高級レストランで食事はしないし、
大枚をはたいて娯楽を得ることに喜びを見いだしはしない。
仮にそういう子供がいたとしてもそれは頗る生意気で嫌なガキである。

こういうことを書くと昨今のゲーマー達に怒られようか。
特にソニーの悪口を言うと過剰に反応する人が少なくない。

しかし、最近のゲームの価値はよりリアルでより美しいグラフィックなど、
いかに「高性能」であるかが価値判断の基準になっている。
ゆえにソニーに限らずゲーム会社はゲーム機のスペックばかりに拘り、より多くの機能を附けようとする。
まるで冷戦時の米ソの核開発競争のように相手よりいかに多くの機能を持つかということばかりに気を取られている。
そしてとうとうソニーは子供の視点をも失った。
私はX-BOXが日本で成功しなかったのは米国に子供の玩具を作ってきた歴史がないからだと思っている。
日本は江戸時代から子供向け玩具を作ってきた歴史がある。
子供の視点を無視するソニーはX-BOXの二の舞になるだろう。

もともとソニーという会社は嫌いだったが、この一件でますます嫌いになった次第。
あび卯月は任天堂を応援しています。

新ゴーマニズム宣言 第232章

2006-05-16 00:55:13 | 書評・雑誌
今号の新ゴーマニズム宣言は重慶爆撃についての話。

最近、ネット上では
「最近の小林よしのりはアメリカの悪口ばかり書いて中国、北朝鮮、韓国の批判をないがしろにしている」
などという批判をよく目にしていました。

私は小林さんが支那・朝鮮批判をしないからといって批判される道理はないので、
このような批判は批判にあたらないと無視していたのですが、
ネット上の声がとどいたのか、今回は中国批判の内容でした。
欄外にも竹島に対する韓国の態度を批判。
なるほど、確かに支那・朝鮮批判となるといつもより冴えている気がいたします。

さて、内容。

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支那事変の際の日本軍による重慶爆撃の被害者や遺族が日本政府に謝罪と保障を求めて訴訟を起こした。
が、マスコミは殆ど黙殺。
新聞でもほとんどベタ記事で朝日新聞でさえも大きく取り上げなかった。
そんな中、ジャーナリストの斎藤貴男は
マスコミはもっとこの訴訟を取り上げるべきだと憤っており、
「自分が日本という国でジャーナリズムに関わっていることが時々、恥ずかしくなる」と日刊ゲンダイで述べていた。
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以下、斎藤氏の批判、重慶爆撃に対する歴史認識の誤りをことごとく指摘。
加えて、中国や日本のマスコミ、サヨクの批判と続きました。

斎藤氏は以前ここでも取り上げた人物ですが、左翼で有名なジャーナリストです。
そして、上にもあるように「ジャーナリストとして虚しくなる」だの「日本という国にいて恥ずかしくなる」だのという文章をことあるごとに綴っています。
そんなに虚しくなったり恥ずかしいのなら今すぐにジャーナリストを辞め、日本よりも余程上等な国(があるんでしょうから)で暮らせばればよいと思うのですが、それには至っていないようです。

ただ、小林さんが言うように私も斎藤氏の新自由主義批判や格差社会批判には同調するところもあります。
今号の「中央公論」に掲載された外資系保険会社批判もなかなか良い記事でした。
が、やはり斎藤氏の戦前の日本に対する評価はお話にならない。
山本夏彦さん云うところの「戦前戦中まっ暗史観」です。

結局、近年、左翼やサヨクが支持されなくなってきた背景には
左派の歴史や史実に対する目に余る無知が一番の大きな原因ではないでしょうか。
特にネットが発達したこともあり、そういう歴史の事実が一般にも知られるようになってきました。
中国の文化大革命にしろ拉致問題にしろ左派の言い分は悉くはずれてきましたし、
中国のチベット侵掠をはじめとする様々な暴虐なる行為を指摘してきませんでした。

一方、以前まで右翼と云われて来た人々の歴史認識や中国観、北朝鮮観はおよそ正しかった。
それが近年次々に証明されてきました。
俗な言い方をすれば左翼は嘘つきだったわけです。
嘘を言うつもりがなかったにしろ結果的に「嘘」であり「欺瞞」となりました。

また、戦後民主主義は個のエゴのみが強い人間を生み出し、
教育現場では学級崩壊をもたらし、
日本の美徳や伝統などあらゆるものが破壊されてきました。
最近になってようやく日本人はそれに気づいて、「このままではいけない」と思うようになったのだと思います。
戦後六十年、振り返ってみれば我々は多くのものを失っていました。
『国家の品格』が大ベストセラーになった背景はこれと無関係ではないでしょう。
左派は単に「日本が右傾化している」などと言っていますが、
この期に及んでまだ「嘘」を附く気のようです。
中国海軍からは領海を侵犯され、韓国からは竹島を不法占拠され、北朝鮮からは拉致をされ・・・
それでもいまだ一度の武力行使どころか経済制裁もしない日本のどこが右傾化しているのでしょう。
日本が今後、今の憲法を棄て軍事拡大をし、
日本人の多くが「支那・朝鮮を膺懲せよ!」と本気で支那・朝鮮と一戦交える気になった時、初めて右傾化と云ってよいでしょう。
無論、私は日本の右傾化を望みません。
假にそうなれば私は先陣をきって日本の右傾化を批判いたします。
が、日本が今後そのような国になることは万に一つもありますまい。

