あび卯月☆ぶろぐ

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革命後のイラン 人権抑圧国家の実態

2009-06-24 23:22:18 | 歴史・人物
日々、イラン情勢が伝えられている。
今般行われた大統領選挙は保守派のアフマディネジャド大統領(現職)の圧勝に終わったが、改革派のムサビ支持者が選挙には不正があったとして大規模な抗議デモを行っているという内容だ。
軍隊はこのデモの鎮圧にあたり、死者も出た。

普段、あまり報道されることのないイランという国だが、この機会に色々とイランについて詳しい説明がなされるかと思うと期待はずれだった。
昨日の「報道ステーション」ではイランは1979年に民衆が王制を倒すというイラン革命をやり、亡命していた最高指導者ホメイニ師を向かえ現体制に移行したとまでは説明してたが、革命の結果イランの国情がどうなったかは一切触れないまま。
これじゃあ、革命の意義がわからない。
どころか、民衆が悪い王様を追い出して民主的な国をつくりましためでたしめでたしと視聴者が受け取ってしまう可能性もある。

はっきりいって、イランは日本人の価値観からみればとんでもない人権抑圧国家なのだが、普段、北朝鮮やミャンマーに向けられる人権抑圧国家という非難は今回の一連の報道では鳴りをひそめている感がある。

またそのパターンか、と思われるかもしれないが、イランについて少しばかり書いておく。

ホメイニ師の革命が起こる前、この国は宗教観は日本によく似ていた。
イスラム圏にありながらイランは二十世紀以降、脱イスラムを宣して近代化に努めた。
近代化の過程で民族衣装を脱ぎ捨てたのは日本とイランだといわれている。
地理的な理解からイランをアラブの一国と思っている人も多いが、この国の主要民族はアーリア系のペルシャ人で言語もペルシャ語が公用語だ。
アラブ連盟にも加盟していない。

ペルシャ人は元来、食べ物、酒、踊り(ベリーダンス)、そして麻薬が大好きな享楽的な民族だった。
食べ物で云うと日本にある野菜や果物、米も大根も白菜もスイカもペルシャが原産。
酒はブドウ酒(つまりワイン)が有名でこれはアレキサンダー王を虜にした。
ペルシャの踊りはベリーダンスなどと云われるが、イスラムに追われたササン朝ペルシャの民がシルクロードを経て唐の都・長安に他のペルシャ文化と共に持ち込んで白楽天や李白を魅了させている。
麻薬で云うと、阿片戦争で有名なアヘンはペルシャ語のアピンが原語。
アピンとは高級なマリファナ樹脂からとれるねっとしとした褐色の塊のことだ。
これをペルシャ人は食後に酒と共に楽しんだ。
ところで、英語で「楽園」を意味するパラダイスの語源も実はアケメネス朝ペルシャのダリウス大王(ダレイオス1世)が作らせた庭園で、大王はそこに鹿や猪、虎、ライオンを放しハンティングを楽しんでいる。
そんなわけで、ペルシャは禁欲を絵に描いたようなイスラム教とは一線を画す文化を持っていた。

元々、ペルシャ人は拝火教とも言われるゾロアスター教を信仰していた。
ゾロアスター教の教えは天地創造、復活、救世主、最後の審判などのちの
ユダヤ教やキリスト教に大きな影響を与えている。
そんなペルシャにイスラム教が流入するのは七世紀中頃。
ペルシャ軍をイスラム軍がカーディシーア(636年)、ネハーベント(646年)の二つの戦い破った後のことだが、ゾロアスター教の持つ論理性に馴れたペルシャ人にはイスラムの教えはなかなか馴染まなかった。

そこに生れたのがシーア派でアラブ諸国が信仰する本家スンナ派と違ったコーランの解釈をとり、シーア派はイラン独自の宗教として栄えた。
例えば、スンナ派で厳しく禁じられている偶像崇拝をシーア派では部分的に是認されているし、日本人がよくやる神様に対する願掛けもスンナ派ではタブーだがシーア派ではOK。
これらはゾロアスター教からの影響が強い。
このあたりの宗教の換骨奪胎も日本に伝わったのちの仏教のあり方と似てなくも無い。
食べ物でもイスラム教徒が食べない事で有名な豚肉をはじめ、貝や海老、カニなども普通に食べてきた。
他のイスラム圏では極端に低い女性の地位も比較的高く、ファションも自由に楽しんでいた。
女性とは反対にムッラーと呼ばれるイスラム教の聖職者は他のアラブ諸国と違い社会的地位はそんなに高く、仕事は日本の僧侶や神官のように葬式や結婚式の仕切りや立会い。

そんなイランに革命が起きる。
1979年のことだが、原因はパーレビー皇帝の専制と急速な近代化と説明されている。
民衆が王制を倒し、ホメイニ師とそれを支えるイスラム協会(アンジョマネ・イスラム)がやって来た。
民衆の期待を大きく裏切り、ホメイニ師は恐怖政治を始めた。
旧王制関係者は次々に処刑され、国民にはイスラム原理主義を押し付けた。
まづ、酒とアヘンを禁止し、ウロコのない魚介類の食用も禁じた。
その中にはイラン人の大好物だったチョウザメのキャビアも入っていた。
食べても良い羊なども正しい方法、すなわち「アッラーのなを唱えた者が鋭利な刃物で苦しませず喉を掻き切ったもの」を細かく指定された。
音楽も賭博も未婚の男女の交際も禁止。
つまり、デートも禁止でこんな法日本でやったらスイーツ(笑)さん達が卒倒しそうだ。
冗談はさておき、レストランで男女で入るときは夫婦である証明がないと即逮捕され鞭打ち刑。
不倫が発覚すると石打ちによる死刑に処させる。

