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6巻19-21章

2024-07-16 05:02:19 | 世界史

【19章】
元老院は個人の家で集会が開かれていることを問題視した。M・マンリウスの家はカピトルの丘にあり、丘の安全が脅かされているからである。元老の多くがセルヴィリウス・アハラのような人物が必要だと感じた。かつてアハラは危険人物を投獄するのではなく、殺害することにより内乱を終わらせた。しかし元老院は極端な処置を避け、表面的には穏健だが実効性のある決定をした。マンリウスの危険な計画が社会に害を与えないよう、最高官に対策を考えさせたのである。元老員の決定に従い、執政副司令官と護民官が集まり、必要な対策について話し合った。護民官はマンリウスの独裁者者的な性格を恐れれていた。市民は自由を失い、護民官の地位も廃止されるからである。それで護民官は元老院の決定を前向きに受け入れた。協議の参加者は武力行使と流血以外の手段を思いつかなかったが、そのようなやり方は恐るべき内戦に発展しかねなかった。二人の護民官、M・メネニウスとQ・プブリウスが発言した。「国家と危険人物の争いを貴族と平民の内戦にしてはならない。我々が平民と戦う必要はない。平民がマンリウスと敵と見るようにすればよい。平民の期待を膨らませたことが裏目に出て、マンリウスは自滅するだろう。まず裁判の日を決めるのです。平民はマンリウスが国王になるのを望んでいます。裁かれるのがマンリウスだとわかれば、群集はマンリウスを支持するのをやめ、裁判で有罪にするでしょう。貴族の一人が国王になる野心を抱いたために裁かれるのを見て、群集は自分たちの自由が失われかけたことに気づくでしょう。誰かに期待することの危険を知るでしょう」。
【20章】
話し合いの参加者全員が賛成し、マンリウスの裁判の日が決まった。これを知って
平民は動揺した。マンリウスは貴族仲間からから見捨てられ、親戚からも見捨てられ、いつも一人で、喪服姿で歩いていた。奇妙なのはマンリウスの二人の兄弟、アウルス・マンリウスとティトゥス・マンリウスが喪服を着ていたことだった。誰かが重罪で裁かれる時、彼の兄弟が喪服を着ることはなかった。アッピウス・クラウディウスが投獄された時、彼の敵であったカイウス・クラウディウスとクラウディウス家の全員が喪服を着たことを人々は思い出した。そして彼らは考えた。「マンリウスを裁判にかけるのは、大衆にとっての英雄を破滅させる陰謀だ」。
マンリウスは貴族でありながら、平民の側に移った最初の人だった。裁判が始まったが、反逆罪の証拠は提示されなかったようである。自宅で集会を開いただけでなく、反乱を呼びかける発言、黄金についての虚言が証拠とされたという記録は存在しない。にもかかわらず彼が重罪を宣告されたことは確かである。人々が裁判の結果を恐れたのは、マンリウスの行動が重罪に値したからではなく、裁判が特別な場所でおこなわれたからである。英雄的で偉大な行動をした者であっても、国王の権力を得ようとすれば、すべての功績を否定される。また人々から呪われるということを、マンリウスの裁判は教えている。
裁判が始まると、マンリウスは400人の市民に無利子でお金を貸したと語った。「そのおかげで、彼らは債権者に引き渡されれずにすにすみ、奴隷として売られずにすんだ」。続いてマンリウスは軍事的功績を数え上げ、殺害した30人の敵兵の遺品を証拠として差し出した。また40人の司令官から与えられた褒賞品を提示した。その中には守護神を象徴する王冠2個と軍功のあった兵士に与えられる王冠8個があった。さらに彼は市民たちを敵兵からから救ったと語った。その中には騎兵長官、C・セルヴィリウスがいると語ったが、セルヴィリウスは証人として出廷しなかった。マンリウスは戦場における功績を中心に彼の遠大な目的にふさわしい演説をした。彼は時折胸をたたき、輝かしい表現で自分の功績を語った。戦場で受けた傷の跡が荘厳に見えた。彼は繰り返しカピトルの丘を見上げ、危機にある自分を助けてくれるよう、ユピテルと他の神々に願った。自分が最悪の状態にある時、かつて自分に勇気を与えた神々がローマ市民に勇気を与えるよう、彼は祈った。最後に彼は審判員全員に呼びかけた。「カピトルの丘をしっかり見て、不滅の神々を見ながら、判決してください」。
兵役経験者はマルティウスの練兵場に集まり、百人隊ごとに判決しようとしていた。マンリウスを擁護する市民はカ後ろを向いてカピトルの丘に向かって手を伸ばし、神々に祈った。マンリウスの英雄的行為を思い出させる丘が見えないようにしない限り、これらの人々の呪縛を解けない、と護民官は思った。兵役経験者の頭はマンリウスの英雄的な行為と善行でいっぱいで、マンリウスに有罪の投票をするはずがなかった。投票は翌日に持ち越された。兵士経験者はフルメンタン門(北端の門)の外のぺテリンの森に集められた。この場所から、カピトルの丘は見えなかった。
