あび卯月☆ぶろぐ

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昭和天皇とA級戦犯(参)

2006-07-30 14:34:59 | 政治・経済
壱、弐と続けて昭和天皇が松岡洋右や陸軍に対して不信感を持たれていたことを述べてまいりました。
では、「A級戦犯」に指定された人たちに対して全員「不信感」を持たれていたのか。
これは、はじめに述べたようにそうではありません。

終戦後の八月廿九日の天皇のお言葉。

戦争責任者を連合国軍に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、
自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか。
(『木戸幸一日記』)


九月十二日には閣議で「戦争犯罪人」を日本国内で処罰することを連合国軍に申し入れる決定がなされました。
そのときは参内した東久邇宮首相に対して

敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗てはただ只管忠誠を尽くしたる人々なるに、
之を天皇の名に於いて所断するは不忍ところなる故、再考の余地はなきや。
(『木戸幸一日記』)


と述べられています。
ここでは「戦犯」に対して大変同情されています。
「退位でもして納める訳には行かないだろうか。」や
「何れも嘗てはただ只管忠誠を尽くしたる人々」と述べられていますので
相当強いお気持ちがあったと察せられます。
A級戦犯に指定された人の中でも殊に内大臣の木戸幸一(終身禁固刑ののち昭和三十年假出所)には大変強い信頼を置かれていたとされています。
また、(壱)で述べたように東條英機にも一定の信頼を置かれていました。
他にも御前会議で終戦の聖断が下ったあと、慟哭する阿南惟幾陸軍大臣には

阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。
しかし、私には国体を護れる自信がある。


とやさしく話しかけられたそうです。

つまり、松岡洋右や陸軍の戦争推進派には強い不信感を抱いていたものの、
他の臣下たちには強い信頼を置かれていたと考えられます。
とすれば、連合国の「A級戦犯」の指定が非常に杜撰になされたものである以上、
昭和天皇が「A級戦犯」をいっしょくたに捉えていたというのは誤りだと思います。
早い話が「A級戦犯」に「不快感」を示していたとしてもそれは一部のことであり、
また、本質的には「靖國神社」に合祀したことに対して懸念を示されたのだと思います。

これは、皇室研究家の高橋紘さんも指摘していることですが、
昭和天皇は原則を非常に重んじる方でした。
靖國神社の原則は戦地で戦死した軍人を祀る神社です。
軍人以外にも従軍看護婦や電話交換手などの例外もありますが、
いずれも戦地で命を落とした方々です。
翻って、「戦犯」に指定された人たちは戦地で命を落としたわけではありません。
陛下はその戦犯を靖國神社に祀るのは原則に反していると考えだったのではないかと思われます。

最後に野嵜健秀さんの闇黒日記に大変共感する文章が掲載されていたので転載いたします。

昭和天皇と後の「戰犯」諸氏とは良く知つてゐる「身内」で、しかも天皇は「天皇の名に於て」と言はれつゝ自分の意嚮と全く無關係の政策が彼等に據つて實施されてゐるのを知つてゐた。(中略)
「身内」の葬祭についてだつて、イデオロギー的な發想でなく感情的な發想で考へるのは自然。
政權から干された自由主義者、或は反體制の共産主義者なんかと、政權に利用された天皇とで、當時政權にゐた後の「A級戰犯」に對する態度が根本的に異つてゐてもそれが當然だ。


つまり、昭和天皇の身内である「A級戦犯」に対する思いと、首相を含め我々一般国民との思いを同じ次元で語ってはならぬということです。
ですから、昭和天皇が私的にどう思われていようとも、一般国民や首相が靖國に行ってはならぬ道理はありません。
それに、昭和天皇ご自身も決して靖國神社自体を否定されたわけではありませんし、
むしろ、先に引用したように「戦犯」や神社に並々ならぬ思いを抱かれていました。
そんな靖國神社に松岡洋右のような軍人でもなければ戦死したわけでもなく、
しかも、先の本当の意味での「戦犯」が合祀されたことに「不快感」を抱かれたのではないでしょうか。

以上、述べてきた事は富田長官の日記が公開されていませんし、
なにより、昭和天皇の本心を知ることは不可能ですので
推測の粋を出ませんが、かように考えるのが一番自然だと思います。

ところで、これでは松岡洋右があまりにも浮かばれないので
松岡洋右の言葉も紹介いたします。

「三国同盟は僕の一生の不覚だった」
「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない」
(いづれも日米開戦の報を受けた時、病床で)


本人も失策だったとのちに自覚していたのです。
彼も国を滅ぼそうと思って行動したのではなく、
すべては日本の為に行動していたにすぎません。
結果的に失政だったとしても我々は「戦犯」と呼ぶべきではないでしょう。
「A級戦犯」がおよそ犯罪人ではないことはこれまで何度も述べてきたとおりです。
(故にすべて括弧附きで表記)

ですから、我々が靖國神社にお参りするときは
そこに国の為に殉じた方がいる以上、
わけ隔てなく手を合わせればよいだけです。
それ以上に御託や理窟を並べる必要はありません。

