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とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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ウルトラダラー

2006年05月08日 19時38分35秒 | 書評
浦沢直樹の人気コミック「20世紀少年」は「ともだち」という名前の新興宗教の教祖が、自ら仕組んだテロを企画し、そのテロと戦い打ち勝つという芝居を演じて英雄となり、やがて世界を制覇する、という狂気の世界が描かれている。
そこへ子供時代「ともだち」の友人だったと思われるケンジやその仲間が「ともだち」による「世界の終焉」から世界を救おうとする物語だ。

北朝鮮という国家は「20世紀少年」の中で描かれている狂気の世界をまさに地でいっている現実の世界ということができる。
ただコミックと違うのはコミックでは全世界的に狂気が展開されていることに対して、北朝鮮では北朝鮮という半島の最も乏しい地域を限定して展開されている点だ。
しかし、その範囲における影響力は究めて酷似しているのである。

現実の独裁者「金正日」は「ともだち」そのままに総てのテロ行為の指揮をとっている。
この国の国民にとって金正日が下す指示こそが正義であり、真実なのだ。
「北朝鮮国民」にとって「金正日」は教組であり、絶対的存在であり、彼らの思想そのものだからだ。
だから彼らは金正日の言葉なら総てを疑うことなく平然と実行することができるのだ。
たとえそれが中学生の少女を拉致することであったとしても、航空機に爆弾を仕掛けて墜落させることであったとしても、偽札を印刷し世界にばらまくことであったとしても......。

手嶋龍一著「ウルトラダラー」は北朝鮮で発行される偽ドル紙幣に絡むサスペンス小説だ。
「99%の真実と1%の創作」と著者自身が語っているように、ドキュメンタリー調で展開されるドラマはスリリングで魅力的だ。
一連の拉致事件に始まり、日本の外務省と北朝鮮のかかわり、偽ドルの持つ意味、などなど「もしかしてこれは実話か」と思えるエピソードが次々と展開されていく。
もしこれが著者の語るように99%の真実からの物語であるとしたら、非常に由々しき問題でだろうだろう。
前述のコメントは元ジャーナリストである著者ならではの宣伝文句なのかも知れないが、ジャーナリストだからこそ知り得た北朝鮮に関係する情報が本作の執筆の重要な役割を果たしているようだ。

それにしても紙幣製造のノウハウの記述は物語以上に興味を惹かれる部分でもあった。
先日久しぶりに日本円をドル紙幣に両替する機会があった。
替えてもらう紙幣は小額紙幣にして欲しいと依頼して、もらった10ドル紙幣を見て驚いた。
カラフルな色が付いていたのだ。それも微妙にグラデーションのかかった色なのだ。
まるでゲームに使う玩具の紙幣のようなデザインだったが、これも偽造防止技術の一つなのだろう。
小説の中では最新の紙幣にはどのような偽造防止技術が用いられているのか、真偽のほどはか分らないが、最新のドル紙幣にはマイクロチップが埋め込まれている、などというところは思わず頷けるものがあった。
そして、その紙幣の真贋を確かめるハイテク機器の記述も魅力的な要素の一つだった。

著者の手嶋氏は9.11同時多発テロの際、NHKワシントン支局長として現地から連日レポートを届けてきた私たちにとって馴染のある顔でもある。
あのNHKの特派員が、かくもユニークで面白い小説を書き上げるとはなかなか想像することはできない。
こういう真に迫った「北」の闇を扱った小説をメジャーな報道機関に勤務していた元ジャーナリストが自由に書き、そして発表できるような世の中になったことも、これまでなにかと遠慮気味であった北朝鮮報道に関する一つの進歩なのかも知れない。

~「ウルトラダラー」手嶋龍一著 新潮社刊~

マネー・ボール

2006年04月24日 20時07分25秒 | 書評
今回は私の勝手な考え(いつもですが)が多分に含まれていることを、とりわけバファローズファンの方にお断りしておきたい。

色々な意見はあるだろうが1989年の日本プロ野球のヒーローはやはり近鉄バファローズの阿波野秀幸投手だったと私は思っている。
当時入団3年目。
毎年15勝以上の成績を上げ続けてきたエースはこの年、29試合に登板し19勝。
リーグ優勝に貢献した。
シーズン終了後には親会社近畿日本鉄道の看板特急アーバンライナーの広告にもビシッと決めたスーツ姿で登場し、名実ともに近鉄グループの顔となった。
ところが翌1990年、阿波野投手の成績は急降下することになる。
なんとか10勝を上げることはできたものの、前年まで2点台だった防御率が4点台に下落。以降2000年に横浜ベイスターズを引退するまで、ついに二ケタ勝利を上げることはできなかった。
阿波野投手の1990年に訪れた「突然の低迷」の原因を成績表から探ることはできない。
なぜならそれは心理的な要因で、それらは数値として記録されることは永遠になかったからだ。
阿波野投手の心理的プレッシャーになったもの。
それは剛腕ルーキーの登場であった。
そのルーキーの名前を野茂英雄といった。

