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とりがら時事放談『コラム新喜劇』

政治、経済、映画、寄席、旅に風俗、なんでもありの個人的オピニオン・サイト

iCon

2005年12月17日 21時16分07秒 | 書評
初めて買ったパソコンはシャープから発売されたばかりのX1という機種だった。
購入のポイントは「美しいグラフィクスが作れること」。
1982年の当時としては随分と乱暴な要望だった。しかし、大学で映像を専攻していた私にとって、CGを描くということ以外に高価なパソコンを買う理由はまったくなかった。

実はこのX1を購入したとき、とある雑誌で目を留めて欲しいと思ったパソコンがあった。
しかしその時は高価すぎて買うことの出来なかった。
それがAppleだった。

今週、アメリカの調査会社が「今、最も優れたCEO」は誰かという調査結果を公開した。
一位がマイクロソフトのビル・ゲイツ会長。
パソコン業界を実効支配する帝王だ。
そして二位がスティーブ・ジョブス。
有史以来マイクロソフトのライバルとして存在してきたアップルコンピューターの最高経営責任者だ。
過去二十数年、業界をリードし現代の産業革命を起こしてきたこの二人が最も優れたCEOに選ばれたことは尤もなことだろう。
一方私たち一般の者にとって、二人はパソコン用オペレーションシステムの覇権を争ってきた単なるライバル同士、というようなイメージしか持ちあわせていない。
しかしIT草創期の頃ならいざ知らず、21世紀の今、その状況はかなり異なってきているのだ。
OSという分野ではもはやアップルがいくら努力してもマイクロソフトにはかなわない。
電脳世界はウィンドウズPCが席巻し、天変地異にも似た異変でもない限り、かなりの期間現在の状況は続くだろう。
だからといって、かつてのパーソナルコンピュータの雄であるアップルが滅びてしまったかと言えばそうではない。
今、アップルはマイクロソフトが真似ようとしても太刀打ちできないことを可能にしつつある。
つまりそれはコンピュータが単なる道具ではなく、ライフスタイルの一部であるというカルチャーを創出するものといったことの証明だ。

1980年代にして「Cool!かっこいい」
という要素がコンピュータには必要だというアップルのコンセプトは、優れたグラフィック性能を生み出した。
このあまりに奇抜なコンセプトと個性のためアップルとジョブスは一度滅びかけた。
ところがジョブスがアップルを追放されていた15年という歳月の間に、上質のワインが酒蔵の中で育まれるように双方を発酵熟成させ、ついにまったく新しいコンセプトで蘇ったのだった。

本書「iConスティーブ・ジョブス 偶像復活」はそのアップルコンピューターの創業者、スティーブ・ジョブスの伝記である。
しかし単なる伝記にとどまらず、今や神話となっているアップルが巻き起こした80年代の旋風と、その後に続く醜いまでのアップルとジョブスの没落が克明に描かれている。
そして一番興味深いのは、これまでのコンピュータ文化を扱った書籍と違い映画界の裏の世界を克明に描いていることだ。
多くの人々は、大のお気に入りの「トイストーリー」や「モンスターズインク」「Mr.インクレディブル」を製作したアニメーションスタジオのCEOとアップルのCEOが同一人物であることを知らずにいる。
15年間の間にジョブズがいかに映画の世界と関わることになったかを知ることで、ゲイツ率いるコンピューターの世界から別の世界へ飛び出したアップルの世界を理解することができるようになる。
そう、コンピューターメーカーのアップルはiMacの登場から現在独走するiPodの快進撃に見られるようにマイクロソフトが支配しているPC世界とはまったく異なった文化を生み出しているのだ。

本書はここまでに至る波乱の歴史を多数の証言と取材によりスリリングでエキサイティングに描いたドキュメントだ。
そしてさらに一つのベンチャー企業とそれを生み出した一人の男の大河ドラマといえるだろう。

~「iCon スティーブ・ジョブス 偶像復活」ジェフリー・S・ヤング、ウィリアム・サイモン著 井口耕二訳~

驕れる白人と闘うための日本近代史

2005年12月10日 21時57分07秒 | 書評
中東以東、世界史上アジアの国々の中で植民地にならななかった国はタイと日本の2カ国しかない。
中国は植民地にはならなかったが、主要な都市には治外法権の外国人の街が作られ、経済は完膚無きまで外国人に握られた。
私たちとタイとが他国に侵略されなかった理由はいったいなにか。
それをつらつらと考えてみると次のようなことが挙げられる。
まずタイは西欧列強が最もその影響力をアジアに及ぼしていたとき、現チャクリ王朝が誕生したことが幸いした。
現在のプミポン国王に見られるように、チャクリ王朝の歴代王様は時代を見る目が機敏で、かつ強力な指導力を持っていた。
しかもその指導力はロシア帝国のごとき一方的な専制主義ではなく、国民に愛される半専制君主制であり、それがためプミポン国王若かりし日に立憲君主制国家へと速やかに移行することができたのだ。

