あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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春の叙勲、村山元首相に最高位・桐花大綬章

2006-04-30 22:51:02 | 政治・経済
春の叙勲4047人、村山元首相に最高位・桐花大綬章

 政府は29日付で、2006年春の叙勲の受章者4047人を発表した。
 村山富市・元首相(82)が最高位の桐花大綬章を受けたほか、旭日章を930人(うち女性29人)、瑞宝章を3116人(同303人)が受章した。
 民間人は1674人、女性は332人(全体の8・2%)だった。
 旭日大綬章には、大石千八・元郵政相(70)、梶原拓・前岐阜県知事(72)、古川貞二郎・前官房副長官(71)ら6人が選ばれた。日本の政治・文化・学術などの発展に貢献した外国人に贈られる外国人叙勲は、旭日中綬章を受けた米国の元プロゴルファー、ジャック・ニクラウスさん(66)ら49人が受章した。
(読売新聞) - 4月29日9時57分更新


村山元首相が最高位の桐花大綬章を受けたとありますが、
彼が一体何をして叙勲されたのでしょう。
日の丸君が代と自衛隊を認めて社会党をぶっ壊したから叙勲された、
と考えればなかなか粋な人選ですが、そんなはずはありますまい。
叙勲の人選は昔からおかしなことばかりですから今更それを論う気はありません。

ただ、「反天皇制」を掲げていたはずの旧社会党議員が
天皇から勲章を賜るとはなんと節操の無い事か。
本来なら辞退するのが筋でしょう。
彼は既に天皇制容認者になってしまったのでしょうか。

そういえば、坂野潤治さんが『大日本帝国の民主主義』中で

天皇制と社会主義の激突を、まさに間に分け入って「まぁまぁまぁ」やるのが社民でしょ。激突の火種が日本にはない。


と述べていました。
なるほど、その意味がようやくわかった気がいたします。


附記:坂野潤治さんは日本近代史の専門家で
   「民主主義は戦前の日本にもあった」「明治時代から天皇は象徴天皇だった」と説く。
   『大日本帝国の民主主義』では田原総一朗との対話形式で日本近代史の内幕を分かりやすく解説している。

ユニコーンの『素晴らしい日々』

2006-04-30 02:35:56 | 音楽・藝術
ソニーのハンディカムの最新CMの曲に「ユニコーン」の『素晴らしい日々』が使用されている。
ユニコーンは1986年から1993年に活躍した奥田民生がボーカルだったバンド。
『素晴らしい日々』はユニコーンの代表的な曲で、私も好きな曲なのだが、
何度か聴いているうちにやたら耳に残ってしまうので厄介な曲でもある。

さて、私はCMでこの曲を聴いてすぐにイエローモンキー(イエモン)の『楽園』だと勘違いしてしまった。
すぐにイエモンの『楽園』を聴きなおしてみて別の曲だと判明。
よくよく考えてみたらユニコーンだった。
恥ずかしい限り。

おそらく、多くの人が指摘していることなのかも知れないけれど、
ユニコーンの『素晴らしい日々』とイエモン『楽園』のサワリは非常に良く似ている。
・・・と思うのは私だけだろうか。
イエモンの楽園は知っているけれど、『素晴らしい日々』は聴いたこと無いという方、
下記のサイトでCMが視聴できますので是非とも聴いてみてください。
多分、御賛同していただけるはず(笑)

http://www.sony.jp/products/Consumer/handycam/INFO/CM/index.html

無論、どちらも名曲であることには変わり無い。


(附記:「サワリ」とは曲の一番盛り上がるところ。一般には「サビ」という言い方が普及しているが、本来、サビにそういう意味は無い。)

役者としての堀江貴文

2006-04-29 02:08:37 | 社会・世相
ホリエモンこと堀江貴文被告が保釈されました。

私は彼のことを経営者としても人間としても尊敬できませんし、
政治的な意味では国賊だと思っているくらいです。
が、彼は役者としては一流だと思う。
見事に「堀江貴文」「ホリエモン」を演じている。
じじつ、マスコミも我々もこの二年間近く堀江被告の演じる劇に魅了されている。
それは彼に否定的な人も肯定的な人も同じ事です。

そういえば、以前、作家の石田衣良さんが堀江被告を評してこう述べていました。

堀江さんは「人の心はお金で買える」「お金があれば女もついてくる」と言っていますよね。
これは裏をかえせば「お金がないと女にモテない」ということじゃないですか。
つまり、彼を動かすものはモテないというコンプレックスだと思います。