マイケル・ルイス著の「マネー・ボール」はアスレチックスの元GMビリー・ビーンにスポットを当て、メジャーリーグの新しい潮流の一つを描いたノンフィクションだ。

メジャーリーグの各球団の選手の総年俸には大きな開きがある。
お金持ちの球団とそうでない球団との差は年々広がっており、本書で採上げられているアスレチックスの年俸はヤンキーズの三分の一。
その少ない予算でワールドチャンピオンを目指し、金持ちチームとシーズンを戦い抜いていかなければならないのだ。
高い年俸を出すことができるチームは必然的にメジャーを代表するようなプレーヤーの獲得が可能であることを意味し、このため一般的に金額の多寡は勝利へ結びつく直接的な要因のひとつと考えられている。
だから総年俸の大きいヤンキーズは強いということがいえるのかも知れない。
しかしヤンキーズの総年俸の三分の一のアスレチックスがここ数年好成績を収めプレーオフの常連となっていることは、どう説明すれば良いのだろうか。

この背景にあるのが本書「マネー・ボール」で描かれているフロントによる独自の選手分析である。
つまり、高年俸の打率優秀、防御率優秀な選手が、必ずしも「結果を残せる」選手ではないということに初めて注目し、埋もれた選手や他球団が欲しがらない言葉は悪いが「キズモノ」の選手を掘り起こしていくのが秘策なのだ。
「本塁打を打つのか、それとも三振するのか以外、打球がフィールド内に飛んでいき、それが安打になるかどうかは数値で読めるものではない。運である」
という意味合いの考え方や、
「記録される数値の中には、安打になったとき、守備の選手はどの位置にいたのか、どのような体勢をとっていたのかは『記録されることはない』」
というような野球の捉え方はユニークである。
確かに打球が安打になるのは、単に打者の打率が良かったからというのではなく、守る側の守備位置やコンディション、天候などが大きく影響しているはずだ。
「誰も注目しない埋もれた選手を発掘する」
「高校生をドラフト一位指名するのは投資としてナンセンスだ。発展途上の高校生は先が読めない」
という考え方もまた、保守的なプロ野球の世界では異端であり斬新な考え方であったのだ。

重要なことは、本書で扱われている内容が「ベースボールはビジネスである」という視点で描かれていることだろう。
確かにベースボールは言われるまでもなくビジネスだ。
が、ほとんどの球団が多額の債務を抱えているような劣悪な経営状態の中で高額な年俸を勝てもしない選手に支払っているというのは、たとえそれが現実だとしても野球チームはまともな企業とはいえないのだ。
だからと言って、簡単にチームを売り払っても良いものか。
そこに文化と伝統しての野球があり、簡単に片づけられない問題がある。

「勝ち数を上げるために必要な投資額」という話は、なにもプロ野球に限った話ではない。
その勝ち数を増やすために一般のビジネスシーンでは、野球での勝率や打率、本塁打本数、失策率などよりも、遥かに多くの情報を収集し分析するのが当たり前になっている。

ここで冒頭に戻るが、もし、野茂英雄というルーキーを入団させることで、エース阿波野が精神的なプレッシャーを受け、その後のチームの成績にかかわってくるということが分析されていたのであれば、球団は違った選択をしていたかもわからない。
精神的な問題。
「女房や恋人とケンカをした」
「些細な自動車事故を起こした」
「子供が風邪をひいて熱をだしている」
「ヤツには絶対に負けたくない」
という精神的要素は容易に数値に表すことができないのだ。
しかし本当のところ。そういう精神的な要素も数値や記録として残さなければ、正確なビジネス判断を誤ることになる。

「マネー・ボール」ではメジャーリーグという野球ビジネスを単なるショーではなく高度な投資ビジネスのように捉えているところがまたユニークであり、魅力的である。
株式投資は無数のデータを収集し、電算機など最新のソフトウェアを駆使して分析すれば必ず勝利をうることができる、という考え方を野球にも持ち込んでいるのだ。

サッカーはルールが紙一枚。
野球は書籍になると言われているが、野球の場合はサッカーに比べて実際はそれ以上にウンチクの溢れたスポーツなのだ。
野球の周辺に屯するプロ、アマチュア、ファン、一般人など多くの人々を株式や物理を研究するように、その世界に没入させていく恐ろしい力を秘めている。

