あび卯月☆ぶろぐ

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戦争責任とは何だろう?

2006-08-15 21:31:43 | 政治・経済
靖國問題と同時に論じられるのが「戦争責任」という問題です。
よく聞くものに「A級戦犯には戦争責任がある」という言説がありますが、
その「戦争責任」とは一体いかなる責任なのか。
戦争を始めた責任か通常の戦争犯罪か戦争に負けた責任か、一体どれなのでしょう。

私はまづ大前提として「戦争責任」を論じるには東京裁判という括りを外してから論じなければならないと思います。
というのも、東京裁判で裁かれた人たちは事後法でそれもあまりにも杜撰な手続きと選定によって裁かれたからに他なりません。
かといって、「A級戦犯」には全員責任がないと述べたいのではありません、
東京裁判史観から離れて考えなければ本当の意味での責任者が明らかにならないと申したいのです。

では、「戦争責任」とは何なのか。
私が考える「戦争責任」は戦争に負けた責任です。
通常の戦争犯罪(民間人を殺害したり、捕虜を虐待する、など)は戦争責任と離れて単に「戦争犯罪」として裁けばよいことです。
そして、重要なことは「戦争を始めた責任」などということは論うべきでは無いということです。
よく思うことなのですが、「戦争を始めたから悪い」という人たちはおそらく歴史をよく御存知でない。
日本だけが悪で常に他国の侵掠を企んでおり、その悪の権化である日本がいたから
戦争が起こったと信じ込んでいるようです。
これはちょっと歴史を勉強すればわかることですのでここで詳しく解説いたしません。
別の機会にゆづることといたしましょう。

という次第で、戦争責任とは「戦争に負けた責任」であると考えます。
しかし、この定義も適切ではありません。
別の言い方をすれば「杜撰な戦争指導をした責任」「戦争終結時期を誤った責任」と申しましょう。
確かに日米戦争に於いては「負けた責任」を問うのは酷でしょう。
始めたのは仕方なかったとしても、止めるタイミングを見誤った。
そして、杜撰な戦争指導・作戦指揮により多くの兵を無駄死にさせてしまいました。
この二点は大変大きな責任でありましょう。

戦争責任を論うのであればこの二点に絞って追求するべきです。
そして忘れてはならぬのは多くの戦争指導者・作戦指導者はBC級戦犯として死刑になっているということです。
責任があったにせよ既に罪は償っている人も多いわけです。
「A級戦犯」に指定された人たちにも当然、戦争指導をした人がいますが、
それも絞首刑という形で罪を贖っています。
戦犯に指定された方たちも皆「日本を敗戦に導いた責任」を自覚していました。
自覚していたからこそ、「平和に対する罪」などというフィクションは認めないとしても死刑という判決は受け入れたのでした。

そして、支那が主張する
「悪いのは戦争指導にあたった日本の軍国主義者たちで日本国民は被害者」
という論も詭弁だと思います。
これは結局、戦争を起こしたことが悪いといっているわけで、
杜撰な作戦の被害者になった日本兵は居ても、
戦争を始めたことによる被害者などというものは存在しないからです。

小林秀雄は終戦の翌年(昭和二十一年)にこう述べています。

「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしてゐない。大事変が終つた時には、必ず若しかくかくだつたら、事変は起らなかつたらう、事変はこんな風にはならなかつたらうといふ議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起つたか、それさへなければ、起らなかつたか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というふものをもつと恐しいものと考へている。僕は無知だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいヽぢやないか。」

小林秀雄の云うように
大東亜戦争が起こったこと自体は歴史の必然としか言いようがありません。
結局、責任を問われるのは戦争が起こったあとの処置ということに尽きましょう。

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