あび卯月☆ぶろぐ

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『ガールズ&パンツァー 劇場版』感想

2016-02-01 23:08:03 | 映画・ドラマ
昨年の天長節。
早起きして、皇居の一般参賀の列・・・ではなく、映画館のチケット売り場の列に並んでいた。
午前八時五十分から上映される『ガールズ&パンツァー 劇場版』(以下、ガルパン劇場版)を観るためである。
休日に早起きするのは何年ぶりだろう。
もともと、映画館にはほとんど足を運ばない。
観たい映画は旧作になったときにDVDで借りて家でゆっくり観る。
ガルパン劇場版もDVD化されたときに見ればいいやと思っていた。
が、映画のパンフレットを手に入れたくなって、それならついでにと映画館で観ることにした。
アニメの映画を自分でお金を出して観るのは生まれて初めてだ。
果たして、映画館でガルパン劇場版を観たのは大正解だった。

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映画館で観て良かったと思えた理由。
ベタなんだが、まづ音が凄い。
映画通の人でなくても「映画は劇場で観るに限る。音が違うから」などと言っているのをよく耳にする。
確かにそうなのだけど、これまで劇場で映画を観るたびにそれほどでもないと思っていた。
画面は大きいが音はDVDで観るとのそんな大差はないと。(註1)
しかし、このガルパン劇場版は違っていた。素人でもわかるくらい音圧が普通の映画と違う。
戦車から砲弾が放たれるたびに、音が体に響いてくる。
ツイッター上で、映画に詳しい人だろうか「音響的に言うと、これだけ音圧の高い日本映画は今まで無いんじゃないかと思います」(註2)という感想を目にしたが、砲弾が本当に飛んで来やしないかと焦るくらい音圧が凄かった。
戦車のエンジン音もリアル。それも戦車ごとにエンジン音が違う。
また、履帯のたわみもリアルに表現されていた。
本当に近くに戦車があるようで、のっけから作品に引き込まれた。
水島努監督が「『ガールズ&パンツァー』には映画の大画面と音響がよく似合う、とTVシリーズをつくっている当時から感じていました」と述べていたが、正にガルパンは映画に似合う作品だということを終始実感できた。

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(以下、ネタバレ含みます)

ガルパンをTVシリーズで初めて観たときから「なんて荒唐無稽な設定だろう」と思っていた。
乙女の嗜み戦車道なんてツッコミどころ満載である。設定を聞いただけで笑ってしまいそうになるのだけども、一度、慣れると何も感じなくなるから不思議だ。
映画の冒頭にSD風の西住みほたちが登場し、初めて観る人のために「戦車道とは何か?」とTV版のストーリーを三分程度で説明するのだけど、本当に初めて観る人は面喰うんじゃないだろうか。(劇場で初めてガルパンを観る人は少ないと思うけどね)

しかし、ガルパンが凄いのは、設定こそ荒唐無稽で現実にはあり得ないのだが、内容は実に正攻法だということだ。
SFチックな展開があるわけでもなく、いたずらに萌えに頼るわけでもなく、セカイ系のように複雑な精神面を描いたり、裏設定があるわけでもなく、実に直球なスポ根友情モノだ。
飛び道具を使わず裏技を使わず、直球勝負。それゆえにストレートに感動してしまう。
いや、戦車なので飛び道具を使うといえば使っているんだけど。

よく、ガルパンはミリオタ向けのアニメとかキャラクターの造形から萌えアニメだと勘違いされがちだが、違う。
ドイツのアニメ雑誌『アニマニア』の『ガルパン』に対する有識者のコメントで「正直、人間ドラマとしての深みは無い。しかし、みほの可愛さは【萌え】的に必見だよ!」(註3)というものがあったそうだが、お前は一体何を観たんだと云いたくなる。

シリーズ構成の吉田玲子さん「道を見失った人が、再び自分の道を歩き出す。その過程をきちんと描きたいと思っていました」と述べておられるように、TV版は戦車や萌えよりもそういった人間ドラマに感動できる。
ミリオタでも萌え豚でもない私は、初めてTV版のガルパンを観たとき、少女が戦車に乗っている時点でマジキチアニメだと思っていたけれど、熱い友情や人間ドラマに感動したクチだ。
特に主要メンンバーはそれぞれのキャラクターの背景が描かれていて物語に深みを持させてくれている。
(あ、ミリオタでないのは本当だけど、萌え豚ではないってのはちょっと嘘つきました)

無論、細かい書き込みや作りこみがなされた映像の素晴らしさも多くのファンを惹きつける要因であることは云うまでもない。
TV版からそれは顕著だったが、劇場版では更に上をいくクオリティで圧倒された。
いま云ったことを否定するようだが、劇場版は映像と音を見聞きするだけでも十分楽しい。
誰かが云っていたが電子ドラックのようなもんである。

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この映画、ざっくりいうと三部構成になっている。
一部はこれまでTVシリーズで闘ってきた高校との親善試合。
二部は大洗女子生徒による小学校の廃校舎での共同生活。
三部は大学選抜チームとの闘い。

一部の時点でこれまでのメンバーが勢ぞろい出てくる。まさに劇場版という感じでこの豪華さにそれだけで感動してしまう。
秋山優花里役の中上育美さんが、本来泣くような場面ではないのに各校の登場シーンで泣いてしまったと述べておられたが、この気持ち本当に良く分かる。
かくいう私も泣きそうになった。
特にプラウダ高校の登場シーンは音楽の効果と相まって無性に目頭が熱くなった。敵なのにね。
泣きそうになった理由を何度も自問自答するのだけども情けないことにちょっと説明がつかない。
甲本ヒロトの言葉を借りるなら「いまにも目からこぼれ落ちそうな涙のわけが言えません」(『僕の右手』より)となろうか。

この親善試合は、はじめゴルフ場が舞台なのだが、その後、大洗町へ移動。
TVシリーズでも破壊された肴屋本店が今回はもっと派手に破壊されるし、大洗町役場も砲撃を受け、破壊されていた。
プロデューサーの杉山潔さんの話によると、役場を壊すのは、「さすがにここまでやっていいの?」という不安もあったので、町長に直談判に行ったが、わりとあっさり「いいですよ」みたいな感じだったという。
行政と作品とが良好な関係を築いていることが伺える。
また、その他の施設については「うちに一発ください」という依頼が多くあったとか。
そのこともあってか、劇場版では前述の肴屋本店や役場のほか多くのお店や施設が派手に「一発」もらっていた。
TVシリーズよりも明らかに火薬の量が多い感じで、なかなか楽しかった。

三部はTVシリーズで戦ってきた各学校とタッグを組んで大学選抜チームと闘う。
なにやら週間少年ジャンプあたりの漫画によくある、これまで敵だった者同士が協力し合って強大に敵に挑むというような展開で、なんとも感動的ではないか。

はじめ大学選抜チームと闘うのは大洗女子のみだった。ところが、急遽、各高校が応援に駆けつけてくれたのだ。(しかも、大洗女子の制服を着て!)
そのときの各高校の頼もしさといったら無い。涙なくして観られないシーンである。 

で、なぜ大学選抜チームと闘うことになるかというと、勝たないと大洗女子学園が廃校になるから。
私だけでなく多くの皆さんも「えー!また廃校!?」と思ったはずだ。
戦う理由はまたもやTV版と同じ。廃校免れたんちゃうんかいと関西弁でツッコミそうになるんだけども、戦う目的の設定はこれでいいかとも思う。
あまり深い理由を組み込まれるとかえって物語に集中できなくなるからね。

そういうわけで、二部で失意のどん底に落とされる大洗戦車道チームだが、そこで腐るわけではなく、各々自分が出来ることをしっかりやろうとしている姿勢が良かった。(一部例外あり)
特にアリクイさんチーム(ネトゲ女子ども)はこの機会にと体を鍛え始め、その効果が大学選抜チームとの戦いの折に遺憾無く発揮されていた。
ウサギさんチームはやたらと釣りが上手くなっていた。(戦車道とは関係泣けどね)

そうそう、あのポンコツでおなじみの桃ちゃんが他の誰よりも気丈に振る舞っていて、目頭が熱くなった。
桃ちゃんもTV版を通して生徒会役員として成長したことがうかがい知れる。

