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オスマン時代と変わっていないシリア

2015-11-06 22:56:29 | シリア内戦

 

2012年末、アサド政権は1か月と持たないと言われた。2013年と2014年、アサド政権は倒れないと言われた。2015年になって、アサド政権は目に見えて弱体化している。

2015年になって、政権は3月28日イドリブ市を失い、5月21日パルミラを失った。

イドリブとパルミラでの敗北は、一時的なものではなく、シリアの政府軍の兵士の数が激減しているからである。組織された攻撃を実行できる軍隊は、もはや存在しない。

兵士の死亡が4年間続き、補うための新兵が集まらないからである。最初から予想されたことだが、やや突然である。

政府軍はイランの海外部隊の指揮下にあるという。

サウジアラビアは強気となり、和平に耳を貸さず、アサド政権の解体は時間の問題と考えている。トルコとイスラエルが同調している。米国はイランとの交渉によるシリアの和平を模索した時期もあったが、アサド政権の崩壊が視野に入ってきた現在、サウジと同じ姿勢である。

 アサド政権が倒れても、シリアに平和は来ない。政府軍に代って、シリア全土を平定できる軍隊は存在しないからである。自由シリア軍が弱体なことは深刻な問題である。政府軍が消えた後、それに代わる中央軍は存在しない。後に残るのは全国各地の地方軍だけである。地方軍の中で、最も強力なのは、ヌスラ戦線とISISである。ヌスラが各地の反政府軍をまとめる場合を除き、中央軍が成立する可能性はない。

 

自由シリア軍が弱体なことは、武器が不足している他に、根本的な問題がある。

第一次大戦後、シリアはオスマン帝国から独立したが、独立は偶然のたまもので、独立戦争を戦い抜いたわけではない。独立戦争を戦う過程で国内が統合されることが多いが、シリアにはそれがない。

独立後の政権をめぐる抗争が、統合のための生みの苦しみだったかもしれない。安定した政権が生まれず、苦しまぎれに一時期エジプトと合体した。その時ナセルがハフェズ・アサドに尋ねた、「どうして自分の国を差し出すのかね」。アサドが答えた、「20人の独裁者がいる国を統治するのは不可能です」。

 

国内統合は結局不完全なまま現在に至っている。シリアは多民族国家である。オスマン帝国解体の原因は、統一の欠けた多民族国家であったからである。新たに誕生したシリアも多民族国家であり、オスマン帝国同様、解体の危機にある。

シリアの統一はもともと難しいが、唯一の可能性は、国民の6割を占めるスンニ派アラブ人が軍隊を組織し、諸民族を統合することであった。しかしスンニ派アラブ人は内紛を繰り返し、安定した政権をつくることができなかった。軍隊をまとめることもできなかった。それをしたのは少数民族のアラウィ派だった。

アラウィ派政権を取り除いた時、後に残るのは、いくつもの少数民族と分裂したスンニ派アラブ人である。

スンニ派アラブ人がまとまれない具体的な例を、ケビン・マズールが書いている。2014年9月9日の記事である。

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      Local struggles in Syria’s northeast

一年かけてシリアの国外に住むシリア人にインタビューした結果、私は、シリア内戦は国家レベルで2つの勢力が争っていると考えるべきでない、と実感した。地域レベルで様々な戦いがおきている。

シリアの反政府勢力に武器を与える前に、シリア各地の地域的な特性をよく知らなければならない。

アサド側で戦っている民兵は、アサド政権存続のためではなく、自分の地域を守るために戦っているのである。ISISや自由シリア軍に忠誠を誓う場合も同様である。全国レベルの発想を持ちながら戦っている人間は非常に少ない。

 地域のことしか考えていない人々に武器を与えることで、はたして望む結果が得られるか、立ち止まって考えるべきだ。

戦っている当事者に目を向けなければいけない。地域の戦闘を決定しているのは地域の事情である。個々人は自分の目の前で起きていることに反応しているだけだ。原理・原則は特にない。自分を守るため、自分の利益のために戦っている。

シリア内戦の図式は「スンニ派住民は民主的な統治を求め、アラウィ派少数政権と戦っている」というものだ。 しかしすべてのスンニ派がアラウィ派政権と戦っているわけではない。政権に協力しているスンニ派もいる。

