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雨曇子日記

エイティライフの数々です

ひいきの宿   9

2015-03-10 19:25:42 | エッセー

週刊朝日が昭和 58 年ごろ「ひいきの宿」という連載を始めた。それは、当時各界で活躍されている方々に「ひいきの宿」のエッセーを書いてもらい、、写真家が撮った数枚の写真をつけて 1 ページをつくるという体裁になっていた。

この連載は 103 回つづき、私はそれを全部買ってスクラップしておいた。しばらく忘れていたが、すこしずつここに up することにした。

今回は、連載第 1 回の「松乃茶屋(箱根)」である。なおここは、現在登録有形文化財となって、公益財団法人三井文庫が管理し、公開はされていない。

 

     豊かなひととき                    栗田 勇(作家・評論家)

日本には、ホテルとちがって「宿」という長い伝統に生きているものがある。どんな地方へ行っても、それぞれに、幾代にもわたる物語(ロマン)に触れることができる。旅の宿りは昔から人生の大事として詩歌にも唱(うた)われてきた。

近頃はそんな出逢いもきわめて稀になったが、時に人知れず、そんな出逢いを大切に持ちつづけている宿もある。箱根湯本の「松乃茶屋」さんがそうだ。 3500 坪の敷地に、ひっそりと数寄屋造りの棟が 2 つ 3 つ。深山幽谷に身をひそめる思いがする。

しかも、三井家ゆかりの名品を中心に、主人の三井姿子(しなこ)さんが、ひとつひとつ厳しくえらんだ逸品が、こともなげに膳にならべられる。永楽和金、得金や、沈寿官の箱形鉢、魯山人の器、床には、沢庵の書、安田(ユキ)彦、小林古径の小幅などがさりげなくかざられる。

お料理は、河岸に頼ることなく、長年出入りの筋から仕入れ、客の意向を察してととのえられる。最近、ふやけたような料理ばかり多いなかで、きっちりと、、筋目のたった料理人の心意気が伝わってくる。

だが、やはり宿は雰囲気である。わが家のように暖かくゆきとどいていて、それでいて「旅心」という、研ぎ冴まされた感性に忘れられないすがすがしい思い出を刻んでほしい。

たんに一夜の泊まりでなく、人生の豊かなひとときを味わうことができるのが、三井姿子さんの「松乃茶屋」なのである。

 

宿泊は最高でも 15 人。

住所●神奈川県足柄下郡箱根町湯本518

室数●7 室

料金●27,000円


ひいきの宿  8

2015-02-17 14:07:25 | エッセー

作家アラン・ブースは、 1946 年ロンドンの下町生まれの英国人で、1970 年来日以後ほとんど日本で活動。

1977.6.29 から 同年 11.3 まで北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬までを徒歩で縦断した。

1988 東京書籍から「ニッポン縦断日記」を発行。goo の blog 「一日の王」さんはこれに魅せられ人生を変えた。

なおアランさんは 1993.1 癌のため46歳で亡くなられたそうである。(全て「一日の王」さんからの引用)

 

昭和 58 年ごろの週刊朝日が 103 回連載した「ひいきの宿」 99 回は、アラン・ブースさんの「翠明荘(青森・弘前)」であった。

 

               北国の思い出                               アラン・ブース

ある年の十一月の初め、私は函館から東京に戻る途中、弘前に二日間ばかり立ち寄ったことがある。

汽車がホームに着くと駅員の「ヒロサキィー」「ヒロサキィー」と叫ぶ声が木造の屋根の下に響き渡った。空気が爽やかで、昔親しんだワインの味のように、ほのかに懐かしい思いがしたのを覚えている。弘前城では散り遅れた花びらが菊人形の上に舞いおり、七五三の装いをした子供達が天守閣に映えて美しかった。そして、人なつっこい笑顔。私はこの町がすっかり気に入ってしまった。城下町弘前には私に「外人」を感じさせない自由で解放的な雰囲気があったのだ。