  (日本訳注:これまで北端の門といえば、コリナ門であったが。コリナ門と対をなす形で、フルメンタン門があった。東にコリナ門、西にフルメンタン門である。フルメンタン門は現在のポポロ門である。)
カピトルの丘が見えない場所の集会でマンリウスの有罪が確定した。人々はマンリウスの訴えに心を閉ざし、恐ろしい刑を票決した。審判員である市民にとってぞっとする判決だった。信頼できる記録によれば、実は市民が票決したのではなく、反逆罪を裁くため二人の特別裁判官が任命され、彼らの決定に従い、護民官がマンリウスをタルペイアの崖から投げ落としたのである。マンリウスの比類ない栄光の場所であった崖が、彼の処刑の場所となった。彼の死後、二つの汚名が彼に与えられた。まず国家が彼を人非人として扱った。マンリウスの家はお金の神ユノーの神殿と硬貨の鋳造所の近くにあったので、今後貴族はカピトルの丘と砦に住んではならないことになった。次にマンリウスの親族が彼の名前を忌み嫌い、今後生まれる子供はマルクス・マンリウスという名前にしてはいけないと決めた。これがマンリウスの最後だった。自由な国に生まれなければ、彼は偉大な人物として人生を終えたかもしれない。暴君が誕生する危険がなくなると、人々は、マンリウスの良い点だけを思い出し、彼を失ったことを残念に思った。間もなく、疫病が流行し、多くの市民が死んだ。疫病の原因はわからなかったが、多くの人がマンリウスを処刑したからだと思った。カピトルの丘はマンリウスの血で呪われている、と彼らは考えた。「神々は目の前でマンリウスが処刑されるのを見て、不愉快に違いない。マンリウスは神々の神殿を救ったのだから」。
【21章】
疫病の後ローマは食料が不足した。二つの災難を経験した市民たちの間で、来年は複数の戦争が起きるという噂が広まった。年末に執政副司令官が選ばれた。L・ヴァレリウス(4回目の就任)、A・マンリウス、Ser・スルピキウス、L・ルクレティウス、L・アエミリウス、M・トレボニウスが選ばれた。マンリウス、スルピキウス、ルクレティウス、アエミリウスは3回目の就任だった。
ヴォルスキに加え、複数の敵が戦争を開始した。ヴォルスキはたえずローマ軍を訓練連する運命にあるみたいだった。キルケイとヴェリトラエの植民者は以前から反乱を企てていたし、ラテン人は信用できなかった。ラヌヴィウムはラテン都市の中で最もローマに忠実だったが、突然反乱した。(ラヌヴィウムはアルバ湖の真南、ヴェリトラエの西)。
戦争のきっかけはヴェリトラエの植民者が反乱後、長い間罰せられていないことだった。ヴェリトラエの植民者はヴォルスキ人だったので、本国のヴォルスキ人がローマを見下したに違いないと元老院は考えた。元老院はこれらの敵に対しただちに宣戦布告すると決定し、国民に同意を求めた。平民の同意を促すために、ポンプティン地方とネペテの土地の分配にあたる委員が任命された。ポンプティン地方の土地の割り当てに5人のの委員が、ネペテに植民地を設定するために3人の委員が決まった。この計画が市民に伝えられると、護民官は反対したが、全部の部族が戦争に賛成した。戦争の準備が一年近く続けられたが、疫病の被害が大きく、軍隊は出発できなかった。戦争の遅れを利用してヴェリトラエのヴォルスキ人植民者たちは元老院をなだめようと考えた。彼らの多くがローマに使節を送り、許しを求めることに賛成した。しかし、しばしば国家の利益は一部の人々の利益と結びついており、反乱の指導者たちはローマの許しと引き換えに自分たちがローマに引き渡されるを恐れて、植民者たちの平和の願いを押しつぶした。反乱の指導者たちはローマに使節を送らないよう長老たちを説得しただけでなく、ローマの領土に侵入し、略奪するよう、多くの平民にけしかけた。この敵対行為により和平の望みは消えた。またこの年、プラエネステが初めてはローマに反乱した。(プラエネステはローマの東35km、現在のパレストリーナ)
トゥスクルム、ガビニー、ラビクムはローマに応援を求めた。これらの町は以前にも侵略されていた。しかしローマの態度は冷たかった。ローマは援軍を送る余裕がなかったので、元老院は3つの町の訴えを信じようとしなかった。
  (ガビニーはガビーのことで、ローマの東18km。トゥスクルムはアルバ湖の北。ラビクムはトゥスクルムの北北東)


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