あび卯月☆ぶろぐ

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ドラえもん「最終話」、怒られる

2007-05-31 23:34:13 | 漫画・アニメ
「ドラえもん」最終話、勝手に出版した男性が謝罪

 電池切れで動かなくなったドラえもんを、35年後にロボット工学の第一人者になったのび太がよみがえらせた――。藤子・F・不二雄さんの人気漫画「ドラえもん」の「最終話」と称する冊子が出回っている。「ドラえもん」の出版元の小学館は29日までに、無断で漫画化して出版した男性(37)が、同社と藤子プロに謝罪して今後同様のことをしない旨を誓約、不当な利益を得たことを認め、売上金の一部を支払ったことを明らかにした。
 人気漫画の改変は同人誌などで行われているが、今回は約1万3000部も販売していたため、小学館と藤子プロは重大な著作権侵害として男性に警告していた。
 この「最終話」は、98年ごろから、インターネット上で文章で広まっていた。05年秋に、男性が「田嶋・T・安恵」の名で漫画化、20ページの冊子にした。約500円で東京・秋葉原の書店やインターネットを通して販売していたという。いかにも最終話らしい展開と本物そっくりの絵が一部で評判を呼び、男性が販売をやめた今も、ネットオークションで5000円近い価格で売買されたりしている。
 支払額について小学館側は明らかにしていない。男性はかつて一般出版社から単行本を出すなど、漫画家として活動していたこともある。
 「ドラえもん」は96年に藤子さんが亡くなったため未完となっている。その後のアニメや漫画の「新作」は、藤子さんの指導を受けたスタッフらの手で作られている。
 藤子プロの伊藤善章社長は「藤子さんの世界観に基づく作品を第三者が改変して公にするのは問題だ。ファンが仲間うちでやることはまだ許容範囲と考えているが、今回はその一線を超えている」と話している。

(朝日新聞 2007年05月29日16時51分)



この「最終話」私も読んだ事がある。
じつはこのストーリーは以前から知っていた。
かなりよい話で初めて知ったときは涙腺がゆるんだ。
その時の感動が強かったせいか漫画で読んだ時は予想した以上のものではなかった。
構成にやや不満があったのだ。
とはいえ、絵柄もそっくりで質は決して低くない。

同人誌は本来、水面下で楽しむものでそれが表に出てきたから怒られた。
早い話が売れすぎたのだ。
ただ、ポケモン同人誌事件の時の任天堂の対応と違い、小学館はまだまだ大人の対応だと思った。
小学館の社長は「ファンが仲間うちでやることはまだ許容範囲と考えている」と述べている。
任天堂は仲間内でも許さない。

しかしそれでも、あの作品を闇に葬るのは随分惜しい気がする。
小学館によると、ある教師が「たいへん良い話なので授業の教材に使用してよいか」と連絡を入れてきたそうだ。
だからこそ困ったのだろうが、著作権が問題であれば小学館がお墨付きを与えてはどうだろうか。
いまでも、小学館の雑誌にはお墨つきを与えられた漫画家が描いたドラえもんが掲載されいてるのだから著作権の問題は簡単にクリアするはずだ。
小学館はあの作品を全く藤子さんのものとは違うと断りを入れた上で(本来のドラえもんとは完全なパラレルワールドとした上で)同社から出版するとよい。
ネット上でもあれだけ売れたのだから必ず売れる。
そして、そんな粋な計らいをした小学館はますます人気が出るだろう。

泉下の藤子さんが許さないというのなら、いまやっているドラえもん映画のリメイクはいつ許しを得たのか。
いやいや、某や某々と違って藤子さんのことだからこの「最終話」のことも決して怒らないと思うのだが、それは死人に口なしだから誰にもわからない。
「虎は死して皮を残す」をもじって「Fは死してドラを残す」と漫画家の松田洋子が書いていたが、なかなか上手いことを云うと思った。
あの「最終話」によって、F先生が残したドラに多くの人がより親しむことが出来るのであれば、それこそ小学館の為になると思うのだが如何だろう。
ひいては藤子さんの・・・といえば僭越だから云わないが、私はあの「最終話」を多くの人に読んでもらいたいと思うものである。
いずれにしても、あの「最終話」が再び日の目を見ることをこいねがう。

