あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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「終戦の詔書」の謎~国立公文書館にて~

2014-01-18 16:54:58 | 歴史・人物
少し前にNHK「探検バクモン」で爆笑問題の二人が国立公文書館を訪れていた。
これが、実に興味深い内容だった。
国立公文書館は国の重要な公文書を保存しているところ。

古いものでは織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の書状も保存されている。
信長の書状には「天下布武」の押印があった。
丸印で天下布武の字をデザイン化したものだが、先進的なデザインでいまも色あせてない。

文書だけではない。我が国の元号が平成に改元された時、当時の小渕恵三官房長官が掲げたあの「平成」の額も保存されている。
あの額はここにあったのか!と「あの人は今」で懐かしの人に出会った感じがする。

さて、公文書館に保存されている重要な公文書では、例えば、日清戦争の「宣戦ノ詔勅」がある。
国務大臣の署名欄をみると、内閣総理大臣の伊藤博文をはじめ外務大臣・陸奥宗光、農商務大臣・榎本武揚などそうそうたるメンバーの花押(註)がある。
そういう歴史好きにはたまらない貴重な文書がごまんと保存されているのだが、当然だが「大日本帝国憲法」や「日本国憲法」の原本も保存されている。

以前、民法で放映している池上彰の番組で日本国憲法の特集をやったときに、国立公文書館を訪れていたが、そのときは原本ではなくレプリカ(複製)しか撮影されていなかった。
ところが、この番組ではふつうに原本が出てきたのでちょっと笑いそうになった。
流石、NHKは違う。国立公文書館にとっても、民放は所詮は民間人だが、NHKは同じ役人仲間という感覚なのだろう。

大日本帝国憲法の原本は上質な紙を使っていて、条文も筆で綺麗に書かれている。
国務大臣の署名をみると、黒田清隆、伊藤博文、大隈重信、西郷従道、井上馨、山田顕義、松方正義、大山巖、森有礼、榎本武揚と豪華すぎる名前が並ぶ。
森有礼の署名は達筆で一瞬、読めない。大隈重信の字はあまり巧くない。
大日本帝国憲法の原本を目の前にしたとき、あの傍若無人な太田光も「ちょっと緊張しますね、これ見るだけで」と真剣な顔をしていた。

一方で、日本国憲法の原本は裏が透けるようなボロい紙を使っている。
日本の一番重要な書類なはずなのに、敗戦後の混乱をしのばせる。それにしてももうちょっといい紙を使えばいいのにと思うほどの質で、学校で使うわら半紙を想像すると早い。
毛筆で書かれた本文の後には印刷文(内容は本文と同じ)がついているが、この部分の紙は透けるような薄い紙を使っている。

上質で紙を使った立派な大日本帝国憲法に比べ、粗悪な紙を使った薄っぺらい日本国憲法。この対比が面白かった。

この公文書館には、なんと「戦争終結ニ関スル詔書案」も保存されている。
そう、大東亜戦争終結時に流れた玉音放送の原案だ。
詔書の文章は揉めに揉めて七回も書きなおされた。このあたりのドラマは『日本の一番長い日』に詳しい。

興味深いのは完成した「終戦の詔書」だ。これには天皇の御署名が入っている。
ところが、この詔書は一部分、紙を削り取って上から書きなおしている。
天皇陛下から御署名をいただく文書に、こんなことは通常あり得ない。
なぜか。詔書作成作業がおこなわれている当時、広島と長崎に原爆が落とされ、ソ連が突如参戦した。
事は一刻を争う。そこで、議論の決着を待たずに清書作業が行われた。
そこに、修正の連絡が入る。一から書き直す時間は無い。そこで紙を削り取るという処置をとったわけだ。

この詔書にはもう一つおかしなところがある。
文書の最後には天皇の「裕仁」との御署名があり、その下には御璽が押印される。
ふつう、文書の最後の行から七行分空けるのが通例になっている。
ところが、この詔書では、天皇の御署名までに二行しか空いておらず、御璽は最後の行の文字に被っている。
いかに急いで詔書を作成したかがわかる。

こういう当時の息遣いは活字にしてしまうとわからない。
公文書館が公文書の原本を保存する意義がここにある。

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註:花押(「かおう」と読む)というのは、サインのようなもの。大抵は名をくずして書く。平成の今も国務大臣の署名は花押で書かれることが多いようだ。

ところで、重要な公文書は手袋で扱うイメージがあるが、近年では手袋だと却ってすべるので、よく洗った手で扱うことにしているという。

愛国者としての河上肇

2013-11-07 22:35:21 | 歴史・人物
牧野邦昭『戦時下の経済学者』(中公叢書)を読んでいる。
タイトル通り、戦前の経済学者のことについて知れてなかなか興味深い。

例えば、『貧乏物語』で現在でも有名な河上肇。

河上肇はマルクス主義者として知られており、日本共産党に入党した後、昭和八年に治安維持法で検挙されていることから一般に左翼と思われている。
実際に左派から人気が高い人物だが、愛国者としての側面はあまり知られていない。

河上は岩国の武士の家に生まれ、吉田松陰を敬愛していた。
大正二年からブリュッセルに留学し、翌年パリに移り、そこで作家の島崎藤村と出逢う。
藤村は姪との関係を清算するため、大正二年から五年までパリに滞在していたのだ。

河上は藤村としばしば激論を交わしたが、あるとき藤村が「もつと欧羅巴(ヨーロッパ)をよく知らうぢや有りませんか」とたしなめたことに対し、河上は「愛国心といふものを忘れないで居て下さい」と叱っている。

同じくパリに来ていた物理学者の石原純が「日本人があまりに他の模倣を急ぐ」と批判したことに対しても、どんな国の文明でも他の模倣から始まらないことはなく、日本人は模倣するだけでなくそれを自分のものとしてそこからさらによいものを引き出す、と反論している。

また、彼の『自叙伝』には


私はマルクス主義者として立つてゐた当時でも、曾て日本国を忘れたり日本人を嫌つたりしたことはない。
寧ろ日本全体の幸福、日本国家の隆盛を念とすればこそ、私は一刻も早くこの国をソヴィエト組織に改善せんことを熱望したのである。
(『全集』続5巻、140頁)



との記述がある。

日本全体の幸福や国家を隆盛する手段として国家をソヴィエト組織に改組することが正しい手段だとは思わない。
代表作『貧乏物語』でも、貧困を解決する手段として「富者による自発的な奢侈の廃止」を訴えているが、これも方法としてどうか。

しかし、河上の国を思う気持ちには深く共感する。

現在の日本共産党は公式サイトで「河上肇は、戦前の絶対主義的天皇制が支配した暗黒の時代、非合法下の日本共産党にすすんで加わった誠実な経済学者です」と書いているが、愛国者としての河上をきちんと理解しているだろうか。
どうも、自党の宣伝の道具にしているような文面に思えてならない。

たしかに、TPPや新自由主義政策を痛烈に批判しているいまの共産党には、河上の精神が受け継がれているようにも思える。
河上は当時、自由貿易を主張していた田口卯吉の『東京経済雑誌』を批判し、保護貿易を主張していたのだ。

マルクス主義者で共産党員というと現代の基準でも左翼に分類されると思う。(私はそうは思わないが)
そして、一般的に左翼というと反日的なイメージがある。
が、左翼=反日ではないことを河上は如実に示してくれている。

高らかに愛国心を鼓舞する言論には辟易させられるが、それ以上に感情論に立脚した反日的な言論は不快である。
左翼・左派であっても反日的である必要は無い。

一部の左派が反日を生き甲斐とし、日本および日本人を貶める言論に精を出しているのは残念である。
そういう人に「日本国を忘れたり日本人を嫌つたりしたことはない」という河上肇の言葉をなんどでも聴かせたい。

日本と台湾の絆

2013-02-10 23:01:30 | 歴史・人物
今年はじめての更新になる。
早くも二月になった。光陰矢の如し。
年齢を重ねるたびに、一秒一秒ごとにその思いを強くする。

今年は年頭のあいさつも省略してしまった。
各位御寛恕を乞う次第。


だしぬけだが、最近、台湾についての興味が尽きない。
もともと、大好きな国なのだけども、ツイッター上で台湾の方のつぶやきを見たことがきっかけで、あらためて台湾関係の書籍を読み漁っている。

かつて、FC2ネットワークというSNSをやっていた。
詳細は省くが、かつてそこに投稿した記事を転載する。


×××××××

今日、週刊新潮(もしかしたら文春だった可能性も)のグラビアで興味深い写真が掲載されていました。
中国の反日デモに対抗して日本でも中国に対するデモを行なっている写真。

その中に、台湾出身の方々も参加していて、そのプラカードに曰く、
「台湾の友達、日本をいじめるな!」という旨のことが書かれていて、
台湾と日本の絆は本当に深いものがあるとあらためて感じると同時に台湾の方々対してこれまたあらためて親密な感情を覚えてしまいました。

台湾と日本との深い絆を示すエピソードはことかかないですが、ここでは私の手元にある新聞記事から一つ紹介。

※台湾の台中駅を紹介する記事


(略)赤レンガの外観はどこか東京駅に似て見える。竣工は一九一七年。
終戦まで半世紀にわたった日本統治時代のまっただ中、国策として最大の事業の一つが鉄道の敷設だった。
(略)
現存する中では新竹駅に次ぐ古さだ。九五年に政府の指定文化財になった。
「自慢の吹き抜けをお見せできないで残念です。」と蘇鎮霖駅長(45)が天井を指した。
本来は高いアーチや凝った柱の装飾があるのだが、今は鉄筋の仮天井で覆われている。
二千百人以上が亡くなった九九年の台湾中部地震で、市内でもマンションが倒壊した。
ここも正面の垂直な壁の上部に亀裂が入った。
災い転じて何とやら、この機会にかけがえのない“財産”の本格保存をとの声が高まった。五年にわたって構造の補強、外壁のはり直しなど補修が続いている。吹き抜けが再び姿を見せるのは来秋の予定だ。
(略)
近くの雲林県から毎日予備校に通う張桜鶯さん(18)は「建物がクラシックできれい」とお気に入り。
「日本統治時代の建築は造りがしっかりしているし、味わいがある」と話す蔡正義さん(67)は台湾鉄道のOBで、ボランティアとして月に二十日ほど改札や乗客の案内をする。(後略)


2004年10月24日(日)讀賣新聞・日曜版より

いまでも、日本統治時代の駅を大切に使ってくれていることに心が打たれました。


(平成十七年五月九日)

×××××××

ほとんど、新聞記事の引用だが、台湾の方々が日本統治時代の建築物を大切に使ってくれていることが良くわかるエピソードだ。
九年前の自分と同じ感想になるが、心を打たれた。

それにしても、当時の私は文体が丁寧だね。

『負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~』(第一回)解説と感想と

2012-09-19 02:31:08 | 歴史・人物
NHKの土曜ドラマスペシャルで『負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~』が始まった。全五回。いま、二回まで放送されている。
近代史をテーマにしたドラマを見る時、内容と史実との違いを確認しながら観るのが案外楽しい。
別に「史実と違う!」と怒りたいのではない。ドラマでそれを云うのは無粋というものだろう。
ドキュメンタリードラマと称して史実と全く異なることをやるのは問題だと思うが、このドラマは冒頭に「このドラマは歴史に基づいて作られたフィクションです」と断りも入れている。
解説と感想と銘打っているが、「解説」というほど立派なものではなく、「突っ込み」と云った方が正確かもしれない。
映像作品を見る時は、突っ込みを入れながら観るのがなにより楽しいのである。
なお、私の浅い知識の範囲内での突っ込みのため間違い等があれば、さらなる突っ込みをお願いしたい。


