クーラーをつけない昼のひと時は、
短いけど、ぐっすり眠れ、2日間も眠っていたような気がします。
八王子、静かな日曜日です。
群馬県みどり市花輪町の、
江戸時代は、
足尾銅山の銅を運ぶ道を、銅街道と呼び、
日光東照宮の参拝者の通る裏街道、
宿場で賑わった村でした。
沼田城主、真田昌幸のから700石の知行を受けていた、
蜷川佐右ヱ門。
その息子佐平太が武士を捨て、
江戸に赴いて、彫師「島村俊元」に、ごり押しで弟子になる。
この島村俊元が、幕府御用に顔を出す、
当代きっての名彫り師。
日光東照宮の陽明門、本殿等を彫った。
腕を磨いて佐平太、室町時代から続いた、
蜷川姓を捨て「高松又八邦教」と改名し、
上州、勢多の花輪村に住んだ。
11人の彫師が又八の門人になった。
その花輪彫刻集団の元祖、高松又八邦教、
共に東照宮の手直しで名を挙げた、
息子、高松又八頼品、
門人石川銀八(吟八郎)義武らに看取られ、
1716年、彫師の生涯を閉じてしまう。
小さい祠だった、上州、武州の神社に、
一気に昇り龍、下り龍が現れる。
1740年が過ぎたころ、日光東照宮建立から100年後、
武州妻沼に極彩色・派手な聖天堂、本殿が完成した。
その彫り師の棟梁が、石原吟八郎義武。
八人の門人を抱え、武州の地域に根差した彫師。
その中に、江戸中世の名人と呼ばれ、
人気者になった彫師がいた。
関口文治郎と石原常八雅詖(まさとも)。
ケチの徳川吉宗の倹約で幕府の金で、
神社創設を禁じたために、
ほとんどが、地元住民が金を出し合って作った神社ばかり、
その意気に、応えたのが、花輪彫刻集団、鑿の使い手たち。
超人気者が石原常八雅詖の二代目石原常八主信。
5寸(15cm)の板に掘る透かし彫り。
縁下、火の守り神「龍」の怪しい面相。
二代目石原常八主信の代表作といえる、
埼玉県比企郡小川町、1833年完成した、
「八宮神社」
これから数年後、三男坊腕のいい彫師が不幸な事件に、
巻き込まれるなど、思いもせず、
49歳鑿に艶を込めた彫りが👇
八宮神社(埼玉県比企郡) 2018、8.17 花・2018.8.8. 箱根
とよさん、本当に良く調べていらっしゃいますね。
小川町は娘が嫁いだ場所
八宮神社、娘の所へ行った時にでも訪れてみたいと思います。
ご紹介ありがとうございます。
たかさんの励ましで、すっかり良くなりました。
お嬢さんが小川町に嫁いでいたとは、奇縁です。
宿稲荷から、八宮神社、私は文治郎の彫りより、
好きです。
ぜひ、八宮神社訪れてください。
きれいにしているので、境内の椅子に坐り、
おやつを手にするのも、秋の風情いいようです。