ゴー宣の感想を書こうと思って筆をすすめていたつもりが思わぬ方向にいってしまいましたが
およそ以上のようなことを考えさせられました。

福田恆存さんの誤訳

2006-05-14 23:51:54 | 歴史・人物
少し前の週刊新潮をパラパラとめくっていると「福田恆存」という文字が目に飛び込んできて驚きました。
確認してみると内閣府日本学術会議事務局長・西ケ廣渉さんの「ハムレット」と題された記事でした。
西ケ廣さんは小学三年の時、福田恆存さん訳のシェイクスピア全集を買い、
中学三年の時に「ハムレット」の原典にあたり、福田さんの訳と読み比べたのだそう。
そして以下のくだりがあった。

後年、私は編集者を通じてであるが福田氏の誤訳を指摘したことがある。
「ハムレット」第2幕第2場、宰相ポローニアスがハムレットに暇乞いをする場面だ。
ハムレットの台詞を、「暇ならやるが、(自分の)命はやらぬ」と訳している。
しかし、ポローニアスの娘、オフィーリアに失恋したハムレットには自殺願望が芽生えていた。
ここは、「命ならくれてやる」と正反対の意味に解するべきであり、同様の指摘は私以外にもあったのか、改訂版には、私見が反映されていた。


福田先生にも間違いがあったのだと意外な気がいたしました。
まぁ、人間ですから訳を間違える事くらい当り前なのですが、
小生としてはちょっと興味深い記事でした。
もちろん、かといって福田先生の評価が変わるなどと言う事は一切無く、
この記事でも次の文が続きます。

もっとも、これで福田訳の評価が左右される筈もなく、格調の高さといい、言葉のリズムの心地よさといい、依然、最高峰に位置している。


最近、様々な雑誌で福田先生のお名前を拝見する機会が多くなってきました。
歿後、十年が過ぎて福田先生が再評価されてきたのでしょうか。
このようなことが多くの人の福田先生を知るきっかけになれば喜ばしいことであります。

「論座」と宮崎哲弥と渡邉恒雄

2006-05-12 03:25:36 | 書評・雑誌
最近の論壇誌で最も面白いのは「論座」かもしれない。
「正論」や「諸君!」は目次を見てもあまり読みたい気分にならない。
内容が悪いのではなくおよそ内容の予測がつくからだ。
毎回、中国朝鮮批判で少々食傷気味。

一方、論座は最近、新たな試みなのか保守系の論壇人を招いて記事を書かせたり対談を行なったりしている。

例えば三月号では正論の編集長を招き論座の編集長との対談記事が載った。
これはなかなか興味深く読んだ。

先月号も西部邁と八木秀次の対談が掲載されていた。
その中で西部氏が小林よしのりと訣別した旨の発言をしていたりと、なかなか見逃せない記事が多い。
(西部・小林の訣別はこの記事以外にままだ情報が出ていないようだ。)

論座のこういう姿勢は評価されてしかるべきだと思う。
ひとつ、「正論」や「諸君!」もこういう試みをやってはどうだろうか。
そうすれば、長い間、図書館だけで読むのを済ませていた「諸君!」を再び買い始めるかもしれない(笑)

同じ号に掲載されていた藤原正彦さんと記者の質問形式の記事は
藤原氏に喰ってかかるような質問の仕方で
戦後民主主義全面肯定・戦前全否定という立場から質問していたので
藤原シンパとしては不快だったが本人に直接逢って批判するという記事は論座以外には載っていないと思う。

同時に今まで一方的に保守論壇から叩かれていたきらいがあったが、
近号では「正論」や「諸君!」に対する批判記事も多くなった。
と言っても的外れな批判記事が多いことは否めない。

一方、中吊り倶楽部では宮崎哲弥が川端幹人の左翼的言動を諌めるやり取りが何度もあって楽しい。
しかし、小生、宮崎哲弥の思想的立場が一向につかめない。
たかじん委員会を見る限りでは親米保守という気もするし、
サイゾーでの連載では宮台真司と仲が良いようだし。
いつぞや、「敵対勢力に対抗するためには敵の陣地に入り込み中から撹乱させることが得策」という旨の発言をしていたので根は宮台に近いのかもしれない。

ところで、今号の中吊り倶楽部で宮崎氏は「格差の拡大と小泉構造改革の因果関係は証明出来ていない」とし、
今、格差が広がっているように感じるのは
景気が上向きになりつつも末端までに行き届いていないから起こる現象で
「一時的なもの」と断言して、川端幹人から小泉のシンパだとかなんとか揶揄されていた。
果たして、構造改革と格差拡大は無関係なのだろうか?