そして、会長がやはり立派だった。その理由として、下記のような意見を目にしたが、こういう上司にはついて行けるよね。

ガルパン劇場版、角谷生徒会長は実に指揮官として立派だったなと。
・常に自分から余裕を失わない(外見上)
・常に生徒たちに当面の目標と希望を与え、自暴自棄と堕落を避ける
・正論のみを叫ぶのはなく、他人を頼り、自分の足で外交的寝技に駆け回る
・実戦では口を出さず、責任だけを引き受ける
https://twitter.com/uchidahiroki/status/676945540920295425より

例外は、あの風紀委員の面々。すっかりやる気をなくしてやさぐれてしまっていた。
あのそど子が寝坊するわ、買い食いするわ、挙句の果てには他校の生徒と喧嘩をするわで(田舎のヤンキーか!)、完全に自堕落な人間になってしまい、冷泉麻子から叱責されていた。
いつもと立場が逆である。
ふだん、硬い人間ほど折れやすいというが、風紀委員の面々はまさにそんな感じ。
気持ちはわかるけどね。

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それにしても、文科省の役人、実に嫌な奴ですね。
七三に眼鏡という如何にも役人の風貌で言葉遣いや態度も冷徹。
上からの指示なのだろうが、大洗女子を廃校にするため細かい画策をする。
なんというか、世間一般の役人の負のイメージを具現化したようなキャラクターだ。
ガルパンは反官僚映画である。
いま内務省が存在していたら多分、検閲が入ったろうね。(ないない)

一方で、戦車道連盟の理事長はどうも頼りない。
見た目は「一人一殺」で有名な井上日召のように厳つく、黒幕然とした風貌なのに。
文科省の役人に毅然と意見する西住しほの方がよほど男らしかった。
秋山夫妻にしてもそうだが、この作品では、男より女の方が強い。
ま、あまり男が登場しない作品ではあるが。

余談だが、戦車道連盟の事務局をしほたちが訪れたとき、お茶受けとしてシベリアがだされていて、『風立ちぬ』を思い出した。

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劇場版では初登場する高校がある。

一つは知波単学園。
これまでも設定資料等では言及があったようだが、実際に描かれるのは初めて。
この学園はその名のとおり、九七式中戦車(チハ)を使用する。
九七式中戦車とは1930年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の中戦車だ。(ミリタリー知識がないので、ウィキからの受け売りである)
それゆえか、生徒の気風も旧帝国陸軍のそれに近く、なにかとすぐに突撃したがる。
それも状況や跡先を深く考えずに特攻したがるので、突撃という名の玉砕だ。
だいたい、有利な戦況なのに「突撃して潔く散りましょうぞ!」って、それは、土壇場に追いつめられた側が云うセリフだ。
他の場面でも、福田が突撃を止めようとしても上官ならぬ先輩から「突撃は我が校の伝統だ!」と反論される。
合理性を無視して伝統を墨守する感じとかも、まさに旧軍の悪弊を象徴するような気風をもっているのが妙に可笑しい。
戦闘は頭脳と精神のバランスが大切。西住みほも「精神“は”参考になった」みたいなことを云っていたが、精神だけでは戦闘に勝てないという反面教師のような学園だ。
でも、日本をモチーフにした学園とあってどうも憎めないのが憎いところだ。(?)
退却を「転進」「後退的前進」「退却的前進」などと言い換えるところもまさに旧軍のそれで、もはや微笑ましくもあった。

ところで、前述の福田は知波単学園に在籍するおさげ髪の眼鏡のかけた小さな生徒なのだが、モデルは司馬遼太郎(本名:福田定一)なのだという。
司馬遼太郎もまさか死後に女子高生として描かれるとは夢にも思ってみ無かっただろう。
泉下で司馬大先生がどのような顔をしているか想像すると楽しい。
なお、作中に福田が戦車をヤスリで削るシーンはない(笑)
(意味が分からない人はぐぐってみましょう)

また、隊長の西絹代はバロン西がモデルと云われている。
黒髪ロングの和風美人で明るく素直で快活な性格なのだが、どうやらアホの娘らしく、「退却」を「突撃」と聞き間違えたり、3部の戦いに参戦するときも持ってくる戦車の数を間違えてダージリンに叱られていた。
これも、兵隊の士気は高いが、参謀がアレだった旧軍を想起させる。
なお、入浴シーンでかんざしをしていたり、紅茶を呑んだことなかったりと、古風な女子を通り越しておばあちゃんのような娘である。(私は好きですが)

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もう一つは継続高校。

知波単と同じく名前からして変わっているのだが、これはフィンランドが祖国防衛のためソ連と戦った「継続戦争」が由来になる。
つまり、高校のモチーフはフィンランド。
生徒が三人登場するが、どこか飄々としている。
特にチューリップハットをかぶったアキは浮世離れしているというか悟っているような雰囲気でしばしば哲学的なことばを口にする。
どこかで見たことあると思ったら、このキャラ、『ムーミン』のスナフキンなんですね。
よって、あとの二人はムーミンとミィがモデル。ミィの子は名前も「ミッコ」だし。
『ムーミン』がフィンランドの作品ということで生徒もムーミン一味になったのだろう。
それにしても、この高校の戦いっぷりのカッコよさは何だ?
とにかく圧倒的な強さと個性的な戦車の動かし方に圧倒される。
アキが奏でるカンテレからつむぎ出される音楽の効果もあいまって、特に印象に残るシーンだ。
履帯が外れて戦闘不能かと思いきやここからも強かった。
「天下のクリスティー式をなっめんなよー!」と操縦主のミッコが叫び、ハンドルを差し込むシーンが抜群にカッコいい。
なお、「思想脳労」子の解説によると、クリスティー式が採用された戦車は履帯装着時は左右のブレーキレバーで操作し、履帯撤去時はハンドルで操作するので、ハンドルを差し込んだ演出は事故で外れたのではなく、履帯なしで走るために操縦系統を切り替えた演出であるとのことだ。(註4)

さて、作中に一瞬だけ映し出される戦車道ニュースWEB版の記事見出しに「継続高校保有のKV1にプラウダ高校が異議申し立て」というものがあった。
このネタは、継続戦争において、ソ連軍の戦車をフィンランドが鹵獲して自国の戦車として使ったことによる。
記事本文には「昔から因縁のある両校にまた新たな火種が生まれた」とあって、やはり、プラウダと継続にはソ連とフィンランド同様に因縁があるようで思わずニヤリとさせられる。
こういう小ネタを挟んでくるところが、ガルパンの魅力の一つである。

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三部の大学選抜チームと大洗連合軍との戦いは正にこの作品の一番の見せ場なのだが、火薬の量が多くてほとんど戦争のような光景だった。
カール自走臼砲による攻撃なんて、確実に死者が出る規模だよ。
カール自走臼砲は大会直前になって使用を許可したらしく、明らかに文科省官僚の工作なのだが、あんなの戦車として許可しちゃ駄目でしょ。
ガルパンのツッコミどころとして、結構、ルールがざっくりしているところがある。
戦車の数も上限だけ決められていて、同数でなくてもOKだったり、あまり公平や平等は重視されていない模様。

三部では、大洗女子の面々もそれぞれ活躍するのだが、二部の逆境を乗り越え、少し成長した姿を見せてくれた。
アリクイさんチームのももがーは片手で砲弾を装填するし(どんだけ鍛えたんだ)、そど子は「ルールは破るためにあるのよ」と風紀委員らしからぬ発言をする。
大人の発言ですね。一度、苦境を味わい、視野が広くなった証拠だろう。

アヒルさんチーム(バレー部)が「本家参上!」と云って、知波単学園の戦車を率いて戦っていたが、「本家参上!」というのはアヒルさんチームが乗る八九式中戦車が国産初の戦車であることにちなむのだろう。(言うまでもなく、知波単が使う戦車はその後の日本国産戦車)
八九式が九七式を率いる光景は親鴨とそれに附いてゆく小鴨の行進のようで可愛くもあった。

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さて、秋山殿である。
TV版ではミリオタでみほの忠実な犬であり、スパイもやってのける秋山殿だが、劇場版では大活躍・・・!というより、一人超然と各状況を楽しんでいた印象。

冒頭の知波単学園が無暗に突撃するシーンからして他の大洗勢は「おいおい・・・」と呆れた表情をしていたのに、秋山殿だけは「わはー」と明るい顔で嬉しそうにしていた。
試合の結果そっちのけで戦車の突撃を喜ぶあたり実にミリオタの秋山殿らしい。

