つながりあそび・うた研究所の30年目もあっという間に3分の2を過ぎようとしています。まったく時間が過ぎていくのは早いです。コロナ禍でなんにもできない中、5月中旬からつながりあそびの動画と、つながりソング(ステイホームソング)の動画のアップはなんとか続けてきました。
フェイスブックで動画アップし、抱っこ通信でそのあそびを通した思いを書いてきましたが、途中でつながり仲間から「フェイスブックだと限られた人しか動画が見られないから、ユーチューブにもアップした方が多くの人に見てもらえるよ」とのアドバイスをいただいて、いまではフェイスブック、ユーチューブ、ブログにも動画をアップしています。リンクを貼れるようになるといいのかな?
要望のあったつながりあそびの譜面もほしいという声に応えて、抱っこ通信には譜面も掲載していますが、なにか、最近、あれもこれもで、つながりあそびへの思いの書き込みが少々おそまつになっていないか心配です。
つながりあそび100回、つながりソング44回を続けてきて良かったことです。研究所30周年になにか「まとめ」らしきものを出版したいと考えているのですが、まとめる時間がつくれていません。でも、最近の作品を通して、つながりあそび・うたとはを、もう一度捉えなおさなければという思いを強くしています。残りの3分の1に、少し執筆活動に取り掛かりたいです。
また、ひとまず100回になりましたので、ここらあたりで動画のあり方を一度整理するために、今週のつながりあそび動画投稿はお休みします。できれば11月からの再開のために作戦会議をしたいと思います。なにかいい作戦というか、「こんな動画が見たい」「あのつながりあそびを」とかいろいろな要望、アイディアをお寄せいただくと嬉しいです。
ともかく、つながりあそびそのものが、手遊びのように、その場を動かなくてもすむあそびではないので、コロナ禍で集まって撮影するとはならないし、また、動きが大きく動画撮影にも難しさがあります。ほんとうは仲間たちの体と心の動きの交流があるからこそのつながりあそびですから、文章も言葉も動画もなんですが、いろいろと難しいです。
先週のつながりあそびの譜面です。
20日【だいこん抜き】
遊びながらつくった大好きな1曲です。福井秋ツアーで、つるが保育園に遊びに行った時にできちゃったのです。10組前後の親子で遊んだのですが、あそびはどこでもあり、だれでも想像できるあそびです。
お母ちゃんたちがホールの真ん中にドデーンとお尻を床につけて外向きに座り、その周りを嬉しそうに子どもたちが回って、歌い終わったらお母ちゃんたちの足を引っ張るだけのあそびです。自分のお母ちゃんの足も友だちのお母ちゃんの足も区別なく、引っ張っているのが嬉しかったです。
親子で役割を交代して遊びましたが、お母ちゃんたちの子どもの足を引っ張る時の勢いがすご過ぎて、後頭部を床にたたつけた子どももいましたよ。それでも笑っていた遠慮しないお母ちゃんたちでした。
そんな遊ぶ親子を見ながら詞と曲がピッタリはまった、ヤッターと、別のところで喜んでいる自分がいました。
つながりあそび・うたのプロですから、現場で子どもたちが楽しいと感じられる作品をつくってなんぼ、先生たちが保育を楽しいと思える作品をつくってなんぼの世界です。私の場合はもう一つ、なんぼという活動ではありません、保育の応援団としての活動です。プロの世界ってどの世界だって厳しいですよね。保育の世界もね。楽しみながらプロの仕事、活動をやるだけです。プロの仕事、活動だからおもしろいのです。楽しいのです。
21日【みんな大好き】
1986年、長野県山ノ内町で開かれた全国合研の基礎講座にむけて創作したつながりあそびです。メイン会場の体育館のイスを片付け、広場をつくって遊びました。『みんな大好き』の時のどちらのグループが大きい声で歌ったかを判断する審判長役の保母さん(千葉県からの参加だったかな)が面白い人で、大いに盛り上がったことを思い出します。