○吉田茂はなぜ拘留されていたのか?
ドラマの冒頭、刑務所の中でダニとシラミと南京虫に刺され、痒みでのたうちまわる吉田の姿が映される。
憲兵にそれを訴えると、突然轟音がして、刑務所が破壊される。爆撃されたのだ。
この描写は事実で、実際に吉田は代々木の陸軍刑務所に拘留されてひと月たったとき、刑務所が空襲に遭い、焼け出され、目黒の刑務所に移った。そこも空襲でやられて今度は目黒の小学校に移り、そこで仮釈放となっている。
期間にして四十日ほどだったが、ではなぜ吉田は刑務所に入れられたのか。
これは、友人だった公爵の近衞文麿と関係がある。
敗戦の年、昭和二十年の二月、近衞文麿は昭和天皇に「近衞上奏文」と云われる意見書を提出する。実際に天皇に拝謁し、これを読み上げ、御下問にも応じている。
内容は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」に始まり、国体護持のために一日でも早い戦争終結を訴えるものだ。
この上奏文の作成に協力したのが実は吉田茂だった。
どの程度彼が手を入れたかは不明確だが、近衞文麿と吉田茂と殖田俊吉(元官僚、当時近衞の側近)が共同で作成したされ、ジョン・ダワーの『吉田茂とその時代』(中公文庫)によると、吉田がこの上奏文を書いて、近衞が傍で見ていたように書いてある。
ただ、この上奏文には奇妙なところがあって、満洲事変以来、支那事変や大東亜戦争も国内の共産主義勢力の陰謀によって起こされたとしている点だ。したがって、このままでは日本で共産主義革命が起こると説く。
現在ではそんな事実がなかったことは明らかであるが、なぜこのような陰謀論を盛り込んだのか。
近衞の妄想という見方もあるが、吉田茂が昭和天皇を脅すために、わざとそういう書き方にしたとの見方もある。(註1)
ともあれ、これがきっかけとなって、吉田は九段下の憲兵隊に連行され、取り調べを受けたのち、代々木の刑務所に入れられた。
直接上奏した近衞についても、憲兵は「近衛はバドリオだ。これで始末するんだ」(註2)と意気込んでいたようだが、公家の五摂家の筆頭(註3)である近衞を逮捕することはできなかった。
しかし、このときもし近衞が逮捕拘留されていたら戦後の近衞の政治的な立場は大きく異なっていただろう。
吉田が戦後、総理になったのはこのとき拘留されていたことが大きい。一方の近衞は戦犯に指定されて自殺する。歴史とは皮肉なものである。


○玉音放送を録音する昭和天皇
昭和天皇役の俳優は大蔵千太郎という人らしい。知らない俳優だが、顔はともかく、玉音放送の声と抑揚は似ていた。
この玉音放送の録音は終戦の前日八月十四日の夜に行われた。一度目の録音を終えたとき、天皇が「どんな具合であるか」と訊き、録音技師は「数ヵ所お言葉に不明瞭な点がありました」と答えた。天皇自身も「声が少し低くうまくいかなかたったようだから」といい二度目の録音がなされた。玉音放送として流れたのはこちらの方である。少し声が高めに聞こえるのは一度目が低いとお感じになったからその反動だと思わる。
録音中、周囲の者たちは皆涙を流し、嗚咽に耐えていたという。また、天皇も眼に涙を浮かべていたと半藤一利『日本のいちばん長い日』(文春文庫)にある。ドラマでも嗚咽に耐える人(NHKの下村総裁か侍従か)が映っていた。


○髭を気にする近衞文麿
終戦後、東久邇宮内閣で副総理格の国務大臣となった近衞が妻の千代子に髪の手入れをされながら「近衞文麿の口髭はヒトラーに似ていると・・・」と悩むシーンがある。本当にそんなことがあったのか。
近衞は首相就任直前の昭和十二年四月一五日、次女温子の結婚式の前夜の宴で自らヒトラーの仮装(今風に言うとコスプレ)をしたことがあった。この時の附け髭はわざわざ浅草まで買いに行ったという。
ウィキペディアには「物議をかもし」たようなことが書かれているが、さほど、物議をかもしたようにも思えない。
首相に就任した直後、婦人運動家の市川房江(戦後、参院議員)は月刊雑誌「評論日本」(昭和十二年七月号)に「近衞公は、婦人連の間でも相当の人気がある。(中略)お嬢さんの結婚の送別仮装会のために、わざわざヒットラーの髭を浅草迄買ひに行つた所を見ると、よき夫、よき父であるらしいといふ結論に達したやうである」と書き、好意的に紹介しているし、プロレタリア作家の宮本百合子も「どの新聞にも近衛公の写真が出ていて大変賑わしい。東日にのった仮装写真は、なかでも秀抜である。(中略)文麿公が、髪までをヒットラー風に額へかきおろし、腕に卍の徽章をまいて、ヒットラーになりすまして笑いもせず貴公子らしく写っている姿は、相当なものである」(東京日日新聞 昭和12年6月4日)と書いている。
少なくとも、戦前においては近衞の髭はヒトラーに似ていると否定的に言われた可能性は低いだろう。社会大衆党の西尾末広も国会で「ムッソリーニの如く、ヒットラーの如く、スターリンの如く」強い指導者になるべきだと首相になった近衞を激励している。本人も言われて嫌ならわざわざヒトラーの仮装をやりはしなかったろう。
問題は戦後だが、戦後ならあるいはそういう悪口を言う者もあったかもしれない。ただ、それを証明する資料を見たことはない。


○日本の分割統治と軍票の使用
近衞が千代子夫人に「日本は四つに分割統治され」「通貨は連合国の軍票を用いることになる」と説明するシーンがある。この案は本当にあった。
当初の案では北海道と東北をソ連が、関東中部近畿はアメリカ、四国が中華民国(註4)、中国と九州をイギリス、東京は四カ国で共同、大阪はアメリカと中華民国が分割占領するというものだった。
マッカーサーの意向で米軍の単独統治となったものの、もし、分割統治が実現されていたと思うとゾッとする。おそらく、南北朝鮮や東西ドイツより悲惨な結果を招いたのではなかろうか。
また、軍票(連合軍の軍票はB円と呼ばれた)の使用については、大蔵官僚の巧みな交渉が功を奏して、連合国は早期にこれを回収した。この交渉は極秘のもので、誰がどんな交渉をしたか真相は分からない。(野口悠紀雄『戦後日本経済史』(新潮選書)18頁)
これも実施されていたら日本の戦後経済は全く別の姿になっていただろう。
なお、既に印刷されていたB円は、そのまま沖縄へ運ばれ、沖縄の法定通貨となり、ドルに切り替わる1958年まで使用された。


○進駐軍用の特殊慰安施設
アメリカ軍が日本に進駐したとき、最初の10日間、神奈川県下だけで1336件の強姦事件が発生し、特別調達庁(現在の防衛施設庁)の資料によると占領下の7年間で米兵に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人いたといわれている。
従って、「国が占領されるということは女性が犯されるということですよ」と云った近衞の懸念は杞憂ではなかった。
1945年8月19日、就任二日目の近衛は坂信弥警視総監に対し「君が先頭に立って、日本の娘の純潔を守ってくれ」と言ったと広岡敬一『戦後性風俗大系 わが女神たち』(小学館文庫)にある。
近衞がこの種の発言をしたことは今回調べてみて初めて知った。
ドラマにあるように池田勇人が資金の調達に関して特に大きく尽力したことも事実であるようだ。
 

○キャベツをちぎる吉田
吉田がキャベツの葉をちぎって、 葉巻ケースの中に散りばめているシーンが二度程出てくる。
これはドラマ制作スタッフのブログで次のように解説されている。

「葉巻は、乾燥すると味が損なわれます。又、湿気が多すぎると、それはそれで保存状態があまりよくありません。吉田茂は、誰に習ったのかは判りませんが、このようにキャベツを葉巻ケースに入れる事で、葉巻が適度な湿度の状態で保存できる事を知ったようです。 以来、彼は大好きな葉巻を美味しく吸う為に、このようにキャベツの葉を入れて保存するのが日課となったようです。これだけは、誰にも任せなかったようです。」(土曜ドラマスペシャル 負けて、勝つ#19 豆吉が教える「吉田茂」豆知識コーナー第1回http://www.nhk.or.jp/drama-blog/1550/130995.html)

少し訂正と補足を加えたい。茂の娘・麻生和子が著した『父 吉田茂』によると、葉巻の箱の中にはちぎったキャベツを入れたのではなく、「箱の中にはキャベツの葉を一枚入れておきます」(同書、47頁)とある。それを戸棚にしまうのだ。また、キャベツの葉だけでは湿気が足りないので、戸棚の中には、かならず水の入ったコップを置いていた。(同)
これに関してエピソードがある。吉田が憲兵隊に連行されたことは先に述べたが、連行されながら吉田は家人に「煙草、気をつけてくれよ」と言い置いた。
これは、湿気を保つために煙草の管理に気をつけろという意味だったのだが、憲兵隊は葉巻に重要なものが隠してあると勘違いしたようで、翌日、再び吉田邸を訪れ、葉巻の箱を押収していった。葉巻はすべてバラバラにほぐされたあと、焼却処分されたとのことだ。孫の麻生太郎は「くやしがる祖父の顔が目に浮かぶようだ」と『麻生太郎の原点 祖父吉田茂の流儀』(徳間文庫)に書いている。
また、前出のスタッフブログの記事には(吉田茂は葉巻を吸うとき)「火を点けるのは必ずマッチを使う・・・。どうやら、ライターで葉巻に火を点けるのは品性に欠けると思っていたようです・・・。」とある。
これにも少し補足すると、吉田が葉巻を吸うとき必ずマッチを用いたのはライターのオイルの匂いを嫌ったことも理由だったようだ。


○パリ講和会議
吉田と近衞が敗戦後の瓦礫を歩きながら、パリ講和会議を思い出すシーンがある。
「講和会議の夜は私もあなたも酷く酔っていました」(吉田)
「欧州大戦に勝利したにもかかわらず、会議における日本は蚊帳の外だった。英国と米国の論理に振り回され何も言えなかった」(近衞)、「はい。」、「泣いたな・・・」、「泣きました」。
回想シーンでは吉田は芦田均と酔っている。
近衞が近づき、芦田は吉田に「立ってください。近衞公爵です」と促すが、吉田は酔ったまま「近衞がなんだ?クソったれ!」と悪態をつく。
近衞は吉田の呑んでいたワインの瓶をぶんどりラッパ飲みして咳き込みながら「私もそう思う。こんなことでは国際政治の中で生き残っていくことはできない」。
吉田は立ちあがって「そうです・・・だから俺たちは日本の外交能力を高めていくしかないんですよ!」と叫び、吉田と近衞は肩を組みながら、「英国クソくらえ!米国クソくらえ!」とクソくらえを合唱する。実にいいシーンだ。
が、実際にこのようなことがあったかどうか。パリ講和会議の日本全権団にこの三人が随行したのは事実だが、近衞関係の文献を読み漁っても、吉田と近衞がこのようにして親交を深めたことを示す資料は確認できなかった。
そのような資料があれば、どなたか是非教えていただきたい。多分、創作だとは思うが、本当だった素敵だなと思う。
吉田と近衞の親交はいつごろからだったろうか。昭和九年、近衞が息子の文隆をアメリカに留学させる折、吉田に相談したとあるので、この頃にはそれなりに親交があったとみていいだろう。
その後、大東亜戦争の和平工作において、二人は深く結び付く。


○一億総懺悔
瓦礫を歩く吉田と近衞のシーンの続き。
近衞が「今政治の中枢にいる者たちは国民総懺悔と言って連合国の言いなりになろうとしている」(要旨)と話す。
国民総懺悔とは東久邇宮内閣が唱えた「一億総懺悔」を指すのだろう。一億総懺悔とは敗戦に至って、日本国民一億(実際はこの当時、七千万ほど)は総懺悔すべしという意味合いだが、日本国民が懺悔する相手は誰か。
一般に連合国やアジア諸国に対してと解される。実際にそのように受け取った国民は多かっただろうが、東久邇宮の意図は施政方針演説の「敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして・・・」というくだりにあるように、神の御前に対してと解すことが妥当だろう。言はば、日本の神々、あるいは天皇陛下に対して敗戦に至ったことを懺悔するという意味合いが強いのだ。(註5)


○牧野伸顕について
吉田茂の岳父・牧野伸顕について、少しだけ触れておきたい。ドラマの中で吉田に「政治家は頭を下げるのが仕事だ。あんた出来るか?」と訊いている人物だ。
牧野伸顕は大久保利通の次男で牧野家へ養子へ行き、牧野姓となった。東大中退後、外務所に入り、県知事、外交官を経て大臣を歴任し、内大臣(註6)となり昭和初年の天皇を補佐した。親英米派として、二・二六事件のときには襲撃を受け辛くも生き残った。
この伸顕の娘・雪子の夫が吉田茂である。つまり、麻生太郎には大久保利通、牧野伸顕、吉田茂の血が流れていることになる。
なお、吉田茂の実父は土佐の民権運動家だった竹内綱(たけのうちつな)という人物で、茂は吉田家へ養子へ行き、吉田姓となった。この時代は養子だらけで少々ややこしい。竹内綱は衆院議員を務めたのち実業家となっている。