そして、日経や朝日が言うように本当に「大御心」を尊重するのであれば、
本来の大御心に従い靖國神社や戦没者に対してより敬意を払うべきなのであります。



附記
【(壱)~(参)の本文中に記載した以外の参考文献一覧】
『昭和天皇発言記録集成』防衛庁防衛研究所戦史(芙蓉書房出版)
『天皇陛下』松崎敏弥(泰流社)
『いわゆるA級戦犯』小林よしのり(幻冬社)
『グラフィックカラー昭和史14 昭和史と天皇』(研秀出版)
『昭和日本史 別巻 皇室の半世紀』(暁教育図書)
『人間天皇激動の80年』(双葉社)
『別冊宝島 日本「軍人」列伝』(宝島社)
『昭和天皇と激動の時代』【正論9月臨時増刊号】(産経新聞社)
『天皇陛下崩御 昭和の時代終わる』【アサヒグラフ 1月25日号 緊急増刊】(朝日新聞社)
『日本人と天皇』雁屋哲・作、シュガー佐藤・画(いそっぷ社)

昭和天皇とA級戦犯(弐)

2006-07-29 23:26:45 | 政治・経済
前回の続きです。前回に引き続き引用文が多くなりますが、
新聞やネット上でもあまり触れられない発言を多く採用いたしましたので敢えて多く掲載したいと思います。


今回、述べたいことは昭和天皇は陸軍に対して大きな不信感を抱いていたとうことです。
「不快感」と言ってもよいかも知れません。
例えば満洲事変の時は

自分は国際信義を重んじ、世界の恒久平和の為に努力している。
それがわが国運の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。
しかるに軍の出先は、自分の命令もきかず、無謀にも事件を拡大し、
武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。
ひいては列強の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることになっては真にあいすまぬ。
(『文藝春秋』昭和三十年十月号「天皇白書」特集号)


と述べられ、また
「陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒なことになったのだ」
とも仰っています。
そして、天皇は満洲事変の引き金となった張作霖爆殺事件に関わった陸軍の責任者を処分すると言って結局出来なかった田中首相を強く叱責され、それが元で田中内閣が総辞職するということも起きています。

そして、二・二六事件の時、天皇は叛乱軍と叛乱軍に同情的だった陸軍に激怒されています。

「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ 於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニシテ、朕ガ首ヲ絞ムルニ等シキ行為ナリ」
「陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使抔以テノ外ナリト仰セラレ、」
(いづれも『本庄日記』より)


わかりやすく言うと、一つ目は
「私が最も信頼する老臣を殺した。このような暴挙を行なった将校はどのような理由があっても赦(ゆる)されない」
というような意味。二つめは
「私が最も信頼する老臣を殺すことは、私の首を真綿で締めることと同じだ」
そして、三つ目は少し解説を要すのですが、
陸相らが事件をおさめる為に叛乱将校に対し勅使の派遣と自決を許可を上奏したときの天皇の返答です。
つまり、「自決させますので勅使を遣わせてください」と天皇に依頼したのに対し、
天皇は「自殺するなら勝手にしろ。このような奴らに勅使などもってのほか」
と仰ったわけです。
天皇の怒りが伝わってきます。
陛下が信頼されていた近臣が殺されたのですからそれも当然と言えましょう。
昭和天皇の陸軍に対する不信は、やはり、この事件が決定的だったのではないでしょうか。

さらに昭和十三年七月十一日に朝鮮の最北端・張鼓峰でソ連軍と日本軍が衝突し、
日本軍が張鼓峰を占領するといういわゆる張鼓峰事件が起きました。
同月二十一日にのちのA級戦犯で当時陸相だった板垣征四郎は
天皇にソ連へのさらなる武力行使の許可を求めました。
そのときの天皇の返答。

元来、陸軍のやり方はけしからん。
満州事変の柳条溝の場合といい、今回の事件の最初の蘆溝橋のやり方といい、
中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばである。
まことにけしからん話であると思う。
このたびはそのようなことがあってはならんが……。
今後は朕の命令なくして一兵でも動かす事はならん。
(『西園寺公と政局』)


板垣征四郎も直々に天皇のお叱りを受けていたわけです。
もう一つ、紹介いたします。
これはノモンハン事件の時に当時侍従武官でのちにA級戦犯として終身禁固をいいわたされた畑俊六に対してのお言葉。

満州事変のときも陸軍は事変不拡大といいながら、かくのごとき大事件となりたり

陸軍に対する昭和天皇の感想の紹介はこの辺で已めにいたします。
昭和天皇がどれほど陸軍に対して不信感を抱いていたか、
おわかりいただけたかと思います。

次号、まとめ。

昭和天皇とA級戦犯(壱)

2006-07-27 01:56:37 | 政治・経済
昭和天皇がA級戦犯に不快感を示したとされる富田メモが見つかって一週間が過ぎました。
ここで私の考えをまとめておきたいと思います。

