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雨曇子日記

エイティライフの数々です

試して合点

2015-09-13 20:42:58 | エッセー

NHK の長寿番組「ためして合点」 9 月  2 日放送の「家族が涙!トイレ問題大解決」のトイレ問題とは、要するに、男性小用の際の飛沫問題であった。

男性が立って用を足す場合、便器前面の壁 12 cm にまで接近するのが best で、それでも完璧ではないそうだから、飛沫を皆無にするには座って用を足す以外にはないのである。

以前、筑波方面の公衆トイレでこんな注意書きを見た。

「東に西に飛ばすなよ南の人が北ながる」

男性は面白がって飛ばしているわけではない。結果として、飛沫が飛び散ったのだ。

「だから、しょうがないだろう」と開き直っているわけではない。

「汚がる」人が家人で、清掃を自主的に担当してくれているのであれば、男性も座って小用を足さねばなるまい。

そんなことを決意させる番組であった。


いみじくも地震国

2015-09-12 22:10:32 | エッセー

 9 月 12 日(土)  5 時 54 分の地震で目覚めた。

かなり長時間ミシミシと揺れていたなでびっくりしたが“さほどのこともあるまい”と高を括って静観した。

まもなく揺れは収まり居間に降りて行ってTVをつけると、“震源は東京湾”と言っている。マグニチュード 5.3 の規模だそうだ。そして、私の住む千葉県北西部は、4 だ。

 

大正 12 年(1923 ) 9 月  1 日午前 11 時 58 分発生の関東地震は「相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード 7.9 」だった。(私の生まれる 12 年前)

 

私が体験した大地震は、昭和 19 年( 1944 ) 12 月と翌年の 1 月に起きた東海地方の大地震。

当時私は 9 歳、 12 月  7 日の場合は学校の教室にいた。授業中だったが、誰かが“地震だ!”と叫び、みんな我勝ちに教室を飛び出した。

背面黒板が落下するのを横目で見ながら、私もみんなの後を追った。

それでも、全員無事に校庭に避難し、校舎も倒壊はしなかった。

翌年 1 月 13 日未明のそれは、もっと揺れが大きく、わが家は私達家族が脱出するのを待って倒壊した。

 

そんな昔の出来事が突然思い出され、日本という国が、頻繁に揺れをくり返す危なっかしいプレートの上にある事を改めて思った。

 


鬼怒川の氾濫

2015-09-11 15:54:41 | エッセー

“鬼怒川”と恐ろしげな名を持つとはいえ、たかが利根川の一支流、恐れるに足らずと思っていたが、 2015. 9. 10 の氾濫は強烈だった。

「土手が崩れ、土が露出し大きな波しぶきが上がった。えぐられた堤防はみるみる壊れ、民家が徐々に傾いて 10 分ほどで波に呑まれた」

堤防決壊の瞬間を対岸で見ていた人の話が、新聞に載っていた。

 

被災現場を地図で探してみた。そこは、取手~下館間を走る関東鉄道常総線石下駅辺り。新聞に大きく写真が出た、海上のフェリーボートのような“スーパー・アピタ”は駅の近くだ。

このあたりを南北に走る国道 294 号線を通ったことがある。東に大きく筑波山、北に遠く日光連山を望み、見渡す限り田園風景で、中に JA の倉庫のように大きな建物が目立った。

そんな穀倉地帯が“線状降水帯”にやられた。海のようになってしまった。

被災地がいち早く復帰しますよう、そして皆さまのご健康、気力の回復をお祈りします!


2015 年 八月

2015-09-02 15:14:58 | エッセー

     

    ( 8 . 13 手賀沼の蓮)

 

9 月  2 日 朝のTVが言っていた。「 8 月、東京の熱帯夜は 13 回で、これは、50 年前の 4 倍強です」

ということは、50 年前 昭和 40 年では熱帯夜は 3 回だったということ。

(熱帯夜は夜間の最低気温が 25 度以上の夜)

ふと思いついて、日記帳の記録から 8 月の最高気温を昨年と比べてみた。

 

                         2014          2015

25(度)未満                  2 (日)         6 (日) 

25     以上(夏日)                             8                5

30   以上(真夏日)                         21              12   

35   以上(猛暑日)                            0               8

 

この簡単な比較から、2015 年 8 月をこう位置づけた。

「去年も今年も 8 月は暑かったが。猛暑日が多かった分今年の暑さはより強烈に感じられた」

来年が思いやられる。

 


役立った!ネットの「切り傷応急処置指南」

2015-04-19 13:43:38 | エッセー

私がいつも行く理髪店の主人が言った。

「この間 3 時間ぐらい落ち込んじゃいましたよ」

「へーえ、何かあったの?」

「指を鋏で切っちゃったんですよ。骨が見えるほど深く」

「一体どうして?」

「お客さんが急に頭を動かしたんで・・・」

「へーえ、災難だったね。何針か縫ったの?」

「そんなことしたら、しばらく営業できなくなっちゃうでしょう。自分で処置しましたよ」

 

          

                

 