最後に。
二月号に載った渡邉恒雄・讀賣新聞主筆と若宮啓文・朝日新聞論説主幹の対談記事が完全収録されて緊急出版された。
小泉首相の靖国神社参拝批判で一致したことで、大きな話題となった対談記事である。
「大きな話題」になったのは言うまでも無く保守派と思われていた渡邉氏が首相の靖国参拝に反対したことにある。
じじつ、評論家の多くが「意外だった」「まさかあのナベツネが」というコメントをしていた。
ニュース23でも特集企画が組まれ、
筑紫哲也が渡邉氏と対談し、「驚きました」などと言っていた。

が、私に言わせれば渡邉氏の軍隊嫌いは有名だし、
靖国神社参拝批判を明言したのは最近だとしても殊更驚くことではない。
おそらく、驚いている連中は渡邉氏が元共産党員だということも知らないのではないか。
一般人ならそんなこと知らなくて当然だが、
苟も評論家やジャーナリストならば常識として知っておいて欲しかった。
私にとっては言論界においてもこの対談記事が「大きな話題」となったことが意外であった。

新ゴーマニズム宣言 第231章

2006-05-11 02:00:18 | 書評・雑誌
今回は格差社会批判の内容。
気になった箇所を二三指摘したいと思う。

まづ、格差社会の実情を指摘する文脈で以下のような記述があった。

上流の子供たちはには「人間っていいな」という差別替え歌が流行っているという。

♪いいな、いいな人間っていいなー
 冷たいお風呂に、腐ったご飯、
 子供の帰りを待たないオヤジ
 僕も帰ろう、おうちがないよ
 デンデンでんぐりがえしで骨折った


この替え歌は格差社会がもたらしたということらしいのだが、
まだ格差社会が問題視されていない十年前、
私が小学生の頃、歌詞は幾分違えどこの替え歌はあった。
無論、私は上流階級の人間ではない。
子供はどんな時代にもこのよなブラックユーモアを含んだ替え歌を作り出すもので
少なくともこの替え歌の例は格差社会の進行と関係無い。

もう一つ。

朝から晩までワイドショーとニュース番組が、同じ映像を洪水のように流している。
それが「世論」を作っているんじゃないか!
「情報」なしに「世論」は形成されない。


若者たちの間で「空気の読めないやつ」というのが馬鹿にされる傾向にあるらしい。
テレビも論壇も変わりゃしない。
空気を読んで商売しているだけだ。


テレビは世論を作るのか、それとも世論の「空気を読んで」いるのか。
一体、どちらなのだろうか。
この箇所を見る限りテレビは一方で能動的で一方で受動的だと取れる。
これを言い出したら卵が先か鶏が先かの議論になるかもしれないけども、
私は輿論をつくるのはテレビだと思う。
報道に関してはそれほど「空気を読むんで」いないだろう。
仮に「空気を読んで」いるのならば
ニュース23はあのような低レヴェルな反日報道はしないと思う。
その点、昨今の朝日新聞も大衆に迎合しないという意味では立派なのかもしれない。
産経新聞など以前は少数派で「空気を読んで」いなかったけれど、
今や多数派になりつつある。
といってもどちらも商売でやっていることには変わりないが。

それと、人間関係において空気の読めない者が馬鹿にされるのは当たり前ではないか。
「空気を読む」という言葉が使われるようになったのは最近だとしても、
集団の和を乱す行為をする者が嫌われるのは、殊に日本においては昔からそうである。
「時代の空気」に逆らうことはあってよいし、
むしろ、評論家などはそうであるべきだが、
その場の「空気が読めない」者が批判されても仕方が無いと思う。
つまり、マスコミが大衆に迎合するのと「空気を読む」のは意味が違う。
前者は言論態度で後者は処世術だ。
(空気を読むが全て括弧附きなのはそういう理由)


以上、格差社会批判の論旨には賛成しつつも疑問点を指摘した次第。

民主党と共謀罪と

2006-05-09 23:53:34 | 政治・経済
民主党が自民党の支持率を上回ったそうです。
もっとも自民党的なる人が党首になって支持率があがったことは皮肉なものですが、
夜郎自大気味だった自民党の執行部が襟を正すという意味では良いニュースだと思います。

永田議員が起こした贋メール問題が無ければ今の時期に小沢さんが党首になることは無かったでしょうから、
考えようによっては永田議員は民主党の支持率を上げることに一役買った生贄(いけにえ)だったとも言えますね(笑)

今後は旧自民党的な民主党と小泉自民党の闘いになるでしょう。
民主党は米国式資本主義に傾きつつある日本を
旧自民党が死守してきた日本式社会主義に戻していただいきたい。
(あれ?小沢さんは元々、米国式資本主義者だった気が・・・。)
そんなわけで、民主党には大いに期待したいところですが、民主党も千葉の補選で軽佻浮薄なる太田和美程度を公認するくらいですから、
いづれにせよあまり期待はいたしますまい。


もう一つ、共謀罪について一言。

私は無論、共謀罪には反対ですが、マスコミがいちいち治安維持法を引き合いに出すのには些か違和感を覚えます。
戦前の日本の悪口を言いたいのか共謀罪に反対なのかどちらにしていただきたい。
第一、治安維持法への批判は時代背景を無視した批判ばかりで、今の時代の感覚で過去を断罪する愚を犯しています。

また、共謀罪に反対ならば人権擁護法にも反対しなければ筋が通っていません。
どちらも国民の正当な表現・言論活動を阻害するものだからです。
ニュース23などは頻りに共謀罪の危険性を報道していますが、人権擁護法案についてはほとんど無視しています。
最も悪質なるものは共謀罪でも人権擁護法でもなくマスコミ自身の体質なのかも知れません。

