あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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「昭和の日」に昭和を思ふ

2007-04-30 02:13:32 | 歴史・人物
今日は昭和の日でありました。(既に昨日になってしましましたが)
やはり、昭和天皇の天長節だったからには「みどりの日」よりは「昭和の日」の方がしっくりきます。
一部には昭和の日なんて復古調だという意見もあるようですが、なにも、昭和の日は昭和天皇を偲ぶというだけの日ではありません。
もっと広く昭和という時代に思いを馳せる日だと思います。

もっとも、私が昭和天皇を敬愛していることはじじつです。
昭和天皇は、知れば知るほど好きになる。
色々な意味で昭和天皇には敵わないという思いがあります。
幼い頃、昭和天皇の悪口を聞いた事の反動なのかもしれませんが、やはり、昭和天皇には並々ならぬ思いがあります。
それは、単純に天皇だからということではありません。
むしろ、天皇という立場でありながら人間としても洵に立派な方であられた。
どうも、昭和天皇の事になると厳正中立でいられない自分がいます。
(今の陛下に対してはそうでもないのですが(笑))
こんなことを書くとまた右翼などと呼ばれそうですが、自分では単純に昭和天皇のファンだと思っています。
ミーハーなだけかもしれません。

天皇の話はこのくらいにしておきます。
昭和という時代は様々なことが起こりました。
日本の歴史を語る上で最も重要な時代かもしれません。
最近、昭和時代を良い意味でも悪い意味でも見直す動きがさかんです。
それは、昭和が終わり二十年近く経ち、日本人自身が昭和という時代を客観的に捉えることが出来るようになってきたからではないでしょうか。
私は洵に歓迎すべきことだと思いますし、そういう意味でも今年から四月二十九日がみどりの日から昭和の日になったことは大変意義のあることだと思います。

繰り返しますが、昭和期に日本人は多くのことを経験しました。
恐慌、満洲事変、支那事変、大東亜戦争、敗戦・占領、経済復興・・・。
どの出来事にも光と闇が存在します。
そして、我々日本人は歴史を知り反省するべきだと思います。
反省と云っても、侵掠戦争をして諸外国に迷惑を掛けたから反省・謝罪するべきだとか、そういうことではありません。
むしろ、光と闇の部分を明らかにし、それを教訓とし未来に活かすべきという考えです。
そういう意味の反省です。
昭和をひたすら美化したり、或いは醜化してもおそらく未来に活かす事はできないでしょう。
むしろ、普通の意味で反省すべきは昭和時代を詳しく理解しようとしてこなかった今の我々なのかもわかりません。

私は今、某大学院で昭和前期を研究していますが、左右どちらの史観にも与さず、なるだけ、客観的に歴史を見つめなおそうと努めています。
このことが、今後の日本の為になるなら、これ程嬉しいことはありません。
とはいえ、あまり大仰に構えず自分なりに研究を進めたいと思います。

そんな感じで「昭和」に思いを馳せた一日でありました。

オタクはオタクを嫌悪する

2007-04-28 02:17:12 | 漫画・アニメ
 「新世紀エヴァンゲリオン」などで知られるアニメ製作会社・ガイナックスの取締役を務める赤井孝美氏と社員が「mixi日記」に書き込んだ内容がファンに不快感を与えたとして、赤井氏は4月27日、取締役を辞任することを同社Webサイトで明らかにした。
(略)
 問題になったのは、同社の社員が4月4日付けで書き込んだ「キモヲタは何故2chに悪口を書くのか」というタイトルのmixi日記。グレンラガンの批判が「2ちゃんねる」(2ch)に書き込まれていたことを取り上げ、「バーカバーカ、キモヲタ死ね!!」「こんな奴らを相手に商売しなきゃならんのかと思うとうんざりです」などと書き込んだ。

 これに対し、赤井氏は「オール匿名だし、ひとつの板で書いてる人って同じ奴が数人でグルグル書いてるパターンが多いから、だんだん中毒っちゅうかね、他人よりすごいこと書きたくなる。『オレはオマエらとは違うんだぜ。』と。そんなのマトモに読むのは、肛門に顔近づけて深呼吸するようなもんです。必ず屁を吸ってしまいますぞ」とコメントをつけた。

 また社員は別の日記で、グレンラガンの作画についてファンが批判した内容について「素人が知ったような口をきくなっつーの」などとmixi日記に書き込んでいた。

 一連の発言に対し、ユーザーからは「ファンを侮辱している」などと批判が相次ぎ、ガイナックスの公式ブログにはコメントが殺到する「炎上」状態になっていた。

 これを受け、赤井氏は27日付けで、ガイナックスのWebサイトで謝罪文を公開。赤井氏は「いずれも視聴者全般を侮辱したり、2ちゃんねる掲示板そのものを貶める意図はありませんでしたが、結果として多くの方に不快な思いをさせ、心を傷つけた事実は重く、弁解の余地はありません」と陳謝した。またmixi日記がWeb上に公開されたものであるという意識が欠けていたことも反省しているという。

