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雨曇子日記

エイティライフの数々です

肥溜め(こえだめ)

2016-06-09 14:28:57 | エッセー

肥溜めは、肥料にする糞尿(ふんにょう)を溜めておく所で、畑の肥料にするため所々に作っててあった。なぜか蓋がなく不注意で落っこちる人も稀ではなかった。

立川談春の母親もその一人だった(らしい)。

「母は中学入学早々の写生大会で友達と楽しくおしゃべりしながら歩いていたら、マンホールに落っこちた、らしい。母はマンホールと云っているが、僕は肥溜めだとにらんでいる。母が立派なのはこのあとで、ドロドロに汚れ、仲間たちに臭えと云われながら、堂々と給食だけは食べて家に戻ったそうだ。以来卒業まで一日も学校へ行かなかった。・・・」(赤めだか)

 

日経「私の履歴書」 6 月は、松岡功氏(松岡修造の父)だが、やはり肥溜めに落ちた。

「・・・幼稚園では 5 歳の年少組を“小さい組”と呼んだ。私が小さい組のとき、 60 人の園児全員で遠足に出かけた。手をつないであぜ道を歩いていた私は突然“ドボン”と落ちて胸までつかった。

畑の肥料にするため、地面の所々に壺が埋まっていた。そこに落ちたのだ。女の先生が助け上げ近くの川で洗ってくれたのだが、遠足が終わるまで「臭い、臭い」とのけ者にされた。胸に秘めて誰にも明かさなかった幼いころの惨めな記憶だ」

 

今では、神戸市随一の高級住宅街となっている芦屋のあたりでさえこんな田園風景だったとは!

そんな昭和の時代が懐かしく思われる。


“うめ婆さん”は生き残った

2016-03-16 12:56:07 | エッセー

1 月 12 日(火)から朝日新聞夕刊に連載の“うめ婆行状記”は、 3 月 15 日(火) 4 5 回で終了となった。

 

物語の終末、うめ婆さんは、突然気を失って倒れてしまう。

一人暮らしだから、そのまま誰にも気づかれず死んでしまっても不思議ではない。しかし、まもなく甥の子どもである鉄蔵によって発見され、その後親族の手厚い看護で回復する。

“「普通のごはんが食べられるから、あたしの身体は治ったも同然ね」うめは、わざと元気のよい声で言った”と、ぷつんと切れたように物語は終わる。

未完の理由は、作者の宇江佐真理さんが、この物語の執筆中、昨年の 11 月 7 日にガンで亡くなられたからだ。

物語のうめ婆さんは生き残り、周りの人々に支えられ楽しく生き続けることが予測される。読者の一人である私の妻は、甥の鉄平の息子鉄蔵が気に入って、「もう一度登場させて欲しかった」などといっている。

私は、この物語を「口腔ケアの教材」として毎回音読した。幸い妻がお義理ではなく楽しんで聞いてくれたので、張り切って音読でき、私の呆け防止に役立ったと思っている。

 

作者の宇江佐真理さん、よい物語をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。


日本酪農発祥の地

2016-02-14 16:00:50 | エッセー

「千葉県は畜産業がさかんです。江戸時代、安房国の嶺岡牧で日本の酪農が始まったといわれています」

平成 28 年度千葉県公立高校入試問題「社会」はこの書き出しで始まります。

 

北海道は別格として、千葉県が、鹿児島、栃木と肩を並べる畜産県とするにはやや違和感のある私には、高層ビルの建つ商業都市のイメージ(幕張メッセとか柏駅東口あたり)が強いのです。

でも、牧場の痕跡は身近にありました。例えば、柏市加賀にある“防災公園”は、昭和末年まで“斉藤牧場”で、乳牛がのどかに草を噛んでいたそうですし、新京成線「滝不動駅」近くの“佐久間牧場”は今もここのアイスクリームは人気です。

野田市関宿城近くの江戸川堤防を歩けば牧場が目に入ります。

 

“嶺岡牧”をネットで調べました。

「八代将軍吉宗がインド産の白牛を 3 頭輸入し、それらは嶺岡で飼育され白牛から搾った牛乳で「白牛酪」という乳製品が作られて、1796 年頃からは庶民にも販売されるようになりました。このことから“日本酪農発祥の地”と言われるようになりました」

 

               

 

千葉県は、豚や鶏の飼育も多く、立派な畜産県でした。


仙台朝市

2016-02-04 16:23:49 | エッセー

仙台市の佐藤拓郎さんから、俳誌「澪」(みを)の送付を受けている。

私達は退職後 20 年たつが、佐藤さんはいつの間にか仙台にいて俳誌発行をルーチンワークとしていた。学生時代から飛びぬけた努力家ではあったが、俳句まで手がけるとは思わなかった。しかし、今や堂々たる俳人である。