その試合中に華さんが「お茶でも飲みましょうか」と云い、麻子は「ミルクセーキがいい」という。
試合中にんなもん、あるか!と思いそうになったところで、「クーラーボックスに玉子を入れてきましたので、作れますよミルクセーキ」と秋山殿。
遠足でもなかなか持ってこないよ、玉子。相変わらず用意が良すぎる。

大洗女子学園が廃校になるという事実に直面し、一同、沈み込んでいる時も秋山殿は、いつも持ち歩いているサバイバル道具を駆使して、迷彩柄のエプロンまで附けて料理を始めていた。
普段より活き活きとしていないか、秋山殿。
同じことをみほだか沙織につっこまれていた。

活き活きしているといえば、3部の戦いで大学選抜チームがカール自走臼砲を使用している事実が判明した時も、焦るのが普通だと思うのだが、秋山殿は眼を輝かせていて、死者が出るんじゃないかという状況なのに、ミリオタの鏡のようであった。

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この劇場版の感想としてよく目にするのが「プラウダ高校のシーンが泣けた」というもの。
大学選抜チームとの戦いで、プラウダ高校のクラーラやノンナたちがカチューシャのために捨て身戦術をとる場面がある。
隊長のために自らが犠牲になるその崇高な精神には敬服するほかないが、これには伏線がある。
戦いの序盤でみほの作戦に対して疑問を持つまほに対し、カチューシャはノンナも巻き込み次のようなやり取りをする。

カチューシャ「あなた自分の妹を信頼してないのね。私が雪が黒いといえばノンナも黒って言うのよ!ね、ノンナ!」
ノンナ「はい」
まほ「信頼と崇拝は違う」
カチューシャ「(ぐぬぬ)」

このやりとりで、まほはノンナのカチューシャに対する態度は信頼ではなく崇拝であり、加えて、暗に戦車道に必要なことは崇拝ではなく信頼であることを指摘しており、カチューシャはそれ以上反論できなかった。
しかし、その後、ノンナたちはまほの後半部分の指摘に対し、言葉では反論できなかったカチューシャに代わって行動をもって反論したのではないか。
崇拝は決して信頼に劣るものではないと。あるいは、これが我々のカチューシャへの信頼の証であると云いたかったのかもしれない。
ノンナ以下数台の戦車が犠牲になったときの今までに見せたことのないカチューシャの表情は実際に崇拝を行動で示されたとき、喜びよりも苦しみの方が強いことを物語っている。
そして、自らの発言の重みを省みているようにも思える。
信頼も崇拝も言葉でいうのは簡単だが、行動で示した時にはなかなか重いものになる。

まほに対する反論を行動で示したノンナたちの痛快さ、崇拝による犠牲の精神の崇高さと悲しさ。
多くの人が感動したという所以はこのあたりにあるのかもしれない。

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この劇場版で描かれていたものとして、西住姉妹の和解がある。
TV版でも最終話でちらっと描かれていたが、本作ではその後の姉妹の関係性を補完してくれた恰好だ。

みほが保護者から転入届の書類を貰う為、熊本の実家に帰省したおり、犬を散歩して家に帰宅するところの姉まほに会う。
このときの姉の表情は以前のそれとは違う柔らかいものになっていて、過去のわだかまりが解けていることを示している。
そして、まだ母とは完全に和解できていない妹のために、母の代わりに転入届にサインと判子を捺印するまほ。
普段、クールなだけに余計にこの優しさが泣ける。(公文書偽造ですけどね)

その後、大学選抜チームの試合にもみほの為に駆けつけてくれるし、ここではすっかり妹思いのお姉ちゃんになっている。
ところで、作戦名を決める時、「ビーフストロガノフ作戦」(カチューシャ)、「フィッシュ&チップス&ビネガー作戦」(ダージリン)、「フライドチキンステーキwithグレイビーソース作戦」(ケイ)、「すき焼き作戦」(西)、「アンコウ干し芋蛤作戦」(杏)、などとボケをかます他校にまじって、まほも「ニュルンベルクとマイスタージンガー作戦」としっかりボケていたくだりを見て、意外と妹と一緒で天然なところがあるのではと思った。

みほが天然?と思われるかも知れないが、みほも戦車道以外では通学中によそ見して電柱に頭をぶつけたり、机から落ちたものを拾おうとして、机の下にもぐったら机の上のものを全部ぶちまけたりと、結構抜けているところがあるし、フツーの人が見たら悪趣味ともいえるボコを偏愛するところなんかもちょっとメンヘラの匂いがする。
あの母親に育てられたんだから、姉妹揃ってフツーでないことは確かだろう。

とまれ、戦いの最後も姉妹の協力で幕を閉じる。
そしてエンドロールでもまほがみほに何か語りかけている。
しほ(母)がこの試合のために裏で工作したことやそれを踏まえて一度実家に帰って母にお礼を云ったらどうか?なんて言っているんじゃないかとあれこれ想像出来るが、実際はどんな会話を交わしていたのだろうか。
次回作があるとすれば、みほとしほの和解が描かれることを期待したい。

大学選抜チームとの戦いを終えたシーンで、あんこうチームの戦車にペイントされたあんこうの絵がアップになる。
激しい戦闘を物語るかのように、ひどく擦れている。これが実に良い味を出していた。
TVシリーズを含め、これまでの彼女たち、そして水島努監督をはじめ関係者の努力の跡がここに結集されている気がした。

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(最後に蛇足)

なんだかんだで、初見から一ヶ月以上が経った。
その間、さらに二回劇場に足を運んだ。
アニメの映画を自分でお金を出して観るのは生まれて初めてだ、と冒頭に書いたが、同じ映画を二回以上劇場で観るのも初めてである。

本日(2月1日)、本作の興行収入が10億円を突破したことが公式に発表された。
深夜アニメの劇場版としては異例のロングランとなっているが、本作の中毒性ゆえかリピーターとなっている人も多いのだろう。
リピーターもいいが、本作は是非とも多くの方々に御覧になっていただきたい作品だと心から思う。
興行収入がいい映画が良作であるとは限らないが、ガルパン劇場版は多くの人を惹きよせる確かな理由がある。

なお、2月20日からは「4DX」での上映も決定している。
いまから楽しみである。

よし、“あの言葉”を使わずに、感想を書き終えた(笑)

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註1:ただし、『マッドマックス 怒りのデスロード』は例外で、この迫力は映画館でないと味わえないと思った。
もっといえば、他の作品でも確かに劇場で観るのとDVDで観るのは音も当然違うし、雰囲気など、そういう点が違うのも理解できる。理解できるのだが、1,800円も払っても・・・というのが正直な感想である。
註2:https://twitter.com/namisuke1073/status/666692882833670144
註3:https://twitter.com/marei_de_pon/status/680591449180794881より
註4:思想脳労『全話解説本シリーズ VOL.XX ガールズ&パンツァー劇場版 解説本』(2015年12月29日)8頁

『秋刀魚の味』感想

2015-09-01 00:20:11 | 映画・ドラマ
一年に二回以上はブログを更新せねばと思ったが書きたいことがない。
そこで、某所で綴った雑文をここに転載しておこう。
ところどころ文章がまづいが、暇があれば加筆修正したい。


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小津安次郎監督の『秋刀魚の味』を観た。

一言で云うと妻に先立たれた夫(平山周平)が娘を嫁にやるっていう話なんだけど、色々思うところがあった。
娘や妹を嫁にやるのはやはり辛いよ。

娘を演じるのは岩下志麻。
驚くほど美人で美人嫌いの私でも兜を脱ぐような美人。
あんな娘だと余計に嫁にやりたくないのではないか。

周平を演じるのは笠智衆。
のちの笠よりも若くいかにも昭和の年配のサラリーマンという感じがする。
周平の友人たちの会話が楽しいが、今の同年代のサラリーマン同士の会話に比べ随分上品に感じる。
当時としても上品なサラリーマンを描いていたのか。

また、言葉遣いや話し方も平成の今とはかなり違う印象を持った。
いかにも淡々とした会話。
これも当時そういう会話が一般的だったのか、映画だからそうなのかはよくわからない。