たかじんのそこまで言って委員会(06.5.7)「体罰の是非」

2006-05-07 21:00:09 | テレビ・芸能
今週のたかじん委員会は戸塚ヨットスクール校長戸塚宏が釈放されたニュースから
教育の現場での体罰の是非についての議論がなされていました。
(註:各人の発言内容はすべて大意です)

まづ、勝谷誠彦さんが「法的には戦前も学校においては体罰禁止」と指摘。
なんでも明治時代からそうなのだそうです。
小生、これは存じ上げませんでした。
戦前というと体罰は当り前というイメージがありますものね。
このことに限らず、戦前はなんでも悪かったという幻想はもはや棄てなければなりません。

宮崎哲弥さんは外国での体罰の現状を
「アメリカでは体罰は絶対に禁止だが、そのかわり警察に突き出すか、学校を追い出す。つまり臭いものにふたをする。
 カナダでは親と教師は体罰を容認されている。
 イギリスでは次の三つの条件の元に許される。
 一.正当な理由がある。二.校長の許可を得る。三.他の生徒の前でせず、校長と教師立会いのもと個室で行なう」

これも知りませんでした。
イギリスのやり方はそこまでして体罰するくらいなら、
いっそしない方がマシかなと思います。
アメリカはなるほど合理主義の国という気がいたします。
しかし、学校に見捨てられた生徒を誰が救うのでしょう。

三宅久之さんは「子供は人間じゃなく人間の卵である。トンボをむしったりするように本来惨酷な生き物」と発言。
田嶋陽子さんが猛反発(笑)
三宅さんの言い方は極端かも知れませんが、言わんとするとことは納得できます。

橋下弁護士は「体罰で性格が直る子とそうでない子と、色々なタイプがある」と述べていました。
確かにこれが一番まっとうな意見かも知れません。
私は体罰が絶対にいけないとも思いませんし、絶対的に体罰が必要とも思いません。
要は子供一人ひとりにあった教育法があり、
体罰が必要な場合もあるでしょう。
そこを見極めるのが教育者としての役割だと思います。

田嶋さんの「子供に禁止禁止というのではなく、選択肢を与える。禁止ではなく肯定が必要」という意見に対し、
宮崎さんは「子供は禁止によって規範を覚えてゆく」と反論。
そりゃ、そうでしょう。
子供にこれこれをやっては駄目と教えなければテンデモないことばかりします。
じじつ、今、一歩外にでると規範もはったくれも無い子供が溢れています。
電車やレストランなど公共の場で走り回る子供に不快感を覚えた経験があるのは私だけではないでしょう。
もっとも、今や子供だけではなく高校生や大人までも公共の場でマナーを守らない人が沢山居ますが。

そして橋下弁護士が「子供に理論を言っても駄目」と主張。
これももっとなことで、
辛坊治郎さんも「幼い子供に理論的にストーブは熱いから近づいては駄目と言っても理解しない。絶対に近寄ってはならない、と言うべき。」と述べていました。
するとたかじんさんも「最初は犬のしつけと一緒ということやね」と同意。
結局、幼い子供に行なう教育は理論ではなく強制的に教えてゆくしかないと思います。

福田恆存さんの文章を紹介いたしましょう。

躾は理窟ではない、無条件の強制である。
なぜ膳の上に足を載せてはいけないのか、なぜ「行つて参ります」と言はなければならないのか、
三歳や五歳の子供に向かつて、誰がそれを論理的に説明し得るか。
強制的な繰り返しを以つてするほかは無いのである。


もう一つ体罰についての福田先生の御意見。

殴る教育が悪いからといつて、殴らぬ教育がいいとは申せません。
生徒を殴つてはならぬといふ原則がっつて、しかも教師が怒りを発し、我を忘れて生徒を殴つたとする。
それは悪いことかもしれない。
が、すくなくともその感情は本物であります。
殴られた生徒は本物の人間関係のうちに置かれてゐるのです。
それにくらべて、自他の意識した教師のにこやかな説得の方が虚偽であるといふ場合が、いくらでもありうる。
贋者の善より本物の悪の方が、ずつと教育的だといふことを私たちは忘れてはならない。
人間を信じるといふのはさういふことです。


子供は天使だとか、体罰は人権侵害だとかのたまふ方々は
この言葉を噛みしめてほしいですね。

そして勝谷さんは「教育の現場と家庭は別」と発言。
本来、家庭での躾がきちんとしていれば学校で体罰が行なわれることもないでしょう。
それに学校での教育は限界があると思います。
が、躾(しつけ)がなされていない子供が増えた今、学校はどう対処すればよいのでしょう。
アメリカのように学校から追い出すべきか。
私は体罰があっても子供を救おうという教師の方が好きです。

さて、話は変わって米国トヨタの215億円のセクハラ訴訟について。
橋下弁護士は「アメリカの訴訟社会の最も悪い典型」という旨の発言をしていました。
私も「バカに附ける薬はない」という以外コメントしたくありません。