○吉田とマッカーサーの会談
ドラマで吉田がマッカーサーに逢った時、椅子に腰かけ、葉巻を吸うシーンがある。
それだけでも、結構勇気のある行動だと思うのだが、マックから葉巻を勧められた吉田は「いや、結構。それはフィリピン産でしょう?私はハバナ産しか吸いません」と応じない。
これは実際にあったやりとりだ。『父 吉田茂』で麻生和子はマックの高飛車な態度がそうさせたのではないかと解説している。
また、「敗戦という重苦しい現実があったから(略)「わーい、ざまあみろ」というくらい痛快で嬉しく感じられた」と回想している。
またドラマではマックが机の周辺を歩き回りながら日本占領施策の概要を話し、吉田が含み笑いをして、「何がおかしい?」と問われ、「閣下はよく歩かれます。まるで檻の中のライオンだ」と答えるシーンがある。
いかにもドラマの創作シーンのようだが、これも実際にあったやりとりである。
マックは部屋をライオンのように歩く回る癖がって、前出の和子本ではマックが「なにを笑っているのだ?」と尋ねて吉田は「あなたがあんまり歩きまわるから、ライオンの檻のなかにいるみたいな気がしておかしくなった」と答えたそうだ。ドラマではそのあとマックは「私が怖くないのか?」云々と言っていたが、実際には吉田の答えに笑っていたそうだ。


○昭和天皇・マッカーサー会談
このとき、昭和天皇とマッカーサーの写真はドラマにあったように三枚とられている。一枚目はマックが目を閉じており、二枚目は昭和天皇の口が開いていたため、三枚目が新聞に掲載された。
ドラマでは突然の写真撮影に困惑している昭和天皇が演じられているが、実際にこの撮影は抜き打ちのもので、天皇が困惑したのも無理もない。
東久邇宮内閣の山崎巌内務大臣は写真を掲載予定の新聞を発禁にしようとしたが、GHQから圧力がかかり、結局、九月二十九日の新聞に掲載されることになる。
この写真について、高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」といい斎藤茂吉は「ウヌ、マッカーサーノ野郎!」と日記にしたためた。佐幕派の永井家風も「幕府滅亡の際の徳川慶喜も今日の天皇より遥かに名誉ある態度をとったのではなかったか」と慨嘆している。
この写真が掲載された新聞が壁に貼られ、それを見た国民が俯きあるいは嗚咽し、一人の男が「見るな、見るな・・・」と新聞を引きちぎるシーンがドラマにあったが、当時の日本国民の衝撃をよく表現していると思う。


○東久邇宮内閣の総辞職
白洲次郎が吉田邸を訪ね、「東久邇宮内閣は総辞職だな」といい、吉田が「写真のせいか?」と応じるシーンがある。
ドラマの構成的にもそう思えてしまうが、東久邇宮内閣が総辞職したのは写真が原因ではない。
実際には、十月四日にGHQが政治犯の釈放、思想・宗教・言論の自由を束縛する法律の撤廃並びに内相、警視総監、全国警察部長、特別高等警察全員の罷免など民主化の指令を内閣に出したことがきっかけだ。東久邇宮は約四千人の罷免・解雇は実行不可能として翌日に「今後は米英をよく知る人が内閣を組織するべし」と言って総辞職した。
なお、東久邇宮内閣は東久邇宮殿下と緒方竹虎(元朝日新聞社代表取締役副社長)を主軸とし、近衞公の援助の下に組閣が進められ、緒方竹虎は内閣書記官長、近衞は無所任の国務大臣として入閣しており、緒方の関係者として山崎巌内相(緒方の同郷人)、前田多門文相(朝日新聞論説委員)、太田照彦首相秘書官(朝日新聞論説委員)、中村正吾緒方書記官長秘書官(朝日新聞政治部員)らが入閣ないし内閣に参画している。
このような経緯から東久邇宮内閣は「緒方内閣」「朝日内閣」と呼ばれることがある。


○細川護煕と麻生太郎
まさかとは思ったが、この二人、ドラマに出演していた。
勿論、本人ではなく子役が演じていたのだが、第一回で一番笑ったのが麻生太郎が吉田茂の部屋のソファーで飛び跳ねているシーンだ。太郎、飛び跳ねすぎ。
母親の和子から「コラ太郎!おじいちゃんの部屋に入ったら駄目って何度云ったら解るの?」と注意されているくだりは思わずニヤリとさせられた。実に麻生太郎らしい。
蛇足だが、このシーン、某巨大掲示板の実況スレでも大盛り上がりを見せていた。
細川護煕は近衞文麿の次女・温子と細川護貞の子。後に総理大臣になったあの細川護煕だ。
五十五年体制を崩壊させ、人気もすこぶる高かったが期待外れの結果に終わり、気づけば内閣を投げ出していた。このあたりの経緯が祖父の近衞文麿に類似しているとして、批判されたものだ。
なお、護煕の弟・忠輝は近衞家の養子となり、現在、近衞の当主。日本赤十字の社長を務めている。顔は兄以上に公家顔。文麿の面影も強い。


○近衞文麿の戦犯指定
マッカーサーから新憲法の作成を指示された近衞。これも実際にあったことだ。
しかし、アメリカお得意の手のひら返しによってこれは無かったことにされた。
マッカーサーから直々に憲法作成を指示され、意気込んでいた近衞だが、有頂天から奈落の底へ突き落される。
なぜ、アメリカが手のひらを返したのか。
これはアメリカ国内で近衞に対する批判が高まったことが原因とされる。
十月二十九日にニューヨークタイムズは近衞批判記事が掲載され、日本でも朝日新聞と毎日新聞がこれを掲載した。
また、11月5日にはGHQの対敵情報部調査分析課長だったE.H.ノーマンがアチソン政治顧問に近衞を弾劾する「覚書」を提出し、十日後に近衞の戦犯指定が決定される。
この覚書の提出について、終戦当時内大臣だった木戸幸一による策略という説がある。
木戸は近衞と同じ公家の仲間で古くから親交があった。第一次近衛内閣のときには初代厚生大臣として入閣もしている。
戦後、近衞は天皇の退位論を主張する。敗戦の責任をとって、退位し法王になって京都へお戻りいただくのが良いというのだ。近衞にしか主張できない大胆な意見だ。
しかし、そうなれば、内大臣である木戸に責任が及ぶ。そこで木戸は姪婿の都留重人とハーバード大学で親友だったE.H.ノーマンに近衞を弾劾した覚書を作成させたというのだ。
確定的な証拠は発見されていないが、この覚書の中で近衞については「かれは、弱く、動揺する、結局は卑劣な性格」「淫蕩なくせに陰気」などとほとんど罵詈雑言なのにくらべ、木戸幸一については「頭脳のすぐれた人物」「素直で断乎とした資質」「果断で鋭敏な人物であり、かつて友人であった近衞とは対照的」などと美辞麗句で埋め尽くされている。
近衞と木戸とのあまりの対照的な書きぶりはやはりどこか臭うところがある。
また、ノーマンは共産主義者(共産党に入党しており、ソ連のスパイだったという説もある)であり、近衞上奏文に見られるように共産主義を敵視する近衞に憎悪を抱いていたという見方もある。
いづれにしても、政治的な力が働いたことにより近衞が戦犯指定されたことは確かなようである。


○近衞文麿の自殺
ドラマでは近衞の自殺について、間接的に表現されている。よく観ていないと近衞が病死したようにも取れる。
戦犯に指定された近衞に吉田は言う。
「入院のお支度ができました。そうなれば訴追もしばらく猶予されます。その間に戦犯訴追の取り消しを・・・」
近衞はこの提案を拒否する。
「もういい。入院するということは逃げるということだ。逃げるということは戦争責任を認めるということだ。私はヒトラーではない。東条でもない。私は・・・これもまた運命か」
咳き込む近衞。吉田は近衞の背中をさする。
「もう、ここには来るな。君まで戦犯の容疑がかかるぞ。」
「申し訳ありません。何もお力になれませんでした。」
「君はそれでいい。君は政治家なんだ。僕はね、君が羨ましい。好きなことをして好きなことを言って、実に自由だ。出来ることなら君のような人間になりたかった。僕よりも君はもっと良い総理になっただろう。いや、そうだ、君がいつか総理になればいい。総理になって日本国を立て直してくれ。」
吉田の近衞の友情が美しい。感動的なシーンだ。
荻外荘(近衞の住居)を後にするとき、吉田は千代子夫人に言う。
「・・・ピストルや毒薬のようなものをお持ちでないか。どうかそのようなことにならぬように十分御注意を」
千代子夫人は答える。
「吉田さん、私はあの方が何をなされようと止めるつもりはございません。あの人が望むのならば、私はその望みが無事に遂げられるのを願うのみです。誰が何を申しましょうと、あの人は一国の総理になった人物です。なぜ逆らえましょうか。」
次のシーンで近衞は千代子夫人に背中を拭いてもらっている。先日見た寄席の話をしたあとに「・・・筆と紙はありますか?」
画面は代わり、沈痛な面持ちの吉田のもとに芦田均がやってくる。「五十五歳・・・若すぎる!どうして助けて差し上げられなかったのです!?見殺しではありませんか」
「そうだ、私が殺した・・・」と悲しそうに吉田は言う。

ここまでのシーンは事実と創作が複雑に折り重なっていてる。史実はどうだったかやや長くなるが書いておこう。
まづ、近衞に入院を提案したのは主治医や後藤隆之助、山本有三、富田健治など近衞に近しい人たち。
この中に吉田の名前は確認できない。むしろ、吉田の部下であった外務省の中村豊一公使は巣鴨に入所する前日、病気であってもなんであっても巣鴨プリズンに来てくださいと近衞を説得した。
その時、近衞は「猶予のことは、やめましょう」と入院案を取り下げて、山本有三が「ではどうする・・・」と問うと「裁判を拒否するつもりだ」と答えてる。
次に近衞が吉田に言った「君が羨ましい」という言葉。これは史実では弟の秀麿に言ったとされる。
近衞文麿の実の母は文麿の生後間もなく産褥熱で亡くなっており、秀麿とは異母兄弟になる。秀麿は音楽家で嘗て東京音楽学校の改革を構想し、そのことが原因で兄と衝突し不仲になっていた。終戦、ドイツのベルリンにいたが、アメリカ軍に捕えられ、偶然、文麿に逮捕令が発せられた日、帰国していた。文麿と十二月の十二日か十三日に逢い、その時「今になってみると、お前が羨ましいよ」と兄はしみじみと言ったと回想している。(註7)
おそらくこの言葉がドラマでは吉田茂に言ったことになっているのだろう。
あの感動的なシーンはほとんどドラマの創作とみていいだろう。少し残念な気がするが。(註8)
さて、千代子夫人が言った「あの人が望むのならば、私はその望みが無事に遂げられるのを願うのみです。」という言葉。
この言葉はドラマとは違ったシチュエーションで発せられている。
近衞が服毒自殺する直前、秀麿、通隆(文麿の次男)、昭子は自殺に使えそうなものを探しまわった。ただ一人、千代子夫人はそれに加わらず、「あなたたちは探したらいいでしょう。でも私はお考えの通りになさるのがいいと思うから、探しません」といい、秀麿たちを慄然とさせた。
最後に、近衞が自殺する直前に「筆と紙」を用意させたのも千代子夫人ではなく実際は次男の通隆だった。
通隆が何か書いて欲しいと促すと、近衞は「僕の心境を書こうか」といい、筆と紙を求めたが、近くに筆がなかったので鉛筆と紙を渡すと「もっといい紙はないか」と言われたので通隆は近衞家の用箋を渡した。
近衞は床の中に寝たまま硯箱の蓋を下敷きにして鉛筆で心境を書きつづった。このとき書かれた文章が実質的に近衞の遺書になる。
ここに引用しておこう。

「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が在することを確信する。戦争に伴う昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂興論なるものも、いつか冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」(註9)

死の直前にこのような文章がすらすら書けることにまず驚かされるが、文面をみるに彼は戦争終結に努力した自分が戦犯として裁かれることを受け入れることが出来なかったのだろう。
実際、近衞は「戦争前には軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとのゝしられ、戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」と旧知の新聞記者につぶやいている。(註10)
しかし、近衞はなぜ死を選ばなければなかなかったのか。
これも本人の言によると「自分が罪に問われている主たる理由は、日支事変にあると思うが、日支事変で責任の帰着点を追求して行けば、政治がとしての近衞の責任は軽くなり、結局統帥権の問題になる。従って、究極は陛下の責任ということになるので、自分は法廷に立って所信を述べるわけにはゆかない」(註11)ということになる。
つまり、天皇をお守りするために自ら死を選んだともいえる。そういえば、近衞を評価しすぎであろうか。
 