主人の話によると、まずしたことは、ネットで「手当の方法」を探し、札幌 森の宮東鳳院の処置法に従って止血。

その方法とは、手を頭上に挙げ指をかすかに振動させるのだそうだ。

傷がかなり深かったので、3 時間ぐらい閉店にし、完全に止血したことを確かめて再び開店したそうな。

話を聞いて私もこの情報を調べてみたが実に分かり易く指南していることに感心した。

 

でも、私だったら手を切ればうろたえるばかりで、理髪店スマイルの主人のようにはとうてい行動できなかっただろう。

落ち込んでも 3 時間で立ち直ったのは実にエライ!。

 

 


東京駅の過密

2015-03-25 22:09:03 | エッセー

3 月 25 日(水)半年ぶりに東京駅に来た。11 時ごろだったが、駅の混雑ぶりに驚いた。コンコースや駅ナカの店は人でいっぱいだ。

春休みではあっても平日、例年に比べ明らかに多い。

その理由の一つに思いあたった。北陸新幹線の開通だ。

関東に住む私たちは「金沢が近くなった」など、北陸地方に行くことばかりを考えるが、北陸地方の人々は、東京へ行くことを考える筈だ。新幹線一本で行ける東京の近さに惹かれるだろう。

始発駅であると共に到着駅である東京、人はどんどん集まってくるのだ。経済効果云々がよく話題になるが、その恩恵を最も受けるのは他ならぬ東京ではないのか。

 

東京駅では、だいたい“丸の内”側に出る私だが、今回は“八重洲口”側に出た。駅舎や、周りのビルは輝くばかりに美しく、決して丸の内側に負けない改装ぶりに驚いた。

樹高が15m にもなるトネリコが大きな木製の植木鉢に入って並びコンクリートの広場に林を作っている。過密の人々はこれで癒されることだろう。

 


ひいきの宿  12

2015-03-22 19:39:28 | エッセー

3 月 22 日(日)駅にJR東日本の旅パンフ“金沢日和”が置いてある。

「ついに開業!北陸新幹線最速達列車2 時間 28 分 東京~金沢」などの大きな活字が躍っている。

“兼六園”“ひがし茶屋街”“金沢二十一世紀美術館”など、魅力いっぱいの金沢だ。

週刊朝日が 32 年まえに連載した「ひいきの宿」には、金沢の宿のこんなエッセーがあった。

 

      自分を取り戻す宿                    中村 メイコ(女優)

二歳半から女優稼業の人生。それだけ旅に出ることも、普通の女性よりは多くなるかもしれない。そんな中でここ十年来、もっぱら私の足の向くのは、金沢のニューグランドホテルである。

幼い頃から、人前で仕事をしている私は、宿に入るとかたつむりのように、ともかく、自分の囲いの中に入ってしまいたい、逃げてしまいたい。そんな習性がついてしまったようだ。そういう意味で、私の「くつろげる宿」の条件は、まず、ホテル形式であること。つまり、サービスという名のおしつけがましさであれこれおもてなししていただくことは、なんとなく好きではない。

ニューグランドホテルのフロントには、なじみの宿のお帳場のような雰囲気がある。皆、きちっと行き届いたサービスの中に、国際ホテルなみのエチケットと静かさが保たれている。

最上階の小さなバーは、古都、金沢の夕景とあいまって、まるで船のキャビンでお酒を飲むような贅沢さである。けっしてゴージャス過ぎるでもなく、また、ビジネス風でもなく・・・・・・。それは、やはり社長自ら陣頭指揮をとる、こまやかな心遣いがそうさせているのだろうか。

 

古都・金沢の街にしっくり溶け込んだホテル。

館内の基調色、ブラウンとグリーンが落ち着いた雰囲気を感じさせる。

食文化の発達した土地柄を反映して、ホテル内の各レストランは充実しており、

加賀料理からフランス料理まで、さまざまな味を提供している。

●住所  金沢市高岡町 1 番 50 号

●電話  0762-33-1311

●あし  金沢駅より車で 5 分

●料金  7000円から


ひいきの宿   11

2015-03-18 19:00:57 | エッセー

北陸新幹線が開通し東京から金沢まで“かがやき”に乗って 2 時間 28 分というのはやはり魅力だ。金沢へ金沢へと人がなびくのも無理はない。

その金沢で、“つば甚”と言えば一流の料理店だが、以前は旅館でもあった筈。

週刊朝日が昭和 58 年に始めた“ひいきの宿”にあった筈と探してみたらはたしてあった。

 

          ゆかしい町・優雅な宿                     観世 栄夫(能・観世流)

金沢は僕の大好きな町である。犀川と浅野川の二つの流れをはさんだ三つ岡を中心にこののどかな町並みがある。戦災を受けなかったこの町は、百万石の城下町の美しさ、ゆかしさをそこなわずに今に伝えている。黒い瓦屋根の間に、年を重ねた樹木がこの町の美しいたたずまいをひときわ引き立てている。

