あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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私の「保守」派宣言(『諸君!』最終号、感想)

2009-05-11 22:57:53 | 書評・雑誌
『諸君!』最終号をさらっと読んだ。

巻頭に「紳士と淑女」三十年分の傑作選が載っていて大変楽しく読んだ。
多くの人が言うようにこの巻頭コラムは当代きっての名コラムだった。
もう読めなくなると思うと本当に寂しい。
「紳士と淑女」は1996年のものまでは書籍化されているが、それ以降は未収録。
是非とも、1997-2009年分の書籍化を望む。

なお、最後に執筆者が明かされていたが、業界の噂通り徳岡孝夫さんであった。
徳岡さんは現在、悪性リンパ腫に冒されていて闘病中だという。
一刻も早い快癒を祈念いたします。


他に読み応えのあった記事は、佐伯啓思先生、秦郁彦先生のものか。

佐伯先生は日本は早くアメリカ式から脱却せよと書いておられた。
この方は本当の意味での保守派という感じがする。

秦先生の文は歴史家としての立場から右派に対する痛烈な批判。
右派に限ったことではないが、歴史における実証主義が蔑ろにされている現状には私も危惧を覚える。
その後の方に渡部昇一さんの文章が載っていたのが少し可笑しかった。
(渡部さんと秦先生は犬猿の仲)


さて、「輝ける論壇の巨星たち」という特集の中で福田恆存先生が取り上げられていた。
筆者は遠藤浩一さん。
遠藤さんは福田先生を


日本といふ宿命を背負ひ、空しさを承知した上で言論活動を続けた。真の現実主義を、彼は体現してゐた。彼こそが文士、だつた。


と評していた。
福田先生のファンの方々はみな良くも悪くもクセのある人ばかりで、上の評価について賛否両論あろうが、私はなるほどその通りだと思った。
他に取り上げられていた巨星は小林秀雄、田中美知太郎、清水幾太郎、林健太郎、山本夏彦、山本七平、三島由紀夫、江藤淳、高坂正堯・・・。
いま保守派と呼ばれている(あるいは自称している)人たちが裸足で逃げ出しそうな面々だ。

いま保守派は力を無くしていると言われている。
何故か。
その答えを同号の特集「『諸君!』と私」の中に見出すことができる。
この特集は『諸君!』と関った人々がその思い出を綴ったもの。

その中で坪内祐三さんは


私が最近の『諸君!』の執筆者たちに不満だったのは、その文章のひどさです。


と書いていた。
それで、昔の左翼は悪文(難解文)であるのに対し、保守はクリアーで読みやすい文章を書いていたのに、最近の『諸君!』は左翼的だった、と。

石破茂議員もこう書いている。


『諸君!』の持ち味は、正面から世を憂い悲憤慷慨するスタイルをとるのではなく、どこか斜に構えた洒脱さにあったように思う。(略)
それがいつの頃からか、(略)ストレートな物言いが感じられるようになり真骨頂であった「静かに本質を語り、皮肉を効かせる」姿勢が影を潜めてしまったように思われた



また、阿川弘之先生の御子息、阿川尚之さんは


かつての左翼は、肩をいからせ自分が正しいと強硬に主張し、それを無理矢理押しつけ、「みんな」を味方につけようと運動した。
彼らの「連帯」「革命」「シュプレヒコール」、そのすべてが嫌だった。
ところがこの頃「諸君!」の書き手のなかに、似たような語り方をする人がいる。
書くことを運動の一部ととらえ、徒党を組む。集会で熱弁をふるう。
自分の主張が受け入れないと悲憤慷慨する。仲間割れをする。


と書いておられた。
大きく同意するところだ。
近ごろの「保守派」はかつての左翼のように下品にアジる人が目立つ。

私の思想態度は一般人からみれば右寄り、あるいは保守派に映るだろう。
が、私が決して保守派だと自称しないどころか、むしろそれを避けたいという気持ちが強いのは近ごろの保守派に阿川さんが述べているイメージが附いているからだ。
しかし、それは本当の保守派なのだろうか。

上の文章の前段に阿川さんはこう書いている。


私にとって「保守」とは、ものごとがうまくいかなくても、こんなもんだと笑っている。
はっきりした意見は持つけれど、他人に押しつけはしない。
まずは自分にできることを、泰然として、多少のユーモアをもって、完遂する。
群れない。声高に話さない。孤独を恐れない。
そうした態度だと思っている。


心から感銘を受けた。
私もこれが本当の保守派の姿だと思う。
そういえば、福田恆存先生がまさにこういう生き方をされていなかったか。
近ごろの「保守派」が失っているのはまさにこのような態度だ。

阿川さんの言う「保守」が真の保守派だとすれば、私は喜んで保守派を自称したい。
いや、私は、そんな人間になろうとしてなれていない。
これから、奮励努力して少しでも保守に近づきたいと思う。
いうまでもなく、ここでいう保守とは政治態度ではなく、思想態度、いわば生き方である。
サウイフモノニ ワタシハナリタイ、という決意を以って私の「保守」派宣言としたい。

町田康と津村記久子の芥川賞対談

2009-02-11 21:31:18 | 書評・雑誌
今年も芥川賞受賞者が発表された。
受賞者は『ポストスライムの舟』を書いた津村記久子さん(三十一歳)。
といっても私は文学に興味が無いので芥川賞にも興味が無い。
それが今回はちょっと読んでみようと思った。

今日の読売新聞に「芥川賞対談」と題して町田康と津村記久子さんの対談が載っていた。
ああ、お互い芥川賞作家だからね、と思ったらそれだけじゃなかった。
なんとこの二人、高校の同窓生だという。
対談を読んで驚いた。いや、大笑いした。

町田康の文章を読んだことのある人は解ると思うが、あの人の文章は抜き差しならぬ面白さがある。
この二人の対談もまさにそのような面白さがあった。

津村:高校時代はコギャルブームの出始めでした。でもテレビに映る「女子高生」と自分が同じに思えなかった。軽音部の活動で演奏していたら外でホームレスのおっちゃんが踊ってたり、美術部にも入っていて絵をリヤカーに積んで通天閣の近くを歩くと「しんどいな」と声を掛けられたり。
町田:渋いな。リヤカー。


ホームレスのおっちゃんが踊っていたり、「しんどいな」と声を掛けられたという光景がまざまざと目に浮かんだ。
なにより、町田康の「渋いな。リヤカー」という受け答えが妙に面白く炬燵で一人肩をゆすって笑ってしまった。

他にも、町田康がうどん好きなのは有名な話だが、津村さんも同じようで、うどんの値段がやたら気になり、家の近くのスーパーでは一玉25円なのに京都で一玉60円のうどんを見かけると物価が高いと感じて凄く落ち込むとか。
もう、可笑しくて可笑しくて。
このあとの「世界の基軸通貨がうどん」という町田の言葉もやはり秀逸だ。

笑える話ばかりじゃない。
町田康の
「駄目人間ばかり書いているって言われます。でも自分としては、普通の人間しか書いているつもりはない。駄目じゃない人間が果たしているのか」
には目からウロコが落ちた。
町田康の書く小説にはなるほど一般に「駄目人間」と呼ばれる人物ばかり出てくる。
そもそも主人公がその中で一番の駄目人間だったりする。
しかし、人間って誰しも本質的には駄目人間なのかも。
私なんかがいい例ですね。