内戦開始後に新たな紛争が生まれた。ISISは内戦開始の2年後に、シリアに入ってきたものであり、内戦の原因ではありえない。ISISがシリアに来た時、シリア人のメンバーはいなかった。ISISはそもそもシリアと関係ない集団である。最初の内戦が、副産物として別の戦争を生み出したのである。

他にも、アサド政権の支配力が弱まった後で誕生したグループがある。

シリア東方教会の治安部隊ストロである。ストロはYPGよりはるかに小さな部隊であり、影がうすいが、北東部では無視できない要素である。ストロは政党を持たず、YPGの政治部門であるPYDに歩調を合わせている。

政権側の民兵組織「国民防衛軍」も内戦が始まってから組織された。

 

潜在的に存在していたものが、内戦を契機に、実際に戦う武装集団として登場した場合もある。

ヌスラ戦線には、シリア人が多く参加している。イラク・アルカイダに参加していたシリア人がシリアに帰ってきた。彼らが中核となってヌスラ戦線が結成された。

YPGは2012年に戦闘を開始したが、2004年にイラクのクルド自治区で結成されている。

政府軍以外のこれら諸部隊は地域的発想で戦っている。政府軍側の民兵でさえ、政権のために戦っているのではない。

シリア北東部の国民防衛軍は、アサド政権の影響下にあり、武器と軍服を支給されているが、自分の土地を守るために戦っており、遠くへ出かけて冒険をする考えはない。

そもそも政権側が話を持ちかけたのではない。ハサカの国民防衛軍は侵略者から身を守るために結成された。外部の武装勢力に対抗しようとした結果である。武装勢力が地域に迫ってきた時、多くの都市は地域防衛のため、人民委員会を設立した。戦闘が本格的になると、人民委員会は国民防衛軍に参加した。

政権に批判的な人たちは、国民防衛軍を「アラウィ派のごろつき」と呼ぶ。しかし国民防衛軍は地域に根差しており、アサドの傭兵ではない。デリゾールとハサカの国民防衛軍はスンニ派のアラブ人である。部族ごとに戦闘員を組織し、国民防衛軍に参加した。「スンニ派対アラウィ派の戦争」では説明できない。

たしかに国民防衛軍にはアラウィ派のメンバーが多いが、故郷から離れて遠征するものは少ない。地域の生活を守るために、結成されたからである。

一般的な図式で説明できないことが他にもある。クルド人はスンニ派であるからアラブ人と同盟しそうなものである。しかしクルドにとって、スンニ派もアラウイ派も同等であり、両者から距離を置いている。

 シリア東方教会はキリスト教であり、まったく孤立している。現在の状況は少数民族にとってきわめて危険であり、キリスト教徒は生存の瀬戸際にある。

現在のシリアに最強の軍団が存在しない以上、いかなる同盟関係も一時的なものであり、不安定である。スンニ派は昔からまとまらない。新たににスンニ派原理主義集団のISISが登場し、分裂要因が増えた。ISISは不信心者のスンニ派と戦っている。

シリア北東部は、中央の対立とは関係なく、地方的なレベルで対立している。地域内の他民族に対する恨みが争いの原因であり、時には隣村との争いである。

その典型的な例がハサカ市の場合である。

住民の多くはアラブ人であり、それぞれの部族に属している。ハサカ市には、クルド人とキリスト教徒もかなり住んでいる。内戦が始まると、民族の対立が表面化した。他地域ではアラブ人が政府に対して反乱したが、ここでは、アラブ人が政府の同盟者になった。

 

     <オスマン時代のまま放置されたハサカ>

歴史的に、シリア政府はハサカ市を植民地のように扱ってきた。代理人に統治を任せ、シリア政府は北東部の臣民と、直接関係しなっかった。地元の指導者と部族の有力な人物だけを相手にした。

これはオスマン帝国の統治方式と同じだった。地方の統治に関心がなく、オスマン帝国の政府は、代理人が集めた税を受け取ることで満足した。 

ハサカ市で長い間、治安の責任者だったマンスーラは、意図的に住民を分裂させた。民族間に争いの種をまいた。彼は、住民に紛争をもちこんだ策略家として記憶されている。

現在も、シリア政府はこの策略を続けている。

マンスーラは昇進して、全シリアの治安部門の責任者になっていた。内戦が始まると、ハサカ知事という身分で戻ってきた。

シリア政府が奉じるイデオロギーはアラブ民族主義であり、クルドを国家の構成要素とは認めていない。クルドという民族の存在を否認している。クルドの旗を掲げること、クルド語を教えることは禁止されている。クルド民族を象徴する行為は違法である。軍隊と行政機関では、クルド人は下級の職務以外、採用されない。