それからしばらくして、私は巫女(いたこ)と話をするために恐山祭に行った。私の相手の巫女は目が見えなかったが、私が話し出す前に私の手を取って「外人さんですね」と言う。

「はい、でも日本語は話せます」

と答えると彼女は言ったのだった。

「そうでしょうとも。あなたは必ずしも外人とは言えませんから。三百年前、あなたは北国のここ、弘前で生まれたのです・・・・・・」

なんとよくできた話であろうか。現実にはこのように完璧な結末というものはないものだ。でもこのような話がどれほど旅の思い出を豊かにし、人生を楽しくしてくれることか。私はいっそう弘前が好きになった。(作家)

翠明荘(青森・弘前)

{囲み記事}豪農の別邸として昭和10 年に建てられた仕舞屋風の宿。千本格子が美しい。各部屋は黒檀、紫檀、杉、桐などがふんだんに使われていて贅をこらした当時の生活ぶりが偲ばれる。「心おきなくサービスしたいから」と予約客以外は取らない。弘前城まで徒歩1~2 分なので観光の足場としても便利。

●住所  青森県弘前市元寺町

●電話   0172-32-8281

●交通  国鉄弘前駅より車で7 分

●料金  8.000円~16.000円

●客室  和室16 室、 洋室 2 室 (要予約)

写真① 9 × 16   大広間。富士山の彫刻の欄間が目をひく

写真② 3.7×5.8  磨き抜かれた欅の上がり框

写真③ 3.7×5.8 女将さんに会いたくて来る客も多い

写真④ 5.1×7.8 時には女将自ら台所に立つ。「おふくろの味」のする料理 

 

 


ひいきの宿  7  

2015-02-06 19:05:07 | エッセー

昭和 58 年頃の週刊朝日連載記事「ひいきの宿」から抜け出せなくなってしまいました。今回は 84 番目の連載、アン・ヘリングさんの「ホテル音羽屋」(米沢)です。

江戸~現代の児童文学研究家、法政大学教授であったヘリングさんについては、ネット上に遠藤寛子さん(児童文学者)の「えにし」という一文を発見し、どんな方かぼんやりと理解しました。

 

          明治文学ゆかりの宿               アン・ヘリング

「東北、すなわち片田舎」と、気候的にもっと恵まれた地方の人々は、なぜか思いがちである。しかし、東北の古い城下町から生まれた「冬の花」とでもいえる学問や芸術が、全国の文化にまで深い影響をあたえることがたびたびあった。

例えば、米沢市はまさにそのよい例である。明治時代だけでも、新しい出版文化を創り上げた指導者には、なんと米沢人が二人もいた。その先輩格には、「風俗画報」で有名になったかの東陽堂を創立した吾妻健三郎がいた。その吾妻氏が故郷米沢から東京の文壇に引っぱってきたのが、大橋音羽としてその名を残した渡部又太郎である。彼の雅号は実家にあたる旅館「音羽屋」に由来している。

その音羽屋は、今は本家・分家の二軒となって、きわめて健在である。かっての中心地、立町にあるのが音羽の実家である本家。

そして、一般の旅行者によく知られているのはその分家で、米沢駅前の「ホテル音羽屋」である。通人好みの和風の旧館と、こざっぱりした洋風の明るい新館とが、仲よくならんでいる。ここにもやはり、大橋音羽、勝海舟など、明治期の文化人ゆかりの資料がたくさん残されていて、泊り客を喜ばせてくれる。

近くには江戸後期から残る上杉文庫もあり、東北の一城下町で、なぜこのような文化が生まれたかを教えてくれる。紙魚(しみ)族にとって米沢は、決してただの田舎町ではない。(児童文学研究家)

 