津村さんも負けていない。
「コンビニエンスストアで世間に流布する音楽を聴くと、たまに死にたくなる気分になるときがあります。言葉に無頓着だったり、何か整った価値観を押しつけられたりするようで」

まったく同意。
最近の音楽が聴くに堪えないのは、陳腐な言葉でみな同じこと(同じ価値観)を歌っているだけにしか聴こえないからだ。
町田康はこの対談の中で「パンクとは疑うことです」と言っているが、いま日本の音楽にパンクはあるのか。
私が昨今の音楽に耳をそむけ80年代J-PUNKばかり好んで聴くことがその答えになっているように思えてならない。

しかし、こういう感覚をもった人が芥川賞作家なのか。
なら、芥川賞は大した賞だ。
それにこの津村さんからは多分に町田康に似た匂いを感じる。
津村作品を読まない手は無い。

『正論』十月号感想、佐伯啓思篇

2008-09-10 02:55:19 | 書評・雑誌
続いて、佐伯啓思論文の感想。

×××

佐伯啓思先生は京都大学の経済学者。
思想的立場としては反米保守といったところ。
経済的には修正資本主義を支持する立場(だろうと思う)。
つまり、米国型の新自由主義(あるいは市場原理主義)に反対する立場。
目下のところ、保守派の言論人の中で私がもっとも信頼を置いている方だ。
今号では「マルクスの亡霊に安らかな眠りを」という論文を発表されている。
論旨はこうだ。


冷戦下において、新自由主義者と保守主義者は社会主義勢力に対抗するという意味で混同されがちであり、当の保守主義者でさえ、左翼との対決こそが保守の本分であるとみなしていたきらいがあった。
1990年代、社会主義が崩壊し、資本主義は「勝利」した。
ここから新自由主義者の奢り、つまり「資本主義の暴走」が始まった。
それゆえ、ポスト冷戦時代において保守主義の役割は「資本主義革命」が推し進める、各国の伝統や文化への攻撃、歴史性の無視、組織の解体、社会秩序の不安定化をいかに回避するかにこそ向けられるべきであったのに保守は自らの本質を見失っていた。
その結果、90年代半ばから「構造改革」「市場中心主義」が推し進められ、現在、格差、フリーター、派遣などの問題が続出している。
これこそ、マルクスが預言した資本主義の「不安定化」ではないのか。
いわば、新自由主義はマルクスの亡霊を目覚めさせてしまったのである。
このマルクスの亡霊を安らかに眠らせることが保守派の仕事である。


と、およそ以上のようなものだ。
一言で云うと、保守派は新自由主義(これは、「構造改革」「市場原理主義」「規制緩和」と言い換えることが出来よう)に対抗し、格差などの社会問題解消に力を注ぐべきであるというものだ。
私はこの意見に全く同意だ。

いま、経済問題に関しては右派と左派の意見が一致することが多い。
これは不思議でもなんでもないことで、戦前からそうなのだ。
日本の社会主義政党であった社会党の前身、社会大衆党が陸軍の統制派と接近して右傾化していたのも経済政策が一致したことによる。
また、右翼と呼ばれている北一輝も、なるほど天皇を中心とした国家改造を唱えていたが、彼に皇室を尊崇する心なんてほとんどなかったと見てよい。
(昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼んで揶揄したのは有名な話)
結局、北一輝は天皇を担いで経済的な意味での日本の社会主義革命を目指していたわけだ。
この目論みは北の死後、近衞内閣において一歩一歩実現してゆき、戦後日本の経済体制の基礎を形作ったがこの話は長くなるのでまた別の機会に。

つまり、右翼にも二パターンあって、天皇主義者と国家社会主義者の二つ。
保守派でいうと親米保守と反米保守に分かれる。
この辺の区分けは非常にややこしいので、詳細は省くがいま左派と経済思想において一致するのは国家社会主義者と反米保守だろう。
そもそも、親米保守というのは日本の伝統文化を称賛し、皇室を尊崇すると言う点で反米保守とも思想の一致を見るが、経済政策においてはまったく別の主張をなす。(天皇主義者についてはここではおく)
経済思想だけとってみれば親米保守は新自由主義者と言っても差し支えないだろう。
反対に反米保守は佐伯教授が指摘するところの保守主義者とみてよい。
ちなみに私の考えもこの反米保守=保守主義者に近い。
(私は自分を保守主義者とは思っていないが)
また、反米保守と経済思想の一致をみる左派は共産主義、社会主義革命を目指す左翼を意味するのではなく、せいぜいベルンシュタイン型の社会民主主義者だろう。

少々、乱暴な色分けだが、
社会民主主義者は政治的にも経済的にも左。
新自由主義は政治的にも経済的にも右。
そして、保守主義は政治的には右、経済的には左。
と、このようにみれば解り易いかもしれない。
社会民主主義者と保守主義者は経済的にどちらも左なわけだ。
ただし、こういう構図は日本にしか通用しない見方であることに注意。

さて、この構図を参考にして、今度の自民党総裁選候補を見てみるとなかなか興味深いものが見えてきそうだ。
これについては、また今度。

『正論』十月号感想、松原正篇

2008-09-09 22:39:21 | 書評・雑誌
前回の記事で書いたとおり、今月号の『正論』は松原正さんや佐伯啓思さんの論文が載っていたので購入した。
それぞれ、別のことを論じているが、簡単に感想を書いておく。

×××

松原正さんは福田恆存先生のお弟子さんで一応、保守派言論人だがいつも保守派の批判ばかりするので論壇で村八分にされている。(と、御本人とその周囲の人々は云っている)

今月号の正論に載った記事は『WILL』に掲載された一連の西尾幹二さんの皇太子への「御忠言論文」に対する批判記事だ。
いつも切れ味鋭い松原先生のこと、どんな内容だろうと思い勇んで読んでみたが、どうも煮えきらぬ気持ちだけが残った。
というのも、西尾氏の危惧は平たくいうと「皇太子夫妻は将来、天皇・皇后として皇室の伝統を背負ってゆく覚悟が出来ているのか?」ということであり、天皇としての自覚のない皇族が皇位につけば、国民は皇室を見離し、最悪の場合「天皇制」の廃止に繋がりかねない、というものだ。

これに対して松原氏は明確な回答なり反論を提示せず、「日本人が日本人である限り、「天皇制」を止めてしまふやうな事態には決してならない」とか「日本が日本である限り「天皇制」は決してなくならない」など、根拠の無い断言が目立った。

確かに、西尾氏の危惧も一種、根拠の無い部分があり、杞憂とみる向きもあるだろうが、皇太子夫妻に対して疑念なり、疑問を抱いている国民が増えていることは事実だ。
果たして多くの国民から尊敬を受けない天皇は天皇たりうるのだろうか。
私は今ひとつ、楽天的になり得ないでいる。