記憶に頼った部分が大ですので正確ではないにしろ、概ねこのような内容でした。
真実はいづれにせよ、頷ける解釈です。

堀江被告は今回の件で転ぶ人ではないでしょう。
今度、彼は一体どのような芝居を我々に見せつけてくれるのでしょうか。
まぁ、私はその劇場の客にはなりたくありませんが。

理念なき国家 ~国益と国力と~

2006-04-28 01:39:28 | 政治・経済
今、政治学特講という講義を受けております。
私は大学で社会学、政治学を学びたかったのですが、
必修科目、教職課程、学芸員課程などの兼合いもあって、
三年間ほとんどそういう望みは叶えられぬままでありました。
四年になって初めて自由に講義が選べるようになって、受講してる科目の一つがこの「政治学特講」です。

教授はもと外務官僚で外交官。
百八ヶ国に赴き、八ヶ国に滞在し、外務省では主にテロ対策を専門になさっていたそうです。
思想的立場は中道右派親米と言ったところ。
官僚だとどうしても親米になるのでしょう。

今日の講義では国益とはなにかという話があり興味深く聴きました。

曰く、
国家の行動パターンは国益実現の為であり、
国益と国土の安全と国民の繁栄である。
国益実現の為には国力が必要であり、
国力とは即ち、軍事力・経済力・理念(正義)である、
と。

私もまぁ異論はありません。
ただ、国力に「理念」が入るのは多少疑問だったのですが、続けて

戦争をするにはいくら軍事力・経済力があっても理念がないと勝てない。
じじつ、ヴィエトナム戦争でアメリカが負けたのは理念がなかったからだ。


と言われ、なるほどと思いました。
さらに教授は

日本は経済力があっても軍事力が無いので、
経済力をもってして国益実現の外交を行なわなければならない。
しかし、経済力を維持するには諸国との協調が必要であり、
ゆえに日本は八方美人外交をせざるを得ない。


と仰った。
確かに日本の外交は「八方美人外交」です。
例えば国連でイスラエルに対する批難決議の時、
賛成はイスラームを国教とする諸国などのおよそ百ヶ国で、
反対はアメリカとイスラエルの二国、という事態が今まで何度も繰り返されています。
イスラム諸国には石油を依存し、方やアメリカには軍事力を依存している。
日本はイスラム諸国にも米国にもいい顔をしなければならなず、
「棄権」という選択をとるしかありません。

最近ではこういう八方美人外交をしない為にも
「アメリカから軍事的に独立すべきだ」
という声もよく聴かれるようになりました。
しかし、今の日本に缺けているのは軍事力だけではなく、むしろそれ以上に理念が缺けています。
なるほど、日本がいくら経済的に発展しても一等国になれない理由がわかりました。
第一、理念無きままに軍事力のみを強化しても意味がありません。
それこそ、「危険」でありましょう。
支那や朝鮮が日本の軍事力強化に懸念を示すのは何も単に日本の軍事力が高まることではなく、
理念無き国が高い軍事力を持つことにあるのかもしれません。
そういう理窟なら私も頷けます。
しかし、心配なさるな。
所詮、日本は高い軍事力を持つようになっても
それを動かしむる理念は到底ありません。
イラク派遣はどうなのだ、と言う方があるかもしれませんが、
あれも結局はアメリカの外圧に拠るもので日本が主体的になしたことではありません。
つまるところ、日本は外圧なしでは動かない。
やはり理念がないからです。

果たして今後、日本は理念を持つことが出来ましょうか。
恐らくは、今後、日本人が理念を持つようになるのは
今の経済力が衰退した時だと思っております。

山本夏彦・著『誰か「戦前」を知らないか』

2006-04-27 00:17:38 | 書評・雑誌
山本夏彦さんの『誰か「戦前」を知らないか』を読み終えた。
形式は「室内」の二十代の女性社員との対談。
私は戦前に関しての歴史的な考証を踏まえた内容を期待していたのだが、
ほとんど、山本さんの思い出話と薀蓄話をという内容。

かといって楽しめなかったということではない。
山本さんと女性社員との掛け合いがリズム良く、
また、教養溢れる山本さんの語りが興味深かかった。
あくまでも山本夏彦さんが見た「戦前」であるけれど、
「戦前」の一端を知るには良い本だと思う。

本書の初めの方で「お尋ね者史観」という言葉が出てくるが、
いかにも山本夏彦さんらしい。

あなた方は戦前という時代はまっ暗だったって習ったでしょう。
「戦前戦中まっ暗史観」は社会主義者が言いふらしたんです。
社会主義者は戦争中は牢屋にいた、転向して牢屋にいない者も常に「特高」に監視されていた。
彼らにしてみれば、ざぞまっ暗だったでしょう。
転向しなかった主義者は戦争が終った途端にアメリカ軍によって解放され、凱旋将軍のように迎えられました。
短期間ではあるが「読売新聞」を乗っとりました。
労働者は唯々として従いました。(中略)
「日教組」はその巨大な組合の一つです。(中略)
彼らは日清日露の戦役まで侵略戦争だと教えました。
戦艦陸奥、長門の名も事典から抹消しました。
僕はそれを「お尋ね者史観」と呼んでいます。