これとは対照的に、政府はアラブ人を信頼している。1980年代、ムスリム同胞団が反乱した時、アラブの部族のほとんどが、政府に忠実だった。2004年のクルドの反乱の時も、アラブ人は政府側についた。現在も政府は東北部のアラブ部族の支持を維持しようと努力している。

つい最近も、彼らがISISに取り込まれないよう、政府はビラをまいた。

「シリア・アラブ軍からユーフラテスの谷の部族の諸君へ。諸君の勇敢さは歴史が証明している。君たちが示した勇気を、軍は尊敬し、評価している。今後も諸君の戦いを期待する」。

現在(2014年9月)のハサカの政府軍基地をめぐる攻防でも、とアラブは政府軍を助けている。

 

       <ISIS、121連隊基地を制圧>

2014年7月末、ハサカに進出したISISは、121連隊基地の大隊本部を攻撃した。政府軍は守りきれず、撤退した。しかし、かなりの数の兵士が本部内に取り残された。近くの政府軍も包囲されており、援軍を出せなかった。そこで政府は地元のアラブ民兵軍(国民防衛軍)に救助を頼んだ。クルド軍(YPG)も救助に駆けつけた。

 国民防衛軍とYPGが到着した時、ISISはすでに大隊本部を占領していた。国民防衛軍とYPGはISISを包囲し、ISISへの補給を切断した。

そこまではよかったが、アラブ人の国民防衛軍は戦意が乏しかった。政府軍の部隊はショックをうけた。大隊本部に取り残された将校のほとんどはアラウィ派だった。国民防衛軍のアラブ人は彼らが殺されるのを見て、喜んだ。

121連隊のシリア軍将校は見殺しになった。

ISISは大隊本部を制圧した。

大隊本部を見捨てた国民防衛軍は、ハサカ市のアラブ人居住区の防衛に専念した。シリア東方教会(ストロ)も自分の地区を防衛した。YPGはハサカ市の周辺部と市内のクルド地区に検問所を設けた。

国民防衛軍はこのような裏切り行為をしたが、政府軍は関係を絶たなかった。

政府軍は国民防衛軍にYPGを加え、合同作戦室を設けた。これにシリア東方教会のストロとイスラム教・ドゥルーズ派の「威信軍」も加わった。

これらの多様なグループはISISの脅威にさらされており、それぞれの土地と住民を守る必要に迫られ、政府軍に頼った。政府軍は厄介な敵ISISと戦うため、補助兵力が必要だった。4つの民兵軍は、互いに異質な集団であり、共通するものがなく、人的な結びつきもない。政府軍を中心とした合同は便宜的なもである。

     < シリア政府を憎むクルド人>

国民防衛軍が政府軍将校の死を喜んでいるように、クルド軍と政府軍の関係も呉越同舟である。クルドはアサドに協力していると非難されるが、両者の間に正式な合意は存在せず、クルドがシリア政府を憎んでいることに変わりはない。 

かつてシリア政府はクルド抵抗運動の英雄アブドゥラ・オジャランを追放し、国内のクルド人を弾圧した。

オジャランはトルコのクルド労働者党(PKK)の創始者のひとりであり、トルコとシリアのクルド人から絶大な尊敬を得ている。

1980年代末、シリアの後ろ盾であるソ連は崩壊前夜であり、シリアにとって頼れない存在となった。シリアは、NATO加盟国トルコと、南の敵国イスラエルにはさまれており、一触即発を恐れた。そこでシリアは隣国トルコとの関係改善を試みた。トルコに対する友好的姿勢の証しとして、1988年、自国にかくまっていたトルコからの亡命者・PKKのオジャラン党首を追放した。

オジャランは各国を転々としたが、結局トルコ政府によって逮捕された。クルドのカリスマ的指導者は、シリア政府の日和見主義的な外交の犠牲になった。処刑にならず、投獄された。

オジャランがシリアのクルド人に悪影響を与えていたことも追放の理由だった。オジャラン追放と同時に、シリア政府はPKKと結びつきがあるシリアのクルド人を逮捕した。

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