今日で 2 月も終わりだ!
新聞を取りに出て、ふと隣の庭のトサミズキが芽吹いているのに気づいた。
枯れ枝のキャンバスの上に薄緑が描かれたようだ。
我が家の、一本しかない梅の木にも蕾がつき始めた。
沈丁花も咲いている。
(蕾を切り花にして家の中に入れておいたら早く開花した)
(山茶花も切り取って花瓶に入れた)
(左は花瓶で花開いたオトメツバキ)
桜の出番まではまだ間がありそうです。
今日で 2 月も終わりだ!
新聞を取りに出て、ふと隣の庭のトサミズキが芽吹いているのに気づいた。
枯れ枝のキャンバスの上に薄緑が描かれたようだ。
我が家の、一本しかない梅の木にも蕾がつき始めた。
沈丁花も咲いている。
(蕾を切り花にして家の中に入れておいたら早く開花した)
(山茶花も切り取って花瓶に入れた)
(左は花瓶で花開いたオトメツバキ)
桜の出番まではまだ間がありそうです。
愛知県(尾張・三河)に伝わる桃の節句のお供え菓子’おこしもん”だ。
名古屋市に住む Y 子さんが作って送ってくださった。
三河で育った私たち夫婦にとっては、思い出いっぱいの懐かしい”おこしもん”だ。
熱湯で練った米の粉を木型に詰めて起こすことから”起こしもの”なのだろうが、私達は”おこしもん”と言っていた。
「何かうまいもん食いにいかまい」というように、「物」は「もん」と発音した。
頭が大きくちょんまげの男性は”福助”と呼ばれる幸福招来の縁起人形だ。
Y 子さんは、「この耳をかじるのが好き」と言っておられた。
この”おこしもん”が無色だったらつまらない。
着色は、現在では市販の食紅を使うが、私の母が作っていたころは黄色はクチナシを使った。クチナシの生け垣に実を取りに行かされた覚えがある。
緑や赤はほうれん草とかトマトだったか?
ヒノキの木型から起こすとき、 Y 子さんはガーゼを木型に敷くといいと言っておられた。
15 分ぐらい蒸し器で蒸しあげた”おこしもん”
焦げ目ができるほど焼いて醬油をつけて食べる。
子どものころの味は懐かしく、幸せな気分になります。
東京メトロ日比谷線「人形町駅」から歩き始め、水天宮を見て隅田川に向かった。
(安産の神様で有名な水天宮は 2 階にある)
(境内の犬の像は撫でられたところが光っている)
新大橋通りを隅田川に向かって歩く。
(人形町 2 丁目の遊歩道)
(清洲橋通りに最近できた高層ビル)
(歩道わきに中央区が建てた道標)
(川向うは江東区なのでそちらの案内はない)
(新大橋を渡る)
(流れる川は隅田川)
(現在の新大橋は 1977 に建てられた)
(北千住の大橋、両国橋に次ぐ隅田川 3 番目 1694 元禄 7 年が最初の建立だ)
この頃深川の芭蕉庵に住んだ松尾芭蕉の新大橋を詠んだ句がある。
ありがたやいただいて踏む橋の霜 芭蕉
(新大橋東詰にある江東区立芭蕉記念館の展示にある芭蕉と曽良)
新大橋は、江戸時代 20 回以上災害に合い、流失や焼失の憂き目にあい、幕府は地域持ちを言い渡したそうで、その維持管理には苦労があったらしい。
鉄橋になったのは、明治 45 年。
(今も残る花崗岩の橋柱)
(後に解体された寛永の巨艦安宅丸を係留した御船蔵があった)
この新大橋を少し下ったところに小名木川(江戸になって真っ先に開削された運河・当時の海岸沿いに浦安に通ずる塩の海路)の河口があり、そこにかかる萬年橋がある。
ここから小名木川を下っての船番所のあった番所橋まで行くのは次の課題として、今回の散策はここまでとした。
道路わきの看板で気になっていた白井市の「そろばん博物館」を訪ねた。
(千葉県白井市復 1459ー12 )
国道 16 号を柏市から白井市に入ってまもなく、白井交差点で木下街道(県道 59 号)を左に入ってすぐ(右側)だ。
やはり、そろばんの勢ぞろいがまず目についた。
明時代の中国からから伝わって 460 年の歴史をもつ日本のそろばんの産地別、時代別、材質別の展示など分かりやすかった。
江戸時代の商家などにある「そろばん棚」や、時計などの「そろばんグッズ」の存在も面白かった。
(そろばん棚・番頭さんたちが使うそろばんを保管する棚や箪笥)
このほか、「中国八卦そろばん」「ロシアそろばん」「ハンガリーそろばん」「ポーランドそろばん」などの世界のそろばん、屋外にあるそろばん金次郎など豊富な展示品が所狭しと並んでいる。
設立の詳細は、展示の新聞記事からくわしく知ることができた。
記事によると、 2011.5.22 開館で館長の石戸謙一氏は、財団法人全国珠算連盟の理事長。