「われわれがアメリカやイギリスの宣教師たちと交際しているのは、科学や芸術についての知識を欲しているからであって...(中略).....わが国は、あなた方の考えているような(未開野蛮の)国ではない。なぜならば、われわれは古来、道理と礼節をわきまえているからである。(中略)ユダヤ人の宗教などはしょせん比ぶべくもないのである」(石井米雄著 タイ仏教入門 めこん刊より)
というのは、1833年シンガポール・コロニクル紙に掲載されたモンクット親王のお言葉である。
モンクット親王とは映画やミュージカルにもなった「私と王様」のモデル、後のラーマ4世王のことだ。
このような凛とした指導者をいただいたタイ王国も列強の植民地になることは免れたものの、領土の一部は切り取られるという屈辱は味わっている。
「メコン川以北を抛棄したら、軍事行動を控えてやる」というフランスの脅しに屈して手放した領土が現在のラオスであり、イスラム教徒の人口が多く、度々テロが発生している南部の一部はイギリスに盗られたものを、日本軍が力づくで取りもどしてタイにひっつけた地域なのだ。

では、なぜ私たちの日本が植民地にならずに済んだのか。
その原因は、まず19世紀の半ばは欧州、米国ともに大きな紛争問題を抱えていたことが挙げられる。
フランスとプロシャ(ドイツ)は一触即発の状態にあり、米国にはリンカーン大統領が出現し、今にも南北戦争が始まらんとしていた時なのだ。
そして大英帝国もインドを手中に収め、アヘン戦争で中国を破壊しはしたものの、前線が延びきって、大艦隊を日本まで送るだけの余裕を失いつつあった。
しかし、これらの国際的要素よりも、もっと大きな原因が日本国内に存在していてことを、学校は教えないし、テレビも新聞も伝えないのだ。
1854年(嘉永6年)にぺーリー提督率いるアメリカ東洋艦隊が浦賀沖に現れた時点で、日本国民の識字率を上回る欧米列強の国はまったくなかった。
この嘉永6年の時点で全国の学校にあたる寺子屋は1万件以上。特別な理由がない限り、ほとんどの国民が仮名と簡単な漢字を読むことができたのだ。
そして列強より進んだ資本主義経済体制があった。
学校教育では明治維新以前の日本社会は「封建主義」と言われているが、実際は高度な資本主義社会で、すでに株式相場や先物取引、飛脚に代表される通信事業に国道整備の宿場制が驚くほどに機能していたのだ。
為替制度も完璧で、三井住友銀行、UFJ銀行の前身はすでに「両替商」という名称で、現在とほぼ似たりよったりの事業を行っていた。
そこへ「我らは文明。我らこそ神の名の下に高度な文明(キリスト教を基盤とする資本主義)を伝えるミショナリー」とやって来た欧米列強は異文化にしてすでに近代社会へ突入していた日本という謎に満ちた未知の国にであったのだ。
武力が日本を救ったのでもなく、運が日本を救ったものでもなかったのだ。
つまり高度な教育体制と、経済システムが日本を無意識のうちに植民地化の陰謀から救ったのだった。

「日本」といえば、欧米では未だに「フジヤマ、ゲイシャにニンジャにスモウにスシ、トウフ」といったイメージが強いようだ。
これはひとえに日本人が自分の国を宣伝しないこことにあると思えるのだが、たとえば海外に住む、その日本人自身が満足な歴史教育をなされておらず、母国に対する知識に乏しいため外国人に十分な説明をすることができないことに原因があるのではないかと思われてならない。

「驕れる白人と闘うための日本近代史」は、このような海外で活躍する日本人ばかりでなく、全ての日本人が目を通すべき書籍といえるのだ。
著者の松原久子さんは長年ドイツで生活し、現在はアメリカに居を構える正統日本人の論客だ。
日本に対する誤ったイメージを得意のドイツ語と英語を駆使し、相手を説き伏せて行くことのできる数少ない日本人なのだ。
本書を読むことで、なぜ日本が突如世界史に登場し、そのまま列強の仲間入りをし、戦争に負けはしたがそのまま現在に至ったかを、読者は客観的かつ具体的に知ることができるだろう。

