雨曇子日記

エイティライフの数々です

春日部市駅東口

2023-07-02 12:57:27 | 関東の小都市歩き

野田市駅のリニューアル工事を見た後、春日部市まで足を伸ばした。川間駅を過ぎて江戸川を渡り、埼玉県に入るとすぐ春日部市。

 

 

この駅も昔の儘で、コンコースなど狭く、東武電車の他の駅に後れを取っているが、ようやくリニューアルに向け動き出したというところ。

 

 

いつ行っても丁寧な案内ぶりの観光案内所プラットに行ってみる。

 

 

特産物の麦わら帽子が展示してあった。

この街には22の彫刻が街角などににさりげなく置かれている、

 

 

駅東口の大通りをまっすぐ進み行き当たる古利根にかかる公園橋にもいくつかのブロンズ像がある。

 

 

柏からきてアーバンパークラインの一つ手前の駅”藤の牛島”にみられるように、春日部は”藤“の街。

今年はもう終わったが来年こそしっかり紹介したいと思う。


野田市駅

2023-06-28 12:16:02 | 関東の小都市歩き

野田市は醬油の街。

 

 

船橋~大宮のアーバンパークラインが野田市駅に入ると、まず目に入るのがキッコーマンのビル。

 

 

駅前は、何となく殺風景。

 

 

駅舎は、ずっと工事中だが、6月23日久しぶりに訪れてみると、工事はかなり進捗していた。

 

 

うーん、立派になるんだなあ!!

 

 

完成したら、改めて訪問しよう。

 

 


足利市散策

2023-06-22 10:34:59 | 関東の小都市歩き

 

6月20日JR両毛線足利駅北口に出た。

 

 

駅前広場に保存されている電気機関車の雄姿。

 

 

中央通りを西に歩いてすぐ、足利学校にきた。

 

 

室町時代の学校を復元したものだが、風格がある。

 

 

420円の入館料で入館する。

 

 

創建は小野篁(おののたかむら802~852)というが、初代校長は鎌倉五山派の易学の権威僧快元。

授業の内容は儒学を中心に、易学、天文学。兵学もあったらしい。

 

 

全国から学生が集まり、大半は僧侶で俗人には僧侶の学徒名がつけられたとのこと。

 

 

自学自習が基本で、主に中国の古い本を教科書とし、学生はそれを書き写して学んだようです。

 

足利学校の次に近くの鑁阿寺(ばんなじ)に行った。

 

 

寺領は、ほぼ200m四方の正方形で、土塁と堀で囲まれている。足利一門の氏寺だった。

 

 

 

茶店で一休みした。

 

 

名物のシュウマイは、玉ねぎと片栗粉だけで作ったもの。

 

見学はこの程度にして、街角の歴史館に立ち寄り観光のまとめとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


岩槻を歩く

2020-12-12 11:29:37 | 関東の小都市歩き

12月11日(金)東武アーバンパークラインで岩槻に来ました。立派な駅舎の東口に出ました。

 

 

岩槻は今やさいたま市ですが、人形の街であることは変わりません。

 

 

2020.2.22には、人形をテーマにした日本初の公立博物館「さいたま市岩槻人形博物館」がオープンしています。

 

 

所蔵の人形は5000点以上だそうです。

日本文化に息づく人形の美と歴史が大観できる、グローバルな博物館と思いました。

コロナ禍が終息すれば、世界中から観光客が訪れることと思います。

 

岩槻は、かっては5万5千石の城下町。日光御成道(にっこうおなりどう)の宿場町としても栄え、日光東照宮造営に携わる匠たちが、この地に留まって人形作りをしたと言われます。

 

          (江戸時代の時の鐘も残る)

 

裏小路には、岩槻藩家臣・児玉南柯(こだまなんか)の私塾・のちに藩校「遷喬館」(せんきょうかん)が復元されています。江戸時代の藩校が現在も残っているのは、埼玉県では、この遷喬館のみといいます。

 

 

 

岩槻郷土資料館の建物は、昭和5年に建てられた岩槻警察署の庁舎です。

 

 

昭和57年5月1日開館で、「大昔の暮らし」「岩槻の歩み」「暮らしの道具」の三つの柱で構成された展示です。

 

この街は太田道灌のゆかりの地でもあります。

 

           (太田道灌の遺骨をおさめる芳林寺)

        (人形博物館にも狩の姿の太田道灌像がありました)

 


結城紀行 ④

2020-11-10 16:01:35 | 関東の小都市歩き

結城の埋蔵金

結城には埋蔵金が今も眠っているらしい。

大正6年(1918)結城藩主の子孫で水野直(なおし)という人が一年間も城跡の周りを掘りまくり、見物人目当ての屋台まで出たという。

八代将軍吉宗は、大岡越前守に命じて埋蔵金を探させたが、見つからなかった。

幕末には阿部正弘が結城市小塙で発掘を試みたが失敗。

この埋蔵金とはどのようなものか?