 その上で「自戒と反省の意味を込めて」、ガイナックス取締役を辞任することを明らかにした。グレンラガンのプロデューサーも辞し、29日放映予定の第5話から名前が外れるという。社員は厳重注意にしたという。(以下、略)

4月27日18時21分配信 ITmediaニュース


愉快なニュースが入ってきた。
市長が殺されたり商店街が燃えたり暗いニュースが多い中こういうニュースを聞くとホッとする。
・・・などと云うと私もお叱りを受けるだろうか。

それにしても思うのは、このガイナックスの社員や赤井氏の書き込みに怒った人たちに欠けていたのはガイナックス社員(赤井氏も含め)もオタクだということである。
オタクが同じオタクを痛罵することは何も珍しいことではない。
以前、伊集院光さんがラジオで「マニアが嫌いなのはマニア」と云っていたが、その通りだと思う。
人が一番嫌いなのは自分とよく似ているが微妙に意見の違う人である。
まったく考え方の違う人間にも腹を立てるが、それは別の人間と思うからそれまでである。
が、自分の身内や仲間、思想が近いにも関わらず意見が合わないと余計に腹が立つのである。
これに「近親憎悪」という単語を当てはめてもいいが少しニュアンスが違う気がする。
「同種嫌悪」と言った方がしっくりくる。
そんな言葉あるのかどうかは知らないけれども。

ともあれ、オタク同士の対立は凄まじい。
ネットを覗けばいつも同じファン同士で喧嘩ばかりしている。
いや、ネットだけの話ではない。
「新しい教科書を作る会」の内紛も結局は同じオタク同士の喧嘩だし、かつての左翼の内ゲバに至っては殺人まで起こった。
そういえば、ユダヤ、キリスト、イスラームの対立も…と云えば話を広げすぎだろうか。

しかし、似たもの同士で喧嘩している例がいかに多いことか。
そして、そういう争いは限りなく醜い。
今回のガイナックスの騒動もどっちもどっちという気がする。
ただ、ガイナックス側はもっと自分の立場を自覚するべきだった。
ミクシィにそんなこと書いたら直ぐにオタクに嗅ぎ附けられて痛烈な批判を浴びる事くらい予測出来なかったのだろうか。
いづれにしても、オタクはオタクから批判されてももっと広い心をもって捉えるべきだ。
どうせ向こうもオタクなのだから。

商店街消える

2007-04-27 23:56:30 | 社会・世相
報道ステーションで横浜の二つの商店街が放火に遭ったというニュースをやっていた。
その商店街はどちらも昔ながらの景観と風情を残していて、そこで商売をしている人も昔ながらの人という感じがした。
中でも九十歳を過ぎたおばあさんがインタビューを受けていたが「世間様が~」など遣う言葉がまた古き良き日本を髣髴とさせて胸に熱いものが込み上げてきた。

戦後の日本は社会構造の変化に伴い、地域社会が衰退した。
それに伴い商店街も衰退した。
平成十二年に成立した新大店法は商店街の衰退に拍車を掛けた。
新大店法について簡単に説明すると、かつて日本には大型店舗を作るのに様々な規制があった。
それが旧大店法(大規模小売店舗法)である。
大型スーパーを建てようとしたら商店街の一軒一軒から承諾を貰わなければならなかった。
他にも保健所など様々な機関の許可も必要で、大体一店舗建てるのに十年は掛かっていたという。
大型量販店はこれに反撥した。
もっとも反撥したのはアメリカの玩具量販店トイザラスだった。
アメリカ政府はトイザラスと一緒になって日本政府に圧力を掛けた。
而して、平成十二年、新大店法成立と相成ったわけである。
新法成立というより規制撤廃と云った方が解りやすいだろう。

それから七年経って、全国見渡す限り商店街は廃墟だらけになった。
それで苦しんでいるのは商店街の人々だけで一般の消費者はむしろ大型スーパーがあちこちに出来て便利になったと喜んでいる。
便利の裏に切り捨てられる人たちも居るという良い例だ。