恩師の死と松岡大臣の自殺

2007-05-30 00:31:29 | 雑記
いま巷では松岡農水大臣の自殺で騒いでいるが、私は同じ日、大学の恩師の訃報を聞いて松岡大臣どころではなかった。
無くなった先生は大変立派な方だった。
専門は法学。いつもユーモアをまじえた先生の講義が大好きだった。
なにより学生に愛されていた。
私が大学ではじめて福田恆存さんの話をしたのもその方だ。
福田恆存さんをあまり知る人が居なかったので、話が通じた時は嬉しかった。
先生は「コウゾンさんの文章は良いよね」と仰っていた。
その時の笑顔を今も忘れない。
まだ、還暦にも達しておらず若くして逝かれた。
世の中、立派な方から先に亡くなられるように思えてならない。
心から哀悼の意を表すると共に御冥福をお祈り申し上げたい。

さて、世の中には死にたくなくても死んでしまう方もいれば、松岡大臣のように自ら死を選ぶ人もいる。
私は必ずしも自殺を否定しない。
責任をとって自殺するということも、あいるいはあってよいと思う。
しかし、今回の松岡大臣の件はなんとも哀しい思いがする。
自ら命を絶たなくても良かったのに。
余程、悩んでいたのだろうか。
辞めたくても辞められなかったのだろうか。
辞任の道を阻んでいたのが安倍総理だとするならば一層風当たりは強くなるだろう。
参院選の影響がどうのとマスコミと共に国民は騒いでいるが私はあまり興味が無い。
それよりも、国民向けの遺書に

「国民の皆様、後援会の皆様。私自身の不明、不徳の為、お騒がせ致しましたこと、
ご迷惑をおかけ致しましたこと、衷心からお詫び申し上げます。自分の身命を
持って責任とお詫びに代えさせていただきます。なにとぞ、お許し下さいませ。
残された者達には、皆様方のお情けを賜りますようお願い申し上げます。
安倍総理、日本国万歳。平成19年5月28日松岡利勝」


と、したためられていたことの方が興味深い。
日本国万歳といって命を絶つなんて終戦時に自決したあまたの軍人を思い出した。
戦争に負けたわけでもないのにやはり命を絶つべきではなかったように思う。
松岡大臣の遺書にしたためられた「日本国万歳」は終戦時のそれとはまた違った意味で哀しさを漂わせている。

ホラーは規制すべきか

2007-05-20 00:23:31 | 社会・世相
福島県会津若松市の高校3年の男子生徒(十七歳)が母親を猟奇的に殺して捕まった。
世の中、気違いが溢れている。
気違いは昔から居るが最近ますます増えた気がするのは気のせいか。
犯人の少年は母親の首や右腕を切断して、腕にはスプレー缶で白い塗料を吹き付け、植木鉢に差した状態で放置していた。
腕を白くしたのはマリリン・マンソンのDVDを見ていたというからおおかたそれに影響されたのだろう。
死体をバラバラにしたのはホラーDVDの影響か。

ホラー作品と猟奇殺人の関連性を否定する者達は今度もまた無関係と言うだろう。
そう思っていたら、少年自身が「ホラー映画を見ているうちに人を殺してみたくなった」と証言しているという。
関連性否定派はひっくり転げているところだろうか。

私は猟奇殺人と猟奇作品の関連はあると思う。
この事件に限らず猟奇殺人を起した犯人は多くの場合、ホラービデオを見たりしている。
神戸の酒鬼薔薇事件も宮崎勤の事件もそうだった。
かといって、ホラー作品を観れば皆、殺人鬼になるのかというとそれも違うと思う。
いくらなんでも極端だ。
早い話が、馬鹿にそういう作品を見せると猟奇に走る。
ついでにいうと猟奇殺人に走るのは馬鹿や気違いだけでなく、むしろ真面目な人間に多かったりする。
ただ、真面目な人間はホラー作品を観ても猟奇には走らず嫌悪感をいだくだけである。