よくわからないことはもう一つある。
それは、この映画のタイトルだ。
『秋刀魚の味』というタイトルにもかかわらず、この映画には秋刀魚を食べるシーンは一切でてこない。
話によると、秋に作った映画だからだとか、秋刀魚の味のようなほろ苦い人生を描いているからだとか色々云われているようだ。


印象的なシーンがある。

周平は戦時中は軍艦の艦長だった。
周平は中学時代の恩師のラーメン屋でかつての部下(坂本、演じるのは加東大介)に偶然出会う。
坂本は周平をバーに誘い軍艦マーチを流してもらいながら酒を呑み交わす。

坂本は云う。
「ねぇ艦長、どうして日本は負けたんですかねぇ?」

周平「うん・・・ねぇ・・・」
坂本「御蔭で苦労しましたよ。帰ってみると家は焼けてるし。喰い物はねぇし。それに物価は上がりやがるしね」
(略)
坂本「けど艦長、これでもし日本が勝ってたらどうなっていたんですかねぇ?」
周平「さぁ、ねぇ」
坂本「勝ったら艦長、今頃あなたも私もニューヨークだよ。ニューヨーク。パチンコ屋じゃありませんよ?本当のニューヨーク。アメリカの。」
周平「そうかね」
坂本「そうですよ。負けたからこそね、今の若けぇ奴ら、向こうの真似しやがってレコードかけてケツ振って踊ってますけどね。これが勝っててごらんなさい。勝ってて。目玉の青い奴が丸髷かなんか結っちゃってチューインガム噛み噛み三味線引いてますよ。ざまぁみろってんだい。」
周平「けど、負けて良かったじゃないか」
坂本「そうですかねぇ。・・・うーん、そうかもしれねぇな。馬鹿な奴らがいばらなくなっただけでもね。艦長、あんたのことじゃありませんよ。あんたは別だ」

この会話には戦争に負けた悲哀を越えて、それを冗談にして酒の肴にしつつ、まだ戦争が遠い記憶でもない戦後17年という時代の「微妙」さをよく表現していると思う。
周平の「負けてよかったじゃないか」という言葉は、負け惜しみでなく達観であろう。
また、かつての上官と部下の関係性が実にいい味を出している。
最後の「艦長、あんたのことじゃありませんよ。あんたは別だ」というセリフが上官部下を超えた男同士の絆のようなものを感じざるを得ない。

本編のストーリーとはあまり関係ないシーンかもしれないが、『秋刀魚の味』というタイトルを体現しているシーンのようにも思えた。

映画『風立ちぬ』感想

2013-07-31 22:25:20 | 映画・ドラマ
宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』を観た。
何度も泣きそうになった。ここまで感動するとは思わなかった。
個人的にジブリ作品で一番好きになったかもしれない。
期待していなかっただけに余計に。
宮崎駿はこんな純愛作品も作ることができたのか。
近年の駿はあまり評価していなかたのだけども、いやはや恐れ入りました。

この映画を見終えた直後、ツイッターで私はこうつぶやいた。
私の感想はこれに集約されている。
これ以上、ぐだぐだ述べれば、野暮になる。
が、野暮を承知で少しばかり書いてみたい。

×××××××

映画公開の一か月前から、零戦の設計者・堀越二郎の半生を描く内容ときいていた。
私はミリタリーにもヒコーキにもさして興味はないが、零戦には少しばかり思い入れがある。
その設計者・堀越二郎の半生―。ならば、見てみたい。そう思っていた。
ところがその後、試写会に参加した人が「駄作だ」「つまらなかった」などと酷評しているのを目にしていた。零戦がほとんど出てこないことも知った。
これは、あまり期待しては駄目だなと思った。

と同時に、宮崎駿自身が「初めて自分の映画を観て泣いた」と言っていたことも知っていたので、その理由を知りたいとも思っていた。

果たして、私も泣いたのだった。(正確には泣きそうになっただが、周囲に人が居なかったら泣いていたので、泣いたことにしておいてください)

なぜ私は感動したのだろうか。
端的にいうと、美しかったからだ。
美しいのは作中に描かれた自然や風景、その中を飛び回る飛行機。そして、主人公・二郎と菜穂子の愛だ。

いま、「愛」などと書いていささか恥づかしく思っている。
もともと、恋愛モノの映画はあまり好きではない。ラブストーリーと銘打った映画はそれだけで観る気を無くす。
特に村上春樹的な恋愛観を全面に押し出されようものなら、毒の一つでも口から出てしまうのだが、この作品は違った。
ほんものの純愛ストーリーだった。
宮崎駿が恐らく初めて素直に作った純愛物語ではないか。

作品を観て思ったことは、宮崎駿は本当に作りたいものを作ったのだなということだ。
美しい自然と飛行機。どちらも駿が大好きなものだ。
そして純愛。
純愛なんて、恥づかしくてとても口に出せないし、自分の作品に全面に押し出すことも恥づかしい。
・・・と私なんかは思う。多分、駿自身もそう思っていたのではないか。
でも、七十二歳にして駿はふっきれた。
もう、残りの人生は長くない。ならば、本当に自分の描きたいものを描こう。
子供向けとかエンターテイメントは二の次にした。
周囲がなんといおうと、作りたいものを作った。そう、堀越二郎のように。

そして傑作『風立ちぬ』は出来た。

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主人公の堀越二郎をみて確信したことが一つある。
これは宮崎駿自身だということだ。
宮崎駿は堀越二郎に自分の姿を重ね映している。

寡黙で不器用で真面目で職人肌で藝術家で、周囲がなんと言おうと美しいものを追求する天才―。
これまったく宮崎駿じゃないか。

二郎が菜穂子と初めて会ったのが菜穂子が13歳くらいのとき。
のちに二郎は菜穂子「初めて会った時から好きでした」というが、それってロリコンじゃあ・・・?
こういうところも駿とそっくりだ。

と、これは半分冗談にしても、後に述べるように何かを犠牲にしても自分の作りたいものを追求する姿や矛盾を抱えながら生きていく姿など、二郎と宮崎駿はやはり似ている。

そう考えると、二郎の声優を庵野秀明がつとめたのも少し理解できるような気がする。
自分と同じ職業で、自分と一番似ている(つまり、二郎とも似ている)のは誰かと駿自身が考えたときに庵野秀明はしっくりきたのだろう。
実際はジブリの鈴木プロデューサーが提案したらしいが、それを呑んだ理由はこういうところにあるのではないか。
(なお、宮崎駿と庵野秀明は似ていないと私は思う)

それにしても、庵野の演技は下手ですね。
映画館で二郎の第一声を聴いたとき、思わず吹き出しそうになった。
一瞬、誰が発した声かわからなかった。天の声かと思った。
映画館でなければ、散々悪口を云ったところだ。

ところが、私の贔屓目なのかもしれないが(別に庵野を贔屓しているわけでもないが)、だんだんとしっくりくるような気もしてくるのだ。
朴訥で不器用な感じの話し方が案外、堀越二郎に近いのかも?と思えてくる。不思議だ。

そういうわけで、庵野秀明を主人公の声優に起用したことについて、皆失敗だと言っているが、私は敢えて成功だと言いたい。
・・・いや、やはり「必ずしも失敗とは云えない」くらいにしておくか(笑)

×××××××

この作品は大正時代から昭和十年代までを舞台にしている。
大正時代の農村の風景、都市の風景をみていて、私の祖父母ですら、その風景を観たことがないはずなのに、限りなく懐かしく思えるのはなぜだろう。
一日でもいいから、この時代にタイムスリップしてみたいと強く思った。

テレビもエアコンもパソコンもない。電話や車も普及していない。
現代を生きる我々にとって不便なことこの上ないはずなのに、魅力的に映る。

しかも、菜穂子を襲ったような結核が不治の病だった時代である。
その他、数多くの病があり、戦争もあり、劣悪な生活環境があり、生まれた子供が二十歳になるまでに半分くらいが死んでいた時代である。
様々な不幸が多くあった時代なのに、魅力的に映る。

単に私が懐古趣味なだけだろか。

少なくとも、大正時代のまだ近代化途中の日本の風景が駿も好きなのだろうなと思った。
日本の原風景を描かせて宮崎駿の右に出る者はいない。

そういえば、この作品、やたらと煙草を呑む(無粋な云い方でいうと喫煙)シーンが出てくる。
二郎も同僚の本庄も軽井沢で出会ったスカルトプもやたらと煙草を呑む。
禁煙ファッショが吹き荒れる現代社会への当てつけとも思えるほどに。
いや、きっと当てつけなんだろうけど。