それにしても、野球はなんて理屈が多く、かつ広がりのあるスポーツなのだろうか。

~「マネー・ボール」マイケル・ルイス著 中山宥訳 ランダムハウス講談社刊~

操縦不能

2006年04月22日 12時14分16秒 | 書評
飛行機に乗っていると客室正面のビデオ画面に高度、速度、風速、風向、現在位置などが映し出されていることが多い。
初めて飛行機に乗った二十数年前にはこんなサービスはなかった。
このサービスは外の景色が見えにくく、しかもちょっぴり怖い乗物という飛行機に搭乗している乗客にとって、とても安心感を与える優れたアイデアだと思う。

実のところ、速度や風向きを表示するこのサービスのメカニズムがどうなっているのか長い間私には疑問だった。
「地下鉄の電車はどこから入れるんでしょうかね」
という古い漫才のネタと同じくらい不思議だったのだ。

電車や自動車なら車輪があるので、スピードは簡単に測定できる。
しかし、船や飛行機、宇宙船はどうやって速度を測定しているのかわからなかったのだ。
とりわけ時速一千キロ近くもの亜音速で飛行する飛行機が、どうやって風のスピードを測るのか不思議で仕方がなかった。
飛行機というのは飛んでいるとはいえ、空中に浮んでいるのと同じなので、正確に計測することなどしょせん不可能なんじゃないか、ぐらいに思っていた。

内田幹樹著「操縦不能」を読んで、初めてそのメカニズムを知ることができた。
尤も知ることができたと言っても、この本は技術書ではなく小説なので書かれていることがホントのことかどうかはわからないが、元大手エアラインの機長が執筆したサスペンス小説だけに、頻繁に登場する客室内の専門用語や技術用語は本物であることは間違いない。
またその専門用語やヒコーキマニアにしか分からないような会話が展開されるのが、この作家の作品の魅力でもあるのだ。

物語は、北朝鮮からの亡命者を乗せた成田発ワシントンDC行きのニッポンインター(ANAをモデルにした架空の会社)のジャンボジェット機が、工作員の謀略により計器による操縦が不能になり340人に乗員乗客が墜落の危機に瀕する。
さてさてどうなるのか?という和製サスペンス小説としては珍しい航空ものである。

この危機を救うのがかつて操縦士候補であった訓練係の一人の女性。
この女性が地上の訓練用シュミレーターで危機に陥っている飛行機の状況をトレス、再現することにより危機をかわしながら着陸できる空港まで誘導して行くというハラハラドキドキのストーリーだ。
この物語の一番魅力的なところが、このフライトシュミレーターの描写シーンだろう。
マイクロソフトのコンピューターソフト「フライトシュミレーター」にのめり込んだ男が実際のジャンボジェットの操縦室に押し入り機長を刺殺して一時的に操縦桿を握るという事件が数年前に発生したが、そういう狂人が現れるほど飛行機の操縦に憧れる人は少なくない。
実際の飛行機を操縦することはできなくとも、一度ぐらいフライトシュミレーターを操って見たいというのが本音だろう。
(どうしても、という人は子供用フライトシュミレーターを体験しに関西空港の展望コーナーへ行ってみよう)
そういう意味で、シュミレーターが舞台の一つというところは、この小説の見どころの一つだといえる。

物語終盤の詰めのあまいところが小説としては不完全な気がしないでもないが、ヒコーキマニアには十二分に楽しめるドラマではないだろうか。

~「操縦不能」内田幹樹著 原書房刊~

鞭と鎖の帝国

2006年04月13日 21時29分11秒 | 書評
今、世界の注目はイランに集まっている。
この中東最大の産油国の一つが核保有国になったのだ。
核開発をめぐりアメリカを中心とした旧西側諸国が中止を求めている中、ついに4月12日、イランは低濃度の核濃縮実験に成功したことを発表した。

なぜイランが核を持つことに各国が反対するのか。
理解できない人は少なくないだろう。

核を持つ国は米国、英国、仏国、中国、ロシアなどの大国が知られているが、パキスタンやインドといった開発途上国も有していることは知られている。
我が国日本は兵器としての核は持ち合わせていないが、エネルギー資源としての核技術は世界一。
そういう視点からすると立派な核保有国と言えるだろう。

ではイランの核開発には何が問題なのか。
それは一言で表すと「キチガイに刃物」の感を拭えないからだ。
イランの核保有は中東の軍事バランスを崩すのに十分のエネルギーを持つだけでなく、この地域はもちろんのこと全世界を危険に陥れる危機感を抱えているのだ。

1979年2月。
イスラム教の宗教指導者ルッホラー・ホメイニ師を中心とするイスラムシーア派が国王パーレビを追放し、イスラム革命を達成した。
中東圏ではアラブ諸国と異なる自由なペルシャ文化を築き上げてきたイラン。
西側のファッションや学業について自由な生活を享受してきた女性たちは一瞬のうちにベールを被り、人前に出る自由さえ失った。
ヒゲを生やさぬ男は男として認められず、ただただイスラム教の教義、しかも思いっきり捻くったホメイニ師が提唱する似非イスラム主義が国家を覆いつつんだ。
石打刑、不義密通に対する死罪など、太古の刑罰を復活させ一般市民に有無を言わせぬ圧制を敷いた。