『論座』の休刊を惜しむ

2008-09-08 23:02:47 | 書評・雑誌
久々に『正論』を買った。
ここのところ、オピニオン誌は『WILL』を惰性で講読しているのだが、それ意外のオピニオン誌は気になる記事が載った時に買う程度。
で、今月号の『正論』は熱かった。
熱かったと言っても、ナショナリズムを煽るような見出しが躍っていたわけではない。
例えば、『正論』と同じ保守系オピニオン誌『WILL』には毎月、「やむなし、竹島砲爆撃」「毒殺国家、中国」「福田は死に体、いや集中治療室だ」などの見出しが躍る。
内容を読んでみるとなるほど同意するところは多いのだがあまり過激な言葉ばかり弄されるといささか胸焼けしそうになる。
そういう意味で見出しの過激さは『WILL』が一番酷い。
『正論』もそれに近いものがあったが、最近では随分落ち着いているようだ。

今月号の『正論』を買ったのは表紙から「松原正」「佐伯啓思」の文字が飛び込んできたからだ。
他にも興味深い記事が満載で『正論』ってこんなに面白い雑誌だったけ?なんて思った。
詳しい内容については別の記事に譲る。

さて、『正論』や『WILL』など保守系オピニオン誌が好調のなか、朝日新聞社が発行する左派系オピニオン誌『論座』が休刊するそうである。
私は朝日新聞の社説・論説にはなにも何も学ぶところなく、むしろ国民にとって害悪しかもたらさないと思っているが、その朝日新聞のオピニオン誌『論座』は数あるオピニオン誌の中で最も評価していた。
というのも、『論座』の立場は明らかに朝日新聞と同じく、戦後民主主義を基調とするものであるが、多彩な言論を掲載し、バランス感覚もあり、たまに愚にもつかない論文も載るが(林香里の連載コラムはあまりにも酷かった)、多くは傾聴に値するものだった。
一部でセンセーショナルを巻き起こした赤木智弘氏の「丸山眞男をひっぱたきたい」を載ったのも読売新聞会長・渡邉恒雄氏の靖国否定対談が載ったのもこの『論座』だ。
そうそう、去年の十二月号には白田秀彰先生の「権利を強化しても誰も幸福にはならない」(インターネット時代の著作権のあり方)も掲載されている。

特に、さまざまな立場の論文を載せるなど、保守系オピニオン誌が陥りがちな蛸壺式の言論に堕することなかった点をもっとも評価したい。
(連載ものとしては宮崎哲弥と川端幹人の週刊誌時評がとても面白かった)
なにより、自分と立場が異なる人の言論を読むのが楽しかった。

その『論座』が休刊である。
休刊といえばまた復活しそうだが、大抵の場合、休刊は廃刊を意味する。
もう、残っている左派系オピニオン誌といえば岩波書店の『世界』くらいか。
『世界』ははっきりいって、完全に左翼の傷の舐めあいのような雑誌になっていて読むのも痛々しく、論座のような楽しさもバランス感覚も期待出来ない。
『論座』の休刊は返す返すも残念である。

編輯部のみなさん、いままでお疲れ様でした。

本屋めぐり日記 其のニ

2008-05-25 02:53:41 | 書評・雑誌
其のニと書いたけれど、其の一を書いたのは平成十八年の十月だ。
約一年半振りの日記。
嗚呼、その間に私は一体何冊の本を買い、何円浪費したのだろう。

さて、今日は八幡で散髪した帰りに三軒の本屋に寄った。
まず、黒崎のクエストで
高山正之『モンスター新聞が日本を滅ぼす』を購入。

高山正之さんは週刊新潮で「変見自在」を連載している元産経新聞記者。
マスコミが教えない情報のウラを書いてくれる貴重な方。


次に八幡のブックマーケットで
清水正『阿部定を読む』現代書館
日垣隆『偽善系 やつらはヘンだ!』文藝春秋
立花隆『中核VS核マル』講談社文庫
ロナルド・ハーウッド『戦場のピアニスト』新潮文庫。
を購入。

現代書館は云わずと知れた左翼出版社。
阿部定の本なんか出してたんだね。
『天皇制』とか『日本の権力』とかいう本も持っているけれど、左翼の思考回路が知れてとても楽しい作品。
日垣隆は月刊「WILL」などの連載で知っていたけれど、本を買うのはこの度が初めて。
共感出来るところは多いのだけど、軽薄なイメージがあって倦厭していた。
『戦場のピアニスト』は同名の映画の脚本のようなもの。

次に三ケ森のブックオフで
毎日ムック『戦後50年』毎日新聞社
半藤一利『昭和史探索 1』ちくま文庫
河原敏明『昭和天皇とっておきの話』文春文庫
吉田実『日中報道 回想の三十年』ライブラリー潮出版社
『世界のニッポン人 信じられない常識・非常識』二見書房
宮台真司、宮崎哲弥『われらの時代に』朝日新聞社
柳沢きみお『THE大市民 2』講談社
『日本の歴史 14 民主主義のめばえ』学研
『天皇ご在位六十年』朝日新聞社
小林よしのり『ゴー宣 暫』二巻、小学館
山本マサユキ『妹あいどる』講談社
五木寛之・著、いわしげ孝・画『青春の門 筑豊篇』
あずまきよひこ『あずまんが大王 2』メディアワークス
日本文学全集『夏目漱石 二』筑摩書房、
(同)『三島由紀夫』(同)『小林秀雄』(同)『現代詩集』
「ダ・カーポ」509号 を購入。

毎日ムック『戦後50年』は大判の本。
戦後五十年を貴重な写真とともに振り返るもの。
図書館で必ず見かける本で高校の頃から愛読していた。
この度、千円で売っていたので思い切って購入。
読んでいて大変楽しい。

『日本の歴史 14 民主主義のめばえ』は所謂、小中学生向けの漫画歴史本。
漫画版の日本歴史本は様々な出版社から発行されているが、この「旧学研版」は監修がうめぼし博士こと学習院大学の故・樋口清之教授ということもあり最も偏向なく書かれているように思う。
漫画版の歴史本は小学生の頃、よく読んでいて懐かしさも手伝っていまだに読んで楽しめる。

『天皇ご在位六十年』は昭和天皇の写真集。
朝日新聞は反皇室だけど、商売にはしっかり利用している。

小林よしのり『ゴー宣 暫』二巻は「論座」の企画で雨宮処凛と対談したエピソードを収録。
この頃の「論座」と「ゴー宣」は大変良かった。
いま、「論座」はあまり面白くないし、小林さんも『パール判事』の中島岳志叩きばかりでツマラナイ。
(パール判事の問題は大切なのだろうけど、読んでいて面白くはないやね)
そういえば、少し前のゴー宣で東大准教授の加藤洋子が批判されていたけど、あの人の師匠は日本近代史の権威、伊藤隆先生。
全く不肖の弟子ですね。

山本マサユキ『妹あいどる』は偶然見つけて、タイトルが気になってパラパラめくってみると絵が気に入ったので購入。
なんというか、びみょーな本当にびみょ~な絵が大変気に入った。
作者が萌え絵を描こうとして技術が無くてデッサンが狂っている感じが最高。
ストーリーは借金を抱えた幼なじみの高校生の少女をアイドルにしたてて借金を返そうというもの。
タイトルに妹とあるが血が繋がっているわけではなく、妹的存在なだけ。
で、人気は出なかったようで一巻で終了しているのもなんかいい。
『あずまんが大王』はいまさら読んでいるけど、面白いね。
らき☆すたの原点。
ちよちゃんの声は金朋先生なので脳内で変換して読むのが吉。
いづれも百円だったので購入した。
最近、漫画はとんとよまなくなった。
私の嗜好が変わったのか漫画が変わったのか。