では、ホラーは規制すべきか。
私はホラー作品の表現自体は規制すべきではないと思う。
表現の自由はどこまでも認められるべきだ、と一応思う。
ただ、販売はきちんと規制するべきで、過激なものは十八禁にするとかした方がいい。
なら、結局いまと同じだろうか。
というのも、私はホラー作品を観たことも無ければ興味もなく今後も見ないだろうから販売の規制がどうなっているのか知らない。
また、ホラーにも様々な種類があるのだろうから、「ホラー」と一括りにするのはホラーファンから叱られるかも知れない。

早い話、私はホラーを無害という意見も規制せよという意見にも与したくない。
要は猟奇的なホラーは有害であるという前提に立ち、元から排除するのではなく有害な物と認識した上で取り扱うべきだと思う。
煙草と一緒というと少々乱暴だがわかりやすいかも知れない。
もっとも、猟奇ホラーばかり見ている人とはあまりお友達になりたくないけれど。

『パッチギ』の感動と倫理

2007-05-19 00:42:16 | 映画・ドラマ
今日、金曜ロードショウで『パッチギ』をやっていた。
私はこの作品を観るのが今度で三度目である。
一度目は映画館、二度目はレンタルDVDで、そして今日地上波で見た。
あの井筒監督がよくもまぁ、と思うほど感動的な素晴らしい作品である。(暴力シーンは少し苦手だが)
もう、三度見るので感動は薄れたが、細部の作りを見て楽しんだ。

しかし、危惧することがある。
この作品、藝術作品としては立派だが、政治的観点からみると最低なのである。
歴史的事実と異なる発言、もしくは誇張された表現が見られ、少しでも歴史を知っている人なら苦笑してしまう箇所が多々ある。
解って見る分はいいが、それを鵜呑みにするならもはや毒である。

私は政治と藝術は分けて見たいと思う。
倫理と感動は別ものであるとするのが近代文藝理論の大前提であり、荻生徂徠も同じことを云っていたと呉智英さんの本にも書いてあったが私もこの考えに同感だ。
それゆえ、どんなプロパガンダ作品でも感動するものは感動する。
しかし、作品を政治主義の目でしか見ないならプロパガンダ作品ほど最低なものはない。
政治主義の目でみるとパッチギは朝鮮、特に北朝鮮に都合の良いプロパガンダ作品である。

今日、パッチギを見た人の多くが作品内で述べられたことを鵜呑みにしない賢なる人々である事を願う。

あび放言 其の三(赤ちゃんポスト、天皇陛下の苦言)

2007-05-16 18:05:47 | 時事放言
・赤ちゃんポスト

昨日、赤ちゃんポストに三歳児が捨てられていたというニュース。
だから云わんこっちゃないんだ。
あんなもの作っちゃいけないんだって。
といいつつ、報道ステーションで加藤千洋さんが語ったように自分の中で賛成と反対が交叉している。
でも、やはり反対の気持ちの方が強い。

私は感情的には赤ちゃんポストには反対。
何で子供も育てられないようなオトナが子供を作る時代になっちゃったのかねぇ。
早い話が子供が子供を作る時代になったということだ。
かつての日本にも間引きという名の子殺しがあったがあれは避妊が発達していない時代の話。
様々な避妊の方法がある今の時代と比較出来ない。
また、昔は子供が捨てられても地域の皆がその子を育てたという意見がある。
しかし、それは地域社会が崩壊した今、不可能なことだろうとも。

一方、賛成派の意見もよくわかる。
子供の命を守るためという大義に反対するのは難しい。
しかし、その大義はテロと戦うためという戦争の大義と同じではないだろうか。
つまり、どちらも立派だが、いやいやそれはしかし・・・と言いたくなるのだ。

もう、この際、赤ちゃんポストを認めてもいいが、
三宅久之さんが言うように子供は子供を作るな!ときちんと教える事にも力を入れて欲しい。
問題の本質は無責任に子供を作る輩が増えたと云う事だと思うから。
(私のまわりにも中絶した人が結構います。はい。)

ところで、今後、赤ちゃんポストは
幼い子供が悪いことをした時、「赤ちゃんポストに捨てるよ!」などと云って母親が子供を躾る時に使えるかもしれない。
こういう使われ方ならば大賛成である。