やがて彼らが始めた行動は「米国大使館占拠事件」「イランイラク戦争」に発展し、狂気を極めた。

「鞭と鎖の帝国」は週刊新潮に辛口コラム変見自在を連載している帝京大学の高山正之教授が産経新聞記者時代に特派員として滞在したイランの様子をレポートした傑作だ。
時はまさにイラン革命の数年後。
やっと米国大使館占拠事件が解決し、その余韻がさめやらぬ1980年代中ごろに産経新聞テヘラン支局に駐在した時のエピソード、イラク人気質、イスラム革命のなんたるか、アラブとペルシャの違いなどが興味深く描かれている。
とりわけ印象に残ったのが、イスラムの戒律に反して処刑される者の描写だった。
聞き伝によるレポートではなく筆者自らが目撃したものであることころが生々しい。

処刑シーンだけでなく女性に対する扱いや、食生活、中身はまったくのカルト本と言えるホメイニ師の著作など、狂気に包まれたイランの姿が描かれている。

本書の時代から20年が経過して、指導者ホメイニ師も鬼籍に入ってすでに久しい。
しかし、本書を通じてイラン革命の素顔を知り、今もその革命後の政権が国の舵取りを行っていることを考えると、イランの核開発がいかに危険なものであるのかを私たちに認識させてくれのだ。

なお本書は絶版になっているらしく新刊の書店では入手できないが、古書店では比較的簡単に手に入れることができる。

~「鞭と鎖の帝国」文藝春秋社刊 高山正之著~

沈まぬ太陽 アフリカ編

2006年03月12日 17時54分43秒 | 書評
昨年、羽田からのスカイマークエアラインズを予約したら日本航空とのコードシェア便で、搭乗する機材がJALだったので、ビビったことがある。
「え、JALですか.......」
と落胆していると、スカイマークエアラインズのチェックインカウンターのお姉さんも慣れてらっしゃるのかニコッと笑って「ハイ」とだけ答えた。

かように今飛行機に乗る時に日本航空だと「ドキッ」とするような状況が続いている。
昨年の連続トラブルに続き、今年は社内でクーデターが起こったのだから乗らないに越したことはないエアラインだと言えるだろう。

この危険な航空会社の体質を知るのに良い書籍はないものかと探していたら、ありました。
山崎豊子著「沈まぬ太陽」。

「白い巨塔」や「大地の子」の著者として知られる山崎豊子が他の作品と同じように緻密な取材(この人も新聞記者出身の作家)で集めた真実をもとに、架空の航空会社「国民航空NAL」を舞台にその会社の特殊な体質を見事に描いた大作だ。

「国民航空」
日本のフラッグエアライナーとして描かれているこの国民航空は、もちろん日本航空をモデルにした架空会社だ。
今のところ、前半の「アフリカ編 上下」を読み終わったところだが、この国民航空の半官半民という体質が、完全民営化となった今日もこの会社(国民航空=日本航空)の体質に色濃くしみ込んでおり、昨今のトラブルや人事的事件に繋がっているのではないかと思われるのだ。

一般に官が主導する事業は信頼がおけると思いがちだが、とんでもない。
政治家や官僚が事業に関与すると財政面はメチャクチャになり、そのうえ責任所在もはっきりしなくなり、人事面でも衝突が発生する。
それが建築事業やサービス関連事業であれば人命が失われるということも少ないだろうが、こと航空事業となるとそうはいかなくなる。
その人事政策の異常さ、数々の利権を伴う国からの経営介入。
総ての面に於て、民間では考えられない事柄が展開されている。

考えてみれば国鉄も国営時代は多額の債務を抱え、経営者である官はその負債に対してまったく責任を取らなかった。
今も巨額の借金は宙に浮いている。
昨年のJR西日本が起こした事故は、国鉄時代に作られた企業文化の名残が生み出した悲劇だったという側面も見られるようだ。
もう一例を挙げると阪神大震災を口実に、黒字経営だった阪神高速道路公団は官が経営に入り込んできたその年から赤字に転落。
未だに再起はできていない。

アフリカ編を読み終わり、次は御巣鷹山編。

物語がどう展開していくのか、目が離せない。

~「沈まぬ太陽 アフリカ編」山崎豊子著 新潮文庫~

世界の日本人ジョーク

2006年02月02日 21時17分08秒 | 書評
以前、ここに私はドイツのジョークを集めた新潮新書を紹介したことがある。

私は中学生の頃からジョーク集が大好きで、今は絶版になっているようなのだが「ユダヤのジョーク」「アメリカのジョーク」「イギリスのジョーク」「中国のジョーク」なとといったジョーク関連本を所持している。

