日本の企業関係者が、中国でスパイの疑いで摘発される例が相次いでいます。日本のアステラス製薬の中国法人幹部の日本人男性がスパイ容疑で逮捕されました。この他にも、少なくとも17人の日本人がスパイ行為の疑いで拘束され、その中で逮捕された方は12人になります。中国でビジネスに従事する日本人は、どんな行為が違法とされるか明確には分からず「漠然とした不安がある」といいます。ある会社からは、断片的に地図情報の使用に気をつけるよう注意の喚起もあるようです。「中国赴任は怖い。家族も心配するし、帯同するかも迷う」という方もいます。中国ではスパイ行為の定義が暖昧なまま、当局の姿勢が厳しくなっている現実があります。厳しくなっているという状況においても、中国の市場は魅力的です。リスクの中に、ビジネスチャンスあるという経験則は、今も生きています。リスクとチャンスのトレードオフを乗り越えれば、明るい道が開けるかもしれません。そんな課題に今回は、挑戦してみます。
スパイ行為は、中国の刑法で厳しく禁じられています。その主な規定は、刑法110条と111条になります。ここには、「スパイ組織」への協力のために秘密情報を得て提供するといった行為に懲役刑が規定されています。また、「国外の組織」のために秘密情報を得て提供するといった行為にも懲役刑が規定されています。刑法とは別に2014年に施行された反スパイ法もあり、この反スパイ法が、今年7月に改正されています。スパイ行為の対象には、「国の安全と利益に関わる文書、データ、資料、物品の窃取」が新たに追加されています。この流れを見ると、中国がスパイ摘発と並んで強化しているは、データの国外流出を防止することにあるようです。いわゆるデータの越境規制が、強化されていることになります。外国企業が中国で投資などを行う際の情報が、国家の安全保障にかかわる恐れが出ています。ここでは、企業が望んでいなくても国家機密を渡される恐れがあるというのです。「合弁契約書を作成する際に、「国家機密や情報を渡さない」ことを中国企業に約束させることも有効だ」と現地に詳しい弁護士の方はアドバイスしています。この弁護士さんは、普通の駐在員なら気を付けるべきポイントをおさえれば、それほど心配する必要はないとも言います。過度な委縮で駐在員が減るなどすれば、日本経済にマイナスになりかねないようです。
鈴木英司氏は、刑法のスパイ罪で懲役6年などの実刑判決を受けて服役しました。彼は、出所後の2022年に日本に帰国できました。鈴木氏は、1980年代から日中交流事業に関わっていた方でもあります。彼は、北京の大学で客員教授も務めた中国事情のエキスパートでした。その彼が、なぜ逮捕されたかという理由が、おぼろげながら分かってきました。鈴木氏は、中国の外務省関係者と国際情勢について些細な会話を交わした時の会話の内容が問題になったようです。この些細な会話に関することを、日本の政府関係者に伝えたことがスパイ行為と認定されたというのです。中国事情に詳しい弁護士は、注意点として、①軍事など敏感な場所に近寄らない、②写真は原則撮らない、そしてカメラを持たない、③現地人と政治など敏感な会話は避ける、④取引相手や買収対象などの調査を行う場合は外部に委託する、⑥不要不急の外出を避けるなどを挙げています。この注意から、「現地人と政治など敏感な会話は避ける」ことが、鈴木氏の逮捕につながったと漠然と推測されるわけです。
このような注意点を挙げられても、悩ましい点は、ビジネス上の通常の情報収集とスパイ行為とされる境界線が暖昧なことなのです。曖昧なことにリスクが内在するのであれば、それを探っていく試行錯誤も求められます。そんな中で見えてきたものがあります。それは、長期駐在の人達が当局から当然マークされるということです。これまで逮捕された中には、駐在経験が長く中国事情に精通した方が多いのです。逮捕されたアステラス製薬の日本人男性は、駐在歴が通算20年以上で、日系の経済親睦団体「中国日本商会」の副会長も務めた方でした。さらに、複数の専門家からは、日本の情報機関と交流の経験があるとスパイと疑われる可能性が高まるとの指摘もあります。公安調査庁や警察出身の職員が外交官として、大使館や領事館に派遣される場合があります。これらの方と交流の経験があると、中国当局にスパイと疑われるというわけです。
不安の多い中国国内でビジネス活動をする日本企業にも、救いはあるようです。その一つが、中国国内の失業率が高いと言う点です。中国では、若年層の雇用悪化に歯止めがかからない状況が続いています。公式発表では、2023年3月の16~24歳の就業者数は2587万人、失業者数は632万人となっています。公式の定義による失業率は、632万人÷ (632万人+ 2587万人) ×100=19.6%となります。でも、「職探しをしていない失業者」は、統計上、失業者数にも労働力人口にも含まれないのです。3月の16~24歳の仕事をしていないし、職探しもしていない非労働力人口は、6418万人になります。この6418万人入れると、失業者は5割近くに達するとの試算もあります。中国の若年層の失業率は過去最高の水準で、就職難は深刻になっています。若者の失業は、将来の経済発展を阻害する要因になります。2023年夏の学部卒業生や大学院修了生は、過去最多の1158方人で、5年間で4割増えています。若年層の失業が高水準の状態が長期化すると、労働者として技術の蓄積が遅れるのです。特に大学生や大学院生の才能は、これからの経済発展の原動力になります。若者が長く失業したままだと、技術の蓄積が遅れます。その結果として、労働生産性の伸びが鈍り、成長を阻害していくことになります。中国政府は、もちろんこのことを危惧しています。
