子供の頃、小学館(学研だったかも知れない)の「なぜなにシリーズ」という図鑑が大好きで、それを見るため(読むためではない)によく図書室へ行った。
そこにはピラミッドや古墳のなど世界の謎がカラー写真やイラストと共に説明されており、私たち子供の想像力をかき立てた。
その中でも、最も印象的だったのが古代人が考えた宇宙の姿だった。
星々が描かれた巨大なドームの中に数頭の象に支えられた半球状の大地が乗っていて「象が動いたら地震になる」という古代インド人の宇宙観や、どこの文明かは忘れたが大きな船に乗った大地が天上から吊るされた星々のもとユラユラしているものがあったように記憶している。
以来、私にとって宇宙は「なぜなに」の中の一番の関心事になり、ちょうど訪れた火星大接近ブームが宇宙への関心をさらに高めてくれた。
ある夕方、勤め人であった父は会社から帰ってくるなり私のたたき起こし、まだ開いていたいくつかの店を自動車で駆け巡り安物(たぶん)の望遠鏡を買い求め、そのまま私を連れて大阪と奈良の府県境にある生駒山へ登った。
「あれが火星やぞ」
と父が望遠鏡で見せてくれた火星は米粒よりも小さくただ赤いだけ。
「図鑑とえらいちゃうやん」
と思ったものの、口には出さなかった。
というのも、火星はともかく望遠鏡で見る星々は肉眼で見るよりも一層美しく神秘的だったからだ。
小学校高学年になると雑誌の通販で買ってもらった、もうちょっとマシな天体望遠鏡と愛読誌「天文ガイド」と「天体と気象」となぜか「UFOと宇宙」を持って、父の故郷である田舎の岡山へ行って冬はオリオン座、夏は天の川などを眺めて(観測はしない)は悦にふけっていた。
岡山には国内最大の望遠鏡(日本最大(=世界最大)の望遠鏡はハワイにある「すばる」)を抱える国立天文台岡山観測所があり、そこの博物館へ連れて行ってもらったりして、天文への関心はますます高まった。
「大人になったら天文学者になりたい」
とある日、両親に言ったところ、
「どうやって生活すんねん」
と、とても子供に言うセリフとは思えない現実的な回答が戻ってきて「天文学者=ビンボ~」という印象が植え付けられ多少失望した。
しかし、宇宙に対する関心は縮まるどころか、さらに広まってしまった。
それは中学に入学してすぐに見た深夜のテレビ番組の影響であった。
その番組は、ある宇宙船が5年間の調査飛行と称して、宇宙のあちらこちらを飛び回るという、当時としては画期的なコンセプトのSF番組で、このため私には望遠鏡を覗きながら「あの星へ行って見たい」という余計な想像が加わることになった。
大人になってから望遠鏡で空を見つめることは、残念ながらなくなってしまったが、宇宙への関心は失われていない。
今日でもなお、宇宙にまつわる書物は時々目を通してしまうし、「宇宙探査計画」などという見出しを新聞で見つけるとワクワクしてしまうのだ。
ただ宇宙を考える上で、出来るだけ避けようとしていることに宇宙の起源と宇宙の果てという二つのものがある。
というのも、子供の頃は理屈で考えることがあまりが無かったので「宇宙の果て」や「宇宙の起源」を考えても頭が変になることはなかった。
しかし高校生になったころからこれら二つの命題を理屈で考えるようになり、考えれば考えるほど頭が変になってくるという現象が発生したからだ。
というのもこの命題はとてつもなく難解で答えものないものだかし、一部の宗教ファンの人たちのように「神様がいらっしゃる」なんてとても信じられなかったからだ。
したがって考えているうちに、
「宇宙は巨大な生物のホンの一部分なのかも知れない」
とか
「宇宙の構造と原子の構造は似ているので、私たちは想像も出来ないほど巨大な物体の原子の一つなのかも知れない」
と思えたりして、映画「アニーホール」の主人公の子供時代のように鬱状態になりそうになることがわかり、今では出来るだけ考えないようにしているのだ。
さて、サイモン・シン著「ビッグバン宇宙論」はこれまで人類が考えてきた「宇宙の構造」と「その成り立ち」を科学の歴史を通して、非常に分かりやすく描いている科学ドキュメントだ。
太古から人類は宇宙の構造とその成り立ちを探るため、非常な努力を重ねてきた。
その努力は宗教などがもたらす既成概念との闘いであったことも印象的だ。
神が造りたもうた宇宙からビッグバン理論完成に到る道筋は、実際のところ学校の地学や歴史の時間で学んでもよく分らないことばかりだった。
とりわけ近代に入ってからというもの、宇宙を説明するにはアインシュタインの相対性理論のように素人には理解不能に近い物理理論やパルサーやクエーサーなどといった「そんな星がホンマにあるのん?」と思えるような存在について理解しなければならなくなった。
しかも現在では量子物理学まで知らなければならないとなると、「天文学者にならなくて(なれなかっただろうが)よかった」とさだまさしの歌の題名と反対の言葉を出してしまいたくなる気持ちになってしまうのだ。
ところがこの「ビッグバン宇宙論」は、そんな訳の分らない理論を、かみ砕いてできるだけ素人にも理解できるよう優しい言葉で書かれているのが大きな魅力なのだ。
科学の歴史、そしてそれを演出するダイナミックな人間劇。
これこそ、本書の醍醐味だろう。