私は最初にこの報道を知ったとき、
前の記事でも少し触れたように、別段驚きませんでした。
昭和天皇が「A級戦犯」の方々の一部にあまり良い感情を持っていないことは
あまり不思議なことではないと思っていたからです。

驚いた事はむしろこの報道の波紋の大きさでした。
右も左も大騒ぎになり、特に左派系マスコミは色めきたって
この昭和天皇のお言葉を武器に反靖國報道を繰り返しました。
普段、皇室を蔑ろにしている勢力が自分たちに有利な情報と見るや
こぞって皇室を政治利用することの欺瞞、無節操、没義道を感じた私は
二回に亙ってマスコミ批判の記事を投稿いたしました。

が、昭和天皇とA級戦犯のことについては特に触れないままで、
「昭和天皇が何故「A級戦犯」を嫌っていたかについては別の機会に譲るとして、」
とだけ書いてそのままにしていましたので、ここで詳しく述べたいと思います。

ところで、このメモは真贋が疑われていますが、
ここでは便宜上、「本物」であるとして意見を述べます。

まづ、最初に述べたい事は昭和天皇が「A級戦犯」を嫌っていたことが事実だとしても、
これは一部の「A級戦犯」に限ったことで、すべての人を嫌っていたわけではないと思います。
その点、『「昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感」報道に騒ぐ愚』のその箇所には語弊がありました。
そして、「不快感」を示したのは「A級戦犯」についてではなく、
「A級戦犯が靖國神社に合祀されたこと」でありましょう。

では、誰を嫌っていたか。
富田メモにはこうあります。

私は或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、

この「松岡」は松岡洋右と見るのが妥当でしょう。
昭和天皇は松岡洋右について『昭和天皇独白録』の中で以下のように批判しています。

「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」
「5 月松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった。」


また、同書で平沼騏一郎については

平沼は陸軍に巧言、美辞を並べ乍ら、陸軍から攻撃される不思議な人だ。結局二股かけた人物と云ふべきである。

と述べられています。
一方、東條英機については

元来東條と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。(中略)東條は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中々良い処があつた。(中略)私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く

と述べられており、一定の信頼を置かれていたことがわかります。

昭和天皇が松岡洋右を特に批判している理由は
当時、外相だった松岡が「日独伊三国同盟」を独断で締結したことにあります。
というのも、天皇は三国同盟に反対していたからです。
『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)によると、同盟が締結された際、

独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、
この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる


と述べられたとあります。
そして、別の資料によると近衛文麿首相には

この条約は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。
そうなったら、日本の自立はどうなるのか。
こののち長年月にわたって大変な苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。
その覚悟がおまえにあるか(『岡田啓介回顧録』より)


と述べられました。
それにしても昭和天皇の先見の明には驚かされます。

以上のように三国同盟に反対だった昭和天皇にしてみれば、
松岡洋右の行動は「不快」であったに相違ありません。
また、「独断で」締結したことも天皇が松岡を痛烈に批判した理由でしょう。
そして、このことからもメモにある「白取」は当時の駐イタリア大使・白鳥敏夫だとみられます。

長くなりそうですので以下、次号。

報道ステーションは「報道」番組か

2006-07-26 22:43:21 | マスコミ・新聞
先程、報道ステーションである事件を報道していたのですが、
その報道の仕方が

・兵庫県沖で操業していた漁船が空に戦闘機を発見した。
・その後に、ミサイルのようなものが降ってきて海に水柱が上がった。
・漁船の乗組員は「すわテポドンか」と思い、緊急に非難した。

というところまでを思わせぶりに報道して、
その「ミサイルのようなもの」の正体は明かさぬまま、
漁民や関係者の証言を流しつづけていました。
視聴者はその「ミサイル」の正体がわからぬまま、
だらだら証言等を聞かされるわけです。

結局、その「ミサイルのようなもの」は自衛隊の演習用のフレアだったのですが、
それはさておき、
なぜ、このような回りくどい報道の仕方をするのか。
バラエティー番組のように種明かしをじらす理由が理解出来ません。

報道番組とは「事実を迅速に正確に伝えるもの」であるとするならば、
報道ステーションは到底「報道番組」たり得ません。
せいぜい悪質なバラエティー番組です。
無論、私は報道ステーションやニュース23の類を初めから「報道番組」などと思ってはいませんが、
それにしても最近の報道番組の劣悪さは目に余るものがあります。

余計な演出、解説、感想を述べず、事実だけを正確に迅速に伝える番組はないものでありましょうか。

「あまカラ日記」復活!

