先日、テレビ朝日で廣田弘毅を主人公としたドラマ『落日燃ゆ』をやっていた。
原作は城山三郎の同名小説。
ドラマの中で登場人物はみな中華民国のことを「支那」と呼んでいた。(註1)
NHKのドラマ『白洲次郎』では戦前なのに「中国」と言っていて違和感があったが、こちらの方は自然。
また軍部は概して悪として描かれているが、二・二六事件については青年将校を単なる暴徒と描くのではなく、彼らなりに叛乱を起こす理由があったという視点を取り入れていたことは意外だった。
疑問が残ったのは主人公、廣田弘毅の描き方だ。
いや、原作が廣田を美化して描かれた『落日燃ゆ』だし、ドラマの主人公なのだからそりゃあ美しく描かれるのは当然なのだが、歴史学の視点から見ればツッコミどころが多くある。
まづは個人的な感想として北大路欣也は廣田弘毅のイメージとかけ離れている。
もう少し地味な感じの人がいいと思った。
(北大路さん好きですけどね。ソフトバンク犬の声もこの人)
そして、廣田弘毅が近衛首相や軍部と対立してでも支那事変に一貫して反対の立場をとっていたかのように描かれていたが事実は多少異なる。
確かに、廣田は支那事変に反対の立場であったが、閣議の席ではほとんど反対らしい立場をとっていない。
支那事変の発端となった盧溝橋事件が起きたとき、外務省は事変の拡大に大反対だった。
そこで、外務省の石射猪太郎東亜局長(註)は七月十一日の閣議に向かう外相廣田弘毅に陸軍大臣が主張する五個師団出兵案に反対するよう要請した。
ところが、この案は閣議であっさりと可決される。
閣議から戻って来た廣田に「万一に備えて……ということだから、その程度ならよかろうと同意した」と聞かされた石射は「野獣に生肉を投じたも同然」と落胆した。
その後も事変の拡大と不拡大で陸軍と外務省との駆け引きは続くが、やはり廣田は閣議で発言せず、馬場内相からも「ちっとも発言しない。自分のような素人が見ておっても甚だはがゆい」と嘆かれている。
一向に収拾しない事態にたまりかねた石射ら外務省高官は廣田に辞表を突きつけるが、廣田は一喝してこれを退けた。
無論、石射らが辞めても事態が収拾するわけではなかったからだが、石射はよほど肚に据えかねたのだろう、日記に
「廣田外務大臣がこれ程御都合主義な、無定見な人物であるとは思はなかつた」
「今度のような事変に、彼の如きを外務大臣に頂いたのは日本の不幸であるとつくづく思ふのである」(註3)と綴った。
その後も彼の日記には廣田に対する酷評が並んでいる。
その中の一つ紹介すると、
廣田外相は時局に対する定見も政策もなく、全く其日暮し、イクラ策を説いても、それが自分の責任になり相だとなるとニゲを張る。
頭がよくてズルク立ちまわると云ふ事以外にメリットを見出し得ない。それが国士型に見られて居るのは不思議だ。(註4)
と書いている箇所がある。
これはあくまでも石射の見方ではあるが、『落日燃ゆ』で描かれているものとは随分かけ離れた廣田像がここにある。
ドラマで廣田が軍部の拡大方針に流される近衛に軍紀粛清を訴え事変の収拾を詰め寄るシーンがあった。
でも、それはフィクションだと思う。(少なくとも私の手元にある資料では廣田のそういった行動は確認できない)
それどころか、廣田はまったく逆の行動をとっている。
南京陥落後の昭和十三年一月十五日に開かれた大本営政府連絡会議で国民政府(中国)との和平交渉継続を主張する陸軍参謀本部に対して内閣は和平交渉打ち切りを主張した。
業を煮やした多田駿参謀次長が「政府はいざとなれば総辞職すればいいが、軍部に辞職はなく陛下にも御辞職はない」とまで云ったがこれに対して廣田は「長い外交官経験に照らして中国に誠意が無いのは明らかだ。参謀本部は外相を信用しないのか」と反論し、結局、悪名高き「国民政府は対手とせず」声明に至っている。
