壱、弐と続けて昭和天皇が松岡洋右や陸軍に対して不信感を持たれていたことを述べてまいりました。
では、「A級戦犯」に指定された人たちに対して全員「不信感」を持たれていたのか。
これは、はじめに述べたようにそうではありません。
終戦後の八月廿九日の天皇のお言葉。
戦争責任者を連合国軍に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、
自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか。
(『木戸幸一日記』)
九月十二日には閣議で「戦争犯罪人」を日本国内で処罰することを連合国軍に申し入れる決定がなされました。
そのときは参内した東久邇宮首相に対して
敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗てはただ只管忠誠を尽くしたる人々なるに、
之を天皇の名に於いて所断するは不忍ところなる故、再考の余地はなきや。
(『木戸幸一日記』)
と述べられています。
ここでは「戦犯」に対して大変同情されています。
「退位でもして納める訳には行かないだろうか。」や
「何れも嘗てはただ只管忠誠を尽くしたる人々」と述べられていますので
相当強いお気持ちがあったと察せられます。
A級戦犯に指定された人の中でも殊に内大臣の木戸幸一(終身禁固刑ののち昭和三十年假出所)には大変強い信頼を置かれていたとされています。
また、(壱)で述べたように東條英機にも一定の信頼を置かれていました。
他にも御前会議で終戦の聖断が下ったあと、慟哭する阿南惟幾陸軍大臣には
阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。
しかし、私には国体を護れる自信がある。
とやさしく話しかけられたそうです。
つまり、松岡洋右や陸軍の戦争推進派には強い不信感を抱いていたものの、
他の臣下たちには強い信頼を置かれていたと考えられます。
とすれば、連合国の「A級戦犯」の指定が非常に杜撰になされたものである以上、
昭和天皇が「A級戦犯」をいっしょくたに捉えていたというのは誤りだと思います。
早い話が「A級戦犯」に「不快感」を示していたとしてもそれは一部のことであり、
また、本質的には「靖國神社」に合祀したことに対して懸念を示されたのだと思います。
これは、皇室研究家の高橋紘さんも指摘していることですが、
昭和天皇は原則を非常に重んじる方でした。
靖國神社の原則は戦地で戦死した軍人を祀る神社です。
軍人以外にも従軍看護婦や電話交換手などの例外もありますが、
いずれも戦地で命を落とした方々です。
翻って、「戦犯」に指定された人たちは戦地で命を落としたわけではありません。
陛下はその戦犯を靖國神社に祀るのは原則に反していると考えだったのではないかと思われます。
最後に野嵜健秀さんの闇黒日記に大変共感する文章が掲載されていたので転載いたします。
昭和天皇と後の「戰犯」諸氏とは良く知つてゐる「身内」で、しかも天皇は「天皇の名に於て」と言はれつゝ自分の意嚮と全く無關係の政策が彼等に據つて實施されてゐるのを知つてゐた。(中略)
「身内」の葬祭についてだつて、イデオロギー的な發想でなく感情的な發想で考へるのは自然。
政權から干された自由主義者、或は反體制の共産主義者なんかと、政權に利用された天皇とで、當時政權にゐた後の「A級戰犯」に對する態度が根本的に異つてゐてもそれが當然だ。
つまり、昭和天皇の身内である「A級戦犯」に対する思いと、首相を含め我々一般国民との思いを同じ次元で語ってはならぬということです。
ですから、昭和天皇が私的にどう思われていようとも、一般国民や首相が靖國に行ってはならぬ道理はありません。
それに、昭和天皇ご自身も決して靖國神社自体を否定されたわけではありませんし、
むしろ、先に引用したように「戦犯」や神社に並々ならぬ思いを抱かれていました。
そんな靖國神社に松岡洋右のような軍人でもなければ戦死したわけでもなく、