×××××××

二郎について「薄情者だ」という感想を目にした。

『風立ちぬ』を見て驚いたこと
http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece

詳細は上記URLに譲る。
この視点は実に面白いと思うが、私に言わせると誤解であると言わざるを得ない。
まづ、確認しておきたいのが二郎は寡黙な藝術家だ。
こんな人間が愛情表現が得意なはずがない。
いや、藝術家に限らない。明治生まれの日本男児はそもそも愛情表現が下手なのだ。
(私が明治の魂魄を持って生まれた男だからよくわかる)
それでいて、藝術家。ついでに言うと最近はやりの言葉で云う理系男子だ。
愛情表現が得意だと思わせる要素が皆無に近い。
そう考えると、むしろ、菜穂子の父親の前で「付き合うことを認めてください」と云ったり、黒川家で「いまから結婚します」と云ったりと、かなり大胆な行動とストレートな物言いをしている。
普通でないという意味で、やはり、恋愛は下手なのかもしれないが。

でも繰り返し云うが、二郎は決して薄情な男ではない。
それは、菜穂子が喀血したという報せを聞くや、涙を流しながらそのまま夜行列車に飛び乗り、名古屋から東京へ駆けつけるという行動からも見てとれる。
名古屋から東京へ移動中、二郎は涙を流しながら設計図を作成している。
これだけでも万感迫るものがある。

少年時代のエピソードでもいじめられていた下級生を助けに入って、いじめていた上級生を背負い投げしている。
なかなかできることじゃない。
関東大震災の時も汽車の中で足首の骨を折った菜穂子の侍女を背負って安全な所まで批難させた。
一体どこが薄情者なのだろう。

二郎が薄情男に映るなら、それは、百言尽くして愛を表現しないと愛されているという実感を持つことができない現代人の病理がそうさせているのだ。
少なくとも私は巧言令色で愛情表現の上手い男よりも、朴訥で愛情表現の下手な男の方が好きだ。
でも、そういう男は薄情者だと言われる。
とかく現代は生きにくい。

×××××××

もう一つ、二郎は残酷な男だという意見に対しても、一言述べたい。
二郎が残酷だというのは、美しさにしか興味が無く、そのほかのことを犠牲にしている。また、自分の作った戦闘機が戦争の道具として使われるものだという意識が無い、というような理由による。

この意見については、実は半分そのとおりだと思っている。

美しさを追求することは本質的に犠牲がいるものだ。

二郎は戦争を望んでいなかっただろう。いわんや人を殺すことなど・・・。
しかし、美しい飛行機を作りたかった。
天才や藝術家はしばしばこういう矛盾を抱えて生きていくものなのだ。

それは、宮崎駿にも云える。
彼は反戦平和主義者でありながらミリタリーオタクで戦闘機や戦車が大好きだ。
ジブリのプロデューサーの鈴木敏夫も同様の指摘をしている。
また、自然の大切さを訴えながらも、自分はアニメを作っている。
「原発の問題を言われても、映画なんて電力そのもの。電力会社の宣伝によると電気の四分の一が原発だそうだし、アニメのセル画なんて石油の固まりだし」と、宮崎駿自身が述べている。
宮崎監督自身も矛盾を抱えて生きているのだ。
そして、宮崎駿はこうも云っている。

「確かに僕は矛盾に満ちているかもしれない。でも仕方がない。矛盾のない人間はたぶんつまらない人だ」と。

×××××××

最後に国語のお勉強。

本作のタイトル『風立ちぬ』はどういう意味だろう?
小学生や中学生に訊くと「ぬ」を打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」と勘違いして、「風が立たない」という意味だと答えるかもしれない。(大人でも勘違いする人は多いように思う)

正解を先に書くと、「風立ちぬ」の「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形なので、直訳すれば「風が立った」「風が立ってしまう」「風が立ってしまった」というような意味になる。
(「風が吹き出した」等にすれば綺麗な訳になりますね)

「ぬ」を打消の助動詞か完了の助動詞かを見分けるには未然形についているか、連体形についているかで判別できる。

つまり、打消しの助動詞は未然形につくので、「風が立たない」という意味にするならば、タ行四段活用動詞「立つ」の未然形が「立た」なので、「風立たぬ」となる。
一方、「立つ」の連体形は「立ち」なので、それにつく「ぬ」は完了の助動詞となる。

本作では、「風立ちぬ」というセリフは出てこない。

その代わりに、カプローニが云う。
「日本の少年よ!まだ風は吹いているか?」
「吹いています!」
「なら生きねばならん!」

風立ちぬ、生きねば!

なんと感動的な言葉だろう。
我々は、野に風が吹き続ける限り生きなければならない。

颯爽と駆け抜ける清々しい風。
この作品はそういう作品だ。

映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』

2008-01-13 21:03:09 | 映画・ドラマ
昨日の21時からテレビでやっていた映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』を見た。
広末涼子扮する田中真弓が1990年三月にタイムスリップする話。
しかし、田中真弓って同姓同名の声優さんがいてややこしいな。
(クリリンとかパズーとかルフィとかきり丸の声の人です)

それはさておき、
1990年にタイムスリップした理由は、
一、バブル崩壊の引き鉄となった大蔵省の通達「不動産融資総量規制」を阻止する。
ニ、先にタイムスリップして行方不明になった母を見つけ出す。
というもの。

まぁ、ストーリー云々よりも1990年、つまりバブルの光景が再現されていてなかなか楽しい映画だった。
1990年というと私は五歳。しかも、福岡に居たからバブルの思い出はほとんどない。
ただ、映画に出てきた「はちみつレモン」という缶ジュースが当時人気だったことは覚えている。
私もよく飲んでいたものだ。
その他のバブル期の社会風俗に関する知識はあとから得た。

あの髪型、服装、メイク、ノリなどなど、どれも今じゃありえない。
私が広末よろしくあの時代にタイムスリップしたらちょっと耐えれんと思う。
私が物心着いたのは九十年代初頭であり、バブルが崩壊した直後だ。
そののちの平成大不況と呼ばれる時期を青春時代として過ごした。
だから、私にとって九十年代がもっとも郷愁をそそられる時代であるし、不況の日本がデフォルトであり、もっとも落ち着く時代なのである。
それにプラスアルファして私は元来合コンだのパーティーだの浮かれたイベントが苦手な性質(たち)なので、あの時代に生きていても息苦しく感じたのではないかと思う。

映画を通してだけど、あの時代の日本人の浮かれっぷりをみていると、バブルは崩壊してよかったと思えてくる。
もちろん、あの総量規制はハードランディング過ぎたけれども、いづれバブルは崩壊する運命にあっただろう。
(また余談だが「総量規制=ハードランディング」というのは、『絶望先生』でもネタにされていて、笑ったと同時に久米田先生よく勉強されてらっしゃるなと感心した次第である。)
総量規制がなされなくともバブルはいづれ崩壊したと考えると、あのような狂った時代があれ以上に長続きしていたら、いまより悲惨な結果を生んでいたのではないかとも思う。
「歴史にifは無い」(この言葉大嫌いだ)と言われるように、実際どうなったかはワカランが。

映画の内容として面白かったのは、真弓(広末)を口説くことにやっきになっていた下川路功(阿部寛)が、実の娘とわかった途端、「キスくらいならいいよ」という真弓に対して「ふしだらな真似をするな!」と叱るシーン。
これには大笑いした。しかし、男って自分勝手な生き物だな(笑)
他人は構わんが身内にふしだらな真似はさせたくないという心理。
多くの人が共感するのではないか。

ところで、私は小学六年生の頃、広末が好きになって、中一の頃くらいまでファンだった。
広末の本性と言うか、まぁ、そんなのを知って急激に熱が醒めてしまった。
見た目と中身は両立しないものだと悟った次第。
しかし、今日、何年ぶりかに広末を見てみると、なるほど当時の自分が好きになったのも頷ける話だ。
もちろん、またファンになるなんて云わないが。

映画『サッドヴァケイション』

2007-10-26 22:49:54 | 映画・ドラマ
先月、『サッドヴァケイション』という映画を観た。
感想を書こう書こうと思って書かずじまい。
いつもの悪い癖だ。