筑摩書房の日本文学全集は漱石も三島由紀夫もきちんと正假名だからうれしい。
残念ながら漢字は新字だが、百円だったし十分満足。
文庫版は新字どころか、勝手に漢字を平仮名になおしたりしてほとんど改編版。
萩野貞樹さんに言わせると「ただただ醜い模造品であり偽装文」というわけだ。
ところで、『現代詩集』はかなり前衛的な作品が多く収録されていて、文字の並びや位置、変な記号や線などで表現されている詩がある。
写植屋さんとか印刷屋さんとか大変だったろうなあ。。


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本屋めぐり日記(其の一)
http://blog.goo.ne.jp/tuneari/e/bd710362ed69086802c8a41538eb41b3

伊集院光・著『のはなし』 改訂版

2007-11-11 00:28:21 | 書評・雑誌
今日、書店で伊集院光の『のはなし』を手にとって奥附をみてみると第三刷とあった。
伊集院さん本人もラジオで言っていたようにじじつ売れているようで、ファンとしては嬉しい限りだ。
ベストセラーが大嫌いでベストセラーと名のつくものはなるべく避けてきた私だがこの本ばかりはベストセラーになって欲しいと節に願う。
いや、やっぱり“ベストセラー”にはならなくてよいかな。
まぁ、少なくとも岡田斗司夫の本よりは売れて欲しいな(笑)
(それじゃあ十分ベストセラーだね)

この本、私は出版されてすぐに買って読んだが、好著であった。
ファンの間でテレビに出ている伊集院光を白伊集院、ラジオでの伊集院光を黒伊集院と呼んでいる。
多くの人は白伊集院しか知らないだろう。
すなわち、さんま御殿やスパーモーニングなどで無難な面白話、あるいはコメントをするデブというイメージである。
ところが、ラジオでの伊集院光はそれとは全くの別人である。
実際に聴いてみるのが一番だが、とにかく脳汁垂れ流しという表現がピッタリなほど、毒とシュールと下品と自己嫌悪とお馬鹿に満ち溢れている。

私はそんな黒伊集院が大好きなのだが、本書『のはなし』の語り手である伊集院光は黒でも白でもなく灰色なのだ。
いや、どちらかというと白に近いのだが、テレビでもラジオでも見せない姿を見せてくれる。
ほとんどは面白話をベースとしているのだが、その中にしみじみと感動できる話なども入っていて、白黒どちらの伊集院を知っている人も意外に思うだろう。
もっと正確に言うと、本書のなかでは白をベースに黒と灰色が混じっている。
まず、白の文章から紹介しよう。


二年くらい前だろうか、おちんちんが急に痒くなって困ったことがある。
(略)
とりあえず、痒み止めが欲しいのだが、場所が場所なだけに何でも良いというわけにはいかないだろう。
すぐそばの太腿に塗って何でもないアンメルツが、ほんの少量付着しただけで「火事だー!」となるあの場所だもの。
(略)
しかし、一番の難関がレジでの尋ね方だ。
「おちんちんが・・・」とはいい出しにくい。
「こういう場所[註:薬局]だから医学的な表現なら問題ないか・・・」と思ったが、おちんちんを表す医学用語は洋物ピンク映画のタイトルの定番になっているカタカナ三文字のアレだろう・・・とてもじゃないが口に出せない(略)」
(略)
レジにいた白衣のおばさんから「何かお探しですか?」といわれた。もうこうなったらいうしかない。この期に及んで一瞬だけ「股間のエッフェル塔が・・・」と小粋なパリジャン風の言い回しも浮かんだが、・・・

「あそこが痒いの話」より



失礼しました。
どちらかというと黒の方かも知れませんね。
伊集院さんはこういう話をさせると天下一品だ。
ハナから下ネタで申し訳ないが、股間が痒いというある意味ではなんでもないような話を最大限に膨らませて面白くする才能に恵まれている。
「火事だー!」という箇所には声を上げて笑わせてもらった。
男性なら一度はこういう経験あるのではないだろうか。
また、伊集院さんは洋物ピンク映画、略して「洋ピン」という表現が大好きで、ラジオでもたびたび聴かれる。
洋ピンは伊集院さんにとって(私にとってもだが)、エロの対象ではなく、笑いの対象である。

『のはなし』は基本的にこのような日常の些細な出来事を語ったものや少年時代や中高生時代の思い出話によって構成されている。
伊集院さんはラジオでもそうだが日常のなんでもないような出来事を膨らませて面白くする才能に長けている。
また思い出話も十二分に面白く話してくれる。
私もお手本としたい。

では次、「プールの話」から。


何より嬉しかったのが、プールの授業がスムーズに進んだ日にだけ与えられる『自由タイム』だった。
四時間目も残すところあと10分、プールサイドに全員が上がった状態で先生がおもむろにいう。「まだ少し時間があるな・・・」
その言葉を聞いてから誰からともなく湧き上がる『自由コール』。
「ジ・ユ・ウ!ジ・ユ・ウ!ジ・ユ・ウ!」それはいつしか大合唱となっていく。
ある者は手をたたき、ある者は足を踏み鳴らし、ある者は天に拳を突き上げて「自由!自由!自由!」。
しばらく黙ってその様子を伺っていた先生がいう。
「それでは・・・」。
一瞬、水を打ったように静まり返る群集。
そしてついに先生の唇が動く「・・・自由!」。
歓喜の声を上げ、次々とプールに飛び込む民衆、上がる水しぶき。
そうだ!われわれは自由を勝ち取ったのだ!
『自由』。なんという素敵な響きなのだろう!
犬掻きでも潜水でも何でも良い。
縦だろうが横だろうが決まったコースなどない。
塩素を踏もうが、帽子に水を汲もうが思いのまま、それが「自由」なのだ!



これなどは伊集院さんの文章の中で白眉とも言うべき箇所である。
こういう表現はラジオでもよくしていて、いつも爆笑させられる。
つまり、これも日常のなんでもない風景を誇張ないしは別の物語性を附加し、気が附くとまったく別の世界になっている。
ここでは、はじめ登場人物は小学生だったはずなのに気附くと階級闘争に勝利したプロレタリアートになっている。
私には目の奥には児童の足に鎖の後が見えた。

伊集院さんはラジオで自分の文章力の無さが嫌になるとの旨の発言を繰り返しており、それゆえ、本を出すことも何度かためらったようだが、なかなかどうしてこんな面白い文章なかなか書けたものではない。
すべて紹介しきれないが、これ以外にも伊集院さんの文章は本当に面白い。
いくら技巧に優れた文章でも内容が良くないと意味が無いし、技巧は訓練すれば巧くなる。
しかし、面白い文章を書くにはある程度、才能に左右される面がある。
私は伊集院さんの文章を読んでその才能を羨ましく思った次第である。