○マッカーサーの描かれ方
第1回を見る限り、マッカーサーは尊大で傲岸不遜な人物として描かれている。日本のドラマにおいて、マックをここまで嫌な奴として描く作品は珍しいかもしれない。私の印象では、これまでマックは好意的に描かれることが多かったように思う。
これは我が国が戦後レジュームから脱却しつつある傾向と見て良いのだろうか。
が、実際の吉田のマックの印象は決して悪いものではなく、自著『世界と日本』(中公文庫)の中で「物わかりよく呑みこみも早い人」と評価し、「占領の恩人」とまで言っている。 
もっとも、吉田は腹芸が得意な人物であったのでどこまで本音を述べているかは議論の余地があろう。吉田のマッッカーサー観の検討は次回以降に譲りたい。


○俳優の配役について
最後に配役について個人的な感想を。
吉田茂役に渡辺謙を起用したことには賛否があるようだが、私はだんだん彼が吉田茂に見えてきたので決してミスキャストではなかったと思う。むしろ、しっくりきている。
ミスキャストだと思うのは近衞文麿役の野村萬斎で、品の良さは近衞を彷彿とさせるが、話しぶりとキャラクターは実際の彼とは乖離している。これはむしろ演じ方の問題であろう。野村のミスなのか演出家のミスなのかは不明だが、近衞はあのように声を張り上げで話す人物ではない。もっと鼻から抜けたような声で静かに話すタイプだった。
ちなみに、ドラマでマッカーサーと並んだ時、身長差があったが、実際の近衞の身長は180cmあり、マッカーサーとほぼ同じであった。
芦田均に篠井英介をもってきたことも良かったと思う。顔は似ていないが、雰囲気が私の想像する芦田に近い。篠井さんは今年で五十三歳だという。若い。


以上、『負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~』第一回について、史実との違いを検討しながら感想を添えた。冒頭でも述べたように、史実と異なる点を指弾する意図は固よりない。ドラマをより楽しんでいただける材料になれば幸いである。


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(註1)例えば、保阪正康・広瀬順皓『昭和史の一級資料を読む』(平凡社新書)251頁。
(註2)矢部貞治『近衞文麿 下』(弘文堂)543-544頁
(註3)公家(華族)にもランクがあり、もっとも高貴な家は五摂家と謂われ、その筆頭が近衞家だった。つまり、日本において、皇室に次いで高貴な家柄となる。近衞家と皇室はいわば親戚のようなもので、近衞は首相時代、昭和天皇に拝謁するとき、椅子に腰かけさらに脚を組んで天皇と話をしたという。それまでの総理大臣は椅子を用意されていても坐る事もなく、立ったまま上奏していた。宮中の人間からは「近衞公が拝謁したときは椅子が温かい」と言われたいたという。
(註4)中華人民共和国(中共)ではないことに注意。中共はこのときまだ成立していない。 中華民国はいまの台湾で、日本が戦争を戦った相手は正確には今の中共ではなくて、台湾を統治している中華民国政府(蒋介石)とであった。
(註5)東久邇宮の演説文はこのあと「征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、酷寒を凌ぎ、炎熱を冒し、つぶさに辛酸をなめて、勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて、その職務に尽瘁し、銃後国民は協心尽力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国は、その総力を戦争目的の完遂に傾けて参つた。もとよりその方法に於て過を犯し、適切を欠いたものも尠しとせず、その努力において、悉く適当であつたと謂ひ得ざりし面もあつた。然しながら、あらゆる困苦欠乏に耐へて参つた一億国民の敢闘の意力、この尽忠の精神力こそは、敗れたりとはいへ、永く記憶せらるべき民族の底力である。」と続くことから、やはり連合軍に対する謝罪の意味は薄いと思われる。
(註6)内大臣の官命は大宝律令以前からあり、朝廷の政務、儀式などを仕切っていた。明治四十年施行の「内大臣府官制」では「内大臣府に於いては、御璽国璽を尚蔵し及証書勅書其の他内廷の文書に関する事務を掌る」と第一条に定められている。いわば、天皇に代わって印鑑を保持しておく仕事を担っていた。当初は権限の低い官職であったが、元老の減少・消滅とともに後継総理の奏薦などで次第に強い発言力を持つようになり、木戸幸一の時代には天皇を常時輔弼(つまり秘書役)する役割を担っていた。
(註7)岡義武『近衞文麿 「運命」の政治家』(岩波新書)230頁
(註8)戦犯指定後の近衞と吉田がどのような接触を持ったかは、私の知り得る限りではよくわからない。ただ、十年以上前に日本テレビで放映されたあるドキュメンタリー番組で、吉田茂は天ぷら屋で近衞に戦犯指定を告げたとする再現VTRが放映されたことがあった。以来、私はそれを事実として信じていたのだが、このエピソードを紹介する文献に出会ったことがない。捏造とも思えない作りだったのだが、真相を知りたいものだ。
(註9)岡義武、前掲書233頁
(註10)旧知の新聞記者とは毎日新聞の伊東治正記者。近衞のつぶやきは昭和二十年十二月十七日付「毎日新聞」の伊東の記事による。
(註11)有馬頼義『宰相近衞文麿の生涯』(講談社)13頁。この近衞の言葉は死の直前に友人の後藤隆之助に語ったもの。

今も昔も変わらない

2011-05-25 22:28:49 | 歴史・人物
九段下の駅を降りて坂道を下ると、九段会館が見えてくる。
嘗て軍人会館と呼ばれた歴史的な建造物で二・二六事件の折には戒厳司令部が置かれた。
戦後、九段会館と改称し、国が日本遺族会へ無償貸与する形で運営されてきた。
宿泊、レストラン、ホール、式場を備えた複合的施設だったが、今度の東日本大震災で天井が一部崩落して死者を出し、営業の休止が決定されてた。
非常に残念だが、歴史的にも値のある建物なので、是非なんらかの形で保存して欲しいと思う。

その九段会館の隣にあるのが昭和館だ。
戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する施設だ。(公式サイトより)
ここに先日初めて行ってきた。

戦地から家族に宛てた手紙や出征の際に寄せ書きされた日の丸や戦中の人々のくらしを伝えるものや、蓄音機やちゃぶ台、蝿取り機などの日常品、当時のポスターなど興味深いものが多く展示されていた。
なかでも興味深かったのは戦前のニュース映画の映像だ。
これはボタンを押すだけで自由に閲覧できるのだが、そのなかで昭和十四年の米不足を伝える映像があった。

昭和十四年当時、何十年来の米不足が襲った。
映像には「東京の米の玄関口」として秋葉原の映像が映される。
米俵を載せた汽車が秋葉原駅に到着する映像だ。
秋葉原がかつて米の玄関口だったとは初めて知った。
いまや、オタクの聖地のようになっている秋葉原がかつて米の聖地(?)だったと誰が想像できようか。

ともかく、この年の米不足は深刻だったようで、陸軍省では「米なしデー」を提唱した。
これも初耳のような気がする。
昭和史に少しでも詳しい人は「肉なしデー」や「酒なしデー」は知っているだろう。
だが、「米なしデー」と聞いてどれほどピンとくる人がいるか。
だいたい、米が主食の日本で、(しかも戦前は今よりずっと食事に対する米の比率が大きかったはずだ)米なしはいかにもナンセンスな感じがする。

しかし当時、実際に陸軍省では毎週水曜日を「米なしデー」と定めて大臣以下、昼食にうどんなんかを食べていたようだ。
カイザル髭を生やしたいかつい顔の将校級の帝国軍人が食堂で一斉にうどんをすすっている映像はどこかシュール感じられるが、大臣も含めみんなで一斉にやっています国民もこれに倣ってやりましょう、とニュースで流すこの光景自体が平成の日本とそれと一致する。
まるで、福島の野菜は安全ですと閣僚がいっせいに福島県産の野菜を食べるような。
なんだか、日本人のやることは今も昔も変わらないんだなという妙な可笑しさに襲われた。

この後の映像がまた良かった。
陸軍省は米無しデーがどれほど国民に浸透しているか都内を視察したところ、レストランで御婦人がしっかりライスを食べていた。
しかも、映像ではライスを四分の一程残していて、呑み終った煙草をその皿に押し付けるという行儀の悪い映像までしっかり流れていた。
視察した陸軍省の役人は一同苦い顔をしました、というナレーション(当時のアナウンサーの声)がかぶさる。

政府のキャンペーンは閣僚のパフォーマンスがつきものだが、それが国民に浸透するかは別問題ということらしい。
このあたりも今の日本と同じような気がする。

阿久根市長の恥

2009-12-29 22:22:31 | 歴史・人物
歴史にまつわるトンデモ説は多々ある。
例えば、日本とユダヤ人はもともと同じ民族だとする日ユ同祖論とか、キリストの墓は日本にあるとか、源義経は生き延びてチンギスハンになったとか。
これらは聞くからにトンデモとわかるから害は少ないが、近代のものになるとあの戦争はフリーメーソンが裏で操っていたとか、コミュンテルンが・・・とか、いかにもそれらしいものがあるから困る。
その一つが明治天皇は即位前に暗殺され、大室寅之祐という人物にすり返られたというものだ。

これを信じてしまった一人が阿久根市長の竹原信一だ。
竹原市長がはじめて世間を騒がせたのは市職員人件費を書いた張り紙を剥がした職員を解雇したときだったか。
このときは、賛否両論が渦巻いた。
公務員や自治労の風当たりが強くなる中で、特に反公務員の立場からは市長を支持する声が多く聞かれた。
私も、いくら市長の方針に反対だからと言って、張り紙を剥がすという行動に出るのはおかしい、解雇は厳しすぎるが、相当の処分があってしかるべきだと思い、市長の行動に一定の理解はしていた。

次の騒ぎがブログで
「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果、養護施設に行く子供が増えてしまった」
と発言したとき。
これは多くの人が批判に回ったが、新自由主義者は手を叩いた。
このあたりで、私はこの人の考えに首を捻り始める。

そして、最新の話題が同じくブログに「天皇家はどこの馬の骨とも分からない家系」と記していたことだ。
こちらは少し以前の記述で、現在は右翼の攻撃を恐れてか削除されている。
記載は市議時代の2007年6月7日付で明治天皇は伊藤博文が手下とすり替えたとし、
「今の天皇家はまさしくどこの馬の骨とも分からない家系。昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない。ひたすら私財の保全にだけ心血を注いだ」
とある。

ここに来てやっと、この市長がどんな人物なのか理解できた。
モノゴトを深く考えずに感覚で行動してしまう人なのだと。
だから、トンデモ説も簡単に信じてしまう。
この人に『ムー』でも渡したら明日から「アメリカは宇宙人と取り引きしている」とか言い出すんじゃないか。

だいたい、明治天皇=大室寅之祐説を信じるなら、大室が南朝の末裔であるということも一緒に信じて欲しかった。
それなら、どこの馬の骨とも知れないとはいえない。
この人、トンデモ説を信じるにしても信じ方が中途半端だ。
それにしても気になるのはむしろ「昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない」という方。
全くないとは随分ないいぶりだ。
昭和天皇が終戦時にどれほど苦悩されたか、国民のことを考えておられたか当時の史料をあたればいくらでもわかる。

ここではその中の一つを掲載しよう。


私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。
・・・陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え
難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。
この上戦争を続けては結局我が邦がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。
和平の手段によるとしても素より先方のやり方に全幅の信頼をおき難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
今日まで戦場に在って陣没し、或は殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。
この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。

(下村宏『終戦秘話』講談社 125-126頁より)



以上、昭和二十年八月十四日に開かれた御前会議での昭和天皇の発言だ。

自分の考えを好き勝手にブログに書くのは自由だが、書くならもう少し調べて書いた方がいい。
そうすれば、右翼から攻撃されることもなかったし、恥をかくこともなかった。

歴史学者・加藤陽子のこと

2009-11-09 22:28:40 | 歴史・人物
加藤陽子は東大教授の歴史学者。
日本近現代史の大家でかつて高校の山川歴史教科書を執筆した伊藤隆の弟子にあたる。

