あび卯月☆ぶろぐ

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山本五十六~その時歴史が動いた~(後編)

2005-12-08 00:13:48 | 歴史・人物
先週に引き続き、「その時歴史が動いた」は山本五十六の特集を放送していました。
後編の概要は・・・

太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃。
この作戦を立案・指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六(やまもと・いそろく)の生涯を描く2回シリーズ。
後編は、真珠湾攻撃の全貌を克明に描く。
航空隊で米軍の拠点・ハワイ真珠湾を撃破するという前代未聞の作戦。
緒戦で敵に大打撃を与え、戦争を早期に終息させることが日本が生き残る道と信じ、山本は作戦遂行に邁進する。
しかし、そこには多くの困難があった。ハワイまで米軍に知られず接近できるか。
水深12m程の浅い湾で既存の魚雷が使えるか。
その難問を克服するため、山本は技術開発と極秘訓練を繰り返す。
一方、開戦回避に向けた外交交渉はギリギリまで続けられていた。
山本は交渉妥結の見込みがあれば、作戦を中止するよう指示していた。
しかし、交渉は決裂。12月8日(現地時間7日)、ついに真珠湾攻撃が開始される。
百機を超える航空隊による攻撃は予想を超える大戦果に。
しかし、実際は空母を逃がすなど、山本は作戦を全うできなかった。
真珠湾攻撃は「だまし討ち」と米世論を激昂させ、アメリカは総力を挙げて逆襲に転じる。
当初の山本の狙いは外れ、戦争は長期化。日本に三百万人を超える犠牲者を出す悲劇をもたらした。
番組では、関係者の証言や山本五十六にまつわる史料から、真珠湾攻撃と山本の無念の生涯を描く。

(「その時歴史が動いた」公式サイトより)

およそこのような内容でした。
個人的に驚いたことは当時真珠湾攻撃に参加していた帝国海軍の操縦士の方がまだご健在でいらして、
インタビューに答えられていたことです。

さて、それはさておき詳しい内容をレビューしたいと思います。

真珠湾攻撃は航空隊の飛行機を使って魚雷を落とし停泊中の米国艦隊に攻撃を加えるという作戦です。
当時は航空機を使って敵の戦艦を攻撃するという作戦は考えられなかったそうです。
なぜなら当時の海軍の闘い方というのは戦艦同士が海上で撃ち合って闘うという、
日本海海戦のような闘い方が一般的だったからです。
ゲストの半藤一利さんの言葉を借りるならば
「当時の海軍は誰も飛行機が艦を沈められるなんて誰も思っていなかった」
という感じだったようです。

しかし、山本は既に戦艦同士が撃ち合う闘い方よりも今後は航空機が主力となる闘いが一般的になると予測しており、
それ故に左遷されていた時期、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の開発に尽力していたのでした。
そして実際にその読みは的中したわけですが、当初、この作戦に軍令部は「あまりにもばくち的過ぎる」批判的でした。
実際に山本も
「桶狭間とひよどり越と川中島とを合せ行ふの已(やむ)を得ざる羽目に追込まるる次第」
と言っています。が、山本は
「作戦が認められなければ日米戦をやり通す見込みはない。そうなれば自分と連合艦隊全幕僚は辞職する覚悟でいる。」
と言い、軍令部も遂に山本の作戦を了承しました。

日本の国力とは比べものにならないアメリカと戦争をした場合、
長期戦になると日本に勝ち目は無く、短期決戦に持ち込む必要があります。
山本は短期で決着をつけるには今までの常識的な戦い方では勝てないという確信を持っており、
故にこの奇抜な真珠湾攻撃作戦を立案したのでした。

山本が近衛首相から日米戦での海軍の見通しを聞かれた時も
「初め半年や1年は暴れてご覧に入れます。しかし、2年3年となっては全く確信は持てません。
日米戦争回避に極力御努力を願います」

と答えています。

そして、同時に最後の最後まで戦争回避の希望を棄てませんでした。

連合艦隊最終打合せでの山本は指揮官たちに
「ワシントンで行われている対米 交渉が妥結したならば、ハワイ出動部隊はただちに反転して帰投せよ」
と言いました。
すると南雲忠一中将など何人かの指揮官が反論して
「それは無理な注文です。出しかけた小便は止められません」
と言うと、山本は珍しく声を荒げて、
「もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら即刻辞表を出せ。
百年兵を養うは、ただ平和を守るためである

と言ったそうです。

しかし、12月1日の御膳会議で日米戦開戦が決定されます。

開戦決定を受けた時の山本の言葉
「万事休すだ。もし交渉がまとまったら、出動部隊をすぐ引き返すだけの手は打っているが。どうもね・・・」

そして、12月7日ローズベルト大統領から昭和天皇へ親書が送信され、
ギリギリの段階での和平交渉が進められようとしていました。
開戦か和平か。
山本はもし和平への動きがみえれば即時に作戦を中止する手はずを整え、結果を待ち構えました。
その時の山本の様子を当時、司令長官付き士官だった佐藤嘉三さんはこう振り返っていました。
「長官(山本)は夜、甲板の上を歩きながら、なんかいろいろ考えてられるんでしょうね。
何か考えながら静かに静かに歩かれる。
ただ歩かれるという感じではなくて、コツ・・・コツ・・・コツ・・・という感じですね。」


真珠湾攻撃の時、山本が一番気に掛けていた事は
宣戦布告前に攻撃しないことでした。

当時、真珠湾攻撃隊パイロットだった前田武さんの証言。
「その時一番しつこく言われたのはね、山本長官の命令だけれども、
午前八時よりも爆弾を落とした機銃を打ったりしてはいけないと。」


山本は国際法上、日本の正当性を守るため、攻撃前に事前通告を行なうよう
日本政府に約束させていました。
その刻限である7時30分より前には絶対に攻撃しないようにと全軍に厳命したのです。
(しかし、外務省の不手際で宣戦布告が真珠湾攻撃後になってしまいます。)

そして現地時間の7日7時55分、真珠湾攻撃は実行に移され、
アメリカ太平洋艦隊に壊滅的な打撃を与えました。
その戦果が司令部に次々と届いた時の佐藤嘉三さんの述懐。
「いろんな参謀その他が欣喜雀躍といいますか、躍り上がって喜ぶような雰囲気だったんですね。
ところが、長官(山本)は腕組をしてウーンと唸られて、表情があまり見えないんですよ。」


山本はその後の戦争でどんな大戦果が届いても一度も喜んだことは無かったそうです。

その後の日本のゆくへは皆さんご存知の通り。
日米戦は長期戦となり、日本は次第にアメリカの国力の前に苦戦を余儀なくされ、
特にミッドウェー海戦後、戦況は終戦まで悪化をたどる一方でした。

山本は手帳に帰らぬ部下の名前と故郷を一人づつ書き留めていて、
たびたびその手帳を見ながら呟いていたといいます。
「もうどのくらいになったかな、この手帳もいっぱいになって数えるのも難しくなった」

そして、最後に山本が戦死するの7ヶ月前にしるした手記の文章を紹介して終ります。
「ああ われ何の面目かありて見えむ大君に 将又逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし
 いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を 華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ」


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2 コメント

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どうも! (ONO THE WORLD)
2005-12-10 00:16:53
いい勉強になりました。

ありがとうございます。
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Unknown (あび卯月)
2005-12-10 22:36:04
>ONO THE WORLDさん



どういたしましてです(´∀`*)
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