女性の地位も一気に下がった。
女性はチャドルで身を包むことが強制され、髪の毛を出したり、体のラインがわかる服を身につけたり、口紅や化粧をすることも禁じられた。
これを犯すと鞭打ち刑。

またコーランには

「女というものは汝らの耕作地。だから(男は)どうでも好きなように自分の畑に手をつけるがよい」(コーラン・牝牛の章223項)

「アッラーはもともと男と女との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから貞淑な女はひたすら従順に・・・(略)・・・反抗的になりそうな心配のある女はよく諭し、それでも駄目なら寝床に追いやって懲らしめ、それも効かない場合は、打擲を加えてもよい」(同・女の章38項)

などという、日本のフェミニスト女性連中が読んだらこれまた卒倒しそうな文言が至る所にあり、イスラム原理主義のホメイニ師はこれを厳密に適応して女性の人権を著しく抑圧した。
社会的・法的な権利は「女は男の二分の一」とされ、公務員を例にすると給料は男の半分。
刑罰は等量報復と定められているが、これも男同士の場合に限る。
被害者が女性だった場合は半分。
こういう裁判の例がある。
1985年に夫婦喧嘩の末、夫が妻の両目を潰した事件があった。
妻がイスラム新刑法に基づいて夫への報復を要求した。
判決は「夫の片目をえぐりだすべし」。
「女は男の二分の一」原則が適応された形だ。

革命後のイランでは反政府活動、それがビラを撒いただけでも陰惨を極める拷問ののち死刑にされることがままあったが、これも女性の場合は悲惨だった。
ホメイニ師のいうイスラムの教えでは処女は死ぬと天国へ行く。
そこで女性は刑務官から拷問の後に強姦も加えて銃殺刑に処された。
さながら北朝鮮並みの所業だが、そもそも、イスラム聖職者は女性を「ザイフェ」と呼ぶがこれは「より劣ったもの」「精神薄弱者」という意味を持つ。
イスラム原理主義がいかに女性を低くみているかを示す一端だ。

前近代的な刑罰も次々と復活した。
例えば、窃盗は一回目で右手指を切断。(拇指を除く四本を切断)
二回目は右手首、三回目は左足首、四回目は窃盗に限らず如何なる犯罪も死刑となる。
公開処刑も街角いたるところで見られた。

すでに不倫は死刑と書いたが、ホメイニ師は性について特に厳しい。
殺人でさえ、金銭でケリがつくことがあるのに、近親相姦、義母との情交、非イスラム教徒との情交、強姦の四罪は死刑。
法廷で弁護士がつくことも禁じられる。
さらに同性愛も重罪の対象で男同士が性行為を行った場合も死刑。
ホモが駄目だなんて!と日本の腐女子さんや腐男子さん(これは私)の嘆きが聴こえてきそうだ。

ポルノなんかも当然駄目。
日本からの赴任者や旅行者が「週刊ポスト」あたりを持ち込むとヌードグラビアのページは空港のチェックで没収され、普通のグラビアなどもマジックインキで塗りつぶされたという。
「週刊文春」に乗っていた林真理子の水着のイラストが塗りつぶされたなんて話もある。
それがポルノに該当するのかしらんと首を捻らざるを得ないが、漫画の性的表現まで厳しく規制する姿勢は日本の野田聖子や千葉景子を思い起こさせる。

ちなみに、革命後のイランには人権もなかったが犬権もなかった。
ホメイニ師はどういうわけか犬を豚と同列において「生来、不浄だ」と決め付け、テヘラン市には野犬狩部隊が作られた。
部隊が発足した1985年当時、銃殺された犬がトラックの荷台にいっぱいになった光景が見られた。
市民も犬に石をぶつけてウサ晴らしをした。
これも北京五輪の際に、野犬は景観を損ねるとして北京政府が犬を殺しまくったことを思い起こさせる。

そんな、北朝鮮や中国に負けずとも劣らない国家へと変貌を遂げた革命後のイランだが、1989年に最高指導者ホメイニ師が死去した。
国民はここがイスラム原理主義の止めどきだと思った。
それでも、長い圧政に打ちひしがれた国民たちは急激な変化を求めなかった、というより果たせなかった。
以後、緩やかに民主化が進み、1997年宗教政治を批判する改革派のハタミ政権になった時にはテヘランの風景は大きく変わった。
女性は髪の毛一本でも見せれば鞭打ちだったが、前髪を見せるのは当り前になった。
いまも改革派の女性は前髪を見せて街を歩いている。
先日の「学べるニュースショー」で池上彰さんが女性の髪型をみれば保守派か改革派かがわかると云っていたのはそういう事情からだ。
デートも問題なくなった。
レストランに入っても結婚証明書の掲示を要求されなくなった。
もともと、享楽的な民族だ。
イスラム原理主義は肌に合わなかったということだろう。

それから八年後、イスラム原理主義者たちが巻き返しをはかる。
イランでは大統領の上に聖職者で構成される護憲評議会という組織があり、これが実質的に最高の権力を握っている。
この護憲評議会が改革派大統領の立候補を認めず、2005年には保守派のアフマディネジャドが大統領に選ばれた。
アフマディネジャドは狂信的なホメイニ師信奉者で、反米を看板にし「堕落した欧米風」を嫌い、髭をそった部下を叱ったとか、ホメイニ師でも云わなかったエレベーターを男女別にするとかイスラム原理主義的な言動で知られる。

今回の選挙ではそんな超保守派のアフマディネジャドが当選した。
選挙で不正があったのかどうか知らないが、ありえない話しじゃない。

どんな異常な政権でも一度権力を握ってしまえば国民がどうあがこうともなかなか潰れないといういい例だが、もともと急進的な王制に反撥してのイラン革命だった。
駄目な政権に愛想を尽かし、革命を起こしてみたが待っていたのは駄目どころか異常な政権だった。
これ、どこかの国の状況と似てないか。
いや、これから起こりうる状況に。
駄目な自民党政権に愛想を尽かして、政権交代してみたら異常な民主党政権が出現したなんてことにならない保証は無い。