ところが日本に関するジョークと言うのは今回購入した「世界の日本人ジョーク集」が初めてだった。
というのも、日本人はあまりジョークが上手くない。
というか気の利いたジョークは昔は多かったが今はかなり滅びてしまったのではないかと思われるふしがない事もない。
落語などは良質のジョークの塊であるわけだし、狂言や漫才なども素晴らしいジョークではあったのだが、現在の私たちの国は笑いの風俗を低俗なテレビのバラエティショーに牛耳られ、とても「おっ。なかなかええやん」と思わせるものが少なくなっているのだと思われる。

本書「世界の日本人ジョーク集」は日本人が使うジョークではなく、世界の国の人々、つまり私たちにとって外国人と呼ばれる人たちが使っている日本人に関わるジョークを集めたジョーク集なのだ。

このジョーク集には新しいもの古いものの両方が収録されている。
その新旧の作品からはっきり窺えることは外国の人々にとって「ミステリアスな国、ニッポン」というかつてのイメージが徐々に変わりはじめているのではないかということだ。

1970年代まで日本は極東の一国家でしかなかったが、80年代になりエコノミーアニマルと呼ばれ、90年代になり金満主義、と言われるようになった。
そしてそれらに必ず付け加えられていた言葉が「顔の見えない....」という枕詞だった。
ところが90年代の終り頃から、野球やサッカーという欧州や北米のスポーツ界で活躍する日本人スター選手が登場しはじめ、寿司や天ぷらといった食文化、アニメやマンガ、カラオケといった日本製ポップカルチャーが世界中に浸透するにおよび、「顔の見えない...」というイメージが明らかに変わり始めていることがジョークを通じて感じ取ることができるのだ。

とかく「他人が自分のことをどのように思っているのか」が気にかかる日本人にとって、本書はとても楽しめる一冊ということができるだろう。

~「世界の日本人ジョーク」早坂隆著 中公新書ラクレ刊~

もっと!イグ・ノーベル賞

2006年01月20日 21時26分38秒 | 書評
「ニワトリが見た目の美しさで人間を選ぶことの実証」
「片方の鼻の穴が詰まっていると脳の働きが良くなることの証明」
「足の臭いの原因物質の解明」
「カラオケの発明」
「進化論を学校教育で教えることを取り止めたアメリカの2つの州」

「んな、アホな」「ホンマかいな」「ウソでしょう」
というような笑ったあとに「な~るほど」と感心してしまう研究や商品開発など、著しい功績があったと認められる人に贈られる裏ノーベル賞。
「イグ・ノーベル賞」
変なもの大好きな私として、これほど自分の嗜好に合った本はなかった。

本書は毎年秋にアメリカのハーバード大学で授賞式が行われる「イグ・ノーベル賞」の受賞内容から、とくに優れたもの(?)、ユニークなもの(?)、人類のためになるもの(?)をピックアップして賞創設者自らが紹介した快作だ。

イグ・ノーベル賞は雑誌「ユーモア科学研究ジャーナル」が自薦他薦にこだわらず一年間に応募のあった研究活動や社会活動、事物などからとりわけユニークなものを選出している、ある意味「権威ある」賞なのだ。
しかも授賞式のプレゼンターは本物のノーベル賞受賞者であり、式場がハーバード大学なら、後日行なわれる特別セミナーは、これまた権威あるマサチューセッツ工科大学で開かれるという凝りようなのだ。

私はこのユニークな賞について、これまでちょこっとながら耳にしたことはあったものの、その概要について知りえたのは、今回本書に出会ったおかげだということができる。

驚くことに、本物のノーベル賞以上に、本賞の受賞者には日本人の多いことだ。(率として)
昨年(2005年)はかの有名なドクター中松が受賞している。
研究対象は過去三十数年に渡り、自分の食事を総て写真に納め記録してきたことで、はっきり言って「それがどうした?!」というような内容なのだ。
他にどういう日本人が受賞しているかというと、たまごっちを開発したバンダイ関係者。
犬とのコミュニケーションを可能にしたバウリンガルを開発したタカラ関係者。
自分の足が臭いという人の足は本当に臭いというセオリーを証明した資生堂関係者、などなどである。

なかでも最も感動的なのはカラオケを開発した兵庫県在住の井上大祐氏へのイグ・ノーベル平和賞の授賞式にまつわる話で、この時はイグ・ノーベル史上最高の盛り上がりを見せたのだという。
「人々が互いに寛容になることを促した発明」として受賞したカラオケの開発者である氏が式台へ上がると、会場を埋め尽くした聴衆からの賛辞の声が鳴り止まず、氏がスピーチで「歌を歌いましょう」というと、聴衆が一体になって合唱したという。
しかも、騒ぎはそれだけでは収まらず、みんなが歌い終った後、プレゼンターとして来賓していた本物のノーベル賞受賞者たちが氏のために歌い出すというハプニングまで発生し、大いに盛り上がったのだという。