掲載されている写真10.3×16.2 螺鈿の床の間や広重の本物の東海道五十三次の六双屏風のある「菊の間」

2.9×1.9大橋音羽の代表的な作品「歐山米水」  2.8×4.2家宝といえる堆朱の膳と椀。30人前そろっている。

4.0×6.0 2枚 「二代目が昭和12年に建てた本館。軒先や飾り窓などは銅板で覆ってある」「名物米沢牛のすきやき」

「編集部がつけ加えた昭和58年ごろのホテル音羽屋」

上杉家ゆかりの城下町米沢。その駅前で駅の開業より 2 年早い、明治 30 年から営んでいる。木造 3 階建ての本館には、堆朱や螺鈿をぜいたくに使った調度品や勝海舟直筆の額など、重要美術品や骨董品が多い。2 年ほど前にオープンしたビジネスホテル形式の新館とは廊下でいききできる。

●住所 山形県米沢市駅前 2 丁目1-40

●電話 0238-22-0124

●交通 奥羽線米沢駅から徒歩 1 分

●料金 ホテル  5.500~6.990円

     和 室  8.500~13.000円

          (1 泊 2 食付き)

●客室 シングル 31 室, ツイン2室, 和室 6 室 

 

 

 

 


ひいきの宿  6

2015-02-05 16:34:32 | エッセー

昭和58年( 1983 )ごろの週刊朝日が連載していた「ひいきの宿」、ご丁寧にそのぺーじだけを切り取って全103 宿のコレクションを持っているのですが、取り出して読み返してみると、なかなか面白いのです。ここで紹介し始めたら止まらなくなってしまいました。

ということで、今回は、 85 番目に載った「松前旅館(奈良)」です。

 

          「新婚ごっこ」の宿               笑福亭 鶴瓶

年 2 回、夏と冬にそれぞれ 1 週間ずつ仕事を休んで、家族旅行をするが、これは海外へ出かけることにしている。また、仕事の関係であちこちおもしろい所へ出かけることも多いが、ぼくの「思い出の宿」といったら、奈良の松前旅館につきる。

この旅館に初めて泊まったのは、僕も女房も 19 のときで、実は、親に内緒の婚前旅行の宿だったのだ。つきあって半年、結婚の約束はしていたものの、まだ手も握ったことのない二人が、「新婚ごっこ」をしに、京都も大阪も人目につくからと奈良へ出かけた。結局は、いつもに増して饒舌になっただけで、おまけに二人の間に衝立を立てて眠るという奇妙な結果に終わってしまったのであった。

結婚して 2 年目ぐらいに再びこの宿を訪れた。猿沢の池から春日神社と、今回は余裕をもって散歩し、「あの、目的を果たせなかった次の朝、真っ白に積もった雪がまぶしかったな」とロマンチックに思い出した。

あのころは木造で、古都奈良にぴったりだったこの宿も、最近改造したときく。寄る年波には勝てないのだろう。ぼくだって、小 4 と小 1 の二人の子供の親なんだから。いずれは、子供を連れてきて、あのときの二人の様子を話してやろうと思っている。   (落語家)

 

 

写真は、10.5×16.2 一枚(猿沢池から望む景観は、奈良そのもの) 3.6×6 が三枚(それぞれのキャプションは「真新しく清潔な部屋」「建物は新しくなっても、看板はそのままに」「天ぷらは、タマネギやサツマイモを使った素朴な味」)

宿についてのコメント

仲秋の名月と衣掛柳で知られる猿沢池近くにある宿。親子3 人で営み、旅館業は 25 年。今年 5 月に改装したばかりの宿にはまだ木の香が残る。奈良の名所めぐりには絶好の場所で、毎年修学旅行生の宿となる。外人客も多く、身振り手振りで悪戦苦闘の毎日だという。

●住所 奈良県奈良市東寺林町

●電話 0742-22-3686

●交通 近鉄奈良駅から徒歩 7 分

●料金 3、500円~(素泊まり)

     7、000円(1泊2食付)