2006-07-26 03:15:10 | 雑記
今年の四月に閉鎖した「あまカラ日記」がこの度「あまカラ雑記」と装いを改め復活しました。

先日、福田逸先生からコメントをいただき喜んでいたところ、
今度はあまカラさんから「気まぐれでまた再開しました。」という書き込みをいただいて、
連続して歓喜した次第でありました。

あまカラさんについては以前にも少し紹介いたしましたが、
福田恆存さんをはじめ、高島俊男さんや呉智英さんの愛読者であらせられます。
私もこの御三方の愛読者であり、それがきっかっけでブログにお邪魔するようになり、
いつも大変楽しく拝見させていただいておりました。

もちろんこの御三方の本に限ったわけではなく
数多くの本を読まれていて、その読書量は半端ではないとお見受けいたします。

何よりあまカラさんの文章は脳味噌を刺戟させられる。
本や落語の感想以外にも世相や社会問題を痛快な切れ味の文章で評論されて、読んでいて本当に楽しい。
昨今、猫も杓子もブログブログということで、毒にも薬にもならないブログが氾濫してしまい、
玉石混交というより、玉石の石の方ばかり増えている有り様です。
(私のブログもいうまでもなく「石」なのですが)
が、その中にあって、あまカラさんのブログはまさに「玉」。

当ブログのブックマークにリンクを張らせていただいたので、
みなさんも是非、一度、御覧になってください。


私も「あまカラ雑記」をお手本に今後とも精進してゆきたいと存じます。

朝日ハ勅語ヲ以テ弾丸ニ代ヘ政敵ヲ倒サントスルモノナリ

2006-07-21 21:38:19 | マスコミ・新聞
朝日新聞、社説に二面性…皇室の発言に対し

朝日新聞が皇室に対する二面性を露呈している。

 同紙は21日付の社説で「A級戦犯合祀(ごうし) 昭和天皇の重い言葉」として、昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示されていたことについて、「賢明な判断だったと思う。中国などが合祀を問題にする前の主体的な判断だったことを重く受け止めたい」などと評価。「だれもがこぞって戦争の犠牲になった人たちを悼むことができる場所が必要だろう」と訴えた。

 ところが、2月2日付の社説では、「寛仁さま 発言はもう控えては」として、寛仁親王殿下が女性・女系天皇に異議を唱えられたことに対し、「憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ」「発言が政治的に利用される恐れがある」「発言を控えては」などと、言論封殺まがいの苦言を呈しているのだ。

 同じ新聞の社説で、これだけ主張に差があるとは驚くしかない。皇室を政治的に利用しているのは一体誰なのか。

http://www.zakzak.co.jp/top/2006_07/t2006072126.html


私が昨日書いたことを代弁してくれるかのごとき記事でしたので転載いたしました。
まさにこの記事あるように一方で「皇室を政治利用するな」と言い、一方で自ら進んで皇室を政治利用しています。
朝日新聞の主張は筋が通っていないと思う所以です。

嘗て憲政の神様とうたわれた尾崎行雄が云ったことは今の時代にも通じます。
一九一三年の第一次護憲運動の際、尾崎行雄は第三次桂内閣を評して、

「彼等ハ 玉座ヲ以テ胸壁トナシ 詔勅ヲ以テ弾丸ニ代ヘテ政敵ヲ倒サントスルモノデハナイカ」

と演説しました。
この演説は要するに天皇を政治利用している桂内閣を痛烈に批判したものですが、
平成の今となっても状況は変わっていないようです。
ただ、天皇を利用する者が政府ではなくマスコミになったという点でより悪化しているのかもしれません。

ところで、國學院大學の大原康男教授が述べたように
「メモはメモであり、そのまま肉声かどうか分からない」わけですし、
且つ、メモの真贋がはっきりしない以上、
ここで陛下のお言葉の真意について論う気はありません。

よって、私が申しあげたい事は皇室を政治利用する愚と、
朝日新聞をはじめとした反日メディアの主張は欺瞞である、
ということに尽きます。

「昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感」報道に騒ぐ愚

2006-07-20 23:54:22 | 政治・経済
昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
 
昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 (日本経済新聞-七月廿日木曜)



今日の日本経済新聞の一面に上のような記事が掲載されておりました。
他紙では報道されていなかったから、多分、日経新聞の独占記事です。
これに喜んだのは反日左翼マスコミ。
報道ステーションでもニュース23でも鬼の首を取ったかのごとく特集を組んでいました。
朝日は寛仁親王が女系天皇に苦言を呈された時は「皇族は政治に口出しをするな」と云いいましたが、
皇室の方が自分たち都合のいい発言をした場合は大いに利用するようです。
あぁ、なんと節操の無い事か。

それにしても、昭和天皇がA級戦犯とされた人たちに良い感情を持っていなかったことは以前から知られていたことですし、
そういう事情でA級戦犯合祀後に靖國神社に参拝されていないことも常識だと思っておりました。
毎日新聞記者、岩見隆夫氏が書いた平成四年発行の『陛下の御質問』にも
中曽根康弘総理(当時)が靖國参拝を取りやめたことについて、
陛下は「きわめて適切であった」と述べられたと記載されています。