勿論、廣田が主張したように、支那側に和平を受け入れる意思があったのかは疑わしいが、交戦相手を無視して戦争は終結できない。
この声明はその後の支那事変の泥沼化を決定づけたと言っていい。
廣田は自身のこのような行動について戦後、巣鴨での尋問の際、「あのような戦争には反対だったが、陸軍が状況を左右していたのでやりようがなかった」と弁明している。
だからと言つて廣田は自分が無罪だとは主張しなかった。
裁判の手続き上、無罪と云わされはしたが彼は自己弁護に固執することなくすべてを受け入れた。
このような潔さが彼の人気の要因になっているのだろう。
それにしても、臼井勝美が言うように廣田のような「実務的な外交官」があの非常時に外相に居たことは一種の悲劇だった。
それは廣田自身にとってもだし、日本国民にとってもだ。
石射は廣田をけちょんけちょんに貶しているが、私は彼は善人だったと思う。
そして、善人だったからこそ時代の空気に翻弄され、A級戦犯として文民として唯一死刑の罪を被ったのではないだろうか。
いづれにしても悲劇の人に映る。
なお、死刑執行直前のシーンで原作の描写通り廣田のみ万歳をしていなかったが、これもフィクション。
死刑執行に立ち会った教誨師、花山信勝が廣田も万歳したことを自身の著書に書き残している。
歴史家の秦郁彦氏によると花山師は晩年になっても廣田が板垣征四郎、木村平太郎とともに両手をあげ、もろともに万歳を唱えたのをはっきりと記憶していたという。
******
註1:ただし、廣田は「中国」と呼んでいた。
註2:東亜局長は現在のアジア大洋州局長にあたる。
註3:『石射猪太郎日記』167-8頁(昭和十二年七月十七日の段)。
註4:同、182頁(同八月十八日の段)。
原作は城山三郎の同名小説。
ドラマの中で登場人物はみな中華民国のことを「支那」と呼んでいた。(註1)
NHKのドラマ『白洲次郎』では戦前なのに「中国」と言っていて違和感があったが、こちらの方は自然。
また軍部は概して悪として描かれているが、二・二六事件については青年将校を単なる暴徒と描くのではなく、彼らなりに叛乱を起こす理由があったという視点を取り入れていたことは意外だった。
疑問が残ったのは主人公、廣田弘毅の描き方だ。
いや、原作が廣田を美化して描かれた『落日燃ゆ』だし、ドラマの主人公なのだからそりゃあ美しく描かれるのは当然なのだが、歴史学の視点から見ればツッコミどころが多くある。
まづは個人的な感想として北大路欣也は廣田弘毅のイメージとかけ離れている。
もう少し地味な感じの人がいいと思った。
(北大路さん好きですけどね。ソフトバンク犬の声もこの人)
そして、廣田弘毅が近衛首相や軍部と対立してでも支那事変に一貫して反対の立場をとっていたかのように描かれていたが事実は多少異なる。
確かに、廣田は支那事変に反対の立場であったが、閣議の席ではほとんど反対らしい立場をとっていない。
支那事変の発端となった盧溝橋事件が起きたとき、外務省は事変の拡大に大反対だった。
そこで、外務省の石射猪太郎東亜局長(註)は七月十一日の閣議に向かう外相廣田弘毅に陸軍大臣が主張する五個師団出兵案に反対するよう要請した。
ところが、この案は閣議であっさりと可決される。
閣議から戻って来た廣田に「万一に備えて……ということだから、その程度ならよかろうと同意した」と聞かされた石射は「野獣に生肉を投じたも同然」と落胆した。
その後も事変の拡大と不拡大で陸軍と外務省との駆け引きは続くが、やはり廣田は閣議で発言せず、馬場内相からも「ちっとも発言しない。自分のような素人が見ておっても甚だはがゆい」と嘆かれている。