~「驕れる白人と闘うための日本近代史」松原久子著(原著はドイツ語) 田中敏訳 文藝春秋社刊~

七歳の捕虜

2005年12月07日 21時23分45秒 | 書評
これまで見てきたテレビドラマで最も感動し印象に残っている作品はNHKのミニシリーズ「大地の子」だ。
中国残留孤児を採上げた山崎豊子原作のこのドラマは、近ごろめっきりスケールが小さくなった大河ドラマとは比べられない巨大なスケールを持っていた。

終戦後、ソビエト軍の急襲を恐れながら日本へ引き揚げようとしていた満州の一家に悲劇が訪れる。
離れ離れになった親子、兄妹がその後、2つの国で2つの人生を歩み、そしてやがて再会するという劇的な内容だ。
後半の数話は、恥ずかしながらティッシュペーパーを手元に置かなければ見ていることができないほどに心を打たれた。もちろんティッシュを手放せなかったのは涙を禁じ得なかったからで、読者は変なことを想像しないように。
とりわけ主人公が行方不明になっていた妹をやっと探し当てるエピソードが涙を誘った。
日本語を話せず、乏しい中国人の養母の面倒を見るために結核の治療も受けられずに死んでしまう妹。
その妹の死の直後、実父に再会するという運命の仕打ち。
このシーンを見ていた私は、まるで先日のフィギュアスケートGPを初制覇した織田信成選手のように号泣してしまったのだった。

先の大戦は数多くの戦災孤児を生み出し、普通の人生を送るべきして生まれてきた普通の人々を、数奇で過酷な運命へと導いてしまった。
それは日本人に対しても、中国人に対しても同じだったのだ。

「七歳の捕虜」は七歳で日本軍の捕虜となり、その後日本軍とともに行軍し、終戦後は日本に帰化した実在する人物の回顧録である。

日本が中国の戦乱に介入していった理由は数多くあるだろう。
軍部の暴走。
欧米列強の嫌がらせやケンカの挑発。
中国そのものの内乱状態。
などなど。
世界史における当時の状況、つまり覇権主義の世界環境にあって、このとき日本のとった行動は必ずしも世間の言うような非難されるべき内容ではない、と私は考えている。
考えているが、やはり戦争は数々の悲劇を生み、その一番大きな犠牲となるのは年端もいかぬ子どもであることは今も昔も変らない。

この回顧録で、主人公の少年は「学校に行かせてあげたい」という実母の望で中国軍の将校に預けられるが、その将校が少年に「新しい名前」として俊明(しゅんめい)という名前を与えてしまったことから、やがて少年は自分の実名、そして母のいる街を忘れてしまう。
やがて将校とともに日本軍の捕虜となった少年は「としあき」と呼ばれ、日本軍の兵士に可愛がられ、ともに従軍していくのだ。
敗戦後、バンコクの収容所に中国軍の使節が少年を迎えに来るのだが、中国語さえ忘れ、母の所在地も思い出せない少年は日本へ行くことを希望するのだ。

本書にはこの中国からインドシナへの行軍の間の日本兵について数多くのことが記されている。
一般に中国大陸での日本軍は「鬼」のようにいわれることが多いが、少年の見た日本兵は思いやりのある優しい大人たちであった。
先にマレーへ入っていた少年を可愛がっていた日本兵がバンコクで少年と再会すると号泣して「よかったな」と語りかけたという話には生きることの難しかった時代の心情を感じ、思わずぐっときたのである。

現在、神戸で貿易商を営む著者は1980年代になってテレビ局の力と国際機関を通じて中国の実母を探し求めたが、やっと見つけた母だと名乗る人物が、実母ではなく、未だに生みの母には再会できずにいることが書かれていた。
その母だと名乗った中国人の老女も戦中に子どもとはぐれ、常に探し求めているのだという。
そしてこのような中国人親子の離れ離れの話は無数にあり、社会的問題の一つだという。

この回顧録は中国から見た「大地の子」なのかも知れない。

~「七歳の捕虜 ~ある中国少年にとっての「戦争と平和」」~光俊明著 現代教養文庫刊

マンガ嫌韓流の真実

2005年11月29日 20時52分53秒 | 書評
発売後、1ヶ月で30万部を売り尽くしたマンガ「嫌韓流」(晋遊社刊)は、どういう理由かほとんどメディアに採上げられることがなかった。
書籍が売れないといわれる現代に於いて30万部という数字は決して小さいものではない。
実際のところ、インターネットを使った口コミによって多くの人々広まった「嫌韓流」を、どうしてメディアは採上げなかったのか。
その理由を探れば探るほど、現代日本の捻じれた世相が浮かび上がってくるのだ。