話はそれるが、先程の九十歳過ぎのおばあさんは闇市の頃も体験しているという。
「あの時は警察から厳しく取り締まられたけど、それでも待ちわびるお客さんを見るとねぇ・・・」と云っていた。
私はこれまた胸が熱くなったのだが、2ちゃんねるの書き込みを見ると「闇市を肯定するな」とか「闇市に関係していたと堂々と言えるのは在日朝鮮人」などという書き込みが見られた。
冗談じゃない。
闇市を肯定するもなにも当時の人々は皆、闇市で食料を調達していたのだ。
闇市がなければ生きてゆけなかった。
自分の祖父母に訊いてみるといい。
戦後の食料難の時、非合法な手段で食料を手に入れたことは一度も無かったか、と。
それにおばあさんは「警察から取り締まられた」と云っているのだからおそらく朝鮮人ではない。
当時、朝鮮人と台湾人は戦勝国人でも敗戦国人でもない三国人として扱われ、警察は手を出しにくかった。
(支那人は戦勝国人なので三国人ではありません)
それゆえ、多くの闇市を朝鮮人が取り仕切っていたのだ。
そういう闇市は摘発されにくい。
積極的に摘発されたのは日本人の闇市である。
ついでに言っておくとあのおばあさんが朝鮮人であって何の問題があろうか。

今後、ああいう地域に密着した商店街は再興するだろうか。
おそらく、しないだろう。
それは地域社会にも言えることである。
日本の地域社会を本質的に再興させるには農村社会に戻らなければならない。
が、そうなることはまず無いだろう。再興しないと思う所以である。
「世間様」という言葉も消えるかもしれない。
私はこれを深く悲しみとする者だが、若い人にはなんとも思わない人が多いようだ。
ますます哀しい。

そんなわけで、無理矢理結論を出すが、古き良き風情の残る貴重な商店街に放火した痴れ者は死刑にするべきだと思う。

雨宮処凛は右翼だったか

2007-04-20 01:26:55 | 歴史・人物
前にも書いたが、いま『論座』が面白い。
そこに掲載されている意見に私が与するかどうかは別問題として興味深い記事が多くある。
いや、別問題というより、自分の意見と異なった意見が載っているからこそ興味深く読める。
勿論、中には読むに値しないものもあるがそれも含めて楽しい。

先月号(四月号)は「グッとくる左翼」という特集が組まれていた。
曰く、今まで貧困層は右に傾いていたが、愛国心じゃハラが膨れないことに気づいて左傾化している、と。
その代表者に雨宮処凛が挙げられ、雨宮氏自身の記事の掲載されていた。

雨宮処凛といえば、かつて右翼系パンクバンドのボーカルとして活躍していた人で、実際に右翼団体にも所属していたこともあり、「ミニスカ右翼」などと呼ばれサブカル界では以前から有名だった。
今ではすっかり左傾化して去年の七月から「週刊金曜日」で書評委員をつとめている。
最近では主に若年層の貧困問題について様々な活動をしているようだ。
雨宮氏の記事の内容も貧困問題に関するもので私は大変共感しながら読んだ。

ところで、私は前々から疑問に思っていたことがあった。
雨宮処凛は果たして本当に右翼だったのだろうか、というものだ。
というのも、雨宮さんが右翼バンドをやっていた当時から私には到底右翼に見えなかったからだ。
どうも、ファッションでやっているようにしか見えなかった。
右翼団体に所属していたことすらもファッションにしか見えなかった。
私はこの答えに浅羽通明・著『右翼と左翼』を読んだ時、偶然出くわした。
少し長くなるが引用する。


『生き地獄天国』(太田出版)という書があります。女流作家雨宮処凛がその青春の彷徨を綴った自伝エッセイで、(略)
アtピーといじめに苦しめられ、両親には優等生であることを強要された少女時代から、ビジュアル・バンドのグルービー、リストカット、自殺未遂を経て、美大浪人、人形アーティスト死亡で上京、「ガロ」系マンガ、オウム信者、パフォーマー、バックパッカーがうじゃうじゃたむろする中央線のいわゆるサブカル文化へ浸り、バンドを組み、そして右翼闘士に。
 そんな半生記のなかに「私にとっては、右翼も左翼も死体写真集もサブカルチャーだったからだ」という一文がありました。
(略)
他人との折り合いの悪さや肥大した自意識から、居場所を狭め承認欲求を抱えてアイデンティティを模索する若者はいつの時代もいます。
(略)
雨宮のごとき少年少女は日々生れ、自らが自らである証を実感したくて、サブカルチャーを追い、さらには新宗教カルトや過激で異形な政治活動にも魅惑されてゆくでしょう。


浅羽氏の分析に思わず膝を打った。
ファッション右翼というよりは居場所を求めた結果、右翼になったといった方が正しいようだ。
じつは『論座』の記事にもこう書いてあった。


私が右翼にいた理由はさまざまだがフリーターだったこととの関連はあまりにも大きい。第一に、フリーターはどこにも属していない。属したくても属せない。(略)
たった一人、社会から切り離されて浮遊していた私は、どこかに属したくて仕方なかった。