井上大祐氏がゴルバチョフやレーニン、昭和天皇、ビル・ゲイツなどと共にタイム誌が選び出した20世紀を変えた人物の一人であるのだとは、本書を読むまで私はまったく知らなかったのだ。

ともかく、とかく政治利用の傾向がある本物のノーベル賞と異なり、素朴で、笑えて、感心する。
そんな素晴らしい「イグ・ノーベル賞」に賛辞を贈りたくなる一冊だ。

~「もっと!イグ・ノーベル賞」マーク・エイブラハイム著 福嶋俊造訳 ランダムハウス講談社刊~

透明人間の告白

2006年01月17日 20時57分54秒 | 書評
得意先の社長さんや専務さんといった少し年配の方と雑談をすると、よく次のようなアドバイスを受けることがある。

「○○○という本はもう読んだ?」
「いいえ」
「そりゃいかんな。是非読んで見たまえよ。あれはホント、勉強になる」

と、読みたくもない話題の書籍を読むことを薦めてくることがあるのだ。

たいていの場合「○○○」という本はビジネス書や政治家がゴーストライターに書かせたものが多い。
私はこのようなビジネス書や政治家先生がゴーストライターに書かせた「提言書」の類いは実のところ好みではないので、「よけいなお世話じゃい」と思いつつ「はあ、それでは機会があれば一度読んでみましょう」などと言って相手を怒らせないように誤魔化すのが普通だ。

かように人様に薦められる本が、自分の好みに合うとは限らないのは当たり前。
「読みたまえ」と語るぐらいなら少しは先に内容を教えてくれても良さそうなものだが、教えてくれることは、まずない。

新聞雑誌の書評欄のお薦めは得意先のオヤジが薦めてくる本に比べると格段にヒット率が高くなる。
それは得意先のお薦めは1冊か2冊に絞られていることに対し、書評はいろいろな選択肢の中から自分でこの本は面白うそうだと選ぶ違いがあるからまともな本をヒットする確率が増えるのだと思える。

ところで、私はFM大阪(FM東京系列)で毎週土曜日夕方に放送されている「Saturday Waitting Bar Avanti」という番組が大好きで、ここ数年時間が合えばダイヤルを合わせている。
この番組は東京仙台坂にある架空のイタリアレストランを舞台にして毎回各界から有名人や知識人を出演させ、彼らが酒を飲みながら話す内容にリスナーが耳を傾けるという主旨の番組だ。

昨年末のこの番組で「本の雑誌」の編集者が出演し「本の雑誌創刊以来30年のベスト30を選んでみたんです」という話を始めた。
そこで堂々の一位に選ばれたのが今回紹介するH・F・セイント著「透明人間の告白」だった。
昔の怪奇小説の透明人間と異なり1980年代に発表された本作は「リアリティがあって面白い」というようなことが語られていた。
NYで証券アナリストを務める主人公がとある事故で透明人間になってしまう。そしてCIAから追われる身になってしまうのだが.....、という筋書きを聞いた時「面白そうじゃないか」と思ったのだった。
なんでも、本の雑誌編集長の椎名誠氏以下主要編集員の3人が同意見であったというだけに「面白いに違いない」と期待させられ、新年早々買い求めたのだった。

だが、結論から言って「失敗」であった。

アイデアは悪くない。
ストーリーも面白い。
しかし物語の進行速度が著しく遅く感じられ、くどいのだ。
1980年代の読者であれば、間違いなく物語に没入していける力を持った小説だが、私には不自然で、読むのがかなり苦痛の一冊だった。

で、ここから昨日のブログにリンクするのだが、私は「リアリティのないSF」は受け付けない。
理由は昨日の通りだが、この小説の中での透明人間についての記述が私にはまったくリアリティに欠け矛盾だらけのために、ユニークなストーリーにも関わらずまったく楽しめないという事態が現出したのだった。
例えば「透明人間になった主人公はまったく他人から見えないのに、人や建物、家具などの物体にぶつかると物理的に衝撃を受けたり、与えたりする」ということが、論理的に矛盾していて楽しめない。
もし仮に主人公が見えないのであれば光がスルーで通過するということであり、光がスルーで通過するという「物体」であれば、その物体が他の物体にぶつかって物理的力が生じるわけがないのだ。
物理的に力が生じるものには光も物理的にぶつかり反応するわけだから「透明」であるはずはない。
そしてさらに、なぜ透明になっているのかという「科学的説明(ウソでもいい。ホントらしければ)」もないのでSF小説というよりも安物のマンガのような感じがしてしまう。
この説明には物体を透明に見せる方法に周囲の空間をねじ曲げるという方法がある。
これはなにも昨日のブログに記したSF番組の影響で述べているわけではない。
大きな重力や磁力を加えると、その周囲を通過する光は湾曲することは天文学や物理学で立証されているので、そういう既存の科学的事実を利用してそれらしく説明してほしかったのだ。