「つば甚」は、犀川を眼下にのぞむ崖の上にある。もとは、前田家の刀の鍔を造る家だったという。先祖が、料理に長けていてこのような仕事を始められたと聞いたが、家のすみずみまで心が行き届いていて気持ちがいい。

僕は、スリッパで、日本の家の中を歩くのはどうも好まない。スリッパをはかなくとも足袋がよごれないほど、家の中も、町の空気も、清浄に保たれているという自信の故か、この家にはスリッパというものがなく、これが、まことにすがすがしい。

奥の座敷から犀川越しに眺める金沢はいつ見ても美しい。春は、緑に映える町並みに川水が静かに流れ、冬は、一面の白い雪景色の、冷たそうな川中に、あでやかな加賀友禅をさらすのが夢の中の風景のように美しかった。もとより料理は、海も山もそれぞれおいしいものにことかかず、おいしい地酒で飲む楽しみは、何物にもまさる思いである。

 

前田家のお抱え鍔師だった 3 代目鍔屋甚兵衛が、宝暦 2 年に小亭を営んだのが

「つば甚」の始まりとか。現在の亭主は 16 代目。廊下も客室もたっぷりと広く、

さらに銀箔の天井や桐の欄間、南天の床柱、螺鈿の取っ手など、老舗のぜいたくと

風格を味わわせてくれる。

●住所  金沢市寺町5-1-8

●電話  0762-41-2181

●交通  金沢駅から車で 10 分

●料金  ( 1 泊 2 食付) 35,000円~

      料理 15,000~25,000円

      昼食 10,000円~

●客室  12 室

 


ひいきの宿   10

2015-03-17 19:13:25 | エッセー

週刊朝日が昭和58年ごろ連載した、103人の著名人の「ひいきの宿」の紹介である。この連載 44 回めは「白雲楼ホテル」で、昭和 7 年( 1932 )桜井兵五郎により開業した豪華ホテル。

かっては東洋一と言われ、戦後はGHQに保養施設として接収された。

昭和天皇・皇后が食事をとられたこともある、格式のあるホテルであったが、平成 11 年倒産。平成 18 年( 2006 )には解体された。

 

   加賀百万石の歴史を偲ぶ             永井 道雄(朝日新聞客員論説委員)

国鉄の金沢駅から東南をさして、朝野川の渓流にそって、車でほぼ三十分ゆくと、湯湧(ゆわく)に到着する。この言葉の通り、いまから千二百余年前、一羽の白鷺が傷を癒していたことから、ここに鉱泉があることが発見された。

深山幽谷といってもよい緑のなかに、六十六万平方mにおよぶ敷地をゆったり使った白雲楼ホテルがある。戦前から有名であったが、戦後はしばらく、米軍第八軍のリゾートホテルとして使われた。いまは、むろん、広く多くの旅客に親しまれている。

純日本風書院造りの第一新館、洋式をとりいれた第二新館をふくんだ落ち着きのある美しいホテルであるが、このホテルが面白いのは、プールやハイキングコースという当世風のもののほかに、歴史博物館ともいうべき壇風苑と江戸村を周辺に配していることである。

壇風苑には、加賀百万石の伝統工芸に関する製作用具七千余点があり、他方、江戸村には、江戸時代の加賀藩の多くの建物が、そのまま保存されている。名古屋の明治村は広く知られているが、江戸村は、まだ、それほどではない。私事にわたるが、私自身の祖先の下級武士の小さな家も、ここにある。

山中の温泉に憩いをえて、江戸時代の文化を知ることができる格好の場である。

 

金沢市の郊外に、緑に囲まれて建つクラシックなホテル。

外観や中庭は南欧風だが、客室は純和風が多く、

それぞれが無理なくマッチしている。

変わった趣向の夕立風呂やすきや風呂は、

宿泊客でも予約が必要なほど人気が高い。

歩いて5 分ほどで、加賀藩ゆかりの建造物を集めた「江戸村」に行ける。

●住所  石川県金沢市湯湧町へ-25

●電話  0762-35-1111

●交通  国鉄金沢駅から車で30分

●料金  18,000( 1 泊 2 食付)~

●客室  90室

 


5 年目の 3 月 11 日

2015-03-11 19:52:54 | エッセー

2011 年の 3 月 10 日、私は N さん K さんと水戸の偕楽園にいた。翌日があの大震災。偕楽園までは津波は来ないが、常磐線は止まってしまったから、多分その日は帰れなかっただろう。

個人的にはその思い出だけで、今日まで安穏と過ごしている。

今日の新聞を見ると、いまだに 23 万弱の人が避難生活を強いられ、行方不明の方が 2584 人ということだ。死者は 15,891 人、関連死者は、 3194 人。関連死者とは、震災後の体調悪化や自殺だそうで、とても痛ましい。

福島県内の原発事故による帰還困難区域の皆様は帰還のメドがたたないところがお気の毒だ。

仙台市の句誌「澪」 3 月号にあった一句。

   線量や 人住まぬ里 春遠し    佐々木志遙

家族そろって庭の桜を笑顔で見られる日が早く来ますように!