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雨曇子日記

エイティライフの数々です

官人 伊吉博満(イキノ ヒロトコ)の一生

2016-01-17 19:57:39 | エッセー

7 世紀中ごろの日本の外交官、伊吉博満(イキノヒロトコ)の人生は、波瀾万丈だった。

659 年、第 4 次遣唐使の一員として唐に赴くが、百済と敵対していた唐によって、長安に幽閉されてしまう。

661 年許されて帰国でき、その間の彼の記録が、後に編纂される“日本書紀”に引用され、個人の日記が正史に記録された最初の例となった。

(平成28年度の共通一次試験日本史 B の問題はここから始まっていた)

伊吉博満(イキノヒロトコ)は、その後の政変で、有馬王子の謀反に加担した嫌疑で上毛野国(群馬県)に流されるが許され、唐との外交で活躍し、 695 年には遣新羅使として新羅に赴く。

大宝律令撰定にも功績があり、功田、封戸を給され、従五位の官位を得たとのことだ。


どこか不安な 2015 年 (私の行く年くる年)

2015-12-30 14:47:26 | エッセー

世界のテロ事件が、平和憲法を持つアジアの島国ニッポンにも影響を及ぼし、何かと不安を感じさせる一年でした。

それと、異常気象。 7 ・ 8 月で 35 ℃ 以上の猛暑日が 11 日あって、部屋にいても熱射病にかかるほどでした。

9 月 9 日には台風 18 号がもたらす大雨で鬼怒川の堤防が切れ茨城県常総市に大水害をもたらしました。当日の新聞記事は「溢れた水が 2 階の屋根にまで達し、ヘリで 191 人が救助され、なお 1000 人以上取り残されている」と状況を伝えました。

鬼怒川温泉を上流に持ち、千葉県・茨城県境を流れる利根川に、利根運河あたり、千葉県野田市と柏市の境あたりで合流する鬼怒川、親しみを持ちこそすれ、決して恐ろしくは感じない川でした。

それが、大災害をもたらしました。 いまだ被災をかかえ越年せざるをえない皆様、心からお見舞い申しあげます。

 

さて、2016 年 平成 28 年 丙申歳が目前です。

“元旦や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし”

年年歳歳この歌の心が身に染みて参りますが、命のある限り、賑々しく、言いたいことは 1/2 ほどは言い、見たいもの(TBS ドラマ「赤めだか」は面白かった)は見て、食べたいもの(ステーキ)は少し控えて食べ、楽しく過ごしたいと思います。


80 代の自覚  ②

2015-12-25 20:20:20 | エッセー

自分では気づいていないものの老いは確かに進行している。

過日自宅の階段で足を踏み外して 3 段ほど滑り落ち右ひざを強打した。以前なら、「いたーっ」で済んでしまうところだが、今回は、その夜寝返りができないほどの痛みが襲ってきた。(ヤバイ)

 

「親指と人差し指で輪を作りふくらはぎの一番太い部分を囲む」

これをやってみると、隙間こそできないものの、余裕で囲い込むことができる。(ヤバイ)

筋力や活動が低下している状態(フレイル)につき進んでいるのか?

   1. 体重が減少

   2. 歩行速度が低下

   3. 握力が低下

   4. 疲れやすい

   5. 身体の活動レベルが低下

上記 3 つに該当するようだと要注意。要介護の一歩手前状態が懸念されるそうだ。(ヤバイぞ、ヤバイぞ!)

 

 80 代に合ったトレーニングを見つけて、さっそく取り組まねばなるまい。


80 代の自覚

2015-12-24 09:09:43 | エッセー

手帳などの巻末にある「満年齢表」を見ると(見なくてもいいのだが)昭和 10 年生まれの私は、 2015 年の時点で満 80 歳だ。

世紀の数え方は、1 ~ 100 年が 1 世紀、 101 ~ 200 年が 2 世紀、だから、80 歳の私はまだ 70 代。そう自分自身に思い込ませていたが、あるときふと、誕生日を過ぎれば、その瞬間からカンマ以下の数字がついていくのだからすでに 80 代に突入しているのだと気付いた。

最近 TV などで死亡が報じられる有名人のほとんどが 80 代。有名人でなければ 80 代では死なないということではないから、この先、生き続けていくためには何か心がけることがあるはずだ。

 

まず最初に、「自分はいつ死んでもおかしくない 80 代」であることの自覚。

そう書きながらも、「おまえはどの程度自覚しているのだ」と問いかけてみるとまだそれほど切実感はない。しかし、程度問題はさておいても、この現実を受け止めることから始めたいと思う。


ふなばしアンデルセン公園

2015-11-06 20:07:38 | エッセー

11 月 6 日 船橋北口発小室行きのバスでアンデルセン公園に行った。

N K K 散歩なのだが、 K さんは歯痛で欠席、N さんと私( K )で出かけた。

私はカメラを忘れたので写真なしのレポートだ。

 

