好く晴れて少し歩けば曼珠沙華 斉藤優二郎
かって“週刊朝日”が「季に寄せる」と題して当時の主な俳句結社の句を順番に載せたことがあります。
“曼珠沙華”は、森澄雄と「杉」の同人の句でした。
西国の畦曼珠沙華曼珠沙華 森 澄雄
写真は、平成25年9月25日、千葉県柏市藤ヶ谷の天台宗持法院の彼岸花(曼珠沙華)です。
彼岸花は、西日本には特に多く、東北地方や北海道ではあまり見かけないそうです。
細長い葉は、花の後で伸びて冬を越し、5月ごろには枯れます。
球根は有毒。昔中国から持ち込まれたという彼岸花は種ができず、球根で増えるのだそうです。
2010年から始まった柏市のオープンガーデン制度、カシニワフェスタ2013が始まりました。(5月18日~20日)
今年は柏市全体で64のガーデンがオープン。
5月19日(日)、大津ヶ丘エリアのガーデンを訪ねました。
最初は増田さんご夫妻丹精の庭です。
ご主人は樹木を担当。リンゴが実を付けていました。
草花担当の奥様は「毎日庭に出ています」とおっしゃった。
次に訪れたのはバラ専門のお宅。
ご主人新倉充さんの、バラについての造詣の深さは驚くばかり。
「亡くなった母がバラ好きだったので」と、バラ造りの動機を話された。
カシニワ参加のお宅には、必ずついているこのマーク。
実行委員会作成の地図入りのパンフ片手に参加のお宅を回るのはとても楽しかった。
(サラの木)
帰り道の、民家のブラシの木と道端のブタクサです。
手賀沼緑道から葦原を望みます。
黄色の橋は「ひどり橋」手賀沼に注ぐ大津川の最後の橋です。
ふと振り返ると看板に気づきました。
農作業に来ていた地元の人に聞いても、いつ誰が建てたか、ご存じない様子でした。
「王城の地」ってどこだろう?
あの、こんもり茂ったあたりに行って見よう。
竹やぶがあった。
竹の子泥棒を戒めているのだろうけれど、この地の竹の子って出荷禁止なんですよ。
放射線量が基準を上回っているらしい。(売り物にはならないんですよ)
「王城の地」ってどこだろう?
ありました!
ほほう。ここが「王城の地」ですか。
「王城」というのは、この豪邸かな?それともあのお城かな?
「1000年以上昔、平将門がこの地に王城を築こうとした」と、断定して憚らないお人がいらっしゃる。
もしかしたら、あの看板に書かれた「福満寺」の住職?
将門の活躍した平安時代からは300年は時代が下りますが、鎌倉時代以降とされる板碑がありました。
傍らに立つお地蔵様は、江戸時代前期のものです。古木の下に佇んでおられます。
なんだか、タイムトリップした気分になりました。
(じゃがいもの花)
白井市、柏市の境を流れる用水路沿い2kmにわたって続く桜並木が、今井の桜です。
4月1日(月)、満開でした。
長堤の落花のために川流る 村上冬燕
花筏一寸法師ならば乗る 平畑那木
保津川や宇治川のような有名河川と違い、こちらは、ささやかな用水路。
同じような桜をたくさん見て下さってありがとうございました。
日本の農村のどこにでもありそうな風景ですが、それだけに懐かしく、毎年見たくなる今井の桜です。
5月 5日(土)。やっと、青空の一日となった。
手賀沼の南岸の台地に位置する、柏市「手賀の丘公園」が、一番の賑わいを見せるのは、いつもこの時期。
付設の駐車場でさばききれず、野球場が臨時の駐車場になる。
で、大人はバーベキューだ。
子どもはアスレチック。
カブトムシが子どもを誘っている。
そうそう、アスレチック。
ほかにも、運動広場。
つり橋もある。
青物市場も開設。
公園は、大人も子どももやさしく迎えてくれるのだった。
不信心な私だが、元旦は、神社仏閣に足が向く。
柏市岩井の龍光院。
10時を過ぎていたので閑散としていたが、辰年の今年は注目されそう。ここから、100mほど離れた集落の入り口に
小さな祠と石仏群がある。正徳(1711~1716)の文字の刻まれた石仏もあった。
こちらは、柏市名戸ヶ谷の香取神社。
入口にあるのは、「奥の細道」にある「道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず」のあの「道祖神」ではないか。
社殿は新しいが、石灯籠は享保(1716~1736)だ。
ここから、1kmほど南の増尾、広幡神社はもっと古く800年以上の歴史を持つ。
八坂神社、阿夫利神社など10社を祀る支社の鳥居は、江戸時代この地の領主だった本多氏寄進のもの。宝暦7(1757)の文字が読み取れる。
この神社で元旦に奉納される「浦安の舞」は、広辞苑に「神事舞の一つで皇紀二千六百年(1940)祝典で作られたもの」とある。
最近、「パワースポット」という言葉がよく使われるが、確かに、神社仏閣は、昔から日本人が事あるごとに
祈りつづけてきた神聖な場で、真剣に祈ることによって何か力を与えられるスポット、と言えなくもないと思った。
柏市藤ヶ谷にある、登慶山如意輪寺持法院という天台宗のお寺です。彼岸花の寺として知られています。
本堂は、旧堂が火災で焼けたのちの明治初年頃に、当地区の勝柴治右衛門家の母屋を移転して改築したものだそうです。
山門の手前右側の石段を登ると観音堂があります。江戸時代初期ごろの造営とされ、かって茅葺きの時は、重厚で堂々たる風格だったそうです。
中に安置されている、如意輪観世音菩薩は木彫坐像で、むかし、相馬氏が鎌倉から持ち帰り祀ったとの言い伝えがあります。
お堂の裏手に、歴代住職の墓、その後ろに相馬家先祖代々の立派な墓があります。
六地蔵はすべて相馬勘左衛門により元禄17年(1704年)以後に建立されました。
それぞれ請花(うけばな)と基礎石の部分だけで86cmあり、この上に像高97cmから110cmの立像6体が置かれています。
昭和55年までは、観音堂の中に安置されていたとのこと。
石段の途中に、2基の青面金剛像があり、左手奥に一つの地蔵が祀られています。
六十六部の文字があることから、日本全国の観音めぐりを成し遂げた人が記念に造立したものかと、想像をめぐらしました。
(「沼南町風土記 昭和56年3月発行」を参考にさせていただきました。)