結局、書評を信じて購入しても、得意先の偉いさんに推薦を受けるのと同じような状況に遭遇することもあり得る、という実例に今回はなったというわけだ。
嗚呼、哀しい。

せっかく上下巻併せて買ったし、物語の筋は悪くない。
だからなんとか下巻も読了したいと思っているのだが.................。

~「透明人間の告白」H・F・セイント著 高見浩訳 新潮文庫刊~

9.11生死を分けた102分

2006年01月05日 20時58分17秒 | 書評
生まれて初めて劇場で観た洋画は「タワーリングインフェルノ」(1974年作)だった。

サンフランシスコに建設された138階建の超高層ビル「グラスタワー」(もちろん架空のビル)
そのオープン記念のレセプションの当日に火災に見舞われ全館地獄と化していくというストーリーだった。
火災で逃げ遅れた人々や、過酷な状況の中を逃げ延びようとする人たちを描いたドラマは見ていて子供心にも凄くて怖いという強い印象を受けたことを覚えている。

火災の原因はポール・ニューマン演ずるビルの設計者ダグ・ロバーツがウィリアム・ホールデン演ずるビルのオーナーから「建設費を安く上げろ」と強要されて使用した安物の電材にあった。
つまりニューマンは姉歯設計士でホールデンはヒューザー小島社長というところか。(そんなにエエもんではないが)

ともかく火災から脱しようとする人たち、それを助けようとするスティーブ・マクイーン演ずる消防チーフを始めとする消防士たち。
地上数百メートルで繰り広げられる生死のドラマは、まさにパニック映画の金字塔であった。

それから26年後。
まさか映画のストーリーが現実になるとは誰も想像していなかったに違いない。
しかも場所はニューヨークのワールドトレードセンター。建物も二棟。

9.11の同時多発テロは「テロ」が全面に押し出されているためになぜあの摩天楼が航空機の突入からわずか2時間以内で2棟とも倒壊してしまったのか。

その原因に迫った報道は、これまでほとんどなされていなかった。
また、事件直後、多くの人々が勇敢なる職務に対して殉職した消防士や警察官を讚えたが、では倒壊するまでの「102分間」に、建物の中ではどのようなドラマが展開されていたのか。
それが報道されることもほとんどなかったのだ。

本書は事件後数年が経過して出版された「9.11」関連本である。
なぜ、これだけの時間的ギャップが生じたのは、読めばすぐに理解することができる。
本書では、航空機が突っ込んでから多くの人々がどのような行動をとったのか。
死に直面した人々は家族にどのようなメッセージを残したのか。
果たして消防や警察は本当に英雄だったのか。
それらを膨大な証言と無線の交信記録、残された電子メールなどをもとにショッキングに描かれているのだ。
著者はニューヨークタイムス社の2人の記者。
新聞記者の緻密な取材が実現させた精緻なノンフィクションである。

ここには多くの衝撃的なドラマと、建物にまつわる事実が描かれていて、読む者を戦慄させる恐ろしさがある。
そして「テロ」で建物が倒壊したという意味の他に、超高層ビルの欠陥と防災に対するシステムの欠陥を見事に浮かび上がらせているのが本書の特徴だ。

たとえば、9.11当日。消防と警察は無線を利用してお互いに情報をやりとりすることがまったくできなかった。さらに、消防無線はシステムの不備のために高層ビルの高層階には届かないという状態が日常化していた。
警察と消防は日常からいがみ合いを演じており、たとえば建物倒壊の兆候を認めた警察のヘリコプターが消防などしかるべき機関へ連絡する術を持ち合わせていなかった。

建物もいい加減であった。
1970年代中ごろ、ツインビルを設計した日系人建築士ミノル・ヤマシタは使用される鋼材の耐火性能に疑問があると提起しながら、その材料を使用して建物を建設した。
おまけにビルの運営公社は家賃率を良くするため、非常階段の設置数を減らし、しかも一ヶ所に集中させるという愚作までとっていたのだ。

読み進んでいくにつれて「テロによる恐怖」よりも、あの映画「タワーリングインフェルノ」で観た欠陥高層ビルの恐怖と重なるところの方が多々あることに気がついた。

9.11の悲劇の発端は「テロ」であるが、その舞台装置は建物が建設されはじめたときから存在していたのだ。

日本の高層ビルは果たして大丈夫なのか。
「テロ」に弱い政治構造と、建築審査に甘い行政組織が、ニューヨーク以上の悲劇を生まないと、いったいだれが断言できるだろうか。