本書は同和問題や仁侠の世界など、数々のタブーに正面から挑んできた出版社「宝島社」が、「マンガ嫌韓流」が社会にもたらしたものと、その社会そのものの背景を、マンガ嫌韓流にも登場したジャーナリストや学者の言葉を引用し、徹底検証を試みたユニークな一冊だ。

ホントのところ、表紙に派手に書かれていた「マンガ嫌韓流の真実 韓国/半島タブーの超入門」という見出しほどのインパクトは内容にはなかった。
日韓併合の歴史的な事情についても、
創氏改名の事実についても、
朝日新聞の誤報から始まった従軍慰安婦の問題にしても、
おおむね多くの日本人や在日の韓国朝鮮人たちにとって既知の事実でしかなかった。
ただ、これらの「当たり前の内容」がこれまでの日本に於いてはおおっぴらに議論することができなかったこと。それこそが異常であり、そういう異常さの中で発生した日本人のうっ屈した不満がこの「マンガ嫌韓流」で表現されたのにすぎないのだ。

主要メディアが「マンガ嫌韓流」のベストセラーを黙殺したのは、単なる言論封鎖という事情だけではない。
現在多くのメディア(とりわけ国営放送NHK)は「韓流」というキーワードをビジネスとしている。
ドラマ「冬のソナタ」に始まった韓国ドラマのブームは意外な大きさで、メディアのビジネスに影響を与えたのだ。
関連のCD,DVDが売り出され、主演俳優の写真集や関連書籍が販売部数を伸ばしている。
韓国映画の封切り本数は従来の想像を超えている。
しかし実際のところ韓流に流されているのは一部の熱狂的な中高年の女性ファンと、それにつき合わされているその伴侶ぐらいなのだ。

過去50年。半島タブーを醸成し、正当な言論を封殺してきたマスメディアが、こんどは金目につられて情報を封鎖している。
いったいこの国の言論機関はどうなっているのだ、というのが真相だ。

面白いことに、この宝島社も韓流関連本を出版している。
ある意味「マンガ嫌韓流の真実」も韓流本といえるかも知れない。
いずれにせよ、マンガと解説本の本書を合わせて読むと、捻じれた日韓関係よりも強く捻じれている日本のメディアの姿が見えてくるのだ。

~「マンガ嫌韓流の真実 <韓国・半島タブーの超入門>」宝島社刊~

なぜ中韓になめられるのか

2005年11月11日 06時53分15秒 | 書評
「教育」というのは、国家の根幹を成すもので、経済や政治よりも大切なものということができるだろう。
我が日本国だけでなく、世界中どこの国でも、教育というものはその国の伝統と歴史、宗教、習慣などが十分に配慮された内容で行なわれている。

ところが日本では自国民を教育するためのシステムが1945年8月16日以降、腐っているため、わけのわからない人材を生み出して、国を破滅に向かわせているのだ。
その悪の温床が日教組という組合に所属する「我々は労働者だ。生徒たちを同化する。抵抗しても無意味だ」と宣っている先生方だ。
この「革新的」で「平和を愛する」「優秀」なはずの先生方に教育を受けた結果、多くの有能な若者が犯罪者の道へと走った。
その代表者たちが例えば知能指数だけが高くて、物事の善悪の判断ができないオウム真理教(アレフ)の信者たちや、母親にタリウムという化学物質を投与して、衰弱して行く様をブログにアップしていた女子中学生や、著作権の概念が欠如して、コピーは犯罪ではないと思い込んだ中国人のような京大生や研究員だ、ということができるだろう。

これら犯罪者を生み出した日教組の教師たちの一つの信条に「中韓に対する日本の反省」というのがある。
第2次大意戦中またはそれ以前に行った日中戦争や日韓併合は「日本の対アジア侵略行為であり、大いに反省すべき軍国主義である。だから中国、韓国には謝罪し続けなければならない」というのが、彼らの論理なのだ。そしてマルクスレーニン主義を信奉する彼らは、その詐欺師的思想も手伝って、目的達成ためには中韓のいうようなでっち上げの歴史でさえ、事実のように教科書などに書き加えさせることを厭わなかったのだ。

幸いなことに私の場合、小学生6年の時の先生が朝鮮で生まれた先生だったのだが、戦前の朝鮮での生活を偏りのない率直な物語で教えてくれたことや、高校時代の担任の一人が「君たち、ストライキで授業が休みになると期待しているでしょう?でも、うちの学校の先生には、日教組に加入するようなアホはいません!」というような人だったことに加え、大学を卒業したばかりの日本史の先生は毎度毎度「もし、坂本竜馬なら」とか「高杉晋作なら」とか、「命を賭けて国を守らんかい!」というような、とても女性とは思えないような、なんでもかんでも幕末維新に結びつける、超保守派の先生であったことも手伝って、知的犯罪の道に走らず、ごく普通のヘンテコ会社員になることができた。