前置きはさておき、送られた 2 月号には、主宰 早川俊三氏の“どんと火” 9 句の下段に、特別作品“仙台朝市”宮野かほる氏 10 句が掲載されていた。

 

     新豆の赤白黄数へ日に

“数へ日”は、今年もあと何日と数えたくなるような、年末の数日。

 

     「まめどん」てふもやしの名前冬ぬくし

 

     喧噪の朝市通り室の花

「室の花」は予想通り「温室栽培の花」だった。

 

     メキシコの南瓜仙台朝市に

 

     焼かれしは万石浦の鯊なるぞ

万石浦(まんごくうら)は石巻市から女川町にかかる海跡湖で、二代目藩主伊達忠宗が「ここを干拓すれば一万石の米が取れるだろう」と言ったことから名がついた。江戸時代には塩田があり、1960 年まで製塩が行われた。2011.3.11 では、養殖棚やカキの処理場が使用不能となるなど大きな被害を受けた。

焼き鯊(ハゼ)が串刺しになって店の軒先にぶらさがるのは仙台ならではの風景で、雑煮の碗には鯊一匹をまるごと入れる。

 

     蛸足に吸盤二列雪催

 

     獅子柚子の鎮座してをる朝市に

 

     店頭に正しく並ぶ曲り葱

仙台名物の葱は、甘みを増すため栽培中何度も土をかけてわざわざ曲げるのだそうだ。

 

     冬林檎いづれの店にても真っ赤

 

     トロ箱に動く毛蟹の初荷かな

 

実際に仙台朝市に行ってきたような気がした。

     


ダイアモンド筑波

2016-01-27 15:09:32 | エッセー

私より一回り若い M くんは毎年筑波山の年賀状をくれる。今年は筑西市母子島(はこじま)遊水地からの眺望だった。

左に長く裾野を引いて、三角石峰( 710 m )、女体山( 877 m )、男体山( 871 m )と右肩上がりになだらかな稜線を連ねている。

筑西市観光協会の HP を見ると、ダイアモンド筑波の撮影ポイントがこの“母子島遊水地”だ。

筑波山山頂から太陽が昇る、 2 月 14 日、10 月 28 日近辺という。池にも映るのでダブルダイアモンドになるそうだ。

また、 9 月下旬から 10 月中旬にかけて、明野地区の蕎麦畑からの筑波も絵になるという。

 

万葉集には富士山を詠った短歌より、筑波山の歌の方が多いと聞く。古来より多くの人に慕われてきた筑波山は、日本百名山の一つだ。

深田久弥「日本百名山」にはこんなエピソードが出ている。

「大正の初め田舎から出てきて本郷向ヶ丘の寄宿舎に入った青年が、朝、の窓から“おう、富士山が見える”と叫んだ。それは、筑波山であったから皆の哄笑を買った」


アルザスの宝石ーリクヴィール

2016-01-26 17:13:04 | エッセー

一枚ぐらいお年玉切手が当たっていないかと年賀状を見直していると、ブドウ畑に囲まれたこじんまりとした町の写真が目についた。

高校の同級生だが、毎年奥さんと海外旅行に出かける I 君の年賀状は、海外旅行のスナップと決まっている。

 

「ほう、今年はフランスか、元気で何より」ぐらいで済ませていたが、よく知らない都市なので、ネットで検索してみた。

都市の名は“リクヴィール”。

開いてみると I 君のような幸せ健康シニアがゴマンといて紀行文を UP  している。

 

・ライン川の西岸に位置するドイツ国境近くの町で、ストラスブールからバスで小一時間。

・アルザスの建築様式コロンバージェ(木組みの家)が美しい。

・第二次世界大戦の戦禍を受けていない。

・町の目抜き通りを端から端まで歩いても 20 分程度。

・突出しの店の広告がかわいい。

・いろいろなタイプのブレデル(マコロンの一種)が店に並んでいる。

・シンボルはコウノトリ。(飛んでいるのを見た人もいる)

 

