明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(168)6・25カトリック正義と平和京都協議会学習会、7・14大島堅一さん講演会に参加です。

2011年06月23日 04時04分29秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110623 04:00)

当面の予定をお知らせします。

6月25日土曜日に、「カソリック正義と平和京都協議会学習会」に参加して
お話します。この件について詳しくは下記の内容をご覧ください。
「明日に向けて(135)カソリックと正義と平和と社会的共通資本
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/3d224921a0eb57e19cddc1e2374b2c36

7月14日には大島堅一さん(立命館大学国際関係学部教授)の講演会に
コーディネーターとして参加します。
大島さんは、原発の不合理性を、コスト面から解き明かされている方です。
とくに隠されたコストについてきちんと説明してくださいます。

京都近郊のみなさま。良ければご参加ください。
以下、案内を貼り付けます。

******************************

カトリック正義と平和京都協議会学習会

フクシマ原発事故から学ぶ

日時 6月25日(土) 午後2時~4時
場所 河原町三条・カトリック会館6階
報告 守田敏也さん(フリーライター)
    元 同志社大学社会的共通資本研究センター客員フェロー)
参加料 無料(原発被災者への募金箱を置きます)

神は天地創造にあたり、造られたものをご覧になり、「それは極めてよかった」
と言われ、全てを人類にお委ねになりました(創世記1章)。人は地球上の全ての
ものを、神の意志に従って管理し、人類の幸せ実現のために有効に利用し、
何世代も後の子孫にまで、正しく美しい状態で委ねていく責務を負っているのです。

フクシマ-ゆっくり、長く、大量に続く、放射能漏れ事故-
この学習会を予定してる5月25日現在、福島原発がいったいどのような状況に
なっているのかすら、誰も予想することができません。人間の手で制御しきれない
ようなものを作ってしまい、そしてその犠牲となる者は、いつもその恩恵を享受して
きた者ではない、そのような不条理を、黙って見ていてよいのでしょうか。

「原発をなくしては、日本の経済が成り行かない?」「CO2を減らすために原発
は必要?」「夏場の電力需要を考えたら・・・?」「感情論での反原発は現実的では
ない?」それって、本当に本当でしょうか。
現場や現地の人びとに犠牲を押しつけ、子々孫々にまで、どうにもならない核の
ゴミを押しつけるエネルギー政策は許されることでしょうか。

関西に住む私たちに今、避難民当事者との温度差がないとは言えませんが、
全国で一番固まって13基もの原発が稼働しているのが若狭湾であるという現実を
もっと注視すべきではないでしょうか。未だに、「もっと安全な原発を」という発想
にとらわれている人が少なくない中で、私たちは脱原発の道筋を提示する知識と
力を得ることができるようにと、学習会を企画しました。

報告者の守田さんは、同志社大学社会的共通資本研究センター客員フェロー
などを経て、現在フリーライターとして取材活動を続けながら、原子力政策に
関しても独自の研究と批判活動を続けてこられた方です。多くの方のご参加を
お待ちします。

主催 カトリック正義と平和京都協議会



******************************

<いまこそ原発を問う連続講座 第3回>

「そこが知りたい!電気の経済学-お金から考える原発と自然エネルギー」    
大島堅一さん(立命館大学国際関係学部教授)講演会

専門は環境・エネルギー政策、環境経済学。原子力政策、再生可能エネルギー
政策、温暖化対策について研究。 著書に『再生可能エネルギーの政治経済学』
東洋経済新報社など 

コーディネーター:守田敏也さん(フリーライター 元同志社大学社会的共通資本
研究センター客員フェロー)

原発事故で先の見えない状況が続くなか、原発を続けるのか、脱原発で自然
エネルギーへの転換を進めていくのか、これからの電気のあり方について、
一人ひとりが考えていく必要にせまられています。
でも「原発をなくすと、電気代が高くなるんじゃないの?」「自然エネルギーで安定
供給ができるの?」など不安や疑問がいっぱい。
そこで、原発にいくらコストがかかっているのか、実際に計算してみた(!)
いま話題の人、大島堅一さんと一緒に考えてみませんか?

原発のコストは本当に安いの?
15%節電って本当に必要?
自然エネルギーのコストは?安定供給できるの?

午後6時30分~9時 アバンティビル 9階ホール
主催:「いまこそ原発を問う連続講座」実行委員会
連絡先:電話077-596-1181(あらの) 携帯090‐2199‐5208(おおすが)
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明日に向けて(167)日本軍による性暴力被害にあった台湾のおばあさんたちの写真展を行います。

2011年06月23日 02時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110623 02:30)
 
明日(22日)より、京都の法然院で、旧日本軍による性奴隷問題被害にあわ
れた台湾のおばあさんたちの写真展を開催します。26日には同じ場所で、
日本から台湾のおばあさんたちのもとに、長く通い続けてきた柴洋子さんの
講演会も行います。お近くの方に、ぜひ写真を見に来て欲しいと思います。


僕は原発の問題以外にも、いろいろな活動に関わっています。1つはピース
ウォーク京都を中心とした、戦争に反対する活動。911事件をきっかけに歩み
出した行動です。特にアフガン現地で医療活動を行い、井戸を掘り、運河も
作り、農場の再生を目指している、中村哲医師を中心としたペシャワール会
を支援する行動や企画を繰り返してきました。

今年の秋は911から10年、アフガニスタン空爆開始10年です。このアフガン戦争
でも、その後のイラク戦争でも、いやその前の湾岸戦争でも、米軍は劣化ウラン
弾を大量に使用しました。広範な地域で爆撃による被害が生じると同時に、
被曝による被害が発生しています。劣化ウラン弾はリビアでも使われました。

それからも含めて、僕は福島の事故と、アフガン・イラクなどでの戦争は、深い
ところでつながっていると思っています。もちろん、広島・長崎に被ばくも。
そしてパレスチナでの暴力も。

平和への願いと、事故に対して僕ができるだけの努力を続けていきたいという
思いは深くつながっています。


そして戦争について、もうひとつ僕が参加してきたのが、旧日本軍の侵略行為を
とらえ返すこと、とりわけ「従軍慰安婦」と言われた、性奴隷制の問題をとらえ
返し、被害女性たちの尊厳を回復していくことです。

このため僕は被害を受けたおばあさんたちを日本に招き、証言を聴く会を開く
とともに、彼女たちのもとを訪れ、戦争の実情をとらえ返し、同時におばあさん
たちとの交流を深める行動を繰り返してきました。
その過程で、何人ものおばあさんたちと親しくなりましたが、とくに台湾の阿媽
(アマー=おばあさん)たちとの中が深くなり、義理の親子のような関係になって
いる方もいらっしゃいます。


この問題を通じ、僕が強く感じてきたのは、まさに、人の足を踏みつけているものは、
自分の足を踏みつけられても声をげられないということです。

あの戦争と、戦後を振り返る時、僕の目に映るのは、日本がアジアへの侵略の
反省をまったく不十分にしかしてきてないことです。日本軍による構造化された性
暴力の問題についても、被害者への誠意ある謝罪も補償もなされていません。

そして僕はこのことと、原爆を落としたアメリカ、都市空襲という名の無差別殺戮を
繰り返したアメリカ、沖縄を住民と共に蹂躙したアメリカに、一度も謝罪を求める
ことができてこなかったことが、深くつながっていると思うのです。

アメリカは戦後65年間、一度も原爆投下を悪かったと言ったことはありません。
未だに正義だと言う人たちの方が多いのです。通常爆弾で一晩に10万人を焼き
尽くした東京大空襲などの都市空襲についても同じです。アメリカは無抵抗の
人々に、何十日にもわたり、何百機もで襲いかかった。そして最後に2発の原爆
まで落とした。

それだけではありません。肥田先生の発言でも明らかなように、その後、アメリカは
放射線被曝の恐ろしさ、核兵器の非人道性を覆いかくすために、被ばく者の方たち
を切り捨て、被ばく者への治療を著しく妨害してきました。そこでアメリカが積み上げ
た、放射線の影響を意図的に小さく捉えた見解が、福島原発事故への対応でも
適用されつつあります。情けないことに、日本政府はこうしたアメリカの姿勢を一貫
して支持し、協力し続けてきました。

さらにアメリカは、今も、アフガンやイラクを空襲し、劣化ウラン弾によってヒバク
シャを生み出し続けています。ヒバクシャは米軍兵士にも及んでおり、多くの人々が
悲劇の中に突き落とされています。そしてその米軍は、日本の基地からも出撃
しています。戦後65年経っても、日本に返還されない基地からです。


こうした理不尽な暴力の応酬を止めていくにはどうしたらいいのか。
そのためには、僕は、それぞれの国の人々が、それぞれの国の犯した野蛮な
行為をとらえ返していくことが大切だと思うのです。だから僕は広島・長崎原爆、
沖縄戦、都市空襲への怒りを胸にしながら、同時に、日本軍の犯した罪に対し
こだわり続けてきました。

一方で、この問題に深く関わる中でたくさんのことを学んできました。一つには、
あの戦争で、アジアの人々に残酷に襲いかかった日本兵の多くが、軍隊の中で
構造的な暴力を受け、度重なる虐待を受けていた被害者でもあったことでした。
彼らの多くは、挙句の果てに、本当に無謀な戦闘にかりたてられ、無残に命を
落としていった。

そうした彼らは、足を踏みつけられていることに声を上げられず、鬱屈した日々の
中で、獰猛になっていき、やがてそれを嫌というほどアジアの人々に向けて発散
する野蛮な兵士と化していったのです。ここに戦時暴力の残虐性、とくに日中戦争
から太平洋戦争における日本軍の野蛮性の特徴があります。僕はそんな無残
な体験を経てきた兵士の方たちからも聞き取りを行ってきました。

ところがこうした日本軍の行為に対して、自ら名乗りをあげ、声をあげてきた被害
女性たちは、けして恨みつらみだけで起ちあがってきのではありませんでした。
彼女たち、とくに僕が親しくしている台湾の女性たちは、日本軍の行為は憎いけれ
ども、今の日本の人たちは好きだ。日本の若い人たちには何の罪もない。日本の
若い人たちが戦争に巻き込まれないため、私たちのような思いを二度と誰かが
味わう事がないために、私たちは頑張るのだと言って、これまで何度も辛い証言を
してくださいました。

彼女たちから感じるのは、極限的な暴力を受けてもなお、人に対する愛情や思い
やり、素直で柔らかい感性を失わず、しなやかに、生きてこられた人間的強靭さ
です。そんな彼女たちの、尊厳に溢れつつ、同時になんともチャーミングでもある
振る舞いに、僕は何度も胸を打たれ、魅了されてきました。


今回、京都・東山の、法然院の講堂をお借りして、そんな彼女たちの写真展を
行います。彼女たちが京都に来た時の写真も幾つか飾りましたが、僕が撮影した
ものも多いです。

どうか、この福島原発事故の最中に、台湾のおばあさんたちの顔を見に、
法然院まで起こしください。きっと何かを発見していいただけると思うのです。

以下、案内を貼り付けます。

********************************

VOICES OF Ah-Ma 台湾 阿媽(アマー)の写真展

・・・台湾ではおばあさんのことを親しみを込めてアマー(阿媽)と呼びます.

★6月23日(木曜日)~26日(日曜日)
★時間 昼の12時~午後5時まで 入場無料
★場所 法然院 講堂(京都市左京区.哲学の道 銀閣寺より南に歩く)

★報告会 26日(日)午後2時~4時 写真展会場にて
柴 洋子さん(台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会)のお話をうかがいます.

★主催 旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都実行委
メールwelcomeharumoni@hotmail.com
ブログ http://syogenkyoto.blog70.fc2.com
カンパ振込先 郵便口座00970-8-167088(証言京都)

京都実行委では,2006年に台湾の被害女性を京都にお招きして証言集会
を行い,2008年も証言集会に台湾から来ていただきました.京都に来られた3人
の阿媽たちは違う言葉を話し,私たちは全く知らなかった台湾に出会いました.
好奇心が旺盛で,愉快で,愛情が深い阿媽たち,ユニークなセラピーワークショップ
に継続して取り組み,阿媽の心と身体の傷と向い合う婦援会の若いスタッフたちを
知りました.その後私たちは継続して台湾の支援団体や阿媽たちとの交流を続けて
きました.
写真集の当時(2005年),阿媽たちの平均年齢は85歳。既に亡くなられた方々
もいます.阿媽たちをより身近に感じてほしいと思い,今回の写真展を企画しました.
ぜひおこしください.

今回の写真展の写真は、台湾で日本軍「慰安婦」被害女性をサポートしている
台北市婦女救援社会福利事業基金会(通称・婦援会)が2005年8月に出版
した写真集に収録されているものです。旧日本軍性奴隷被害女性たちの現在を
写したものです。台湾人カメラマン、黄子明氏、沈君帆氏、日本人カメラマン
の矢嶋宰氏の撮影です。証言集会京都実行委のメンバーが撮影した写真も少し
展示する予定です.

婦援会は,阿媽たちの健康面,生活面,長い間のPTSDからくる問題など心理面
にも心を配り,セラピーワークショップを定期的に行い,阿媽とともに国際的な
連帯行動にも積極的に参加してきました.最近では,「阿媽たちの夢をかなえる旅」
を企画し,年老いた阿媽たちが現世においての心残りが少しでも減るように努力
しています.キャビン・アテンダントや郵便配達人など,夢を叶えた阿媽の笑顔
もぜひ見てください.