しかも、先の本当の意味での「戦犯」が合祀されたことに「不快感」を抱かれたのではないでしょうか。
以上、述べてきた事は富田長官の日記が公開されていませんし、
なにより、昭和天皇の本心を知ることは不可能ですので
推測の粋を出ませんが、かように考えるのが一番自然だと思います。
ところで、これでは松岡洋右があまりにも浮かばれないので
松岡洋右の言葉も紹介いたします。
「三国同盟は僕の一生の不覚だった」
「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない」
(いづれも日米開戦の報を受けた時、病床で)
本人も失策だったとのちに自覚していたのです。
彼も国を滅ぼそうと思って行動したのではなく、
すべては日本の為に行動していたにすぎません。
結果的に失政だったとしても我々は「戦犯」と呼ぶべきではないでしょう。
「A級戦犯」がおよそ犯罪人ではないことはこれまで何度も述べてきたとおりです。
(故にすべて括弧附きで表記)
ですから、我々が靖國神社にお参りするときは
そこに国の為に殉じた方がいる以上、
わけ隔てなく手を合わせればよいだけです。
それ以上に御託や理窟を並べる必要はありません。
そして、日経や朝日が言うように本当に「大御心」を尊重するのであれば、
本来の大御心に従い靖國神社や戦没者に対してより敬意を払うべきなのであります。
附記
【(壱)~(参)の本文中に記載した以外の参考文献一覧】
『昭和天皇発言記録集成』防衛庁防衛研究所戦史(芙蓉書房出版)
『天皇陛下』松崎敏弥(泰流社)
『いわゆるA級戦犯』小林よしのり(幻冬社)
『グラフィックカラー昭和史14 昭和史と天皇』(研秀出版)
『昭和日本史 別巻 皇室の半世紀』(暁教育図書)
『人間天皇激動の80年』(双葉社)
『別冊宝島 日本「軍人」列伝』(宝島社)
『昭和天皇と激動の時代』【正論9月臨時増刊号】(産経新聞社)
『天皇陛下崩御 昭和の時代終わる』【アサヒグラフ 1月25日号 緊急増刊】(朝日新聞社)
『日本人と天皇』雁屋哲・作、シュガー佐藤・画(いそっぷ社)
では、「A級戦犯」に指定された人たちに対して全員「不信感」を持たれていたのか。
これは、はじめに述べたようにそうではありません。
終戦後の八月廿九日の天皇のお言葉。
戦争責任者を連合国軍に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、
自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか。
(『木戸幸一日記』)
九月十二日には閣議で「戦争犯罪人」を日本国内で処罰することを連合国軍に申し入れる決定がなされました。
そのときは参内した東久邇宮首相に対して
敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗てはただ只管忠誠を尽くしたる人々なるに、
之を天皇の名に於いて所断するは不忍ところなる故、再考の余地はなきや。
(『木戸幸一日記』)
と述べられています。
ここでは「戦犯」に対して大変同情されています。
「退位でもして納める訳には行かないだろうか。」や
「何れも嘗てはただ只管忠誠を尽くしたる人々」と述べられていますので
相当強いお気持ちがあったと察せられます。
A級戦犯に指定された人の中でも殊に内大臣の木戸幸一(終身禁固刑ののち昭和三十年假出所)には大変強い信頼を置かれていたとされています。
また、(壱)で述べたように東條英機にも一定の信頼を置かれていました。
他にも御前会議で終戦の聖断が下ったあと、慟哭する阿南惟幾陸軍大臣には
阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。
しかし、私には国体を護れる自信がある。
とやさしく話しかけられたそうです。
つまり、松岡洋右や陸軍の戦争推進派には強い不信感を抱いていたものの、
他の臣下たちには強い信頼を置かれていたと考えられます。
とすれば、連合国の「A級戦犯」の指定が非常に杜撰になされたものである以上、