ところで、山本さんは
「戦前、選挙権を欲しがった婦人は日本中で百人か千人だった(大意)」
と語っている。
この箇所は小林よしのりさんの『戦争論3』にも引用されている。
小林さんは少し前に、保阪正康の『あの戦争は何だったのか』を
史料価値のない裏づけ無しの匿名の証言があると批判していたが、
この山本さんの選挙権云々の証言も裏づけ無しではないか。

まぁ、こういう内容ばかりではなくて目次にある小見出しを掲げると、
大正(ご遠慮)デモクラシー、活動写真、郵便局、牛鍋の時代、ライスカレー、寿司そば、
ラーメン、教科書、女学校、きもの、ふみ書きふり、洋行、菊竹六鼓と桐生悠々

・・・などで殆どが方の力を抜いて読める内容。(最後に「桐生悠々」があるところがツボ)

あとがきで山本さんはこう述べている。

江戸の町人はまじめな話を眞顔でするのを野暮と恥じた。
すべてを茶にした。私はよき聞き手を得てまじめをかくすことを得た。


仰る通り野暮はありませんでした。

「気違い」は死語か

2006-04-26 02:04:26 | 言葉・国語
今日、日本文献講読の講義の時に樋口一葉の『にごりえ』を読んだのですが、
その中の一文

顔をあげし時は頬に涙の痕は見ゆれども淋しげの笑みさへ寄せて、
私はその様な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづりで折ふし起こるのでござります。


の「気違ひ」を「キヅカイ(気遣い)」と読んだ学生がありました。
「気違ひ」はもちろん「キチガイ」と読むのですが、
この学生、「違」を「遣」と読み間違えたことは明らかなのですが、
その背景には「気違い」という言葉を普段目にしないことがあるのではないでしょうか。

ところで、『にごりえ』は漢字で書くと「濁り江」で一葉が考えていた原題は
『ものぐるひ』と『親ゆづり』でありました。
親ゆづりの血の故に出世を望み、現実の中で狂っていくという主人公「お力」の運命を象徴するものです。
推敲の末、お力の境遇を濁った江に譬えて『にごりえ』にした。
つまり、この太文字の箇所は原題の由縁となった重要な箇所。
是非とも「きちがい」と読んでいただきたかった。
と、まぁ、偉そうなことを書いていますが、読み間違いは誰にもあること、
この学生を責める気は毛頭ありません。

問題は「気違い」がなぜあまり用いられなくなったかということです。

この「気違い」という言葉。テレビではまず聴く事が出来ないでしょう。
なにせ、古い映画を放映する時にでも「気違い」という単語があると音声を消される。
「気違い」がそんなに悪い言葉でしょうか。
私は「馬鹿の最上級という程度」と認識していますが、
差別語だと捉える人も多いようで、現に放送・出版界では一部の例外を除き、
かかる理由により抹殺されています。
しかし、「気違い」は罵倒語であっても差別語ではないと思う。
要は言葉の使い方であって、差別語ではない言葉でも
時と場合によっては酷く他人を傷つけることになりましょう。
罵倒語も駄目というのなら馬鹿や阿保も一掃しては如何でしょうか。

もっと云えば、差別語にしろ抹殺する事には反対です。

こういうと、あび卯月は差別主義者だとかいう方が絶対出てきますが、
私は別に「差別語をどんどん使っていこう」と言っているのではありません。
差別することを目的に無闇に差別語を使う者などはそれこそ「気違い」です。

私が怖いと思うのは特定の言葉を使い方や言い回しニュアンスに関わりなく
問答無用で抹殺されるということです。
特に文学方面においてはどうしても差別語を使用せねばならぬ場合もあるし、
また、その時代にはこういう言葉を使っていたという事実を知る上でも言葉を抹殺してはならないと思います。
前にも述べましたが長年使われてきた言葉を現代の価値や思想で断罪し、
それも一部の人々の思い込みで簡単に変えてしまうことは
言葉が背負ってきた歴史・文化の抹殺に他ならず、
言わば現代人の傲慢であります。

繰り返しますが、テレビはもとより日常生活において
差別語を使うことを推奨しているのではありません。
言葉そのものをこの世から消し去るという行為に反対しているのです。