経済のかじ取りをする中国人民銀行は、中国経済の実力を示す足元の潜在成長率を5%台前半と推計しています。この潜在成長率が、今後は緩やかに低下していく公算が大きいことも認識しているようです。産業の裾野が広い不動産業の構造的な調整により、住宅や工場設備の資本ストックも伸びにくい状況が続いています。さらに、急速な少子化で労働力人口の減少に歯止めがかからない状況もあります。中長期でみた経済成長の減速幅が、想定以上に大きくなる可能性も否定できないのです。中国の経済成長に群がってきた外国企業が、中国事業の縮小を計り、さらには撤退する企業も目立つようになりました。実際、外資による中国投資の減少は止まらない状況になっています。外資企業が4~6月に中国での対内直接投資は67億ドルと、前年同期から82%減っています。2023年の投資額について、今年は投資しないとする企業や昨年より減らすという企業が5割近くに達しています。7月末時点の外国企業数は、04年11月以来の低水準を記録しました。このような低水準の原因は、自由なビジネス活動ができない点や中国の景気回復の遅れなどが主因になります。
こんな状況を助ける日本企業もあります。2023年10月、中国「ユニクロ」は、賃金を4割引き上げる発表しました。ユニクロ(ファーストリテイリング)が、10月から正社員やパートなどを対象に順次引き上げを始めました。ユニクロの給与は、それまで大都市での外資系の給与と同程度だったようです。ユニクロは、同業者の賃金を超える値上げをしたわけです。ユニクロの社員にとって、年間給与の平均増加率が28%になり、最大で44%になる社員もいました。この賃上げによる待遇改善で、顧客対応の最前線を担う従業員の就業意欲を高めことも狙います。さらに、店舗で働く優秀な人材を確保する狙いがあります。優秀な人材を確保し、今後の中国における出店戦略を支える狙いも見え隠れします。ユニクロの海外の主力市場である中国では、2022年にも賃上げを実施しています。今回の賃上げは、企業ブランド向上にもつながるとみられています。
ユニクロは、2023年8月期の連結の売上収益が前の期比20%増の2兆7665億円、純利益は8%増の2962億円でした。さらに、好調の波が続くようです。ユニクロは、2024年8月期の売上高にあたる連結売上収益が3兆500億円、純利益は5%増の3100億円と4期連続の最高益更新を見込んでいます。8月末時点で、ユニクロの中国の店舗数は925店舗になります。中国市場では、2024年8月期には、中国大陸や香港、台湾で80店舗を出店する計画を掲げています。ちなみに、北米は67店、欧州は68店にとどまっています。これらの地域では、継続的に20 ~30店を出し、5年後をめどに200店舗体制にする計画です。さらに、東南アジアも今期60店を出店する方針になっています。他地域に比べ、中国市場に注ぐユニクロの意気込みが伝わります。このような市場には、優秀な人材が必要なことは言うまでもありません。リスクを背負っている中国市場に、果敢に挑戦する企業もあるわけです。
余談ですが、ユニクロと反対の事業戦略を取った起業もありました。上場企業の2024年3月期の予想配当利回りは川崎汽船が首位でした。この年間配当の優秀な企業に、シチズン時計が入っていました。シチズン時計は、今期に最終減益を見込む中、配当を最高の40円に増やすようです。腕時計の販売が欧米で堅調に推移するほか、国内インバウンド客需要の回復で増収を確保しています。このシチズンは、2015年2月に思い切ったことをしました。中国・広州の時計部品工場を突然閉鎖し、約1000人の従業員全員を一斉に解雇したのです。シチズンは、5日の閉鎖発表から1週間で抜き打ち閉鎖を完了させました。この処置に、中国世論は即座に反応しました。こんな無責任な日本企業は許せないなどの誹謗中傷が、ネットにはあふれました。全国放送のテレビでも、シチズン批判の特集が放映したのです。工場の閉鎖理由のひとつは、人件費の高騰になります。近隣のアジア諸国と比べ、時計部品のような労働集約産業の立地優位性はどんどん薄れていました。結果として、荒療治になったようです。もっとも、荒療治を行った8年後には、優良な企業として存続しています。リスクを冒してフグを食べなくとも、業績を上げている会社もあるようです。