戦前の日本は真っ暗だったか

2009-06-23 16:39:31 | 歴史・人物
「世界を変える100人の日本人」という番組で戦前の外交官、安達峰一郎が紹介されていた。
安達は国際聯盟でも活躍し、アジア系として初めて国際司法裁判所の裁判官、所長となった人物。

安達には、語学習得の為に河原の小石を口に含んで発音の練習をし、英語、フランス語、イタリア語を習得したとか、
弁舌を鍛錬する為に三遊亭圓朝の寄席に通ったという逸話がある。
実際、彼の舌はポーツマス条約締結の時に発揮され、のち多くの場面で調停役として活躍した。
特に有名なのは1924年に聯盟で「ジュネーヴ議定書」が審議されたときで、英仏を相手に一歩も引かず日本の主張を通し、当時、国聯事務次長だった新渡戸稲造に「安達の舌は国宝だ」と評させたほどだ。
海外でも高い人気を誇り、1934年にアムステルダムで死去した際、オランダ政府は国葬を以って彼の功績を顕彰した。
これが外国で日本人が国葬された最初の例になる。

こいう人物を紹介するのはいい。
ただ、気になったのは当時の日本に対する評価だ。

安達は国際司法裁判所において「応訴義務」の規定を創設しようとした。
応訴義務とは国家間の紛争において一方の国が告訴した場合、相手の国は必ず法廷に出頭し、裁判に応じなければならないとする制度だが、これに応じなかったのが日本だったと日本軍の映像と被せていかにも日本は悪い国でしたという風に描く。
満洲事変が勃発した時、安達は当時の総理大臣・斎藤実に日支間の問題解決は国際司法裁判所で決着すべしとの書翰を送っているのだが、ここにも「軍国主義下にありその行動に命の保証はない」というナレーションを挿入する。

戦前の日本は戦争に反対する意見を言うと命の危険があったような軍国主義国家だったというのはあまりにも粗雑な言い方だし、なにより事実に反する。
満洲事変が始った昭和六(1931)年当時の日本は世界恐慌から脱し、高度経済成長を向かえようとしていた。
満洲事変を誰も戦争だなんて思っていない。
海の向こう、遠い大陸で関東軍がドンパチやっている。
それで、景気も良くなったので誰もこれに恐れや不安を抱く人はいなかった。
前年の昭和五年は関東大震災から東京が完全復興し、モダンな帝都が出現していた。
東京行進曲が流行したのもこの年だ。
私鉄は昭和六年に現在あるものがすべてそろい、デパート、映画館、劇場が賑わい大衆文化が花咲いた。
全体はまだまだ不景気だったが、ネオンは輝きデパートに商品はあふれカフェーバー、ダンスホールは満員だったと故・山本夏彦さんも振り返っている。
1930年代は日本の重工業が飛躍的に発展した時期で、国民の生活も日々豊かになっていた。

まさか、この当時の人が日本を軍国主義国家だとは思っていなかったろうし、これから戦争が起こるなんてことも信じていなかった。
支那事変(日中戦争)が始ったときも、それが泥沼の戦争になるなんて思っていない。
昭和十二年十二月に南京が陥落したときもこれで戦争は終わったとホッとしていた。
じじつ、この時点ではまだ支那事変は「天佑」で戦争景気がもたらす消費生活をエンジョイしていた。
歳末商戦を伝える当時の新聞は「軍需景気の反映か、デパートの売上げぶりは正に記録的」と伝えている。

話を戻して。
戦争に反対したからといって命が危険に晒されるなんてこともナチスや今の北朝鮮と違って日本では無かった。
当時の雑誌を開けばいたるところに戦争反対の意見を見ることができるし、昭和十二年までは反ファッショの「人民戦線」論が盛んだった。
一つ例を挙げておくと、昭和十二年六月に近衛文麿内閣が成立したとき、市川房江は『日本評論』という月刊誌に「国際的平和を確立し、戦争を未然に防止する事」を要求しているし、「戦争が人類にとっての最大不幸であることはいふ迄もない」とも書いている。
当時はもちろん「伏字」もあったが、戦争反対の論を展開することはごく普通のことだったのだ。

政治の批判も自由に出来た。
先ほどの斎藤実首相が議会を解散して総選挙に打って出たとき、石橋湛山は政党出身ではない軍人首相が議会を解散しても国民はどの政党の議員に投票してその意思を表明してよいのか、と批判し「およそかような馬鹿らしい総選挙はありはしない」と書いた。
他にも、軍人首相だった林銑十郎が「喰い逃げ解散」(註)をした時、評論家の馬場恒吾は雑誌『改造』誌上で「信を国民に失ってそれで政治ができると思うならば、それはもはや常識のあるなしの問題でなく、精神に異常のあるなしの問題になる」と痛烈に批判している。
言論の自由が保障されているいまの時代でも首相に対して「精神の異常のあるなしの問題」なんて書くのは憚られると思う。

支那事変が泥沼化してきた昭和十五年に石原莞爾が『最終戦争論』を展開したときも「世界の統一が戦争によってなされるということは人類に対する冒涜であり、人類は戦争によらないで絶対平和の世界を建設し得なければならないと思う」との批判がきている。
軍国主義国家ならこういう批判はこない。