そもそも、差別語を抹殺することによって差別がなくなるとは到底思えないのです。
本当に差別を無くしたいと思うのであれば、
むしろ、差別語は残しておかねばなりません。
その上で差別の惨酷さを論うべきでしょう。
言葉そのものを消してしまったらそれは単に差別の存在から目を背ける行為に他なりません。

もっとも、最近では支那や三国人の例の如く、
差別語でもなんでも無い言葉まで抹殺されてゆくという時代ではありますが。

「あまカラ日記」閉鎖

2006-04-25 23:46:29 | 雑記
私がブログの中でもっとも愛読していた「あまカラ日記」が閉鎖するそうです。

きっかけの一つに次のようなことを挙げられている。

テレビを見ても、本を読んでも、落語を聴いても、頭の中で感想文を書き始めているのである。これはかなり不快だった。

この気持ち、ブログをやっている者ならば
少なからずわかるのではないだろうか。
現に私も日常生活においてふと気附くとブログのネタを探していたり
テレビを観たり本を読んだりするたびに感想を考えている。
私はこれを「不快」と感じたことはないが、
そういわれてみると、なるほど自らの生活がブログに制約されているようで不快である。
とはいえ、私はまだブログを運営する楽しさの方が勝っているので
当分はブログを続けていくと思う。

ところで、「「アニメおたく批判記事」を批判されて閉鎖するのか」
などという書き込みがあったが、断じて違う。
そのようなことは記事を読めばわかることである。
まったく反論する気にもなれない。
真っ当な批判はされてしかるべきだが、かかる中傷の類に附ける薬は無い。
アニメおたくはかくも不寛容であったか。
おたくは批判されても、むしろ自嘲するくらいの器を持って欲しいものである。


さて、話を変えましょう。

私が「あまカラ日記」を知ったきっかけは
福田恆存さんについて何気なく検索していたら偶然たどり着いたという具合。
記事の内容が興味深く、且つ面白く
また、高島俊男さんや呉智英さんの記事もあり愛読するようになりました。

流石は福田恆存さんの読者さんとあって文章に力のある方で
保守的ながらも今流行りの“俄か保守”などとは違い、
独自の視点で様々なことを論じられて
私もこのようなブログを目指したいものだ、と御尊敬しておりました。
(まったく私などは福田恆存読者の風上にもおけない。)

今回、閉鎖ということで非常に残念ですが、
ご本人は「休眠後また、書きたくなったら始めるかもしれない。」
と仰っているのでそれにひそかに期待したいところ。

最後に引用されていた福田恆存さんの文章が印象的でした。

批評の専門家になるということはこのうえない不幸だ。健全な批評は副業でなければならない。(中略)ゆめゆめ批評を本業とするなかれ。

まったくその通り。
今後、ブログをやってゆくにあたって、この言葉を肝に銘じたいと思う。

甲本ヒロトがソロデビュー

2006-04-23 23:15:39 | 音楽・藝術
「リンダリンダ」から20年…甲本ヒロトが“ひとりバンド”

 昨年11月に活動休止宣言したロックバンド、ザ・ハイロウズのボーカル、甲本ヒロト(43)がソロデビューすることが22日、分かった。7月5日に8カ月の沈黙を破り、両A面シングル「真夏のストレート/天国うまれ」を発売する。両曲ともに全パートを1人で演奏する力の入れようで、ザ・ブルーハーツで10年、ハイロウズで10年、音楽活動のすべてをバンドに捧げた甲本の、再出発に賭ける思いが詰まった1枚が完成した。
 激しいリズムとエネルギッシュなステージでファンを沸かせてきた甲本が、バンドに別れを告げて半年。デビュー20年目にして、初めて1人で活動することを決めた。
 ソロデビュー曲は、渾身の2曲を書き上げた。まずは「真夏のストレート」。太鼓やシンバルが鳴り響き、笛の音が軽快に踊る大道芸人の楽団を思わせる楽しい曲だ。もう1曲の「天国うまれ」は、ハーモニカーとフォークギターに乗せた三拍子の牧歌的な曲調で、一度聴くと忘れられないメロディーが印象的。両曲ともに、これまでのイメージを覆す楽曲に仕上がった。
 また、ギター、ベース、ドラムなど、ほぼすべての演奏を、2曲ともに甲本自身が担当。これはブルーハーツ、ハイロウズ時代を通じて初めての出来事で、バンドとの決別を如実に物語っている。
 さらに、サンケイスポーツに寄せた初出しのアーティスト写真にも、その思いがにじみ出ていた。甲本は横に大きく扁平して写る鏡の前に立ち、自ら携帯電話のカメラで撮影。1人ですべてを行い、強烈なインパクトを放つことで、再出発に賭ける意気込みを前面に押し出した。
 昭和60年にブルーハーツを結成し、62年に「リンダリンダ」で鮮烈デビュー。素朴でストレートな思いを分かりやすい日本語でぶつけた“日本語パンク”の先駆者として、「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」など数々の名曲を生んできた。
 平成7年にブルーハーツのギター、真島昌利(44)と結成したハイロウズでも、ストレートなロックで自らのスタイルを貫き通した甲本。名刺代わりの一発となるソロ第1弾で、いきなりファンを驚かせることは確実で、今後の活動がますます楽しみになってきた。
(サンケイスポーツ) - 4月23日8時2分更新