この私の先生たちと相反する先生から教育を受けた人たちには、先に挙げたオウム信者のほかに、政治家と外務官僚という知的犯罪者(もどき)たちがいる。

「なぜ中韓になめられるのか」は最近とみに激しさを増している中韓による反日活動に対して、その原因は橋本龍太郎や河野洋平などに代表される媚中派の政治活動や態度、チャイナスクールと呼ばれる外務省の中国組の官僚たちの浅はかさと国賊ぶりにあるとして、実例を挙げながら論破している痛烈な一冊なのである。
著者は私の尊敬するところの政治評論家の屋山太郎。
屋山太郎の著作は長年海外特派員を務めたというキャリアを生かし、説得力のある正論を貫いて行くところがいつも魅力的である。
今回の本書も、政府要人たちの欲と無知のために中韓を増長させ、現在の状況を生み出していることが克明に描かれており、非常に興味がそそられる。
河野洋平が「江(沢民)の傭兵」と呼ばれているところなどは、思わず笑ってしまう部分ではあるが、笑ってばかりいられないのが、現在の日本と中韓の関係である。
また100年前に著された福沢諭吉の「脱亜論」の思想がそのまま現在でも通じるというのも驚きだった。
脱亜論に始まるアメリカ、カナダとASEANと日本で団結する海洋国家連合案にも大いに賛成なのであった。

ともかく、日中韓関係の様々な情報が交錯する中、本書はそれらを整理し理解するための絶好の参考書ということができるだろう。
~「なぜ中韓になめられるのか」屋山太郎著 扶桑社刊~

みどりの窓口を支える「マルス」の謎

2005年11月09日 21時42分56秒 | 書評
昨日、大阪へ帰る切符を買おうと水道橋駅のみどりの窓口へ行くと、2つあるカウンターが両方とも埋まっていた。
どちらも客は老齢のオバサンで、切符を買うのにもたもたしている。
「仙台からの切符と合計で1万4千○○円になります」
と駅員さんが説明しているのに、件のオバサンは一万円札一枚しか握っていない。
もう一方のオバサンはホテルの予約がどうとか、バスがどうとか、人数がどうとかギャアギャア言って駅員さんを困らせていた。
ホントのところ一番困ったのは私で、
「早よせんか、このオバハンども。東京駅から乗る新幹線が、だんだん遅くなるやんけ。ほんで、なんでこんな水道橋みたいなところに、学生でもビジネスマンでもない普通のオバハンがおるねん」
とイライラしていたのだ。
10分ほど待ってやっと切符を買うことができたのだが、みどりの窓口を出ると改札の手前に新幹線の指定券をクレジットカードで購入できる自動券売機があるのを見つけ「もっと目立ったところに置いとかんかい」と思ったのであった。

ところで、最近、窓口でなくても券売機で指定券が買えるくらい情報技術が発展してきているのだが、そこまで到るまでの道のりは決して単純ではなかったのである。
私が物心ついたときは、父はまだ給料とりで、それも安給料とりだったので、特急列車などに乗れなかった。
初めて座った指定席は、新幹線が岡山まで開通したときに乗車したひかり号だったように記憶する。
新大阪の駅で切符を買うと、駅員さんが大きなタブレットにピンを刺して行き先や希望座席を入力していたのを覚えている。
随分デカイ機械だな。凄いな。さすが国鉄だな。
と子供心にも感心したものだ。

この国鉄に始まりJRに受継がれている座席予約発行システムのことを「マルス」という。
本書「みどりの窓口を支える「マルス」の謎」は、このマルスの開発と進化の物語と、やがて訪れるであろう劇的な予約システムの変革を予想した、なかなか面白い技術歴史読本だ。

もともと手作業で行っていた列車予約業務がパンクして、それを電子計算機(コンピューター)で処理できないかという、1950年代後半当時では無謀ではないかということにチャレンジして始まったシステム開発だったらしい。
完成時はたった4本の列車の予約を処理しただけだったのが、やがて全国になり、新幹線が加わり、航空機の予約を始め、今ではレンタカーから宿泊、コンサート、各種イベントのチケット販売までこなしてしまう総合情報システムへ進化しているのだ。
フランス国鉄の資料によると、全世界で1日に鉄道を利用する人口は1億6千万人だという。
そのうちの実に6千5百万人が日本人であるという事実を、私たち日本人はあまり知らない。
マルスは日本が誇る情報処理技術の生きたモニュメントと言えるのだ。