本作は「北九州サーガ」三部作の完結篇。
今回は一部主演が浅野忠信であるということがこの映画の性質を如実にあらわしている。
はっきり云ってサブカル映画だし、決してエンタメ映画ではない。
舞台は北九州市の戸畑か若松あたり。
当然ながら、みな北九州弁でそれがやけに可笑しかった。

映画を見終えて知ったのだが、この映画のテーマの一つに「母の愛」があるという。
驚いた、私は本篇を見て母の愛を感じ取ることができなかった。
私には健次(浅野忠信)の母である千代子(石田ゆり)は優しき母というより悪女に見えた。

健次は前の夫との間に出来た子で、現在の夫との間に出来た子に勇介がいる。
勇介は不良息子で家業の運送屋を継いでくれそうにない。
そこで、十数年ぶりに再開した健次に運送屋を継がせようとする。
が、健次は幼い頃、別に好きな男が出来たからといって自分と自分の父を捨てた千代子を恨んでおり、家を継ぐどころか母に対して復讐を企てている。
この復讐の内容がどんなものであるかは本作を見ていただくとして、千代子は本当に健次を愛しているのだろうか。

仮に健次に対する愛は本物だとして、もう一人の息子、勇介に対してはどうか。
千代子は勇介を出来が悪いからといって見捨てるのである。
そして、勇介が駄目なら健次に家を継いでもらえばよいとばかりに健次を温かく包み込む。
ここにどうも利害の感情が見え隠れしてならない。

さらに、かつて自分が息子(健次)と夫を見捨てたことに寸毫の自責の念も抱いていない風で、健次の怒りをいま一つ理解していない。
それゆえ、明らかに敵意を持っている健次に対して常に笑顔をもって接するのである。
マッチが歌っていた「天使のような悪魔の笑顔」を髣髴とさせる。

なにやら、ここに愛の恐ろしさを感じた。
ここでの恐ろしさは愛ゆえに相手の気持ちを忖度しない姿勢であるが、
もっといえば、愛には常に二面性があるように思う。
つまり、愛を施す当事者からみれば愛は至上のもので素晴らしいものであると思っているが、愛される側、または第三者からみてそれが素晴らしいものであるという確証はない、ということである。


・・・以上はあくまでもこの映画を見る際のほんの一つの視点。
これだけでなく、様々な要素が含まれており、見る人によって感じ方が違うと思う。
私自身もいろいろなことを考えさせられた。(説教臭い文脈ではなく)
そういう意味でも良い映画だったと思う。

ところで、この映画、かなりアウトローな人が大勢出てくる。
殺人シーンもある。
これをもって「北九州は怖いところだ」と思われる方があるかもしれない。
しかし、私はそれについて反論するすべを持ち得ないでいる。

ステフが再婚とは驚いた

2007-07-25 22:50:27 | 映画・ドラマ
昨日、ミクシィの速報に「「フルハウス」のステフが再婚 」とあったので驚いた。
フルハウスのステファニーことジョディ・スウィーティンが再婚したという。
ステフが一度結婚したことすらしらなかった。
二度驚いた次第である。

フルハウスを知らない人は少ないだろう。
私の一番好きなアメリカンコメディドラマである。
本国アメリカでは1987年から1995年にかけて全192話が放送され、
日本ではNHK教育で1993年から1997年まで放送された。
のち、何度も再放送され今現在も火曜の19時から放送されている。

私はフルハウスのメンバーは全員好きなのだけど、特にステフが好きだ。
というのも、リアルタイムで見ていたとき同い年だと思っていたし、なにより吹き替えの声が大谷育江さんだからだ。
大谷さんの声はなんとも形容がし難い良さがある。
いや大谷さんだけではない。
フルハウスメンバーの声優は全員、声質・演技共に申し分がない。
ダニーの大塚芳忠さん、ジェシーの堀内賢雄さん、ジョーイの山ちゃん(山寺宏一)、DJの坂本千夏さん(となりのトトロのメイなど)、ミシェルの川田妙子さん(旧姓・山田)。
まったくもって豪華なキャストである。
あと、別の意味で大好きなのはDJの友人のキミー。
キミーはいつもフランクで一つひとつの受け答えが抜群に面白い。
私なんぞ彼女が登場するだけで大笑いしてしまう。

この機に色々調べてみたら、ステフ(ジョディー)は1983年生れだった。
本国と日本で放送された時期にずれがあるのを知らなかったので私とほぼ同じ歳だと思っていたが二歳も年上だった。
もう一つ驚いたことは設定上の主役はジェシーだということ。
てっきり、ステフたちの父親のダニーだと思っていた。
また、これは先週くらいに知ったのだけども、ミシェル役の子は双子なのだという。
きちんとキャストにも二人の名前があるのに今までちっとも気づかなかった。

ウィキペディアによると、ステフ役のジョディさんは2004年頃、薬物依存症になり、そこからの復帰を手助けしたのはフルハウスのタナー家の人びとだったという。



2006年2月1日、アメリカABCテレビ「Good Morning America」のインタビューに出演した際、2004年に解雇による喪失感などから塩酸メタンフェタミンの依存症になり毎日常用していたことを告白。
(略)
『フルハウス』の主演で叔父のジェシー役を演じたジョン・ステイモス、父親のダニー役を演じたボブ・サゲット、妹のミシェル役を演じたオルセン姉妹らの激励もあって、リハビリ施設に入所し6週間の集中治療を受けた。2005年3月には依存症を克服、現在は女優業への復帰を望んでいる。
(略)
ジョディにとってフルハウスの共演者は非常に大きな存在である。ABCのインタビューでは「本当の家族のように、一緒に笑い、一緒に遊ぶなど今でもお互いを愛し合っている。」と話した。依存症克服にはタナー・ファミリーの存在が大きかったという。ジョディの結婚式には、D.J.役のキャンディス・キャメロン・ブレとその家族が出席するなど、フルハウス放送終了後から約10年が経過した今でも親交が深いという。
(フリー百科事典『ウィキペディア』より)



フルハウスメンバーはいまでも厚い親交があるようである。
これは大変嬉しいことだ。
今でもサンフランシスコのあの家に行くとタナー家の皆が笑顔で暮らしているような気がした。
もっともDJとステフは結婚してたまにしか戻って来ないのかもしれないが。

『パッチギ』の感動と倫理

2007-05-19 00:42:16 | 映画・ドラマ
今日、金曜ロードショウで『パッチギ』をやっていた。
私はこの作品を観るのが今度で三度目である。
一度目は映画館、二度目はレンタルDVDで、そして今日地上波で見た。
あの井筒監督がよくもまぁ、と思うほど感動的な素晴らしい作品である。(暴力シーンは少し苦手だが)
もう、三度見るので感動は薄れたが、細部の作りを見て楽しんだ。

しかし、危惧することがある。
この作品、藝術作品としては立派だが、政治的観点からみると最低なのである。
歴史的事実と異なる発言、もしくは誇張された表現が見られ、少しでも歴史を知っている人なら苦笑してしまう箇所が多々ある。
解って見る分はいいが、それを鵜呑みにするならもはや毒である。

私は政治と藝術は分けて見たいと思う。
倫理と感動は別ものであるとするのが近代文藝理論の大前提であり、荻生徂徠も同じことを云っていたと呉智英さんの本にも書いてあったが私もこの考えに同感だ。
それゆえ、どんなプロパガンダ作品でも感動するものは感動する。
しかし、作品を政治主義の目でしか見ないならプロパガンダ作品ほど最低なものはない。
政治主義の目でみるとパッチギは朝鮮、特に北朝鮮に都合の良いプロパガンダ作品である。

今日、パッチギを見た人の多くが作品内で述べられたことを鵜呑みにしない賢なる人々である事を願う。

映画 『ALWAYS 三丁目の夕日』

2006-12-02 02:00:29 | 映画・ドラマ
金曜ロードショーで『ALWAYS 三丁目の夕日』を観た。

不覚にもラストシーンで感動してしまった。
他にも色々感動的なシーンはあったのだけど、私は最後のシーンに最もグッと来た。

この映画について呉智英さんが「感動したけれど、登場人物が皆平成の顔だった」という旨のことをどこかに書いていた。
(たしか、『ダヴィンチ』だったと思う。)
確かに、皆、今の顔つきだった。
昭和三十年代の人々にしては洗練されている。
また、来ている服もやけにピカピカしていた。
建物やオート三輪は古ぼけているのだけど、人々はみんな新しかった。
どうも、人間だけがタイムスリップしてきたような印象を受けた。
しかし、中でも堀北真希が演じた六子(むつこ)は結構昭和の香りが漂っていたと思う。
はじめちっとも堀北真希と気づかなかったし。(それは私が年寄りなだけ?)
青森から集団就職で上京してきた娘ということで津軽辯を駆使した演技も中々上手かった。
小生、堀北真希を見直した次第。
白状すると六子は本当に可愛らしくて、今あんな娘がいたらいっぺんに好きになってしまうだろうと思う。
田舎臭くて純真で健気で・・・今、そんな娘は滅びてしまった。