村上ファンドが阪神電鉄の経営を支配しようという話題も。
讀賣新聞の渡邉恒雄会長が村上世彰を評して曰く、
「ホリエモンの出来損ないみたいな奴。断じて赦さない」
私も渡邉さんと同意見。
ホリエにしろ村上にしろ「金儲けをする為なら何をやってもよい」という考えの人間でしかありません。
そんな簡単なことを世の人は好い加減気づいた頃でしょうか。
金儲けは悪ではありませんが、金儲けの為になにをしてもよいという考えは悪に他なりません。

最後に亀田三兄弟について。
三宅さんは亀田三兄弟の下品な振る舞いを批判。
田島さんもそれに同意。
橋下弁護士が「あれは米国では普通のパフォーマンス」と反論。
私はパフォーマンスだろうがなんだろうが亀田兄弟の振る舞いを見て不快になる者です。
海外の事情は存じ上げませんが日本の武道では対戦相手にも敬意を払い、
負けた者をバカにすることは決してありません。
例えば、剣道では勝者がガッツポーズをしただけで反則負けになります。
ボクシングはあちらのスポーツですからそのへんは好きにするがいいですが、
普通あのような振る舞いをしてはならぬという意識無しに亀田兄弟を賞讃することは害になりましょう。

長澤まさみと蛯原友里

2006-05-06 23:25:22 | テレビ・芸能
長澤まさみが好きである。
・・・と言っても殊更ファンというわけではない。

私が長澤まさみが好きな理由は普通っぽいから。
ゆえに顔に特徴があまり無くテレビで観るたびに別人に見える。
これが長澤まさみの魅力であり私が好きだという所以。

ブロードキャスターで「日本一女子高生役が似合う女優」と言われていたが、
私も全く同意するところである。
本当にそのへんに居る娘っぽい。
電車に乗っていると長澤まさみを良く見かける(笑)

逆にその辺に居そうだけど嫌いなのはエビちゃんこと蛯原友里。
私が通っている大学構内にエビっぽいのがわんさか居る。
長澤まさみよりもエビの方が三倍くらい良く見かける。
(そういえば、エビちゃんの出身大学も福岡でしたね。)
私はああいう感じの娘はニガテ。
長澤まさみのようにあっさりした感じがいい。

普段こういうことばかり言うから若者を敵に回すんだろうな(笑)

メイド喫茶へ行く2 「天神style」篇

2006-05-06 16:31:13 | 日記
昨日、再びメイド喫茶に行って参りました。

妹が「お兄ちゃん!メイド喫茶に一緒に行こうよ!」というので仕方なく・・・。

・・・はい。嘘です。

私の妹は私のことを「お兄ちゃん」とは呼びませんし、
(妹は私のことを「あなた」とか「あに」などと呼ぶ。最近では「あびさん」と呼ぶので勘弁して欲しい)
「行こうよ!」とも言われませんでした。

本当の話をすると、
妹が天神に行きたいと言うので私も附いて行くことになり、
私が「メイド喫茶も行くと?」と訊いて「うん」とこういう感じ。
ちなみに私は前回、メイド喫茶を体験してみて案外ニガテであるということが判明したのでノリノリではありません(これは本当)。
メイドの恰好も好きですし、メイドさんという存在も好きですが
実際会ってみるのは話が別、ということですね。
(誤解の無いように書いておきますが、「ニガテ」の理由はメイドさんに会うと麗しすぎて緊張するからであって、
 「実際に会うのは話が別」とはそういう意味です。メイドさんには何の落ち度もありません(笑))

前置きが長くなりましたが、
今回行ったメイド喫茶は「天神style」というお店。
【公式サイト】http://www.tenjinstyle.com/main.html

まず、「おかえりなさいませ~」という挨拶。
これは前回と変わりません。
私は前回はビビッていたので今回はあくまで平常心を保ったまま入店。
そのあとも極力、フツーにすることに努めました。
もはや敵地に乗り込む心境。(駄目だこの人・・・)
こんなことだから私にメイド喫茶は向かんのです。

で、まぁ、「えびピラフのオムライス」と「元祖とんこつパスタ」を註文。
とんこつパスタというのはスープパスタのスープがとんこつ味という代物。
このお店のオリジナルなのかな?
にしても、さすが博多ですね。なんでもとんこつ味にしてしまう(笑)
オムライスが来た時、ピラフの上に乗った卵焼きを丁寧に切るメイドさん。
これはかなり技術が必要な技です(多分)。
半熟の卵焼きをその場で切ることでふんわりした卵がピラフを包む。
小生感心いたしました。

すると、「ケチャップでお名前を書きますので云々」という声。
よく聞こえなかったのですが、
「あ、名前ですか!?」と焦る私。
なんでもここでは無料で名前を書いてくれるようです。
(別料金のメイド喫茶もあると思う。)
一瞬「余分にお金取られるのかな?」とおも思いましたがそうではなかったようです。
私が下の名前を告げると、オムライスの上にケチャップで
「○○○様」と書いてさらに「様」の横にはハートマークを書いてくれました。
私はずーっと無言なのも悪いかなと思い、
「いやぁ、お上手ですね。ありがとうございました」と言ったのですが
特にリアクションはいただけませんでした。
あら?嫌われてる?(笑)

