つながりあそび・うた研究所二本松はじめ

二本松はじめ(ピカリン)の活動予定や活動報告、日頃、考えていることなどを書きます。研究所のお知らせも掲載します。

抱っこ通信1101号 炎の海―1945年3月10日

2020年03月10日 | 抱っこ通信
 一昨日の日曜日、午後6時過ぎに友人から電話が入りました。「いま、テレビで東京大空襲のことをやっているよ。見ていて二本松さんのあの歌を思い出した。そうそう土曜日のラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』でも、大沢さんのお母さんの大空襲での体験、悠里少年をおぶって逃げたことを放送されていた。その時は、ラジオ局に電話しようと思ったよ。とっても大事な歌だよね。いい仕事しているね」という内容でした。嬉しかったです。

 東京大空襲。あれから75年。戦後生まれの私は、戦争のことを知ろうとはしていますが、幸せなことに戦争を体験していません。ですから子どもたちに戦争を伝えることがとても難しいです。でも、戦争を伝えなくてはならないと考えます。それは、

  ♬あらためて大声で 叫ぶことではなく
   いのちが この地球に 生まれたその時から
   親たちがずっと願って 願ってきたことです♬
    (音楽構成「~子どもたちと育ちあうあなたへほんの少しだけ」より)

 子どもたちより、若い人たちより、先に生を授かったものとして、人間としての務めと思うからです。また、両親や家族、仲間たちや多くの人たちから育てられてきたことへの感謝からです。

 少しだけ歌をかじっている私がやりはじめたことは、子どもたちや体験者の詩や文章に曲をつけて歌うことです。
 
 今年に入って、甲状腺がんの再発だ、手術だ、静養だと、鬱状態にもなりそうな私にとって、友人からの電話は、つながりあそびの楽しさを広げる、生きている楽しさを広げるという私の仕事=生き方の根っこになるものをもう一度思い出させてくれました。感謝です。

3月10日には毎年『炎の海―1945年3月10日』を聞きます。


炎の海―1945年3月10日
          作詞 二本松はじめ
          作曲 二本松はじめ・宮田剛(伴奏譜)
♬空が燃えた 町が燃えた
 人が燃えたあの日
 大地が燃えた 川が燃えた
 いのちが燃えたあの日

 愛が やすらぎが 思い出が
 夢が 希望が やさしさが
 すべてを焼き尽くしたあの日          
 燃えた炎の夜

(語り)1945年3月10日午前0時8分
約300機のアメリカ軍爆撃機B29は
東京下町に焼夷爆弾の雨を降らせ始めた。
折からの北西の風にあおられて、隅田川の両岸、
今の台東区・墨田区・江東区など
木造家屋が密集した町を火の海にした。
わずか2時間半の間で、約10万の人々が殺された。
亡くなった人の多くが子ども・女性・お年寄りの非戦闘員。
亡くなった人の数は原爆で亡くなった広島の12万人よりは少ないが、
長崎の7万4千人よりは多かった。
東京大空襲、それは、すべて計算しつくされた無差別の大量殺戮だった。

♬忘れないでください 覚えていてください
 人間らしく生きること できなかった人たちのことを
 忘れないでください 覚えていてください
 人間らしく死ぬこと できなかった人たちのことを

(語り)「早く出ろ!」怒鳴る父の声に家を飛び出した。空は真っ赤、火がゴーゴーと叫び、いつもの空襲とは明らかに違っていた。私たちは近くの国民学校に向かった。学校には防空壕が二つ。いつも入る防空壕は人がいっぱいだった。もう一方の防空壕に入った。校庭では炎と煙は激しく渦巻き、竜巻を起こしていた。しばらくして防空壕は熱でひび割れ、もう駄目だという寸前に防空壕の扉が開いた。人々は開いた扉に殺到し、外に出ようとした。その時、母が言った。「逃げるのはよそう。死ぬならここでみんな一緒に・・・」。その言葉が私たちの命を救った。われ先に外に飛び出した多くの人たちは、その後、炎に巻かれて死んだ。そして、最初に私たちが入れなかった防空壕は扉が開かず、何百という人たちが息もできず苦しみながら死んだ。