~「ビッグバン宇宙論 上・下」サイモン・シン著 青木薫訳 新潮社刊~
そこにはピラミッドや古墳のなど世界の謎がカラー写真やイラストと共に説明されており、私たち子供の想像力をかき立てた。
その中でも、最も印象的だったのが古代人が考えた宇宙の姿だった。
星々が描かれた巨大なドームの中に数頭の象に支えられた半球状の大地が乗っていて「象が動いたら地震になる」という古代インド人の宇宙観や、どこの文明かは忘れたが大きな船に乗った大地が天上から吊るされた星々のもとユラユラしているものがあったように記憶している。
以来、私にとって宇宙は「なぜなに」の中の一番の関心事になり、ちょうど訪れた火星大接近ブームが宇宙への関心をさらに高めてくれた。
ある夕方、勤め人であった父は会社から帰ってくるなり私のたたき起こし、まだ開いていたいくつかの店を自動車で駆け巡り安物(たぶん)の望遠鏡を買い求め、そのまま私を連れて大阪と奈良の府県境にある生駒山へ登った。
「あれが火星やぞ」
と父が望遠鏡で見せてくれた火星は米粒よりも小さくただ赤いだけ。
「図鑑とえらいちゃうやん」
と思ったものの、口には出さなかった。
というのも、火星はともかく望遠鏡で見る星々は肉眼で見るよりも一層美しく神秘的だったからだ。
小学校高学年になると雑誌の通販で買ってもらった、もうちょっとマシな天体望遠鏡と愛読誌「天文ガイド」と「天体と気象」となぜか「UFOと宇宙」を持って、父の故郷である田舎の岡山へ行って冬はオリオン座、夏は天の川などを眺めて(観測はしない)は悦にふけっていた。
岡山には国内最大の望遠鏡(日本最大(=世界最大)の望遠鏡はハワイにある「すばる」)を抱える国立天文台岡山観測所があり、そこの博物館へ連れて行ってもらったりして、天文への関心はますます高まった。
「大人になったら天文学者になりたい」
とある日、両親に言ったところ、
「どうやって生活すんねん」
と、とても子供に言うセリフとは思えない現実的な回答が戻ってきて「天文学者=ビンボ~」という印象が植え付けられ多少失望した。
しかし、宇宙に対する関心は縮まるどころか、さらに広まってしまった。
それは中学に入学してすぐに見た深夜のテレビ番組の影響であった。
その番組は、ある宇宙船が5年間の調査飛行と称して、宇宙のあちらこちらを飛び回るという、当時としては画期的なコンセプトのSF番組で、このため私には望遠鏡を覗きながら「あの星へ行って見たい」という余計な想像が加わることになった。
大人になってから望遠鏡で空を見つめることは、残念ながらなくなってしまったが、宇宙への関心は失われていない。
今日でもなお、宇宙にまつわる書物は時々目を通してしまうし、「宇宙探査計画」などという見出しを新聞で見つけるとワクワクしてしまうのだ。
ただ宇宙を考える上で、出来るだけ避けようとしていることに宇宙の起源と宇宙の果てという二つのものがある。
というのも、子供の頃は理屈で考えることがあまりが無かったので「宇宙の果て」や「宇宙の起源」を考えても頭が変になることはなかった。
しかし高校生になったころからこれら二つの命題を理屈で考えるようになり、考えれば考えるほど頭が変になってくるという現象が発生したからだ。
というのもこの命題はとてつもなく難解で答えものないものだかし、一部の宗教ファンの人たちのように「神様がいらっしゃる」なんてとても信じられなかったからだ。
したがって考えているうちに、
「宇宙は巨大な生物のホンの一部分なのかも知れない」
とか
「宇宙の構造と原子の構造は似ているので、私たちは想像も出来ないほど巨大な物体の原子の一つなのかも知れない」
と思えたりして、映画「アニーホール」の主人公の子供時代のように鬱状態になりそうになることがわかり、今では出来るだけ考えないようにしているのだ。
さて、サイモン・シン著「ビッグバン宇宙論」はこれまで人類が考えてきた「宇宙の構造」と「その成り立ち」を科学の歴史を通して、非常に分かりやすく描いている科学ドキュメントだ。
太古から人類は宇宙の構造とその成り立ちを探るため、非常な努力を重ねてきた。
その努力は宗教などがもたらす既成概念との闘いであったことも印象的だ。
神が造りたもうた宇宙からビッグバン理論完成に到る道筋は、実際のところ学校の地学や歴史の時間で学んでもよく分らないことばかりだった。
とりわけ近代に入ってからというもの、宇宙を説明するにはアインシュタインの相対性理論のように素人には理解不能に近い物理理論やパルサーやクエーサーなどといった「そんな星がホンマにあるのん?」と思えるような存在について理解しなければならなくなった。
しかも現在では量子物理学まで知らなければならないとなると、「天文学者にならなくて(なれなかっただろうが)よかった」とさだまさしの歌の題名と反対の言葉を出してしまいたくなる気持ちになってしまうのだ。
ところがこの「ビッグバン宇宙論」は、そんな訳の分らない理論を、かみ砕いてできるだけ素人にも理解できるよう優しい言葉で書かれているのが大きな魅力なのだ。
科学の歴史、そしてそれを演出するダイナミックな人間劇。
これこそ、本書の醍醐味だろう。
~「ビッグバン宇宙論 上・下」サイモン・シン著 青木薫訳 新潮社刊~