また、なぜ所属した先が右翼団体だったかという理由については、


不安定で貧乏だった私は、国内に自分以下の比較対象がなかった。だからこそ、第三世界の惨状と、貧乏な上にどうやら未来もない自分の境遇を照らし合わせては、日々「日本に生まれた私は幸せだ!」と自分に言い聞かせていた。自分について幸運だと思えることが、「日本に生れた日本人であること」しかなかったのだから仕方がない。


と書いてあった。
貧乏であるがゆえの不安と不満が右翼思想と結びついたのだろう。
貧乏は場合によって右翼とも左翼とも結びつく。
雨宮さんの場合は右翼思想と結びついた良い例だ。
じっさい、「とにかく自分が生きていきづらいこの社会について、考えたかったのだ。その意味では、右翼でも左翼でもよかった。」と書かれてあった。
やはり、どちらでも良かったのだ。
しかし、左翼の言葉は高学歴で難解だったから右翼の方がわかりやすかったとのことらしい(笑)

さて、話が長くなったのでまとめよう。
結局、雨宮さんが本当の意味で右翼だったのか、という問には自身の「私にとっては、右翼も左翼も死体写真集もサブカルチャーだったからだ」という一文にその答えを見いだす事ができる。
居場所を求める若者はサブカルに走りやすい。
そして、いまの若者にとっては右翼も左翼もサブカルの一種なのだろう。
そう考えると、右翼漫談師・鳥肌実がサブカル好きな若者の間で絶大な人気を誇っている事もうなずける。
もっとも、鳥肌さんはノンポリだし、人気の理由はあのイカレっぷりにもあるのかもしれないが。

右翼思想、左翼思想がサブカルとしてでしか認知されていないとするならばそれはもはや右翼・左翼思想の敗北だろう。
これは所謂、ネットウヨクやネットサヨクの問題とは別の問題を孕んでいる気がする。
この点はまた別の機会に書きたいと思う。

最後に。
左翼だろうが右翼だろうが、いま雨宮さんは貧困問題を真剣に考え本気で取り組んでいる。
私は心から応援したいと思う。
あび卯月は雨宮処凛を応援しています。

大人と若者

2007-04-19 01:51:57 | 政治・経済
先日、たかじん委員会のVTRに後藤和智さんが出ていた。
相変わらず大人の若者批判に憤りを露わにされている。
御自身のブログを拝見すると「左派と呼ばれる人たちでも、いざ若者論となると急に保守的な心情を露わにし、「一昔前の当たり前」の喪失を憂えたり、あるいは若年層の「劣化」を嘆いたりすることは決して稀ではない。」として筑紫哲也を批判していた。

最新記事から筑紫哲也の意見を孫引きさせてもらうと


この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。(筑紫哲也[2005])


子どもたちを一週間、自然のなかに置く。そこでどう遊ぶか、大人は指図せず放って置く。大人は野で寝そべっていて、子どもたちが危ないことにならないようにだけ注意しておればよい……。

 普段あまりにも「自然」から切り離されている者が、そこに戻ることは人間が生きもの、いや動物の一種だと実感する大事な機会だと私も思う。寒い、暑い、痛い、快い、など肉体の実感から遠ざかるように育てられている子どもたちにとっては、なおさらである。だが、これだけ遠ざかってしまうと、そこに回帰するのは容易ではない。

(略)

 自然のなかで過ごさせようと、山の中に泊めると、林のそよぐ音、谷川のせせらぎの音、虫の鳴く音などがうるさくて眠れない都会の子が多い。戻った都会の自宅は人工音だらけなのだが、そこではぐっすり眠れるという。

 虫の音に美しきを感ずるのが日本人の感性で、「騒音」と見なす西洋人とそこがちがう――というのが長らく日本人ユニーク論の論拠のひとつだったのだが、そういう日本人はやがて絶滅に向かうだろう。(筑紫哲也[2006]pp.88-89)



とある。
わたしなんぞは「へぇー、筑紫哲也もなかなか良いことを言うものだ」と感心してしまうのだが、後藤さんは違う。
「いかがであろうか。結局のところ、「左派」であるはずの筑紫もまた、若年層における「自然」の喪失が全ての問題の起点である、というような認識を述べているのだ。」と述べたあとで、「私はこれは危険なナショナリズムの兆候であると考える。」と書いていた。
私も問題の起点が「自然の喪失」だけにあるとは思わないがその意見が「危険なナショナリズムの兆候」だとも思わない。
子供はもっと自然と触れ合うべしという意見は至極まっとうなものだと思う。
「林のそよぐ音、谷川のせせらぎの音、虫の鳴く音などがうるさくて眠れない都会の子」が居るなんて洵に哀しい事だと思うのだが、これも危険なナショナリズムなのだろうか。
大体、こういう問題に右も左もないだろう。
いや、むしろ、自然と人間との繋がりを大切にするのは(戦後においては)左派が多かったはずだが。
開発と称して、都市化と称して、合理化と称して、便利と称して、徹底的に日本の自然を破壊してきたのは一体どちらに近い勢力だったか。
無論、自然を愛さない者は本当の意味で左翼でも右翼でもないと思う。
まさか、後藤さんは都市化・工業化を徹底的に推進する資本主義者ではないはずだ。