●客室 14室

注:昭和58年頃の設定です

 


ひいきの宿  5

2015-02-04 14:28:39 | エッセー

平成 6 年( 1994 ) 64 歳で亡くなられた女優 京塚昌子さん( 1970 年代のTV界で「日本を代表するお母さん女優」として人気を博した)の「ひいきの宿」です。

昭和 58 年( 1983 )頃週刊朝日が連載した 91 回めの「ひいきの宿」は、開春楼(静岡・弁天島温泉)でした。

 

          甦る旅館の精神                    京塚 昌子

障子越しのやわらかい陽ざしに目を醒ますと、もうお昼に近い。たっぷりお湯をたたえた浴槽に体を沈めると、熟睡した後のけだるさに魂までとろけそう。旅の、それも気のおけない宿で味わう、至福の一瞬です。

仕事に追われて暮らしていると、お寝坊と朝風呂なんていうささやかなぜいたくもめったにできませんから、旅に出たときだけの私のぜいたくでもあります。機能本位のホテルもそれなりにいいこともありますが、くつろぐとなるとやはり和室がいちばんです。

開春楼の和室は、踏み込みから前室とゆとりのある造りですから、部屋に落ち着いた途端に心からくつろぐことができます。ロビーに「ユウ和」

という書があるように、ここのモットーは昔の「旅籠の精神」をよみがえらせることとか。すなわち、「ウカび」の旅ごころと和みのもてなしということですから、心身ともに解き放されるわけです。

創立者は、浜松肴町で割烹料理店「鯛めし楼」を開き、料理屋鑑札第壱号を受けた人というだけあって、食卓に並ぶ四季の味はまた格別です。浜名湖名物のうなぎはもとより、取れたてのお魚の活づくり、天ぷら、それにお鍋は、くいしんぼの私を有頂天にしてくれます。2 階にある「あさり茶屋」のあさりラーメンも私の好物のひとつです。

*文中「ユウ和」「ウカび」のかたかな部分は、「さんずい」に「遊」の旁部分の漢字が変換できなくてこのように表記しました。

*この文の後の囲み記事

  浜名湖に浮かぶ弁天島にある宿。明治23 年割烹料理屋として創業、昨年機能性を生かしたホテルに模様替えしたが、客室はほとんどが和室。年中穏やかな気候で、茫洋とした遠州灘を眼前にして心が和む。海の幸はもちろんのこと名物のウナギやすっぽん鍋を味わおうと会食だけに訪れる客も多い。

注:文中「昨年」とあるのは、多分、昭和58 年。

 


ひいきの宿   4

2015-02-02 20:17:48 | エッセー

昭和58年ごろの週刊朝日が 103 回にわたって連載した、有名人の「ひいきの宿」 98 回は、春風亭 柳昇師匠の「御宿さか屋」。以下全文を紹介したい。

          幸せの湯               春風亭 柳昇

「戦争前のかなり昔、私の師匠・先代柳橋が夫婦して旅行の折、三島駅でタクシーの運転手さんに、

“静かでよいところありませんか”

と尋ねたところ、連れて来られたのがこの“さか屋”であったとか。師匠夫妻はここが一度で気に入り、親戚同様のお交際(つきあい)になったそうである。初めて師匠夫妻に連れて来てもらったころは、木造2 階建ての本当に古ぼけた宿であった。

“お風呂は大風呂がいいわ、3 人で入りましょう”

おかみさんの提案で大風呂に入った。ほかに浴客がなく、たまらなくよい気分だった。

“柳昇さん、背中を流してあげるわ”

恐縮して辞退する私に、おかみさんは私の背中を流してくれた。師匠は湯ぶねの中で気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。おかみさんが流してくれる湯の音は高い天井に響いて山の湯の情緒はたまらない。

“数ある弟子のなかで、おかみさんに背中を流してもらえる者は私だけだ”