コレクションは石戸氏だが博物館は珠算連盟の設立ということらしい。
いずれにせよ、現在も発展中の珠算教育のメッカとしてのこの博物館の存在は、白井市、ひいては千葉県の誇りでもあると感じた。
<利用案内>
*開館時間 10 ; 00 ~ 16 ; 00
*休館日 原則として月曜日、火曜日 月・火が休日の場合は開館
(年末年始・夏季の休館についてはHPをご確認ください)
*入館料 大人 300 円 学生 200 円 幼児無料
<交通案内>
*北総鉄道白井駅より徒歩 15 分
北千住の旧宿場町通りの和菓子屋さんで水前寺清子さんの色紙を見つけた。
(十年以上前映画のロケで休憩所に使われたそうだ。とても気さくな方とのこと)
近くの荒川土手で行われた「金八先生」の撮影時は武田鉄矢氏が常連だったそうです。
日本を代表するバンドネオン奏者、小松亮太氏は、出生地がご近所というご縁だそうです。
いろいろな方のスケッチが大事に飾ってある。
4 人掛けのテーブルが 3 つあるだけの温かみのあるおいしい店だ。
さて、人形町一丁目にあるこちらの「中山」は、”孤独のグルメ”で名を売った聖地ともいうべき店。
私がお邪魔した31. 2. 19 は、午前 11 ; 15 オープンと同時にカウンター席は客で埋まった。
いつもはすぐ食べ始めるのだが、今回は松重豊氏を真似て「いただきます」と挨拶をして箸をとった。
( 2 . 16 柏市大津ヶ丘団地より眺めた大津川の田園風景)
(大津ヶ丘団地内の道路にて)
立春は過ぎたがまだ冬景色。
木の芽も膨らみ始めたばかりだ。
(大津ヶ丘中央公園の山桜)
(ハクモクレンの芽)
この時期頑張って咲いているのはスイセンだ。
丈が低いので大きな風景の中では目立たないが、気を付けて見るとあちこちに咲いている。
けなげなものだ。水仙・・・水仙時清子、いや水前寺清子だ!
(^^♪ 幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね・・・・( 365 歩のマーチ)
年末から咲き続けている山茶花はそろそろ終わりで、代りに椿の登場だ。
(我が家の山茶花 ここ 3 か月間、咲いては散り、散っては咲いてきた)
(まだまだ咲き続ける気配だが、そろそろ椿と交代の時期だ)
(我が家に一本だけある乙女椿の蕾)
(先陣をきって咲いた一輪は花瓶に挿した)
山茶花で連想するのは「山茶花究」( 3 × 3 = 9 )という俳優。
椿では「椿三十郎」。これは、俳優ではなく映画の題名。
黒澤明の代表的な映画に「用心棒」があるが、ここで山茶花究は「丑寅」という親分を演じた。
椿三十郎は、用心棒の続編のようで、どちらも主演は三船敏郎、半世紀ほど昔の映画だが、私には忘れられない。
公開が待ち遠しく、見終わってしばらくは“感激冷めやらぬ“という有様だった。
(柏市大津ヶ丘中央公園のヤブツバキ)
(2月10日の手賀沼公園この日は晴れだがきのうの雪が残っている)
(手賀沼遊歩道にある文学広場の石碑の一つ)
手賀沼公園の「文学の広場」にあった志賀直哉の碑にも雪が残っていた。
志賀直哉が我孫子市に住んだのは大正のはじめ(大4 ~ 大12 )で、大正九年に発表された「雪の日」はこんな書き出しだ。
「二月八日 昼ごろからサラサラと粉雪が降って来た。
前から我孫子の雪が見たいと云っていたK君が泊りに来ている時で丁度よかった。
自分には雪だと妙に家にじっとしていられない癖があった。それで女中の行く筈だった町の使を引きうけてK君と一緒に家を出る。」
我孫子駅駅前の商店で色々と会話を交わし、買い物をした様子が書かれ、次のような描写に続く。
「柳の家に寄る。座敷でピアノの音がして、K子さんが東京から来たお弟子に歌を教えていた。柳は離れの書斎を石油ストォヴで温かくして勉強していた。
今日はリーチが来る筈だという。
間もなく稽古をすましたK子さんが入ってきた。そしてお弟子から貰ったものがあるからと晩飯を勧めた。
色々な荷物があるので自分だけとにかく一度帰って来る事にする。
雪は降って降っている。書斎から急な細い坂をおりて、田圃路に出る。沼の方は一帯に薄暮ではいたようになって、いつも見えている対岸が全く見えない。沼べりの枯蘆が穂に雪を頂いて、その薄墨の背景からクッキリと浮き出している。その蘆の間に、雪の積もった細長い沼船が乗り捨ててある。本統に絵のようだ。」
それから、バーナードリーチも加わって会話が続き、九時ごろ家を出る。