1日に120万座席の販売をこなすマルスというシステムを知ることは、生産管理や営業分析など、今ではどんな業界でも当たり前になっているIT技術の基礎中の基礎を知ることでもある。
本書を読んで、JRに乗り、切符をじっと見つめていると、巨大な電脳世界の姿が浮かび上がってくるのだ。

~「みどりの窓口を支える「マルス」の謎」杉浦一機著 草思社刊~

県庁の星

2005年10月29日 22時08分10秒 | 書評
「えー、今後タイムカードは廃止して、この勤務記録表を使用します」
「なんですか?それ」
「このA4サイズの用紙の両面に必要事項を記入する表が印刷されています。毎日出勤したら自分のハンコをついて、その日の勤務時間を始業時間から終業時間まで記入してください」
「この『残業許可時間』って、なんです?」
「毎月の合計残業時間がその時間を越えないように勤務してください」
「でも1ヶ月『24時間』なんて無理ですよ。毎日2、3時間は必ず残業するんですから。そんなこと総務部長もご存知でしょ」
「だから『記入は24時間以内にしてください』という意味なんです」
「なに?」
「たとえ1ヶ月間に100時間残業残業しても24時間にしてください。」
「もし、過労で死んだらどうするんです?公式の記録は24時間。でも実際は200時間。だとしたら、労災、降りないんじゃないですか」
「そこは、なんとします。会社は放っておきません。」
「(ウソだろ)」
「勤務超過を放置して従業員に何かあれば『役所の責任になるから』という理由での役所からの指導です」
「ほほ~、大泉大津労働基準監督署の指示ですか」
「...そうです。お役所は責任をとりたくないので、そういう指導が入っています」
「ということは厚生労働省大阪労働局大泉大津労働基準監督署は『ウソの勤務記録を残させて』万一、誰かが過労死しても『ウチの責任じゃないですから』と言いたいがために、こんな書類の運用を弱小の民間企業に指導しているわけですね」
「大きな声で言わないでください。平たく言えば、そうです。でも役所には逆らえません」
「そうですか、たとえ正義に反してでも『役人が困らないようにしなければいけない』というのが、会社の考えであり『大泉大津労働基準監督署』のポリシーなわけですね」
「何か、他に言いたいことは?」
「わかりました。大泉大津労働基準監督署の指示ならば、仕方ありませんね」

というのが、数年前、うちの会社で交わされた月初会議での一コマだ。

一連の大阪市役所の不正行為を言うまでもなく、とんでもない人たちが多いことで知られる役人の世界。
今の日本の巨額財政赤字の生まれている原因は、民間が汗水垂らし命を削って稼いだお金を役人が放蕩三昧に使いまくっているというところにある。
確かに立派な役人の方も多いのだが(少ないと国が本当に潰れる)、それらの人は力がないのか、上記のような妙な指導を平気でする人が存在する。
つまり「自分のミスの実績を残さない構図を作る」のに躍起なのだ。
役人は形にこだわり、自分の起こした些細なミスも記録に残ることを嫌うあまり、自衛本能が働いて応用がまったく利かなくなってしまう。
たとえば、役所で物品を購入する時は、価格調査など面倒だから自分でしない。そのかわり複数業者に見積もりを出させて、それを公式な書類として添付する。
その「複数業者」が裏でつるんでいることを知っていても知らんぷり。
書類の形さえ整っていれば彼らには良いのだ。

このような、困った役所の困った役人が民間企業に研修にだされると、果たして、いったい、どうなるだろう。
というのが本書「県庁の星」のストーリーだ。
帯の広告にあるとおり「本末転倒、怒り心頭、抱腹絶倒、ラストは感動」の言葉通り、スリリングでスピーディな「感動!コメディ」だった。
聞くところによると織田裕二主演で映画製作も進んでいるということなので物語の内容には触れないが、役所のお役人の姿が、マニュアル世代の若者に重なりあうことも面白いし、物語内で展開される、なかなか鋭いマーケティング手法も興味をそそる。

ちょっと漫画チック過ぎるところもあるにはあるが、ほんと、これも帯の言葉どおり「手に汗握る、役人エンターテイメント」だった。

~「県庁の星」桂望実著 小学館刊~

キャメラマン一代

2005年10月26日 21時01分09秒 | 書評
手塚治虫の晩年の傑作「陽だまりの樹」の主人公の一人、伊武谷万二郎は北辰一刀流の修業のため神田お玉が池の千葉道場の門をくぐった。
そのわずか数日後、千葉周作先生が亡くなられ、伊武谷は悲嘆に暮れて泣き崩れる。
「なんだ、あいつ。まだ入門して三日目じゃないか」
諸先輩の剣士に苦笑される伊武谷だった。
それほど短い期間でしかなく、なおかつ直接の指導を受けることもなかった伊武谷なのに、周作先生への敬慕の念は凄まじいものだったのだ。