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明日に向けて(166)子どもたちとともに、福島から逃れてきて(避難されてきたAさんのお話から)

2011年06月21日 16時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110621 16:30)

既にお伝えしたように、6月10日に、「おむすびマーケット実行委員会」の
みなさんに京北・和知にお招きいただき、お話をする会に参加してきました。
http://omusubi.keihoku.jp/info/kyoto-np_110614.html

このとき、福島から避難されてきたAさんが、お子さんたちと一緒に参加して
下さいました。京都市内から一緒に車で京北まで向かいました。

実行委員会の方のお願いもあり、僕のお話の後に、Aさんが体験を語って
下さいました。とても感動したので、Aさんにお願いして、録音を起こしたものを、
ここに掲載させていただくことにしました。内容もチェックしていただきました。


僕はこの時がAさんとの初対面だったのですが、何か古くからの友人にお会い
したような感じを持ちました。311以降の過程の中で、ともにしてきたものがある
からではないかと思えます。

・・・あのとき、僕は原発の近くにいる方たちに逃げてほしいというメッセージを
発しました。しかし大地震・大津波があり、救助隊がかけつけている状態の
中で、「逃げてください」と叫ぶことに葛藤がありました。

そんなときAさんは、子どもたちを守るためにと、福島市を飛び出されました。
県の職員として働いてきたこともあって、大変な葛藤を押されての行動でした。
その葛藤の在り方に、僕は深く共感するものがありました。

発言の中で、Aさんは、福島県から避難したことを、「県職員として、著しく常識を
逸脱している行為」と批難されたと述べておられます。Aさん自身、申し訳ない
思いがあるとも。

でも僕は、Aさんの決断は、1人の母親である県職員として、福島県民にとっても
とても貴重な決断だったと思います。Aさんの行いが、1つのメッセージとなり、
より原発に近い方の、安全な場への避難が進むことを祈るばかりです。そんな思い
も込めてAさんの発言を紹介したいです。


ちなみにこの日、京北の方たちも、Aさんの発言を割れるような拍手で迎えて
くださいました。その後の発言でも、Aさんのお話から、事故のことを本当に
身近に感じた、身を切られるような思いをしたという感想が聞かれました。

ある方は、京北町には空いていて、あまり使われていない家がある。
そういう家をまわって、避難されている方に向けて手を上げようと説得したい
とも語ってくださいました。

こうした発言は、「おむすびマーケット実行委員会」の方が、心を込めてこの
集いの場を作ってくださったことの中で、出てきたものではないかと思います。
実行委員会の方々、出席者の方々に、あらためて感謝です。


これからも、そうした努力を重ね合わせていって、放射線量が高い地域の
方々が、少しでもストレスが小さい形で避難ができるように、努力を重ねていきた
いものです。


・・・以下、Aさんのメッセージをお読みください。


*****************************

子どもたちとともに、福島から逃れてきて
福島市から避難されてきたAさん

今回の事故の後、福島から京都に避難してきたものです。
私は生まれも育ちも福島市で、大学時代の4年間に福島を出た以外はずっと
福島で暮らしてきました。

地震があった3月11日には、福島県庁の職員として、県庁の7階で仕事をして
いました。地震の時はもの凄い揺れで、何度も揺さぶられて正直な話、もう
このまま自分はダメかなと思ってしまうぐらい、本当に怖い思いをしました。
こんなことを言っていいかどうか分かりませんが直前にあった、ニュージー
ランドの地震のことが頭をよぎりました。

私の働いていた県庁の庁舎は、耐震性のランクが低いところで、震度5の地震
があったら倒壊してしまうかもしれないと言われていたところだったので、
地震が起きている最中、もう子どもたちに会えないかもしれないという思いが
ずっと心の中をよぎっていました。

避難訓練などですと、みんな机の下に隠れましょうと言っても、恥ずかしくて、
隠れたり隠れなかったりという状況だと思うのですけれども、あの時はもう、
みんなが、誰に言われるわけでもなく、自分のデスクの下に潜り込みました。

その上からロッカーが倒れてきたり、ロッカーの上の荷物が落ちてきたり天井
の板が外れて落ちてきたりということで、本当にすごく怖い思いをしました。

そして地震がおさまってすぐに、全員、外に避難しますということになって、
本当にもう、震える足で7階から階段を下りて、外に出ました。その日は寒くて
雪がちらついていましたけれども、みんな着の身着のままで、コートも着ずに
外に出て、そのままずっと夜の7時ぐらいまで待機ということで、外で待ってい
ました。

そのとき逃げてきた職員たちと、生きているって素晴らしいねといい合いました。
そうした言葉が自然に出てくるぐらい怖い思いをしました。

私は5歳と3歳の子どもがいますので、子どもたちを預けている保育園が心配で、
何度も携帯電話をかけたのですけれど、まったくつながらない状態でした。

職場から10分ぐらいの保育園だったので、上司に相談して、子どもたちを迎えに
行きたいということで、時間休をもらって子どもたちを迎えに行って実家に預け
てきました。その後また県庁の職場に戻って待機していました。

その日は周りでどういうことが起こっていたのか、津波の被害や、どこでどのよ
うな被害が出ているのか、何も分からないまま7時までただただ外で待って、そ
の日はもう夜も遅いので待機を解除します、一旦家に帰ってくださいと言われて
家に帰って、それから実家に子どもを迎えに行って家についたのが、8時過ぎ
だったかと思います。

その日は福島市内では、停電になったり、ガスや水道が止まったりした家が多
かったのですけれども、幸い、私の家は、電気もつきましたし、ガスも水道も
通っていましたので、子どもたちと夫と、とにかく全員が8時半ごろに家に集合し
て、とりあえず何もないけれども、スパゲッティをゆでてレトルトのソースをかけ
て、ご飯を食べました。

今思えば、それが最後の晩餐というか、それ以来、福島のその自宅には帰って
いません。

その日はとにかくもう疲れてしまって、テレビを見る元気もなくて、スパゲッ
ティを食べ終わって、お風呂に入ったら、もう耐えられないから寝ようねと
いって、みんなでお布団に入りました。10時か11時にはもう寝てしまったと思
うのですけれども、寝て暫くしたときに友達から携帯にメールが入りました。

なんとなく寝ぼけながら、その携帯を見たら、「私たちは福島を離れて会津方
面に行きます。そこから出来る限り、南下を試みます。みなさんありがとう。
また会える日が来ることを祈っています」というメールでした。

何か凄く嫌な予感がして、どういう意味なのだろうと、そのときは思いました
けれど、疲れていたので、そのときは嫌な予感を抱えながらもそのまま眠って
しまいました。

次の日の朝に起きて、頭がきちんとした状態で、そのメールを見返したとき、
その友達が反原発活動をしていたこともあり、「原発だ」と思いました。すぐ
に朝刊を持ってきてみたところ、福島第一原発冷却機能を失うという一面記事
を見ました。

それをみてもう大変なことになったと思いまして、私の住んでいる福島市は原
発から60キロ離れていますけれども、60キロでは大事故が起きたときにいられ
ないと思って、すぐに取るものも取りあえず、夫の実家の会津若松市に避難し
ました。

そこでその日はテレビを見ながら一泊したのですけれど、状況が本当に逼迫し
ていて、水素爆発で建屋がなくなったとか、これはもう会津若松にいても危な
いと思いました。

その日は会津若松に一泊して、翌日の早朝、兵庫にいる知人を頼って避難しよ
うと私は気持ちを固めて、夫に話をしました。夫も一緒に、家族みんなで行こ
うと言ったのですけれども、夫は仕事を休むわけにはいかないから自分は行け
ないといいました。

それで私は、本当に身を引き裂かれる思いというか、後ろ髪引かれる思いでし
たけれども、とにかく子どもたちだけは守らなければいけないと思って、私自
身も仕事がありましたけれども、ちょうどその地震が金曜日で土日を挟んでい
たというのもあるし、戻れなかったらもう仕事を失ってもいいという覚悟で、
私はそこで夫と分かれて、兵庫の知人宅に向かいました。

それで兵庫の知人宅に2週間ほどお世話になり、その後に京都府から住宅を
紹介していただいて、今現在はその住宅に入らせていただいています。

その後、職場の方からは出てくるか辞めるかどうするのかという二者択一を迫
られました。私は福島県職員でしたから、本当はこういう時こそ福島県のため
に働かなければいけない立場だとは、凄く自分でも思っていましたし、そうい
う中で自分が子どもを連れて避難してくるということに対しては、凄く葛藤が
ありました。

でも、最終的には何としても子どもたちを守りたいという気持ちが強く、本当
に福島県には申し訳ないし、職員としては失格だと思いましたけれどもとにか
く子どもたちを少しでも安全なところに連れて行きたい、そのときはそのこと
しか頭にありませんでした。

結果としてやはり、仕事は退職することになりました。職場からは、私が今回
取った行動は、県職員として、著しく常識を逸脱している行為であるため、私
は地震のパニックで、頭がおかしくなって、正常な判断ができない状態にある
のではないかとまで言われました。

今回の原発事故によって、私は仕事を失いましたし、夫を福島に残していて、
今も家族が離れ離れの生活をしています。

それから福島には、建ててからまだ1年ぐらいしか経っていない、新築したばか
りの家も残してきています。その家は子どもたちを安心して育てられるように
ということで、国産の無垢材を使って、できるだけ化学的なものを使わないで、
本当に自然素材で、自分たちでも木の色を塗ったり、壁をしっくいで塗ったり
して作った思い出いっぱいの家でした。もちろんお金も結構つぎ込んで、自分
たちの手をかけて、心をかけて、気持ちをかけて作った家でした。

そこの家では本当に一年ちょっとの間でしたけれども、薪ストーブを入れて冬
の間はみんなで薪ストーブの周りで、ご飯を食べたり、お茶を飲んだり、そう
いう何気ない生活でしたけれども、こんな生活が本当に幸せだよねといいなが
ら、毎日、家族で過ごしていました。

そんなに多くのことを望んだわけではなくて、本当に家族みんな、元気で、大
好きな家があって、そこで何気ない生活をしているのが、一番幸せだと言って、
それだけで満足して暮らしていたのに、どうしてこんなことになってしまった
のかなという凄く悔しい気持ちでいっぱいです。

私は今、家にも今後も戻れるかどうか分からないと思っていますし、もしかし
たら仕事だけではなくて、家も失うことになるかもしれない。夫も一緒にこちら
に避難するとすれば、夫も仕事を失うかもしれない。夫が避難してこないのなら
ば、家族一緒に暮らすという選択肢が取れないのかもしれない。本当に原発事
故の後、がらっと生活が変わってしまって、自分も悔しいし、もう何と言ってよい
か分からないような気持ちでいます。

ただ、今私は、子どもたちを連れて京都に来て、比較的安全な場所にいると思っ
ていますけれども、今現在、福島に残っている人たちが、小さな子供たちがまだ
まだたくさんいます。その人たちが本当はみんな避難してくればいいのにと思う
けれどもでも簡単に避難してこられない気持ちも、痛いほど分かります。

そこで暮らすということは、そこに家があって、仕事があって、そこでの暮らし
を豊かにするために、みんないろいろなものをそこで手に入れて暮らしている
と思うのです。だから突然原発事故があったから遠くに行った方がいいよと言
われても、避難するためには、仕事も失うかもしれない、家も失うかもしれない。
本当に夫婦二人で仕事を失ってしまったら次の日から生活にも困ってしまうわけ
ですよね。

だからそれまで手に入れたものを全て捨てて、全く見知らぬ土地で一から始める
と言うことはそう簡単なことではないということは、きっと誰が考えてもそう思
うのではないかと思います。

だからみんな福島に残っている人たちは、不安を抱えながら、みんな、子どもを
このままおいておいていいのかなという葛藤を抱えながら、それでも踏みきれな
いで、仕事や学校や、そうしたことに縛られて、福島に残らざるを得ない、そう
いう人たちも凄くたくさんいると思います。

そういう人たちに対して自分が出来ることがないかということを、毎日、考えて
いるのですけれども、なかなか思い浮かばないというか、本当に何も出来ないで
います。

今、福島に残っている人たちが、放射線値が高い中で、もうずいぶん被ばくをし
ていると思うのですけれども、それに加えて、福島の学校の中では、今現在、福島
県産の牛乳とか、福島県産の食材を使った給食が出されています。

それについても、私は凄く悔しい思いです。空気も土壌も汚染され、これだけ被ば
くをさせられてその上、食べ物までという気持ちがあります。本当に何重にも、
福島県民の命が軽んじられているのではないかと思って、悔しくなります。

何とかそういう点で、福島県の方にも情報を伝えてあげたいし、何とか福島県の
保護者や、今住んでいる人たちが一生懸命に活動をしているので、国の対応の
あり方とか、給食のあり方とか、そういったものを変えていけないかなと思ってい
ます。

今回の事故について、もしできましたら、ここにいるみなさんにも、これが遠い
福島のできごとではなくて、もし自分の住んでいる隣町でこの事故が起きたらど
うなのかなということを、考えてもらえたらと思います。

そしたら、今、普通の生活をしているのに、たった一日を境に、まったくがらっと
生活が激変してしまって、仕事を無くしたり、家を失ったり、そしてどこか全く
知らないところで仮住まいをして、いつもとの生活に戻れるのか、戻れるのか戻れ
ないのかさえも分からない。これから先、家族が一緒に暮らせる日がまた来るの
か、どこでその暮らしを実現するのかも見えない、そんな状況になってしまうかも
しれません。

それを少し想像していただいて、もしそんな生活は耐えられないと思う方がいらっ
しゃったら、ほとんどの方がそうだと思うのですけれども、もしそう思うのでした
ら、原発のない社会、原発以外のエネルギーを、一緒に考えていけたらいいなと
私は思います。

今、日本の周りを本当にぐるっと原発が取り巻いていて、私ももし福島市に戻れな
かったら、どこで暮らせばいいのだろう、もう二度と原発での苦労はしたくないと
考えて、地図をながめると、正直、どこもないのですよね。

本当にこの事故は、どこで起こってもおかしくない事故だったと思うし、今後、こ
れから地震が多発すると言われている中で、どこで起こるかも分からない事故だと
私は思っています。それを考えると本当に、エネルギー政策のあり方というものを、
もっともっと、国民全体で考えていくべきときなのではないのかなと思っています。

どうもありがとうございました。
コメント (2)
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明日に向けて(165)611脱原発行動の集計が出ました!