もっとも、治安維持法によって多くの人々(主に共産主義者とされた人たち)が逮捕・拘留されたのは事実だし、取り調べの過程で拷問もあった。
それでもナチスドイツや戦後のソ連や中国などと違い、この法によって死刑になった人は日本では一人も居ない。
だから、戦後、多くの共産党員が大手を振って出所してきたのだ。
彼らは戦争にも行かず、食事もきちんと与えられていた。
戦争で悲惨な目にあった人たちよりもある意味で幸福な生活を送っていたともいえる。

日本全体が本当に窮屈になったのは昭和十六年十二月にアメリカと戦争を始めて戦況が悪化してきた昭和十八年頃からだろう。
この頃はさすがに戦争に反対する言論の自由もなくなっていた。
昭和十九年に入ってからは空襲も激しくなり、食料も欠乏し始めた。
「戦前は真っ暗だった」という真っ暗な期間はこの二年間をさすのだろう。
多めに見積もっても三年。
支那事変が始ってから計算すれば八年になるが、それでもやはり長い戦前の期間を一括りにしてをすべて「真っ暗だった」「軍国主義だった」と言うことは歴史を無視した言い回しに違いない。


*******
註:「喰い逃げ解散」とは林銑十郎内閣が予算を成立させた翌日に議会を解散させたことを指す。
衆議院の反省を求める為の解散と説明されたが、予算成立後の解散とあって解散理由が明確でなく、「喰い逃げ解散」と揶揄された。
なお、総選挙後、林内閣は総辞職。在任期間わずか四ヶ月であった。

もう一つの足利事件

2009-06-19 21:54:44 | 社会・世相
足利事件の犯人とされた菅谷利和さんの冤罪が確定し、十七年間ぶりに釈放されたニュースは他人事ならぬ恐ろしさを感じさせるものがあった。
警察権力がその気になれば人一人の自由を簡単に奪う事ができる。
戦後あれだけ、民主警察とか云っていた警察だが、取り調べにおける自白強要など戦前の警察と大して変わらない実態をまたもや浮き彫りにしたといえる。

この足利事件はマスメディアも大々的に取り上げ輿論を喚起し、栃木県警本部長が直接、菅谷さんに謝罪するに至ったが、実はあまり注目されていないが同様の例が現在進行形で存在する。

それが、今月号の月刊『WILL』でも取り上げられていた「高知白バイ事故」偽装工作疑惑だ。

この事故は2006年3月3日に起きた。
スクールバスの運転手だった片岡晴彦(55歳)さんはその日、高知県・仁淀川町立仁淀中学三年生の教員三人と生徒二十二人を乗せたバスを運転していた。
その日は三年生のお別れ遠足会で生徒たちが昼食をとった店の駐車場から国道に入る前、バスは一旦停止し、ゆっくり前進して再度停止し、右折の機をうかがっていた。
そこに、右側から白バイが猛スピードで突っ込んでくる。
バスには衝撃が走り、右側前部には破損した白バイが倒れ、運転していた交通機動隊員のY巡査長も横向きにたおれていた。

その後、Y隊員は死亡し、片岡さんは業務上過失致死容疑で逮捕され、取り調べもないまま八ヶ月が過ぎる。

逮捕されて八ヵ月後、高知地検で検事から
「急ブレーキをかけたバスが、一メートル近く白バイを引きずった。お前が右側を確認せずにバスを動かしたからや」
と無茶苦茶なことを告げられる。
片岡さんは「冗談じゃない。バスは完全に停まっていた」と反論。
無論、これが事実だ。
証言者もいる。
なによりバスに乗っていた全員が知っている事だし、その内の一人の女性教諭は
「バスの運転席の真後ろにいましたが、バスはまったく動いていなかった」
と証言している。
バスの真後ろに乗用車に乗り停止していた仁淀中学校長も
「停車居時間が長いので私はハンドブレーキも引いていた。バスはまったく動いていなかった。突然、前方右からすごい勢いで物体がバスの前に突っ込んだ」
と述べる。

ところが、検事は証拠写真を突き出してくる。
その写真にはバスの前輪の後ろにのびる黒いスリップ痕が写っていた。
動いていないのにスリップ痕がつくものか。絶対におかしい。
結論を先に書けばこれは完全なる捏造写真だった。
写真を分析した自動車事故鑑定人の石川和夫氏は
「タイヤ痕ならあるはずの溝の跡が一本もない。スリップ痕は路面の凸面だけに付くのに、へこんだ乙面にも染みわたるように色が付いている。液体を塗ったからです」
と警察の偽装工作と断定した。
だいたい、検察はバスは時速十キロで走っていたと主張していて、仮にそのスピードで急ブレーキをかけてもスリップ痕は残らない。

ところが、この警察の捏造を裁判所は「野次馬やマスコミがいる中での証拠偽装は不可能」(片多裁判官)として否定。
バスは停まっていたとの多くの証言も無視し、片岡さんに禁固一年四ヶ月の実刑判決を下した。
裁判所と警察がぐるであることが実によくわかる。

しかし、なぜ、警察はこのような事件をでっち上げたのか。
実はこの事故があった附近では以前から白バイの暴走が問題視されていた。
公道なのにサイレンも鳴らさず、百キロくらいで走り、たまにミニバイクなんかを捕まえて遊んでいる。(附近のガソリンスタンド店員の証言)
青信号で横断中に白バイにはねられそうになった人もいた。

今回のこの事故も白バイによる暴走運転の結果だったわけだが、この事故をじっくり検証すれば白バイが普段から暴走行為をやっていたことが明るみに出る。
ならば、と偽装工作をしてまで片岡さんを犯罪者にしてしまったわけだ。
こんな出鱈目な冤罪が通って、現在も片岡さんは刑務所に服役させられている。