で、食べてみたらどちらも美味しい。
特にとんこつパスタは初めて食べたのですが、家でも作りたいと思うくらい。
これはともすれば全国区のメニューになるのでは。

さらにこのお店の良いところはメイド服が可愛い。
というか私の好みのメイド服で黒のニーソだったのであります。
(メイド服は紺と白のオーソドックスのやつ)
また、メイドさんの絡み方もそれほど慇懃ではなく、まぁ、普通という感じ。
私にはむしろそれが有り難かった(笑)

客層は色々でした。
全く一般人の中年夫妻やオタク集団(五六人で来ていたようです)、
あと、今風の若い男共(ひやかし?)など。

ところで、「博多美人」という言葉があるように福岡は可愛い娘が多い。
テレビで見かけるアイドル程度のルックスの娘は博多周辺を歩けばそのへんにゴロゴロ居ます。
そんなわけで、多分に漏れずこのメイド喫茶のメイドさんも全員カワユスでした。
(少なくとも私が見た範囲では)

帰る時(あ、いや「お出かけの時」というべきか)、
妹がメイドさんに話し掛けられていました。
なんでも、妹が着ている服のお店がそのメイドさんも行き着けの店なんだとか。
ははあ、確かに妹はメイドさんが好むような服をいつも着ている。
最近は「NANA」だとか言われて閉口しているようですが、
所謂「NANA」のファッションとは全く別ものらしいです。
小生、ファッションのことには一向に明るくないのでよくわかりません。

あれ?なんの話だったかな?
あ、とりあへず、あび卯月は天神styleを応援しています。

映画『佐賀のがばいばあちゃん』

2006-05-04 18:49:37 | 映画・ドラマ
先日、映画『佐賀のがばいばあちゃん』を見てきた。

原作はB&Bの島田洋七さんが実話を元に書いた同名の小説(自伝?)。
あらすじは以下の通り。

戦後まもない広島で、原爆症の父親を亡くし、居酒屋で懸命に働く母に育てられていた明広は、母の元を一人離れ、佐賀にある祖母の家で暮らすことになった。夫の死後7人の子供を育て上げた祖母は、今も現役の掃除婦として働き、かなり古くなった家で一人暮らしをしていた。
(中略)
ばあちゃんと二人きりの貧乏暮らしだったが、大好きな母に心配させまいと明広は必死に頑張った。やがて学校にも馴れた明広が、友達といっしょに剣道を習いたいと頼むと、ばあちゃんは「金がかかるなら、やめときんしゃい」と許さない。それなら剣道より安く済む柔道がやりたいと、明広も食いさがるが、「やめときんしゃい」。それでもどうしてもスポーツがしたい明広に、ばあちゃんが出したアイデアは、ずばり、「走りんしゃい」。「走る地べたはタダ、道具もいらん」というわけだ。半分だまされた気分だった明広は、それでも毎日、運動場を走り続けた。ついには学校で一番速いランナーになった。(以下略)

【公式サイトより転載】


気になった人は下のページから予告動画を御覧ください。
あらすじよりも余程映画の雰囲気を掴むことが出来ます。
http://www.gabai-baachan.com/contents/yokokuhen.html

この映画の最大の魅力はばあちゃんにあるが、
それも去ることながら登場人物一人ひとりがまた魅力的なのである。
同級生、学校の先生、豆腐屋さん、お医者さん・・・
それらが昭和三十年代の日本の情景とあいまって堪らなく郷愁を感じさせる。
昭和六十年生まれの私でもそう思うのだから、実際にその時代を生きた人なら猶の事だろう。

近年、『ALWAYS 三丁目の夕日』のヒットをみてもわかるように、
昭和の古き良き日本を懐かしむ風潮がある。
これは単に「懐古趣味」という言葉でかたづけられる事ではなく、
今の時代と比べ魅力的な何かがあったからこそ惹きつけられるのだと思う。
じじつ、その当時を知らない若い世代も昭和を懐かしんでいる。
極端な例ではあるが、以前、小学生の男の子が
「『三丁目の夕日』を見て泣きました。今の日本は大切な何かを見失っていると思います」
と言っていた。
この小学生は少々大人びた子であり、ゆえに上のようにきちんとした言葉で表現していたとしても、
感じるところはこの小学生に限らず皆同じようなことだと思う。
では、今の日本が失った「何か」とは何か。
・・・などとここで私が論えば野暮になろう。
それに、それはこの映画を観ればお分かりいただけると思う。

誤解の無いように言っておけば、
この映画は単に懐かしいというだけではない。
館内から笑い声とすすり泣きが聞こえる笑えて泣ける映画でした。


最後にがばいばあちゃんの言葉を紹介いたしましょう。


うちは明るい貧乏やけん、よかと。しかも先祖代々、貧乏だから自信ば持て。

悲しい話は夜するな。つらい話も
昼にすれば何ということもない。

通知表は、0じゃなければええ。1とか2を足していけば5になる!

あんまり勉強するな。勉強すると癖になるぞ!

