あび卯月☆ぶろぐ

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映画『風立ちぬ』感想

2013-07-31 22:25:20 | 映画・ドラマ
宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』を観た。
何度も泣きそうになった。ここまで感動するとは思わなかった。
個人的にジブリ作品で一番好きになったかもしれない。
期待していなかっただけに余計に。
宮崎駿はこんな純愛作品も作ることができたのか。
近年の駿はあまり評価していなかたのだけども、いやはや恐れ入りました。

この映画を見終えた直後、ツイッターで私はこうつぶやいた。
私の感想はこれに集約されている。
これ以上、ぐだぐだ述べれば、野暮になる。
が、野暮を承知で少しばかり書いてみたい。

×××××××

映画公開の一か月前から、零戦の設計者・堀越二郎の半生を描く内容ときいていた。
私はミリタリーにもヒコーキにもさして興味はないが、零戦には少しばかり思い入れがある。
その設計者・堀越二郎の半生―。ならば、見てみたい。そう思っていた。
ところがその後、試写会に参加した人が「駄作だ」「つまらなかった」などと酷評しているのを目にしていた。零戦がほとんど出てこないことも知った。
これは、あまり期待しては駄目だなと思った。

と同時に、宮崎駿自身が「初めて自分の映画を観て泣いた」と言っていたことも知っていたので、その理由を知りたいとも思っていた。

果たして、私も泣いたのだった。(正確には泣きそうになっただが、周囲に人が居なかったら泣いていたので、泣いたことにしておいてください)

なぜ私は感動したのだろうか。
端的にいうと、美しかったからだ。
美しいのは作中に描かれた自然や風景、その中を飛び回る飛行機。そして、主人公・二郎と菜穂子の愛だ。

いま、「愛」などと書いていささか恥づかしく思っている。
もともと、恋愛モノの映画はあまり好きではない。ラブストーリーと銘打った映画はそれだけで観る気を無くす。
特に村上春樹的な恋愛観を全面に押し出されようものなら、毒の一つでも口から出てしまうのだが、この作品は違った。
ほんものの純愛ストーリーだった。
宮崎駿が恐らく初めて素直に作った純愛物語ではないか。

作品を観て思ったことは、宮崎駿は本当に作りたいものを作ったのだなということだ。
美しい自然と飛行機。どちらも駿が大好きなものだ。
そして純愛。
純愛なんて、恥づかしくてとても口に出せないし、自分の作品に全面に押し出すことも恥づかしい。
・・・と私なんかは思う。多分、駿自身もそう思っていたのではないか。
でも、七十二歳にして駿はふっきれた。
もう、残りの人生は長くない。ならば、本当に自分の描きたいものを描こう。
子供向けとかエンターテイメントは二の次にした。
周囲がなんといおうと、作りたいものを作った。そう、堀越二郎のように。

そして傑作『風立ちぬ』は出来た。

×××××××

主人公の堀越二郎をみて確信したことが一つある。
これは宮崎駿自身だということだ。
宮崎駿は堀越二郎に自分の姿を重ね映している。

寡黙で不器用で真面目で職人肌で藝術家で、周囲がなんと言おうと美しいものを追求する天才―。
これまったく宮崎駿じゃないか。

二郎が菜穂子と初めて会ったのが菜穂子が13歳くらいのとき。
のちに二郎は菜穂子「初めて会った時から好きでした」というが、それってロリコンじゃあ・・・?
こういうところも駿とそっくりだ。

と、これは半分冗談にしても、後に述べるように何かを犠牲にしても自分の作りたいものを追求する姿や矛盾を抱えながら生きていく姿など、二郎と宮崎駿はやはり似ている。

そう考えると、二郎の声優を庵野秀明がつとめたのも少し理解できるような気がする。
自分と同じ職業で、自分と一番似ている(つまり、二郎とも似ている)のは誰かと駿自身が考えたときに庵野秀明はしっくりきたのだろう。
実際はジブリの鈴木プロデューサーが提案したらしいが、それを呑んだ理由はこういうところにあるのではないか。
(なお、宮崎駿と庵野秀明は似ていないと私は思う)

それにしても、庵野の演技は下手ですね。
映画館で二郎の第一声を聴いたとき、思わず吹き出しそうになった。
一瞬、誰が発した声かわからなかった。天の声かと思った。
映画館でなければ、散々悪口を云ったところだ。

ところが、私の贔屓目なのかもしれないが(別に庵野を贔屓しているわけでもないが)、だんだんとしっくりくるような気もしてくるのだ。
朴訥で不器用な感じの話し方が案外、堀越二郎に近いのかも?と思えてくる。不思議だ。

そういうわけで、庵野秀明を主人公の声優に起用したことについて、皆失敗だと言っているが、私は敢えて成功だと言いたい。
・・・いや、やはり「必ずしも失敗とは云えない」くらいにしておくか(笑)

×××××××

この作品は大正時代から昭和十年代までを舞台にしている。
大正時代の農村の風景、都市の風景をみていて、私の祖父母ですら、その風景を観たことがないはずなのに、限りなく懐かしく思えるのはなぜだろう。
一日でもいいから、この時代にタイムスリップしてみたいと強く思った。

テレビもエアコンもパソコンもない。電話や車も普及していない。
現代を生きる我々にとって不便なことこの上ないはずなのに、魅力的に映る。

しかも、菜穂子を襲ったような結核が不治の病だった時代である。
その他、数多くの病があり、戦争もあり、劣悪な生活環境があり、生まれた子供が二十歳になるまでに半分くらいが死んでいた時代である。
様々な不幸が多くあった時代なのに、魅力的に映る。