この記事を見つけたとき、「えーっ!!」と思わず声を上げてしまいました。
これは実質的にハイロウズの解散を意味するのでしょうか。
私としては少々複雑な心持ち。
まぁ、今後の展開を見守る事といたします。

編集手帳「福田恆存さんはドライアイス」

2006-04-22 00:07:56 | 歴史・人物
二十一日附けの讀賣新聞朝刊の「編集手帳」に福田恆存さんのお名前を見つけ、驚きました。
昨日、福田逸さんの記事を書いたばかりだつたのでなんともタイムリーでありました(笑)
以下、前文転載。

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昭和を代表する論客のひとり、劇作家の福田恆存(つねあり)さんは「ドライアイス」に例えられたことがある。「冷たいが、触れると火傷(やけど)をする」と◆冷たく醒(さ)めた論理のうちに烈火の情熱を蔵した精神を述べたものだろう。烈火がなければ他国に侮られて国益を損なう。烈火のみでは近隣の迷惑者にすぎない。外交の要諦(ようてい)にも通じよう◆日本海に浮かぶ日本固有の領土、竹島を巡って日韓両国の間に緊張の波が高い。海上保安庁が予定する海洋調査に対し、島の領有権を主張する韓国政府が猛反発し、「断固たる対応をとる」と調査の中止を求めている◆「断固たる対応」とは何だろう。測量船の拿捕(だほ)を指すのなら、公海上の公船拿捕を禁じた国連海洋法条約に違反する。烈火に頭がのぼせやすいお国柄とはいえ、国際法に触れて冷たい火傷を負う愚はよもや犯すまい◆韓国は竹島を実力で支配している。国際法破りはそれが「不法占拠」であることを告白するに等しい。激情に駆られて告白するか。和解の道を探り、こぶしはみだりに振り上げるものでないことを学ぶか。韓国政府はいずれかを選ばねばならない◆差しあたり、緊張の高波に舵(かじ)を取る日本政府丸が携帯すべき品々は分かっている。国際法を右手に、対話を重んじる自制心を左手に、胸には領土を守る心を。ドライアイスである。
(2006年4月21日2時4分 読売新聞)

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福田先生が「ドライアイス」に譬へられてことがあつたとは知りませんでした。
なるほど、言ひ得て妙だと思ひます。
それにしても誰が云つたのでせうか?


追記:どうやら「ドライアイス」と譬へたのは芥川比呂志さんのやうです。
中村保男さんの『追想・福田恆存』にかうありました。
ちよつと長くなりますが転載します。

批評家は常に醒めてゐなくてはならない。醒めてゐれば、何を言つても白じらしくなるのが普通である。が、先生は醒めてゐながら情熱をほとばしらせる術を――冷たい理を熱血の情をもつて融解しながら説く方法を会得したのである。
福田さんはドライアイスだ、冷たいが触れると火傷をする、と評したのは芥川比呂志ださうだが、芸術家・福田恆存については、分別と愛を併せもつこともできた稀有の存在といふ形容があてはまるのではないか。「分別と愛を両立させうるのは天上の神々だけだ」とはシェイクスピアのせりふである。冷徹な論理と分析に細やかな情理、その二つを表現行為のうちに体現した福田先生の作品の多くは、端正にして一糸乱れぬ文章構成の中に、ドライアイスのやうに凝集した熱をたぎらせてゐるのだ。忘れもしない、読書会でヴォーリンガーの『抽象衝動』を肯定的に論じ合つたあとで、外へ出ながら先生がぽつりとひとこと、「だけど、やつぱりロマンティシズムだな」と独り言のやうに呟かれたのを。


http://72.14.203.104/search?q=cache:XCshcpO4-AgJ:www.sanseido-publ.co.jp/booklet/f_koson_booklet.html+%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%81%86%E5%AD%98%E3%80%80%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B9&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1