『ロボット機関車』も合研に向けて創作したつながりあそびです。当時、『ちいさい仲間』(保育士と保護者をつなぐ雑誌)につながりあそびの連載をしていました。
岐阜県立中濃特別支援学校コンサートに行った時に担当の先生が教えてくれました。「ピカリンベストつながりあそび・うた1,2,3集は、私たち教師のバイブルなんです」と。音楽センターから出版されているCDブックです。ひとりが動ける時間と範囲は限られています。つながりあそびが広がっているのは、第一に仲間たちの実践、第二にCDブック等の教材です。全国をまわっていると、よくこんなへんぴ(失礼)なところでもつながりあそびを遊んでいるなと思うことがあります。嬉しいですね。ありがたいですね。最近ではネットでも・・・。時代はどんどん進んでいます。
でも、つながりあそびの楽しさはやはり体と心がつながってこそです。コロナ禍の中で、また、コロナ後につながりあそびの楽しさを広げるためにはどうするかを考えていかないとね。
先生の話の続きです。「手と手と手と、ひとりじゃないさ、みんな大好きが、私たちの三種の神器です」と。
アルプス少年団の青年リーダーが「あの『みんな大好き』はいいですね。バスの中でも大きい声でうたってと叫ばなくても、子どもたちは歌ってくれる」と嬉しそうに話してくれたのを思い出します。
「うち園では、運動会の応援合戦は『みんな大好き』です」と保育士さん。
これまた保育士さんからですが、「『みんな大好き』の歌合戦で、最初の頃は、自分たちの好きな食べ物、例えばアイスクリームなどと叫んでいたのだけど、長い言葉だと上手に言えない、声が揃わないことに気づいて最近では、ビワになりました。動物合戦でも、乗り物合戦でも、ヒーロー合戦でも、いろいろグループで相談しています」。嬉しいです。
22日【もっともっと】
1991年、つながりあそび・うた研究所を立ち上げて初めての仕事は、大阪南おやこ劇場地域例会21日間30ステージでした。なんで私が呼ばれたのかを事前交流会で知りました。この『もっともっと』があったからです。親子劇場のお母さんたちが音楽センターから出版されたカセット『手と手と手と』の中の『もっともっと』を聞いて、「いのちを真ん中に活動している」人として推薦してくれたのです。カセットを持っていたのが事務局長のパートナーさんで当時、養護学校の先生をしていたそうです。ほんとうに偶然だったのです。このことから「いのちを真ん中に活動」していくことの大事さを改めて思いました。
でも、『もっともっと』を毎日、遊ぶわけにはいかない悲しいつながりあそびなのです。「大きいもの」の私の答えが「いのち」だから、「いのち」が出たらそれでおしまいなのです。
ところが、それで終わらないのが子どもたちの現場です。「小さいもの」「弱いもの」「強いもの」「大事なもの」などいろいろ考えてくれて遊んでいます。一回、『もっともっと』を遊んでいる現場を見てほしいです。子どもたちの答えようとするエネルギーの凄いこと凄いこと。
成長・発達には終わりはないのですね。子どもたち(人間)は進行形なのですね。「もっともっと」と考えること、行動すること、生きること。
2011年の9月から東日本大震災復興支援夢わかばプロジェクトで岩手・宮城・福島をまわったのですが、郡山市にある大成どんぐりクラブ(学童保育)で『もっともっと』を遊びました。♪ネコより大きいもの知ってるかい♪の答えが、いきなりゾウだったので、先がどうなることやらと心配しましたが、クジラ・海、途中に一年生からキリン、「え~とまあいいか」と続けていくと、富士山・太陽も出ましたが、ともかく宇宙まで辿りつきました。
♪宇宙より大きいもの知ってるかい♪・・・。ちょっと間が空いて、ゆうやが「心」。次の♪宇宙より心より大きいもの知ってるかい♪で、みずきが「いのち」。みずきはジャンケンをするときの掛け声として、大声で♪サイショハグッチョマッチョウマノケツ♪と叫んでいた子どもだったのです。「ウマノケツ」にはびっくりしたのですが、「いのち」と答えてくれてすごく嬉しかったです。3年前も岩手ツアーの時に『もっともっと』を遊びましたが、どこの保育園でも「いのち」まで辿り着きました。
