totoroの小道

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はじめましょうⅡ

2010-05-24 05:18:36 | 教室

先生ならだれもが、始業の挨拶は大事だと思っています。
だから、4月の職員会議や研修で、そのやり方等を確認し合うことが多いです。

でも、なぜ、始業の挨拶が大事なのでしょう。
それを、考えたことがありますか?

 

本校は、前回のブログ「はじめましょう」にあるように、ここ数年、始業の挨拶を座ったままで行っていました。

しかし、職員が一通り入れ替わり、当時のことを知る先生が居なくなりました。毎年、4月の職員会議で、
「座ったままの始業の挨拶は、おかしい。」
「座ったままの挨拶は、違和感がある。」
「中学との連携を考えると、立って挨拶できる子どもにしなければならない。」
「座ってあいさつすると、けじめがつかない。」
「立って挨拶するのが、日本の学校の常識だ。」
などと、口々に言われます。

「すわったままでも、けじめはつきますよ。」
「いすをがたがたさせずに、静かにさっと授業に入りましょう。」
「立ったままの挨拶だって、たかだか100年かそこらの伝統で、未来永劫続くものではありません。」
「座った挨拶でけじめが付けられなければ、立って挨拶しても同じです。」
などと、お話しします。

が、長年「立って挨拶」するのが常識、としてきた先生方に、
座ったままけじめを付けさせることを「試す」ことをお願いすることも無理になりました。

みな、会議で私の方を見て、
「立って、挨拶することに変更しましょう。」
と私が許可するのを、期待しています。

が、実をいうと、私は、始業の挨拶なんて「立ってやっても」「座ってやっても」どっちでもいいのです。
どっちでも、3日もあれば整然と行わせることができます。
けじめも付けられます。さっさっと、授業に入れます。

そこで
「私はどちらでもいいのです。ただ、休み時間のざわついた心が、この挨拶で穏やかで落ち着いた、さあ学ぶぞという気持ちに変わればいいのです。」
「座ったあいさつでそれがでず、立ったあいさつならそれが可能ならば、少しもかまいません。」
毎年、そう答えることにしています。

立って、整然と行うのに
2つの 「こつ」 があります。
①なるべく、挨拶係の子どもの「号令」「注意」をへらすこと。
②いすの移動を少なくすること。
です。
(もちろん、教師も「号令」「注意」をしないほうがいい。教師の行うのは、上手に挨拶できたとき、上手な挨拶ができる子を、ほめることです。)

号令の声、注意する声がかえって教室の空気をかき混ぜます。
「号令」「注意」を聴いて、その通りに動けばいいやと、考えない子どもが増えるからです。
「号令」や「注意」がなければ、一人一人がそれを感じ、考えなければなりません。

いすを動かす音も、気になるようになると気になります。
一度立つときに後ろに下げ、座るときに前に出せば、2回の音だけで済みます。

 

なぜ、始業の挨拶が大事なのでしょう。

挨拶一つだって、一人一人の頭や耳や目を使わせ、鍛えることができます。
受動的な挨拶でなく、能動的なあいさつをすることで、能動的な授業が始まります。

ただ、しずかに、けじめをつけるだけでなく、
「あっ、静かにする時間だ。」
「今日も、みなで気持ちをそろえていい挨拶をするぞ。」
「みなに遅れないように、すぐにいい姿勢になろう。」
と、考え、試行錯誤しながらそれぞれが、挨拶を通して学びます。

挨拶をすることで、頭が学びモードに切り替わるのです。

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1 コメント

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大賛成です (Mrヒデ)
2010-05-25 09:06:38
 明治以来の学校教育のあり方や日本人の精神風土が教育を固めてしまっているのです。また、私たちが幼少期に受けてきた教育が私たちの教育を縛っているのです。だから、どんなによいことでも、これらの呪縛から先生方はなかなか抜け出せないのです。もう少し子どもの事実を客観的に見てほしいですね。これは授業前後の「挨拶」に限ったことではありません。よく見るとこういうことはいっぱいありますね。
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