さて、お次はちょっといい話。「警備の話」から。


思い起こせば、17歳の時にお笑いを始めて今にいたるまで、小さいながらも「あ、俺いま一ランク上がった」と思う瞬間が何度かあった。
(略)
そんな中で今でも強く覚えているのが22歳の時の「岩田さんに認めてもらった瞬間」のことだ。
岩田さんは石川島播磨の造船工場を定年まで勤め上げ、それでも残った住宅のローンのために警備員をやっていたおっさんで、昭和から平成にかけての激動の時代に有楽町のニッポン放送の正面入り口の警備を担当していた人だ。
岩田さんは頑固なうえに責任感の強い人だから、ニッポン放送の入り口を通ろうとするあらゆる怪しい人物を止める。
っていうか完全に怪しくない人以外全員止める。
「生放送に間に合わない!」と駆けてくるリポーターも見逃さない。
「生放送に間に合わないリポーターを装った敵」の可能性があるから。
おそらく背中に大きく「リポーターでございます」と彫ってあっても入れないと思う。
むしろ入れない。そんなリポーター普通いないから。
20歳そこそこで、ラジオ局に出入りするようになったばかりの僕なんて当然ストップだ。
(略)
その後、オールナイトニッポンの二部を受け持つようになってからも、社員ディレクターが同行してくれているとき以外は岩田ストップ。
それがそのうち「あんたが悪い人間じゃないのはわかってるけど、俺も仕事だからよ」と声をかけてくれるようになったものの、受付行き。
そんなある日、いつものように岩田ストップを覚悟して入り口に行くと、岩田さんが僕を止めない。
「やや、岩田さんが僕を止めない、これは岩田さんを装った敵なのでは?この岩田さん風の警備会社の社員証を確認すべきなのでは…」と思いつつ、こっちから「あの…受付に行かなくていいんですか?」と尋ねると、岩田さんが入り口のロビーの壁を指差していった。
「随分出世したね」。
そこには、その日から始まった深夜番組聴取率強化キャンペーンのポスターがあって、中央に僕の顔写真がでかでかと載っていた。
たった一ヶ月だけの社内向けキャンペーン用に、オールナイトニッポンのパーソナリティの中で一番ギャラが低かったのを理由に起用されたのだが、ポスターそのものよりも岩田ストップなしで入り口を通過できたのがすごく嬉しかった。
初めて岩田さんに止められて実に2年の月日がたっていた。



こういう話はラジオでは滅多に聴けない。
伊集院さんは高校生のとき、三遊亭楽太郎に弟子入りする。
ところが、転身しラジオパーソナリティーを目指す。
『激突!あごはずしショー』というオーディション番組を経てオールナイトニッポンの二部を担当することになったがその時点でも楽太郎には隠したままだった。
伊集院光という芸名は自分であることを楽太郎にバレないために、優雅で自分とは似つかないという理由で附けたものだ。
この頃、伊集院さんは波乱万丈だった。
いわば死にものぐるいで頑張っていた時期である。(勿論、いまも十分頑張られていると思いますが)
それゆえ、岩田ストップを掛けられなかった時の喜びはひとしおであっただろう。
伊集院さんはラジオ界に入り、ラジオ界で奮励努力し、ラジオ界で出世した人だ。
伊集院さんほど、ラジオを愛している人間は居ないのではないだろうか。
だから近日公開された『Little DJ』という映画の中でディレクターが深夜三時以降のラジオを蔑ろにする姿勢を当り前のものとして描いており、その表現に本気で怒っていた。

また、本書を読んで伊集院さんの師匠である三遊亭楽太郎に対する敬愛の念が伝わってきた。
普段ラジオでは楽太郎に対して悪口のようなことしか言わないが、心の中では尊敬しているのだろう。
そんな師匠にまつわる話でもっとも心に残った箇所を紹介して終わりとしたい。


昔カバン持ちをしている頃、僕の師匠の三遊亭楽太郎が「俺さ、ステーキとか食っても贅沢しているって充実感は湧かないんだけど、吉野家の牛丼大盛りに玉子乗せて、その上に牛皿の大盛り乗せると『罰当たりなくらい贅沢してる』って思うんだよね。1000円くらいのもんなのに」っていったのを聞いたとき「この人のいっていること正しい」って思った。

「「お金持ち」の話」より



こういう感覚を持っていない人とはお友達になれない気がする(笑)

斎藤環「おたく神経サナトリウム」感想

2007-11-10 01:29:30 | 書評・雑誌
自称、日本一「萌え」に詳しい精神科医、斎藤環さんがゲームラボの連載(「おたく神経サナトリウム」)に麻生太郎のことと昭和天皇御不例時についての感想を書いていた。
斎藤氏曰く、
麻生太郎はオタクに人気があるようだけど、オタクは麻生太郎を見誤ってないか。
麻生氏は漫画規制に賛同していたし、るろうに剣心も知らない。
ローゼンメイデンを読んでいた事実も怪しい。
いま、オタクに媚びているけれど心の中では軽蔑している筈。・・・云々。

私はかねがね麻生太郎を支持していて麻生氏の地元民であることを嬉しく思っている。
私が麻生氏を支持する理由はその政治姿勢であって、オタクに対して好意的であるとか漫画好きであるとかは二次的な問題である。
ただ、麻生氏がローゼンメイデンを読んでいたのは事実だ。
取材で本人も認めており、作品の感想まで述べている。(画像参照)
無論わたしは漫画規制に反対なので氏が漫画規制を積極的であるならば、その点は支持しない。
とはいえ、斎藤氏の指摘はもっともでオタクは少し麻生氏に幻想を持ちすぎているきらいがある。
麻生氏はオタクではなく漫画が大好きな非オタクである。
そもそもオタク文化なんて政治家に理解されなくてよい。

もう一つ、昭和天皇御不例時についてだが、あの時、全国に自粛ムードが蔓延して、崩御後も延々と追悼番組を放送されて閉口したとの内容。
これは、最近殺人事件などが起こると「あのアニメの影響だ!」などと言われ規制されることが多くなった、との話題から敷衍して書かれたものなのだが、
その時の対応について「みんな、そんなに天皇が好きなのかよ」との一文があったので私としては少々残念であった。
私も崩御前の過度の自粛は望ましくないと思うが、崩御後の自粛ムードはやむ終えなかったと思っている。
特に公官庁、各メディアの対応は妥当であったと考えている。

例えば、親戚が亡くなったとしてその人が好きだったか嫌いだったかとは別に儀礼として葬儀に参加するだろう。
そして、その場では神妙な顔をしておくやみの一言でもいうのが礼儀である。
まして、日本国の(少なくとも国際的には)元首たる天皇陛下が崩御したとあっては公官庁は当然として、民間企業のメディアとて儀礼的にでも喪に服するのが当然と思うのである。
たしかに「みんな、そんなに天皇が好きなのかよ」という指摘も、もっともだ。
特に若い人は「天皇が死んだかなんだか知らんが早く通常放送に戻ってくれ」、「学校が休みになったラッキー!」なんて思っていた人が多かったと思われる。
しかし、公的な儀式には表向きのポーズと本心とに乖離があって当然であって、最近のアニメ規制と同列に論うべきでない。

ついでにいうと、公的には日本は二日間喪に服したがインドは三日喪に服したという。(ブータンでは一ヶ月喪に服したという情報がネット上に転がっていたが本当だろうか)
また、台湾でも多くの老人が涙したといわれている。


[註:平成十九年十一月十一日(日) 加筆]

月刊『WILL』の天地無用子は谷沢永一?