さて、私はどうやら若者ではないらしいので、最近の若者はなっていないと常日頃思っている。
私の妹なんかはもっと過激で「(馬鹿な)若者なんぞ皆死ねばいいのに」とまで言っている。
妹の意見はさておき、私は毎日若者に不快にさせられている。
それは電車を使うからである。
電車に乗ると嫌でも若者の不快なる行いを目にする。
いや、電車だけではない街にでるといたる所でそういう場面に遭遇する。
大学も例外ではない。
今日も講義中に堂々と寝ている輩が居た。
思わず寝てしまうことは誰にもあるだろう。
要は態度の問題でその若者は初めから寝る体勢で寝ていた。
これほど失礼なことはない。
それに、そんなに講義を受けたくないのならとっとと大学など辞めるがいい。

とにかく、最近の若者に我慢ならないのは無礼者と無法者が多いということに尽きる。
無法者はマナー違反者と言った方が解りやすいと思うが、とにかくそういう輩が多い。
嘘だと思うなら、私が見た若者の行いを日々帳面に記録してここに公開してもいい。
おそらく膨大な量になるだろう。
大人に悪口言われて悔しかったら、もっと常識を身に附けるがいい。

・・・と、まぁ、私とてろくに常識を知らぬ若者なのだけれど、そんな私でも若者が嫌いということだ。
誤解の無いように書くが、そりゃあ勿論立派な若者も沢山居る。
全員が全員駄目だなんて思っていないし、そんなことあろうはずがない。
しかし、駄目な若者が増えてきていると感じるから悪口を言うまでだ。
こう書くと、「それみろ「感じる」だけで客観的なデータや統計がないではないか」言われるかもしれない。
が、「感じる」というこれほど確かな証拠はないと思う。
それに実際に目にしているのだから一々統計を取る必要はない。
いや、仮に統計で逆のデータが出たとしても私個人としてはそんなこと知っちゃこっちゃないのである。

たかじん委員会で三宅久之さんが面白い事を言っていた。
「エジプトの五千年前に書かれた文章に「最近の若者は礼儀知らずで~」というものが残っていた」(要旨)と。
これ、十年くらい前の『こち亀』でも紹介されていたと思う。
そう、ジェネレーションギャップなんて五千年前からあるのだ。
言い換えれば、大人が若者を批判することは当り前のことなのである。
むしろ、それが大人の仕事であると言ってもいい。
時には若者に対して理解を示すことも必要だが、「それは駄目だ!」と思ったら保守固陋といわれようと「危険なナショナリズム」と言われようと批判すべきなのである。
私は若者に理解がありますよという顔をして若者に媚びを売る大人ほど醜いものはない。
私はそんな大人なんぞ大嫌いである。
一方、若者の方もそんな大人に反撥するべきで、後藤さんの行いは若者の正しい姿だと思う。
というわけで、後藤さんこれからも頑張ってください。

「宵のうち」消える

2007-04-17 23:06:08 | 言葉・国語
四月十一日附の朝日新聞の天声人語を読んで予報用語から「宵のうち」が消えることを知った。


(略)
「宵のうち」という表現が、気象庁の予報用語から消えることになり、惜しむ声が相次いでいる。午後の6時から9時をさすが、もっと遅い時間だと誤解する人がいるからという。新しい表現は「夜のはじめごろ」になる。機能的だけれど、いまひとつ趣を欠く。
(略)
 戦後すぐに当用漢字を定めたとき、「魅」の字はいったん選にもれたという。国語審議会である有名作家が、「これがないと日本語に魅力がなくなるなあ」と注文をつけ、それで息を吹き返したそうだ。気象庁の会議では、「天気予報に魅力がなくなる」という声は出なかったのかなあ。



いつも天声人語を読んで「ナニ言っているんだ」と思っているが、今度ばかりは天声人語子の意見にまったく同意。
「機能的だけれど、いまひとつ趣を欠く。」という一文がにくいね。
一般的に合理性を重視して情緒だとか伝統を無視するのが進歩派でその逆が保守派だとされているから餘計に面白い。
それにしても全くもって「天気予報に魅力がなくなる」と思う。
いや、天気予報どころかこれも日本語に魅力がなくなる。
「ある有名作家」というのは山本有三さんのことだが、気象庁には山本有三さんのような人が居なかったと見える。