2011年06月21日 10時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110621 10:30)

「611脱原発100万人アクション」のページで、611行動の集計がなされましたので、
紹介します。
http://nonukes.jp/wordpress/?page_id=651

これで全部かどうかは分かりません。
僕の知っている限りでは、残念ながら11日の京都嵐山スタンディング15人が
抜けています・・・。

人数は総計で66819人となっています。
さて多いと思うか、少ないと思うか。
100万人には遠く届きませんでした。 
しかし約全国150ヶ所で行動が起こされました。


・・・僕はとても多かったと思っています。
またそれぞれの街で歩いたことがとても良かったと思います。

このエネルギーを、今の焦点である定期点検中の原発の
再稼働を止めさせることに振り向けていきたいものです。

・・・全国の行動を集計していただいたみなさま。大変な作業だったと
思います。しかしこうして私たちの行動を振り返ることはとても大事な
こと。どうもありがとうございました。

***************************

611行動集計(国内のみ)

北海道 ピースウォークイン伊達 伊達市 60
北海道 6.11 NO NUKES ASAHIKAWA なのはな ウォーク 旭川市 90
北海道 6.11さっぽろピクニックデモ 札幌市 600
北海道 歩こう脱原発!子供たちを放射能から守ろう!in 江別 江別市 50
北海道 バイバイ大間原発はこだてウォーク②! 函館市 300
北海道 6.11脱原発を求める100万人アクションIN釧路 釧路市 50
北海道 脱原発お茶会 長万部町 9
北海道 守ろういのち、目指そう脱原発/のんびりウォークin上士幌 15
北海道 苫小牧脱原発デモと反核LIVE! 苫小牧 20
青森県 6.11 反原発! PEACE DEMO in あおもり 青森市 70
宮城県 【6.11 SENDAI】 大規模仙台脱原発デモパレード 仙台市 500
秋田県 原発反対秋田デモ 秋田市 52
山形県 「持続可能な社会を考える」学習会  エネシフ カフェ 30
福島県 A-day『愛と祈りのなたね粘土団子』原発被災地プロジェクト 南相馬市 300
福島県 東京に福島の声を届けよう  バスツアー 50
福島県 福島アクション【from福島“わたしの主張”6・11】 福島市 120
福島県 6.11原発いらね!郡山パレード 郡山市 350
福島県 『チェルノブイリのその後~FUKUSHIMAの子供たちへのメッセージ~』
広河隆一 講演会 いわき市 100
茨城県 6.11脱原発100万人アクションinつくば つくば市 550
茨城県 原発いらない!講演学習会inつくば つくば市 40
茨城県 6.11 脱原発100万人アクションin千波湖(水戸市) 水戸市 30
栃木県 原発いらない!宇都宮デモ 宇都宮市 180
群馬県 原発なくてもエエジャナイカ大行進第2弾 前橋市 1000
埼玉県 「うんざり。原発いらない 越谷、草加」
集合場所でのフリートークとアピール行進 越谷市 120
埼玉県 全原発の即時廃止を! 6.11 反原発デモin埼玉 さいたま市 200
埼玉県 つながる未来予報 さいたま市 75
埼玉県 6.11 100万人アクション埼玉行動 100
千葉県 東日本大震災チャリティライブ 千葉市 500
千葉県 原発なくせ! 6・11アクション 千葉市 410
千葉県 被災者支援エネルギーダイエット・アクションin松戸 松戸市 750
東京都 6.12さよなら原発!小金井パレード 
子どもといっしょに歩こう! 小金井市 500
東京都 6/11(土)鎌仲ひとみさんと”今”を向き合い、
エネルギーについて考えよう!千代田区 420
東京都 くり返すな! 原発震災 つくろう! 脱原発社会 6.11集会&デモ 港区 6000
東京都 「福島原発事故を語る」 樋口健二さん講演と写真展 in 立川 立川市 150
東京都 「原発どうする!たまウォーク」in国立 国立市 700
東京都 6.11新宿アルタ前アクション 新宿区 20000
東京都 6/12 脱原発したらエネルギーと暮らしはどうなるの?
公開勉強会 台東区 60
東京都 6.11脱原発練馬アクション 練馬区 200
東京都 原発にさよなら ゆっくりウォーク in こだいら 小平市 100
東京都 6・11 脱原発100万人アクション
「えどがわ未来ウォーク」 江戸川区 30
東京都 ねりま発「脱原発100万人アクション」行き
「人民列車 People’s Train」に乗ろう 50
東京都 第3回 エネルギーシフトパレード 1500
東京都 6.11 新宿・原発やめろデモ!!!!! 7000
東京都 6.11脱原発100万人アクションIN町田 町田市 300
東京都 『6.11脱原発100万人アクション』完全ライブ中継プロジェクト 新宿 50
東京都 シンポジウム 「福島第一原子力発電所の事故を通して、
世界のエネルギー・環境問題を考える」 千代田区 414
東京都 広河隆一写真展 チェルノブイリの子どもたち@早稲田 新宿区 100
東京都 6・11脱原発100万人アクション・
東京の『前々アルタ前アクション』アルタ前 120
東京都 クライメット 新宿区 40
東京都 原発問題学習会・第1回『放射能―拡散の現状と人体への影響』
講師:伴英幸さん(原子力資料情報室・共同代表) 日本橋 25
東京都 福島の子ども達を放射能から守ろう!
20mSV基準に賛成?反対?シール投票 北区王子 15
東京都 脱原発デモ前夜会 武蔵野市 15
東京都 みんなで話そう、放射能のこと!  八丈島 35
東京都 憲法寄席「あなたの声が詩になるんだ」を上演。 中野区 110
東京都 原発卒業したらどうなるの?を高野先生と一緒に考えよう! 台東区 60
東京都 語り合おう震災と原発事故?ティーチイン@一橋大学 国立市中 300
東京都 本当のことが知りたい 原発と放射線を考える市民講座 60
東京都 ぶんぶん通信上映会 父島 51
東京都 原発ディスカッション@渋谷OrganBar 渋谷区 100
神奈川県 「6.11脱原発100万人アクション神奈川」パレード さよなら原発
エネルギーシフトなう 子どもの未来のために歩こう! 横浜市 4000
神奈川県 早苗ネネ東日本大震災チャリティコンサート   
~和歌うた&仲間たちと~ 横浜市8200
神奈川県 講演会『子どもの未来を考える~いま福島で起きていること』 横浜市 50
神奈川県 学習会『こどもの未来を考える~いま福島で起きていること』 横浜市 50
神奈川県 すべての原発をとめよう!
6・11神奈川アクションin横浜大通り公園 横浜市 100
神奈川県 反原発学習会 横浜市 20
神奈川県 脱原発グリーンパレードinはだの! 秦野市 50
神奈川県 鎌倉パレード「イマジン(想像しよう) 原発のない未来」 鎌倉市 200
神奈川県 原発とめよう!100万人アクションin Yokosuka 横須賀市 100
神奈川県 原発とめよう!学習会 in 横須賀 横須賀市 30
神奈川県 イベント 横浜市 50
新潟県 6.11脱原発  原発いらん!新潟パレード 新潟市 220
富山県 6.11 シフトエナジー脱!原発サウンドデモ in とやま 富山駅前 130
石川県 311以降をどう生きるか?!
「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会 河北郡 95
石川県 シール投票『志賀原発の運転再開、YES or NO』 金沢市 100
福井県 フクシマと共に 6.11パレード 福井市 160
山梨県 はじめのいっぽパレード ~踏み出そう!!
その一歩が世界を変える~北杜市 150
山梨県 さよなら原発・大行進 甲府市 93
長野県 震災三ヶ月めの祈りと原発なくてもええじゃないか
アンプラグドサウンドデモ松本 松本市 200
長野県 第二回「反原発in長野」デモ 長野市 80
長野県 げんぱついらな In 佐久 6.12大行進 佐久市 270
長野県 チェルノブイリ原発事故後を映像でみてみよう 中野市 9
長野県 6・11 脱原発国際行動 大町集会 80
長野県 緊急学習集会 原子力発電を見直そう 下諏訪町 151
長野県 NO NUKES上田 50
岐阜県 さよなら原発パレード ぎふ 岐阜市 500
静岡県 浜岡原発を廃炉へ 6・11 やめまい!原発・浜松ウォーク 浜松市 200
静岡県 菜の花パレードはまおか 静岡市 260
愛知県 Sense of wonder いのちこそたから 愛西市 300
愛知県 脱原発100万人アクションinあいち 名古屋市 800
愛知県 原発サヨナRiot GRRRL 名古屋市 300
三重県 「原発卒業えじゃないか」パレード 伊勢市 80
三重県 さようなら原発 こんにちわ未来 三重集会 津市 150
滋賀県 2011脱原発市民ウォークin滋賀 大津市 120
滋賀県 さよなら原発!高島パレード 100
滋賀県 お田植え祭2011 高島市 80
京都府 脱原発・エネルギーシフトをめざして 
LIFE FOR LOVE 京都ピースウォーク6/11 京都市 640
京都府 6.11原発ゼロアクション in KYOTO 京都市 75
京都府 バイバイ原発・京都 パレード&デモ 200
京都府 石橋克彦講演会と関電京都支店へお散歩デモ 300
京都府 脱原発3・11京都行動 京都駅前 75
京都府 バイバイ原発ピースパレード&デモof舞鶴 舞鶴市 50
大阪府 6,11 原発イラン!関西行動 関電は原子力からの撤退を! 北区 -
大阪府 原発いらん!関西行動 第2弾 -関電は原子力からの撤退を- 5000
大阪府 「助けてと言えない~いま30代に何が」を考えるシンポジウム 豊中市 31
兵庫県 THINK FUKUSHIMA いのちを考える神戸パレード 500
兵庫県 脱原発東はりまアクション 加古川市 25
兵庫県 DVD上映会~子どもを守れ!いま福島原発で起こっていること 篠山市 30
兵庫県 山内知也さん講演「福島原発と放射能汚染」 神戸市 10
鳥取県 連続学習会(第3回) 放射能とどう向き合うか
~福島原発事故を体験する中で~ 米子市 60
島根県 6・11脱原発100万人アクションin松江 松江市 40
岡山県 エネパレ6.11岡山(脱原発エネルギーシフトパレード) 岡山市 500
岡山県 脱原発エネシフさんぽ 倉敷市 35
岡山県 「DVD<原発震災・ニューズリール>を観る会」 4
広島県 原発のうてもえーじゃないBINGO! 福山市 200
広島県 脱原発100万人アクションinあさみなみ 広島市 6
広島県 集まろう!行動で意志を示そう!
6.11 100万人アクション in ヒロシマ 広島市 100
広島県 脱原発100万人アクション in ヒロシマ 広島市 300
広島県 講演会 広島市 200
広島県 安心して子どもを産み育てたい!ピクニック交流会&パレード 広島市 33
山口県 ばいばい原発 虹のピクニック 宇部市 17
山口県 6.10原発なしで暮らしたい! 上関ピースウォーク 50
山口県 上関原発反対!署名宣伝行動 105
山口県 6.11脱原発 100万人アクションin 山口 山口市 200
山口県 「六ヶ所村ラプソディー」in周南 周南市 110
徳島県 みつばちパレード 50
香川県 6.11脱原発100万人アクションin香川 高松市 150
愛媛県 soundDemo Goodbye NUKES in 四国 supported by 原発さよなら
四国ネットワーク 松山市 300
高知県 脱原発100万人アクションin高知 高知市 300
高知県 脱原発四万十行動 in 中村 四万十市 55
高知県 脱原発ポスター展 高知市 -
福岡県 脱!原発 サウンドデモ in 福岡 福岡市 1055
熊本県 行動する勇気~天草でできること~ 天草市 24
熊本県 ~ さよなら原発 ~ パレード & 野外ライブ in 熊本 熊本市 200
宮崎県 脱原発サウンドデモin福岡に向け宮崎から出発バスツアー 宮崎市 36
鹿児島県 げんぱつ いらないパレードinかごしま 鹿児島市 150
沖縄県 原発いらない 西表島アクション 西表島 85
沖縄県 こどもパレード「げんぱつまちがいせんげん」 那覇 200
沖縄県 6.11脱原発100万人アクション・オキナワ 那覇市 200
沖縄県 「ヒバクシャ」をみますin那覇 那覇市 10
沖縄県 キャンドル・ナイトin柏屋食堂(那覇) 那覇市 20
沖縄県 花といのりのセレモニー 那覇市 100
沖縄県 611.サウンドデモ与那国島 10
沖縄県 これからのこと☆てくてくお食事会 読谷村 16
沖縄県 いのちをつなぐアースハーモニー★ 中頭郡 200
計 66819
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明日に向けて(164)福島・酪農家の男性自殺・・・。精神的苦痛の賠償に10万円・・・。

2011年06月20日 22時00分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110620 22:00)

悲しいニュースが入ってきました。福島の酪農家の男性が自死されました。

次のような書きおきがあったそうです。
「姉ちゃんには大変おせわになりました。原発さえなければと思ます。残った
酪農家は原発にまけないで願張て下さい。仕事をする気力をなくしました。
(妻と子ども2人の名前)ごめんなさい。なにもできない父親でした。仏様の
両親にもうしわけございません。」

悲しいと同時に、悔しい気がします。悲しみを怒りに変えて、共に歩みたかった。
そう思うのです。

私たちの国に住まう方々には、とても優しい方も多い。
しかし先日、和知にお話に行ったときに、参加していたカナダから移住された
女性が「日本人はもっと怒らなくてはダメ。・・・国民性で仕方がないのかなあ」
と話されていました。

その話を思い出し、もっと僕自身が怒りをうたう必要があった、その声を
亡くなってしまったその方にも届けたかったと思いました。

ご冥福をお祈りするばかりです。合掌。


さて、この悲報にまるで並ぶような形で、政府が、今回の事故で避難された方の
精神的苦痛の賠償を、月額10万円と算定したことが報道されました。
自動車の損害賠償保険を参考にしたのだそうです。要するに政府は人々の
苦しみを、自動車事故によるけがの入院と同等にしか見ていない。
・・・何をか言わんやです。

私たちの政府は、国民・住民の苦しみに本当に冷たい政府です。
責任感も本当に著しく欠如しています。

明日に向けて(163)でも書いたように、このような政府が次に行う事が
目に見えているのが、被曝の影響を大幅に低く見積もり、アメリカが積み
あげてきた「医学的見解」を楯に、被曝を被曝として認めず、苦しむ人々を
放り出すことです。

広島・長崎原爆の後でも、水俣病の発生後も、常にこうしたことが
行われてきました。被害者の方たちは、被害者という認定を受ける、ただ
そのことだけでも膨大な時間とエネルギーを費やしてきた。それでも今なお、
たくさんの方たちが、被害者にすら認定されていないのです。

確実に同じことが起こり始めます。いや起こり始めるので、それを許して
はならないと思うのです。広島・長崎原爆ヒバクシャの方たちが苦しんだ道、
水俣病患者さんたちが苦しんみながら通った道をよく学び、それを知恵に
転化し、これから起こることへの、私たち市民の側の構えを作っていく
必要があります。

そのことが私たちの幸福を育みます。

誰かが不当に踏みつけられ、苦しんでいる世界の中では、私たちは
幸せを満喫できないと僕は思うからです。

同時に、この先、踏みつけられるのが誰になるのか全く分からない。私たちの
誰もがすでに被曝をしている可能性があります。だから今から、内部被曝への
補償体制を問題にしていくことは、私たち1人1人への直接の救いの手に
なる可能性があるのです。

一緒にさらに学びながら、声をあげて行きましょう!