「帰る時物尺を雪に立てて見たら、七寸五分あった。」
大正 9 年 (1920) 2 月 8 日我孫子に降った雪は 23cmほど積もったことが分かる。
平成 31 年(2019)2 月 8 日~9 日我孫子に降った雪は路上をうっすらと覆った程度だった。
志賀直哉の旧邸に行ってみた。
ここには雪は残っていなかった。
説明板はとても分かりやすかった。
旧邸の前に白樺文学館があって、その音楽ホールに柳兼子さんのピアノで、森嶋謙一郎氏(我孫子在住の会社員で音楽家)がバッハを弾いておられた。次にショパンのノクターンを弾いて下さった。
このホールの地下に、柳兼子さんの音楽活動を鑑賞できる心地よい部屋が用意されている。
この文学館は小さいけれどとても充実している。
旧志賀邸の前の道(大正の頃は沼が足許まで来ていた)を西に 200mほど行ったところに煎餅屋があった。
大正時代は農家だったが、子孫の方が暖簾分けで戦後店を開いたそうだ。
久しぶりに「ハックルベリー」に行ったら、店主の奥山恵さんの第二歌集「窓辺のふくろう」があった。店に関するいろいろな事柄が詠まれている。
ブルーセージが秋をそよげりふるさとに小さな店を我は建てたり
裏の林で拾いて来たる枝ならべBOOKの文字を看板となす
三年かけて父の作りし木の書棚ここだけの空気占め店となる
店の名に「ハックルベリー」をもらいうけ若きベリーの樹を探したり
絵とことばたちのぼるゆえ幼子の両腕にしかと抱かれる絵本
選びし本の濃さを確かめつつ並べひとりこっそり齧る黒糖
待ちながら暮れてゆく店お話の中ならそろそろ子狐も来る
(手前の枯葉の木がベリーらしい)
本の題名にもなった「ふくろう」は、店主がかっているふくろうのフーちゃんは、アメリカオオコノハズク「木葉木菟」(このはずく)。この挿絵はそっくりらしい。
ひざの上に眠きふくろう撫でおれば背骨はかなく我がゆび震う
マウス一匹ひたひたと喰うふくろうのひゅうと鳴くゆえ泣きたくなりぬ
目の前でまさしく命喰う命 砂嚢より発光したるふくろう
喉の羽ふるわせて鳴くほーと鳴く遠きたましい呼んでいるらし
すいすいと道ゆくだれも窓辺より見下ろすふくろういるとは知らず
犬や鳥横切れば羽角とがらせて窓辺のふくろう一心に見る
ママが本選ぶあいだを抱きとりしみどりごの匂いしばらく胸に
「曲がって曲がってこの子お店に来ちゃいます」くつくつあるきはじめの男の子
歌集を出版された「ハックルベリー」店主の奥山恵さんは、馬場あき子氏主宰「歌林」同人歴20年を超す歌人。
ますますのご発展をお祈りします。
関東の三大不動は、成田山新勝寺、高幡山金剛寺までは不動だが、三番目となると、不動ヶ岡不動尊(加須 総願寺)・大山不動尊(飯能 金剛寺)・大相模不動尊と複数ある。その筆頭、総願寺の節分祭に行った。
(東武伊勢崎線加須駅前)
(市内を流れる会の川にかけられているのはみな年季の入った石橋)
(水門も石造りだ)
(寺に近づくと普段閑散とした門前が賑わっている)
(正午の第 1 回目の豆まき式がまもなく始まる)
(山門からお練りがあって、稚児行列に火消しの纏を持った人も)
(いよいよ豆まきだ)
(近くの野球名門校花咲徳栄野球部監督さんもいた)
(災厄をはらいたい人は誰でも年男になれ、その人たちが用意した菓子を撒くのだ)
(本堂の回廊を参詣者が取り巻いている)
(登場した赤鬼とその 25 kg の松明、その炎など撮れなくて残念)
380 年前から続く”鬼追い豆まき式”だそうで、人間の心のうちにある、自己中心的な怒り、欲望や執着、真理を知らない愚かな心を追い出し、厄災を払い新しい春を迎えるこの行事が、無事盛大に行われたのは結構なことであった。
松明の写真確か撮ったはずだがとよく探してみたら一枚あった。
万が一の事故に備えて消防署員らしき方が待機しているのも用意周到だ。
この寺の裏手に芭蕉の句碑があった。市の文化財となっていて、その説明版を読むと、芭蕉の没後 150 年追悼の句碑で、当時の地元俳人が建てたものらしい。
加須はうどんの町、昼食はうどんにしようと決めていた。
(街道沿いの「子亀」という店は行列だったので、向かい側の店に入った)
(「小亀」のガラス越しに順番を待つ人が見えた)
(大島庵のけんちんうどんともつ煮込み、ていねいなつくりで、おいしかった)
駅への商店街にこいのぼりを掲げた和菓子店を見つけた。
(江戸末期からの老舗らしいが、しっかり受け継がれている)