四月廿二日(金)追記

「きらりん☆レボリューション」の凄さ

2006-04-21 22:57:58 | 漫画・アニメ
今春からケロロ軍曹の後に「きらりん☆レボリューション」なるアニメが始まりました。

先週、ケロロを録画していたらついでに録れてしまっていたので、
試しに見てみたのですが、主人公の声優の演技が酷い。
なんじゃコリャという心持ち。
エンディングを確認してみると主人公の声優は
モーニング娘のメンバーである久住小春なるアイドルらしい。
これは事だと思い、
「どこの馬の骨かわからぬアイドルを声優にしたて
 しかも下手な演技でもって他人の畑を荒らすとはどういう料簡か。」
と、まぁ、このような内容の記事を書こうと思っていたのですが、
今週も観てみたら、もうそういう気持ちは吹き飛んでしまいました。

というのも、内容が凄まじいのであります。
とにかくツッコミどころが多い。
妹共々大爆笑。
まず、なーさんというネコだか犬だかわからぬ生物がいる。
しかもその顔が2ちゃんねるのギコネコのような顔。
つまりこういう顔→(゜A゜ )
鳴き声は「なーなー」。

次に、主人公の目がでかすぎ。
というか、まさに「ちゃお」という絵柄。
タイトルを「ちゃお」にした方がいいくらい。
(まぁ「ちゃお」なんて読んだことないけどさw)

さらに、わけのわからぬ電波なギャグが目白押しというありさま。
今日の話で言えば、ケーキを作る際に工事現場の音がしたり、
像の泣き声がしたり・・・
そして、出来上がったケーキにはもの凄い色キノコが生えている始末。
なんなんだこのノリは。
なにやら、デジコを髣髴とさせるギャグセンスであります。
ここまでくると声優の演技が下手なこともギャグの一つとして楽しめてきました。

「きらりん☆レボリューション」スタッフにおかれましては、
今後もこの調子で暴走を続けていただきたく思います。

オタクと思想

2006-04-19 02:03:31 | 雑記
あまカラ日記に「アニメおたくへの迫害は当然」と題する記事が掲載されました。
http://amakara.tea-nifty.com/amakara/2006/04/post_beb3.html
記事のタイトルが示すとおり、アニメおたくへの批判記事で
オタクの小生としては少々耳が痛いのですが、

繰り返し言うが、美少女アニメとかメイド喫茶とか、
最近ああいうものが市民権を得てきたような気がするが、決して許してはならない。
ああいうのをおおっぴらに見たり使ったりする連中は無条件で軽蔑すべきなのである。恥部は隠せ。


という主張は大いに賛成。
メイド喫茶などはこっそりとあるからよいのであって、
市民権を得る類のものではないと思います。
オタクであることをおおっぴらにするのは恥と知るべし。
そして、恥部は隠すものなのであります。
ただ、

メイド喫茶に通ったり、美少女アニメを見たりしながら、
憲法9条の改正を訴えたり、朝日新聞の偏向を非難したり、日本語の乱れを指摘したりしているわけだ。
こういう連中が「伝統」(!)を訴えたりしているのある。


という箇所はちょっと納得し難い。
アニメを観る者が伝統を訴えてならぬは道理がわかりません。
日本が漫画大国になったのは日本の伝統文化が深く関わっていると思うのですが。

私は普段あまカラ日記を愛読しているもので、
あまカラさんに対して批判じみたこと言いたくなかったのですが、
ここは一つ私情を抜きに言いたいことを言いました。
えへ。あまカラさん怒らないでね☆
(ここが私の道徳的に怠惰なところ)

実はこれからが本題。

平生、思っていることに
「政治主義に淫したブログを運営してい若い人はオタクが多い」
ということがありました。
オタクというのはもちろん思想オタクという意味ではなく、
アニメだの声優だのが好きなオタクです。

で、そういうオタクは右派が多いとばかり思っていたのですが、
あまカラさんが紹介しているこの下記のブログを見ると、

新・後藤和智事務所~若者報道からみた日本~
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/

どうやら左派のオタクも居るようですね。
まぁ、当り前と言えば当り前ですが、この後藤氏、声優オタクかぁ・・・。
同属嫌悪ではないですが、やはりちょっと嫌なもんですね。
同級生なだけに、一層嫌悪感を抱きます。
「私はこういう連中とは口を利くのもいやである。」とまでは申しませんが、
やはり右派のオタクも頑張らなければと思う次第。

え?私ですか。
私は思想態度が保守的であるというだけで、
別段、思想というものを持っているわけではありません。
ただ、己の考えの赴くままに駄文を列ねているに過ぎず、
自分では右派でも左派でもないと勝手に思っております。
まぁ、サヨク嫌いだから多分右派なんだろうけど。。

にしても、最近では上の左がかったブログに対して
以前みたいに「一筆申し上げ参らせ候」という気が起きません。
いかんなぁ。。

「婦」は帚を持った女?