****************************

新築の壁に残した無念 福島・酪農家の男性自殺

朝日新聞 2011年6月20日4時5分
 福島県相馬市の酪農家の男性(54)が今月、自ら命を絶った。「残った酪農家
は原発に負けないで頑張ってください」。メッセージは、新築したばかりの堆肥
(たいひ)舎の壁に残されていた。

 男性は、東京電力福島第一原発から約60キロ離れた相馬市の山あいの小さ
な集落で、約40頭の乳牛を飼っていた。なだらかな斜面の奥に母屋があり、
手前に牛舎と堆肥舎が並ぶ。

 真面目で仕事熱心――。酪農家仲間や知人の一致した印象だ。午前3時から
牧草を刈り、牛の世話をした。世話を終えた後に、畑仕事に出ることもあった。
昨年末には、堆肥をつくって売るために堆肥舎を新築し、農機具も少しずつ増や
しながら、父親から継いだ牧場を大きくしようと懸命に働いていたという。

 原発事故で3月21日に原乳が出荷停止となり、搾った原乳を捨てる日々が
約1カ月続いた。「牛乳が出せないからお金も入らない」と仲間たちにこぼした。
男性が所属するJAそうま酪農部会の酪農家28戸のうち、営業を再開できた
のは16戸だけだった。

 知人らによると、男性はフィリピン人の妻(32)と長男(6)、次男(5)
の4人暮らしだった。そろいのヤッケを着た妻が、牛舎で牛の世話を手伝った。

 男性は長男の入学式を楽しみにしていた。「郡山市まで行って、高いランドセル
を買ってやったんだ」。20年来の友人の酪農家(52)は、男性がそう言って
笑っていた姿を思い出す。

 妻子は4月中旬、原発事故を心配したフィリピン政府に促されて帰国した。長男
の入学式の直前だった。

 男性は同月下旬、妻子を追って出国した。「おらだめだ。べこ(牛)やめて、
出て行く」「子どもらがいなくて寂しい」と周囲に漏らしていた。

 フィリピンに行った男性は、連絡をしてきた知人に「牛は処分してけろ」と頼ん
だ。近所の農家や仲間が手分けして世話することを決め、引き取った。5月初旬、
男性は1人で帰国した。「戻る気はなかったけど、言葉も通じなくて」。牛舎
から牛は1頭もいなくなっていた。「迷惑をかけてすまなかった」と酪農仲間に
わびたという。

 今月11日午前、広報誌を配りに訪れたJA職員が、亡くなっている男性を堆肥
舎で見つけた。ベニヤの壁には、白いチョークでメッセージが残されていた。

 姉ちゃんには大変おせわになりました。原発さえなければと思ます。残った
酪農家は原発にまけないで願張て下さい。仕事をする気力をなくしました。
(妻と子ども2人の名前)ごめんなさい。なにもできない父親でした。仏様の両親に
もうしわけございません。(一部省略、原文ママ)

 隣の牛舎には、黒板に「原発で手足ちぎられ酪農家」「やる気力なくした」と
いった言葉がつづられていた。

 14日、相馬市で葬儀が営まれた。家族や酪農家ら200人が男性の死を悼んだ
。フィリピンから駆けつけた妻子3人は寄り添い、泣きじゃくっていたという。

 男性が残した書き置きには2人の知人の名が記されていた。1人は新しい
堆肥舎を建てた大工の男性。その代金を完済しておらず、「保険で全て
支払って下さい。ごめんなさい」とあった。

 もう一人、隣の酪農家(64)には「言葉で言えないくらいにお世話になりま
した」と書き残した。この酪農家は「体は大きいけど気は小さくて、仕事一筋の
真面目な人だった。もう、ああいう人を出してはいけない」と話した。
(矢吹孝文、丹治翔)


■「先見えない被害 長期ケアを」専門家
 警察庁のまとめによると、東日本大震災で大きな被害が出た岩手、宮城、福島
3県の5月の自殺者は計151人。福島県は最多の68人で、昨年5月と比べ
唯一の増加(19人)となった。

 1995年の阪神大震災では、家族や職場を失ったショックなどによる自殺も
「震災関連死」と認定され、災害弔慰金が支給された。心に深い傷を負ったことに
よる心的外傷後ストレス障害(PTSD)が原因とする医師の診断書がある場合
などが
該当する。

 阪神大震災の経験から被災者の電話相談を行っているNPO法人「多重債務
による自死をなくす会コアセンター・コスモス」(神戸市)の弘中照美理事長は
「阪神では仮設住宅に入った頃から急激に自殺者が増えた。家や仕事を失った
喪失感は時間がたってから襲ってくる場合があり、今後のケアが重要だ」と指摘。
阪神大震災で精神科医として被災者のケアにあたった中井久夫さんは「福島県
の場合、地震と津波に加え、原発事故という先が見えない被害を受けている。
被災者の心の状態を長期的に見続ける必要がある」と話す。

 福島県内では、社会福祉法人「福島いのちの電話」が不安や悩みに関する
電話相談を受け付けている。相談時間は午前10時~午後10時で年中無休。
電話番号は024・536・4343。(波戸健一)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201106190452.html

*****

原発事故の避難者、精神的苦痛の賠償は月額10万円

朝日新聞 2011年6月20日18時51分
 政府の原子力損害賠償紛争審査会は20日、東京電力の原発事故に伴って
避難した住民が被った精神的苦痛に対する賠償について、1人あたり月額
10万円を基準とすることを決めた。体育館や公民館などの避難所に避難した
人は、プライバシー確保が難しいなど、苦痛の度合いが大きいとみて、2万円
を加算する。

 基準額の算定にあたっては、自動車損害賠償責任(自賠責)保険を参考にした。
交通事故でけがをして入院した場合、自賠責で定める慰謝料は1人あたり1日
4200円。月額換算で12万円程度となる。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201106200371.html
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明日に向けて(163)被曝医師・肥田舜太郎先生が語る『真実の原子力』

2011年06月20日 21時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110620 21:30)

昨日、肥田舜太郎先生の講演内容をノートテークして紹介した
ところ、大変な反響がありました。あらためて肥田先生のお力を
感じるばかりです。

今日は続けて、フクシマ原発事故から約一ヶ月半の日に、
「原発なしで暮らしたい100万人アクション in 広島」で肥田先生が
されたスピーチを動画と文字起こしでご紹介します。

なお、文字起こしを始めたところ、「ざまあみやがれ」というタイトル
のブログにすでに全体が起こされていることを知り、それを使わせて
いただくことにしました。当該ブログのアドレスは以下の通りです。
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65732731.html

肥田先生、「原発なしで暮らしたい100万人アクションin広島」の
スタッフのみなさま、文字起こしをされたブログ作成者様、どうも
ありがとうございました。

なおこのブログで、肥田先生のことが端的に紹介されていましたので、
これもそのまま使わせていただきます。

***

肥田 舜太郎(ひだ・しゅんたろう)

1917年広島生まれ。1944年陸軍軍医学校を卒業、軍医少尉として
広島陸軍病院に赴任。1945年広島にて被爆。被爆者救援にあたる。
全日本民医連理事、埼玉民医連会長などを歴任。現在、全日本
民医連顧問、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長。自身の
被爆体験を原点に、被爆者治療と核廃絶運動に関わり続け、今も
なお各地での精力的な講演活動は続いている。
著書 『広島の消えた日―被爆軍医の証言』、『内部被曝の脅威
ちくま新書(541)』など。

***

二つの著書を僕もこの間、続けて読みましたが、大変、感銘を受けました。
双方ともにみなさんに強くお勧めします。

なお肥田先生は、今回のお話の中で、今回の事故のおける被曝の
問題に触れて、次のように語られています。

「元気な者も含めて、放射線の病気が始まってくるのは、
おそらくこの秋から来年の春にかけて、たくさん出てくるだ
ろうと、わたくしは想像しています。」

ここはとても重要な点だと思います。とくに注意を要するのは
「ぶらぶら病」と言われる、前回の発言起こしで紹介した症状です。
現代の医学では病とされないものだからです。しかし広島・長崎の
多くの被ばく者がこれで本当に苦しんできた。

そのため、この症状がどのようなものか、できるだけ多くの人々
でシェアし、似たような症状が今後出た場合のケアを実現できるように
していくこと、政府にこれが原発事故由来の症状であることを
認めさせ、行政や医療機関にも理解してもらって、せめてもさまざまな
補償を受けられる社会的態勢を、今から作り出していくことがとても
大事だと思います。
内部被曝による苦しみを、少しでも軽減するためにです。

・・・この点については、回をあらためて詳しく論じていきたいと
思いますので、ともあれ今回もまた、肥田先生の迫力あるスピーチ
の内容をお読みください。

動画も25分と前回より短めですので、余裕のある方はぜひ
ご覧ください。

***************************

被曝医師・肥田舜太郎さんが語る『真実の原子力』
http://www.youtube.com/watch?v=3p73GY19ZrY

みなさん、こんにちは。私は今ご紹介いただいた、肥田舜太郎
という内科の医者です。94歳ですから、あんまり、確かなよう
に話すことが出来ないかもしれませんが、みなさんに、みんな
が教えられていない、広島長崎原爆の本当の被害の中身を、
短い時間ですが、簡単に分かるようにお知らせをします。

ご承知のように原子爆弾は放射線のエネルギーを元にした
爆弾です。今までの日本、世界中の人々が持っていたどんな
兵器とも全く違う、放射線というものを燃料に使って爆発
させる。ですから、その被害を受けた人は、やけどをしたり
強い爆風で吹っ飛ばされたり、する被害の他に放射線が人間
の体を色々と壊します。

直接爆発した下にいた人は、いわゆるピカを浴びた人は、
頭の毛が抜けたり血を吐いたり、体に他の病気では出ない
紫色の斑点が出たり、特殊な5つの症状で直後に、頭の上で
爆発した放射線を浴びた人はたくさん死にました。

ところが、放射線は爆発したその町に残っていて、1つは、
地面の上に降り積もっていた放射線の粒子、粒を人間が
触ったり歩いて飛び立った誇りとして吸い込む。
また水源地が侵されて水の中にたくさんあるのを飲む。

それからあのきのこ雲という舞い上がったあの雲は、爆発の
時に参加しなかった生のままのプルトニウムとかウラニウム
という、放射線の粒があの中にいっぱい詰まっていて、
それがいっぺん成層圏まで舞い上がります。しかし小さな粒
でも重みがありますから、降ってくる。

だから後からオヤジを探しに街に入った四日後に妹や弟の
様子を見に入った、自分は爆発とも何の関係の無い人が後から
街に入ったために広島でも長崎でも今の意外では診断の出来
ない不思議な病気がおこって大変苦しみました。

それで大部分の被ばく者は、今から10年ほど前から今もそう
ですが、50年60年経ってから癌や白血病という悪性の病気で、
今、どんどん死んでいます。つまり、戦争の終りに被爆をした
人が、60年も生きて、その生きてる間も、健康で過ごせたので
はなくて、しょっちゅうお医者さんに行って入退院を繰り返す。

だけども病気の本体はよくからない。そういう事で苦しんだ人
が最後はがんや白血病で命を取られる、放射線はそういう性質
を持っているのです。
ところが落としたアメリカは直接ピカを浴びて、やけどをした
り大怪我をした人たちがそういう強い放射線で殺される、
これは隠すことが出来ないんで、そのまんま認めたんですね。

ところが後から街へ入った人が、今の医学ではわからないいろ
んな病気で苦しんだとうことを聞いても、それはその患者を
診た医者が、原爆のことを悪くいうためにデマを飛ばしている
んであって、体の中に入る僅かな放射線は全然害がない、と
いうことを、広島から爆弾を落としてから1ヶ月と2日目、
9月8日の日に、アメリカのあの爆弾を作ったグループの一番TO
Pの人から2番目という偉い軍人が来て、まだマッカーサーが
日本へ上陸する前に焼け残った東京の帝国ホテルの前に、外国
から来ているジャーナリストを集めて、つまり微量な放射線は
体に入っても何にも害はないんだということを世界に向けて放
送をし、日本の政府に向けてもそれを承知しろと。

で、広島・長崎で被害をうけた被ばく者は、アメリカの軍事機
密である原子爆弾の秘密の一部を自分の体で知ったわけだから、
これはアメリカの軍事秘密だから絶対に人にしゃべってはいけ
ない、それから書いて残してもいけない、もちろん写真や絵で
書いてもいけない、もし違反した物は厳罰に処すと、占領政策
に最初にそれを日本で宣言したんですね。

だから広島・長崎で被ばくをして、兄弟も親もみんな死んじゃ
った、財産も亡くなった、行き場もない、そこら辺で倒れて
寝っ転がっていたたくさんの被ばく者が、私は広島・長崎で原
爆を浴びてとても今困っています、助けて下さいっていうこと
が言えなくなった。

これはアメリカが日本に原爆を投下したことも大変な罪悪です
けれども、それにもまして、戦争が終わって、自分の落とした
爆弾で、医学でなおしようもないという大変な病気を追ってい
る被ばく者に生きる道を閉ざすような大変悪いことをアメリカ
はしました。

それは自分だけが持っている原爆という新しい爆弾の秘密が、
よその国に漏れることを非常に恐れたからです。

みんなも知ってるように、アメリカ軍は戦争が終わってから7年
間、アメリカの鉄砲を持った兵隊で、実際に軍事占領をしまし
た。私たちは戦争で負けた上に、食べ物もない、家も焼けてな
い、という中から日本の国を新しく作るために一生懸命働きま
した。

私は医者ですから、自然に被ばく者をたくさん見ることになり
ます。

日本の医者の殆どはアメリカの言う事をそのまま信じて、後か
ら街へ入った被ばく者が、かったるくて動くことが出来ない、
他はなんともないんだけども、元気で働いていたら、ある日突
然、大変なダルさがおこって会社へ行けなくなった。3日も4日
も続いてやっと軽くなったから会社に行ったら、その翌月また
同じことがおこって、要するに会社や工場で働き続けることが
出来ない、という患者がいっぱい出たんですね。

ところが日本の医者は、大学の教授から街の先生から、特に広
島長崎の医者はみんなそうでしたが、アメリカから特に被ばく
者を一生懸命診るような医者は、なにかアメリカに含むところ
があると考えると、睨む、お前たちはそういう意味でアメリカ
から目をつけると言われて、被ばく者を親切に診るということ
も困難になった。

つまり、他国の軍隊に占領されて、自分の国の政府も役人も何
の役にも立たなくなった、そういう状態に、私たち日本人は一
度、7年間苦しみを味わいました。

私は銀座で、酔っ払ったアメリカの兵隊が数人で、公然の場所
で、女性をレイプする現場を見たことがあります。日本の警官
がそばに立ってても、ちょっとでも手をつければ、その場で殴
り殺される、そういう占領を我々は受けたのです。

しかも、今の医学では全く診断も治療もできない、新しい原爆
病という病気、この病気の患者を研究をすることも、日本の学
者は、禁じられました。

日本の政府は、困っている被ばく者をなんとか生活させるため
に法律を作ってなんとか援護をするということも禁じられまし
た。彼等は日本アメリカの軍事機密を知っているまだ敵性の国
民なんだと。それを日本の政府が特別に面倒をみることは許さ
ない、こういう占領が続いたのです。

でもそれは7年前に終わりました、しかし、その直後、皆も知
っている日米安保条約というアメリカがおこす戦争には日本が
全力を上げてこれを助ける、そういう今の安保条約という条約
ができて、日本の政府は今でも、日本を守ってくれるアメリカ
の核兵器が不利になるような運動を一切してはいけない。まだ
今の政府はそういう方針を持っています。

私が皆さんに言いたいのは、放射線の、皆さんは今度東北で福
島の原発が事故を起こして、たくさんの人が今、家にも帰れな
い、せっかくいたら外へ出て行けって言われるような目に、今
あってます。原発から漏れてく、放射線も、原子爆弾でみんな
が浴びる放射線も、放射線はおんなじものなのです。全然違わ
ないんです。