結城家の初代結城朝光という武将が、源頼朝の奥州征伐に従軍した際、褒美として入手した平泉の黄金ということだ。

  重さ8kgの金の延べ棒 5000本余り

  30㎏の砂金の樽 100個以上

時価1兆円という代物らしい。

埋蔵したのは、慶長19年(1614)81歳で亡くなった結城晴朝。

結城家に養子に入った家康の次男秀康は、すぐさま家老に命じて探させたが出てこない。(そのせいでもないだろうが)旧姓に戻って福井の殿様になってしまった。

結城市の金光寺は、金を埋蔵した結城晴朝の創建とされる寺であるが、その山門の柱に埋蔵場所のヒントとなる短歌が彫られている。

きの 荢 かふゆうもんに さくはなも みどりのこす 万代のたね

こふように ふれてからまる かきつばた つゆのなごりは すへの世までも

あやめさく 水にうつろうかきつばた いろはかわらぬ 花のさくまで

 

 

 

 

 


結城紀行 ③

2020-11-09 22:22:51 | 関東の小都市歩き

 

結城の町を歩きました。ほとんど人通りはありません。

 

        (市役所に一台の車が入っていったところです)

 

主な通りには、明治・大正期の商店が軒を連ね、その多くは、文化財の指定を受けていました。

 

 

結城と言えば紬。「結城蔵美観」に入りました。

 

 

絹糸から布地を織り着物を作ります。結城紬は歴史が古く、鹿児島県奄美大島の大島紬と並び称されました。それ以上の知識はないので、興味深く拝見しました。

私は昭和10年生まれという年寄りですが、子供時代からもう洋服の生活でした。着物の記憶はありません。もう、結城とか大島とかを着る時代ではなくなっていました。

でも、結城の町がこういう形で残っているのは、懐かしいような、うれしいような気がします。

 

 

こちらの商店でも展示がありました。

 

 

江戸時代中期のことですが、与謝蕪村がこの地に10年滞在したのは、町の持つ風格というか、それなりの魅力があったのだと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


結城紀行 ②

2020-11-08 21:03:20 | 関東の小都市歩き

昼食をとったフランチレストランから市街地の方に歩き出し、大輪寺の境内に入った。

 

 

真言宗豊山派の、由緒の深そうな寺だ。

 

                     (これが山門で仁王さんもいた)

                    (いくつもの堂宇があり、新しい仏像も作ってあった)

 

この寺を出て町の中心地に向かうと、つぎつぎに寺が現れた。その一つ、浄土宗の弘経寺に入る。

 

     (10年も結城に滞在した与謝蕪村の句碑・襖絵もあるとか)

       (墓地に入ったら苔むした墓石がずらりと並んでいた)

                (堂宇の一つ)

 

後で調べたところ、この寺は一度も火災にあったことがないとのこと。この古色蒼然としたたたずまいもうなづける。

結城市には59もの寺があり、そのどれもが風格があり、乱れがない。街の景観に収まっている。

「追記」

寒月や門無き寺の天高し

宿かせと刀投げ出す吹雪かな

斧入れて香におどろくや冬木立

などの句で知られる与謝蕪村は、寛保2年(1742)俳句の兄弟子、砂岡雁宕(がんとう)を慕って結城に来た。この弘経寺に寄寓し、その間宇都宮に行ったりしたが、この地に10年も滞在した。

句碑の「肌寒し己が毛を噛む木葉経」は、この寺に伝わる狸が木の葉に書いたといわれれる「木葉経」に題をとったものと思われる。(蕪村仮寓の寺と思うと一層この寺が床しく感じられる)

 

     

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 


結城紀行 ①

2020-11-07 14:03:02 | 関東の小都市歩き

結城に行ってみたいと思った。結城は下総の国の北の端。

私の住む柏市の享保10年の庚申塔には「下総国相馬郡塚崎村」とあり、紬で有名なあの結城が、同じ国であることに親近感を持ったからだ。

柏から常磐線で友部、水戸線で結城(千葉~茨城)というのが分かりやすいルートだが、東武線で埼玉県栗橋に出て、宇都宮線小山、水戸線結城、という(千葉~埼玉~栃木~茨城)ルートをとった。所要時間は同じくらい(2時間強)だ。

 

            (宇都宮線栗橋駅の長いホーム)

      (栃木県小山市 小山駅東口前 白鳳大学の雄姿)