2006-04-18 02:21:57 | 言葉・国語
今日、TVタックルを観ていたら看護婦を看護師にした愚を三宅久之さんが論っていました。
そのなかで、元・社民党議員の中川智子さんが
「婦」を「師」に変えることに反対していたということも知りました。
これはとても意外。
てっきり、社民党の女性議員は皆「婦」はケシカランと言うものと思っておりました。
小生、中川さんを少しだけ見直した次第。

さて、それに関して田嶋陽子さんは予想通り「婦」に噛み付きました。
曰く「婦」は「帚(ほうき)」を持った「女」という意味だから女性蔑視だ、と。

辞書を引いてみると実際にそういう解釈をしている辞書もあります。
しかし、これは大いに由々しき事態であります。
なぜなら、「婦」の右側の「帚」は「ほうき」ではないのですね。

これには少々説明が必要です。

「婦」という漢字が作られたのは支那の殷の時代だと言われています。
当時、「婦」は王の妻に授与される称号で女性としては最高位の爵位でした。
蔑称であるとは到底言えませんね。

ではなぜ「女」に「帚」と書くのか、「帚」はどういう意味か。
殷においては祭祀と卜占(占い)によって政事・行事が執り行われていました。
卜占は亀甲や牛などの肩胛骨の形や厚みを整え、それに火を押しつけるための刻みを入れ、
最後に甲骨を清めるという儀式をします。
さらには宗廟など、祭祀が行なわれる斎場を祓い清めなければなりません。
こうした神聖な仕事に従事した女性たちが「婦」と呼ばれたのでありました。
つまり、「婦」は王の妻に贈られた爵位であると同時に祭祀の従事者である女性の称でもあったのです。
したがって、「帚」はゴミを掃く掃除道具などではなく、束茅(そくぼう)と呼ばれる神具を意味するのであります。

田嶋センセイ、おわかりいただけたでしょうか。

第一、三宅さんが仰っていたように、
「婦」の成り立ちがどうであれ看護婦さんをはじめそう呼ばれる人が蔑称であると認識していない以上、看護師などという言い換えは全く必要のないことです。
しかも、今、医療の現場では「女性の看護師」「男性の看護師」という言い方をするそうです。
それならはじめから「看護婦」「看護士」という方が余程便利で血も通った言い方です。

言葉狩り全般に云えることですが
長年使われてきた漢字や言葉を現代の価値や思想で断罪し、
それも一部の人々の思い込みで簡単に変えてしまうことは
漢字や言葉が背負ってきた歴史・文化の抹殺に他ならず、
言わば現代人の傲慢と云えましょう。


それにしても、全く辞書とはいいかげんなものです。
辞書が誤った記述をすることは
多くの人が無条件で辞書を信用する傾向にあるので普通の本の誤記より害が大きい。
広辞苑や新明解国語辞典も当然、間違いがあります。
皆さんもあまり辞書を過信しすぎぬよう。

愛国心について

2006-04-17 02:53:13 | 政治・経済
今週の「スタ☆メン」の後半で愛国心についての特集が組まれていました。

教育基本法改正の焦点となっていた「愛国心」の表記が「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する―」となったそうです。

私は愛国心が法に盛り込まれることには実は懐疑的であります。
というのも、本来の意味で愛国心は国からどうこう言われて持つものではないからです。
我々は人を愛す場合、ある人から命令されて愛すわけではなく自発的に人を愛す。
国の場合も同じで愛国心は自発的なものであるべきで、
国から「国を愛せ」と言われて愛国心が生まれる道理はありません。

とは言うものの、わが国では教育の現場で反国家的な教育が長年に亙って行なわれてきました。
勿論、全てではありませんが、左翼イデオロギー集団である日教組が教育現場に多大なる影響を与えつづけてきたことは事実です。
また、戦後は国家の存在を悪と見做し、
「愛国心」と言うと右翼や軍国主義者のレッテルを貼られる、
などという風潮が出来上がってしまいました。
長い間、愛国心は否定されつづけてきたわけです。

そういう現実を鑑みると教育基本法に愛国心を盛り込まざるを得ない事情はわからなくもありません。
しかし、私が申し上げたい事は
教育基本法にわざわざ「愛国心を養おう」という文言を明記しなければならないとは情けない、
ということです。