この映画、原作は西岸良平さんの漫画『三丁目の夕日』なのだけど、茶川竜之介を始め登場人物が原作と随分印象が違った。
が、映画は映画として割り切ってみればそれもそれほど気にならない。
むしろ、CGの方が気になるくらい(笑)
西岸さんの良いところは安易にハッピーエンドにならないところだ。
最後までどこか物悲しさが残ることが多い。
最近、ちょっとした昭和ブームで昭和三十年代を古きよき時代として懐かしむ風潮があるが、
当時の人は当時の人なりにいろいろ大変だったのである。
西岸さんの作品にはそういったマイナスの部分もきちんと書いてあるから好きだ。

しかし、それでもなおあの時代が限りなく懐かしく愛しく感じるのは何故だろう。
昭和六十年生れの私でさへそう感じるのだ。
ラストシーンで鈴木一家が土手から夕日を眺めてこんな会話を交わす。

「綺麗な夕日だね」
「夕日はいつだって綺麗だよ」
「明日もあさっても五十年後も、ずっと夕日が綺麗だといいわね」

今、我々が見ている夕日は五十年前のそれと変わらず綺麗だろうか。
もし、そう感じないとすればそれは夕日が変わったのではなく、我々の心が変わったのだろう。

映画『太陽』感想

2006-10-15 22:09:34 | 映画・ドラマ
昭和天皇を主人公したロシヤ映画『太陽』を観に行って来た。

この作品はストーリーらしいストーリーは無く、人間と神との間でただただ苦悩する天皇が淡々と描かれている。
以前、あまカラさんが「退屈だった」と書かれていたが、その指摘は正しい。
私も、ああこういうことか、と思った。
特に昭和天皇に興味が無い人はなんのことだかさっぱりわからないと思う。
ゆえにこの映画にはエンターテイメント性は無い。
むしろ、主人公(昭和天皇)の細やかな心理描写をしみじみと愉しむ映画であろう。
いうなればこの作品はわびさびの映画である。
喉が渇いたから飲むお茶ではなく、嗜む為に飲む抹茶のような感じ。
(わかりにくいかな?)

この映画の最大の見どころはイッセー尾形の演技だ。
細やかな仕草や昭和天皇の独特の話し方を真似ていたのは見事だった。
多分、イッセーさんは随分昭和天皇の実際の映像を観るなどして研究したのだろう。
ネット上では「演技過剰だった」とか、「昭和天皇に対して失礼だ」という意見もあるようだが、私はなかなか良い演技だったと思う。
というより、私はイッセー尾形の演技を見るためにこの映画を観たと云っても過言ではない。
それほど、イッセーさんの演技は好きだし、その期待は裏切られなかった。
ついでに言うと、木戸幸一も米内光政も阿南惟幾も平沼騏一郎も顔がそっくりで可笑しかった。
(阿南惟幾のキャラはあんな感じでは無いと思うが)

ただ、この映画を観るにあたって気をつけなければならないことは
個々の事象が史実と懸け離れているということだ。
私は映画だからフィクションがあっても一向に構わないと思うが、
やはり実在した人物を主人公にした映画だから多くの人はあの内容を史実として認識してしまうのではないだろうか。

この映画の主題である人間と神との間で苦悩する天皇という内容さえ、私は史実でないと思う。
昭和天皇は戦争末期に戦火に斃れゆく国民を思い、また、結果的に戦争を止めることの出来なかった責任やその他諸々の事で大いに苦悩されていたことはあった。
が、人間と神との間で苦悩されるとうことは果たしてあったのかどうか疑わしい。
昭和天皇は昭和二十一年元日に出された詔勅(いわゆる「人間宣言」)について、
昭和五十二年八月二十三日の記者会見で
「じつは、あの詔勅の一番の目的は五箇条の御誓文でした。神格(の否定)とかは二の問題でありました」と述べている。
戦中の過剰な神格化に戸惑われたこともあったかもしれないが、それを主題にしたのはやはり西洋人と日本人の「神」に対する認識の違いだろうか。

また、御前会議での昭和天皇のお言葉や、マッカッーサーとのやり取りも殆ど創作だ。
勿論、事実の部分もあるがかなり脚色されている。
他にも、酒と煙草を嗜まれない昭和天皇がワインやコニャックを飲み、
葉巻まで呑んだことにはちょっと苦笑せざるを得なかった。
ついでに揚げ足を取るならば皇太子に手紙を書くシーンで昭和天皇は現代仮名遣いを用いていたが、これもあり得ない。

昭和天皇の苦悩を描くのであれば、神と人間という問題よりも、
立憲君主としての天皇という立場に苦悩するひとりの人間としての姿を描けば良かったと思う。
(戦争を止めたいがそれを立場上、それを口に出せないことなど)
それならばかなり史実に近い形で作品に出来る。

ところで、物語の前半、
主人公が研究所でヘイケガニの標本を見ながら何かに取り憑かれたようにこのカニについての知識を饒舌に喋るシーンがある。
次第にその内容は大東亜戦争の原因についての話に変わってゆき、
さらに、話は支離滅裂な内容になってゆく。
研究所には光が差し不気味に明るく美しい。
私はこのシーンが好きだ。
この辺の描写は妙にリアリティがあって本当にこういうことがあったようにも思える。

じじつ、昭和天皇は戦争末期、心労からすっかり憔悴され、しばしば独り言を言われていたという。
吹上御所の庭を散歩される時などは時折、大声で繰り返し独り言を言われることもあったようだ。
他にもこんなエピソードがある。
『昭和史と天皇』から少し引用する。

植える種や草があると、子どもが砂遊びに使えるような小さなスコップを持って出られた。
そして、警護の内舎人に向かって叫ばれた。
「御警護!水を持て!」
すると警護の内舎人は、御文庫の入口の近くにある水道まで行って、ブリキのジョウロに水を汲んで持ってきた。
しかし、天皇はしばし放心され、ジョウロで水を撒いていても、立ちすくんで植えた草とはまったくちがう方向に水を注いでいることがあった。


この光景は作中で主人公が速記者(書記?)に「書き続けて!書き続けて!」と云いながら支離滅裂なことを云うシーンと重なる。

先に述べたようにドキュメンタリー映画を除いて映画はフィクションを描くものだから、
天皇がワインを呑もうが宇宙に行こうが本来ならば構わないし、あって良いことだ。
しかし、やはり主人公が主人公なだけにどうしても史実との整合性を考えてしまうし、ワインや煙草を呑んだら変な感じがする。
そこが、天皇を作品の主題とする難しさだと感じた。

最後に。
映画館には『太陽』のパンフレットが売っていたが、つくりが大変良かった。
特に田原総一朗の解説が載っていてとても楽しく読んだ。
巻末にはほとんど全てのセリフを記載したシナリオも掲載されているので、内容を思い返す時にも役に立つ。(一緒に簡単な解説も載っている)
他にも色々と解説が載っているのでこの映画を観て興味を持った人や
内容がよく解らなかったという人に是非お薦めしたい。

映画『バルトの楽園』

2006-06-25 23:59:04 | 映画・ドラマ
昨日、『バルトの楽園』(楽園の読みは「がくえん」)を観てきました。

公式サイトより内容紹介。

1914年、第一次世界大戦で日本軍は、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した。ドイツ兵4700人は捕虜として送還され、日本各地にある収容所に収められる事となる。
 厳しい待遇が当然な収容所の中で、奇跡の様な収容所が徳島にあった。板東俘虜収容所の所長を務める会津人の松江豊寿(まつえとよひさ)は、陸軍の上層部の意志に背いてまでも、捕虜達の人権を遵守し、寛容な待遇をさせた。捕虜達は、パンを焼く事も、新聞を印刷する事も、楽器を演奏する事も、さらにはビールを飲む事さえ許された。また、言語・習慣・文化の異なる地域住民の暖かさに触れ、収容所生活の中で、生きる喜びをみいだして行く。
そして、休戦条約調印、大ドイツ帝国は崩壊する。自由を宣告された捕虜達は、松江豊寿や所員、そして地域住民に感謝を込めて、日本で初めてベートーベン作曲『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する事に挑戦したのであった。