人に気づかれないのが本当の優しさ、本当の親切。

人がこけたら笑え。
自分がこけたらもっと笑え。
人はみんなこっけいだから。

人間死ぬまで夢を持つばい。
その夢が叶わなくても所詮夢たい。

水の清さと田の美しさと

2006-05-03 03:02:46 | 雑記
徳富蘆花の『思出の記』に次のようなくだりがある。

今も忘れ難く思ふのは、水の清いのと、稲の美しさである。
(中略)
実に其稲穂の艶々と青んで、暢々(のびのび)と立揃つた所は都人士にも見せもしたい。(略)
蛙の声を踏み分けて一村総出の田植え時、
早乙女の白手拭がひらりひらりと風に靡いて、畦から畦に田植え歌の流るゝ頃の賑合を。
それから炎天の田草取は傍で見ても辛いが、併し夕立!
暑い、堪らぬと云ふ下から殷々(ごろごろ)鳴出す。
(中略)
冷たい風が颯と吹いて来ると、頓(やが)て大粒の雨がぽつり。
耳を掩へた太郎作が未だ半丁と逃げ延びぬ中に鳴る、光る、降る、吹く、―
(中略)
あゝ涼しい、御覧なさい、先程までやゝ痿(しな)んで見えた稲が唯つた一瞬の間に眼も醒むる程青々となつて、
一二寸も伸びや様に、何処を見てもさわさわさわさゞめいては露を揺りこぼして居ると、濁り泡だつ田の水はどくどく溢れて、小鮒や鰌(どじょう)が矢鱈に畦道にはねて居る。

(難読漢字には括弧内に読み仮名を附け加えた)


当時の熊本の自然を描いたもので、水と田の美しさが表現されている。
ここのでの季節は夏である。

田舎育ちの私は毎日田んぼをはじめとする自然を見ながら育った。
また家の傍には竹林があり、夏の夕立の時などには
雨が田んぼと竹の笹をあらう情景を幾たびも見た。
幼い頃から夏の雨が好きで、炎天下に夕立が降ろうものなら
どんな時であろうと、ぼーっと雨音を聴きつつ濡れる緑をいつまでも見つめていたものだ。
いまだに夏場に夕立が降りだすとやはりしばらく雨を眺めてしまう。
そんなわけで私が自然でもっとも美しいと思うのは
夏の夕立の情景であり、蘆花の文章にこの上ない共感を覚える。
しかし、こういう感情を抱いているのは私だけではない筈だ。

例えば唱歌「ふるさと」が多くの日本人に愛される理由は
ふるさとに対する郷愁とならびに郷土の自然を歌っていることにあると思う。
私なんぞは三番の
「こころざしをはたして いつの日にか歸らん
 山はあをき故 水は清き故」

の箇所を聴くたび歌うたびに涙が出そうになる。

早い話が日本人にとって田の美しさや水の美しさは切っても切れないものであり、
日本人の美意識の根幹をなすものではないかと思う。
・・・いや、別に今回は日本人論をしたいわけではない。
私の個人的な愚痴というか悲哀を述べたいまでだ。

というのも、
数年前に私の家のすぐ前にあった田んぼが住宅地開発の為に埋め立てられた。
昔あった青々とした自然はもはやそこにはなく、
初夏から梅雨、夏にかけて聴こえてきた蛙の鳴き声もいまでは殆ど耳にすることが出来ない。
今では眼前に茶色の土が広がるのみである。
住宅地を作るためと云っていたのにいつまで経ってもそれが出来る気配も無い。
一体何の為に田んぼの青を茶色の土で塗りたくったのか。

再びあの蛙の合唱や夕立に濡れる稲を見られないと思うと悲しくてしかたがない。
数年前からずっと陰鬱たる思いがしている。
私は終生、この田んぼを破壊した者を恨みつづけるであろう。

いや、これも夕立の如く水にながして生きてゆくべきだろうか。

「日本大使の前で、ヒロシマ原爆をネタに下品に笑う韓国人」

2006-05-02 00:04:59 | 政治・経済
大使激怒 日本大使の前で、ヒロシマ原爆をネタに下品に笑う韓国人

韓国が外国貴賓を招いた会での事。
インターコンチネンタルホテル社長がビールの泡を見ながら
『泡が原爆の煙のようだ。広島原子爆弾酒だ』と発言。
それを受けて盛り上がる韓国人達。
一人、険しい顔で屈辱に耐える駐韓大島日本大使。
http://www.youtube.com/watch?v=gX-JbBYkiZ8(動画)

 動画途中から。

「爆弾酒は一旦おいておいて、日本大使の表情を撮影です。
 大島大使は爆弾酒がお気に召さない表情。」
 そんな彼に、ある爆弾酒の名前が・・

「ビールの泡がぱっとはじける模様が
 あたかも、広島に原子爆弾が投下された時のキノコ雲がわき上がる様子に似ていますね。
 だから、原子爆弾酒とも言えます」

【痛いニュース】
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/608900.html



ネットで偶然こういうニュースを見つけた。

私はネット上でしばしばなされる朝鮮人に対しての
民族差別的言動やおよそ論理的でない罵倒の類を好まない。
むしろ、嫌悪感を示すものである。
が、こういう映像を見せられると流石に罵倒の一つも吐きたくなる。

人間は時折、不道徳をなすし、下劣なことも考え、あるいは行為に及ぶ。
日本人にもアメリカの同時多発テロで崩潰したビルを見て
「痛快だった」とか「爽快だった」とか云う者も居る。
そういうことを考えるのも人間ならば
同時に、そういう気持ちを口に出すまい、公にすまい、とするのも人間である。