限りなく幸せを感じた。“さか屋”はいつまでも忘れない。」

柳昇師匠は 2003 年 83 歳で亡くなられた。芸風とかは Wikipedia に詳しい。


ひいきの宿 3

2015-01-31 17:28:42 | エッセー

昭和 58 年頃週刊朝日が連載した有名人の「ひいきの宿」である。103 人 103 宿の 6 番目に掲載された、塩月 弥栄子さん(茶道家)の「ニュー錦水国際ホテル」である。

          旅の宿               塩月 弥栄子

新幹線福山駅の改札口を出ると、心なしか塩の香りがする。「塩」と記すといかにも人工的だが、福山駅のそれは心底、口にふくんでしまいたくなる自然そのものなのだ。

福山駅から車で20分。鞆(とも)の浦に着く。瀬戸内のおだやかな海に、ポッカリと浮いているような小島が点々。そのひとつ。仙酔島が私の安らぎの島である。焼玉のエンジンがガンガン音をたてる小船に揺られて5分も乗れば、仙酔島の船着場。ピンと張りつめた三弦の糸のように、正確な間隔でヒタヒタと小波が打ち寄せる浜に立つと、いつしか、私は平安時代を遡り、遣唐使の訪れを待つ乙女の心境になる。これも旅情、シルバーエージのたわ言とお笑いなさらないで。

この仙酔島に縁あって、私の弟子にあたる女性が経営するホテルがある。ニュー錦水国際ホテルといい、見事な造りの茶室もある。

海の幸に恵まれた料理の巧みさ、おいしさは当然といってしまえばそれまでだが、錦水旅館の料理はやはり格別といえるだろう。瀬戸内海に浮かぶ小島、という舞台もさることながら、吟味された材料、ていねいなつくりはやはり心のこもったものだ。

食後、茶室にこもり、思いの流れそのままに一服を楽しむひと時は、これまた格別。

大海の波に漂うごとく、私の心は海へ、空へと溶けこんでゆく。

「現在のニュー錦水国際ホテルは?」と HP を開いてびっくり。(大発展おめでとうございます)


ひいきの宿  2

2015-01-30 13:40:51 | エッセー

昭和 58 年( 1983 )ごろの週刊朝日が連載した有名人の「ひいきの宿」です。連載は 103 回つづきました。

11 番目は、山田洋次監督の「油屋」(高梁市)です。

          つつましやかな品のよさ               山田 洋次

「四方を山で囲まれて、ひっそりと息づくように城下町の面影を残している備中高梁。

12 年前に滞在したことのあるこの町に、昨年秋“男はつらいよ”のロケーションで久々に訪れたら、町の面影がほとんど昔のままだったことにホッとした。もちろん、油屋の古風な建物もそのままだった。ただ、高梁川のせせらぎの聞こえる静かな場所だったのに、川べりにバイパス道路が出来てしまって、自動車の騒音が窓越しに聞こえるのが痛ましかったが。

この宿は料理が自慢で、端正な顔立ちの跡とり息子の包丁の腕はなかなかのものである。特に目の前を流れる高梁川で釣り上げた鮎の焼きたてを、おかみさんに、“さあ、熱いうちにどうぞ”とせきたてられながら、フウフウいってかぶりつくのがたまらない。このへんは松茸の名所でもあって、黄葉の色づくころに行けば松茸をふんだんに使った料理を出してくれる。品の良いおかみさんの采配の下で、ベテランの女中さんたちのチームワークも大変心地よい。

京都や金沢のようなところなら、金持ちや有名人だけが泊まるような贅沢な日本旅館がいろいろあるだろうが、誰でも気楽に泊まれて、しかも昔ながらの格調をきちんと守っている宿が、高梁のような小さな町にさりげなくあるということで、私はなんとなく救われるような気持ちになる。」