ドイツ人俘虜を敵としてではなく祖国の為に戦った戦士としてあつかう松江所長の武士道精神に心打たれました。
武士道というとなにやら勇ましいイメージがありますが、
こういう惻隠の情もまた武士道なんですね。

特に松江豊寿さんの場合、会津出身ということで、俘虜の気持ちを良く理解していたのでしょう。

会津出身の松江豊寿さんは戊辰戦争敗戦後、青森県下北半島の不毛の地・斗南藩に移住させられ困窮した生活を強いられました。
そして、その後長い間、会津の人々は賊軍の汚名を着せられ辛酸を嘗めてきたのでした。
会津の方々の心情を慮ると涙を禁じえませんでした。
しかし、松江さんは言います。

「我々を支えていたのは憎しみではない。復讐心でもない。それはただ一つ、会津人としての誇りでした。」

なんとも感動的な言葉でありました。
憎しみが新たなる憎しみを生むなどといわれる殺伐とした現代こそ、この言葉を噛みしめる必要がありましょう。

また、ドイツ軍人俘虜を「ドイツさん」と言って温かく迎え入れる板東の住人。
俘虜たちもそんな住人と温かく交流してゆきます。
はじめはお互い敵とみなし心を閉ざしていた人も次第に心を開いてゆく。
陸軍省から「捕虜に甘い」と指摘されても自分の信念を貫く松江所長。
そして、クライマックスの第九・・・などなど。
感動的な見どころ満載の映画でありました。

しかも、これは細かいエピソードはフィクションにしても、
史実をもとに作られた映画ですから、
猶のこと心に響くものがあります。

日本の歴史教科書がツマラナイのはこういう話が載っていないからでしょうね。
いや、むしろ、教科書はつまらなくていいんです。
本当に面白く感動的な歴史は概してこのような教科書に載らない歴史なのです。


『バルトの楽園』公式サイト
http://www.bart-movie.jp/

映画『佐賀のがばいばあちゃん』

2006-05-04 18:49:37 | 映画・ドラマ
先日、映画『佐賀のがばいばあちゃん』を見てきた。

原作はB&Bの島田洋七さんが実話を元に書いた同名の小説(自伝?)。
あらすじは以下の通り。

戦後まもない広島で、原爆症の父親を亡くし、居酒屋で懸命に働く母に育てられていた明広は、母の元を一人離れ、佐賀にある祖母の家で暮らすことになった。夫の死後7人の子供を育て上げた祖母は、今も現役の掃除婦として働き、かなり古くなった家で一人暮らしをしていた。
(中略)
ばあちゃんと二人きりの貧乏暮らしだったが、大好きな母に心配させまいと明広は必死に頑張った。やがて学校にも馴れた明広が、友達といっしょに剣道を習いたいと頼むと、ばあちゃんは「金がかかるなら、やめときんしゃい」と許さない。それなら剣道より安く済む柔道がやりたいと、明広も食いさがるが、「やめときんしゃい」。それでもどうしてもスポーツがしたい明広に、ばあちゃんが出したアイデアは、ずばり、「走りんしゃい」。「走る地べたはタダ、道具もいらん」というわけだ。半分だまされた気分だった明広は、それでも毎日、運動場を走り続けた。ついには学校で一番速いランナーになった。(以下略)

【公式サイトより転載】


気になった人は下のページから予告動画を御覧ください。
あらすじよりも余程映画の雰囲気を掴むことが出来ます。
http://www.gabai-baachan.com/contents/yokokuhen.html

この映画の最大の魅力はばあちゃんにあるが、
それも去ることながら登場人物一人ひとりがまた魅力的なのである。
同級生、学校の先生、豆腐屋さん、お医者さん・・・
それらが昭和三十年代の日本の情景とあいまって堪らなく郷愁を感じさせる。
昭和六十年生まれの私でもそう思うのだから、実際にその時代を生きた人なら猶の事だろう。

近年、『ALWAYS 三丁目の夕日』のヒットをみてもわかるように、
昭和の古き良き日本を懐かしむ風潮がある。
これは単に「懐古趣味」という言葉でかたづけられる事ではなく、
今の時代と比べ魅力的な何かがあったからこそ惹きつけられるのだと思う。
じじつ、その当時を知らない若い世代も昭和を懐かしんでいる。
極端な例ではあるが、以前、小学生の男の子が
「『三丁目の夕日』を見て泣きました。今の日本は大切な何かを見失っていると思います」
と言っていた。
この小学生は少々大人びた子であり、ゆえに上のようにきちんとした言葉で表現していたとしても、
感じるところはこの小学生に限らず皆同じようなことだと思う。
では、今の日本が失った「何か」とは何か。
・・・などとここで私が論えば野暮になろう。
それに、それはこの映画を観ればお分かりいただけると思う。

誤解の無いように言っておけば、
この映画は単に懐かしいというだけではない。
館内から笑い声とすすり泣きが聞こえる笑えて泣ける映画でした。


最後にがばいばあちゃんの言葉を紹介いたしましょう。


うちは明るい貧乏やけん、よかと。しかも先祖代々、貧乏だから自信ば持て。

悲しい話は夜するな。つらい話も
昼にすれば何ということもない。

通知表は、0じゃなければええ。1とか2を足していけば5になる!

あんまり勉強するな。勉強すると癖になるぞ!

人に気づかれないのが本当の優しさ、本当の親切。

人がこけたら笑え。
自分がこけたらもっと笑え。
人はみんなこっけいだから。

人間死ぬまで夢を持つばい。
その夢が叶わなくても所詮夢たい。

『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(第15作)

2005-10-23 22:34:09 | 映画・ドラマ
昨日、BS2で『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(第15作)を観た。

『男はつらいよ』は今年の夏からBS2で第1作目から放送されていて、
最近はだいたい毎週土曜日に放送されています。
(一応、私は1作目からずーっと観ている。)

で、今週は第15作目。

今作はリリーが再び登場。
シリーズ中でも名作との誉れ高い作品らしいです。

さて、感想。

おぉ、おいちゃんがいつの間にか下条正巳さんになってる!!
(実は私は14作目をまだ観ていないw)
おいちゃんに関して言うと、私は初代おいちゃんの森川信さんが一番好き。
なんか、下町のおいちゃんって感じが一番出ていたから。
二代目おいちゃんの松村達雄さんはコメディーっぽかったね(笑)
それはそれでいい味を出していたと思う。

さて、今作のアクセントは船越英二さん演ずる兵頭謙次郎。
日常の生活が嫌になった人の良い中年サラリーマンという感じの役。
なんだか品も良くてちょっと変わった性格ですごくいい役だった。
この兵頭さんが寅さんとリリーの三人で旅をするシーンが印象に残った。

あと、リリーは普通のマドンナと違って寅さんと似たような境遇のマドンナだから、
そういう意味でいつもとは違った面白さがあるよね。
最後、結局寅さんとリリーは結ばれなかったけど、
そこが、なんというかね、まぁ、山田マジックだろうと。
御蔭で48作まで続いたわけだし(笑)

『熟年離婚』第2話

2005-10-20 22:05:50 | 映画・ドラマ
初めて通して熟年離婚を見ました。

感想・・・

うあーーー!
なんて鬱になるドラマなんだー・゜・(つД`)・゜・。

いや、わかるんですよ。
妻の言い分も。
お父さん(渡哲也)がガンコだっていうことも重々わかります。

でも、なんかお父さんが凄く可哀想(つдT)

脚本がしっかりしているからテンポも良くて観ていて飽きない作りなのですが、
如何せん、私の場合観ていて鬱になるドラマです。

まぁ、基本的に私はドラマを観ない人間なのですが、
たまに観てみたらこれだ(笑)

もう見たくない!・・・とも思うんだけど、
続きが気になるんだよなぁ。。
『熟年離婚」恐るべしっっ!!