人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

サイモン・ラトル「音楽は人生を変えられる」/和田竜著「村上海賊の娘(三)(四)」を読む

2016年10月14日 08時00分02秒 | 日記

14日(金).ノーベル文学賞の発表にはビックリしました 「風の歌を聴け」の村上春樹ではなく「風に吹かれて」のボブ・デュランに決まったのですね 文学賞だけは「風の吹くまま」のような気がしますが,そう思うのは私だけでしょうか? ということで,わが家に来てから今日で746日目を迎え,なぜか雪だるまが小屋に侵入してきたので実力行使で排除しようとするモコタロです

 

          

             急に寒くなったからって キミの出番は早過ぎっしょ  帰ってちょ!

 

          

             足がないから歩けないって? それじゃ 第4機動隊の出動だ!

 

          

                              なんで反対側に落ちてるんだい ボクに対するイヤミかい?

 

  閑話休題  

 

昨日の朝日朝刊「文化・文芸欄」に「音楽は人生を変えられる ベルリン・フィル芸術監督 サイモン・ラトル」というインタビュー記事が載っていました 超訳すると

「15年にわたりベルリン・フィルを率いてきたサイモン・ラトル(61)の芸術監督としての任期は残り2年.一方,2017年からは生まれ故郷の英国でロンドン交響楽団の音楽監督に就任する ベルリンでは演奏曲目のレパートリーを広げたほか,音楽教育への取り組みや,深夜のコンサートなどの新しい試みをいくつも導入した 中でも特徴的なのはコンサート映像を配信する『デジタル・コンサートホール』だ.09年から始め,今では代表的な事業だ.これは団員からの提案だったのでうまくいった 結果として,ベルリンの演奏は世界中に広まっている.『ベルリンは常に過去や伝統を意識しているが,ロンドンは将来について考えている楽団.どんな新しいことが出来るか話し合いたい』と語る.特に意識するのは音楽教育の分野だ.『ロンドン交響楽団は子供向けのオペラも企画しているが,若い世代に近づくためには,より積極的な姿勢を取りたい』と語る.その理由は『音楽は人生を変えられる』という信念に基づいている.『英国がEUからの離脱を決めたことは狂気にしか映らない.でも,困難な状況の中で人々を癒やし,結びつけるのは音楽の役割だ.英国ではそれがますます必要とされるだろう』と語った」

私が最初で最後にラトルの演奏を生で聴いたのは,彼がバーミンガム市交響楽団を率いて来日公演をやった時なので1980年代初頭~90年代初頭だったと思います 会場に入って心底ビックリしたのは,オーケストラが当時 見たことのない態勢を取っていたからです その当時のオーケストラは,左から第1ヴァイオリン,第2ヴァイオリン,ヴィオラ,チェロ,その後ろにコントラバスといった並びが普通だったのですが,ラトルが取ったのは左奥にコントラバス,前に第1ヴァイオリン,右にチェロ,ヴィオラ,第2ヴァイオリンという対向配置だったのです とくに左奥にコントラバスが林立していたのに度肝を抜かれました 今でこそ,このような編成は珍しくありませんが,当時は超レアな態勢でした.当時のチケットや記録の類がどこかにあるはずなのですが 探しても見つからないので,プログラムの内容が思い出せないのが残念です 若さあふれる精力的な指揮ぶりだったように記憶しています

ところで,ラトルの言う「音楽は人生を変えられる」というのは本当です.私は学生時代にクラシック音楽に目覚めてから40年以上経ちますが,クラシックに限定して言えば,一番最初に出会ったのはモーツアルトの「フルート協奏曲第2番」とドビュッシーの「小組曲」でした ラジカセに録音したテープを何度も繰り返し聴いて好きになったのはモーツアルトの方でした それからずっとクラシックを聴き続けているので,この曲こそ「私の人生を変えた曲」と言えるでしょう

当初はお金がないのでそう頻繁にはコンサートに行けず,夏休みのアルバイトで買ったステレオ装置で,買い集めたLPレコードを聴くことに明け暮れていました レコードが500枚くらい集まったころ,「もうクラシックは聴き尽くしたな」と不遜にも思い込んで,一時ジャズにのめり込んだ時期がありました マイルス・ディビス,ジョン・コルトレーン,ビル・エヴァンス,バド・パウエル,MJQ・・・・とLPレコードを買いあさり,ジャズの本を20冊くらい買って集中的に読みました

しかし,半年以上前にチケットを買っておいたマルタ・アルゲリッチ+小澤征爾+新日本フィルのよる特別演奏会を聴いて,大きな衝撃を受け,クラシックに引き戻されました その時のチケットが下の写真です 1981年4月6日,今から35年も前のことでした.汚い字で「ショパン ピアノ協奏曲第2番」「ラヴェル クープランの墓」「同 ピアノ協奏曲ト長調」「アンコール ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調 第3楽章」と演目が書かれています あの時 ラヴェルのピアノ協奏曲の第3楽章が終わった瞬間,会場の空気がフワッと浮き上がり,聴衆の熱気で温度が急上昇したのを覚えています 実を言うとアンコール演奏の後,聴衆の熱狂的な反応に感激したアルゲリッチが人差し指を立てて「アンコールをもう一度やろう」と小澤征爾に掛け合ったのですが,会場の使用時間とかオケのユニオンとの契約とかいろいろあったのでしょう.2度目のアンコールは実現しなかったのです.盛り上がっていただけに,非常に残念でした この演奏を聴かなければ,今頃はジャズにどっぷり浸かっていたことでしょう そういう意味で,この時のアルゲリッチの演奏したラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調」は,私にとって まさに2度目の「私の人生を変えた音楽」でした