昭和天皇が「A級戦犯」をいっしょくたに捉えていたというのは誤りだと思います。
早い話が「A級戦犯」に「不快感」を示していたとしてもそれは一部のことであり、
また、本質的には「靖國神社」に合祀したことに対して懸念を示されたのだと思います。
これは、皇室研究家の高橋紘さんも指摘していることですが、
昭和天皇は原則を非常に重んじる方でした。
靖國神社の原則は戦地で戦死した軍人を祀る神社です。
軍人以外にも従軍看護婦や電話交換手などの例外もありますが、
いずれも戦地で命を落とした方々です。
翻って、「戦犯」に指定された人たちは戦地で命を落としたわけではありません。
陛下はその戦犯を靖國神社に祀るのは原則に反していると考えだったのではないかと思われます。
最後に野嵜健秀さんの闇黒日記に大変共感する文章が掲載されていたので転載いたします。
昭和天皇と後の「戰犯」諸氏とは良く知つてゐる「身内」で、しかも天皇は「天皇の名に於て」と言はれつゝ自分の意嚮と全く無關係の政策が彼等に據つて實施されてゐるのを知つてゐた。(中略)
「身内」の葬祭についてだつて、イデオロギー的な發想でなく感情的な發想で考へるのは自然。
政權から干された自由主義者、或は反體制の共産主義者なんかと、政權に利用された天皇とで、當時政權にゐた後の「A級戰犯」に對する態度が根本的に異つてゐてもそれが當然だ。
つまり、昭和天皇の身内である「A級戦犯」に対する思いと、首相を含め我々一般国民との思いを同じ次元で語ってはならぬということです。
ですから、昭和天皇が私的にどう思われていようとも、一般国民や首相が靖國に行ってはならぬ道理はありません。
それに、昭和天皇ご自身も決して靖國神社自体を否定されたわけではありませんし、
むしろ、先に引用したように「戦犯」や神社に並々ならぬ思いを抱かれていました。
そんな靖國神社に松岡洋右のような軍人でもなければ戦死したわけでもなく、
しかも、先の本当の意味での「戦犯」が合祀されたことに「不快感」を抱かれたのではないでしょうか。
以上、述べてきた事は富田長官の日記が公開されていませんし、
なにより、昭和天皇の本心を知ることは不可能ですので
推測の粋を出ませんが、かように考えるのが一番自然だと思います。
ところで、これでは松岡洋右があまりにも浮かばれないので
松岡洋右の言葉も紹介いたします。
「三国同盟は僕の一生の不覚だった」
「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない」
(いづれも日米開戦の報を受けた時、病床で)
本人も失策だったとのちに自覚していたのです。
彼も国を滅ぼそうと思って行動したのではなく、
すべては日本の為に行動していたにすぎません。
結果的に失政だったとしても我々は「戦犯」と呼ぶべきではないでしょう。
「A級戦犯」がおよそ犯罪人ではないことはこれまで何度も述べてきたとおりです。
(故にすべて括弧附きで表記)
ですから、我々が靖國神社にお参りするときは
そこに国の為に殉じた方がいる以上、
わけ隔てなく手を合わせればよいだけです。
それ以上に御託や理窟を並べる必要はありません。
そして、日経や朝日が言うように本当に「大御心」を尊重するのであれば、
本来の大御心に従い靖國神社や戦没者に対してより敬意を払うべきなのであります。
附記
【(壱)~(参)の本文中に記載した以外の参考文献一覧】
『昭和天皇発言記録集成』防衛庁防衛研究所戦史(芙蓉書房出版)
『天皇陛下』松崎敏弥(泰流社)
『いわゆるA級戦犯』小林よしのり(幻冬社)
『グラフィックカラー昭和史14 昭和史と天皇』(研秀出版)
『昭和日本史 別巻 皇室の半世紀』(暁教育図書)
『人間天皇激動の80年』(双葉社)
『別冊宝島 日本「軍人」列伝』(宝島社)
『昭和天皇と激動の時代』【正論9月臨時増刊号】(産経新聞社)
『天皇陛下崩御 昭和の時代終わる』【アサヒグラフ 1月25日号 緊急増刊】(朝日新聞社)
『日本人と天皇』雁屋哲・作、シュガー佐藤・画(いそっぷ社)