プルトニウムとウランという2つの放射線分子を燃料にして熱を
作って電気を起こしている。だから事故を起こしてこれを止め
られない。

皆さんはエネルギーを沢山知っています。一番、目にするのは
火ですね。これはエネルギーですね。ところがこれはマッチの
火はもみ消せば消える。ライターもスイッチをこすれば消えて
しまいますね。あらゆるエネルギーは、他のエネルギーは、消
すことが出来ます。

ところが放射線のエネルギーは絶対に消すことができないんで
すね。あれだけの事故を起こしたあの原子力発電所も、あそこ
で燃やしたウラニウムという原料がそのまま熱を持って燃え続
けるのを消すことが出来ないんです、人間には。

そういう難しいエネルギーを普通にはそこら辺にはないのを、
無理やり特別な化学の方法で無理やり引っ張り出した。引っ張
り出したことはいいけれども、最初に使ったのは人殺しの爆弾
に使ったと。そしてその機械が戦争が終われば、工場はそれを、
もう作り続ける必要が無くなっちゃう、なんとか使えないかっ
て言うんで、無理やり電気を起こす機械にして世界に売ったわ
けですね。それを買った、買わされた日本が飛びついて、それ
で電気を起こし始めた。

事故が起きなけりゃいいですよ。でも今度みたいに一変事故が
起こったら、もうどうしようもないんだ、あれ。埋めちゃうわ
けにもいかん。海へ放り込むわけにもいかん。どうしようもな
いんだ。出っぱなしですあれ。放射線が。だからあれはごくわ
ずかだけれども、ずーっと毎日朝から晩まであの工場の屋根か
ら上へ空中へ出て行く。水の中にも出る。それはなくなりませ
んから。貯まるんです。どんどんどんどん。

だから東北のあの工場の真上に、ドンドン出る放射線はそのま
ま風に乗って好きなとこへ行きます。そして地面に降る。降っ
たら地面に留まって、そこはもうお米も作れない。商売には使
えません。第一、そのそばへ行けば被ばくをします。

そういうふうに今、東北は、日本の国が東北という部分だけ、
破壊されてしまっと。極端に言えばそういう状態が今起こって
いる。

ところがテレビに出てきて、知ったような解説をする学者がた
くさんいます。彼等は放射線を作る側、あの放射線を作るのは
簡単には出来ないんですがね、だからアメリカから今、ウラニ
ウムを買ってきて、やってるわけだけれども、あれを作る側の
学問をやってきている人がでてるんですね。あそこへ。

ところがこの放射線が人間にあたったときに、それが人間がど
んな変化を起こすかってのは何にも知らないんです、彼等は。
だから直ちに心配なことはおこらない。そりゃそうですよ、今
日被ばくしたら明日病気になる、そんなことはないんだ。

でももう現に東北では、下痢が始まっています。さっき此処に
出られた被ばく者の方が、お母さんも、妹も、弟も自分も下痢
が始まったとおっしゃいました。

最初の症状の一つに下痢が始まります。でこれは今の普通のお
薬では止まりません。だからわたくしが一番心配してるのは、
あの今、東北で本当に苦しみぬいている、長く住んでいる家か
ら遠い不便なところへ行って、隣の人とはボール紙一枚で仕切
られたところで、もう1ヶ月以上生活してるんですねえ。

でこの人達がなめた苦しみは、今のところは不便なところで寝
てるっていうことで、年寄りが病人が、いろいろ死なれたり、
病気が悪くなったりしてられるけれども、元気な者も含めて、
放射線の病気が始まってくるのは、おそらくこの秋から来年の
春にかけて、たくさん出てくるだろうと、わたくしは想像して
います。

でも、ま、仮に病気になった人を私の病院に入れて、この人の
今の下痢は放射線の影響ですということを証明する学問がまだ
ないんです。これが泣き所です。

だから人をああいう目にあわせて殺した側は、完全犯罪だよね。
30年後に癌で死んで私はあの時にあの被ばくをしたから、この
病気になったんだ、なんぼ言っても、証拠を挙げられないんだ。
今の医学は、それを見つけるところまでまだ行ってないんだ。

理由は、簡単なんです。あの放射線のつぶの大きさはね、皆さん
が持っている定規の一番小さなメモリは1ミリメートルです。そ
の1ミリメートルの60億分の1というのがウラニウムの粒の直径
なんです。これが体の中に入って悪さをする。

今の医学は、人間の体を分解して細胞という一番小さな命の単
位のところで病気を見つける。これの60億分の1のところで今
病気を起こしてるということは、それを見つける方法を持って
いない。だから治す方法もなければ、消すことも出来ないとい
う、特別なエネルギーをなんで選んで日本人の国の中で電気を
起こさなきゃならないのかということなんだ。

みんなは知らないからあの方がたくさん電気が起こるんだとか、
他の奴より、地球の空を暖かくしない、温暖化を防ぐからとか
うまいこと言われて何となく、それで出来る電気で恩恵を受け
てのうのうとしてるけれども、敦賀の原発の1つが今もし事故
を起こせば、広島はひとたまりもなくその影響の中に入ります。

だから、私たちはもちろん核兵器はもう作ってもいけないし、
使ってもいけないという運動をします。だけどもこうなってみ
れば、原発だってもう許すことは出来ない。私たちの仲間の日
本人が事故を起こせば、何百万人という人が今東北で苦しむ。
あの姿は皆さんの明日ではないということは誰も言い切れない。

だから放射線というものはまだ人間が自由にコントロール出来
ないエネルギーなのですから、これはもう掘り出すことをやめ
る、もちろんこれを使うこともやめるということが、人類が全
体で長生きするためには、世界中がこれをやらなくてはいけない。
政府は、あの原発の事故を起こしたところから、20キロ、30キ
ロのところの人は悪いけど立ち退いてください、やっといいま
したね。

アメリカはこのニュースを聞いたときに、日本にいるアメリカ
人に80キロ離れたところへ逃げろということをアメリカは言っ
てるんですね。もう翌日もうそういう発表している。それから
フランスもドイツも日本に派遣している特派員、これは12日の
朝には、本国から、大阪まで逃げろと、東京のとこは全部そう
言われています。

つまり、それだけ逃げていなければ、お前の将来はあぶないよ
ということを、フランスもドイツもアメリカもよく知ってるから、
ちゃんとそういう放送をするんですね。

日本政府はひと月経ってやっと、20キロ30キロのところを、恐
る恐るあんた向こう行ってください、なんてとぼけたことをや
っている。つまり何にも知らないんですよ、日本の政府は。金
儲けだけを考えている。

だから、私は今日わざわざ、広島へ此処へ来て、この中には山
口県の新しくできる原発の反対に協力している若い方が、いっ
ぱいいると聞きました。私も広島陸軍病院にいたときに、上関
の婦人たちの健康診断を頼まれて、一度あの当時は村でしたけ
ど、あそこへ行ったことがあります。穏やかな非常に景色のい
いお魚の美味しいところですね。

その漁場を追われて、今、本当にに真剣になって、中電来るな、
電気会社に反抗して頑張っています。とうとう力負けしてだん
だん向こう方が有利になっているようですが、今度の事件が
あったので、会社が強引に進めるのを、ちょっと今、休んでる
ようですね。

だからこれからの日本の国民の闘い方一つで、日本の国から、
原発は追い出すことはわたくしはできると思っています。そし
てそういう力を集めて、核兵器を絶対に世界からなくす。

皆さんはのん気な顔をしてるけど、今の政府民主党の議員の中
にも、日本が原爆を持てという議員がもう60%を超えてるんで
すね。日本が核兵器を持って、もう一度他所の国と喧嘩をする
と、いうことを考えている議員が全体の議員の中で50%をもう
超えてるんですね。

だからみなさんがこれから、これからの自分たちの生涯、これ
から皆さんが持つ子ども、孫、その上に放射線の恐ろしさや不
安を絶対にさせないような国にこの国を作り変える、これがわ
たくしが一番大切な事だと思っています。

どうも長いことご苦労さま。



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明日に向けて(162)低線量被曝とぶらぶら病2(肥田舜太郎医師の講演より)

2011年06月19日 19時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110619 19:30)

肥田先生のお話の続きを送ります。今回で完結です。
前回は、原爆が破裂した時のお話でした。広島上空に火の玉ができて、やがて
黒い雲が広がるように襲ってきた話が、リアルにされていましたが、この8時15分
という時間帯は、実は人々が出勤で動いたり、朝礼や体操で外に出るなど、
広島市民が一番外に出ていることが確実な時間なのでした。

アメリカ軍はこの時間帯を狙って、原爆を投下したのです。もちろん、原爆の
人への打撃力を確かめるためにです。このため、多くの人がもろに熱線と放射線
を浴びてしまった。これらの人々は、治療のほどこしようがなく、次々と亡くなって
いきました。

しかしその後、長い間、先生が向かい合ったのは、「原爆ぶらぶら病」など、今に
いたるもきちんと医学的に解明されたとはいえない、被ばく者たちの病、苦しみ
でした。低線量の内部被ばくの影響です。

以下、肥田先生のお話を続けてお読みください。

*************************

3 広島での医療活動とぶらぶら病
http://www.youtube.com/watch?v=vX11MKzs7Ug&feature=related

私は小学校に行きました。道路と小学校の境がなくて、かなり大きな運動場の
向こうに崩れ落ちた校舎がある。そこに立ってみると、大きな校庭で一目見て
5000人ぐらいいる人間が、全部、横になって倒れている。たまに座っている人が
何人かいました。

それで見ていると、頭が動いたり、手が動いたりしている。これは生きているいる
人です。まったく動かなくなった人も見える。その中へ、頭の中で、俺は医者だと
思っている人間が、聴診器もなくなって、素手で何もなしでそこで突っ立っている。
どうしていいか分からない。

そうしたらたまたまよその分院にいた軍医が、僕を含めて4人集まった。「どうする
よ」「どうしようもないよ、これは」。でも広島中走り回ったって病院もなければ薬も
ない。ここでどうにかしようということになった。

それでさすがに村長などがいるのですよ。集まっているのだけれど、どうしようも
ない。考えがつかない。ゴーっと言う音がして、何が広島に起こったか分からない。
キノコ雲をみてませんからね。大きな風が吹いて、ゴーっといったら、村の家が壊れ
だした。村の人は家が心配だからそこで何かをやっていた。

村の幹部だから、何軒の家が潰れたとか、人が死んだとか聞くし、何かをしなけ
ればならないのだけれど、何をしていいいか分からなくてうろうろしてちょうど私が
帰ってきたので、「何とかしてつかあさい」と言う。私もどうしていいか分からないの
ですが「今、私は広島のそばまで行ったけれども、今からこの村に何万人か逃げて
来るよ。あんたがたは嫌でも面倒をみなくてはならない。こんなところでおどおどし
てないで、村の人を集めて迎える準備をしろ」と言いました。

それから私が動かなくなった人のそばにいって確かめて、この人ダメと指示を出す
と、村の人がついてきて担ぎ出すという仕事から始まった。これは残酷な仕事です
よ。そばに寝ているひとはね、軍医が来たと言うのが分かるから、とにかく痛みを
とってくれとか、治療をしてほしいとか思ってみんな私を見る。本人は起き上がって
これないからね、寝たままに睨みつけるわけです。それを目をそらしながら、向こう
にいる動かなくなったところにいって、脈をとったり聴診器をあてたりして、辛い思い
をしました。

こんな話だけをしていると終わってしまいますが、そういう状態が続いて3日目の朝
に、四国や九州の軍隊から、軍医さんがおそらく全部の人数で200人ぐらい、看護
婦をたくさん連れて、薬を持ってきました。私の村も患者が集まっていますから、
そこへ27人の若い軍医さんが来てくれた。ところがこの連中は、僕と同い年が僕
より若い人たちであまり臨床経験のない人たちだった。

連れてきた看護婦は100人ぐらいでしたから、それが村に散って、症状の重い人を
見つけては、大きな声で軍医を呼ぶのですね。「軍医どの熱が出てます」と言って
持ってきた体温計で測ると39度とか40度とか出ている。こんな熱は、広島では
チフスかマラリアしかみたことがない。

広島はチフスの有名な伝染地なのです。生ガキをだべるので。あれで伝染するの
です。なのでチフスと聞くとぞっとするのです。ここにもしチフスが感染すると全滅
ですから。だから新しく来た人に飛んでいって欲しいのですが、この人たちはチフス
をしらないから、結局、僕が飛んでいくのです。それでチフスじゃと思ってみますと、
チフスではなさそうなのだけれども、症状が、まったくみたことのないものなのです。

熱が出ている。普通のときには絶対に出血することのない瞼から血がだらだら、
だらだら垂れる。顔をやけどしているのですよ。でも目の中はやけどをしている
はずがないし、見てもやけどをしていないのに、目の粘膜から血が出る。鼻から出る、
口から出る。熱を出した患者が出血をして寝ているわけです。

熱が出ているなら扁桃腺が腫れているだろうと、口の中を見ます。指を入れてあけ
させて覗き込んで見る。普通口の中は、桃色か赤い色ですね。ところがその人は
真っ黒で、口の中の粘膜が腐っているのです。扁桃腺も真っ黒になっている。第一、
顔を向けてじっとしていられないぐらい臭いのです。腐敗していますから。そんな
症状は今まで見たことが無い。

それでああだこうだやっているうちに、やけどをしていないきれいな肌が残っていま
す。そこに紫色の斑点が出て来る。これは臨床経験の深い医者だと心臓の病気で、
死ぬときにあらわれることが分かります。他の病気ではどんなに重症になってもこ
れは出ないですね。心臓の重症の病気では死ぬ前に必ず出るんです。死斑という。

これを見たことがある医者はそうないないのですね。知っている医者が見れば分か
るけれど、知らない医者が見れば、何のことか分からない。そんな風に変わった症状
で死んでいく。最後に頭の毛が抜ける。


みなさんも抜け毛の経験はあるでしょうが、手で触ったら、触ったところが全部抜け
てしまう経験はないと思います。大勢の人が手で頭をなでるとそのまま毛が抜けて
しまう。あと1時間も生きてないだろうという重症の女の人が、息を振り絞るような
声を出して「私の毛が」と泣きだすのですよ。僕は女の人にとって、死ぬ間際まで、
自分の毛が無くなることがあんなに悲しいことだということを、始めて知りました。

つまり普段僕らが見たことが無い、出血と、脱毛と、高熱と、死斑と、口の中が腐る
と、そういう症状が5つ揃うと、死んでしまう。こんなことは生まれてから見たこと
がない。教科書にも載っていない。初めてあそこで経験したことなのです。原因も
もちろん分からない。2,3日して原子爆弾ということは聞きました。しかし原爆が
どのようなものか分からない。そういうことで当日から、原因が分かるまで、30年
間かかった。