足利事件は警察による過失の面が強いが、こちらの方は初めから冤罪を作ろうとして作った分、より悪質だ。
近代国家において絶対にあってはならないことで、こんなことなら中国を笑えない。
しかも、この重大冤罪事件を中央紙はほとんど報じていない。
地元紙、高知新聞も警察べったりの報道。
マスコミの体質がここにもよく出ている。
それが、左派に比べ警察に甘いと思われがちの右派の雑誌『WILL』が取り上げたことは心強い。

左派の雑誌やジャーナリズムももっとこの事件を取り上げて欲しい。
日本が軍国主義化しているとか自衛隊の暴走なんていう幻想よりも警察の暴走という現実の方がずっと怖い。

国営の漫画喫茶はいらない

2009-06-14 18:19:01 | 漫画・アニメ
麻生首相の政策で私が唯一といっていいほど批判したいのが「国立メディア芸術総合センター(仮称)」の建設だ。
なにゆえ、117億円もかけて国営の漫画喫茶とも揶揄されるハコモノを作るのか理解できない。
こんなもの作って喜ぶのは官僚と一部の漫画好きだけだろう。
こんなことでは官僚の言いなりとの謗りを免れない。

だいたい、私は国が漫画やアニメに興味を示すことそれ自体に反対だ。
日本の漫画やアニメがなにゆえ世界中を席捲するほどに興隆を極めたか、一言で言えば国が関与しなかったからだ。(ここでの国は政府や行政を指す)
およそ文化というものは国が関与するとろくなことがない。
国が関らないところで、文化は育まれ洗練されてゆく。
昨今の漫画・アニメはその最たるもので、民間の職人と大衆が築き上げた日本の一大文化である。
もっと褒めれば、今現在、日本が唯一世界に発信してなおかつ大好評を得ている文化ともいえる。
あれだけ反日をやっている中国でも日本の漫画・アニメは別で皆、熱を上げて観ている。
中共政府はそれを快く思っていないようで、様々な形で規制をかけようとしているが、却って政府に対する反感を買う結果になっている。
「萌え」という言葉も広がっていて、中国のメイド喫茶(これも日本から輸入された文化だ)では支那人のメイドさんが慣れない日本語で「萌え」と云っていた。
反日国家中国を親日に転ずる鍵を握っているのは日本の萌え文化と言っても過言ではない。
その他の世界で日本の漫画・アニメがどのように広がっているかは稿を改めて書くとして、ともかく文化は国から離れたところでこそより大きく成長するということだ。
反対に国が目をつけてしまったらすなわち衰退の始まりといってもいい。

というと、歌舞伎や能はどうなんだとか、もっと遡って平安文化は国と密接に関っていたではないかと反論されそうだ。
なら、「サブカル文化」と言い換えよう。
つまり、漫画やアニメは本来、サブカル文化であって、決して教科書に載せていいようなメインカルチャーではない。
それが、いまやメインカルチャーの地位を得ようとしているので問題だともいえる。
たしかに、これほど国内はもとより世界中に広まりもすればメインカルチャーのようだが、それでもやはり漫画・アニメはサブカルチャーであるべきなのだ。

いたづらに国が主導で漫画・アニメを広めようなんてしたら、漫画・アニメに順序をつけてしまうことになる。
言い換えると、政府推薦の漫画とそうでないものに分けられてしまうのだ。
何が言いたいかというと、政府推薦の漫画がそうでない漫画より面白かったり上だったりする道理はなく、もっといえば、政府非公認の漫画がこの世から消し去られてしまう危険性がある。
いや既にその動きは始っていて、萌え文化に目をつけてしまった政治家の一部はケシカラン漫画やゲームがあると云って規制にやっきになっている。
今後こういう動きはますます強まるだろう。
悪貨は良貨を駆逐するという言葉があるが、サブカル文化においては悪貨が良貨を下支えすることがあるのだ。
良識的な観点から悪貨を駆逐すれば良貨の質にかかわる。
こういうことを賢い賢い野田聖子あたりにいくら説明しても理解しないだろう。
政治家のような愚かな人種にサブカル文化が理解できるはずがないのだ。

さて、この国立漫画喫茶に反対する漫画家に牧村しのぶという人がいる。
文化面からの弊害も語ってくれるのかと思いきや
「漫画家も読者も日々の生活が苦しい中、ハコモノと天下りが残るなんて最低のギャグです」とのコメントで、ちょっとずれている。
それ以上にずれているのが御自身のブログで小沢一郎を「プリンセス小沢」と表現して持ち上げる美的感覚と言語感覚だ。
牧村さん、自身の漫画が売れなくて苦しいとのことだが、売れない理由がなんとなくわかる気がした。

鳩山邦夫、辞任

2009-06-14 14:00:20 | 政治・経済
彼は「政治に尋問の筋これあり」と云い、自らを西郷隆盛になぞらえて総務大臣の職を辞した。
いくらなんでも、それは恰好つけ過ぎというもの。
鹿児島県民が怒っていなければ幸い。
この、彼こと鳩山邦夫は民主党党首・鳩山由紀夫の弟。
顔だけみればいかめしいこちらの方が年上に見えるが、由紀夫より年下。
祖父は云わずと知れた鳩山一郎でいかにもお坊ちゃん育ちの自意識過剰さと軽率さを併せ持っている。
上の発言もその好例といえる。

草剛が裸になって捕まった時もすぐ「最低の人間」と云ったり、その前は「友人の友人がアルカイダ」とか「私が田中角栄先生の私設秘書になったとき、毎月のように、ペンタゴンがやってきて食事をごちそうしてくれた」とか以下略すが、後先考えず思ったことをすぐ口に出してしまう人らしい。
口が滑る分はいいが、寺脇研と組んでゆとり教育を推進して、学力テストの廃止も唱えたり、人権擁護法や改正児ポ法の制定にも積極的だったりとロクでもないことばかりやらかそうとする。
発言も政策も思いつきで合理的なとか将来的なとかそういう判断が出来ているのかはなはだ疑問。
朝日新聞から「死に神」呼ばわりされたことがあったが、それはレッテルの貼り間違い。
もっと気の利いたレッテルがある。