「宵のうち」を消すなんて気象庁は何を考えているのだろう。
「宵のうち」だとなぜいけないのか。
毎日新聞の記事にこうあった。


同庁は、変更の理由を「宵のうちなどの表現は、人によって時間帯のとらえ方が異なるため」と説明する。97年には▽午後3時~6時を「夕方前」から「夕方」に▽午後9時~午前0時を意味する「夜半前」を「夜遅く」に変更した。当時も「いつの時間帯を指すのか分からない」という声が寄せられたのがきっかけで、「夜半」という言葉は天気予報から消えた。
(4月9日14時19分配信)



冗談じゃないと思う。
「いつの時間帯を指すのか分からない」と言ったのはどこのどいつだ。
わからないなら調べろ。
そして、気象庁もなんでもかんでもわからない方に合わせるな。
特に古くからある日本語を「誰にもわかりやすいように」という偽善的な理由で変えてゆくことが我慢ならない。
漢字を何でも平仮名にする風潮と併せて、これ以上、日本語を幼稚にさせてどうする気だろう。

言葉は使わないと死んでゆく。
私が好んで古い言葉を使うのは何も衒学の為でなく、少しでも言葉を長生きさせたいと思っているからだ。
しかし、私独り頑張ったところでどうにもならない。
いま、日本語を命運を左右するのはテレビだと思っている。
これから下の世代はテレビで使わない言葉は覚えない。
気象庁が「宵のうち」を使わないなら、「宵のうち」は死んだも同然である。
日本語がまたひとつ失われてゆく。

「ケータイ(携帯電話)」嫌い

2007-04-13 00:59:24 | 社会・世相
今まで何度か触れた事かも知れないが携帯電話が嫌いである。

ところで、いちいち携帯電話と書くのは面倒なので以後、「ケータイ」と書く。
「携帯」という表記では電話以外にも携帯するものがあって混同されるので私は「ケータイ」という表記を好む。
「ケータイ」と表記した際に発生する間の抜けた感じも携帯電話にピッタリだ。

さて、再び言う。
私はケータイが嫌いである。

では、ケータイを持っていないのかと問われれば持っている。
みな持っているので私も持っていなければ仕事が出来ないのである。
就職活動すら出来ないのである。(因みに、小生まだまだ学生です)
ここまで普及したばかりに持たざるを得なくなっている。

あんなもの誰が発明したのだろう。
みな、ケータイが出来て便利になったという。
ケータイの御蔭でどこでも電話が出来る、と。
時間を有意義に使えるようになった、と。
メールで手軽にコミュニケーションが出来るようになった、と。

しかし、考えてもみればケータイが出来てしまったがばかりに時間を有意義に使えるどころか、仕事が増えてより忙しくなったのである。
手軽にコミュニケーションが出来るようになった結果、人間関係がお手軽になり稀薄になったのである。

それに腹に据えかねるのはケータイの使用マナーの悪さである。
先日も電車内で平然と十分以上ケータイで会話をしている若者が居た。
こう書くと、またあび卯月お得意の若者批判が始まったか、と思われる方があるかもしれないが、そうではない。
いまや、ケータイを使うのは若者に限ったことではないし、マナー違反をするのも若者に限ったことではない。
今日も電車に乗っていると私の直ぐ横の席でお年寄りがメールを始めたので驚いた。
しかし、もはやメールはちっとも気にならない。
(かといって、電車内で皆、めるめるとメールを打っている光景は美しいとは言えないが。)

私はこのメールというものがまた苦手で友人からメールが来ても打つのが面倒で返さない事がたびたびである。
すると、いつの間にかそっぽを向かれ誰も私にメールをしなくなる。
メールが来なくなるのは願ったり叶ったりだが、附き合いの悪い奴と思われて村八分にされるので、やはり来たメールは返さなければならない。
基本的にメールを無視するという選択肢は無いのである。
そして、それが案外時間を使うので嫌気が差す。
これぞまさしく時間の浪費であり、時間を有意義に使えるようになったというのは嘘っぱちであるのがわかる。

しかし、かつて山本夏彦翁が言ったように、出来てしまったものは出来ない昔に戻れないので今の状況を甘んじて受け入れるしかない。
気に喰わないからケータイなんか無くしてしまえ、というのは、核兵器を無くしてしまえと同じくらい無理な相談なのだ。
だから、せめてここに愚痴を書いてみた。