~「9.11生死を分けた102分」ジム・ドワイヤー&ケヴィン・フリン著 三川基好訳 文藝春秋刊~

日本はナチスと同罪か

2005年12月26日 20時54分15秒 | 書評
先のASEANプラス3カ国会議の席上で「靖国神社に参拝したことを理由に会見を見送るのはおかしい」と小泉首相が名指しで中国を批判してから平穏な状態が続いている。
何が平穏かというと中国と韓国という二大反日国家の人たちが私たちの国に文句をつけるのをぴたりと休止しているということだ。
もっとも、中国は相次ぐ化学工場の事故や経済的な不正事件などでそれどころではなく、韓国も嘘つき事件が噴出してそれどころではないのだろう。
このウソやまやかし、恫喝、詐欺、殺人といったことがとても得意なヤクザのような二つの国(実際に親分子分の関係にある、としか見えない部分があるのが面白い)も、真実を知っている東南アジアの国々の前でめったに文句を言わない日本が怒りをぶちまけたのだから口をつぐんで当然だ。

この二国が得意のスキルを駆使して行ってきたキャンペーンに「日本は残酷だ」「日本は謝罪しないし、誠意もまったく足りない」というものがある。
本当ならばキャンペーンに反論しなければならない日本のマスコミがこの術に乗っかって「自分たちは悪い国です。侵略、略奪、人身売買、強姦、殺人、なんでもやって謝ろうともいたしません。」と記事にした。
これが戦後60年間も続いたものだから、一部の国民はウソをホントと思うようになった。
その代表が南京大虐殺。
「南京大虐殺があったと証明できる証拠は何もない」と原稿に書いたら「相応しくないから「あった」と書き直さなければ出版できません」という憲法無視の出版社も登場した。

で、これと比べて日本と一緒に戦ったドイツはホロコーストに謝罪して、日本とは比べ物にもならない金額を被害者に拠出して戦後補償を行っているらしい。
「ドイツを見習え」意見が声高に叫ばれた。
今も叫んでいる人がいる。
しかし、ホントにドイツはそんなに偉いのか。
そして日本はドイツと同罪なのか。
今の日本人にそこんところを論理的に説明できる人は数少ない。

この「日本はナチスと同罪か」はそういう「ドイツは立派」という論争は明らかな幻であることを論破している良書だ。
著者は扶桑社「新しい歴史教科書」の中心的役割を果たしている電通大名誉教授の西尾幹二氏。

冒頭、前書きを読んだ読者はまず意外な事実に呆気を取られるだろう。
「未だドイツはいかなる国家とも講和条約を結んでいない」
日本人にとって意外なのは、日本が一部を除く旧連合国に対して終戦後わずか数年をしてサンフランシスコ講和条約という国際条約を結ぶことによって過去を完全に清算していることに対して、ドイツという国家は未だ旧敵対国家とまったく講和条約を結んでいないという事実だ。
しかも、日本が国を挙げて「戦争責任を取るべし」と尽してきたことに対して、ドイツは「ホロコースト」も「侵略戦争」もすべて「ナチス(という一つの政党)のやったこと」だから「ドイツ国民は関係ない」ということを正式に述べているのだ。

よくよく考えてみると前大戦中、日本は三国軍事同盟でドイツ、イタリアと同盟を結んでいたが一緒に軍事行動を取ったことはまったくなかった。(情報交換はあった)
ドイツが実施した身障者と病人の殲滅や、ユダヤ人やジプシーといった民族殲滅というような戦争とはまったく関係のない「犯罪」を日本はまったく犯していない。
つまり日本とナチスドイツを比べるというのは一見的を得たような論争のように見られるが、きっちりと調べてみるとまったくお話にならない論争ということに気づかされるのだ。

戦後日本はミャンマーと賠償責任を結び国交を回復したのを皮切りに1974年にベトナム民主共和国(北ベトナム)と国交を回復するまでほとんど全ての国と条約を結び、大戦に対する精算と責任を果たしてきたのだ。
中国、韓国についてもまったく同じで、今さら彼らが日本にケチをつけてくる理由はまったくない。今の彼らの言動と公道は私たちの理由ではなく彼らの事情によるところというのが事実なのだ。
それに乗っかり自国を非難するマスコミや一部政党、市民団体はいったい何を考えているのだろうか。

本書は日本とドイツの先の大戦に対する位置づけをきっちりと論じている数少ない一冊と言えるだろう。

~「日本はナチスと同罪か 異なる悲劇 日本とドイツ」西尾幹二著 ワック刊~