23日『手と手と手と』
『手と手と手と』。やはり私のつながりあそびの原点です。ステイホームソングでは1回取り上げましたが、つながりあそびとして、改めてアップしました。
手をつなぐという何気ない動作、行為ですが、実際は難しくなっているようです。なぜでしょう?その疑問に答えるためにも、まずは自分から手をつなげられる人間になりたいです。子どもたちにも自分から手をつなげられる人間に育ってほしいです。先生たちにはそういう子どもに育ててほしいです。先生自身もね。
1982年4月18日、私のうた仲間オニイの結婚を祝う会に向けて創作しました。彼の職場の2階のテラスで開かれた祝う会は実行委員会主催でした。実行委員になったのは良いのですが、夜も仕事だったこともあり、なかなか実行委員会に出席できず、テーマソング、お祝いする歌をつくることで役割を果たすことにしたのです。
「二人の幸せはみんなに広げてこそ、そして、二人の幸せは仲間たちに支えられて」なんていう思いこめて歌とあそびが生まれました。歌詞は♬春だ春だ春だ 二人の春だ 春だ春だ春だ 二人の春だ 手と手と手と手と・・・・二人の春だ♬だったと思います。今考える♬仲間がいっぱい♬がなかったのですね。その後、多くの仲間の結婚を祝う会でも歌っています。
1995年9月に高知県で保母のうたごえ祭典が高知放送のホールで開かれました。合唱発表会に土佐山田町だったと思うのですが、保育料値上げの反対運動を展開する保護者、子ども、保育士ら150人近くが舞台で『手と手と手と』を歌ってくれたのです。もちろん、歌詞は自分たちの運動で訴えるものに変えていました。ものすごく明るくて元気であたたかい演奏だったことが印象的でした。
当時、『手と手と手と』は地元で月1回ののんびりコンサートなどで歌う以外、譜面も音源もどこにも出ていなかったので、高知の仲間がどこで知ったものか不思議でもあり、嬉しかったです。前年の東京での保母のうたごえ祭典でゲスト出演した時に歌っているのですが、その時に仕入れたのなら保母のうたごえの運動の力強さですね。高知の仲間たちが歌ってくれたのは、自分の歌が保育運動に役立つのだと思えた瞬間でした。
運動と言えば、毎年、遊びに行っている鹿児島療育ツアーの中で、鹿児島療育センタ―(現リンク)の大迫さんが話してくれたのですが、35年前に自宅を開放しての療育相談事業から始まった療育の場を、県内に広げる活動の中でも『手と手と手と』を歌ってきたと聞きました。もちろん、替え歌でね。嬉しいですね。
その縁もあってか、鹿児島療育センターの30周年に向けた地域の子育てネットワークづくりの取り組みの一環で、県内を2年間40か所以上でつながりあそびコンサートを開いてきました。その活動の延長で毎年の鹿児島県療育ツアーとなり、宮崎県にも広がってきたのです。まさに「手と手と手と」ですね。
ほぼ毎年、全国合研や保育集会に参加していますが、『手と手と手と』をうたっている仲間たちの姿を、舞台上から見渡すと壮観です。からだが喜んでいます。ところが最近、いろいろな集まりで♬仲間がいっぱい♬と歌って周りを見渡したら、少し寂しくなる時があったり、弱気になったりするときもありせんか。
だからこそ、というか、自分が変わり、仲間が変わり、その仲間がさらに仲間を変えていけたら、永遠に仲間のつながり(手つなぎ)が広がっていくのです。それが人間の暮らしだったと思うし、歴史だったのです。きっと、これからも「私の幸せ」「私たちの幸せ」「みんなの幸せ」のために。だから「手と手と手と」と「手と」が三つ続くのです。並ぶのです。改めて、自分から手をつなげられる人間になりたいです。
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