人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

アンドレ・プレヴィンは「三人称の演奏」~黒田恭一著「音楽への礼状」を読む

2012年09月29日 06時58分56秒 | 日記

29日(土)。昨日の朝日夕刊に「モナリザ10年前も微笑~スイスの財団”ダビンチ作”」という記事が載りました 記事によると,

「レオナルド・ダビンチがもう1枚の”モナリザ”を描いていたとする鑑定結果をスイスの財団が27日発表した.パリのルーブル美術館に展示されている”モナリザ”より10年程前に描かれた未完成作で,ダビンチ本人による作品だと確認できたとしている.モデルはモナリザと同じ人物であるとみられる.1913年に発見され,最近40年間はスイスの銀行が保管していた.スイスに本部を置く”モナリザ財団”が記者会見して明らかにした」

写真を見ると,構図はまったく同じで,顔が若返っています(右が10年前のもの).個人的には”非常に怪しいのではないか”と思います なぜ,今になって”新発見”のニュースが出現するのか 欧州諸国の経済不安を背景に,どこかの頭のいい仕掛け人が”話題創り”をしてひと儲けしようとたくらんでいるではないか 世界の美術館に貸し出して公開すれば,”あやしい”と思っても,人々は興味津々観に行くのではないか.あとで偽物と判って”やっぱり騙された”と気づいてもアフター・フェスティバル(後の祭).”微笑む”のはモナリザではなく一部の”仕掛け人”だけ,というシナリオが透けて見えるようです.皆さんはどう思いますか

 

          

 

  閑話休題  

 

黒田恭一著「音楽への礼状」(小学館文庫)を読み終わりました 著者の黒田恭一氏は1938年東京神田生まれ.早稲田大学在学中から新聞・雑誌に音楽評論を執筆,クラシックに限らず幅広いジャンルの音楽をカバーし幅広い層からの支持を獲得しましたが,2009年5月に死去しましたこの本は1990年1月にマガジンハウスから刊行された同名の単行本を,一部加筆・改訂して文庫本化したものです

カラヤン,バーンスタイン,カルロス・クライバー,マリア・カラスから,マイルス・デイビス,ギル・エヴァンス,ルイ・アームストロング,ペギー・リー,トニー・ベネットまで36人への礼状の形でつづったエッセイ集です

かつて私もクラシック音楽を聴き始めた頃,テレビやFM放送で,黒田恭一氏の解説をよく聴きました 誰にでも分かるよ平易な言葉を選んで,ていねいに”語りかけていた”のが印象に残っています

印象に残った言葉を2つほど取り上げてみます

最初は,タバコとウィスキーが大好きだった指揮者レナード・バーンスタインを取り上げた文章です

「あなたは,タバコを,豪快にというか,強烈にというか,ともかく,いじけたところのまったくない見事な感じですっておいででした.しかも,あなたのタバコのすい方は,もしかすると,このひとはタバコをくわえて生まれてきたのではないか,と思われるほど自然でした・・・・・・・タバコもすわず,ウィスキーも(多分)飲まないのが,カラヤンです.タバコにしても,ウィスキーにしても,たかが嗜好品ですから,そのことをてがかりに音楽家の仕事についてあれこれいうのはちがうと思います.にもかかわらず,あなたがオーケストラを指揮してもたらす音楽と,カラヤンがオーケストラを指揮してもたらす音楽との,それぞれの性格のちがいを考えていると,どうしても,タバコとウィスキーのことに思いがいたってしまいます カラヤンによってもたらされる,細部まで完ぺきにコントロールされた,スタティックな美しさをたたえた演奏は,やはりタバコやウィスキーを遠ざけたひとのものといえるでしょうし,あなたの,もう一歩踏み越えると危ないな,とききてに感じさせる,動と静との間の微妙なバランスのうちになりたっている演奏は,カラヤンとはあきらかに別種の生活をしているひとのものだと思わせます

お読みいただいて分かる通り,黒田恭一という人は,ひらがなを多用し,分かりやすい言葉を選んで持論を展開します ちょっと回りくどい面もなきにしもあらずですが,言っていることは鋭いところを突いています

次は,やはり指揮者のアンドレ・プレヴィンを取り上げた文章です

「あなたのきかせて下さる演奏は,あなたのお好きなロシアの作曲家の作品をとりあげたときでも,近代フランスの作曲家の作品をとりあげられたときでも,熱狂をしりぞけておいでです あなたの音楽的な才能と,指揮者としても技をもってすれば,一人称の演奏によってききてを熱狂させることもできなくはないはずです.にもかかわらず,あなたは,その道を選ばず,三人称の演奏をなさいます 綺麗だけれど,それ以上ではない.それがあなたの演奏をきいた多くのひとのいうことばです.ぼくも,半分は,その意見に賛成です.しかし,あなたの演奏の,一歩引いたところで語ろうとする慎ましさが,ぼくは大好きです.あなたは,なりふりかまわずふるまうことを,潔しとしない.そのために,あなたの演奏は,めだちにくい,地味なものになりがちです 俺が,俺が,とわめきたてる声が,所を選ばずまきあがっているのが,この時代のようです.バーンスタインの演奏は一人称の演奏の素晴らしい例ですが,そうではない,めだつことだけをねらったあざとい演奏も,こういう時代ですから,たくさんあります

ここで黒田氏が言っている「一歩引いたところで語ろうとする」「三人称の演奏をする」というのは,指揮に当たって第一に考えるべきことは作曲家の意図(楽譜に書かれた音符と指示)を音として聴衆に届けることであって,指揮者が前面に出て派手なパフォーマンスを行うことではない,ということでしょう この本のオリジナルは22年前の1990年1月に出版されました.その頃から「俺が,俺が」という目立ちたがり屋の指揮者が存在していたし,今も状況は変わらないのかもしれません.その意味で,黒田氏の指摘は時代を超えて通用するといっても差し支えないと思います

ちょうど、27日付日経夕刊「文化欄」にアンドレ・プレヴィンがNHK交響楽団を振ったマーラー「交響曲第9番」の演奏会評が載っていました 編集委員の小松潔氏は次のように書いています.

「プレヴィンの指揮は,思い入れとは無縁,自然体そのもの.第1楽章から各パートを思う存分鳴らすが,そこに指揮者による虚飾はない マーラーの複雑な書法を読み解き,純粋な器楽曲として示す・・・・・クライマックスは3楽章の終わりから4楽章にかけてだった.聴き手の感動はいったん頂点に達したが,プレヴィンは楽章と楽章の間も淡々,すぐに演奏を始める

これを読む限り,プレヴィンは22年前とまったく変わらず,三人称の指揮をしていると言えるでしょう.22年前の本がなぜ今の時期に復刊されたのか,その意味を問い直す意味でもご一読をお薦めします

 

          

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