・天皇陛下の苦言

天皇陛下は十四日の記者会見で次のように述べられた。

(自らの皇太子時代の海外訪問について)
「天皇の名代ということは,相手国にそれに準ずる接遇を求めることになり,私には相手国に礼を欠くように思われ,心の重いことでした。各国とも寛容に日本政府の申出を受け入れ,私どもを温かく迎えてくれたことに,深く感謝しています。」
「私どもの外国訪問を振り返ってみますと,国賓に対する名代としての答訪という立場から多くの国々を訪問する機会に恵まれたことは,国内の行事も同時に行い,特に皇后は三人の子どもの育児も行いながらのことで,大変なことであったと思いますが,私どもにとっては,多くの経験を得る機会となり,幸せなことであったと思います。それと同時に名代という立場が各国から受け入れられるように,自分自身を厳しく律してきたつもりで,このような理由から,私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません。
現在,皇太子夫妻は名代の立場で外国を訪問することはありませんから,皇太子夫妻の立場で,本人,政府,そして国民が望ましいと考える在り方で,外国訪問を含めた国際交流に携わっていくことができると思います。選択肢が広いだけに,一層的確な判断が求められてくると思われますが,国際交流に関心と意欲を持っていることを聞いていますので,関係者の意見を徴し,二人でよく考えて進めていくことを願っています。」
(宮内庁ホームページより)

明らかに皇太子夫妻に対して苦言を呈されている。
早い話が、皇太子夫妻に「私的訪問しすぎなんだよ!」ということですね。
皇太子としての立場での訪問は「私には相手国に礼を欠くように思われ,心の重いことでした。」とも仰っているのだから結構露骨である。
深読みだろうか。
親子で価値観が違う事は普通のことだが、皇室とて例外ではないようだ。
昭和天皇と今の陛下の間にも価値観の違いがあるようだし、特に問題にすることではないのかもしれないが、これを国民がどう見るかである。
私の感じるところでは国民は皇太子夫妻よりも天皇陛下のお考えの方に共感しているようだ。
皇太子夫妻の行動が皇太子夫妻、ひいては皇室に対する国民感情の悪化を促進させるのであれば残念である。

後藤和智さんに藉口して

2007-05-12 02:28:41 | 社会・世相
ウィキペディアによると後藤和智さんは評論家であるらしい。
ウィキの記述だから、あまり信用できないけれども、後藤さんって評論家だったのかぁ。
知らなかったなぁ。
じゃあ、自身のブログや活動は趣味ではなく本業としてやっているのか。
私は福田恆存さんの
「批評の専門家になるということはこのうえない不幸だ。
健全な批評は副業でなければならない。(中略)
ゆめゆめ批評を本業とするなかれ。」
という言葉に深く共感するので決して評論家になりたいとは思わない。
そもそも、そんな力量もないわけだけども(笑)
それに、私がいつも書いていることはただの感想。
決して論理的に文を組み立てているわけではなく、およそ評論と言えるものではありません。
ただ、どうしても評論家と呼ばれる人たちの意見やマスコミの意見に茶々を入れたくなる性分なのですね。

さて、ウィキで知ったのだけど後藤さんは私と同じ学年とのことです。(年は私の方が若い)
これもなんだか驚いた。
そうかぁ、同じ学年だったのかぁ。
かたや、左派で若者批判を批判する立場、かたや右派で若者批判を肯定する立場。
そして、共通点は声優が好きということ(笑)
なんだか、興味深いですね。(そうでもない?)
ただ、私はぶりぶりしたアイドル声優は好まないし、自分では右でも左でもないと思っているのですが。

で、今回の記事は後藤さんに倣って私も「俗流若者論」を批判しようと思うわけです。
(ところで、この「俗流若者論」という概念(言葉)は後藤さんが提唱したものらしい。凄いんだか凄くないんだか。)

そういう次第なので、今回はウィキに書かれていた俗流若者論の例を取り上げて批評したいと思います。


・列車内での若者の(特に携帯電話に関する)マナーがなっていない。

これは若者に限ったことではない。
いまや、老若男女問わずケータイのマナーはなっていない。
ただ、若者は大人に比べしょっちゅうめるめる(←メールを打つ擬音です)やっているので目立つのだろう。
あ、でも、地べたに座り込むのは若者以外には見かけたことないな。
平気で優先席に坐るし、やっぱり電車内での若者のマナーは悪い(笑)