ただ、この弟子は伊藤隆に似ない。
まづ、思想性向が異なる。
同じく伊藤隆の弟子である私の師は加藤陽子を「サヨク」と呼んで憚らない。
その表現が妥当かどうかはおくとして、彼女は日中戦争以降の日本史を軍部が暴走したというお定まりの構図で捉える。
このあたり、「日本ファシズム」という表現を嫌い、自身の著書では決して使わなかった師匠との色の違いが際立つ。

加藤陽子は伊藤隆の後を継ぎ、山川の歴史教科書の執筆を担当したが、完璧な記述と云われた伊藤隆の文章をずたずたに改竄してしまった。
その記述の杜撰さは秦郁彦の「欠陥だらけの山川教科書『詳細日本史』執筆者の正体」(『現代史の対決』所収)に詳しい。
一例を挙げると、南京事件の死者を日本の大虐殺派も採らない「四十万人」としているなど、なぜそのような改悪をしたのか首を傾げたくなるものが多い。
単純な用語の間違いや恣意的な表現など、これまでになかった不適切な記述も多く、以前の教科書に戻してくれと云いたくなるほどだ。
この教科書が使われ始めたのが2003年4月から。
その年以降に日本史を選択した高校生は気の毒としか言いようがない。

加藤氏はいわば不肖の弟子だが師匠から受け継いでいるものもある。
それは、あらゆる史料を丹念に読み、論を組み立てていくという点だ。
だから、自身の思想は別として政治主義が入りにくい。
一般に政治的に偏った人物が歴史を記述すると自身にとって都合の良い史料ばかりを取り上げて恣意的に記述することが少なくない。
これは、戦後の日本では特に左翼学者に多かったが、最近は右も似たようなものだ。

それら政治主義学者に比べ、伊藤氏も加藤氏も恣意的な記述は少ない。
その意味で伊藤隆も加藤陽子も史料主義者と言えるが、師匠がマクロな視点も加味したのに対し、加藤はそのような視点が抜け落ち気味だ。
それゆえ、全体の流れが掴みにくい。
そして、詳細な記述にこだわるあまり、却ってミスが増える。
山川教科書の記述ミスの多さもそれが原因だろう。
ついでにいうと、文章が非常に読みにくいのも師匠のそれを受け継いでいる。

その加藤陽子が新刊『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を出したことをホリデーさんのボイスメッセージで知った。
アマゾンを覗いてみると、やたら評価が高いが、読まずとも内容がわかるところが少し哀しい。


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追記:南京事件の死者の数については、見本本では「犠牲者数ついては、数万人~40万人に及ぶ説がある」と記述されていたが、多くの批判を受け、使用本では「南京陥落の前後、日本軍は市内外で略奪・暴行をくり返したうえ、多数の中国人一般住民(婦女子をふくむ)および捕虜を殺害した(南京事件)」との記述に変更されている。
(平成二十二年五月十二日)

アグネス・チャン「児童買春の加害者は日本人」

2009-10-16 23:05:11 | 歴史・人物
アグネス・チャンが毎日新聞のインタビューに
「児童買春は、日本ユニセフ協会大使に就任した98年にタイで現実を見て以来ずっと関心があります。日本は加害者でした」
(毎日新聞 2009年10月14日東京朝刊)http://mainichi.jp/select/opinion/kakeru/news/20091014ddm004070096000c.html
と答えている。

こういう言を聞くと、いかにも日本人が東南アジアで買春を行っているようにみえるが、冗談じゃない。
東南アジア、とりわけタイで児童を売春しているの多くは白人だ。
なぜ、「とりわけタイ」なのかというとこの国は他の東南アジア諸国に比べ極端に白人に弱い。
白人が犯罪を犯してもタイでは捕まらないことが多い。
児童買春もそう。
タイでは買った児童を白昼堂々と連れまわしてもお咎めなしで済む。

もし、同じことを他国、いわんや日本でやってみたらとんでもないことになるだろうが、タイは少々事情が違う。
なぜ、タイがこれほど白人に媚びへつらうのか、それはタイの歴史に秘密がありそうだ。
20世紀半ばまでアジアで植民地にならなかった国は日本とタイといわれるが、日本は自力で独立を守ったのに対し、タイ(当時はシャム)はイギリスとフランスの植民地の間に設けられた緩衝地帯の役割として植民地化されなかったという違いがある。
むろん、タイの巧みな外交戦術が効を奏した側面もあるが、それでも自力というより運が良かったと言った方が実情に近い。
それで、植民地化されないため常に白人の顔色を伺うようになったのではないか。

タイといえば先日もミッテラン大統領の甥であるフランス文化相がバンコクでの男児買春をしたと報じられているが、白人が有色人種を買春したところで大した罪ではないという意識があるのか、欧米諸国ではそれほど騒がれてない。

世界の歴史は20世紀半ばころまで白人が有色人種を虐殺、強姦し、土地を奪い尽くし奴隷にしてきた歴史ともいえる。
南米はスペインとポルトガルが侵入して男を皆殺しして、女は慰みものにした。
そうして白人と現地人の間に出来た子供たちがメスチソでいま、南米に住む人々の大半がこれにあたる。

実は豊臣秀吉がバテレン追放令を出したのは九州にいたポルトガル人宣教師とキリシタン大名が人身売買をやっていたからだ。
追放令が出る五年前に日本を出た天正遣欧少年使節の一行が欧州の地で「み目よき日本の娘たちが秘所丸出しでつながれ、弄ばれ、売られていく」のを目撃している。
それに激怒した秀吉がバテレン追放令を出したわけだが、教科書によっては善良なキリシタンを弾圧した秀吉という構図で書かれているものもある。

カリブ海のハイチやジャマイカはそれぞれフランスとイギリスが侵掠し、現地人を皆殺ししたあとに黒人奴隷を入れた。
アメリカ大陸のすぐ近くに浮かぶ島々になぜか黒人が住んでいるのはそういった理由からだ。
フランスはハイチを植民地経営の行き詰まりから早々に手放したが、そのあとアメリカの小児性愛者がこの国で少女を買い漁り、エイズの輸出国という不名誉なレッテルを貼られる国にした。
ちなみに白人と黒人の混血はムラートといい、メスチソと同じく白人の血が一適でも入っていればその国のエリート層となる。

こういう光景は日本を除く非白人地域ではどこも似たようなもので、例えば、先日書いたようにオーストラリアでも、イギリスからの入植者は休日ごとにアボリジニ狩りに出かけ、女のアボリジニなら強姦した。

南洋もそう。
ゴーギャンはタヒチの自然や人々を描いた画家として芸術的にも評価が高いが、ゴーギャンが南洋を愛した理由は絵を書くためより未開の地で少女を漁るためだった。
ブログ「白人のいる風景」子は
「ゴーギャンの美術は、今に至る白人のセックスツーリズム、児童買春ツーリズムの文化と一体のものであるり、ゴーギャンこそは、セックスツーリズムおよび児童性愛ツーリズムのパイオニアなのである」
と断じているがまさに言いえて妙。

そういう構図が現在でも見られるのがタイなのだがお人好し日本人は知るよしもない。
そういう日本人の無知に漬け込んでアグネス・チャンはタイの児童買春の加害者は日本人だと宣伝する。
日本を非難する暇があるなら、まづ母国の人身売買やチベットやウイグルの虐殺を非難してはどうかとも思うが、母国の犯罪はこの人の純粋な瞳には映らないらしい。
白人が世界中の有色人種地域の植民地化を達成しようとしたとき、それに反旗を翻したのが日本だったが、中国は白人と一緒になって日本潰しに加わった。
この構図も変わってない。


***********
参考サイト:
「白人のいる風景」
http://ibrahim.blog49.fc2.com/
「日付のある紙片」
http://iscariot.cocolog-nifty.com/

国産ジェットは国産か

2009-10-08 02:43:11 | 歴史・人物
■国産ジェット海外初受注、三菱が100機
(読売新聞 - 10月02日 14:34)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/mnews/20091002-OYT8T00726.htm


先日の話だが、これは久々のいいニュースだった。
三菱航空機が作っている国産ジェット機の受注が米の航空会社から百件近く来たという。
戦後、「翼をもがれた日本」が翼を取り戻す大きな契機としたいが、この国産ジェットのエンジンはアメリカ製で純粋な国産機と云えないのが残念なところだ。

なぜ戦後六十年以上経っても日本が自前の飛行機を作れないのか、この理由は少しばかり歴史を遡る。

日本人が初めて飛行機を飛ばしたのはライト兄弟が飛んだわずか七年後の明治四十三年(1910年)。
徳川家の血を引く陸軍の徳川好敏大尉が代々木錬兵場(現・代々木公園)でおこなった飛行実験がそれだ。
その四年後の第一次世界大戦では青島のドイツ軍要塞を日本軍の航空機が攻撃し、翌月にはドイツ軍機と空中戦もやった。

その十年後には民間航空が東京-大阪間に定期便を飛ばし、昭和六年(1931年)には日本初のスチュワーデス(いま客室乗務員という)が誕生している。
スチュワーデスは前年にボーイング航空が初めて採用していたが、「旅客の健康維持」を名目として看護婦を乗せており、普通の女性のスチュワーデスを乗せた例では日本が世界で初となる。

昭和十二年(1937年)には朝日新聞の社機だった「神風」が東京-ロンドン間を飛び世界記録を樹立し、さらにその二年後には96式陸攻機を改修した「ニッポン号」が世界一周を果たした。
これらの機は製造も設計も日本人の手で行われた純国産製で、日本人が世界記録を達成する程の高性能な飛行機を造ったことに世界は驚愕した。

というのも、それまで飛行機は「白人の力と叡智の象徴」といわれており、有色人種である日本人には「優秀な飛行機を作ることも、それを巧みに操縦することも出来ない」(米国の軍事評論家、フレッシャー・プラット)と広く信じられていたからだ。
1937年4月9日付けの『ディリー・ヘラルド』は、
「生理学的に日本人は優れたパイロットにはなり得ないと信じられて来た。ある高度に達すると方向感覚を失い、眩暈を覚える。これは何世紀にも及ぶ米食と魚嗜好による適応異常なのだ・・・」
と記述した後で、そのような迷信が打破された、と結んでいる。

また、神風号について英航空誌『フライト』は
「日本で設計した飛行機を日本人が操縦し、亜欧二大陸にまたがる長遠な飛行を敢行し大成功をもたらすとは誰が想像したであろうか・・・」
「神風号は飯沼1人によって操縦され副操縦士はいなかった。また単発機であるから1基の発動機が故障すれば万事休すであった、しかるにこの発動機は94時間好調を続けた。この一事を以ってしても、設計者・製作者の技術はもちろん、全航程の間取り扱いに当たった塚越機関士の非凡な技倆は賞賛さるべきである・・・」
「三菱製単葉機および中島製発動機は外国の特許によるものでは無く、日本独自の設計による・・・」

と驚いている。
ニッポン号についてもある米国人識者は
「この優秀な飛行機を日本人が独力でビス(螺子)1本から創ったとは信じ難いが、事実ならば恐るべき民族だ」
と述べている。

ところが、太平洋戦争がはじまった昭和十六年の段階でもマッカーサーは人種偏見が抜けなかったらしく、真珠湾当日、日本軍機からフィリピンへの渡洋攻撃を受けた際、台湾から飛んでくるような燃費のいい飛行機を日本人が持って<いるはずはないと「日本機は空母から発進した」といい、周辺海域で空母を探し、操縦はドイツ人が行ったものだと信じて疑わなかった。

イギリスの最新最良戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスが日本軍機によって沈められたときもチャーチルはにわかに信じようとしなかったし、戦後も「戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」と回顧している。

高性能な飛行機を巧みに操る日本人に衝撃を受けたのは白人だけではなく同じ有色人種の間でも同じだった。
白人の植民地にされていた東南アジア各国は「白人の叡智の象徴」である飛行機を操る日本人と逃げ惑う白人を見て、独立の気運を高めた。

そして、終戦。
日本軍の緒戦の活躍がよほど衝撃と恐怖を与えたのだろう。
連合軍の日本占領政策の主眼は平たくいえば日本を二度と白人国家に楯突く事がないように徹底的に弱体化させることだった。

なかでも、白人国家に恐怖を与えた日本の航空産業は目の敵にされた。
マッカーサーは日本弱体化計画の一環として、覚書覚書301号を発令して、模型も含め日本の航空産業・研究の一切を禁止した。
ルーズベルトの「(日独伊には)いかなる航空工業、航空事業も将来にわたって許されない。これら三国がゼンマイ仕掛けの玩具より大きい飛行機を飛ばすことも欲しない」という遺言を受け継いだ格好だ。