その鳩山邦夫が日本郵政の西川善文社長に噛み付いた。
またいつもの思いつきかとも思うが、これはもともと麻生首相の指示によるもの。
本来、小泉構造改革に反対の麻生首相は当然、郵政民営化にも反対だった。
国会でそう云ったら叩かれたのですぐに引っ込めたが、本心は変わらない。
同じく構造改革の旗振り役だった竹中平蔵とぐるで、アメリカのエージェントのような西川社長をやめさせたい。
鳩山もそれに賛同し、西川の辞任で調整していたところ、竹中平蔵の巻き返しにあう。
竹中は小泉元首相にも働きかけ、麻生と鳩山の動きを封じようとした。
麻生首相の方はいつもの方向転換で西川辞任論を引っ込めたが、鳩山は我慢ならない。
麻生首相に愛想を尽かしてか「正義は正義」と辞めていった。

選挙前のパフォーマンスとみる動きもあるが、そこまで器用な人じゃない。
普段からパフォーマンスじみたことをやっている人がいまさらなんのパフォーマンスだろう。
結局、この件は構造改革派と反構造改革派の戦いで前者が勝利したというだけのはなし。

それにしても、麻生首相は自らの信念を実行しようという意思がどれほどあるのか。
あれをやるこれをやると云って期待させておいてすぐに引っ込める。
思想はいいが、行動力に欠けすぎる。
片腕だった中川昭一や朋友の鴻池祥肇を失い、鳩山邦夫も去った。
政権末期と云われるが、もっても秋までの政権なのだから首相にとってはもはや誰が去ろうとどうでもいいことなのかもしれない。

日本郵政の問題一つとってもどの方向に舵取りしたいのか見えない政府と自民党。
構造改革派もまだまだ元気でいることが今回の件でも良くわかった。
自民党が愛想をつかされるのもむべなるかな。
けれど、その結果としての民主党政権樹立は国民が払う代償としてはあまりにも大きすぎる。

日本人の愛国心

2009-06-06 13:13:05 | 社会・世相
私はかつて(2007年02月18日)、某コミュニティサイトで

愛国心の問題にしても、今後、グローバル化に対抗してゆく為には世界標準並の愛国心が必要になります。
それに気づかず単純に愛国心を否定しても、結局は偏狭なナショナリズムしか育たないでしょう。


と書いたことがある。これに対してある方から、

あび卯月さんがおっしゃった「世界標準並の愛国心」という意味がわかりません。どこの国を指して言っているのでしょうか。

という御質問を承り、それに対して返答するというかたちで私が日頃抱いていた日本人の愛国心について述べた。
今と多少意見が異なる箇所もあるが、当時私が考えていてた愛国心についての覚書としてここに転載しておきたい。


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>あび卯月さんがおっしゃった「世界標準並の愛国心」という意味がわかりません。
>どこの国を指して言っているのでしょうか。

御質問にお答えいたします。

世界標準というのはここでは今後、国際社会で政治・経済の主導権を握ってゆく国々を標準と捉えてください。
実際に国名を挙げるならば米・英・中・露・仏の常任理事国をはじめとして、インド、ブラジル、オーストラリア、ドイツ、韓国、中東諸国などを挙げます。

「世界標準並の愛国心」と言っても愛国心は数値化できるものではないので、数字によって捉えることは出来ません。
但し、「もし戦争が起こったら国のために戦うか」、「自国民であることの誇り」という質問に対する各国のデータがありまして、これが一つの参考になると思います。

http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/5223.html
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/9465.html

この二つの調査結果を御覧になるとお解りになるように日本は前者は最下位。後者の質問には六十ヶ国中、五十七位です。

私は日本は今後、世界標準並の愛国心が必要だと述べました。
しかし、私は日本人に世界並の愛国心を持たせることは殆ど不可能だと思っています。(少なくとも今の状態では。)

以下、ちょっと込み入った説明をいたします。

国家とは本来、人工的なもので相対的なものです。
御存知のように国家という概念が生れ、それが欧州各国で形となったのは人類の歴史から見ればつい最近のことです。
日本に国家の概念が生れたのは明治以降です。
いえ、生れたのではなく欧米列強の外圧によって作らざるを得なくなっただけです。
それまでは日本人は国家という概念を持っていなかった(少なくとも国民は)し、無論、「愛国心」なる概念も持っていませんでした。
かやさんは

>陸続きの国の歴史の教科書をごらんになったことがあるでしょうか?
>年代によって国の大きさが変わり、時には他民族がその国の王になる。
>それに比べ、日本は沖縄などの島を除き、1000年以上も日本列島と日本人の歴史を学べばいい、そのような環境は決して当然のことではないのです。
>私はこの地理的条件が、日本人特有の文化を生み出し、アイデンティティの乏しい国民性を作ったのだと思っています。