(語り)「ドブに入れ!」誰かが叫んでいた。われ先に飛び込む。私もドブに飛び込んだ。でも、3月と言ってもまだ雪が残る寒い夜。すぐに体がガクガク震え始めた。突然、後ろのほうで赤ちゃんの泣き声が聞こえた。振り返るとなんと赤ちゃんの頭巾が燃え、お母さんの背中で、もがき苦しんでいる。お母さんは水面に顔を伏せたっきり動かない。私は夢中で赤ちゃんに水をかけ続けた。でも、だんだん体全体の感覚がなくなってしまった。

♬ぼく生きていたかった おかあちゃんのおっぱい飲みたかった
 ぼく生きていたかった おんぶや抱っこたっぷりされたかった
 ぼく生きていたかった ともだちといっぱいあそびたかった
 ぼく生きていたかった 学校に行って勉強したかった
 ぼく ぼく ぼくたち

(語り)夜が明けようとしていた。私は家に帰るため橋を渡ろうとすると、そこには何百というたくさんの焼死体が積み重なっていた。黒焦げの死体、生焼けで泥人形のようになった死体。そこに小さな遺体に覆いかぶさろうとしているもう一つの遺体があった。きっとお母さんが子どもを火から守ろうとしたんだと思う。川にもたくさんの死体。水の表に出でいる死体は真っ黒、沈んでいる死体は焼けずにいた。凍死した人もいた。やがて煙がくすぶる焼け野原から太陽が顔を出そうとしていた。

♬空が燃えた 町が燃えた
 人が燃えたあの日
 大地が燃えた 川が燃えた
 いのちが燃えたあの日

(引用・参考にした文献)
 「あの日を忘れない 描かれた東京大空襲」(柏書房) 
 「語りつごう平和への願い 東京大空襲墨田体験記録集」(墨田区)
 「路地裏平和のネットワーク」(再び許すな東京大空襲!反戦平和の集い実行委
 員会)
 「東京大空襲」(岩波書店)


 この『炎の海―1945年3月10日』を収録した、自主制作・音楽センター発行のCD『母・・・それは憲法』(2005年6月)の巻頭文を紹介します。
 なお、このCDは15枚しか残っていませんが、古希祝いのお礼として2018年自主制作・自主出版したCD『あの日から・・・大切なあなたへ』にも収録しました。


人間らしく生きること 人間らしく死ぬことができるように

 私の一生の仕事はつながりあそび・うたを通して「生きているってひとりじゃない」「ひとのつながりあいって楽しいよ 大切だよ」を子どもたちへ、子どもたちと育ちあう人たちへ届けることです。それは同時に、いのちの美しさを生きることの素晴らしさを広げることだと自負しています。それはまた「平和」を守り、つくりだし、広げることだと思っています。それが私にとって人間らしく生きることです。

 私は憲法と同い年です。あの悲惨な戦争を反省する中から生まれた憲法。いかなる理由があってもいのちを奪うことも、奪われることも許さず、すべてのいのちが輝き、その寿命をまっとうできることを国家に義務付け、国民に保障した憲法を持つ国に生まれ、育ってきました。この憲法を持つまで、どれだけの多くの犠牲が日本で、アジアで地球にあったのでしょうか。そのことをしっかり伝えることと、その犠牲になったいのちたちのために、そして子どもたち、未来のために、いま憲法九条を守り、輝かせることに努力すること、それが私にとって人間らしく死ぬことができることだと思っています。
 すべての人たちが 人間らしく生きること、人間らしく死ぬことができるように!

           つながりあそび・うた研究所 二本松はじめ




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