それゆえ、今回マスコミの騒ぎっぷりをみて馬鹿馬鹿しく感じました。
それとも、本当にいままで知らなかったのでしょうか。
そうだとしたら、無知も甚だしいですね。
報道ステーションでは「今回の件で靖國神社参拝論議に影響を及ぼすのは必至」と古舘伊知郎に言わせていましたが、
「必至」というのは朝日の願望であって、
以前からわかっていたことが「議論に影響を及ぼす」道理が理解できません。

いづれにいたしましても、A級戦犯が犯罪者である道理は無く、
靖國神社にA級戦犯が祀られている事に問題があろうはずはありません。
それを問題にしているのは無知なマスコミとそれに追随する反日分子、そして、中国、朝鮮であります。
それでもなおA級戦犯を「犯罪者」だと主張する方にお尋ねしたい。

「A級戦犯の名を全員挙げた上で彼らがいかなる罪を犯したのか具体的に説明されよ。」

おそらく、批判する手合で全員の名前を挙げる事が出来る人は少ないでしょうし、
いかなる罪を犯したのか説明できる者は皆無でしょう。
それもそのはず、A級戦犯とされた人たちは国際法上いかなる罪も犯してないからです。
百歩譲って、戦時中に失政があったとしてもそれは国内で批判されることで、
他国から「戦犯」と謂われる筋合いがないことは言うまでもありません。

昭和天皇が何故「A級戦犯」を嫌っていたかについては別の機会に譲るとして、
我々は今回の件で騒ぐ愚かしさを知るべきであります。

『福田恆存評論集』刊行決定!(正論「私の写真館」福田逸)

2006-07-11 00:58:36 | 歴史・人物
今月号の正論の「私の写真館」は何と福田逸さんでした。
お父上、福田恆存さんのおそらく初公開と思われる貴重な写真も掲載されていて福田ファンの私としては嬉しい限り。
どの写真も家庭人としての福田恆存さんが垣間見れます。

そして福田逸さんに関する様々写真と共に逸さん自身による解説文も併せて掲載されているのですが、その文もなかなか興味深いものがありました。
例えば、逸さんのお兄さんは日産自動車のエンジニアとして活躍されていることや、福田恆存さんは元々建築家を目指していたこと、などなど。
そして、驚いた事は逸さんと妻・住子さんとの結婚式の仲人をつとめた人が渡部昇一さんだったということ。
以下、その箇所を引用いたします。


渡部昇一先生(前列左端)の提案で、院生仲間で田中美知太郎先生(その隣)の話を聞く会を催した。私は後列右端。
当時の上智大学は渡部先生をはじめ、シェークスピア研究の安西徹雄先生(渡部先生の後ろ)など畏敬すべき先生方がそろっていた。渡部先生には仲人もお願いした。先生の授業で私がノートを借りたのが同級生の妻・住子(すみこ)とのなれそめ=昭和47年5月


私はてっきり福田先生の関係者と渡部昇一さんは仲が悪いものだと思っておりました。
というのも、以前、渡部昇一さんは『人生は論語に窮まる』という本の中で福田恆存さんについて
スマートで語学も出来て売れる本を書く清水幾太郎に嫉妬していた、と書いたり、「福田恆存は英文科出身だったけれども、実はそれほど英語が読めなかったようです。」と書いて、
福田ファンの方々から痛烈な批判をされていたからです。
もちろん私も渡部さんのこの意見は見当違いも甚だしいと思っていますが、
そんなわけで、福田先生とも仲が悪いのだと思っておりました。

が、逸さんは渡部さんのことを今でも「先生」と呼んでいるようですし、
まして、仲人を依頼したくらいですから険悪なわけがありません。
それに、逸さんが渡部さんの教え子だったということも初めて知りました。
そうすると、渡部さんのあの失礼な発言も身内だからこそ云ったということなんでしょうか。
いや、いづれにせよ賛成はいたしませんが。

そして最後に大変嬉しいお知らせが。


現在、『福田恆存評論集』刊行の準備を進めている。文藝春秋の『福田恆存全集』を定本に、代表的な作品、現代の人たちに読みやすい作品を選んだ。未発表原稿のほか、初めて活字になるものも含める。全十巻程度で来春刊行予定。今、読んでみると、父が日本について語る言葉は最後まで変わっていない。その一貫性に驚いている

現在、福田恆存さんの書籍はほとんどが絶版になっていて、
『福田恆存全集』も例外ではありません。
それが、この度、『福田恆存評論集』という形で復刻されることだけでも嬉しいのですが、なんと未発表原稿も含まれるようです。
胸が躍るとはこのことを云うのかと実感した次第でありました。

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回

2006-07-09 14:27:21 | 漫画・アニメ
『涼宮ハルヒの憂鬱』の最終回を観た。(福岡では七月八日深夜放送)

以前に「ハルヒ」について「どうしても好きになれない」と書いたが今もその気持ちは変わっていない。

この作品について「言葉 言葉 言葉」の野嵜健秀さんが日記で
涼宮ハルヒ、神樣なのだけれども、良い男を見附けられないで欲求不滿に陷つて、苛々して、世界をぶつ壞さうと思つてゐたけれども、キョンくんが現はれたので――と、さう云ふ話なんですな。
と述べられていたが正に的確な指摘だと思う。