覚書では第一項で「昭和二十年十二月三十一日をもって民間航空に関する政府機構を廃止する」とあり、以下「いかなる航空企業、団体、及び乗員養成、航空機製造、設計、整備に関る法人も同期日までに解散すること」と続く。
これにより、零戦を開発した三菱重工や「隼」の中島飛行機(註)など航空機工廠はすべて潰され、飛行場に残っていた国産飛行機も破壊された。

以後、いわゆる「翼をもがれた七年間」がはじまる。
科学技術の中でも最も高度な研究と知識の蓄積が必要とされる航空分野において、このブランクはあまりにも大きいものであり、ある専門家は「航空禁止の七年間によって、実質五十年は遅れてしまった」と指摘する。

占領期間が終り、再び飛行機を飛ばせるようになった日本だったが民間航空の国際機関への登録記号は戦前の「J」の一文字ではなく二文字の「JA」になった。
一文字記号は「飛行機を開発し、飛ばした」国の特権とされ、戦前では欧米航空先進国の他は日本にのみ認められたもので二文字なら航空二等国扱いになる。
これは、運輸省の役人が民間航空を復活させる際、「ウチは二文字で結構です」といらぬ卑下をしたためだといわれている。(航空関係者)

ただ、実際にその後の日本航空史を見てもそれに見合った歩みをしている。
一応、国産旅客機の「YS-11」を造ったことになっているが、エンジンはロールスロイス製でプロペラはダウティーロートルという具合で主要部品はすべて外国製でまかなわれている。

そして、今回の国産ジェットもやはりエンジンが外国製。
今年で戦後六十四年、戦前のように純国産製を造るにはあと何年かかるのだろうか。


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註:中島飛行機は零戦のエンジンも作っていた。

虐殺者としてのオーストラリア人

2009-09-15 22:59:28 | 歴史・人物
オーストラリア人に祖先を訊くと決まって「ウチは1800年以降に入植した」と答えるという。
私の祖先は囚人ではありませんよという意味だ。
オーストラリアは元々イギリスの囚人たちの流刑地で、1801年以降は自由渡航が可能になった。

だが、移住してきた人たちは囚人よりもタチが悪かった。
彼らはオーストラリアの原住民アボリジニをあらゆる殺し方で殺戮した。
アボリジニの集落の飲み水に毒を入れたり、アメリカ人がインディアンにやったように撃ち殺したり、そして最もポピュラーな殺し方は崖から突き落とすというものだった。
アボリジニは同じく大陸に住んでいたコアラやカモノハシのように温厚で、インディアンと違い大きな抵抗をすることなく次々に殺されていった。

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約を取り決めたパリ講和会議で日本は人種差別禁止案を提案したが、これに反対したのはアメリカ、イギリス、そしてオーストラリアだった。
彼らがやっていたことを知ればそれに反対するのもよくわかる。

オーストラリア人はアボリジニの殺戮を20世紀に入ってもやめなかった。
日本では新しい昭和という時代に突入した1928年、オーストラリア人は週末ごとに「アボリジニ狩り」を楽しんでいた。
その日の狩りの成果として「アボリジニ17匹」の記載が残されている。(降籏学『残酷な楽園』)
20世紀に入っても彼らがアボリジニを人間とは思っていなかった証拠だ。

このため、タスマニア島にいたアボリジニーは全滅させられ、大陸に三百万人はいたとされるアボリジニはいまは三十万人が残るだけとなった。
この残されたアボリジニーたちはいまは農地を奪われ、就職口もない。
そこで表向き保護というかたちで僻地に作られた収容施設に押し込まれている。
ナチスがやっていたゲットーと同じような光景がここにある。

2000年、シドニーオリンピックの開会式でアボリジニの男女が会場いっぱいになって踊っていた。
「いまでは過去の暗い歴史は清算されて白人もアボリジニも仲良くやっていますよ」というパフォーマンスらしいが、踊っていたのは実はアボリジニではなくて体を黒く塗った白人で、本物のアボリジニは会場の外で「私たちを滅ぼさないで」と坐り込みの抗議をしていた。
それを知らずか朝日新聞は「民族融和、和解の証し」と称賛していた。
あまり笑えない冗談だ。

ところで、日本はオーストラリアと戦火を交えたことがあった。
第二次世界大戦のときだ。
日本は無視していたのに勝手にオーストラリアが宣戦布告してきたかたちになる。
この時も彼等の人種差別意識が剥き出しになった。
捕虜にされた日本軍兵士は射殺されたり、輸送の途中に輸送機から突き落とされたりと、アボリジニと同じように殺された。
なのに、いまでもオーストラリアは日本人は残虐だったと戦勝記念日には反日パレードが行われている。

そのオーストラリアが、いまは捕鯨問題で日本を叩くことに喜びを見出している。
今日も「緊急!世界サミット"たけしJAPAN "2009日本を考えるTV」という番組でオーストラリア人が捕鯨をやめろと日本人を非難していた。
自分たちは今ではカンガルーを殺しまくっているのによく言う。
その中で、あるオーストラリア人が「人間に近い鯨を調査と称して殺す日本人を私たちも調査目的に二三人殺してもいいですか?」というようなシーンがあった。
さすが、アボリジニを虐殺しまくっていた子孫のセリフといったところか。

そういえば、毎日新聞の英語版サイトで日本人を貶める記事を書いていたライアン・コネルもオーストラリア人だった。
その記事の中に「日本人がエクアドルで子供狩りをしている」というものがある。
人を狩るなんて、それは貴方たちの事だろう。
ついでにいえば、皇室を貶める『プリンセス・マサコ』を書いたのもオーストラリア人だ。

日本人はオーストラリアというとコアラやカンガルー、オージービーフ、エアーズロック、グレートバリアリーフ・・・と好印象を持っているが、オーストラリア観を改めるときかもしれない。

革命後のイラン 人権抑圧国家の実態

2009-06-24 23:22:18 | 歴史・人物
日々、イラン情勢が伝えられている。
今般行われた大統領選挙は保守派のアフマディネジャド大統領(現職)の圧勝に終わったが、改革派のムサビ支持者が選挙には不正があったとして大規模な抗議デモを行っているという内容だ。
軍隊はこのデモの鎮圧にあたり、死者も出た。

普段、あまり報道されることのないイランという国だが、この機会に色々とイランについて詳しい説明がなされるかと思うと期待はずれだった。
昨日の「報道ステーション」ではイランは1979年に民衆が王制を倒すというイラン革命をやり、亡命していた最高指導者ホメイニ師を向かえ現体制に移行したとまでは説明してたが、革命の結果イランの国情がどうなったかは一切触れないまま。
これじゃあ、革命の意義がわからない。
どころか、民衆が悪い王様を追い出して民主的な国をつくりましためでたしめでたしと視聴者が受け取ってしまう可能性もある。

はっきりいって、イランは日本人の価値観からみればとんでもない人権抑圧国家なのだが、普段、北朝鮮やミャンマーに向けられる人権抑圧国家という非難は今回の一連の報道では鳴りをひそめている感がある。

またそのパターンか、と思われるかもしれないが、イランについて少しばかり書いておく。

ホメイニ師の革命が起こる前、この国は宗教観は日本によく似ていた。
イスラム圏にありながらイランは二十世紀以降、脱イスラムを宣して近代化に努めた。
近代化の過程で民族衣装を脱ぎ捨てたのは日本とイランだといわれている。
地理的な理解からイランをアラブの一国と思っている人も多いが、この国の主要民族はアーリア系のペルシャ人で言語もペルシャ語が公用語だ。
アラブ連盟にも加盟していない。

ペルシャ人は元来、食べ物、酒、踊り(ベリーダンス)、そして麻薬が大好きな享楽的な民族だった。
食べ物で云うと日本にある野菜や果物、米も大根も白菜もスイカもペルシャが原産。
酒はブドウ酒(つまりワイン)が有名でこれはアレキサンダー王を虜にした。
ペルシャの踊りはベリーダンスなどと云われるが、イスラムに追われたササン朝ペルシャの民がシルクロードを経て唐の都・長安に他のペルシャ文化と共に持ち込んで白楽天や李白を魅了させている。
麻薬で云うと、阿片戦争で有名なアヘンはペルシャ語のアピンが原語。
アピンとは高級なマリファナ樹脂からとれるねっとしとした褐色の塊のことだ。
これをペルシャ人は食後に酒と共に楽しんだ。
ところで、英語で「楽園」を意味するパラダイスの語源も実はアケメネス朝ペルシャのダリウス大王(ダレイオス1世)が作らせた庭園で、大王はそこに鹿や猪、虎、ライオンを放しハンティングを楽しんでいる。
そんなわけで、ペルシャは禁欲を絵に描いたようなイスラム教とは一線を画す文化を持っていた。

元々、ペルシャ人は拝火教とも言われるゾロアスター教を信仰していた。
ゾロアスター教の教えは天地創造、復活、救世主、最後の審判などのちの
ユダヤ教やキリスト教に大きな影響を与えている。
そんなペルシャにイスラム教が流入するのは七世紀中頃。
ペルシャ軍をイスラム軍がカーディシーア(636年)、ネハーベント(646年)の二つの戦い破った後のことだが、ゾロアスター教の持つ論理性に馴れたペルシャ人にはイスラムの教えはなかなか馴染まなかった。

そこに生れたのがシーア派でアラブ諸国が信仰する本家スンナ派と違ったコーランの解釈をとり、シーア派はイラン独自の宗教として栄えた。
例えば、スンナ派で厳しく禁じられている偶像崇拝をシーア派では部分的に是認されているし、日本人がよくやる神様に対する願掛けもスンナ派ではタブーだがシーア派ではOK。
これらはゾロアスター教からの影響が強い。
このあたりの宗教の換骨奪胎も日本に伝わったのちの仏教のあり方と似てなくも無い。
食べ物でもイスラム教徒が食べない事で有名な豚肉をはじめ、貝や海老、カニなども普通に食べてきた。
他のイスラム圏では極端に低い女性の地位も比較的高く、ファションも自由に楽しんでいた。
女性とは反対にムッラーと呼ばれるイスラム教の聖職者は他のアラブ諸国と違い社会的地位はそんなに高く、仕事は日本の僧侶や神官のように葬式や結婚式の仕切りや立会い。

そんなイランに革命が起きる。
1979年のことだが、原因はパーレビー皇帝の専制と急速な近代化と説明されている。
民衆が王制を倒し、ホメイニ師とそれを支えるイスラム協会(アンジョマネ・イスラム)がやって来た。
民衆の期待を大きく裏切り、ホメイニ師は恐怖政治を始めた。
旧王制関係者は次々に処刑され、国民にはイスラム原理主義を押し付けた。
まづ、酒とアヘンを禁止し、ウロコのない魚介類の食用も禁じた。
その中にはイラン人の大好物だったチョウザメのキャビアも入っていた。
食べても良い羊なども正しい方法、すなわち「アッラーのなを唱えた者が鋭利な刃物で苦しませず喉を掻き切ったもの」を細かく指定された。
音楽も賭博も未婚の男女の交際も禁止。
つまり、デートも禁止でこんな法日本でやったらスイーツ(笑)さん達が卒倒しそうだ。
冗談はさておき、レストランで男女で入るときは夫婦である証明がないと即逮捕され鞭打ち刑。
不倫が発覚すると石打ちによる死刑に処させる。

女性の地位も一気に下がった。
女性はチャドルで身を包むことが強制され、髪の毛を出したり、体のラインがわかる服を身につけたり、口紅や化粧をすることも禁じられた。
これを犯すと鞭打ち刑。

またコーランには

「女というものは汝らの耕作地。だから(男は)どうでも好きなように自分の畑に手をつけるがよい」(コーラン・牝牛の章223項)

「アッラーはもともと男と女との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから貞淑な女はひたすら従順に・・・(略)・・・反抗的になりそうな心配のある女はよく諭し、それでも駄目なら寝床に追いやって懲らしめ、それも効かない場合は、打擲を加えてもよい」(同・女の章38項)

などという、日本のフェミニスト女性連中が読んだらこれまた卒倒しそうな文言が至る所にあり、イスラム原理主義のホメイニ師はこれを厳密に適応して女性の人権を著しく抑圧した。
社会的・法的な権利は「女は男の二分の一」とされ、公務員を例にすると給料は男の半分。
刑罰は等量報復と定められているが、これも男同士の場合に限る。
被害者が女性だった場合は半分。
こういう裁判の例がある。
1985年に夫婦喧嘩の末、夫が妻の両目を潰した事件があった。
妻がイスラム新刑法に基づいて夫への報復を要求した。
判決は「夫の片目をえぐりだすべし」。
「女は男の二分の一」原則が適応された形だ。