2007-10-11 00:26:33 | 書評・雑誌
月刊『WILL』を講読している。
毎度、巻頭の「天地無用」から読み始めているが、これ一体誰が書いているのだろう。
『諸君!』の「紳士と淑女」子が徳岡孝夫であることはそれなりに有名だけれども、「天地無用」については誰それがという噂を聞いたことがない。
私はあの文体からして谷沢永一ではないかと踏んでいる。
天地無用子が支那の古典に明るいこともその理由だ。

ところで、谷沢永一といえば中川八洋との対談本『名著の解読学』で、
福田恆存先生について

福田恆存は、立派な全集が文藝春秋から出版され、飜譯全集も出てゐる。嘱望され、功なり名を遂げた人ですが、戰後のあらゆる評論家のなかで中道を行くといふ精神の一番のサンプルを示してくれた。どちらにも曲らない、いつも正道を行くといふ精神を一生貫いた、稀にみる豪傑型の評論家でした。しかも、論壇ではいつさいの「閥」がなかつた。


と述べて称賛している。
福田先生をあえて中道というところがニクイ。
確か渡部昇一氏との対談本ではあまり褒めていなかったような気もするが。

ついでにいうと、私にとって谷沢永一は論語好きな資本主義者というイメージだ。
あと、『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』は色々な意味で面白かった。

早坂隆・著『世界の日本人ジョーク集』

2007-04-12 00:16:49 | 書評・雑誌
早坂隆・著『世界の日本人ジョーク集』が売れているらしい。
私がこの本を購入したのは去年の十月。
当時、この本の帯には妻が間男と同衾しているイラストが描かれていた。
しかし、ベストセラーになったら流石に不倫現場の絵は憚られるとみえて、
最近のものは難破船に各国の人々が乗っている絵に変わっている。
ちなみに、不倫現場のジョークのネタを紹介しておくと、

会社からいつもより少し早めに帰宅すると、裸の見知らぬ男とベットで抱き合っていた。
(中略)
アメリカ人は、男を射殺した。
ドイツ人は、男にしかるべき法的措置をとらせてもらうと言った。
フランス人は、自分も服を脱ぎ始めた。
日本人?彼は正式に紹介されるまで名刺を手にして待っていた。


というものだ。
思わず苦笑してしまう。
私がこの本を読んで一番興味深かったことは世界の国々が日本を思った以上に好意的に捉えているという点だ。
この本を読む限り世界の人が日本及び日本人に抱いている印象は
「ハイテク技術立国」「勤勉」「真面目」「金持ち」「集団行動」・・・など凡そ好意的だ。
私は日本人は世界中から嫌われていると思っていた。
いや、東欧や東南アジアには親日国家が多い事は知っている。
が、それを差し引いても日本人は嫌われ者だと思っていた。
特にアメリカにおいては反日家が多く、林秀彦さんは著書の中で
「アメリカの小説に現れた『日本人悪口全集』を書いてみたい。きっと平凡社の百科事典ほどのボリュームになるだろう。」
と書いている。
『世界の日本人ジョーク集』の中ではあまり紹介されていないが、
世界中には日本人をもっと露骨に侮蔑したジョークも数多く存在するだろうと思う。

また、本書には日本に対して(好意的であれ)誤解に満ちた内容のジョークも多かったが、的確に日本を評論したジョークもあった。
その中で最も好きなものは、

世界最強の軍隊とは?
アメリカ人の将軍
ドイツ人の参謀
日本人の兵
では世界最弱の軍隊とは?
中国人の将軍
日本人の参謀
イタリア人の兵


というもの。
大東亜戦争の時、日本の参謀の多くが拙劣な指揮をとったことをよく知っているな、と感心した。

ところで、先月号の『中央公論』で著者の早坂氏が、この本について読者から
「日本人をネタにしたジョークを読んで不快になった」という旨の手紙が寄せられたと書いていた。
私は終始ニヤニヤしながら愉快に読んだのでどこに不快になる記述があったのか理解できない。
確かに、日本人に対して否定的なジョークもあったが不快になる程ではない。
不快になったという人はごく少数なのだろうが、そういう捉え方をする人もいるのかと驚いた。
なるほど、本書で紹介されたジョークの中で日本人はジョークを解さないというものがあった。
世界の人は日本人のことを良く知っていると再び感心した次第である。

『お言葉ですが・・・』再開!?

2007-01-10 01:54:29 | 書評・雑誌
私はミクシィの高島俊男さんのコミュニティに参加しているのですが、そこの情報によると『お言葉ですが・・・』が再開されるのだそうです。

情報提供者さんのお話によると高島俊男先生から直接、連載を再開する旨の連絡があったとのこと。

連載を再開する媒体は「Web草思」。(http://web.soshisha.com/
「Web草思」上にはまだその告知はされていないようです。
おそらく、ネット上で読めるかたちになるのだろうと思います。

私も『お言葉ですが・・・』というより高島俊男さんの一ファンとしてこの知らせに歓喜しています。

思えば『週刊文春』での連載が突然終わった時、あまりの不自然さにはじめ高島さんの体調のこともあったのかなと察していたのですが、『お言葉ですが・・・』第11巻を買って驚きました。
高島さん御自身があとがきに
「突然中止の通告を受けた。」
「「なんでやめさせられたのだろう?」と以後考えつづけている。」
と書かれていたからです。
どうも『週刊文春』に怒りを感じざるを得ませんでした。
文春編輯部は『お言葉ですが・・・』が終了した明確な理由を提示して欲しいものです。

それはさておき、やはり、連載再開は嬉しいことです。
再開がいつ頃になるのか待ち遠しい限りです。
まだまだ詳しいことは私もよく解りません。

詳細はわかり次第追って報告いたします。

ビートたけし『たけしの20世紀日本史』

2006-11-18 01:42:44 | 書評・雑誌
ビートたけしの『たけしの20世紀日本史』(文庫版)を読んだ。
内容は、本書にもあるように「たけし流・20世紀日本史の教科書」という趣。
ビートたけしはやはり面白い。
何度も大笑いさせてもらった。
二十世紀の日本の歴史を面白おかしく評論しながら、時折、するどい指摘をしている。
例えば、乃木希典について書いた後の文。


「もう一人の神様、バルチック艦隊を敗った東郷元帥は、晩節を汚したというのがおいらの見方だね。(中略)
大艦巨砲主義に固執して、戦艦大和まで造っちゃうことになったのは東郷元帥の負の遺産だろうね。」



東郷平八郎は偉大な軍人だった。(最近の教科書には載っていないという。どういう料簡だ。)
日本海海戦で奇跡的な大勝利を収め、日露戦争で日本を勝利に導いた。
それゆえ、日本では東郷平八郎は軍神になった。
北欧やトルコなどでも尊敬を集め、トルコでは今だに「トーゴー」という名前の人が多いという。
トーゴービールについてはどうもマユツバらしいのだか、この名前の話は本当だ。(トルコに滞在した外交官の方からも直接聴いた。)
しかし、その勝ち方があまりにも強烈すぎた為、東郷をはじめ昭和期になっても多くの軍人は巨大軍艦に拘っていた。勿論、国民もそうだった。
時代は既に航空戦力が主力になりつつあったのに、そこを見誤ってしまった。
だが、そんな空気の中、山本五十六は今後航空戦力が主力になると確信していた。
山本が東郷平八郎に否定的な感情をもっていたとされるのもそう言った意見の食い違いもあったのだろう。