最終回はキョンとみくるがいちゃつく場面を見てしまい、
ハルヒがブチ切れて世界を滅ぼそうとする話。
結局、ハルヒはキョンが好きだったわけだが、
私はあんなツンデレは認めない。
ハルヒのような娘が現実にいたとすれば気違い扱いをされるか、
あるいは本当に気違いであるだろう。

それはさておき、「ハルヒ」は賛否はともかくとして大変な人気であるという。

嘗て、社会現象にまでなったエヴァンゲリオンという作品があった。
(現在でも月刊少年エースでは漫画の連載が続いている)
かの作品がそれほどの人気を博したのには内容のクオリティの高さも去ることながら、
作品中にキリスト教における謎を散りばめたり、心理学の用語を用いて、
謎が謎を呼ぶストーリーに仕立て、そして最後に実験的な最終回をもってきた事にある。

「ハルヒ」の人気も似たようなところにあって、
ハルヒは何者なのかという謎が謎を呼ぶ展開や
長門や古泉、みくるによる似非科学的な解釈によって視聴者を惹き附ける。
ところで、長門有希は外見も性格も名前も綾波レイがモチーフである。

仮にそういった謎の設定がなくても「ハルヒ」は萌えアニメとして
それなりの話題になりえただろう。
が、そこに謎や「ブンガク的」な要素を加えることによって、今期一番の人気作品になった。
私は似非科学も似非文学も嫌いなので、萌えなら萌えに徹した作品であればいいと思うのだが、
それだけじゃモノ足りないと思う人も多いのだろう。

「ハルヒ」において何度もキョンが口にする言葉に「日常」というものがある。
これは「非日常」という単語とセットで使われるが、
キョンは「日常」にどこかつまらなさを感じている。
当然、ハルヒはキョン以上に「退屈な日常」につまらなさを感じている。
最終回、キョンは非日常なる異次元空間に飛ばされ「日常」の有り難さに気づく。

人は皆「当り前」と思っていることに「有り難味」を見いださない。
その「当り前」を失って初めてその「有り難さ」を実感する。
平和が当り前になるとミサイルが飛んでこない限りその有り難味が実感できないのと同じである。
別に新聞のコラムのように無理矢理時事問題と結びつける気はないが、
「ハルヒ」の最終回をみて感じた事はおよそそんなことだった。

私は最終回でハルヒとキョンがちょっとした恋仲になったことよりも
キョンが日常の有り難味に気づいた点が白眉であったと思う。
そして全話を通して唯一共感できた箇所であった。


さて、ミサイル騒動から四日たって我々日本人は呑気な日常を過ごしている。
果てはこんなくだらない駄文を綴る手合が居る。
これも野嵜さんが仰るように
「海の向うの事」なんて、日本人は氣にしないよ。三日經つたらみんな忘れてる。
ということなのである。

北朝鮮がミサイル発射

2006-07-05 23:58:28 | 政治・経済
<北朝鮮ミサイル>7発発射、日本海に落下 テポドン2号も

 政府に入った情報によると、北朝鮮が5日未明から同日夕にかけて7発のミサイルを発射、いずれも日本の国土から500~700キロ離れた日本海に落下した。政府は3発目は米国の一部も射程に入る長距離弾道ミサイル「テポドン2号」とみている。被害は確認されていない。政府は小泉純一郎首相を議長とする安全保障会議を開き、北朝鮮への経済制裁を決定。同日午前記者会見した安倍晋三官房長官は「北朝鮮に対して厳重に抗議し、遺憾の意を表明する」との官房長官声明を発表した。
 政府によると発射時間は午前3時32分、4時4分、4時59分、7時13分、7時半、8時17分、午後5時22分の7回。飛翔(ひしょう)時間はいずれも約6分、距離は300~450キロと推定される。
 テポドン2号とみられる3発目は北朝鮮北東部の舞水端里から発射された模様。額賀福志郎防衛庁長官は午前10時すぎの会見で「失敗した可能性がある」と述べた。残りの6発は比較的射程の短い弾道ミサイル「スカッド」や「ノドン」とみられ、南東部沿岸から発射されたという。安倍氏は同日午後の記者会見で「(新たな)発射の懸念がなくなったとの認識はない」と述べ、警戒を強めていく考えを示した。
 政府は午前4時に首相官邸の危機管理センターに官邸対策室を設置。安倍、額賀両氏、麻生太郎外相らが集まった。午前6時半過ぎには米国のシーファー駐日大使が官邸を訪れ、安倍氏らと会談。会談後、シーファー氏は記者団に「米国は世界中の同盟国とともに、国連での話し合いを進めていく」と語った。
 北朝鮮は02年9月の日朝平壌宣言で「ミサイル発射のモラトリアム(凍結)の継続」を表明しており、政府は今回の発射が同宣言に違反し、日本の平和と安全を侵す恐れがあると判断している。
 北朝鮮の弾道ミサイル発射は98年8月31日の「テポドン1号」以来。北朝鮮は5月からミサイル発射の準備を進めており、政府は外交ルートを通じ自制を求めてきた。
(毎日新聞) - 7月5日20時25分更新