と述べられていましたがこの指摘はまさに仰るとおりで、有史以来、まともな侵掠を受けることも侵掠を行うことも無かった日本が国家という概念を生み出すことはあり得ませんでした。
一口に愛国心と言ってもそれぞれの国の歴史や文化が違うように愛国心にも違いがあります。
しかし、どの国の愛国心にも根本には同質の要素を持っています。
それは、多民族に対する嫉妬、憎悪、恨み、不信などで本来、愛国心とは洵に排他的なものであります。
殊に発展途上の国家では国民に他民族への憎悪を忘れさせない為、常々細心のマインドコントロールを怠りません。
グローバルの視点ではこれを否定的に捉えてはなりません。
なぜなら、他国への憎悪が国家サバイバルのエネルギー源であるからです。(全く以って嫌なことなのですが)
例えば、オーストラリア人は比較的愛国心の稀薄な国民だと言われています。
それは国家の形成過程にその原因があるのですがその説明は省きます。
そのオーストラリア人でも愛国心を生み出す装置として第一次大戦と第二次大戦の戦争体験(他国への憎悪)を最大限に利用しています。
例えば、四月二十五日は、第一次大戦時にイギリス軍にいいように利用されほぼ全滅したガリポリの戦闘を記念とする日として毎年愛国心を鼓舞する盛大なパレードが行われています。
似たような例が世界各国で見いだされるはずです。

中国や韓国も日本に対する憎悪を決して忘れようとしませんが、それは強力な国家を維持してゆく為の装置です。
アメリカもイラク戦争をする時、9・11テロの憎悪を最大限に活用しました。

翻って日本人には憎悪と憎しみの歴史は極めて稀薄です。
大東亜戦争でアメリカからあれだけ受けた仕打ちもみんな忘れてアメリカ大好きな日本人ばかりです。
そもそもこの国の民は憎悪や憎しみ、恨みを継続して持つ事の出来ない民族なのかもしれません。
ですから、そんな日本人に世界並の愛国心が持てるはずないと踏んでいます。
明治以降に日本人が持った愛国心も必要にせまられて持ったと言って良いでしょう。
他国から侵略されない強い「国家」を作るにはどうしても欧米のような愛国心が必要でした。
「国家」も「愛国心」も近代の世界で生きてゆく為に必要だったのです。
では、日本人には古来から「愛国心」は無かったかというとそれも少し違います。
日本人にも自分の属する共同体に対する愛着や郷土愛はありました。
『古事記』にも『萬葉集』にも日本の古典には一種の愛国心が歌われています。


大和には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ちたつ
海原は 鴎立ちたつ
うまし国ぞ あきつしま 大和の国は



有名な『萬葉集』の舒明天皇の歌です。
涙ぐましいほどの情緒的な歌で、そこには理論性も他国との比較性もなくただ「大和の国はいい」と云っているに過ぎません。
例えば、フランス国歌「ル・マルセイエーズ」に歌われている生々しい愛国の情とはあまりにも異質なもので、情緒性に頼った自国の讃美です。
世界の国歌を調べればお解りのようにフランスのように憎悪と憎しみで固めた生々しい愛国心を歌った歌が圧倒的に多い。
なにより具体的でリアルです。
再び翻って日本の国歌『君が代』はどうか。


君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで



なんと曖昧で、情緒しかなく、小石が岩になるなどと非科学的で、理論もなく、説得力もない歌詞なのでしょう。
因みに君が代の「君」=「天皇」というのも明治以降、そう定義されるようになっただけで、本来「君」に天皇の意味はありません。
天皇を国家の最高機関にしてしまったのも近代の宿命だったといえましょう。
これはまた別の話になりますのでここではこれ以上詳しく述べません。

さて、縷々、日本人とその他の国との愛国心の違いなどについて述べてきました。
無論、私は日本人ですから日本人の考え方のほうに共感を覚えます。
『君が代』に対しても「なんと曖昧で・・・云々」と否定的なことを書いたようですが、それは世界の特に欧米人から見たら否定的に捉えられるだろうということで、日本人の私としては世界各国の歌詞と比べてなんと情緒的で非戦闘的でアジテーション的でなく侵掠的でなく排他的な愛国心を鼓舞するものでもない歌詞なのだろう!と感動すら覚えます。

そんな日本人が初めてグローバル化の波に晒されたのは何度も述べてきたように明治以降です。
そこから日本人の苦悩が始まりました。
欧米人の真似をしなくてはならなくなった。
日本人の不幸の始まりだと思っています。
そして現代に至るまでそれは続いているのですが、戦後の日本はアメリカの保護の元(支配下の元?)まぁ、なんとなく豊かさを感受していましたが、今からはそれさえも危うくなってきます。
再び、グローバル化の荒波に投げ出されようとしています。
だとするならば、やはり、排他的な愛国心も必要となってくるだろうと考えています。
安倍首相をはじめとして、「国民はもっと愛国心をもつべきだ」と主張する人たちの云う愛国心も所詮排他的なものではなく、せいぜい舒明天皇が歌ったような内向きの愛国心です。
左派の人たちは「軍国主義になる」云々と批判していますが、日本人が本来持つ内向きの愛国心は恐るるに足りません。
そういう愛国心すら否定する人の考えがよくわかりません。
歴史を振り返っても日本人が外向きの愛国心を持つのは外圧があった時です。
近年、日本は右傾化しているといわれていますが、それは日本人が自発的にそうなったのではなく中国や北朝鮮の「外圧」によるものです。
(私は本当の意味で右傾化しているとは思いませんが)
そして、今後私が危惧するのはアメリカをはじめとしたハゲタカファンドなどと呼ばれる企業やファンドが日本に対して本格的な経済的侵掠を行った場合、日本人が外向きの愛国心を爆発させるのではないかということです。
そうならない為にはやはり、対抗措置が必要ですし、爆発しない程度の愛国心が必要だと思うわけです。
(そうでないにしろ、今は近代以後なのですから、国家は必要ですし愛国心も必要なわけですが)

それが考えすぎであることを望むと同時に私は今後起こり得るだろうことをあまり楽観視出来ないでいます。
さて、どうなりますやら。。

(平成十九年二月二十一日)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=349047963&owner_id=95567