革命後のイランでは反政府活動、それがビラを撒いただけでも陰惨を極める拷問ののち死刑にされることがままあったが、これも女性の場合は悲惨だった。
ホメイニ師のいうイスラムの教えでは処女は死ぬと天国へ行く。
そこで女性は刑務官から拷問の後に強姦も加えて銃殺刑に処された。
さながら北朝鮮並みの所業だが、そもそも、イスラム聖職者は女性を「ザイフェ」と呼ぶがこれは「より劣ったもの」「精神薄弱者」という意味を持つ。
イスラム原理主義がいかに女性を低くみているかを示す一端だ。

前近代的な刑罰も次々と復活した。
例えば、窃盗は一回目で右手指を切断。(拇指を除く四本を切断)
二回目は右手首、三回目は左足首、四回目は窃盗に限らず如何なる犯罪も死刑となる。
公開処刑も街角いたるところで見られた。

すでに不倫は死刑と書いたが、ホメイニ師は性について特に厳しい。
殺人でさえ、金銭でケリがつくことがあるのに、近親相姦、義母との情交、非イスラム教徒との情交、強姦の四罪は死刑。
法廷で弁護士がつくことも禁じられる。
さらに同性愛も重罪の対象で男同士が性行為を行った場合も死刑。
ホモが駄目だなんて!と日本の腐女子さんや腐男子さん(これは私)の嘆きが聴こえてきそうだ。

ポルノなんかも当然駄目。
日本からの赴任者や旅行者が「週刊ポスト」あたりを持ち込むとヌードグラビアのページは空港のチェックで没収され、普通のグラビアなどもマジックインキで塗りつぶされたという。
「週刊文春」に乗っていた林真理子の水着のイラストが塗りつぶされたなんて話もある。
それがポルノに該当するのかしらんと首を捻らざるを得ないが、漫画の性的表現まで厳しく規制する姿勢は日本の野田聖子や千葉景子を思い起こさせる。

ちなみに、革命後のイランには人権もなかったが犬権もなかった。
ホメイニ師はどういうわけか犬を豚と同列において「生来、不浄だ」と決め付け、テヘラン市には野犬狩部隊が作られた。
部隊が発足した1985年当時、銃殺された犬がトラックの荷台にいっぱいになった光景が見られた。
市民も犬に石をぶつけてウサ晴らしをした。
これも北京五輪の際に、野犬は景観を損ねるとして北京政府が犬を殺しまくったことを思い起こさせる。

そんな、北朝鮮や中国に負けずとも劣らない国家へと変貌を遂げた革命後のイランだが、1989年に最高指導者ホメイニ師が死去した。
国民はここがイスラム原理主義の止めどきだと思った。
それでも、長い圧政に打ちひしがれた国民たちは急激な変化を求めなかった、というより果たせなかった。
以後、緩やかに民主化が進み、1997年宗教政治を批判する改革派のハタミ政権になった時にはテヘランの風景は大きく変わった。
女性は髪の毛一本でも見せれば鞭打ちだったが、前髪を見せるのは当り前になった。
いまも改革派の女性は前髪を見せて街を歩いている。
先日の「学べるニュースショー」で池上彰さんが女性の髪型をみれば保守派か改革派かがわかると云っていたのはそういう事情からだ。
デートも問題なくなった。
レストランに入っても結婚証明書の掲示を要求されなくなった。
もともと、享楽的な民族だ。
イスラム原理主義は肌に合わなかったということだろう。

それから八年後、イスラム原理主義者たちが巻き返しをはかる。
イランでは大統領の上に聖職者で構成される護憲評議会という組織があり、これが実質的に最高の権力を握っている。
この護憲評議会が改革派大統領の立候補を認めず、2005年には保守派のアフマディネジャドが大統領に選ばれた。
アフマディネジャドは狂信的なホメイニ師信奉者で、反米を看板にし「堕落した欧米風」を嫌い、髭をそった部下を叱ったとか、ホメイニ師でも云わなかったエレベーターを男女別にするとかイスラム原理主義的な言動で知られる。

今回の選挙ではそんな超保守派のアフマディネジャドが当選した。
選挙で不正があったのかどうか知らないが、ありえない話しじゃない。

どんな異常な政権でも一度権力を握ってしまえば国民がどうあがこうともなかなか潰れないといういい例だが、もともと急進的な王制に反撥してのイラン革命だった。
駄目な政権に愛想を尽かし、革命を起こしてみたが待っていたのは駄目どころか異常な政権だった。
これ、どこかの国の状況と似てないか。
いや、これから起こりうる状況に。
駄目な自民党政権に愛想を尽かして、政権交代してみたら異常な民主党政権が出現したなんてことにならない保証は無い。

戦前の日本は真っ暗だったか

2009-06-23 16:39:31 | 歴史・人物
「世界を変える100人の日本人」という番組で戦前の外交官、安達峰一郎が紹介されていた。
安達は国際聯盟でも活躍し、アジア系として初めて国際司法裁判所の裁判官、所長となった人物。

安達には、語学習得の為に河原の小石を口に含んで発音の練習をし、英語、フランス語、イタリア語を習得したとか、
弁舌を鍛錬する為に三遊亭圓朝の寄席に通ったという逸話がある。
実際、彼の舌はポーツマス条約締結の時に発揮され、のち多くの場面で調停役として活躍した。
特に有名なのは1924年に聯盟で「ジュネーヴ議定書」が審議されたときで、英仏を相手に一歩も引かず日本の主張を通し、当時、国聯事務次長だった新渡戸稲造に「安達の舌は国宝だ」と評させたほどだ。
海外でも高い人気を誇り、1934年にアムステルダムで死去した際、オランダ政府は国葬を以って彼の功績を顕彰した。
これが外国で日本人が国葬された最初の例になる。

こいう人物を紹介するのはいい。
ただ、気になったのは当時の日本に対する評価だ。

安達は国際司法裁判所において「応訴義務」の規定を創設しようとした。
応訴義務とは国家間の紛争において一方の国が告訴した場合、相手の国は必ず法廷に出頭し、裁判に応じなければならないとする制度だが、これに応じなかったのが日本だったと日本軍の映像と被せていかにも日本は悪い国でしたという風に描く。
満洲事変が勃発した時、安達は当時の総理大臣・斎藤実に日支間の問題解決は国際司法裁判所で決着すべしとの書翰を送っているのだが、ここにも「軍国主義下にありその行動に命の保証はない」というナレーションを挿入する。

戦前の日本は戦争に反対する意見を言うと命の危険があったような軍国主義国家だったというのはあまりにも粗雑な言い方だし、なにより事実に反する。
満洲事変が始った昭和六(1931)年当時の日本は世界恐慌から脱し、高度経済成長を向かえようとしていた。
満洲事変を誰も戦争だなんて思っていない。
海の向こう、遠い大陸で関東軍がドンパチやっている。
それで、景気も良くなったので誰もこれに恐れや不安を抱く人はいなかった。
前年の昭和五年は関東大震災から東京が完全復興し、モダンな帝都が出現していた。
東京行進曲が流行したのもこの年だ。
私鉄は昭和六年に現在あるものがすべてそろい、デパート、映画館、劇場が賑わい大衆文化が花咲いた。
全体はまだまだ不景気だったが、ネオンは輝きデパートに商品はあふれカフェーバー、ダンスホールは満員だったと故・山本夏彦さんも振り返っている。
1930年代は日本の重工業が飛躍的に発展した時期で、国民の生活も日々豊かになっていた。

まさか、この当時の人が日本を軍国主義国家だとは思っていなかったろうし、これから戦争が起こるなんてことも信じていなかった。
支那事変(日中戦争)が始ったときも、それが泥沼の戦争になるなんて思っていない。
昭和十二年十二月に南京が陥落したときもこれで戦争は終わったとホッとしていた。
じじつ、この時点ではまだ支那事変は「天佑」で戦争景気がもたらす消費生活をエンジョイしていた。
歳末商戦を伝える当時の新聞は「軍需景気の反映か、デパートの売上げぶりは正に記録的」と伝えている。

話を戻して。
戦争に反対したからといって命が危険に晒されるなんてこともナチスや今の北朝鮮と違って日本では無かった。
当時の雑誌を開けばいたるところに戦争反対の意見を見ることができるし、昭和十二年までは反ファッショの「人民戦線」論が盛んだった。
一つ例を挙げておくと、昭和十二年六月に近衛文麿内閣が成立したとき、市川房江は『日本評論』という月刊誌に「国際的平和を確立し、戦争を未然に防止する事」を要求しているし、「戦争が人類にとっての最大不幸であることはいふ迄もない」とも書いている。
当時はもちろん「伏字」もあったが、戦争反対の論を展開することはごく普通のことだったのだ。

政治の批判も自由に出来た。
先ほどの斎藤実首相が議会を解散して総選挙に打って出たとき、石橋湛山は政党出身ではない軍人首相が議会を解散しても国民はどの政党の議員に投票してその意思を表明してよいのか、と批判し「およそかような馬鹿らしい総選挙はありはしない」と書いた。
他にも、軍人首相だった林銑十郎が「喰い逃げ解散」(註)をした時、評論家の馬場恒吾は雑誌『改造』誌上で「信を国民に失ってそれで政治ができると思うならば、それはもはや常識のあるなしの問題でなく、精神に異常のあるなしの問題になる」と痛烈に批判している。
言論の自由が保障されているいまの時代でも首相に対して「精神の異常のあるなしの問題」なんて書くのは憚られると思う。

支那事変が泥沼化してきた昭和十五年に石原莞爾が『最終戦争論』を展開したときも「世界の統一が戦争によってなされるということは人類に対する冒涜であり、人類は戦争によらないで絶対平和の世界を建設し得なければならないと思う」との批判がきている。
軍国主義国家ならこういう批判はこない。

もっとも、治安維持法によって多くの人々(主に共産主義者とされた人たち)が逮捕・拘留されたのは事実だし、取り調べの過程で拷問もあった。
それでもナチスドイツや戦後のソ連や中国などと違い、この法によって死刑になった人は日本では一人も居ない。
だから、戦後、多くの共産党員が大手を振って出所してきたのだ。
彼らは戦争にも行かず、食事もきちんと与えられていた。
戦争で悲惨な目にあった人たちよりもある意味で幸福な生活を送っていたともいえる。

日本全体が本当に窮屈になったのは昭和十六年十二月にアメリカと戦争を始めて戦況が悪化してきた昭和十八年頃からだろう。
この頃はさすがに戦争に反対する言論の自由もなくなっていた。
昭和十九年に入ってからは空襲も激しくなり、食料も欠乏し始めた。
「戦前は真っ暗だった」という真っ暗な期間はこの二年間をさすのだろう。
多めに見積もっても三年。
支那事変が始ってから計算すれば八年になるが、それでもやはり長い戦前の期間を一括りにしてをすべて「真っ暗だった」「軍国主義だった」と言うことは歴史を無視した言い回しに違いない。


*******
註:「喰い逃げ解散」とは林銑十郎内閣が予算を成立させた翌日に議会を解散させたことを指す。
衆議院の反省を求める為の解散と説明されたが、予算成立後の解散とあって解散理由が明確でなく、「喰い逃げ解散」と揶揄された。
なお、総選挙後、林内閣は総辞職。在任期間わずか四ヶ月であった。

スリランカという国 ~獅子と虎の争い~

2009-06-05 01:30:46 | 歴史・人物
saratomaさんのブログ「のんきな日本人」で朝日新聞がスリランカについての社説を書いていたことを知った。

アサヒとスリランカと多民族共生社会
http://nonki-nihonjin.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-58ba.html

朝日新聞への突っ込みはsaratomaさんの記事を御覧になっていただくとして、ここではスリランカについて少しばかり書いておく。

スリランカはインドの南東にある熱帯の島国。
面積は北海道を一回り小さくしたくらいで、人口は約千九百万人。
民族構成は上座部仏教を信仰し、インドヨーロッパ語族のシンハラ人が74%、ヒンズー教を信仰し、トラヴィダ語族系のタミル人が18%、イスラム教を信仰しタミル人と同じくトラヴィダ語族系のマラッカ人が7%となっている。
暦は太陰暦(旧暦)を採用しているので日本からの外交官や観光客はかなり混乱させられるという。