さて、もう一つ紹介。


呆れるのは、昨日まで「鬼畜米英」と叫んでいた人たちが、マッカーサーが来ると英雄か何かのように大歓迎したことだよ。
 うちの親父なんかも、「アメ公のやろうは大嫌いだ」とか「アメ公を見たら一発ぶん殴ってやる」とかいつも言ってた。
 おいらが小学校に上がる頃、親父に葉山へ海水浴に連れてってもらったことがある。
電車は満員でアメリカ兵がいっぱい座ってた。
おいらがまだちっちゃいものだから、アメリカ兵は席を譲ってくれて、おまけにチョコレートまでくれた。
 びっくりした親父は、バッカみたいに跳び上がって、それから電車の中だというのに土下座して、
「ありがとうございました。サンキュー」だって。普段はあんなに毒づいていたのに。
それ見たとき、だめだこの人はって思ったよ。
 帰る途中もずっと、「アメリカさんはいねえ」なんて「さん」付けで褒めまくる。
近所の人にも、「アメリカさんは何がすごいって、こいつにチョコレートくれるんだぜ」って威張ったりして。
日本は勝てないわけだ。チョコレート一つで、「鬼畜米英」が「アメリカさん」になっちゃうんだもの。さすが日本人だよ。



笑い話の中にも、日本人の性質を鋭く揶揄している。
あれだけの大戦争をやって全国の都市を焼け野原にされたのに、チョコレートに象徴されるように食べ物や自由、民主主義を貰った途端、「鬼畜米英」が「アメリカさん」になってしまう。
どこぞの国の人々にはけっして真似の出来ないメンタリティだ。
無論、アメリカの巧みな占領政策が効を奏したことは否定できないが、
やはり、日本人は恨みを持ちつづけることが出来ない民族らしい。

次に紹介するのは私が最も笑った箇所。
村山政権が誕生したことについて。


それにしても、どうしてあのジイサン首相になったんだろう。
 ようするに、息子たちがみんな集まっている時に、まんじゅうが一つしかない。
みんなに欲しいかと聞くと、おれが食う、おれが食うって、喧嘩してしょうがない。
 そんなにもめるならおじいさんにあげちゃおうって、おじいちゃん、これ食べなと言ったら、ありがとうよって。
食べないと思ってたら、意外に食われちゃった。あら、食いやがったって。その程度のもんだからね。



「あら、食いやがった」というセリフと当時の自民党幹部の顔が重なって可笑しくて仕方が無かった。
それにしても、芸人の中で政治や歴史を語っても野暮にならないのはビートたけしや立川談志くらいのものだ。
私は爆笑問題の太田は好きな芸人の一人なのだけれど、政治を語る太田ほど嫌いなものはない。
日本原論や日本史原論などの著作はちっとも野暮じゃないのに、
どうしてテレビだとああなってしまうのだろう。
太田がテレビで政治を語るとき、そこに一匙の諧謔も含まれていない。
顔を真っ赤にして青筋を立て大声で政治を語っている時の太田の醜さといったらない。
時折、取って附けたようにギャグを挟むこともあるが、
それは、熱く語ってしまった自分に気づき、その気恥ずかしさを誤魔化すためにやっているに過ぎない。
そんな太田が総理になって欲しい人の上位にランクされているというのだから、日本の政治が良くなる道理は無い。
今の政治家が悪いのは国民が悪いからだ。
私は政治家のレヴェルは国民のレヴェルを象徴すると思っている。

閑話休題。
さて、せっかくなので(というより、もう言い尽くしたので)あと二つ面白かった箇所を紹介したい。


(昭和十五年に)洋風芸名禁止というやつがある。ディック・ミネとかは全部ダメ。
その頃、デビューしてたら、おいらも「拍子たけし」か、「脈拍たけし」にされてたとこだったよ。



「銀輪部隊、マレー半島南下に成功」って言ったって、自転車ですうっと通り過ぎて行っただけ。
きちんとした占領政策があって、ポイントポイントを抑えていったわけじゃない。
 現地の農民から見たら、「あっ、日本人が来た。あっ、行っちゃった」という感じじゃないの。
勝ったというより通過だよ。通り抜けただけ。それで日本軍は強いと勘違いしてるんだから、世話ないね。



実際は、通り過ぎただけではないのだけれど、
「あっ、日本人が来た。あっ、行っちゃった」と感じた農民も居たことだろう。
日本軍のマレー半島快進撃もビートたけしにかかれば、ただの通過になってしまう。
かくも、ビートたけしの本は面白いのである。

『ゴー宣・暫』第六場「安倍総理は闘う政治家か?」

2006-10-28 01:06:18 | 書評・雑誌
今号のゴー宣は安倍首相批判の内容。
冒頭で村山談話、河野談話、東京裁判史観を踏襲した安倍首相について、

なんじゃこりゃー!
闘う政治家と行ったくせに全然、闘わん!
クソサヨク政権やないかーっ!


と怒りをあらわにしていました。この怒りには私もまったく同意。
今週の内容はほとんど小林さんと同意見でした。

北朝鮮の核実験が差し迫っているという時期に、国会では60数年前の歴史認識の質問ばかり!

これも全くもって同意です。
歴史認識など国会で質問する事柄なのでしょうか。
マスコミも野党も所謂「自虐史観」でないと総理の資格は無いと思っているのでしょう。
私はむしろ逆だと思います。
自虐史観という言葉はあまり好きではないので言い換えますが、
自国の歴史を意図的に捻じ曲げ、支那や朝鮮、米国に都合の良い歴史認識を持っている者こそ総理になる資格どころか政治家になる資格もないと思っています。
自虐でも讃美でもどちらでも結構ですが、政治家は自国の歴史をもう一度史実に沿ったかたちで見直していただきたい。
例えば、河野談話にしろ、少しでも調べれば従軍慰安婦の強制連行がでっち上げの嘘であることなどすぐにわかるはずです。

そして次の指摘がなかなか面白い。

いいかげんに安倍首相もキレたらどうなんだーっ!!
世間をぶっ壊して自説を貫けば、マスコミはいっせいに叩いて、
党内からも反発を招き、野党からもここぞと襲いかかってくるだろうが、
それら全部を「抵抗勢力」と言ってしまえばいじゃないか!
国民は逆に大きな期待を寄せて支持するのに!
総理が狂気じみた信念を示せば、信念の内容など吟味せずに、
国民はマスコミを無視して総理を支持するというのが、
小泉から得た教訓だったはずだ。

(太文字、あび卯月)

「総理が狂気じみた信念を示せば、信念の内容など吟味せずに、国民はマスコミを無視して総理を支持する」
という指摘は実に的を得ていますね。
その通りなんです。安倍首相が信念を貫いて、
「私の歴史認識こそ正しい!サヨク的な歴史認識を持つ野党は皆抵抗勢力だ!!」
と叫べば、国民はきっと中身を吟味せずに安倍首相を支持しますよ。
それとも、賢い国民は先の総裁選の時に学習したので、そんなものに騙されないでしょうか。
いやいや、私はそんな期待は持てないと思います。

田原総一朗に至っては、GHQが「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」遂行のために新聞連載させた「太平洋戦史」まで持ち出して、
この歴史観を日本人は受け入れたんだと言っていた。