最近、この公園の人気が高く、休日などは 1 万人を超す入場者だという。

どこにその人気があるのだろうと考えながら歩いた。

船橋市営の公園として 28 年前にオープンした当時、24,3 万 ㎡ だった面積は、今は 36,7 万 ㎡ と広くなっている。

それは、ワンパク王国、メルヘンの丘、子ども美術館の 3 つのゾーンに、“自然観察”“花の城”と 2 つのゾーンが加えられたからだ。

レストラン、売店等 FOOD の施設が 5 箇所に増え、グルメのパンフレットができた。それによると、ほとんどの商品が千円以下だ。

公園中央の池にかかる長さ 84 m 高さ 13 m の「太陽の大橋」の両脇に並べられた 100 鉢のシクラメンに代表されるように、園内は草花に満ちていて、世話をするスタッフの方も多い。

週末には何かのイヴェントが用意されている。

それでいて、入園料、駐車料は開園当時のまま。一般入園料などは 920 円→900 円だ。

これでは、人気の出ない筈がない。

スタッフの皆さんの対応もとても感じがよく、頑張っている公園と思った。 

 


ノビタキ

2015-10-21 19:51:42 | エッセー

10 月 20 日(火) 久しぶりに手賀沼緑道を歩く。

染井入落の橋(誰かが“日の出橋”と名づけてそう書き込んだ)付近の田で、鳥撮の方が数人カメラを向けていた。“ノビタキ”らしい。

ノビタキは、スズメより小さく、頭や翼が黒く胸の橙色が目立つ渡り鳥だ。

私の持つ高木清和氏の図鑑では、霧ガ峰のレンゲつつじにとまって囀っている。

秋には南国に帰るので海岸近くの農耕地でも見かけるらしい。

 

家に帰って、“鈍射犬棒”さんの HP を開いてみた。(我孫子市鳥の博物館友の会 → リンク → 鈍射犬棒)

そこには、ノビタキが出ていた。

9 月 28 日、「秋晴れの大井新田農道」とメモがあった。

ドン・斜見某氏に出逢い、その鳥撮控を拝見する方法を伺っておいてよかったとしみじみ思った。私のデジカメでは絶対撮れない映像である。


敬老の日

2015-09-20 17:11:09 | エッセー

             

 

 9 月 20 日(日)思いがけず、地域の社会福祉協議会より「敬老の日」のお祝いをいただいた。

委員の方 2 名が拙宅に届けて下さった。

日本人の平均寿命は、 2014 年 男性 80 . 5 女性 86 . 83 だから、 80 という節目は適切かもしれない。

ネットで平均余命をしらべてみると、 80 歳男性の場合、あと 7 . 9 年だそうだ。

あまりピンとこないが、一休さんの歌が思い出された。

“正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし”

 

まあ、心して生きましょう。


忘れ物

2015-09-19 18:37:57 | エッセー

若い頃から忘れ物が多かった。

ハンカチ、ちり紙は毎度のこと。傘はいろいろなところへ置いてきた。網棚の荷物のことは、降りるとき失念していた。

ひどいときは、財布を忘れた。さすがに気づいて駅まで持ってきてもらったが、連絡手段の携帯を忘れることもある。

そんなときに限って、重大な連絡が入ったりりするのだ。

最近の「草加散歩」では、私は万歩計を忘れ、友人は補聴器を忘れた。

「万事慎重な友達だって忘れるんだ、昔から忘れっぽい私が忘れるのはあたりまえ」と、自己弁護してしまうのが私の甘いところ。

自分に厳しく、最低限義歯だけは確認して外出してしようと思っている。(まだまだ反省が足りないかな)


人生百年

2015-09-15 12:23:02 | エッセー

             

 

 9 月 15 日発行の“広報 かしわ”は、市内の元気な 100 歳ご老人がトップを飾った。

全国では 6000 人を越える現在、100 歳は珍しくないかも知れない。しかし、「されど百歳」である。

 3 名の方は、おそらく「“百歳まで生きよう”と決意され努力の結果現在がある」のではなく、一日一日をつつがなく過ごしているうちに「気がついたら百歳」ではなかったろうか。

“船頭さん”という童謡がある。

 

♪ 村の渡しの船頭さんは

  ことし六十のおじいさん

  年はとっても お船をこぐ時は

  元気いっぱい ろがしなる ソレ

  ギッチラ ギッチラ ギッチラコ ♪

 

作詞者 武内俊子さんは昭和 20 年に 39 歳で病死された。もしご存命だったら 109 歳。広報かしわの冨田いねさんの 2 歳上。

今年の敬老の日は 9 月 21 日、来年は 9 月 19 日、せめてそこまでは元気で生きたい。


勤労奉仕

2015-09-14 16:58:21 | エッセー

「茨城県常総市には 12 日、近隣などからボランティアが続々と駆けつけ、支援の輪が広がった」などと使われる「ボランティア」は、一昔前は「勤労奉仕」と言った。

 

私の最初の勤労奉仕は、昭和 17 年、国民学校 2 年生の時、道路上の馬糞を拾う作業だった。名古屋市東区矢田町で、いくらその頃とはいえ、交通手段は馬ではなかったから、なぜ、小学生に拾わせるほど馬糞が道路に落ちていたかはミステリーだ。

その後、縁故疎開で田舎の国民学校に転校した 5. 6 年では、いなご捕り、草刈、農家の麦踏の手伝いなどをやった。いずれも、学校から出かけた。

いなご捕りの時、先に竹筒をつけた私の蝗の袋は極端に収穫が少ないので、友達が憐れんで自分のものを少し分けてくれた。

今から思えば、私は、ボランティア活動においても、不器用で、できの悪い子どもだった。