一向に収拾しない事態にたまりかねた石射ら外務省高官は廣田に辞表を突きつけるが、廣田は一喝してこれを退けた。
無論、石射らが辞めても事態が収拾するわけではなかったからだが、石射はよほど肚に据えかねたのだろう、日記に
「廣田外務大臣がこれ程御都合主義な、無定見な人物であるとは思はなかつた」
「今度のような事変に、彼の如きを外務大臣に頂いたのは日本の不幸であるとつくづく思ふのである」(註3)と綴った。
その後も彼の日記には廣田に対する酷評が並んでいる。
その中の一つ紹介すると、
廣田外相は時局に対する定見も政策もなく、全く其日暮し、イクラ策を説いても、それが自分の責任になり相だとなるとニゲを張る。
頭がよくてズルク立ちまわると云ふ事以外にメリットを見出し得ない。それが国士型に見られて居るのは不思議だ。(註4)
と書いている箇所がある。
これはあくまでも石射の見方ではあるが、『落日燃ゆ』で描かれているものとは随分かけ離れた廣田像がここにある。
ドラマで廣田が軍部の拡大方針に流される近衛に軍紀粛清を訴え事変の収拾を詰め寄るシーンがあった。
でも、それはフィクションだと思う。(少なくとも私の手元にある資料では廣田のそういった行動は確認できない)
それどころか、廣田はまったく逆の行動をとっている。
南京陥落後の昭和十三年一月十五日に開かれた大本営政府連絡会議で国民政府(中国)との和平交渉継続を主張する陸軍参謀本部に対して内閣は和平交渉打ち切りを主張した。
業を煮やした多田駿参謀次長が「政府はいざとなれば総辞職すればいいが、軍部に辞職はなく陛下にも御辞職はない」とまで云ったがこれに対して廣田は「長い外交官経験に照らして中国に誠意が無いのは明らかだ。参謀本部は外相を信用しないのか」と反論し、結局、悪名高き「国民政府は対手とせず」声明に至っている。
勿論、廣田が主張したように、支那側に和平を受け入れる意思があったのかは疑わしいが、交戦相手を無視して戦争は終結できない。
この声明はその後の支那事変の泥沼化を決定づけたと言っていい。
廣田は自身のこのような行動について戦後、巣鴨での尋問の際、「あのような戦争には反対だったが、陸軍が状況を左右していたのでやりようがなかった」と弁明している。
だからと言つて廣田は自分が無罪だとは主張しなかった。
裁判の手続き上、無罪と云わされはしたが彼は自己弁護に固執することなくすべてを受け入れた。
このような潔さが彼の人気の要因になっているのだろう。
それにしても、臼井勝美が言うように廣田のような「実務的な外交官」があの非常時に外相に居たことは一種の悲劇だった。
それは廣田自身にとってもだし、日本国民にとってもだ。
石射は廣田をけちょんけちょんに貶しているが、私は彼は善人だったと思う。
そして、善人だったからこそ時代の空気に翻弄され、A級戦犯として文民として唯一死刑の罪を被ったのではないだろうか。
いづれにしても悲劇の人に映る。
なお、死刑執行直前のシーンで原作の描写通り廣田のみ万歳をしていなかったが、これもフィクション。
死刑執行に立ち会った教誨師、花山信勝が廣田も万歳したことを自身の著書に書き残している。
歴史家の秦郁彦氏によると花山師は晩年になっても廣田が板垣征四郎、木村平太郎とともに両手をあげ、もろともに万歳を唱えたのをはっきりと記憶していたという。
******
註1:ただし、廣田は「中国」と呼んでいた。
註2:東亜局長は現在のアジア大洋州局長にあたる。
註3:『石射猪太郎日記』167-8頁(昭和十二年七月十七日の段)。
註4:同、182頁(同八月十八日の段)。