    (水戸線結城駅は小山から二つめ。10分もかからない その北口)

 

駅前の案内図を頼りに見当をつけていた食事処の「カフェ・ラ・ファミーユ」(だったかな)というフランス料理の店を探した。

人に聞こうとしても誰も歩いていない。

けれども何とかたどり着いた。

 

 

見た目より美味しかった。値段も手ごろ。

 

 

粗末な建物だが、雰囲気はあった。なかなかの繁盛店らしい。

でもこれは、結城の歴史にはない。

非結城的なところで昼食をとって、結城の本質に迫ろうと思うのだ。

 


浦和(さいたま市)を歩く

2019-11-06 13:20:39 | 関東の小都市歩き

         (南区役所のコンコースからの風景)

 

初めて武蔵野線「武蔵浦和駅」に降りて、方向感覚が狂った。調(つきのみや)神社に行くのだが、地図を持っているのに、自分の位置すら分からなくなったのだ。聞くしかないと思って、まず自転車で信号を待っていた高校生に聞いた。彼は熱心に教えてくれ、曲がり角に来た時、忽然と現れ、ここを左折するのだと教えてくれるほど親切だったが、私は彼の厚意に背き直進した。(ごめん。この時は自分の進む方向が分かり始めていたのだ)

次に、家の前を掃いていた年配の女性に聞いたら、神社は 100m ほど先だった。私は、この街がいい街だと思った。親切な人の住む街だ。

 

  (どれも、調「つきのみや」神社の写真・狛犬の代わりに兎が鎮座する・歴史のある神社)

 

神社の近くに住む方の短歌がある。

          調神社向かいの魚寅の葉桜の頃に店を閉じたり

          切干や高野豆腐や芋がらは二人の夕食にほどよくお菜

          跡をつぐものなき夫婦の小商ひ七十代の余力あるうちにと

 

 

朝日新聞「ひととき」欄に載った「魚寅」の女将さんの投書にこの短歌があった。この店のお得意さんがこの句の入選を知らせてくれたという。店を閉めて、テレビで 80 歳を過ぎて生き生きと働く人を見てなんだか悪いことをしたような気持になっていたが、この短歌を見て心が軽くなった。と書いてあった。

 

私は、この神社(律令制の時代、関東一帯の「調」がこの地にあった倉庫に集められ、京に運ばれたとか。東山道から東海道へとルートが変更され、集散地としての役割を終え神社になったとのこと)の広い境内を見て回り、近くの、埼玉県庁に行った。

 

                (県庁前の花時計)

 

県庁の食堂のある第二庁舎を探していたら、若い職員が声をかけてくれ、親切に教えてくれた。

食堂は、おいしそうで、リーズナブルだったが、大通りに面した店でもなく、浦和駅隣接の伊勢丹 7 階の和食の店”いっさい”にした。

 

        (食指が動いたが立ち寄らなかった県庁通りの店)

     (浦和伊勢丹 7 階”いっさい”窓際の席よりの展望、スカイツリーが見えた)

       (海鮮丼・信州そばのセット 1255 円・Isetan いっさい)

 

遅い昼食の後は、電車で帰るだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


川越 喜多院あたり

2019-10-03 21:43:29 | 関東の小都市歩き

10 月 3 日(木)池袋から東武東上線で川越市駅に来ました。柏からは約 2 時間です。

 

 

ここから 20 分強歩いて喜多院に来ました。境内は閑散としていました。

 

 

今日の目的は、近くにある川越歴史博物館です。

 

 

狭いビルで、入り口の宣伝文句がごてごてしていますが、入ってみるとなかなかのものでした。

 

          (いきなり美しいランプを目にしました)

     (館長の西山浩市氏が手にする火縄銃・火蓋を実際に目にしました)

      (家康が関東に入る前は、川越太郎と言う人が支配していたらしい)

           (戦国時代の羅漢像・目つきが険しい)

            (江戸時代の羅漢の表情は穏やか)

             (全体が瀬戸物だそうである)

 

このように、展示品を紹介していくときりがない。実際に見て、それぞれに納得していただくに越したことはない。

ということで、博物館を出て成田山川越別院を見た。

 

 

 

私は、無宗教人だが、こういう雰囲気は嫌いではない。

そこで、ふと見つけた 手打ちそばの「十限無」という店に入り、ランチメニューの「海老天丼セット」を取った。

 

 

これで、1500円だ。

TEL/FAX  049 ー 277 ー 5752 水曜定休

店を出たら、丁度タクシーでのりつけた母子とみられる女性が店に入っていった。きっと、ランチにきたのでしょう。それぐらいの価値はあると思った。