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もともと、この議論はグローバル化する世界において日本は如何にあるべきかというものであり、私はグローバル化という名の世界のアメリカ化を日本は無批判に受け入れて、自らも旗振り役となってグローバル化を推し進めている感があるが、経済問題一つとってもグローバル化は果たして日本人を幸せにするのであろうかということを述べた。
その上で、グローバル化が世界の潮流として日本として抗しえないものだとするならば、日本人は世界並の愛国心を身につけるべきではないのかということを云いたかったわけだ。

奇しくも、このあと世界恐慌が訪れて、日本人はグローバル化という幻影から目が醒めたようである。
ならば、もはや「排他的な愛国心」は必要ない。
いま日本人に必要なのは冷静に現状を分析する事だと思う。

スリランカという国 ~獅子と虎の争い~

2009-06-05 01:30:46 | 歴史・人物
saratomaさんのブログ「のんきな日本人」で朝日新聞がスリランカについての社説を書いていたことを知った。

アサヒとスリランカと多民族共生社会
http://nonki-nihonjin.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-58ba.html

朝日新聞への突っ込みはsaratomaさんの記事を御覧になっていただくとして、ここではスリランカについて少しばかり書いておく。

スリランカはインドの南東にある熱帯の島国。
面積は北海道を一回り小さくしたくらいで、人口は約千九百万人。
民族構成は上座部仏教を信仰し、インドヨーロッパ語族のシンハラ人が74%、ヒンズー教を信仰し、トラヴィダ語族系のタミル人が18%、イスラム教を信仰しタミル人と同じくトラヴィダ語族系のマラッカ人が7%となっている。
暦は太陰暦(旧暦)を採用しているので日本からの外交官や観光客はかなり混乱させられるという。

スリランカと聞いてピンと来ない人も旧国名のセイロンと聞くとセイロンティーを思い出すかもしれない。
スリランカは世界有数の紅茶産出国で旧国名を冠したセイロンティーは有名なブランド名になっている。
紅茶好きには御馴染だが、現地で飲む紅茶はやたらと甘い。
砂糖とミルクをたっぷり入れて飲むのが当地の一般的なスタイルで同じくかつて英国の植民地だったミャンマーでもやたらと砂糖を入れて日本人にとってはビックリするほど甘くして飲む。
恐らく、砂糖が高価だった頃の名残で今でも甘ければ甘いほど高級ということなのだろう。
東南アジア各国でもこの傾向が見られる。

なぜこの国が世界有数の紅茶産出国になったかというと、今述べたようにイギリスの植民地支配が深く関っている。
スリランカはかつてポルトガルの植民地支配を受け、次にやってきたのがオランダ、そして18世紀末からイギリスが支配国となった。
それまでは、コーヒー栽培の広く行われていたが、病原菌が蔓延し、コーヒー園が壊滅的なダメージを受け、19世紀末以後、紅茶栽培が普及していった。
この時期にインド南部からイギリスによって茶園労働者として強制的に移住させられた人々がいまのインド・タミルと呼ばれる人たちだ。
つまりタミル人にも二種あって植民地以前からスリランカに住んでいた人たちがスリランカ・タミル、イギリスによって強制移住させられた人たちがインド・タミルになる。
国全体に占める人口の割合はスリランカ・タミルが13%、インド・タミルが5%となっている。
シンハラ人は英国支配に抵抗の構えを見せたのに対し、タミル人は比較的従順でそれゆえ、政治的には長くタミル人が重用されてきた。

が、1948年にイギリスから独立して事情は変わってくる。
独立を勝ち取ったあと、数において圧倒的優勢のシンハラ人は1948年制定の『セイロン市民権法』でタミル人の公民権を奪い、1949年の『国会選挙法』では選挙権を奪った。
1956年からは「シンハラオンリー政策」を実施して、シンハラ語を公用語とし、1972年には憲法に「仏教に至高の地位を与える」という条項を盛り込み、一貫してシンハラ人を優遇する政策を続けた。
現在でもタミル人への差別は続いていて、タミル人は国の要職には就けないでいる。
なぜ、ここまでシンハラ人はタミル人を弾圧したのだろうか。
一つはsaratomaさんも指摘されているようにイギリスお得意の分割統治の結果だろう。
いわば植民地時代の巻き返しといえる。
そしてもう一つ、スリランカにも駐在したことのある元外交官の話によると「タミル人は概して働き者で経済的に豊かであったが、一方のシンハラ人は祈ってばかりで怠け者が多い。シンハラ人は数において圧倒的有利であるが、このままではタミル人に国を支配されてしまうという危惧を抱いた」とのことらしい。

不満を募らせたタミル人は56年と58年に暴動を起こしたのち、スリランカの北部と東部を分離しタミール王国(イーラム王国)を建設しようとする独立運動を開始。
その中の過激派は72年には武力闘争を掲げるTNT(「新しいタミールの虎」Tamil New Tiger)を創設し、75年には大統領を暗殺している。
同じ年にTNTは、LTTE(「タミル・イーラム解放の虎」Liberation Tigers of Tamil Eelam)となり、以後、シンハラ人との骨肉の争いを繰り広げている。
なお、組織の名称からもわかるようにタミル人は虎をシンボルに掲げていて、一方、シンハラ人は自分たちを獅子(ライオン)の子孫と信じている。
スリランカの国旗に獅子が描かれているのはそういう理由からだ。
それで、このシンハラ人とタミル人の争いは「ライオンと虎の争い」と謂われることがある。

ミャンマーと同じ、帝国主義時代の負の遺産を抱えている国がここにもある。
朝日新聞の報道によると政府軍はLTTEをほぼ制圧したとのことだが、さてどうなりますか。
余談だが、スリランカにはポルトガル人街やオランダ人街は残っているが、イギリス人街は無いという。
いまも国に禍根を残す腹黒紳士イギリス人は蛇蠍の如く嫌われているということか。
これもミャンマーと同じだ。