単に私が懐古趣味なだけだろか。

少なくとも、大正時代のまだ近代化途中の日本の風景が駿も好きなのだろうなと思った。
日本の原風景を描かせて宮崎駿の右に出る者はいない。

そういえば、この作品、やたらと煙草を呑む(無粋な云い方でいうと喫煙)シーンが出てくる。
二郎も同僚の本庄も軽井沢で出会ったスカルトプもやたらと煙草を呑む。
禁煙ファッショが吹き荒れる現代社会への当てつけとも思えるほどに。
いや、きっと当てつけなんだろうけど。

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二郎について「薄情者だ」という感想を目にした。

『風立ちぬ』を見て驚いたこと
http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece

詳細は上記URLに譲る。
この視点は実に面白いと思うが、私に言わせると誤解であると言わざるを得ない。
まづ、確認しておきたいのが二郎は寡黙な藝術家だ。
こんな人間が愛情表現が得意なはずがない。
いや、藝術家に限らない。明治生まれの日本男児はそもそも愛情表現が下手なのだ。
(私が明治の魂魄を持って生まれた男だからよくわかる)
それでいて、藝術家。ついでに言うと最近はやりの言葉で云う理系男子だ。
愛情表現が得意だと思わせる要素が皆無に近い。
そう考えると、むしろ、菜穂子の父親の前で「付き合うことを認めてください」と云ったり、黒川家で「いまから結婚します」と云ったりと、かなり大胆な行動とストレートな物言いをしている。
普通でないという意味で、やはり、恋愛は下手なのかもしれないが。

でも繰り返し云うが、二郎は決して薄情な男ではない。
それは、菜穂子が喀血したという報せを聞くや、涙を流しながらそのまま夜行列車に飛び乗り、名古屋から東京へ駆けつけるという行動からも見てとれる。
名古屋から東京へ移動中、二郎は涙を流しながら設計図を作成している。
これだけでも万感迫るものがある。

少年時代のエピソードでもいじめられていた下級生を助けに入って、いじめていた上級生を背負い投げしている。
なかなかできることじゃない。
関東大震災の時も汽車の中で足首の骨を折った菜穂子の侍女を背負って安全な所まで批難させた。
一体どこが薄情者なのだろう。

二郎が薄情男に映るなら、それは、百言尽くして愛を表現しないと愛されているという実感を持つことができない現代人の病理がそうさせているのだ。
少なくとも私は巧言令色で愛情表現の上手い男よりも、朴訥で愛情表現の下手な男の方が好きだ。
でも、そういう男は薄情者だと言われる。
とかく現代は生きにくい。

×××××××

もう一つ、二郎は残酷な男だという意見に対しても、一言述べたい。
二郎が残酷だというのは、美しさにしか興味が無く、そのほかのことを犠牲にしている。また、自分の作った戦闘機が戦争の道具として使われるものだという意識が無い、というような理由による。

この意見については、実は半分そのとおりだと思っている。

美しさを追求することは本質的に犠牲がいるものだ。

二郎は戦争を望んでいなかっただろう。いわんや人を殺すことなど・・・。
しかし、美しい飛行機を作りたかった。
天才や藝術家はしばしばこういう矛盾を抱えて生きていくものなのだ。

それは、宮崎駿にも云える。
彼は反戦平和主義者でありながらミリタリーオタクで戦闘機や戦車が大好きだ。
ジブリのプロデューサーの鈴木敏夫も同様の指摘をしている。
また、自然の大切さを訴えながらも、自分はアニメを作っている。
「原発の問題を言われても、映画なんて電力そのもの。電力会社の宣伝によると電気の四分の一が原発だそうだし、アニメのセル画なんて石油の固まりだし」と、宮崎駿自身が述べている。
宮崎監督自身も矛盾を抱えて生きているのだ。
そして、宮崎駿はこうも云っている。

「確かに僕は矛盾に満ちているかもしれない。でも仕方がない。矛盾のない人間はたぶんつまらない人だ」と。

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最後に国語のお勉強。

本作のタイトル『風立ちぬ』はどういう意味だろう?
小学生や中学生に訊くと「ぬ」を打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」と勘違いして、「風が立たない」という意味だと答えるかもしれない。(大人でも勘違いする人は多いように思う)

正解を先に書くと、「風立ちぬ」の「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形なので、直訳すれば「風が立った」「風が立ってしまう」「風が立ってしまった」というような意味になる。
(「風が吹き出した」等にすれば綺麗な訳になりますね)

「ぬ」を打消の助動詞か完了の助動詞かを見分けるには未然形についているか、連体形についているかで判別できる。

つまり、打消しの助動詞は未然形につくので、「風が立たない」という意味にするならば、タ行四段活用動詞「立つ」の未然形が「立た」なので、「風立たぬ」となる。
一方、「立つ」の連体形は「立ち」なので、それにつく「ぬ」は完了の助動詞となる。

本作では、「風立ちぬ」というセリフは出てこない。

その代わりに、カプローニが云う。
「日本の少年よ!まだ風は吹いているか?」
「吹いています!」
「なら生きねばならん!」

風立ちぬ、生きねば!

なんと感動的な言葉だろう。
我々は、野に風が吹き続ける限り生きなければならない。

颯爽と駆け抜ける清々しい風。
この作品はそういう作品だ。

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1 コメント

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風と共に去りぬ (活仏ボグドゲゲーン上人)
2015-07-14 19:05:25
>「風立ちぬ」の「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形なので
「風と共に去りぬ」という映画があることを思い出しました。
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