早坂隆・著『世界の日本人ジョーク集』

2007-04-12 00:16:49 | 書評・雑誌
早坂隆・著『世界の日本人ジョーク集』が売れているらしい。
私がこの本を購入したのは去年の十月。
当時、この本の帯には妻が間男と同衾しているイラストが描かれていた。
しかし、ベストセラーになったら流石に不倫現場の絵は憚られるとみえて、
最近のものは難破船に各国の人々が乗っている絵に変わっている。
ちなみに、不倫現場のジョークのネタを紹介しておくと、

会社からいつもより少し早めに帰宅すると、裸の見知らぬ男とベットで抱き合っていた。
(中略)
アメリカ人は、男を射殺した。
ドイツ人は、男にしかるべき法的措置をとらせてもらうと言った。
フランス人は、自分も服を脱ぎ始めた。
日本人?彼は正式に紹介されるまで名刺を手にして待っていた。


というものだ。
思わず苦笑してしまう。
私がこの本を読んで一番興味深かったことは世界の国々が日本を思った以上に好意的に捉えているという点だ。
この本を読む限り世界の人が日本及び日本人に抱いている印象は
「ハイテク技術立国」「勤勉」「真面目」「金持ち」「集団行動」・・・など凡そ好意的だ。
私は日本人は世界中から嫌われていると思っていた。
いや、東欧や東南アジアには親日国家が多い事は知っている。
が、それを差し引いても日本人は嫌われ者だと思っていた。
特にアメリカにおいては反日家が多く、林秀彦さんは著書の中で
「アメリカの小説に現れた『日本人悪口全集』を書いてみたい。きっと平凡社の百科事典ほどのボリュームになるだろう。」
と書いている。
『世界の日本人ジョーク集』の中ではあまり紹介されていないが、
世界中には日本人をもっと露骨に侮蔑したジョークも数多く存在するだろうと思う。

また、本書には日本に対して(好意的であれ)誤解に満ちた内容のジョークも多かったが、的確に日本を評論したジョークもあった。
その中で最も好きなものは、

世界最強の軍隊とは?
アメリカ人の将軍
ドイツ人の参謀
日本人の兵
では世界最弱の軍隊とは?
中国人の将軍
日本人の参謀
イタリア人の兵


というもの。
大東亜戦争の時、日本の参謀の多くが拙劣な指揮をとったことをよく知っているな、と感心した。

ところで、先月号の『中央公論』で著者の早坂氏が、この本について読者から
「日本人をネタにしたジョークを読んで不快になった」という旨の手紙が寄せられたと書いていた。
私は終始ニヤニヤしながら愉快に読んだのでどこに不快になる記述があったのか理解できない。
確かに、日本人に対して否定的なジョークもあったが不快になる程ではない。
不快になったという人はごく少数なのだろうが、そういう捉え方をする人もいるのかと驚いた。
なるほど、本書で紹介されたジョークの中で日本人はジョークを解さないというものがあった。
世界の人は日本人のことを良く知っていると再び感心した次第である。

統一地方選の前半戦だそうですね。

2007-04-08 01:13:22 | 政治・経済
なんでも今日は第16回統一地方選の前半戦だそうで、わが福岡県でも知事選挙がある。
特にマスコミを賑わせているのは東京都知事選。

私はあまり興味を持っていないのだけれどもしいていえば黒川紀章を応援している。
一度、ああいうアーティスティックな人に都政を任せてみるのも面白いと思う。
藝術家は何をしでかすかわからないから端から見ていると楽しいのだ。
(東京の人、怒らないで。)

絶対、当選して欲しくないのは浅野史郎。
バックに多くの左翼団体がついているということもその一因なのだけど、
なによりあの立ち振る舞いやギャグセンスが大嫌いだ。
あの人が喋っているのを聴くたびにゾッとする。それくらい嫌い。
石原慎太郎が嫌いな人もきっとこういう感じなのだろう。

一方、吉田万三は思想的には共産党だけれど見た目や人柄は大変好感が持てる。
浅野史郎が当選するくらいなら吉田万三に一票入れたいくらいだ。(都民じゃないから投票できないけれど)

それにしても、なぜ石原慎太郎はオリンピックに拘るのだろう。
あの人はああいう派手なことが根っから好きなのかね。
しかし、オリンピックなんてものは斜陽の国でやるもんじゃない。
今の日本でオリンピックやってもしらけるばかりだ。

同じ理由で福岡県の麻生渡(自民系)も支持しない。
よし、ここはひとつ民主党推薦候補にでも入れてみようかと思って顔を見たら若造でがっかりした。
他には共産党の候補しか居ないので投票する人がなくなった。
仕方ないので投票用紙には「適格者無し」とでも書いて投票しようかと思案している。