では、この韓国人はどうか。
韓国に原爆が痛快だったと思うものは多くいるだろう。
彼らがそう思うことは我々日本人にとって腹立たしいことであるけれど、
そういう行いを日本人もせぬとは限らない。
しかし、日本大使の居る前で公然と原爆を肴に笑うことは
下劣を下劣と思わぬ品性に他ならない。
自らの下劣に気附かぬ振る舞いはもはや不道徳ではなくて没道徳である。

おそらく、アメリカ大使の前で同時多発テロを肴に笑えば只では済まないであろう。
ニュース記事には「大使激怒」とあるがあれは激怒とは云わぬ。
ただ、屈辱に耐えてるだけである。

私は品性下劣なる鮮人を懲膺せよ、とは言わない。
しかし、以下のことくらいは言わせていただく。

この動画を世界中に発信し韓国人の斯かる品性下劣を天下に晒すべきである。

たかじんのそこまで言って委員会(06.4.30)

2006-05-01 00:27:45 | テレビ・芸能
久々にたかじん委員会についての感想を書きたいと思います。
(なお、各人の発言内容については録画していないのですべて大意であることを豫めおことわりしておきます。)

今週のテーマは愛国心と裁判所の傍論の是非について。

まず、社民党党首の福島瑞穂さんと一水会元代表・鈴木邦男さんの
愛国心についての見解がTVRで紹介されていました。
福島さんは愛国心は否定しないとした上で「憲法に明記するのは間違い」と指摘。
その理由に「憲法は個人に命令するものではない」と述べていました。
私は普段、福島氏とは意見がまったく合わないのですが、
この件ではおよそ同意。
福島さんは元弁護士ということもあり、流石、法については良く勉強してらっしゃる(笑)
ついでに日本の歴史についてももっと勉強して欲しいものですが、
それはさておき、
憲法とは国家の権利を制限するためにあるのであり、
ゆえに福島さんが云うように憲法に「国民は愛国心を持て」と明記するのはおかしいのです。
この辺の事情は後で宮崎さんが詳しく説明していました。
鈴木邦男さんの発言内容は福島さんと同じく愛国心は否定しないものの、
近年の排他的な愛国心には懐疑的という具合。
ついでに言っておくと、鈴木さんは右翼といってもほとんどサヨクみたいな人で、
よく、テレビ等に「右翼の代表」という感じで出てきますが「ちょっと違うだろう」といつも思います。
私の中での右翼といえば赤尾敏のような人。
いまはああいう骨のある右翼が居るのでしょうか。

さて、次に愛国心について宮崎哲弥さんが
「愛国心と民主主義は矛盾しないもので、むしろ、民主主義が健全になるには愛国心が必要」
と発言しましたが、まったく同意。
戦後の日本は愛国心と民主主義は相反するものと捉えてしまうという愚を犯しました。
本来、民主主義国家こそ国民に愛国心が必要なのであって、
日本がおよそ民主主義国家の体をなしていないことと無関係ではないでしょう。

勝谷誠彦さんは
「愛国心を高らかに叫ぶのは発展途上国」と断言。
たしかに、愛国心は高らかに叫ぶものではなく、
一人ひとりが内に秘めていればよいのです。
それを「愛国無罪」だとか言いながら排他的なナショナリズムの免罪符にすることは間違いというよりも不快なだけです。
さらに、
「愛国心の根幹をなすものは家族であり、郷土であり、郷土の自然である」
とした上で、
「日本の郷土、自然、家族を破壊してきた自民党議員が今、愛国心を叫んでいる。どのツラさげて「愛国心」と言えるのか」
と指摘。
これは田嶋陽子さんからも
「たまには良いこと言うじゃない」という発言が飛び出すほど。
私も今回の件で一番感銘を受けました。
「愛国心の根幹をなすものは家族であり、郷土であり、郷土の自然である」
というのは私も以前から何度も述べていることですが、
そのあとの自民党批判には膝を打ちました。
なるほど、郷土を破壊してきたのは自民党です。
彼ら実は愛国心を語る資格が無いのかも知れません。

また、橋下弁護士は
「愛国心の「国」を「政府」と解釈する人がいるがそんなはずはない」
と述べていました。
これはもう当り前ですね。
国を愛することは当然ですが、政府を愛するのは気持ちが悪い。
むしろ、今の日本においては愛国者ほど政府を憎むはずです。


さて、その次の「判決文の傍論は必要か」というテーマについて。
これには元判事で「傍論は必要ない」と主張する井上薫という方が出演。
橋下弁護士は「傍論は必要」だと噛み附きました。
私は判決文と矛盾する傍論は必要ないと思います。
特に首相の靖國神社参拝問題に関する裁判の傍論は酷いものでした。
ああいう傍論は不用だとか言う前に暴論でしょう。
宮崎さんが指摘したように井上さんも橋下弁護士も極端だなぁという心持ち。

ところで、辛坊さんが井上さんに
「出世する為にはどういう判決文を書けばいいのですか」
と質問したところ、井上さんは
「最高裁が言いそうな判決文を書くようにするんです」と発言。

司法の問題点をまた一つ見た思いでした。