東京へ帰って、東京に来た被ばく者を診て、埼玉にいって、関東平野からお金が
あってこれるような人は、みんないっぺんは僕のところへ来るのです。あそこに
行けば、話をしてくれると。よそへいっても何も分からないからそんなことは関係
ない。今、お前は血圧が高いからそれを診るというような話になってしまう。

原爆の時から、広島の時から話を聞いてくれて、分かるように説明してくれるお医者
さんがいるということで、長野や新潟、群馬、宇都宮、千葉、神奈川、東京から毎日、
毎日、一杯来ました。その説明だけで嫌になっちゃってね。そんな仕事をしてきた
のです。

最初にこの病気が何かということを教えてくれたのは、アメリカで世界的に有名な
スタングラスというピッツバークという町の大学の放射線科の医者でした。これは、
ちょうど1950年頃から、核実験をうんと始めたのです。核実験で放射性物質があがり、
これが雨に含まれると黒い雨になるのですね。それでみんな逃げる。当たると病気に
なる。広島の経験上、それは知られていた。ところが雨の粒にならない埃だけの
放射能は目に見えない。それを吸い込んで病気が起こる。埃を吸ったと言うのは
誰も気がつかない。

アメリカの兵隊が核実験で爆発させると、・・・アメリカの国は本当に残虐な国だと
思うのだけれど、自分の大事な兵隊を試験場の周りに塹壕を掘ってその中に待た
しておく。そして爆発して大きな火の玉が出来て、大変な状態がおこって、しばらく
すると降ってくるじゃないですか。

周りで見ている人間には、放射線はすぐにやってくる。何もないのでね。あとは上
から黒い雨は降らないで、埃だけが落ちて来る。その事態になると、今度の爆弾は、
爆発後、戦場で何分後に影響を受けるか、あるいは突撃ができるかということを、
生身の人間を使って実験したのです。

それに使われた兵隊こそ、本当に迷惑ですよね。目をつぶっていろ、後ろを向いて
いろ、鼻をつまんで息を止めていろ。それでOKと言ったら目をあけてよろしいと。
それで演習場の放射能の中へ突撃したりした。みんな被ばくですよね。


4 医者がわからない「ぶらぶら病」
http://www.youtube.com/watch?v=G5qq4CJxBRc&NR=1

広島・長崎の被ばく者が、同じように、直撃を受けないで、後に出たものを吸いこん
で出てきた病気が、ぶらぶら病という病気なのです。ぶらぶら病という名まえは
医者がつけた名前ではない。これは家族がつけた名まえなのです。見たところ、
何でもない。

「とうちゃん、働いてよ」。それじゃあというので、つるはしをふるい出したら、
30分ともたない。「俺はもうとてもかったるくて、生きてられない。先に帰るからな」
と先に帰って、座敷に寝てしまっている。そういうことが続くから、家族や本家の
ものが、あいつは広島にいって怠け者になって帰ったんだ、医者に診せろということ
で、診るけれども病気らしい兆候は何もない。本人がかったるくて動けないという
だけなのです。

それで怠け病というのは具合が悪いから、ぶらぶらしているからぶらぶら病という
ことになって、これが広島・長崎を中心にますます広がって、僕らにも聞こえてくる
のです。

僕の場合、一番驚いたのは、だるいというのは自分も経験があるから、その点の
だるさは分かるわけです。ところが初めてきた患者が、受付では黙ってしまって
言わないのです。被ばく者は差別されていますから。ところが僕の前にくると
「広島におられた肥田先生ですか」と聞くのです。「そうだ」というと、安心して、
「私も広島にいた被ばく者です」と、初めて言うのですよ。

初めて来た患者が、どうしてきたのと聞くと、かったるくて動けないというのです。
それでどんな医者に診てもらったのとか聞いているうちに、この男が先生ごめんな
さいといって、私の机の上で頬杖を突きだした。失礼ですよね。えっと思っていたら、
椅子から床へ降りてあぐらをかく。

ごめんなさい。椅子に座っていられませんといって、そのうち横になってしまう。こう
いう形でしか私は起きていられないのですというのです。「そんなにだるいの」という
と「そうなんです」という。それで初めて僕はぶらぶら病の患者のだるさという程度が
分かったね。初めてこれはただことではないと思いました。

広島にいたときも、戸坂(へさか)村の避難所がやがて閉鎖になりました。学校も
始まるし。それがちょうど12月の半ばだった。村の人は悪いけれど、病院のお医者
さんと患者さんでどこかへ行ってくれというのです。どこかへ行ってくれといっても、
広島の中は何にもない。結局はマッカーサー司令部に連絡をして、行くところがなくて
困っている。どこでもいいからこれだけの人数が入れて、病院の仕事ができるところ
を手配してくれと。

それで初めて山口県の柳井という市の郊外にある古い軍隊の建物をもらって、私
たちは100人を連れて行った。とことが山口県に逃げていた被ばく者が何万人もいて、
国立病院ができたっていうんで皆くるわけだ。たちまち満員になってしまってね。
医者がたった6人か7人のところに3000人から4000人が来て、まだできていませんと
いったって、勝手に布団を持ってきて、横になっちゃう。暖房がないから、そこら辺の
農家から七輪をもらってきて、そこら辺の古材をもってきちゃ、病室の中でたき火を
している。ボウボウ火の出るね。

そういうところで僕が仕事をしていたら、ぶらぶら病が入院してきて、そのまま寝た
きりになってしまう。すると朝から晩まで看護婦がいかなけりゃならない。人手は
取られるし治療法は分からないし、それで翌朝になって、看護婦が行ってみたら、
死んでましたということになる。そういうのを何例も診て、一体何の病気なのか
ということが30年間、私の頭の中にあった。


東京に出てきてから、東大の先生とか、大学の教授に患者を送ったりして教えて欲し
いと言っても、まともな返事をくれた人は一人もいない。本当なら、こういう病気は
私は診たことがない。申し訳ないけれど私には分かりませんというのが、一番、正直
なのですね。そう書いて欲しかった。

ところが自分の経験ではこれは病気ではないということが帰ってくる。こんな乱暴な
話がありますか。自分の知らない病気はこの世の中には一つもない。あるいは全部
俺は知っているというのが大学教授なのですよ。

もう腹が立ってね。お前は人間なのかと思いましたよ。実際に苦しい人間を紹介状を
つけて、お金もかかって、ムリムリで家族が病院まで連れていくわけじゃない。それで
何時間も診てもらって、やっとこさ診てもらったら、病気じゃありませんなんて、
とんでもない話です。だから私は偉い先生は、ぜんぜん信用しないのです。

そういう人間が何人もいるわけだ。僕はその先生からもらった、病気じゃありません
という診断書をとってありますよ。生きていたら持っていって、お前、こんなことを
言ったのだぞと言ってやりたい。まあ、生きている人は一人もいませんけれども。
今生きていたら100歳以上ですので。

まあそういうわけで、アメリカに行って、なぜアメリカに行ったのかというと、国連
に訴えに行こうということになって、昭和50年、1975年に日本の国民代表団が、
アメリカとソ連、あるいはよその国の、核実験をやめて欲しいと、その署名を集めて
国連に行ったのです。世界中の医者を集めて、日本でシンポジウムを開いて、日本の
医者にどうしたらいいか教えてくれという要請状を持って、私が日本の医者の代表と
なって行ったわけだ。

最後に話を聞いた国連の事務総長が、日本の代表団の要求はよく分かった、すぐに
国連の会議にかけたい。しかし残念ながら、ドクター肥田の出されたシンポジウムの
要求は受け取るわけにはいかないと断られた。

びっくりして理由はと聞いたら、私が行ったのが1975年、その7年前にアメリカ政府
と日本政府が、合同で、広島・長崎の医学的影響についてというものを、23年目に
初めて出した。

これは全部、アメリカのABCC(広島原爆傷害調査委員会)が作った資料だった。
広島でアメリカが来て治療をするらしいということで、みんなおしかけるじゃない。
中には大八車に乗っていった人もいる。そうしたらどこで被ばくしたと聞かれて、
では爆心地から2.5キロだとかいう話を聞いて、直接頭から浴びた人は中に入れる
わけです。

遠くの方で、翌日入りましたとか、午後に市内に入ったとか聞くと、ここはそういう
方たちは扱わないのですということで帰されてしまう。だから彼らは内部被ばくの
問題はぜんぜん診てないのです。だから遺伝の問題にしろ何にしろ、何にも報告書
を出していない。

アメリカが世界に発表するものは、全部、このアメリカのABCCがやった実験の
データばかりなのです。世界中の人が、これが原爆の被害だと思っているのは、
ほとんど頭から直接浴びた人たち。僕らから言わせるとほとんど即死した人たちの
症状なのです。

それをもってこれが世界の人が初めて受けた核兵器の被害なのですということに
なっているので、どこの国の医師会も医学界もそれを金科玉条にして勉強している。
日本の医者の報告はぜんぜん向こうに渡らない。だから私が向こうにいって、何人
かの医者と話をすると、みんなびっくりするのです。どうしてお前のところの政府
は、そういうことをやらないのか。

占領されている間はそういうことができなかったし、今、安保条約で日本の政府は
何一つ自由にできないんだ。特に核に関することは全部アメリカのご承知をいただく
という仕組みになっていると話をするとびっくりするね、みんな。

それを私は、国の数にすると17ぐらい。同じ国で何度も行っているところもあります
から、ドイツとフランスと英国と、この国はだいぶ、政府のところまで私の話が
通っているし、私が入っている映画とかそういうものが世界中に回っていますから。
そういう点では、うるさいとは思いましたけど外国のテレビが来て、インタビュー
して私の話をビデオにして持って帰って、一番世界で信用のある英国のBBCと
いう放送局が作った私の番組が何カ国語にも訳されて、世界中で上映して歩いて
いるね。


今、言っているのは「当面は心配ない」ということですね。ウソじゃない。確かに
当面は心配はない。だけど本当は何十年先のことは分かりませんよと言わなくては
いけないのだけれど、そこを言うとみんな分かってしまうから、言わなくてね。

だから後、一か月もたつと、この辺もかなり放射線が、普通よりは高まります。今、
100ミリシーベルトとか、1000ミリシーベルトとか言ってますね。1ミリシーベルト
なんてのは、なめたっていいんだと言うような感覚ですよね。僕らから言わせると
1ミリシーベルトがみなさんの幸不幸の分かれ目になるのです。

以上

*****************

次回は、低線量被曝がどのような影響を人体にもたらすのか、肥田先生が解明され
てきた内容をご紹介します。

コメント (4)
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明日に向けて(161)低線量被曝とぶらぶら病1(肥田舜太郎医師の講演より)

2011年06月19日 10時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110619 10:30)

311以降、福島第一原発で起こっていることをウォッチし、隠された危機をできる
だけ多くの人に伝えようと活動してきましたが、その中で、現在起こっている事故の
実相が隠されているだけでなく、放射線被曝の恐ろしさもまた隠されていること、
とくに内部被曝が非常に過小評価されていることを、今更ながら、実感を持って
認識するようになりました。

それで僕は、政府による「放射能は怖くないキャンペーン」との対決を、志すように
なりましたが、このキャンペーンの出所を探っているうちに、それが放射線影響
研究所などによって流布されていることが見えてきました。それでこの研究所の
ことを調べていくと、それがアメリカ軍の、原爆傷害調査委員会(ABCC)を
前身とする組織であり、結局この問題の背後には、アメリカによる核兵器戦略の
推進、そのための非人道性の隠ぺいという政策が色濃く横たわっていること、
それに日本政府が協力してきたことが見えてきました。

その頃、天の引き合わせと言うべきか、僕は次々と、被曝二世、三世の方たちと
お会いするようになりました。その中には、お父さんが、原爆投下後の入市被ばく
=内部被ばくによって、その後に発病されて亡くなった方々もいました。
また胎内被ばくをされた方、自らが、僕のブログに、「原爆ぶらぶら病」という
ご自身が患わってきた病の苦しさ、恐ろしさを投稿しても下さいました。

僕にはそうした連続の中で、無念の内に亡くなられた被ばく者の方々からの
メッセージが届けられているように感じました。「私たちのこの悲しい体験を、
明日に向けてつないで欲しい」というメッセージです。

その中で僕は、この問題を研究して来られた方を探し、今も福島にも赴いて
内部被ばくの恐ろしさを説いている矢ヶ崎克馬先生の本に出会い、さらに自ら被爆
医師として、被ばく者6000名を診察され、まさに第一人者として内部被ばく問題を
研究・追及して来られた肥田舜太郎先生の書物と出会って、深い感銘を受けました。

これらから、僕の探究の方向性が間違ってはいないという確信を得ると同時に、
戦後65年以上もたって、このことがこの国に住まう私たちの常識となってはいない
こと、その上に、常に被ばく労働の上にたち、放射線被ばくを必然化させてきた
原子力発電の容認があったことを、痛感するようになりました。

このため、今後、この紙面などを通じながら、僕はこの問題をより深く探求し、
多くの方に伝えていきたいと思っています。ここに原発問題、あるいは被曝問題を
考える上での一つの核心があると思うからです。

そのための試みとして、今回は、2011年3月19日に行われた、肥田舜太郎先生の
講演を、動画からノートテークしたものをみなさんに紹介したいと思います。
長いので、2回にわけて掲載します。

ぜひお読みください。そして再度、広島・長崎原爆から、被ばくの問題を一緒に
考えていただけたらと思います。

****************************

被ばく医師・肥田舜太郎氏講演
「大人たちのつくった世界」―低線量被曝とぶらぶら病
2011年3月19日

当該ビデオに掲載された肥田舜太郎氏のプロフィール

1917年広島市生まれ。
1945年8月6日 原爆被爆。
直後から被曝者救援・治療にあたる。
2009年引退まで、被曝者の診察を続ける。
被爆医師として被爆の実態を世界各地で
語りつぐ。アメリカの低線量放射線被曝に
関する研究書等を翻訳、普及につとめ
内部被曝の脅威を訴え続ける。


1 ヒロシマ原爆体験
http://www.youtube.com/watch?v=SAM6U5C_viA&feature=related

肥田瞬太郎という広島で被ばくした医師です。

28歳の時に、現役の軍医として広島の陸軍病院に赴任しました。
ちょうど原爆の落ちる一年前の昭和19年8月でした。

もう軍隊の中で勝てると思っている者はひとりもいませんでした。
中国から帰ってくる兵士からの話でもそれは分かりました。
広島は不思議なことに、米軍機はくるのに不思議なことに一発も爆弾を起さない。
そんな状態でした。飛行機がきてもよそに落としていくというそんな状態でした。

