富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

外国人という考え方

2006年02月18日 | Weblog
また、ぎょっとする事件が起きました。この園児の殺害事件のいきさつを僕はわかりませんが、いつも気になっていることが改めてよみがえってきました。

私たちの国が、四方を海で隔てられた島国のせいでしょうか、あるいは長い間「鎖国」という政策で意図的にも、海外との交流を遮断した歴史からくるのでしょうか、誰かがこの国を語ろうとしたり、あるいは海外のニュースを論じる機会に「私たち日本人は・・」と切り出したり、この逆の意味で「外人は・・・」とか、「外国人は・・・」とか、ひとくくりにした物言いを耳にします。日本人の誰もが「空手」ができるわけではありませんし、外国からきた人たちは誰もが英語を話せる訳でも、ましてや「アメリカ人」でもありません。あるいは、肌のいろや髪の色の違いがきになってしまったり、黒い・白いと区別したり、アフリカ系の人々を「黒人」などと呼んでみたり、何かにつけ一人一人の個性や違いを無視して、固まりを作る傾向に、時にはストレスを感じてしまいます。
そのうえ、何か意見を言おうとするときに、「私たち」とわざわざ頭にして、「私は」という個人の物言いを避けることに気を配ったりします。

それこそ、自分が「ガイジン」かぶれのせいなのでしょうか、こういうたぐいの言葉が、なかなか受け入れられません。この国のあるいは、大きいことを言えばアジア的な考えの中に、全体から個人をとらえるような、個人は全体の一部というのか全体のための個人のあり方ばかりを重視するような前提があって、その上でみんなひっくるめて、「私たち日本人は・・・」と考えがちではありませんか。
一人一人が個々に独立して、それぞれの思いと考え方、生き方があるのに

こういうものの考え方は、この国に生まれたもの以外の国の人々を「外人」とひっくるめてとらえています。国や自治体までもたとえば、住民登録をしようとするとき「エイリアン」(侵入者)と識別された「外国人登録」をせねばなりません。
納税の義務を押しつけながらも・・・従ってこの私たち以外を「外人」とする考えは、いわばグローバル化を声高に唱えてるふりをしてても、実態は旧態依然としたものを壊せずにいる今の政府のあり様の一つでもあるのです。

今この国にいるいわゆる「外国人」には、この日本人とは混ざらないという区別が差別的で、日本人との間に生まれた子供を「ハーフ」などというきわめて侮辱的な言葉で呼ばれるなど(これは、英語ではありません。和製の英語もどきです)例外なくそう区別されることを苦痛に思っています。

僕が知り合った海外からきた人たちの言葉を、ここに引用させてもらいましょう。
「日本の人たちは、みんな親切だ。しかし、何を言ってもニコニコしてくれるけど、建前と本音があって、本当の友達にはなれない。」うち解けず、混ざりあえないことを特に問題にします。多くの人が何でも世話を焼いてくれるけど、うち解けられないもどかしさを感じているのです。
いま、トリノオリンピックをみて、「日本人は、あかんな」と口にされたこともあるでしょう。彼らは、彼らのために競技しているのです。彼らにはそれぞれの努力の積み重ねもあるでしょう。彼らの栄誉はこの国のためにあるのではないのです。少なくとも「日本人として」などとうそぶく選手は、間違いなくプレッシャーに押しつぶされてしまいます。世界中に国境は存在するけども、気持ちや思いに国境をこしらえることほど、意味のないものはありません。「よその国からきたから何を考えているのかわからん」のではありません。そういう人は、自分をさらすこともなければ、相手を理解することすら始めようとしていません。たとえ、見た目は親切にしていてもです。

一人一人をそれぞれの個性として見る見方ができないものでしょうか。「全体主義」などという言い方は、正確ではありませんが、全部をひっくるめて、物言う姿勢は、みんなに同じ考え方や生き方を強要しているように思えてなりません。
イチローは、イチローとしてアメリカにいるのであって、彼を日本人プレーヤーなどとせまっくるしい範ちゅうにおいてイチローをみるのは、レベルの低いこの国のスポーツマスコミだけでなく、「同じである」ことに固執する悪い癖のような気がします。

滋賀でおこった痛ましい事件の全貌は、はっきりしませんし、私が述べることとは
違っているのかも知れません。ただ、この事件をまた、「外国人の・・・」とかのくくりで論じるのは、私自身は足下を見ない物言いだと思います。
そして、仮に自分が外国で、この国のありようのように「外国人」などと区別され、追い込まれたとしたらどうでしょうか。海外にある「日本人社会」という存在がこの国のある種閉鎖的なものの考え方や違うことへの抵抗感のようなものを暗示しているように思えます。

僕自身には、言い切れることがあります。それは、どこの国からきたということも、あるいは誰がどう否定してもこの国に存在する欧米人に比べてアジアやアフリカからの人々への区別もありません。そして、それらの違いも受け入れることができます。「十人十色」というこの国には昔からすばらしい言葉が、存在するのに、「同じ」であること、「違う」ということを排除してしまいがちなのはなぜなのでしょう。同じことよりも違うということに本当のおもしろさがあるのだと思うのですが・・・

なんや、わかったようなしかも説教じみて恐縮ですが、少しでも伝わればと投稿させていただきました。