スリランカと聞いてピンと来ない人も旧国名のセイロンと聞くとセイロンティーを思い出すかもしれない。
スリランカは世界有数の紅茶産出国で旧国名を冠したセイロンティーは有名なブランド名になっている。
紅茶好きには御馴染だが、現地で飲む紅茶はやたらと甘い。
砂糖とミルクをたっぷり入れて飲むのが当地の一般的なスタイルで同じくかつて英国の植民地だったミャンマーでもやたらと砂糖を入れて日本人にとってはビックリするほど甘くして飲む。
恐らく、砂糖が高価だった頃の名残で今でも甘ければ甘いほど高級ということなのだろう。
東南アジア各国でもこの傾向が見られる。

なぜこの国が世界有数の紅茶産出国になったかというと、今述べたようにイギリスの植民地支配が深く関っている。
スリランカはかつてポルトガルの植民地支配を受け、次にやってきたのがオランダ、そして18世紀末からイギリスが支配国となった。
それまでは、コーヒー栽培の広く行われていたが、病原菌が蔓延し、コーヒー園が壊滅的なダメージを受け、19世紀末以後、紅茶栽培が普及していった。
この時期にインド南部からイギリスによって茶園労働者として強制的に移住させられた人々がいまのインド・タミルと呼ばれる人たちだ。
つまりタミル人にも二種あって植民地以前からスリランカに住んでいた人たちがスリランカ・タミル、イギリスによって強制移住させられた人たちがインド・タミルになる。
国全体に占める人口の割合はスリランカ・タミルが13%、インド・タミルが5%となっている。
シンハラ人は英国支配に抵抗の構えを見せたのに対し、タミル人は比較的従順でそれゆえ、政治的には長くタミル人が重用されてきた。

が、1948年にイギリスから独立して事情は変わってくる。
独立を勝ち取ったあと、数において圧倒的優勢のシンハラ人は1948年制定の『セイロン市民権法』でタミル人の公民権を奪い、1949年の『国会選挙法』では選挙権を奪った。
1956年からは「シンハラオンリー政策」を実施して、シンハラ語を公用語とし、1972年には憲法に「仏教に至高の地位を与える」という条項を盛り込み、一貫してシンハラ人を優遇する政策を続けた。
現在でもタミル人への差別は続いていて、タミル人は国の要職には就けないでいる。
なぜ、ここまでシンハラ人はタミル人を弾圧したのだろうか。
一つはsaratomaさんも指摘されているようにイギリスお得意の分割統治の結果だろう。
いわば植民地時代の巻き返しといえる。
そしてもう一つ、スリランカにも駐在したことのある元外交官の話によると「タミル人は概して働き者で経済的に豊かであったが、一方のシンハラ人は祈ってばかりで怠け者が多い。シンハラ人は数において圧倒的有利であるが、このままではタミル人に国を支配されてしまうという危惧を抱いた」とのことらしい。

不満を募らせたタミル人は56年と58年に暴動を起こしたのち、スリランカの北部と東部を分離しタミール王国(イーラム王国)を建設しようとする独立運動を開始。
その中の過激派は72年には武力闘争を掲げるTNT(「新しいタミールの虎」Tamil New Tiger)を創設し、75年には大統領を暗殺している。
同じ年にTNTは、LTTE(「タミル・イーラム解放の虎」Liberation Tigers of Tamil Eelam)となり、以後、シンハラ人との骨肉の争いを繰り広げている。
なお、組織の名称からもわかるようにタミル人は虎をシンボルに掲げていて、一方、シンハラ人は自分たちを獅子(ライオン)の子孫と信じている。
スリランカの国旗に獅子が描かれているのはそういう理由からだ。
それで、このシンハラ人とタミル人の争いは「ライオンと虎の争い」と謂われることがある。

ミャンマーと同じ、帝国主義時代の負の遺産を抱えている国がここにもある。
朝日新聞の報道によると政府軍はLTTEをほぼ制圧したとのことだが、さてどうなりますか。
余談だが、スリランカにはポルトガル人街やオランダ人街は残っているが、イギリス人街は無いという。
いまも国に禍根を残す腹黒紳士イギリス人は蛇蠍の如く嫌われているということか。
これもミャンマーと同じだ。

鹿内一族とフジサンケイグループ

2009-05-22 02:26:03 | 歴史・人物
「ヨリチカが死んじゃったね」

不意に教授が語りかけてきた。

「『兵隊やくざ』を書いた有馬頼義がですか?」

とトンチンカンな答えをする私。
有馬頼義(ありま・よりちか)は小説家で代表作『兵隊やくざ』は映画化され勝新太郎が主演をつとめている。
頼義の父親は戦前に農相を務め近衞文麿とも親しかった有馬頼寧。
戦後は競馬の発展に寄与し、年の瀬の競馬場の祭典「有馬記念」は彼(頼寧)の名に由来する。

返って来た教授の反応は「違う。アナウンサーのヨリチカ」
これはもっともなことで、有馬頼義は私が生まれる五年も前昭和五十五年に逝去している。
人は一度しか死ねない。

アナウンサーのヨリチカとは先日、死去した頼近美津子さんを指す。
なにゆえ教授が頼近さんの話題を振ってきたかはおくが、私は頼近さんの名をこの度の訃報で始めて知った。
昭和六十年生れの私には「元祖アイドルアナ」と云われてもピンと来ない。
報道で夫が鹿内春雄だったと知って今度はピンと来た。
鹿内の名はよく知っている。

鹿内一族はかつてフジサンケイグループを支配していた一族で春雄の父・鹿内信隆は、「ニッポン放送・フジテレビ・産経新聞というラジオ・テレビ・新聞の三大メディアを手中におさめ、マスコミ三冠王と異名をとった。」(ウェヴサイト「系図で見る近代史」より)

ただ、この信隆、産経新聞の社員からは評判が悪い。
彼は新聞はもう古いと云って産経新聞を潰しにかかり、地方支局を潰し、記者の新規採用をやめ、専売店も切って捨てた。
産経新聞が死にかけた頃、彼は自慢のフジテレビ社長の肩書きで郵政大臣に会いに行った。
ところが、偉いはずなのに大臣室のまえで随分待たされる。
気を利かせた側近が「彼は新聞社の社長でもあります」と官房に伝えたらすぐに大臣が招きいれた。
役所からしてみればテレビ局は郵政省(当時)から電波枠をもらっている立場で役人からみれば出入り業者の一つにすぎない。
彼はテレビ局の社長より新聞社の社長の方が偉いんだと悟り、産経新聞を潰すのをやめたといわれている。(高山正之「居候のクーデター」、『スーチー女史は善人か』参照)

その息子、鹿内春雄は現在まで続くフジテレビのエンタメ路線を固めた人物。
出版部門でも堅めの「週刊サンケイ」を廃刊にしてエンタメ雑誌の「SPA!」を作った。
フジサンケイのシンボルマークもこの時作られたものだ。
あの目玉のデザインはイラストレーターの吉田カツが手掛けたとされているが、夫人の頼近美津子がデザインしたという話もある。
若者・子ども向けの「軽(カル)チャー」路線、「楽しくなければテレビじゃない」のコピーを掲げ、昭和五十七年から年間視聴率でTBSを抜いた。
春雄のエンタメ路線は成功を収めたといっていい。

六十三年に鹿内春雄が急逝してからは鹿内家に養子に迎えられた鹿内宏明がグループを掌握することになる。
ところが、宏明は春雄が進めた路線に否定的で自分色に染め替えようとした。
為に、春雄の腹心だった日枝久(現・フジテレビ会長)らを中心としたメンバーからクーデターを起こされ失脚。
表向き、鹿内一族の支配は終わりを告げた。
とはいえ、筆頭株主の立場は崩れない。
その後のフジテレビの歩んだ道はこの鹿内家の影響力を落とす二十年間だったともいえる。
その為にニッポン放送もフジテレビも上場し公開株式にした。

その隙を突いたのが御存知ライブドアの堀江貴文。
フジサンケイの中核フジテレビをフジテレビよりずっと小さいニッポン放送が支配するというねじれを利用し、フジテレビ、ひいてはフジサンケイの支配を目論んだ。
この時、大人の解決方法があるといって騒動の調停を名乗り出たのがSBIの北尾吉孝という人物。
なんと、北尾氏は宏明の長男・隆一郎と懇意の仲で、それゆえ鹿内一族はこの騒動に乗じて復権を狙っているのでは?との憶測もでた。

のちの経過はみなさん御存知の通り。
堀江の野望は失敗し、今のところ鹿内一族がフジサンケイの支配者に返り咲く気配も無い。

以上、フジサンケイグループの歴史の一断面だが、さらっとなぞっただけでも色々な人物が登場して大河ドラマのようだ。
エンタメ好きのフジテレビは是非このドラマを作って欲しい。
「鹿内一族盛衰記」とかそんな題名で。

西尾幹二さんの歴史観

2009-04-27 20:11:09 | 歴史・人物
『諸君!』も次号で休刊だという。
保守系オピニオン誌の中でもっとも多様性があった雑誌なので非常に残念。
あと、残るは『正論』、『WILL』。
中道では『中央公論』、左派系は『世界』あたりか。
あ、『Voice』なんてものあった。
どうも心もとない。

その『諸君!』四月号に歴史家の秦郁彦先生と評論家の西尾幹二さんの対談が載っていた。
これは、田母神論文を軸にお二方の歴史観を戦わせた内容。
所謂、和やかな対談ではなく、本当の意味での討論になっていた。
いや、討論というより、ほとんど喧嘩だった。

私は以前、歴史研究の観点から田母神論文の歴史記述について誤りを指摘した。
田母神さんの国家観、歴史観について共感するところは多々あるが、論文の記述内容について多少の事実誤認があったからだ。
いわば、「総論賛成、各論疑問」といったところか。

秦さんの立場は田母神論文は全体的な提言や主旨に違和感は無いが歴史的事実について誤認がある為、支持しないというもの。
およそ、私の立場に近い。
一方、西尾さんは、確かに田母神論文には不備があるもののそれは取るに足らぬことで、絶対的に支持するという立場。

西尾さんは陰謀史観にも肯定的でルーズベルトが工作して日米戦に持ち込んだという「ルーズベルト陰謀説」もすっかり信じておられる様子。
これについて、秦さんが歴史研究家の立場から「証拠がないでしょう」と反論すると、西尾さんは「証拠なんかないですよ」と開き直ったような態度をとる。
もう、ほとんど話が噛み合っていなかった。
なんというか、秦さんは資料(史料)をもとに史実を積み上げてゆく歴史家で、西尾さんは資料をもとに推測と想像で歴史物語を作り上げていく文学者という感じがした。
「彼(田母神さん)の論文は一種の文学的な説得力もある。細かいことはどうでもいいんでね」という西尾さんの言葉も氏が文学者であることを象徴している。
そういえば、西尾さんの大著『国民の歴史』も「民族の物語として著述した」なんて云っていたような。

私は歴史を物語として捉えるのはそれはそれで良いと思う。
民族や立場によって、それぞれの物語があろう。
しかし、歴史研究の立場からはそれは相容れないことだ。
歴史家の立場としては史実は一つ。
その上での歴史解釈や歴史観はいくらでもできるが、これも史実を著しく逸脱することは許されない。
私は歴史畑の人間だからこういった考えに近い。

西尾さんは「秦さんの文章は腹が立つ」「歴史の専門家を信用していないのでね。ことに日本史の専門家と聞いただけで眉に唾する」と発言していて、歴史側に居る私はかなり違和感を持ったが、やはりこれも文学と歴史との深い溝なのだと思った。
無論、秦さんもちょっと頑ななところがあって、それゆえ、西尾さんをイラつかせるのだろうけど。

私は『WILL』に載った西尾さんの皇室についての論文には大変共感した。
なにより、歴史を語る西尾さんのそれとは違い説得力があった。
これは、皇室の問題はきわめて文学的だからだと思う。
皇室の問題は歴史も深く関ってくるが、政治思想や感情論を抜きにしては語れない。
思想の問題となるとつまるところ文学だ。
歴史論争は史料があれば案外簡単に決着がつくが、思想の問題は絶対と云っていいほど決着がつかない。
それは、つきつめれば人それぞれの感情の問題になるからだ。

文学者としての西尾さんは皇室の問題は専門分野だが、歴史となるとまったく専門外というわけになる。
西尾さんの歴史観が史実性を無視して推測や想像、そして感情論に拠ることも頷ける。