ここで、12 年前というのは、昭和46 年(1971 )の第8 作“男はつらいよ 寅次郎恋歌”です。妹さくらの旦那、博さんの実家が高梁にある設定です。

ちなみに、12 年後の第32 作は“男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎”、このときのマドンナは竹下景子(お寺の娘)です。

「油屋」を、高梁市の HP で調べたら現在も立派に営業されているようで安心しました。(生きているうちに訪ねねばとあせっています)

 

 


ひいきの宿

2015-01-29 15:49:09 | エッセー

私の「ひいきの宿」ではない。

30 年ほど前の週刊朝日に連載された有名人の「ひいきの宿」である。

この連載は 103 回で終了しているから 103 の宿が紹介されたわけだ。

当時 50 近かった私はこの記事が楽しみで、いつかこのうちの一つにでも行ってみたいと思っていた。

その 57 番目の連載は、佐々木久子さん(雑誌「酒」編集長)の推す「田事」(たごと・会津若松)だった。

          囲炉裏を囲んで酒宴を結ぶ          佐々木 久子

「一年のうち 200 回くらいを旅で暮らす私は、自分の家以上に、旅先ではくつろぎたいと願う。高度経済成長を遂げた日本は、日本旅館よりもホテルがいいとばかりに、猫も杓子も、木組みのしっかりした江戸時代から明治初期の素晴らしい建築物をこわして、正体不明の旅テルを氾濫させた。

そんな中で畳や障子はむろんのこと囲炉裏までも残した田事のような宿にめぐり逢うと、もう嬉しくて楽しくて仕方がない。

会津若松の冬は雪に埋もれる。私は冬が大好きな女で、特に雪がしんしんと降り積むころ、あかあかと燃える囲炉裏の傍に座って、静かに地酒を酌むのは無上のよろこびびである。

この宿は、息子さん夫婦とお母さん、それにお手伝いの人が2,3人という、ごく小さな宿なのだが、しゅんのものを大事にした手作りの料理が出される。

旅人はすべて、この囲炉裏のぐるりに車座に座って、暖かい味噌汁や炭火で焼いた川魚を食べる。つい先日も、定年退職をして初めて奥さんを連れて旅行に出たという、お酒好きの熊本県の男性と意気投合した。向こう側にいた埼玉県の人も加わり、酒と話がはずんで忘れ難き酒縁を結んだのである。」

 

現在の「田事」をblog で調べてみると、料理旅館として健在。食べログの評判もいい。

メモ  料理旅館「田事」(たごと)  tel  0242-24-7500  会津若松市城北町5-15  七日町駅から徒歩 7 分    


過密と過疎

2015-01-06 17:26:16 | エッセー

             

 

三が日には 60 万人もの参詣客を迎えるという笠間稲荷神社。

正月二日、人でごったがえした門前通りの喧騒を抜けて、神社の裏手にある蕎麦屋に入った。

 

             

             

             

 

50 人はゆうに収まる店内には、家族づれらしい一組が静かに待ち、空いたテーブルには前客の食べ終わった膳が置かれたままになっていた。

店主で調理人とおぼしき年配の男性が奥から出てきて「いらっしゃい」といい、「少し待ちますがいいですか」と聞いた。

「いいよ」と言って、奥の部屋のストーブの近くの席についた。

しばらくして、同じ人がここに注文の品を書いてくれとメモ紙を置いていった。

私は、「やまかけそば」と書いて近所の散策に出かけた。

 

     

     

     (何の木かわからない)

 

10 分ほど歩いてきたが、テーブルの膳はそのまま。私は、店主に声をかけ、片づけを申し出た。「いいですけど、段差がありますから気をつけて下さい」と、運び手を気遣ってくれる。

やっと、注文の品がきた。

 

             

             

              (息子の天麩羅そばは大盛りにしてくれた)

 

十割そばは、まずまずと感じた。

勘定の時、「正月で人手がなくて・・・」と主人は申し訳なさそうに言った。岩手の出身で、笠間に来てほぼ半世紀だそうである。