北朝鮮がミサイルを七発発射した。
私はさほど驚かなかったし、怖いとも思わなかった。
また、ことさら怒りも込み上げてこない。

これが日本だから北朝鮮は無事で済んでいるが、
他の国、特にアメリカに同じようなことをすれば北朝鮮はただでは済まされないだろう。
我々日本人はやはり平和を愛する民族らしい。

それは洵に結構なことだが、平和憲法を保守すれば他国から侵掠されることはなく平和に暮らせるという幻想を抱いている手合はそろそろ目を覚まして欲しい。
それともこの期に及んで、日本がミサイル防衛を進めたり、偵察衛星を打ち上げたりすると軍国主義になるとまだ云うか。

が、朝日新聞や社民党などの親北朝鮮派には「目を覚ませ」などとは云わない。
むしろ、いまこそ親北朝鮮派のマスコミや団体は日本人に向かってこう云うべきである。
「日本が北朝鮮をいじめたからこうなったのだ。悪いのは日本である。まだまだ謝罪が足りない。日本人は永遠に北朝鮮に謝罪し、金や物資を支援すべきである」と。
これこそが筋を通すということである。

ところで、北朝鮮のミサイル問題で日本中が揺れる中、韓国が竹島海域に侵入した。
火事場泥棒的な発想である。
北朝鮮が今回やったことは堂々としていてるが、
韓国がやっていることは卑怯である。
私は北朝鮮よりも韓国の行動に怒りを覚える。
そしてそれ以上に、自国の領域を侵犯されても手をこまねいて見ている我が国の現状に最も怒りを覚える。
こんなことだから北朝鮮にもミサイルを打たれるのだ。

それにしても、歴史を学ばないのはどこの国も同じようで、
歴史を顧みて、日本人のナショナリズムが高揚するのは他国から干渉ないしは侵掠されそうになった時である。
日本は外圧無しには変化しない国で、
そっとしておけば、ずっと平和ボケしている。
北朝鮮に限らず韓国も中国もわざわざ日本人のナショナリズムを煽らなくてもいいのに。
近年の日本の右傾化の原因は云うまでも無く中国、韓国、北朝鮮である。

さて、それにしても非常に不謹慎な言い方だが、日本国民にとって話し合いではどうにもならぬことがあると認識する為には良い機会だったかもしれない。

橋本元首相死去にまつわる雑文

2006-07-03 23:30:59 | 歴史・人物
近親者のみで橋本元首相密葬

 1日死去した橋本龍太郎元首相の密葬が3日午前、東京・高輪の高野山東京別院で執り行われた。「静かに送り出したい」とする遺族の意向で近親者のみで行われ、政界からの参列者は綿貫民輔元衆院議長、野中広務元自民党幹事長、鳩山由紀夫民主党幹事長ら少数にとどまった。
 政府・自民党はこれとは別に、内閣・自民党合同葬を行うことを検討している。 
(時事通信) - 7月3日15時1分更新



一日に橋本龍太郎元首相が死去しました。
体調を崩していることは聞いていたのですが、
ここまで悪いとは思ってもみなかったので
前日の危篤の知らせと翌日の訃報の知らせには驚きました。

私が初めて橋本龍太郎氏を知ったのは
小学五年生の時、「小学五年生」という小学館の雑誌に掲載されていた記事を読んだ時。
記事の内容は「次期総理は多分この人」という内容で、
橋本氏についての簡単な紹介が書かれていたと思います。
当時の首相は社会党の村山富一だったのですが、
編輯部の予想通り、平成八年の一月には橋本氏が首相に就任しました。
それにしても、小学生向けの雑誌でもポスト小泉ならぬポスト村山を予想していたとは興味深いですね。
今の小学五年生でも盛んに「ポスト小泉は誰か」のような記事が載っているのでしょうか。

さらに、その記事には橋本龍太郎氏のトレードマークである
ポマード(実際は水生ジェルとのこと)で固めたオールバックに注目し、
「君もこれでハシリューヘアー」と題してポマードの使い方とオールバックのセットの仕方の解説がなされていました。

今考えてみてもくだらない記事なのですが、
小学五年生の私は「なんかキザな人がいるもんだ」という印象を抱いたのみでありました。

以後、橋本氏の評価はおよそそれと変わっていません。
というより、あまり好きな政治家ではなく、
今年の三月には中国に訪問し、これは、ほとんど朝貢外交の様相を呈しており、
「議員を辞職したくせに余計なことをするな」と
非常に批判的な目で見ていました。

というより、橋本氏の訪中は自分の存在をアピールしたいが為の行動に映りました。
が、今にして思えば、それは案外間違いではなく、
死期を悟った同氏が最後に一花咲かせようと思ったのかもしれません。
いづれにせよ「至らぬこと」であるのは変わりないのですが。