映画カメラマン、宮川一夫先生は私にとっての千葉周作に他ならない。
もっとも、私は宮川先生にたった3日しか教えを受けなかったといことは決してないし、直接ご指導を頂戴したこともある。
しかし、あまたいらっしゃる先生のお弟子さんからすると、わたしなんぞは千葉道場の伊武谷万二郎に他ならず、つまりその他大勢の学生の一人であり、そういうところが私には寂しくもあり、哀しくもある。

宮川先生の名前は、映画ファンなら知らない人はいないだろう。
映画カメラマンとしての業績は計り知れない。
先生が撮影した主な作品名を少し挙げるだけでも日本を代表する映画の題名が飛び出してくるのだ。
「無法松の一生(坂東妻三郎主演)」「羅生門(黒澤明監督)」「東京オリンピック(市川崑監督)」「雨月物語(溝口健二監督)」「浮草(小津安二郎監督)」「用心棒(黒澤明監督)」「瀬戸内少年野球団(篠田正浩監督)」などなど。
亡くなられる前の最後の作品は篠田正浩監督の「梟の城」で、車いすに乗り、たったワンカットだけファインダーを見られた。

宮川一夫先生の凄いところは、いつも頭が柔らかで、新しい技術を次から次へと吸収していかれることだった。
私が教えを受けた1980年代前半は映画のカメラにビデオが装着され、撮影されている画面をモニターで確認できるようになった頃だった。
またデジタル処理が始まり、ネガからポジにフィルムを焼く際に画調の細かな制御が可能にもなってきた。
これらの最新技術を私たちヒヨッコにもならない「たまごっち」レベルの連中に、熱い口調で論評し、あるいは称賛し、これからの映像製作について語り聞かせてくれたのだった。
「あのね、君。キャメラはね。動かなくちゃいけない。止まってちゃダメ。」
「白黒の画面には色が付いているんだよ。あの水墨画の濃淡にはカラーを感じるでしょ」
「未知との遭遇は凄いね。コンピュータを使って、あれだけ人の心を打つ映画がつくれるんだよ」
小柄な先生が私たち若者(当時)に語りかける目は、鋭く、真剣で、そして優しかった。

本書は1985年に先生が書き下ろした大映入社から現代(85年)までを振り返った自伝的なエッセイだ。
多くの監督との交流や、俳優、女優さんとのエピソード、撮影テクニック秘話などがふんだんに盛り込まれている。
そしてなによりも、映像を作ろうとする多くの若きクリエーターたちへの暖かい愛情に満ちたメッセージが折り込まれているのだ。

~「私の映画人生60年 キャメラマン一代」宮川一夫著 PHP出版刊~

メモ:この本は現在絶版です。神田の古書街では7800円というような法外な価格を付けて売っている店がありますが、インターネットで検索すると定価に近い良心的な価格で買い求めることができます。

片手の音

2005年10月22日 16時31分21秒 | 書評
毎年夏前後になると出版されるのが楽しみな本がある。
文藝春秋社が出版している○○年度ベストエッセイ集がそれだ。
「片手の音」は2005年度のベストエッセイ集。
表題のエッセイの他、数十点の作品が収められており、ベストというだけに、どれをとっても楽しめる作品ばかりなのだ。
作者の職業も多岐にわたっている。
プロの文筆業から会社役員、職人さん、主婦、学生などなど。
これだけの人々が、雑誌や同人、自己出版という形で作品を発表していると思うと、なんだか嬉しくなってくるのだ。
「日本の文学は死んでいる」などと真面目腐った顔で語る評論家然とした人たちの声が、新聞や雑誌などに掲載されることがすくなくない。
しかし、本当は多くの人々が日本語という千年以上にもわたり文字で言葉を表す技術を磨いてきた言語を用いて、キラキラと輝く文章を書いているのだ。
あるときは楽しく、またある時は哀しく、またあるときは可笑しく、書くことと読むことを楽しんでいる。