ところで、なぜみんな選挙になると「いなとみ修二」とか「あそう渡」などと名前を平仮名にするのだろう。
「なぜ」と書きつつ、勿論理由は解っているが、あの平仮名表記が不快でしかたない。
大変馬鹿にされた感じがすると同時に幼稚に思える。
今後、そういう表記をする人には投票しないようにしようかしら。
しかし、そんなことをやったら投票出来る候補者はごく一部に限られてくるだろう。

いづれにせよ、私みたいなふざけた国民ばかりだと国は滅びると思う。

健康情報、信用する勿かれ

2007-04-06 23:46:02 | テレビ・芸能
病床(といっても風邪)に就いていた時、テレビで「あるある大事典Ⅱ」の捏造を検証する番組が放送されていた。
制作したのは当の関西テレビである。
関西テレビは捏造問題をはじめ「大したことじゃない」と思っていたようだが、問題が膨れ上がるにつれ反省の色を強めた。
社長もはじめは報酬カットの旨をファックスで伝えていたが、最近になってうやうやしく会見を開き辞任すると述べた。
この検証番組も反省の色を示す材料なのだろう。

番組の中で視聴者からの抗議の手紙を紹介するコーナーがあった。
どの手紙も結構本気で怒りを覚えているようだった。
驚いた。
どうやらこの捏造問題は私が思っていた以上の人々が、私が思っていた以上の怒りを覚えていたようなのである。
しかし、私はこの問題について怒りを覚えた記憶がない。
私は捏造発覚前に「あるあるで痩せると紹介さえたので店頭から納豆が消えた」
という話を聴いて嫌な気分になっていたので、捏造が発覚してむしろ愉快になった。
「ほら、テレビの言っている事を鵜呑みにするからそういうことになるんだよ(笑)」くらいの感覚。
小生、相変わらず性格が悪い。
いや、勿論、捏造や嘘はいけないと思う。
バラエティ番組はいくらヤラセをやっても構わないと思うが、まがりなりにも情報番組と銘打っているのであれば嘘は駄目だと思う。

しかし、初めからやはりテレビの云う事を鵜呑みにしてはならない。
まして、健康番組における情報は余計信用してはならない。
これは捏造問題とはまったく別の問題としてそう思う。
というのも、健康に関する知識ほどあてにならないものはないからだ。
健康知識なんてどんな偉い学者が言い張っても、学会で広く認められたとしても、そんなものいつひっくり返るかわからない。
ほんの数年前まで常識だと思われていた健康知識が実は違っていたなんてことよくあることだ。
学会で広く認められていることでさえそれなのだから、一部の学者が主張する説なんて初めから嘘半分として聞いたほうがいい。
例えば、「マイナスイオンは体に様々な良い効果をもたらす」なんて説は数年前まで結構本気で信じていた人が多いのではないだろうか。
あるあるの捏造を痛烈に批判していた“みのもんた”もおもいっきりテレビで堂々と「マイナスイオンはガンを予防します!」と言っていた。
みんな忘れて当人も忘れているかもしれないが、私はしつこい性格なので今でも覚えている(笑)
卵にしても少し前までコレステロールが溜まるのであまり摂らない方が良いと云われていたが、最近では、鶏卵はコレステロールを下げるなどと云われている。
(これさえも本当かどうかわからないけれど)
いま出てきたコレステロールにしても初めは絶対悪だったけれど、いまでは善玉と悪玉とがあって必ずしもコレステロール値が低ければ健康ということではないらしい。
だから「納豆で痩せる」ということが“仮に”事実だったとしてもそれは明日ひっくりかえる事実かもしれないのだ。
ということは逆もある得るわけで、本当は本当に「納豆で痩せる」のだとしたらこれほど楽しい事はない。
いづれにせよ、みのもんたから「これが体にいいですよ」と云われてもすぐに飛びついてはいけないのだ。
・・・いやいや、「病は気から」というから信じて食べれば本当にその効果が得られるかもしれないけれども。

ブログ再開の辞

2007-04-06 01:27:02 | 雑記
しばらく更新を止めておりました。

と申しますのも、三月中はログインの不具合に加えて、私事で様々な事があり、どうも記事を書く気力が衰えていたのでありました。
IEの不具合はどうも治る気配がありません。
しかし、この際、割り切ってネスケを使って更新してゆくことにいたしました。

本当は今月に入ってすぐにでもその旨御報告しようと思っていたのですが、風邪で熱を出して寝込んでおりました。
お恥ずかしい限りです。

皆様には御心配をお掛けして申し訳ありませんでした。
近い内に更新したいと思います。
内容は相変わらず若造の戯言ですが、再びお附き合いくだされば幸いです。