こんな情報をもとに賀状の写真を見直すと、一層奥行き深く眺められ、「 I 君今年も元気で出かけてください」という気持ちになった。


うめ婆一人暮らしの家

2016-01-25 20:17:46 | エッセー

1 月 12 日から朝日新聞夕刊に連載が始まった新聞小説「うめ婆行状記」を愛読している。

四段組で一日の分量が今までの 4 日分だ。

主人公のうめ婆は大伝馬町の酢・醤油問屋「伏見屋」の娘で北町奉行所臨時廻り同心霧降三太夫に嫁ぐ。その夫が亡くなった時、うめ婆は長男夫婦と孫のいる家を出て一人暮らしの決意をする。

武家社会や家族のしがらみから離れ、自由にのびのびと暮らしたかったのだ。

1 月 25 日(月)連載 10 回目は、いよいよ引っ越しの場面。

荷物は大八車で鳶の男たちに運ばせ、自分は風呂敷包一つで家を出る。

 

新居は、広い土間口のある住まいで、茶の間の奥に床の間付きの八畳間があり、箱階段を上ると 2 階には 6 畳間が 2 つある。(長屋にでも住ませるのかと思ったら、意外に立派な家を借りた)

さて、これからうめ婆を中心にどんな人間模様が展開していくのか、楽しみだ。

 


話題の人

2016-01-24 20:30:33 | エッセー

1 月 22 日(土)の N H K 朝ドラで五代友厚が亡くなり、その直後の「あさイチ」に五代を演じた俳優ディーン・フジオカ氏が登場した。

有働アナの女性ファン目線のトークもあって、「五代ロス」現象まで生み出すディーン氏の人気ぶりが強く印象づけられた。

一転して、地味ではあるが、只野真葛(ただのまくず)も一部では話題の人になったのではあるまいか?

 1 月 16 日に行われた共通一次日本史 B のある設問は次のように始まっていた。

「只野真葛(ただのまくず) 1763 ~ 1825 工藤あや子は、江戸時代の仙台藩医 工藤平助の長女として江戸に生まれた。・・・・」

「清少納言とか紫式部なら聞いたことがあるけれど、知らないなー」と言いながら、ネットで検索すると、どっさり情報が出てきた。特にウィキペディアは詳しく知らせている。

古典文学に造詣が深く著作は多岐にわたっている。

随筆・随想  紀行文  日記  伝説物語  評論  和歌・漢詩

受験生はもとより、私のような歴史初心者にまでこの女性に対する関心は広がっているのではないだろうか。


“手本は服部金太郎 ♪”

2016-01-23 14:27:38 | エッセー

誰もが知る東京銀座 4 丁目角地の和光ビルに建つ時計塔。

それは、セイコーの創業者服部金太郎が明治 28 年( 1895 )に同地に建てた 16 m の時計塔に始まります。

東京都墨田区東向島 3 丁目 白鬚橋東詰にあるセイコーミュージアムでは、製品の時計だけではなく、創業者の生涯についての紹介がありました。

 

万延元年(1860 )東京日本橋采女町の古物商に生まれた金太郎は、12 歳で近くの洋品雑貨店「辻屋」に丁稚奉公に出ます。

時計との出会いは 14 歳。日本橋「亀田時計店」の徒弟となります。そして、明治 14 年( 1881 )実家近くに「服部時計店」を開店します。初めは輸入品の販売、修理でしたが、明治 25 年( 1892 )には、本所石原町に従業員 10 名余の「精工舎」を創業し、ポンポン時計と呼ばれた掛時計の製造を開始します。

     ・常に一歩先に

     ・急ぐな 休むな

     ・良品は必ず需要者の愛顧を得る

     ・必ず約束を守る

     ・常識は利益の門戸を開く鍵なり

金太郎はこのモットーのもとに努力し会社を発展させ、現在のセイコーホールデングスに導いたのです。 


雪の日

2016-01-18 20:32:42 | エッセー

平成 28 年 1 月 18 日(月)の朝、関東地方平野部は積雪に見舞われた。

私はこの日東京にいく用事があった。

幸い柏は小雨だったが、大津ヶ丘のバス停は大勢の人だ。乗り込んだバスは、はや 4 つめの停車場で満員となり後は通過。

積雪のない常磐線はほぼ順調だったが、江戸川を超えて東京に入ると雪景色となった。

 

             

                   (松戸の手前北小金あたり)

             

                    (金町駅あたり)

 

亀戸に行くので、北千住で東武線に乗り換えようとしたのが誤算だった。

北千住駅東武線ホームへはたどり着けないほどの大混雑。筑波エクスプレス経由で何とか予定の時刻に亀戸にたどり着けたが、少し苦労した。

夕刊の記事には“首都圏の鉄道は大幅にダイアが乱れ、関東地方では少なくとも 85 人が転倒事故などで病院に搬送された”とあった。