・少年による凶悪犯罪が増加の一途を辿っている。

統計によると戦後の兇悪な少年犯罪件数のピークは昭和三十年代。
一概に有史以来最悪とは云えない。
ただ、近年増加していることは事実で、それに、当時と社会構造が異なるので安易に比較は出来ないと思う。
それに、現実に少年による兇悪犯罪が起こっているのでその現象を軽んじる態度には反対。

・最近の若者は就業意欲が乏しい。

どうだろうか。
私の周りに居る人はそんな人はいない。
それに、かつてはヒッピーだとかフーテン族なんかが居たわけだし、これはもっと客観的なデータが必要だと思う。
ニートやフリーターの問題にしても、やむにやまれずそうなってしまったという例もあるだろう。
それゆえ、ニートやフリーターなどを一括りに就業意欲が乏しいとも云えない。

・若者はインターネットや携帯電話といったバーチャルメディアによる貧困なコミュニケーションに終始している。

携帯電話によるコミュニケーションが貧困かどうかという議論は置くとして、ネットやケータイの普及でコミュニケーションが軽薄になっている感は否めない。
もちろん、簡単にコミュニケーションが出来るのは便利なのだが、便利なコミュニケーションが質の高いコミュニケーションだとは思わない。
この問題は簡単には語りつくせないですね。

・テレビゲームやインターネットのようなバーチャルメディアのせいで若者の死生観が異常になっている。

以前、新聞に載っていたアンケート結果によると小学生の四割くらいが「人は死んでも生き返ると思っている」らしい。
驚いた。小学生ってそんなに馬鹿だったの?
が、これは果たしてゲームなどの影響なのだろうか。
ゆとり教育の影響だったら笑えるけどね。
核家族化が進んで身近に死を感じる機会がなくなったからというのは俗流若者論?
いや、私もそれだけが原因とは思わないけれど。
いづれにしても、やはり、親が駄目なのではないだろうか。

・テレビゲームやインターネットのせいで若者は現実と虚構の区別がついていない。

そう言う人は確かにいると思うが でも、ごく一部だ。
多くの若者がそうだという意見には与しかねる。
むしろ、今の若者って大人よりも現実的だと思うけれど(笑)

・被害者を「人形扱い」する様な猟奇的な殺人者は、美少女フィギュアおたくに違いない。(フィギュア萌え族)

フィギュア萌え族にも色々な種類がいるから一概に猟奇に走るとは思わない。
え?お前はどうなのかって?
うーむ・・・綾波のフィギュアなら欲しいです(笑)
でも、別にそれはフィギュア萌えというよりエヴァグッツだから欲しいわけで・・・。
はいはい、いいですよ、私もフィギュア萌え族で!
でも、フィギュアを部屋に飾るなんて恥ずかしくて出来ないけどね。(妹から貰ったプリキュアのポルンのぬぐるみなら飾ってます)
少し真面目に書くと、私はフィギュアは美だと思っている。
質の高いフィギュアは藝術的に素晴らしい。
それは別にアニメのキャラに限らない。
どのような分野でも匠の技には感服してやまない。
で、命題に対する答えですが、一応これは偏見だと思う。

・若者たちの根性を叩き直す為に、農業や介護(徴農・義務ボランティア)に従事させるべきだ。

これ、日本にも徴兵制を導入すべきという意見と似たものがある。
以前、私の大学の教授が韓国の若者は徴兵に行っているので根性があると云っていた。
さて、しかし、韓国の犯罪発生件数を見ると根性があっても根性がまっすぐとは限らないようだ。
農業については従事というか、子供たちに農業体験をさせることは大変良いことだと思う。
私が子供だったらやってみたいけどなぁ。
総合的な学習の時間にそれをやるならあながち無駄な時間ではないだろう。

・私(俗流若者論者)を批判する若者たちを、刑務所に放り込むべきだ。(2005年1月13日の朝日放送番組内での、大谷昭宏の発言。)

え?大谷さん、こんなこと言っていたの?(笑)
面白い人だなぁ。
でも、この人、若者論以前に評論家として大嫌いです。
無知、偏見があまりにも多い。
もう、こういう人の云う事なんて一々気にしないで笑っていればいいのではないでしょうか。

やはり、批判というより批評になってしまったが、こんな感じでどうでしょうか、後藤さん。
(あ、別にコメントとかされなくて結構です)

軍人の階級云えますか?