ところで、マスコミの報道で気になったのことが二つ。

一つ目は私が知りうる限りで唯一、讀賣新聞のみが「橋本龍太郎」の「龍」を略字で「竜」と表記していたこと。
これは酷い。
戦後に略字をもっとも推奨した朝日新聞でさえ「龍」と表記しています。
「保守の大黒柱」と呼ばれる讀賣がどうしたことでしょうか。
新聞に限らず人名は正字を用いるのが原則でありましょう。

二つめは日本テレビ系の朝の報道番組「スッキリ!」で橋本氏が賞讃されていたこと。
日本では生前の行いが多少悪くても死ねば良人になりますが、
なんだか気持ち悪いほど誉められていました。
それにしても三船美佳が「カッコイイ」と述べるなどおよそ政策とは関係の無い評価もあったりして、
ワイドショーだからせむかたなしと改めて思い知らされた次第でありました。

漱石と自己批評の精神

2006-07-01 01:05:24 | 歴史・人物
読売ウィークリーをパラパラめくっていると
脳学者の茂木健一郎さんの「脳から始まる」という連載に
「漱石に見た客観的な自己批評の精神」と題された興味深い文章が綴られていました。

茂木さんは夏目漱石が好きで中でも『坊つちやん』『吾輩は猫である』『三四郎』をよく読み返すのだそうです。
そして「漱石の凄いところは、何回読み返しても新鮮な発見があること」だといいます。
たしかに漱石に限らず作品というものは読み返すたびに新たなる発見があるものですが、
漱石の作品はそういう傾向が強いのでしょうね。

例えば『坊つちやん』は子供の頃は愉快な冒険談として読んでいたが、
大人になって再読すると人間社会の中で生きることの難しさを描いたように思えてくる云々。
そして、茂木さんは坊ちゃんは教頭や野だいこをやっつけたつもりで実は敗北している、と述べる。
確かに、坊ちゃんは学校という名の管理社会に順応できず、
教頭らをやっつけたつもりで学校から逃げただけなのですね。
そう考えると『坊つちやん』はすこし寂しい作品のような気がします。

そして私が感銘を受けたのは次の箇所。

赤シャツとは実は漱石のことである。
そのような事実に気付かされた時は本当に驚いた。
なんとなく漱石は坊っちゃんだと思っていたが、考えてみると当時は珍しい「学士様」で、
英文学を読むというのだから、実際に松山に赴任した経験を持つ漱石の似姿は赤シャツ以外にあり得ない。


これには小生、目からウロコでありました。
茂木さんが言うように本当に驚きました。
なるほど、言われてみれば確かに赤シャツは漱石です。

そして、茂木さんは
自分自身の内に潜むいやらしさを描いて、しかも、あっけらかんと笑っている」ことは並大抵には出来る事ではなく、
「漱石のように自分を突き放し、客観的に批評する自己批評の精神」こそ、すぐれた創造者には是非とも必要だと説く。

他にも『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の

 彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な微候をあらわしている。
 その癖に大食を食う。大食を食った後でタカジヤスターゼを飲む。
 飲んだ後で書物をひろげる。
 涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。


という描写を引用して、
「自分自身をここまで諧謔の中に笑える人がいるだろうか?」と
漱石の自己批評精神を絶賛。

さらに、茂木さんは
「昨今の日本人に欠けているのは自己批評の精神ではないかと思っていた。」
と述べ、最近はナルシストなクリエイターが多いことを嘆いていました。
また、「自己批評は、大脳皮質の前頭前野を中心とする自我の中枢の働きによって育まれる。」と脳学者らしい指摘も。

漱石が一流の文学者であったことは
一流の自己批評の精神があったことと無関係ではない事を
茂木さんの文章を読んで初めて気づかされました。
いやはや、小生まだまだ文学のブの字も理解していないのですけれど。

さて、最近の日本人には自己批評の精神が欠けているかどうかの考察は別の機会に譲るとして、
自己批評の精神が創造者に是非とも必要だということはまったくその通りだと思います。

例えば、昨今、大流行のブログですが、
ナルシズムに満ちた「自分語り」のブログほどつまらなくて不快なものはありません。
しかも、そういうブログは案外多い気がいたします。

一方、読んでいて楽しいブログは概して自己を客観的に捉えているブログです。
以前、ブログ女王といわれている眞鍋かをりさんが
ブログの鉄則として「自虐的であれ」と書いていましたが、
流石、「女王」と呼ばれるだけあってそこのところを理解していらっしゃる。

ブログに限らず読んでいて楽しい文章は著者が自分を客観視しているものだと思います。

翻ってこの「あび卯月☆ぶろぐ」はどうか。
うーむ・・・いつもいつも、若造のくせに説教じみたことをエラソーに云っていますね。
読者が増えないはずです(笑)
よーし、ここは一つ漱石先生や茂木先生を見習って自己批評の精神を身に附けたいと思います。

以下、次号(?)。