田原さんがそんなこと云っていたとは知りませんでした。
ゴー宣には書いていませんでしたが、
『太平洋戦史』はアメリカの国務省の編纂文書『平和と戦争』(1943年)などに基づいて書かれており、
『平和と戦争』はアメリカが敵国に対していかに対処するかという目的の為に書かれた云わばプロパガンダ文書です。
プロパガンダというのは言い過ぎにしても、米国史観に基づいて書かれた文書であることは間違いありません。
ちなみに、『戦争と平和』の序言にはハルノートでおなじみのハル国務長官の文章が載っています。

ところで、今号のゴー宣の最後のページには当ブログでも紹介した小林秀雄さんの文が紹介されていました。
ゴー宣に小林秀雄さんの文が載るのってなんだかなぁ・・・(笑)

『井沢式「日本史入門」講座』一巻

2006-10-18 22:46:20 | 書評・雑誌
井沢元彦さんの『井沢式「日本史入門」講座』第一巻(和とケガレの巻)を読んだ。
最近読んだ日本史を扱った本の中で最も面白かった。
本を読むのが遅い私が昨日買って今日読み終えたのだから余程のことだ。
と書いても「お前の読むスピードなんて知らないよ」と云われますね。失礼。

本書では日本人固有の思想である「和」と「ケガレ」について解り易く書かれている。
日本で「談合」が何故無くならないか、差別が何故起こったのか。
この「和」と「ケガレ」の問題を理解しなければそれは説明できない。

少し前に『教科書が教えない歴史』という本が流行ったが、
あれは「日本にはこんなに素晴らしい人物が居ました」とか
「日本は台湾や朝鮮に対してこんな良いことをしました」、「あの戦争は正しかった」など
要は日本民族と日本史を讃美する本だった。
私はそれまで散々、日本人を貶めて、日本史を歪曲して否定するという時代があったから、
『教科書が~』のように日本人と日本史を肯定的に捉える本があって良いと思うし、
日本を讃美すること自体は(事実に反していない限り)なにも悪いことはないと思う。
ただ、それだけで終わってしまえば日本史と日本人の本質は見えてこない。

そこでお薦めしたいのがこの『井沢式「日本史入門」講座』である。
井沢元彦さんと云えばよく右翼呼ばわりされるけれども、
決して、只管自国を讃美し他国を罵る類の右派ではない。
むしろ、日本史を通して我々日本人の特質、場合によっては宿痾となりうる問題点を痛烈に指摘している。

例えば、日本に於いてもっとも重要視されるのが、
この本の副題にもあるように「和」である。
これは十七条憲法の昔から日本人にとってもっとも大切にしなければならないものと考えられている。
日本でもっとも嫌われる人間とは集団の和を乱す者だ。
また、なにごとも話し合いで決めることが良しとされている。
独裁者はいつの時代でも嫌われるのだ。
そしてみんなで決めたことには従わなければならない。

ちょっと話がそれるかもしれないが、
日本人に「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と訊いて、
明確な答えを即答できる人はあまり居ない。
藤原正彦さんが言うように「駄目なものは駄目だから」というような答えくらいしか出てこない。
(勿論、これはこれでよい答えだと思う)
同じ質問を、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の信者にしてみると明解な答えが返ってくる。
「神が人を殺すなと言ったからだ」
この一言で済む。
ところが、日本には八百万の神がおわす多神教で唯一絶対神を戴いたことはないし、
口やかましく人間に命令する神も居ない。
結局、日本に於いて、何故人を殺してはいけないのかという答えは
「和を乱すから」と言う事になる。

一見、和を大切にすることは良いことだと思える。
じじつ、私も和を重んじるのは「日本人の良いところだ」と思っていた。

しかし、逆に云えば「和を乱さなければ何をしても良い」と言う事になるのだ。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉があるように
悪いことでもみんなでやれば怖くないのだ。
この「赤信号~」という言葉はビートたけしさんが作った言葉だが、
これほど日本人の特徴を表している言葉は無い。
しかも、クスリと笑える形で表しているのだからビートたけしは凄いと思う。

教科書で学ぶ日本史は個々の事象を羅列しているだけで、有機的な繋がりが見えにくい。
解り易くしようという姿勢は見えるのだけど、日本人にとって重要な「和」や「ケガレ」の問題を無視している点で致命的だ。
この『井沢式「日本史入門」講座』こそ「教科書が教えない歴史」を書いていると云える。

本屋めぐり日記

2006-10-03 00:21:55 | 書評・雑誌
今日は学校が早めに終わったので、昼から博多に行った。
一番の目的は『新大東亜戦争肯定論』を買うため。
この本は、福田逸先生がSAPIOに書評を書かれていて、
私は福田先生のブログに「是非、読んでみようと思ひました」とコメントしていたのだ。
ところが、まだ入手していなかったので今日こそ買うぞと思った次第。
本当ならe-honで註文して近所の本屋で受取ればすぐ手に入るし交通費も掛からないのだが、
e-honではたまに帯が附いていなかったりする落とし穴があるので、
こういうハードカバーの本を買う時はやはり直接本屋で手に入れることにしている。

博多駅に着いて地下街に行ってみると古本市をやっていたので、店内を覗いてみると中々良い本がある。
そこで、
松村剛・著『ユダヤ人』(中央新書)、
大野普・著『日本語をさかのぼる』(岩波新書)、
金田一春彦・著『日本語』(岩波新書)、
林健太郎・著『戦後五十年の反省』(原書房)、
金美齢・深田裕介著『敵は中国なり』(光文社)、
小林よしのり『次元冒険記』(講談社)
を購入。

金田一春彦さんの『日本語』は旧版。私が持っているのは新版だったので買った。
林健太郎さんの『戦後五十年の反省』は後ろの方に福田恆存先生の追悼文が載っていたので即買い。
金美齢・深田裕介著の『敵は中国なり』はタイトルが面白くなかったが、
日本の台湾統治についての記載があったので購入。

小林よしのりの『次元冒険記』はモノめずらしさで買って、
その日(今日)の内に読了したが、小林よしのりがこういう漫画を描いていた事実を一切知らなかった。
作者が四次元の歪で漫画の中に入ってしまうという、なかなか面白いSF漫画だった。
1996年の作品で絵柄は正に『ゴーマニズム宣言』。
なんといっても主人公が小林よしのりなのだから余計にゴー宣っぽい。
が、作中で政治的な発言は一切していない(笑)
やはりと思ったが現在絶版になっている。

さて、古本屋市を後にして、博多交通センタービル内にある紀伊國屋へと向かった。
紀伊國屋では
富岡幸一郎・著『新大東亜戦争肯定論』(飛鳥新社)、
小林英夫・著『満州と自民党』(新潮新書)
坂野潤治・著『明治デモクラシー』(岩波新書)、
早坂隆・著『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ)
を購入。

小林英夫・著『満州と自民党』は以前このブログでも紹介した本。
岸信介をはじめとした満洲人脈が戦後、日本でどのような働きをしたかを検証している。
良書だが手元に無かったので今回購入した。
早坂隆・著『世界の日本人ジョーク集』は日本人をネタにした世界のジョークを集めた本。
もう、半分くらい読んだが頗る面白い。
日本人なら誰しも苦笑するジョークが沢山収録されている。
また、この本の特徴は
「では、日本人はなぜ世界からそう見られるのか」という考察もされている点で、
一種の日本人論としても楽しめる。
今日、買った本の中でもっともお薦めしたい本である。