8月6日に原爆が落とされました。
被ばく者の方は、原爆が落とされた時の惨状はお話されます。惨憺たる地獄に
ついてはお話になります。でもなぜ広島や長崎が選ばれたのかとか、その後、
被ばく者はどのような立場に置かれたのかについては、自分の知識しかなくて
全体的にお話ができる被ばく者の方はいません。

私は原爆にやられて死んで行く人を治療して、大変なことになったと思って
いましたが、本当にこれは人類にとって二度と許してはならないことだと思うように
なったのは、30年、40年経ってからでした。

本人が被ばくをしなかったのに、たまたま警察官をしていて動員されて、翌日、
広島に入って、火の中でいろいろと救援活動をやった。ところが警察官の仕事に
戻ったころから、身体の調子が悪くなって、お医者さんにかかっても、どこも悪くない
と言われているうちに、寝たきりになってしまって、どんな先生に罹っても、病気が
分からない。それで死んでいってしまった。

死亡診断書の書きようがない。お医者さんの方も原因が分からず、最後は心臓が
弱ったということで、急性心不全ということで、役場で扱ってもらっていました。
私は、半年ぐらいまでは、強引に原爆症という病名をつけました。しかし役場が、
この病気は国際的に登録されてないという。国の法律としてこれを受け取るわけに
いかないから、法律の中にある病名を書いてくれといいます。
間違いないといくら言ってもダメなのです。

直接、原爆を受けないで、翌日、三日後、一週間後ぐらいに市内に入って、
そして今の医学では分からない病気になって、失業するし、仕事にもつけないし
学校にもいけない、結婚もできないというような不幸を受けた被ばく者の人に
とくに私は意識的に対応してきました。

そういう意味で、アメリカの占領軍のもとでは、そうしたことを言っただけで
とっつかまります。私は三度つかまっています。それでも救援活動をしました。
その後に、1952年にサンフランシスコ条約で日本が独立をして、日本の総理大臣が
国を治めるようになりましたが、中味は安保条約があり、結局、日本人の総理大臣が
日本人のために政治を行うことは未だにできていません。大事な問題は、全部、
アメリカの承認を受けると言う状態が今でも続いています。

そのおかげで、広島・長崎の原爆について、どんなことでも全部アメリカの軍事機密
になってしまいまいた。ですからこれだけ時間がたって、原発でどうしようもない
ことになっているけれども、何をどうするかという問題について、自由にできない。
こと放射線に関する問題は、日本人は何の自由もない。

直後から、日本の医学会や医師会は、放射能に関することは言ってはいけない、
研究してはいけないことになっていました。日本の医者や学者は全部アメリカの言う
ことを、アメリカにいって学んできて、それが放射線問題だと思いこんでいます。

だから被ばく者の側から何を言っても、その人の病気があのときの放射線の影響だ
と言おうものなら、学校は首になる。そのため日本の先生方は、何も言いません
でした。自分の出世に差し支えますから。

私はそれで首になった人をたくさん知っています。みんな涙を飲んでくびになった。
広島であのときに一緒に被ばく者を観た同年輩の医師は、もうみんな死ぬか寝た
きりになって、日本全国でこんなところに出てきて話をする医師は、もう私一人に
なっていると思います。そういう意味で、今日は、みなさんにとって、二度と他の人
からは聞けないお話をしています。

頭の上で爆発して、地上の人間で即死した人は、公には広島では7万人ぐらいと
言われています。

私はその日の朝、午前2時ぐらいに、戸坂(へさか)村という、広島から真北へ
6キロ行った村から、孫娘の往診を頼まれました。おじいさんが一人留守番をして
孫娘がいて、お父さんは戦死していない。奥さんは病気で里に帰っている。
おばあさんは死んでいて、おじいさんが一人で6歳の孫娘を見ている農家でした。

そのおじいさんが昔から少し知っている人だったので、自転車で病院まで来て、
発作が起こっているから来てくれと言う。今なら救急車で病院に行くような症状です
けれども、当時は車がないし、救急体制もありません。ところがその時はお酒を
ずいぶん飲んでいて、自転車の後ろに乗っているとおっこちてしまうのです。
それでおじいちゃんが自転車の後ろに私を乗せて、私を自分の身体に縛りつけて、
自転車で運んでいきました。

そんな状態でも、何か治療をやったのですよ。そうしたら発作が治まった。それで
布団を敷いてもらって、夜明けに帰ろうと思って寝ていました。
翌日、寝坊しました。あの爆弾が爆発したのは8時15分なのです。私は7時に
起きて病院に行くつもりだったのですが、目を覚ましたのが8時だった。それで
軍装して、でがけにもう一度診察しようと、女の子に聴診器をあてました。

もし私がいなくなって、不安になると発作が起きますから、寝かしておこうと思って、
睡眠剤を注射器にとって注射しようとした。
ちょうどその頃に上空に飛行機が入ってきました。当時のアメリカのB29という
一番大きな爆撃機でした。日本の飛行機は1000メートルもあがれなかった
ので向こうは来放題でした。


2 1945年8月6日に見たもの
http://www.youtube.com/watch?v=Ck4h9AwyNxM&feature=related

広島での長崎でも被爆した人はみな目がくらんだといいますが、私もそのとき目が
くらみました。田舎の6キロも離れた農村の何にもない大空の下で目がくらんで、
目を開いてみても金色になってしまって何も見えない。それでおかしいなと思って、
早く注射しようと思って、またもう一回、注射器を構えました。でも何が起こった
のか気になる。それでまたみようとしました。

この話をできるのは、おそらくもう広島でも長崎でも僕一人だと思うのですが、何に
もない大空なのですね。そしてちょうど広島の上空に当たるところにまあるい
火の輪ができたのです。かなり大きな真っ赤な火の輪です。
その真中に白い雲の塊が、ぽこっと浮いて、どんどん広がって、それが最初に
広がった火の輪にくっついたなと思ったら、それがそのまま真っ赤な火の玉に
なりました。

これを火球と書きますね。直径が700メートルぐらいですね。火の玉です。それを
遠くから見ると、目の前に太陽ができたみたいなのですね。そんなすごいものが
できて、口を開けてみていたのですけれども、玉の上の方がだんだん膨れて、
白い雲になって、赤い玉の上からどんどん登るのですよ。

下の方はちょうど広島の方をみると、ちょうど私から見る方向に横に長い岡のような
山があって、その向こうが広島なのですけれども、ちょうど広島市の幅ぐらいの
火柱がたった。そして上は凄い雲になって、もくもく、もくもくとなって、圏外に
までいきそうでした。

私は生まれて初めてみるので、怖いのですよね。非常に怖くて、農家の縁側に
腰をついたまま、ぼやっとみていました。そうしたら一番下の山の瀬の向こうから、
真っ黒な横に長い雲が、ぐっと顔を出した。それが山を越えて、なだれ落ちる。
落ちたところには太田川があり、周りに家があるのですが、そこに山の上から雲が
ざあっと流れ落ちるのです。

私から見ていると、自分の視野の向こうに、黒い雲の帯ができて、目の前の山の
瀬から崩れ落ちて来るのが見えるわけです。それで渦を巻きながら、私の方に
走ってくるわけです。こちらでみているともうくる、もうくると思うようなスピードで、
渦を巻いてくる。

それですぐに私がいた村の前に小さな小山があったのですが、その向こうから
顔を出してきた。黄色い泡にも見えるし、黒くも見えるし、わけがわからないのです。
私がいた家は村の高いところに、一軒立っていたのですが、まともにそこに
真正面から来るわけです。村の端に小学校がありました。木造の2階建でしたが、
そのかわら屋根が私の見ている前に舞い上がりました。それを見ている間に
私のところに来てしまい、黄色い雲なのか煙なのかそれがバーっと来て、そのまま
後ろに飛ばされました。

不思議なものでそのときのことをよく覚えていて、後ろ向きに天井の方に飛んで
いきながら、天井の襞を見ているのですね。ああ、天井だなと。そのまま藁ぶきの
屋根の天井が吹きあげられて、青空を見たまで覚えているのです。

それで突きあたりの壁に運悪く仏壇があって、そこにガシャンとたたきつけられて、
そこに上から屋根が落ちてきます。まず藁ぶき屋根の泥が落ちてきました。
それがどんどん落ちてきて家がつぶれてしまい、子どもと一緒に埋まってしまった。
農家の家は丈夫なので、完全には潰れないのですが、屋根の泥がみんな落ちて、
私はその中に埋まってしまいまいた。

気が付いて、とにかく一生懸命動き出して、逃げることを考えました。途中で、
赤ん坊がいたと思いだして、私のすぐ前に泥の山がありましてそこに赤ん坊が
埋まっている。花模様の布団の端がみえて、それを無理やりつかんでひっぱったら
一緒に赤ん坊が転がり出てきた。

それを確かめる間もなく小脇に抱えて、表に出ました。それで泥をはたいて出まして、
聴診器がどこかにいってしまってないものだから、耳の穴の泥をとって、女の子の
左の胸にあてたら、元気な音がしていた。

私はとにかく病院に帰られなければならない。自分の任務を無断で離れていて、
病院の開院時間が近い。だからすぐに行かなければと思い、おじいさんに大きな
声で、赤ん坊はここにいるよ、大丈夫だからねと叫んで、自転車にまたがって、
キノコ雲の方に走り出しました。

そのときの気持ちは、本当は後ろ向きに走りたかった。おっかないところに
いかなくてはならない。しょうがない。もう一生懸命に走りました。

すると瀕死の重傷者がたくさん来るわけです。ちょっと「申し訳ない、私は広島に
行かなくてはならない」とは言えたものではないですよね。これはとても広島には
行けないと、道をあきらめて太田川に飛び込んで、川の淵を腰までつかりながら、
広島に歩いて行って、病院の500メートルぐらい手前まで歩いて行って、そこから
あがって市内に入ればすぐに病院だというところまで来ました。

ところが土手のあがるところまで寄って行って、あがろうと思ったら、その上に
建っている家が燃えている最中だった。その燃えている火の中から、今、焼けた
ばかりの人が、白い肌を見せながら、川の中に飛び降りて来る。だから僕が上が
ろうと思ったら、目の前から人が飛び込んできて、川に落ちるわけです。落ちて、
ジャバンと入って、そのまま流れていったり、立ち上がって歩きだしたりする。

だいたいの人は、私のあがろうとする岸から、川の中に逃げて来る。まだ元気な
人は歩きだしますが、そのまま死んでしまう人もいる。だからそこに死体が重なって
いく。後から後からそこに飛び込んできて、私は何をしていいか分からないわけです。
行こうにも火があるし。そこにどうしたらいいか分からずに、30分ぐらいいたと思う
のです。その人たちに申し訳ないといって後ろを向くわけにもいかない。

そうしたら死体が流れてきて、私の腰にボンと当たるのです。ふっとみると、女の人
で、顔も焼けているし、おっぱいも焼けている。上を向いて、髪の毛が流れている。
わあっと思っていると、身体がまわって流れていく。それで気がつくと、川の中にも
死体が流れている。いっぱい流れていく。

小さな子どももいるのです。それを見たときは、私は生きている心地がしません
でした。残虐の極みですから。それで最後に決心をして、見ている人たち
に手を合わせて、私は村へ帰りました。

結局、道を通れませんから、川を遡って村へ戻りました。3時間ぐらいかかって
村に戻ってあがったら、もう村の中はそういう人でいっぱいになっていた。
村の家も飛んでいるか、傾いているか、どの家もまともなものは一軒もないです。
だから血だらけになって来た人が、家にあがることができない。

結局、その近所の空き地だとか、林の中の光をさえぎるところでみんな横に
なっちゃった。最初にそういうところで横になっちゃうから、後から来る人が
そういう人の上を這い上って、奥へ奥へと入って行く。


続く
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明日に向けて(160)政府が原発再稼働に動き出した!抗議を!

2011年06月18日 17時00分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110618 17:00)

昨日、僕は「「シビアアクシデント対策」という名の安全思想の切り捨て」という題の
文章を配信しました。
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/dc1ead8555b372bccf88155cfb3ede04

そこで述べたのは、政府・保安院・電力会社が、シビアアクシデント対策といい
ながら、シビアアクシデントを行さないようにするのではなく、シビアアクシデント
=設計段階の想定を越えた重大事故が発生することを前提とした原発の運転
継続に踏み込もうとしており、安全思想が完全に切り捨てられてしまっている
という点でした。

すると、やはりというべきか、この本当に俄か仕立ての「シビアアクシデント対策」
をもって、本日、海江田経済産業省より、「運転停止中の原発についても再稼働
は可能」というとんでもない声明が出されました。このことで、まさにこの「対策」が
はじめから運転継続あり気の、本当に小手先の、安全を無視したものであることが
より明らかになったと思います。

このことを毎日新聞が報道しています。記事内容が的確です。ともあれ冒頭の
内容を紹介します。

「海江田万里経済産業相は18日、東京電力福島第1原発事故のような設計基準
を上回るシビアアクシデント(過酷事故)対策について、各原発への立ち入り検査
などを実施した結果、「水素爆発などへの措置は適切に実施されている」と評価した
結果を公表した。海江田経産相は「これにより、運転停止中の原発についても
再稼働は可能」との見解を示した。しかし、原発立地の自治体では慎重姿勢が強く、
定期検査などで停止している原発の再稼働までには時間がかかる見通しだ。
海江田経産相は結果の説明と再稼働要請のため、来週末にも立地自治体を
訪問する方針を明らかにした。」

可能であればですが、ぜひそれぞれの「立地自治体」で、海江田大臣訪問に
対する抗議を行って欲しいと思います。

内容の中で、最も注目すべき点は、「水素爆発などへの措置は適切に実施
されている」と述べていることです。これは二つの点から批判されなければ
いけない。

まず第一には、このことが意味するのは、それぞれの原発で、政府が今回の
福島第一原発のような事故、つまり放射能が大量に漏れ出す事故が起こり
うることを認め、それが起こった時に水素を逃がす工夫のみをしたという事実です。

だとするならば、何よりもこのことを各自治体に告げなければいけない。
今回のような事故が起こる可能性はあります。それでも運転していいですかと
住民に聞くべきです。いやむしろ事実上、今回の訪問はそうした意味合いを
持っていることを私たちの側が認識しなければいけない。これを認めたら、
シビアアクシデントを前提とした運転を容認することになってしまいます。

第二に、シビアアクシデントの結果、起こりうることを水素爆発だけに限定している
事の誤りです。今回は、水素爆発だけでなく、2号機の圧力抑制室の爆発も
起こっている。燃料プールでの火災、あるいは爆発と思われる事象も起こっている。
それだけてはない。メルトダウンし、メルトスルーし、格納容器がガタガタになり、
それで膨大な放射能が外に出てきています。

汚染水も膨大に貯まっている。処理がなかなかおいつかないでいる。いや外に
出た放射能が汚泥の形で集まってしまい、焼却で二次汚染が起こり、さらに
処理できない汚泥がどんどん積み重なりつつある。

分かっていることを少し並べただけでも、これだけのことがシビアアクシデントの
結果、起こっているのであって、水素爆発はその一つに過ぎない。そもそもまだ
原因不明のことはたくさんあるし、恐らくはまだまだ分かっていないこともたくさん
あるのです。

だからシビアアクシデントが起こることを前提にした対策は、実はほとんど何も
立てられていないに等しい。水素爆発そのものについてだとて、建屋に穴を
あければ防げるというものではないはずです。

だから仮に・・・そんなことはあってはなりませんが・・・シビアアクシデントが起こる
可能性を持った運転を容認する立場を採るのだとしても、その対策がまだ
なされているとは到底いえないことが明らかです。

しかも、こうしたシビアアクシデントが起こった時、現行の災害マニュアルが、
まったく役に立たないことも明らかになっています。つまりシビアアクシデント時の
防災マニュアルもないのです。それでどうして、シビアアクシデント対策が
出来たと言えるのか。言えるわけなど絶対にないのです。


これらから言えるのはこういうことです。
僕はもともと原発の運転に反対の立場です。その僕から言えば、シビアアクシデント
を前提とした運転など到底認められません。だからこの海江田大臣の暴言に
強く抗議したいと思います。

しかし原発運転容認の立場からだって、安全対策が施されていること、万が一の
防災体制がしっかり整備されていることが運転の絶対条件だと思います。
その観点から言っても、水素爆発対策しか行っていない今回の「シビアアクシデント
対策」は、安全運転に逆行する、あまりに誤った「対策」であることが明らかです。
その意味で、原発運転を容認する方々にも、ぜひこの点の批判を行って欲しいと
思います。

ともあれこのような暴論を許してしまったら、すべての安全思想が吹き飛んで
しまいます。海江田大臣の発言は、人命をあまりに軽んじたものです。
とても真剣に原発の安全運転を考えているとは思えない。はじめから運転再開
ありきの発想であり、この考え方が、今回の事故の原因になっていることへの
何らの反省の色もない。

みなさん。抗議の声をあげましょう!強く!