 

           

 

  も一度,閑話休題  

 

和田竜著「村上海賊の娘(三)(四)」(新潮文庫)を読み終りました 和田竜は1969年12月大阪府生まれ.早稲田大学政経学部卒.2003年映画脚本「忍ぶの城」で城戸賞を受賞 07年,同作を小説家した「のぼうの城」でデビューし,直木賞候補となる.14年,本作「村上海賊の娘」で吉川英治文学新人賞及び本屋大賞をダブル受賞している

時代は織田信長が室町幕府最後の将軍・足利義昭を奉じて京に旗を立て,西に勢力を伸ばそうとしていた頃の天正4年(1576年),比叡山焼き討ちから5年,武田軍を打ち破った長合戦の翌年にあたる.信長と大阪本願寺の戦いは7年目を迎えていた

その頃,瀬戸内海の島々に根を張り,強勢を誇る海賊衆がいた.彼らは瀬戸内海を航行する船から通行料を取って生計を立てていた その中でも能島に拠点を置く村上海賊の当主・村上武吉は乱世にその名を轟かせていた 彼の豪傑と荒々しい気性を受け継いだのは息子の元吉ではなく,娘の景(きょう)だった 海賊働きに明け暮れ,地元では嫁の貰い手のない当年20歳の女だった.彼女こそ「村上海賊の娘」である

 

          

 

物語は,大阪本願寺に立て籠もる僧侶たちに兵糧を届ける任務を毛利家から請け負った村上海賊が,難波海(大阪湾)に面した木津砦で待ち構えていた小田軍と闘いながら本願寺にたどり着くまでの死闘を描いています

本願寺から依頼されたのは兵糧は90万石,米俵にして25万俵で,これを海から運ぶというとんでもない仕事だったが,それには700艘の兵糧船が必要だった 毛利軍(村上海賊側)は1,000艘の船団で木津砦に向かったが,1,000艘のうち戦力になる(兵士が乗っている)のは300艘しかなかったという 「海での戦いは船の数で決まる」と言われているが,戦う者同士お互いが,いったい相手は何艘の船を持って戦おうとしているのかが分からずヤキモキしているのが面白いところ 言わば,ハッタリがどこまで通用するかの戦いのようなもの

最後に,景は織田方の真鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)と船上で死闘を繰り広げることになります 「そこまでいったら,出血多量でとっくに死んでいるだろう」とツッコミを入れたくなるような記述も少なからずありますが,そこは小説ということでスルーすることにします それ以外は,作者はかなり史料類を読み込んで史実に忠実に書いているので,その筆力は大したものだと思います

ところで,和田竜氏は9月15日に文字・活字文化推進機構と日経新聞の共催による「歴史を語る言葉 シンポジウム」のトークショーに出席して,歴史小説について語っています 10月8日付日経朝刊にその概要が載っています.トークショーで彼が語った話のポイントは以下の通りです

「司馬遼太郎からたくさん影響を受けた.一つはすごく調べること 司馬遼太郎らが挙げている史料を読むことによって,こういう書物があるのだといろいろと手に取ってみて,なるほど実際に書いてあるのだということが実感できた.したがって引用元は邪魔にならない限りは入れようと思った 『村上海賊の娘』の場合,本に載せているだけで80冊以上あったと思うが,全く役に立たないものもあるので,読んだ冊数はその2~3倍のイメージだ.インターネットはほぼ使わない

この発言通り,この作品には「〇〇記によると~」といった歴史的な文書の引用が多く出てきます それだけ史実を尊重しているということでしょう

 

          

 

ところで,冒頭の著者のプロフィールで「1969年大阪府生まれ」と書きましたが,これは新潮文庫のプロフィールに書かれていたものです 一方,上記シンポジウムの記事での著者の紹介には「1969年広島市出身」と書かれていました いったいどっちが本当なのだろうかと不思議に思って調べてみたら,1969年に大阪府で生まれ,生後3か月で広島市に引っ越して育ったということでした

 

  最後の,閑話休題  

 

ここだけの話ですが,昨日は現役を引退してから初めて迎えた誕生日でした 月日の流れは速いものでもう1年経ちました FRENCH POUND HOUSE でホールケーキを買い,スーパーでワインを買ってきました 3本セットで4,000円弱(税別)のお得なボルドー・ワインです.私がいつも買うのはこのクラスの赤ワインです それは良いのですが,なぜ誕生日を祝ってもらう私がスポンサーにならなければならないのでしょうか? 毎年のことながら不思議です

 

          

 

夕食に娘が作ってくれたハッシュド・ビーフとサラダをいただき,さあケーキを切ろうかというタイミングで息子が帰ってきました いつもは深夜1時半過ぎなのに 昨夜は珍しく9時40分頃帰宅しました.そこで,息子が夕食を食べ終わるのを待ってからケーキ・セレモニーをしました 

今後の抱負ですか? 取りあえず今年のコンサート鑑賞の目標を180回から200回に,映画鑑賞の目標を100本から160本に変更しておきます

 

          

                                  ロウソクと年齢に相関関係はありません 悪しからず 

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