なぜなら、本来なら愛国心を持つことは当り前のことです。
やはり、わざわざ、法に明記することでは無いように思います。

「当り前のこと」と述べましたが、
それは別に国家の為に身を奉じるといった類のものではありません。
それも一つの愛国心の発露でしょうが、
愛国心とは本来、人が自らの子を愛したり、
また、自分が住んでいる土地を愛し、郷土を愛するように
至って自然な感情であると言えます。
その延長線上に国があり愛国心の根幹をなすものでありましょう。

福田恆存はこう述べています。


私達が自分の國に愛情を持つためには、
自己が世界で最も美しく最も善い國であり、一度も間違ひを犯した事が無い國であるである必要が何處にあるか。
自分の國だから愛する、それ以外になんの必要もありますまい。
早い話が子は親を、親は子を、夫は妻を、それが世界で最も立派であり、
最も優秀であり、最も美しいから愛するのか、そんな事はありますまい。



愛国心というとどうも政治主義の匂いを感じ取ってしまいがちですが、
もっと広い意味で捉えるべきだと思います。
その点で右派も左派も間違いを犯している。

教育の現場には愛国教育も反日教育も必要ありません。
ただ、自国の歴史・伝統・文化を偏りなく子供たちに教えれば良いのであって、
そうすれば自然に国を愛する心が育つのではないでしょうか。

戦後日本の不幸はそれさえも出来ず、
偏向した歴史観しか教えられてこなかったということでありましょう。
今はそれを脱却すべき時で、
そういう意味での教育基本法改正であれば歓迎したいと思っております。

メイド喫茶へ行く

2006-04-14 00:46:35 | 日記
昨日、妹と大学の帰りにメイド喫茶に行って来ました。
博多の「よかちゃ」というお店。
九州で初めて出来たメイド喫茶だそうです。
「よかちゃ」小さなビルの四階にあり、とてもこじんまりとしていました。

私も妹もメイド喫茶に行くのは初めて。

お店のドアに曰く「十八歳未満おことわり」・・・
本当に大丈夫か?
入店する前からビビる私(笑)

入店(帰宅?)すると同時に
「お帰りなさいませご主人様、お嬢様ー。」
うああ。テレビで観たのと同じだ。
何故かビビッている私(笑)

私はメイドさんに慇懃にされると恐縮してしまうタチで終始緊張していました。
一方、妹は終始堂々としていて兄としての威厳が台無しです(笑)
やっぱり女は度胸だよなぁ。。

このお店のメイドさんはとってもフランクで何度も話し掛けこられました。
どこでもこうなんでしょうか。
妹は「髪がサラサラですね~」とか「服が可愛いですね~」とか話し掛けられていました。
私には「眼鏡を外すと印象が変わりますね」とか。
(食事の時、眼鏡を外した)
私の受け答えは「あっ、はい。はははは(笑)」みたいな堅い対応。

いかんなぁ。
もっと私もフランクに話さねば。。
とも思ったが、元々こういう所に向かない人間なのかも。
オタクのくせにこれだからなぁ(笑)
まぁ、いいんです。
メイドさんは遠くから眺めて萌えるべし。

そういえば、メイドさんがテーブルでグラノーラにミルクをかけてくれるのですが、
その時、ほんの少しミルクをこぼしてしまい、
慇懃に謝った後、「ドジッ娘なもので(笑)」と言われました。
凄い。ホンモノのドジッ娘メイドだ(笑)

次回は博多にあるもう一方のお店に行く豫定。
こう御期待。
(だれも期待してないよ。)

【書評】『沖で待つ』

2006-04-11 00:45:59 | 書評・雑誌
文藝春秋に掲載されていた芥川賞受賞作、
『沖で待つ』(絲山秋子・著)を今更ながら読んだ。

なんというか爽快な読後感。
私は普段、政治主義に堕した論文ばかり読んでいて、
小説はほとんど読まないのだけれど一気に読めた。
内容や表現が難しくないというものあるのだろうが、
逆に云えば読者を読ませる文体なのだと思う。

とにかくこの作品は可笑しかった。
面白いというよ「可笑しみ」があった。

特にこの主人公(及川)と太っちゃんの会話の箇所は声を出して笑ってしまった。


「パソコンって、壊そうと思って壊れるもの?ハンマーで破壊するの?」
「あー、なんもわかってねえな。HDDていうのはね、パソコンの中の弁当箱みたいなパッケージにディスクが入ってるの」
「データをごみ箱に入れれば済むんじゃなくて?」
「残るんだよ。官憲が見ればすぐばれる」
官憲って。



突然、官憲(笑)
不意打ちだった。
最後の“官憲って”というのは主人公と同時に作者自身のツッコミだろう。

少し不思議で可笑しい小説を読みたいのなら、『沖で待つ』を是非どうぞ。