かくいう私も楽しんでいるのだ。

さて、今年の作品の中で最も印象に残ったのは「貸しふんどしの話」と「「ブルドック」の解散」だった。

「貸しふんどしの話」は友禅の職人をされている岩原俊産という人の作品だ。
なんでも江戸時代には江戸に貸しふんどし屋さんが存在し、重宝されていたという。
そのふんどしもリサイクルプロセスが整っていて、ある程度古くなってくるとふんどしは業者に買い取られ、藍染めされ野良着に仕立てられるというのだ。
しかも、野良着としての使命が全うされると、さらに別の使い道が存在し、ムダになるものはなにもなかったというのだから驚きだ。
幕末、江戸へやってきた外国人が「ゴミ一つ落ちていない清潔な街」として記録しているが、江戸時代の日本は完全なリサイクル機構が整っていたという一つの証拠と言えるだろう。
でも、貸しふんどしは今の感覚からすると、なんとなく汚いような気もしないではないが。

「「ブルドック」の解散」は第一生命相談役の櫻井孝頴さんの作品で、終戦直後に作者が友達らと結成していた「ブルドック」という野球チームにまつわる話だ。
旧制中学から新制高校にスライドした当時の高校生たちの爽やかな日常が描かれているとともに、野球チームでは補欠だった友達が、作者が骨折で自宅療養していたときに、真面目に、そして小まめに授業の内容を毎日持ち帰り、枕元で「授業」代行してくれた話が描かれている。
60年が経過して、チームのメンバーの中に鬼籍に入るものが出てきたので解散を考え集会を開いてみると、その友達に勉強を教えてもらった仲間が多いことがわかった。
そしてその友達が定年退職後、鬱病にかかっているとこを知るのだ。
果たして友達はどうなるのか、そして「ブルドック」はどうなるのか。
ちょっぴりしんみりと、そして嬉しくなる、年を重ねた人しか書けない魅力あるエッセイだった。

ということで、またまた来年が楽しみなエッセイ集なのだ。

~「'05年版ベスト・エッセイ集 片手の音」日本エッセイスト・クラブ編 文藝春秋社刊~

2005年10月17日 05時30分12秒 | 書評
谷村新司がアリス時代に作詞した大ヒット曲「チャンピオン」は沢木耕太郎のノンフィクション「一瞬の夏」をヒントに書かれたものだという。
「一瞬の夏」はカシアス内藤という実在のボクサーを主人公に筆者が関わったあるタイトルマッチについてのドキュメンタリーだ。
ボクシングという孤独な戦いを通じて、ひとりの人間の生き様を描いた物語は、読む者の心に直に響いてくる何かを包含していた。
それは、カシアス内藤という当時すでにボクサーとしての絶頂期を過ぎてしまっていた主人公に対する、誰もが持つ人生における運命のようなものを感じ取ったからだからかもしれない。
また一つの目標に対面したとき、人は一瞬強さを見せることももあるが、いざその目標に挑むとき弱さが露呈し、それどのように立ち向かうのか、といったことが哀しくも愛おしく描かれていることが心の琴線に触れてくるからだろうとも思えるのだ。

考えてみれば、ボクシングという孤独なスポーツは人生の縮図を表しているからこそ、人々の心を捉えて放さないスポーツであり続けているのだ。
一つの試合が、一つのラウンドが、一人一人の人生と結びつき、ある時は打たれ、またある時は打ち返すという、このくり返しが、単なる殴り合いではないスポーツとしての物語の深みを写し出していると言えるだろう。

沢木耕太郎のノンフィクションは、常に一個の人間を追い求めているように思える。
上述の「一瞬の夏」ではカシアス内藤を。
「テロルの決算」では山口乙矢を。
「壇」では壇一雄を。
あの紀行文の名作「深夜特急」でさ、「私」である作者自身がたった一人の主人公として描かれているのだ。
個々の人間の生き様を巧みな文章で彫り出しているからこそ、沢木耕太郎のノンフィクションには、他にはない魅力が潜んでいるのだ。

最新作「凍」は山岳家、山野井夫妻がヒマラヤ・ギャチュンカンに挑んだ、命を賭けたクライミングを描いている。
そしてここでも、ともすればボクサーよりも遥かに孤独な戦いを強いられるであろう一個の登山家を描くことにより、人間の生き方、生に対する考え方を厳しく、そして情熱的に浮かび上がらせているのだ。
実際読み進むにつれて、どうしてこうまでして山に登らなければならないのか、という疑問に取り憑かれてくる。
本書の中にも記されていたが、他のスポーツと違いクライミングというのは誰かに見せるものでも、誰かとリアルタイムで競い合うものでもない。
それはただひたすら、登り、そして降りてくるという自分との闘いに終始するのだ。

スリリングで手に汗握る展開に、読み進むにつれて紙面から目が離せなくなってしまうエキサイティングな物語だ。
しかし、帯に書かれている文句につられて買い求めて読むと、もしかすると、ある意味期待外れに終る物語かも知れない。

~「凍」沢木耕太郎著 新潮社刊~