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2007.05.13、「公務災害ではない? それは違うだろう。」
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自分はこの件に関しては非常に怒っている。このバカな判断に司法の判断が下された。
1月20日時事通信他が報道したところによれば、2006年に起きた、この「元教え子(この表現は認めがたい)」による教師殺害事件について、甲府地方裁判所が判決を下した。同地裁は地方公務員災害補償基金山梨県支部が、この事件が公務災害にあたらないと判断し、その後の不服審査請求も却下したことは、正しくないと判断。同支部の処分を取り消した。
判決を支持する。
誤った判断を下した基金、許されることではない。猛省を促したい。
今回の判決があっても、殺害された先生は生き返らない。ご家族(ご遺族)の無念、不満、悲しみもおそらくは癒えない。しかしながら、公務ではないという、見当違いのバカな判断へ鉄槌を下し、正すことができた。このバカな判断が、いかに関係者・特に亡くなられた先生に対して失礼・非礼・言語道断であるか。公務災害でないと判断した基金の関係者は、自分たちがだれのために存在し、なんのために自分たちが給料をもらっているのか、正しい、正義とは何なのか考え直すべきだ。
事件発生当時報道された事柄だけでも、そして裁判を通じ明らかになったことを見ても、どう考えても校務(公務)に起因する公務災害だったことは疑いの余地がなかったのだ。被害者、遺族に対し、4年間も不利益を被らせた責任は基金にある。公務ではないと判断した判断能力の欠如、非礼、これはとうてい許されることではない。組織が個人に対してこれほどの無礼をはたらいた。その組織がそのまま存在していいのか。基金の代表者はどう責任をとるのだ。処分を取り消せと命令されたから、取り消す。それで済むのか。役所や基金の建物の中で、最前線のことをなにもわからない。それは許されない。絶対。組織の存在意義、仕事に対する責任すべて見直して、出直せ。できないんだったら、代表者は霊前に額ずいて、職を辞せ。
記事にはこんなことが書いてあった。
裁判で裁判長は加害者には妄想性障害があったと認定。
「生徒指導を端緒に形成された妄想から本件が引き起こされた」と判断。
「妄想は持続するのが通常で、生涯にわたって発展することがある」と結論付けた。
殺された岩間教諭は1982年の卒業式前日、精神的に不安定になっている加害者を自宅に招き、式に出席するよう指導したとあった。亡くなられたのが59歳。24年前というと、25歳ころである。自分に当てはめれば、23歳で教師1年目。2年目から担任をさせてもらっていた。岩間先生も同じくらいだとしたら、自分の担任している生徒か、少なくとも直接関係のある学年の生徒である。自宅にまで招き、指導したと記事にあった。きちんと卒業式に出るように話しをしていたことが目に浮かぶ。岩間教諭は卒業後も自宅や勤務先の学校に押しかけてくる男に対応していたそうだ。
これでも校務(公務)でないのならば、公務の定義なんか存在しない。そして公務災害の認定を、基金はする資格がない。担当する能力のない集団である。
申し訳なくて、眠れなくなるまで、死ぬほど反省すべきだ。
猛省を促したい。
なお、地元山梨日日新聞Webによれば、同基金は控訴の可能性を模索しているようだ。もちろん何人も裁判を受ける権利がある。しかし、控訴する権利があることと、控訴することは別である。控訴することが正義か否か、考えるべきだ。もしも考えることができるのならば。