2007-05-03 02:48:52 | 政治・経済
実は前回の記事、別のことを書こうと思っていた。
それが、ブロッコリーの説明をしているうち、話が長くなり時間が尽きた。
枕の話が本編になってしまったのである。

では本編。

ギャラクシーエンジェルというアニメがある。
正確に言うと、かつて放送されていた。
作品内容は宇宙を部隊にしてエンジェル隊と呼ばれる五人の軍人少女を中心に描かれるドタバタコメディで、その五人の軍人少女の中のまとめ役にフォルテ・シュトーレンというキャラクターがいる。
私はゲームの方はやったことがないのでよく知らないがゲームではきちんと隊長という肩書きもあるらしい。
年齢もフォルテが二十二歳で最年長、以下、十八、十七、十六、十三とくだってゆく。

だとすれば、普通に考えてフォルテの階級は一番上のはずなのにある雑誌にフォルテの階級が中尉とあり、他の隊員は少佐と記述されていた。
どう考えてもこれはおかしい。
(十代で佐官になれるのかというツッコミはアニメだから控えておきます)
調べてみると結局はフォルテは中佐だということがわかった。
雑誌の記述は単なる誤植だったのか、それとも製作者が「佐」より「尉」が上だと思ったのか。
おそらく、前者なのだろうが、後者を疑いたくなる気持ちもある。
というのも、いまや、軍人の階級を上からすらすら言える人がどれくらいあるかと思うからである。
かつて、山下清はどんな人物でも軍人の位に換算して評価したというが、今の特に若い人は山下清と同じ事は出来ないだろう。
巷で『ケロロ軍曹』という月刊少年エースに連載されていてアニメも放送されている漫画が人気を誇っているが、さて、軍曹は兵隊の位でいうとどのあたりになるのか、ケロロ軍曹好きな子供たちに尋ねてみたいものだ。

偉そうに云っているお前はどうなのだと問われれば、私もそんなに詳しくない。
子供の頃から旧軍にも自衛隊にも興味がなかったので階級の上下などわかるはずもなかった。
が、今は一応旧軍の階級を云える。
軍曹と曹長、どちらが階級が上かと訊かれても窮さず答えられる。
実はこれ「のらくろ」の御蔭なのである。
私は「のらくろ」で兵隊の階級を覚えた。
「のらくろ」おおよそ一巻につき一つづつ階級が上がってゆくので覚えやすかったのだ。
斥候や歩哨、酒保などの軍隊用語もこれで覚えた。
いま、自衛隊でも旧軍で使われていた言葉が生きているのかは知らない。
階級も旧軍と違っていちいち一等だの三等だのがついて煩わしい。
一等陸佐などと云わずに大佐と呼べばいいのに。
なんでも、旧軍の復活のイメージを弱めるためにこのようなヘンテコな呼称になったらしい。
私は防衛庁が防衛省になったついでに階級の呼称も改めるべきだと思う。
いつまでも、自衛隊から軍隊色を薄めることに努めるのはやめるべきだ。

軍人が跋扈する世の中は困るがさりとて軍人が尊敬されない世の中も困る。
少し前まで「自衛隊員は憲法違反の存在である」とか、「税金泥棒」だとか、酷いのになると「人殺し集団」と言う人まであった。
じつは日本は似たような時代を経験している。
それは大正時代である。
大正デモクラシーのあの時代、軍人は必要以上に軽んじられた。
作家の杉森久英さんは当時の様子を「あの頃私は中学生ですが、軍人は人殺し商売で普通の人間のやるもんじゃない、というふうなことを先生たちがじわじわと我々の頭にしみ込むように、授業の合間なんかでしゃべってるんですね。」とある雑誌の対談で回想している。
また「日本では大きな軍艦を造っているが、あんなもの造る必要はない。あの軍艦一隻あれば、関東地方一円の下水工事が全部出来る」とも云っていたと。
つまり「税金泥棒」ということでありこれまた今の日本人の言とそっくりである。
みんながみんな軍人を蔑視していたわけではなく、尊敬していた人も居ただろうが、その割合はきっと今とそっくりだろう。
昭和期の軍人の跋扈は大正期の軍人蔑視の風潮の反動という側面もあったのだ。
いま、自衛隊員は法的にも宙ぶらりんの存在である。
国民の多くは自衛隊を普段、税金泥棒扱いするくせに一旦緩急あれば頼ろうという料簡なのだろうが、そうは問屋が卸さない。
早い話が厚かましいのだ。
普段、そっぽ向いているくせに必要な時だけ頼ってくる者ほど腹の立つものはない。
第一、そんな人の力になってやろうとは思わない。それが人情というものである。
いや、別に軍人を尊敬するしないは自由である。
百人が百人、軍人を尊敬する世の中もやはり間違っているだろう。
しかしながら、自衛隊員にはせめて法的にも社会的にもきちんとした身分を与えるべきだ。
そのためにもあのふざけた憲法九条第二項を変えるべきだと思うのである。