*****************************

原発事故:定検で停止中の原発、政府が再稼働促す

2011年6月18日 11時44分 更新:6月18日 14時28分
 海江田万里経済産業相は18日、東京電力福島第1原発事故のような設計基準
を上回るシビアアクシデント(過酷事故)対策について、各原発への立ち入り検査
などを実施した結果、「水素爆発などへの措置は適切に実施されている」と評価した
結果を公表した。海江田経産相は「これにより、運転停止中の原発についても
再稼働は可能」との見解を示した。しかし、原発立地の自治体では慎重姿勢が強く、
定期検査などで停止している原発の再稼働までには時間がかかる見通しだ。
海江田経産相は結果の説明と再稼働要請のため、来週末にも立地自治体を
訪問する方針を明らかにした。

 調査は原子力安全・保安院が7日、電力会社など11事業者に対し、(1)原発の
中央制御室の作業環境の確保(2)停電時の原発構内での通信手段の確保
(3)放射線管理のための体制整備(4)水素爆発の防止対策(5)がれき撤去の
重機配備--の5項目について状況を報告するよう指示。さらに各原発への
立ち入り検査を実施した。

 この結果、中央制御室の作業環境については震災後に各電力会社が非常用
電源などを確保しており、保安院は「必要な電源が確保されている」と評価。福島
第1原発1~3号機で発生した水素爆発についても、沸騰水型軽水炉については、
建屋上部での水素滞留を防ぐために建屋に穴をあけるドリルなどが配備された。
さらに水素を建屋外に逃がすベント装置の設置計画も進んでいると判断した。

 国内の商業用原発54基のうち、37基は定期検査や東日本大震災の被災など
で停止している(調整運転を含む)。17基は営業運転を続けているが、うち5基
前後が8月末までに定期検査に入るため、電力需給の逼迫(ひっぱく)が懸念
されている。海江田経産相は記者会見で「電力供給の不安、コストの上昇は
国内投資への抑制、日本企業の海外への回避を呼び起こし、産業の空洞化を
招く恐れがある」と強調。「原発の再稼働をぜひお願いしたい。私が直接地元に
出向いて説明する」と述べた。【中西拓司、野原大輔】

◇「住民、納得しない」 福島で当惑の声

 東京電力福島第1原発事故の収束が見通せない中で18日、海江田万里経済
産業相が各地の原発の安全対策の確認を発表、定期検査で止まっていた原発に
ついては再稼働を促した。「本当に安全が確認できたのか」「時期尚早だ」。原発
事故などで2万人にも及ぶ避難者を出し、今も被害に苦しむ地元・福島では
怒りや当惑が広がった。

 自宅が警戒区域にある浪江町川添の松本幸子さん(27)は県内外で7カ所の
避難所を転々とし、現在は新潟県柏崎市の民宿に身を寄せている。大熊町の
勤め先は営業の見通しが立たず解雇されたが、その後も住居が定まらないため、
職探しもままならない状態だという。松本さんは「福島第1原発も絶対安全だと
言われて安心していたが、事故が起きてからはもう信用できない」と話した。

 福島県内では10基ある原発のうち、福島第1の5・6号機と第2の1~4号機が
冷温停止中だ。これらについて佐藤雄平知事は4月以降「再稼働はあり得ない」
と明言し続けている。第2原発が立地する楢葉町の猪狩克栄・企画課長は「まず
は原発事故を収束させるべきだ。地震にも津波にも対応した安全対策を国が
十分に説明できるとは思えない」と疑問を投げかけ、「夏場の電力不足を心配して
のことだと思うが、立地自治体の住民も納得しないのではないか」と話した。

 福島第1原発事故で全域が計画的避難区域になった飯舘村の菅野典雄村長は
「国を信用できないわけではないが、原発の再稼働は国の判断だけではだめ。
地元の人たちの十分な合意が必要だ」と話した。

 津波の被害を受け運転を停止したものの、深刻な事故を免れた東北電力女川
原発(宮城県女川町、石巻市)。女川町の鮮魚店経営、佐藤圭一さん(54)は
「電力会社は過去に何度かトラブル隠しを起こしており、国や町がきちんと批判
できる体制を作らなければ不安は消えない。まず仲間意識を断ってほしい」と
注文をつけた。その上で「廃炉にすれば職に困る人がたくさん生まれるので、
本当に安全が確認できるのならば反対はしない」と複雑な思いを語った。
【金寿英、松本惇、種市房子、津久井達】

◇宮城県知事は「一定の理解」

 宮城県の村井嘉浩知事は18日午前、運転停止中の原発について海江田万里
経済産業相が「再稼働は可能」との見解を示したのを受け、東京都内で記者団に
「日本全国で電力が不足する状況で、国がそのような考え方を示したことには
一定の理解はできる」と語った。ただ、東日本大震災後に停止中の女川原発
(宮城県女川町、石巻市)については「東北電力から何も聞いていないので
コメントできない」と述べるにとどめた。【中井正裕】

◇橋下知事「経産相が原発周辺に住めばよい」

 大阪府の橋下徹知事は18日、海江田経産相の発言に「時期尚早だ。海江田
経産相や経産省のみなさんが原発の周辺に住めばよい」と批判。「福島第1原発
事故を収拾できていない政府が、安全を言うのはどういう思考回路なのか」と
述べた。
 5日間のインドネシア出張を終え、関西国際空港に帰国し、記者団に
明らかにした。【堀文彦】
http://mainichi.jp/select/today/news/20110618k0000e040041000c.html
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明日に向けて(159) 京都・ママ・パパ会の活躍に触れて

2011年06月18日 00時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110618 00:30)

6月14日に、「京都・ママ・パパの会」の方たちに呼んでいただいて、お話を
してきました。

「京都・ママ・パパの会」は、子どもたちを守るのは自分しかいないと決意して
起ちあがったママさん、パパさんの集う会です。素敵なホームページも
立ち上げています。
http://kodomo-kyoto.sakura.ne.jp/

この日の会合、自分の話がどうだったかは分かりませんが、赤ちゃん連れの
お母さんたちがたくさん詰めかけてくださり、熱心な討論が交わされました。
とくに印象的だったのは、福島県郡山市、茨城県、東京都から避難してきた
お母さんたちも参加してくれたことでした。東京からはふた組の親子が参加
してくださった。また自分のご家族をオーストラリアに避難させているパパさんも
参加してくださいました。

僕の話の後に、それぞれが自分の思いを話して下さり、それがとても良かった。
京都のお母さんたちも次々と質問や意見を言われていました。全体として
みんなで子どもたちを守っていこう、避難してきた人たちの苦労をシェアして
いこうという気持ちが溢れていました。

・・・人の思いの中で、何が一番とは、なかなか言えないものだとは思いますが、
やはりわが子を守ろうとするママさん、パパさんの気持ちはとても強いものであり、
同時にとても気高いものだと思います。接していて胸を打たれます。
柔らかくも、しなやかな強さ、逞しさを感じました。

参加させていただいていることがとても幸せに感じれる一幕でした。
僕もママさん・パパさんたちと一緒に頑張っていきたいと思います。

同会のホームページに、この日の報告も載っています。
写真もあるので、雰囲気も伝わるかと思います。よければご覧ください。
http://kodomo-kyoto.sakura.ne.jp/

なおこうしたママ・パパの立ち上がりは、全国で進んでいるようです。
その一つ、東京の江東区でも子どもを守る会が立ちあがっています。
『NO!放射能「江東こどもを守る会」』です。
http://koutoumama.jimdo.com/

この会は、独自に放射線計測を行う中で、近くの汚泥処理施設周辺が高線量源に
なっていることを突き止めています。非常に有効な活動だと思います。
この会の活動を紹介する記事が、「女性セブン」に載ったので、ご紹介します。

また京都・ママ・パパの会の方たちによる、街頭署名活動の記事も貼り付けて
おきます。

ママさん、パパさんたちがたくさん集ってくださったのは京北で、「おむすび
マーケット」の方たちが開いてくださった会合も同じでした。このときも僕は
集まったみなさんたちの真剣なまなざしに包まれて、胸が熱くなりました。
京北と和知の集まりの様子が京都新聞に報道されたことを、同会のHPに
載せてくださっているので、紹介します。
http://omusubi.keihoku.jp/info/kyoto-np_110614.html

ともあれ、みなさん。素晴らしく活躍中です!

**************************

放射能から子を守りたい」母の願いに立ち上がった大学教授

NEWS ポストセブン 6月12日(日)7時5分配信
 6月7日、東京都庁記者クラブで行われた記者会見。NPO『NO!放射能「江東
こども守る会」』代表の石川綾子さん(33)と神戸大学大学院山内知也教授が
こう説明し始めた。

「東京都江東区のグラウンドから1kg当たり2300ベクレルものセシウムが検出
されました。これは福島県内の小学校の校庭に匹敵する汚染レベルです。
またこの場所では、0.25マイクロシーベルト/h以上の放射線量も計測されています」

 子供が毎日のように野球やサッカーを楽しむグラウンドで計測された高い放射
線量。単純計算だが、0.25マイクロシーベルトは1年間常に外にいた場合、外部
被曝だけで年間2.19ミリシーベルトにも達する数値だ。

 文科省は5月27日、福島県内の学校で子供が1年間に浴びる放射線量について、
年間1ミリシーベルト以下を目指すことを示したが、前出のグラウンド周辺はその
1ミリシーベルトを超える放射能高濃度エリアということになる。

 独自に調査を行い、その衝撃の結果を発表した石川さんは、4才、3才、1才の
3人の娘をもつ主婦。震災以前は、放射能の知識もほとんどなかったという。

「中学校の修学旅行でJCOのある茨城県の東海村に行ったくらいで、それっきり。
放射能とか原発とか全然詳しくなかったんです。でも、5月中旬の新聞で、東京の
亀戸でかなり高濃度の放射性セシウムが検出されたという記事を見て、いま
住んでいる所は大丈夫なのか知りたくなり、行動に移したんです」(石川さん)

 夫がインターネットで検索して、放射線計測学を専門にする山内教授に連絡を
取った。山内教授は快く承諾してくれたので、長女と次女の通う幼稚園に掛け合い、
園内の放射線量についても調べることにした。しかし、調査をする直前に、
幼稚園からは「その話は進めないでくれ」と断りがはいってしまったという。

 子供たちを守るためには自分たちが動かなければと、石川さんたちはそれを
機に『NO!放射能「江東こども守る会」』を設立。同じような考えを持ったママ
友らがあっという間に31人も集まった。

 同会が依頼する形で、山内教授らが、5月21、22、25日に江東区内の11エリア
で地表や大気の調査を行った。

「山内教授とアシスタントの先生、それと会のメンバー約9人で公園や公道、神社
などを回りました。いずれも測定器の針が振れて高い数値が出たのですが、
東部スラッジプラントの周辺でより高い数値が出たんです」(石川さん)

 スラッジプラントとは、下水の処理過程から発生する汚泥(スラッジ)を処理する
施設。下水道から出る汚泥を濃縮・焼却し、砂を生成。その砂をセメントや建築
資材などに再利用している。都内には水道局管理の下にスラッジプラントが2か所、
他にも汚泥の焼却施設が10か所存在する。このうち、江東区内で稼働している
東部スラッジプラント周辺で高い放射線量が計測されたというわけだ。冒頭の
会見で報告されたグラウンドはまさに東部スラッジプラントの目と鼻の先だった。

※女性セブン2011年6月23日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110612-00000005-pseven-pol

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子どもを放射能から守って 「京都・ママ・パパの会」が署名宣伝

京都民報 2011年6月16日 10:31
 「放射能から子どもを守る京都・ママ・パパの会」は15日、京都市下京区の四条
河原町で「法定1ミリシーベルトの順守」と、「放射能を浴びた震災ごみを京都市で
焼却しないこと」を求める署名を呼びかける街頭宣伝を行いました。

 「1ミリシーベルト」の署名では、現行法の年間被ばく量の上限1ミリシーベルトを
守り、放射線量の高い地域の子どもたちの避難・疎開の実施や内部被ばく検査
などを求めています。また、「震災ごみ」の署名では、東日本大震災で生まれた
ごみの処理について、年10マイクロシーベルト以上の震災ゴミを京都市へ持ち
込まず、焼却しないことを求めています。

 同会のメンバーは、「多くの子どもが放射能の危険にさらされています。これ以上
の被ばくを生まないでほしい」とマイクで訴え、署名を呼びかけました。2歳の子ども
を連れて宣伝に参加した女性(36)=左京区=は、「これだけ大きな原発事故が
起こり、自分も行動しないといけないと思って宣伝に参加しました。福島の人も
大変ですし、京都でも不安に思うことがあります。少しでも放射能の危険を
減らしたい」と語りました。
http://www.kyoto-minpo.net/archives/2011/06/16/post_7932.php
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