・・・と、この記事を憲法記念日に書き上げるつもりだったのだが三日も遅れてしまった。
お詫びのしるしに便利な旧軍と自衛隊の階級比較表を附けておきます。
それにしても、結論の持ってゆき方が朝日新聞の「天声人語」みたいになっちゃったね(笑)


帝国陸軍  陸上自衛隊

大将       統合幕僚会議議長・陸上幕僚長たる陸将
中将       陸将
少将       陸将補
大佐       一等陸佐
中佐       二等陸佐
少佐       三等陸佐
大尉       一等陸尉
中尉       二等陸尉
少尉       三等陸尉
准尉       准陸尉
曹長       陸曹長
軍曹       一等陸曹
伍長       二等陸曹
兵長       三等陸曹
上等兵      陸士長
一等兵      一等陸士
二等兵      二等陸士
          三等陸士

(※帝国海軍の階級の呼称は陸軍のそれと少し異なる)

ブロッコリーという会社

2007-05-03 02:21:12 | 漫画・アニメ
ブロッコリーという会社がある。
ブロッコリーはゲーム、アニメのキャラクターグッズの販売している会社でゲーマーズという販売店を経営している。

かつてギャラクシー・エンジェルというアニメがあった。
ブロッコリー系のアニメで元はゲームが原作であるらしい。
ギャラクシー・エンジェルはゲームはシリアスな内容だったらしいが、アニメはブロッコリー特有のぬるいギャグアニメだった。
私はこういう類のぬるいギャグアニメが好きで、それゆえ同じブロッコリー系アニメのデジキャラットシリーズも好きだった。
ギャラクシー・エンジェルとデジキャラットに共通する特徴はぬるいギャグを基調としパロディをふんだんに取り入れ、かつシュールでオチが無いというところだ。
また、一見オタク向けに作られているが、あからさまにオタクを馬鹿にした表現がみられる。
例えば、デジキャラットの主人公、デジコはオタクを見るたび嫌な顔をしたり、冷たい態度をとるし、秋葉原に行った時はアイドルオタクの集団を見て呆れた表情(?)で「ここはどういった世界なのかにょ・・・」と云って憚らなかった。
私はこういうブロッコリーが時折みせるオタクを突き放した態度が好きだ。
いや、それは突き放しているのではなく実は自己批判であり、自嘲しているのである。
それゆえか、オタクがブロッコリー系アニメに激怒したという話は聞かない。
おそらく、両者の間にある種の信頼関係があるからだろう。
オタクもブロッコリーのそれをみて互いに自らを嗤うのである。

先日、起こったガイナックスの事件はガイナックスとオタクの間に信頼関係が無かったから起きたものだと思う。
信頼関係があれば悪口を云っても笑って赦される。
それが赦されていないとするならば、信頼関係が無いということであり、さらに云えば某掲示板に書かれた下らぬ悪口に本気になって怒ったガイナックス社員は自らを嗤うことをしないのだろう。

オタクに厳しいといえばガンダムの富野監督だが、彼はオタクを嗤うが自らを嗤わない。
これ以上はガンダムを見たこと無いので云わない。

自虐が過ぎると良くないが、夜郎自大になってもいけない。
企業もそれは同じで要は謙虚さが大切であるということなのかもしれない。
贔屓目からか褒めすぎたきらいがあるが、以上私がブロッコリーが好きな理由である。